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戦争ばかりで国土が荒廃してたら、小さな島国の日本はとっくに無人島でしょうね。ある程度は安全の保障も有ったし村や都市は其れなりに繁栄をしてたと思いますが、やはり戦国時代ですから一人での旅は出来なかったでしょうね。一人でも安全に成ったのはやはり明治後半から何とかって感じでしょうね。明治初期は郵便配達員に拳銃が支給されてましたから盗賊団が江戸時代も居たって事ですね。
幕末維新期は社会が不安定化してたし、幕府の統治能力が大幅に後退していた一方、各地で一騎打ち壊しが激増しているから、黒船来航以前はもっと治安が良かったと思うけどね。明治維新初期はまだそういった動乱の時代を引きずってたのでは? 各地で不平士族が反乱起こしたり、竹槍で突き返す2分5厘と言われる、いわば政府側が屈する形になるレベルの大規模一揆も発生してるからね。
江戸時代の飛脚(町飛脚ではない)は脇差しを携行していました
【動画の目次】永禄六年北国下り遣足帳 00:40明智光秀の旅行を追体験してみよう 01:50光秀の旅行費用は○○円 04:09意外に整備されていた当時の宿泊施設 05:36戦国時代ライターkawausoの独り言 06:21あなたは戦国時代の旅費についてどう思いますか?💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
主従関係次第ですが他家の家来が動くための費用はその家来の出費が普通です。後にその功績によって支配できる領地や権利を与えられます。道三が最初にかかる費用を出したのも半分返せと言ったと言うのも作り話でしょう。当時の社会は今より鷹揚で旅人が寝食に困ることはあまりありません。一般の農家でも頼めば寝る場所を貸すことは普通だったようです。山中など人気のない所で盗賊に会う危険はあったと思われますが家来を従えた武士を襲う猛者は少なかったでしょうね。その意味では結構気軽に旅に出ることはできました。敵地を通らなければ、、ですが。
私達の住んでいる隣村から山越をすると山陰の方え行ける山道がありそこへ昔し仕事で行くと杖をついたお婆さんが私達の仕事をしている所に来てこの山道は昔は追い剥ぎが出て旅人がここを通ると追い剥ぎが出て身ぐるみはいでいたんですよて話してくれた事がありましたね、山道には無縁仏があるようにお婆さんが話してくれましたね、昔の旅は危険と隣り合わせだったんだなとその時思いましたね❗️
こちらの動画は、私がチャンネル登録をした次に視聴をした動画となりましたが、こちらの男性ナレーターさんは日本語の意味を伝えるナレーションの訓練の仕方を師より与えられていなかったように思いました。読みの内容が耳に入ってきませんでした。私がチャンネル登録をしたときの女性のナレーターさんの日本語の読みの方が私の好みでした。これより初回から視聴をさせていただき申します。ステキな内容のご作品を上げてくださりありがとうございます。
年がら年中、ドンパチやってる訳では無かったのは、当然だったかも、ちょっとした海外旅行気分?、ピンキリだろうが、意外とお安い宿泊費ですね。稲刈り後から、田植え前が、戦争シーズンだって聞くもんね。
僧侶だからこそその値段で旅行ができたんじゃないですかね。同じ宗派なら寺に泊まるのも関銭も優遇されるだろうし。
宿代、食費は現代並みですね。
関所の通行料を入れたら、もっとかかりそう。
光秀は比叡山を越える時に関所で関銭を払っていましたし、びわ湖までは馬で移動していました。途中で旅籠に泊まっていた描写はなく、京から同行した東庵先生らの旅費も光秀が負担したと思われますので、総額で旅費にいくらかかったか正確な数字は出ないでしょう。
北國下り遣足の記述を見ると宿だけではなく、途中の茶屋でも頻繁に餅や酒が出ていた他道案内の手配もしていたようで、現在のサービスエリア的な利用がされていたことが伺えます。宿の下女20文の下りは越後府中滞在中のものですが、おそらくは付ききりの給仕サービスの依頼であり宴会など何かしらのイベントを行なったと考えられます。当時は橋の渡し賃、船賃などかなり統一された料金だったようで、戦乱を避けて行動計画を立てればそれなりの旅が保証されていたと考えてよいでしょうね。
一応日本全国で共通通貨だったのか
昔から平和な日本w どことは言いませんが人間の気質が違うとしか言いようがないね。
酒で酔いつぶれた光秀は松永久秀から、懐の銭を鉄砲代として持っていかれたはずだが、鉄砲代、旅費はそれぞれいくらかかったのか。
戦国時代でも旅行行けんだ結構お金💴💰💰掛かるんだね今の旅行もお金かかるけど💰💴昔も今も旅行は苦労するんですね
麒麟のような人が戦国時代いたらヤバいねえのきみたいに飛ぶのかな?
まあ…現代と昔でそこまで変わらないのは驚きました。
今の海外のように基本安全だけど、危ないところはかなり危険って感じでしょうね。あとは外国語レベルの方言がなんとかなれば、旅もたやすいですね
現地の人が「今は標準語と変わらないべや」…とか言う少しは分かるようになった時代ですら年寄りが早口になると全く何話してるか分からないから中世なんか本気で聞いても全く分からなかっただろう。筆談でも伝わらないと思う。識字率も低かっただろうし。
簡単に1文=150円にしてはなりません当時(天文年間)の京都ではは人夫一人一日分の給料は10文、それを例え現代の最低賃金800円で一日10時間働いても、10文は8000円になり、1文=800円になります。その基準で考えると十兵衛の旅費は185.2万円になり、その半分は92.6万円になります。それも正確ではないのです。正確的にいえば十兵衛の旅費は人夫一人231日分の給料で日本現在年間労働日数は250日なので、当時の待人は祝日あまりないけど仕事見つけられない日々は多いから、人夫が一年間働くぐらいのお金です。まあ、斎藤山城守のとっては小銭で、その半分はたぶん侍大将の首2つのほうが価値あるし、城持ち国衆の明智光安なら出せると言えば出せるだろうけどね。でも若い十兵衛にとっては大金に違いないです。そう考えると東庵先生が10貫も、すなわち人夫一人4年間の給料を博打で負けたの頭きますね。
60文から20文と相場がある中。三途の川が6文って、やっぱ破格だよな~ぇ、琵琶湖300文かかるの?高くね?
江戸時代も旅行が盛んだったし、コロナでも海外からの観光客は減っても国内旅行の需要は極端に減らないかもね
ノッブが畿内制圧する前は私関だらけだからもっとお金掛かるんじゃないかと邪推。
戦国時代の旅行ってどっちかっていうと忍たまのイメージだからそこまで危険な感じじゃなかった
面白い‼️当時の貨幣経済状況からして単純な比較はできないんだろうけど。旅行や外食の業界があったってだけでわりと新鮮坊さんはバックに寺が付いてるぶん、一般人より楽に旅が出来たんじゃ?と思いつつ旅籠屋がかなりあるってことは旅人はかなりいた=一般人もということか。しかし坊さん下女にサービス料20文って何だよ。
日本の坊主は500年以上昔から破戒僧しかいなかったという証拠だ。
まあ、野宿な日もゼロではないような…。
将軍の招集で 敵の領地を通らないと 上洛できない時は、どうしていたのでしょう。
これはヘタな武将来歴よりずっと面白いね!同時の庶民と現代の大衆との金銭感覚と物価変動率はずっと知りたかった...これ、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸初期、中期、末期、明治時代、大正時代、昭和初期、太平洋戦争後、高度経済成長期、と物価指数を割り出せば、それだけで歴史学者としてベストセラー書籍出せるよ!まぁ、現代と決定的に違うのは、多分だけど宿泊施設なんてのは、地価はタダに近くて建物の減価償却費で最低原価計算は出来るし、食品は大量生産も無く冷蔵庫が無くて、炊飯器も無いから、今より3倍位は高かったんじゃ無いか?とか考えると学術経済学的側面でも役に立つよね!同時の地代とかの相場なんて分かってたら、是非知りたいです(^^)
大河ドラマ『武田信玄』で間者(スパイ)が僧侶に変装して他国を旅していた。これは江戸時代の話だが松尾芭蕉が幕府の間者だった説もある。
危険な場所や時間帯は有ったものの、基本的に安全に旅行出来たのは新鮮だわ、関所がやたらと有った地域が有るとか無いとかの話しは聞いてましたが、
剣道部で絶対キリンの頭メン出来ないからある意味有利かも
銀行もない時代に旅行が出来るのは僧侶だからだろうなー
たった3000円で女の子とウヒョなことできるんかいい時代やな
自分でもハーレムできるのか…
この時代って確か梅毒が大流行してたはずだから危ないで
その女の子たち、栄養不足と過労と性病でガンガン死んでいくという…
0:43巻物に書かれている文字が愉快な感じなんですが。最後は「おしりかゆっ」って書いてあるんですかね。
戦国時代、最も自由で最も金持ちだったのは僧侶かも❓同じ宗派の寺は、今のホテルチェーンのような感じでしょうか?
坊主は金を支払う必要は全くないから、お布施や寄付金が貯まるばかり。
坊主はお布施や賽銭以外にも、高利貸しを営んだり、紙や油の製造法の伝授代、寺の前に市場を開かせて場所代をせびったり、とにかく儲けていました。お寺にはお金が集まるので、それを守る為、僧兵と呼ばれる筋肉質のお坊さんが大勢いました。
@@田中俊-w8i そういえば八幡神社は大崎油座としてえごま油独占してたよね
Uota さおりちゃん
Uota Mickey さまもサ。座さにしに行ってくるよう。座さはお迎えくださいよろしくおねがいしますと言っていましたが。スサシ、三号とかお迎えくださいなんて言うのはなん座さをいただきましたと書いてくださいなんてありがとう😊?座さをいただきましたよお兄ちゃん、おやすみ🌙😴酒か、食べ放題!さ。三時のお迎えくださいなんて言って見ればはさん
1文が150円で宿泊料金が6900円ビジネスホテルくらいかな
琵琶湖船で渡るのちょっとリスキーじゃない?多分.....
俺的は、江戸時代にて、武士をやってるんだよね。大臣の殿様役ですが。まだ、20歳で奥方も子供も居ます。勿論、側室も居るしね。けれども殆ど屋敷には居ない。こんな調子で江戸のお金の話をしましたから、金銭感覚がおかしいかもだよ。録高聞いたら驚くぜ!
旅籠よりも船賃高いな
実際は山賊がいるので、命崖、
南東北とか外国人に言ったら混乱しそう、
South Tohokuとでも言えばええやろ
旅の旅費?ン〜、江戸時代に産まれて無いからハッキリとは言えないが。何処まで行くかに寄るのでは無いかね。又は、個人か友とかの二人なら、100文位かな?車は無しだがかご屋は有る。全て歩きが一般的!食べる、地元の酒を飲む、旅籠に泊まる、女を買う。コレ、行きと帰りも有るからね〜。江戸の吉原で女を買っても余り大差は無いんだが、20文位は必要かも。江戸時代のめしは比較的安かった、が酒も付けたら10文位かな?ちょうし一本2〜3文だろう。時代劇等で見てると俺的の金銭感覚おかしいかもだよな。
印象程には酷くは無かったんですね。まぁ四六時中合戦に明け暮れてた訳で無しなのは分かるし、蝮さんのドケチっプリは、分かるような分からないような、
日本は外国に比べると平和で安定した国でした。合戦がありましたが外国のように一般人が住む街や村では戦いをしませんでしたね。多くが町や村を避けて行われました。と言うのは、人が住む区域は重要な補給基地、兵站に必要ですし住民は大名にとって必要な存在です。敵の領地であっても勝てば自分の領地になりますから無闇に荒らしたりはしません。民衆を味方にしないと繁栄はできませんでした。ですから旅をするのも野盗にさえ気をつければさほど危険ではありません。大名は領地の平和と安全には気配りしていました。旅人や商人の往来が領地の経済を支えるからです。そのような国は他にはありませんでした。外国の国内争いは敵の領地であれば住民を含めて全て破壊と殺戮をしました。日本がそのようにしなかったのは国を得る争いでは無く力を得る争いだからです。国は自身のものではなく天皇のもの、力をつけて天皇を守る立場、大名総合の頭領である将軍が最高位だったのです。
争いが無いから兵器もあんまり…
そして人民も天皇のものと考えていたのか相手の領民を奴隷にすることも少なかったようです。
以外に安全に旅が出来た、そりゃ多少は危険なとこは有ったみたいだが、
はたごといえば、木賃宿!
旅費じゃなくて路銀と言うんだよ。水戸黄門を見ていると路銀が手元不如意と言うセリフが多い。
武装して複数名ならそりゃ襲われにくいよw江戸時代だって町と町の間や街道は警察署も交番もないから(つまり西部劇と一緒)ひと気なかったら速攻で拉致られる。東京~埼玉くらいなら午前中でれば夕方前には着くけど関東~関西みたく長距離だとある程度命がけだったとは本に書いてある。
農民や町人は建前上帯刀は禁止だけど、旅行に出る場合は「長脇差」という名目で実質的に帯刀が黙認されてたって話は聞くな。
僧侶は関銭払った記述がないなら違うんじゃ?
信玄も義元も、京都に旅行すれば良かったのに…
信長や謙信はやったwまぁ信玄の場合、信長を倒して義昭を推戴し、本願寺勢と連絡するのが目的だけどな
単純計算すぎて草
僧侶を襲う、盗賊とか居たのかな?
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明治維新初期はまだそういった動乱の時代を引きずってたのでは? 各地で不平士族が反乱起こしたり、竹槍で突き返す2分5厘と言われる、いわば政府側が屈する形になるレベルの大規模一揆も発生してるからね。
江戸時代の飛脚(町飛脚ではない)は脇差しを携行していました
【動画の目次】
永禄六年北国下り遣足帳 00:40
明智光秀の旅行を追体験してみよう 01:50
光秀の旅行費用は○○円 04:09
意外に整備されていた当時の宿泊施設 05:36
戦国時代ライターkawausoの独り言 06:21
あなたは戦国時代の旅費についてどう思いますか?
💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。
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主従関係次第ですが他家の家来が動くための費用はその家来の出費が普通です。後にその功績によって支配できる領地や権利を与えられます。道三が最初にかかる費用を出したのも半分返せと言ったと言うのも作り話でしょう。
当時の社会は今より鷹揚で旅人が寝食に困ることはあまりありません。一般の農家でも頼めば寝る場所を貸すことは普通だったようです。山中など人気のない所で盗賊に会う危険はあったと思われますが家来を従えた武士を襲う猛者は少なかったでしょうね。その意味では結構気軽に旅に出ることはできました。敵地を通らなければ、、ですが。
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僧侶だからこそその値段で旅行ができたんじゃないですかね。
同じ宗派なら寺に泊まるのも関銭も優遇されるだろうし。
宿代、食費は現代並みですね。
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光秀は比叡山を越える時に関所で関銭を払っていましたし、びわ湖までは馬で移動していました。途中で旅籠に泊まっていた描写はなく、京から同行した東庵先生らの旅費も光秀が負担したと思われますので、総額で旅費にいくらかかったか正確な数字は出ないでしょう。
北國下り遣足の記述を見ると宿だけではなく、途中の茶屋でも頻繁に餅や酒が出ていた他道案内の手配もしていたようで、現在のサービスエリア的な利用がされていたことが伺えます。宿の下女20文の下りは越後府中滞在中のものですが、おそらくは付ききりの給仕サービスの依頼であり宴会など何かしらのイベントを行なったと考えられます。当時は橋の渡し賃、船賃などかなり統一された料金だったようで、戦乱を避けて行動計画を立てればそれなりの旅が保証されていたと考えてよいでしょうね。
一応日本全国で共通通貨だったのか
昔から平和な日本w どことは言いませんが人間の気質が違うとしか言いようがないね。
酒で酔いつぶれた光秀は松永久秀から、懐の銭を鉄砲代として持っていかれたはずだが、鉄砲代、旅費はそれぞれいくらかかったのか。
戦国時代でも旅行行けんだ結構お金💴💰💰掛かるんだね今の旅行もお金かかるけど💰💴昔も今も旅行は苦労するんですね
麒麟のような人が戦国時代いたらヤバいね
えのきみたいに飛ぶのかな?
まあ…現代と昔でそこまで変わらないのは驚きました。
今の海外のように基本安全だけど、危ないところはかなり危険って感じでしょうね。
あとは外国語レベルの方言がなんとかなれば、旅もたやすいですね
現地の人が「今は標準語と変わらないべや」…とか言う少しは分かるようになった時代ですら年寄りが早口になると全く何話してるか分からないから
中世なんか本気で聞いても全く分からなかっただろう。筆談でも伝わらないと思う。識字率も低かっただろうし。
簡単に1文=150円にしてはなりません
当時(天文年間)の京都ではは人夫一人一日分の給料は10文、それを例え現代の最低賃金800円で一日10時間働いても、10文は8000円になり、1文=800円になります。
その基準で考えると十兵衛の旅費は185.2万円になり、その半分は92.6万円になります。
それも正確ではないのです。正確的にいえば十兵衛の旅費は人夫一人231日分の給料で日本現在年間労働日数は250日なので、当時の待人は祝日あまりないけど仕事見つけられない日々は多いから、人夫が一年間働くぐらいのお金です。
まあ、斎藤山城守のとっては小銭で、その半分はたぶん侍大将の首2つのほうが価値あるし、城持ち国衆の明智光安なら出せると言えば出せるだろうけどね。
でも若い十兵衛にとっては大金に違いないです。そう考えると東庵先生が10貫も、すなわち人夫一人4年間の給料を博打で負けたの頭きますね。
60文から20文と相場がある中。
三途の川が6文って、やっぱ破格だよな~
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ノッブが畿内制圧する前は私関だらけだからもっとお金掛かるんじゃないかと邪推。
戦国時代の旅行ってどっちかっていうと忍たまのイメージだからそこまで危険な感じじゃなかった
面白い‼️
当時の貨幣経済状況からして単純な比較はできないんだろうけど。
旅行や外食の業界があったってだけでわりと新鮮
坊さんはバックに寺が付いてるぶん、一般人より楽に旅が出来たんじゃ?と思いつつ旅籠屋がかなりあるってことは旅人はかなりいた=一般人もということか。
しかし坊さん下女にサービス料20文って何だよ。
日本の坊主は500年以上昔から破戒僧しかいなかったという証拠だ。
まあ、野宿な日もゼロではないような…。
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同時の庶民と現代の大衆との金銭感覚と物価変動率はずっと知りたかった...
これ、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸初期、中期、末期、明治時代、大正時代、昭和初期、太平洋戦争後、高度経済成長期、と物価指数を割り出せば、それだけで歴史学者としてベストセラー書籍出せるよ!
まぁ、現代と決定的に違うのは、多分だけど宿泊施設なんてのは、地価はタダに近くて建物の減価償却費で最低原価計算は出来るし、食品は大量生産も無く冷蔵庫が無くて、炊飯器も無いから、今より3倍位は高かったんじゃ無いか?とか考えると学術経済学的側面でも役に立つよね!
同時の地代とかの相場なんて分かってたら、是非知りたいです(^^)
大河ドラマ『武田信玄』で間者(スパイ)が僧侶に変装して他国を旅していた。これは江戸時代の話だが松尾芭蕉が幕府の間者だった説もある。
危険な場所や時間帯は有ったものの、基本的に安全に旅行出来たのは新鮮だわ、関所がやたらと有った地域が有るとか無いとかの話しは聞いてましたが、
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その女の子たち、栄養不足と過労と性病でガンガン死んでいくという…
0:43
巻物に書かれている文字が愉快な感じなんですが。
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戦国時代、最も自由で最も金持ちだったのは僧侶かも❓同じ宗派の寺は、今のホテルチェーンのような感じでしょうか?
坊主は金を支払う必要は全くないから、お布施や寄付金が貯まるばかり。
坊主はお布施や賽銭以外にも、高利貸しを営んだり、紙や油の製造法の伝授代、寺の前に市場を開かせて場所代をせびったり、とにかく儲けていました。お寺にはお金が集まるので、それを守る為、僧兵と呼ばれる筋肉質のお坊さんが大勢いました。
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Uota さおりちゃん
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ビジネスホテルくらいかな
琵琶湖船で渡るのちょっとリスキーじゃない?多分.....
俺的は、江戸時代にて、武士をやってるんだよね。大臣の殿様役ですが。まだ、20歳で奥方も子供も居ます。勿論、側室も居るしね。けれども殆ど屋敷には居ない。こんな調子で江戸のお金の話をしましたから、金銭感覚がおかしいかもだよ。録高聞いたら驚くぜ!
旅籠よりも船賃高いな
実際は山賊がいるので、命崖、
南東北とか外国人に言ったら混乱しそう、
South Tohokuとでも言えばええやろ
旅の旅費?ン〜、江戸時代に産まれて無いからハッキリとは言えないが。何処まで行くかに寄るのでは無いかね。又は、個人か友とかの二人なら、100文位かな?車は無しだがかご屋は有る。全て歩きが一般的!食べる、地元の酒を飲む、旅籠に泊まる、女を買う。コレ、行きと帰りも有るからね〜。江戸の吉原で女を買っても余り大差は無いんだが、20文位は必要かも。江戸時代のめしは比較的安かった、が酒も付けたら10文位かな?ちょうし一本2〜3文だろう。時代劇等で見てると俺的の金銭感覚おかしいかもだよな。
印象程には酷くは無かったんですね。まぁ四六時中合戦に明け暮れてた訳で無しなのは分かるし、蝮さんのドケチっプリは、分かるような分からないような、
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そのような国は他にはありませんでした。外国の国内争いは敵の領地であれば住民を含めて全て破壊と殺戮をしました。日本がそのようにしなかったのは国を得る争いでは無く力を得る争いだからです。国は自身のものではなく天皇のもの、力をつけて天皇を守る立場、大名総合の頭領である将軍が最高位だったのです。
争いが無いから兵器もあんまり…
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以外に安全に旅が出来た、そりゃ多少は危険なとこは有ったみたいだが、
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旅費じゃなくて路銀と言うんだよ。
水戸黄門を見ていると路銀が手元不如意と言うセリフが多い。
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まぁ信玄の場合、信長を倒して義昭を推戴し、本願寺勢と連絡するのが目的だけどな
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