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貴重な映像ありがとうございます。新潟市外の者ですが、電車線にはもっと通っておけば良かったと思います。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。乗っておけば良かった!という車輛や路線、私もいろいろと思い浮かびます。
2:47〜の架線柱、Googleマップのストリートビューで残ってる⁈
いつもご視聴、コメントありがとうございます。ストリートビューであちこち「旅する」のは私も大好きですが、新潟交通の廃線跡にはまだ「行ったこと」がありませんでした・・・
路面区間ともどもアップありがとうございます。私が乗っていない区間(燕側と白山下側)の展望動画が見れてよかったです。※燕駅のホームの段差ですが、跨線橋の階段数の違いを確認出来ました。
ご視聴、コメントありがとうございます。確認のお役に立てたのであれば、電車や路線以外に燕駅も撮影しておいた甲斐がありました。乗車された区間かと思いますが、残る東関屋~月潟間も不完全ながら映像がありますので、いずれアップ予定です。
3:20 映像には映っていませんが田んぼの右側少し離れたところにある小学校に通っていました(89年はまさに在学中)グラウンドから走っている電車の姿がよく見えました泣くほど懐かしいです
いつもご視聴、コメントありがとうございます。子供の時によく乗ったり見たりした電車というものは、何歳になっても懐かしく感じるものですよね。
何故廃止したのか?わからない路線ですね。新潟市に通う人の大事な路線だったと思うので。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。もし国鉄(JR)新潟駅まで接続していて昭和後期以降の利用客の減少がなかったら、今の富山や福井のようにLTRが行き来するような未来があったかもしれませんね。
かつては燕で国鉄からの貨車が乗り入れてたので線路がつながっていました。元小田急2220型も、この渡り線を通って新潟交通線に入線しました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。2220形がどうやって入ったか考えたことはありませんでしたが、なるほど、そうだったのですね! 燕駅までは、電機に牽引されたのかぁ。まさか自走ではないでしょうから。
懐かしい燕駅、JR弥彦線と新潟交通線で別々に駅舎をっているのに跨線橋は共用、その先でホームが柵で分けられておりちょっと分かり難かった覚えがあります。ここから東関屋まで一気に乗りとおしましたが上越新幹線と並行しており白根辺りまでガラガラだったのを覚えています、燕駅からは自社の高速バスも出ており長くはないなと思いましたが、予想通りこの後直ぐに月潟までが廃止、最終的には残りの区間も廃止になりトキメキ駅や新装された東関屋駅も無駄になってしまいました。先日開通した宇都宮LRTを見てると新潟駅から古町経由で白根辺りだけでも無理かなと考えます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。燕駅は、昭和の国鉄とローカル私鉄との典型的な接続駅の雰囲気(木造の跨線橋など)を色濃く残し、とても良い感じだったのを憶えています。もし戦後間もない頃に無理してでも新潟駅まで延長していれば、(そして東関屋までの路面区間の電停を復活させていれば、)新潟交通が地域の交通を担う存在として生き延びて、お隣り富山のようにLRTが行き来する未来があったかもしれないのに・・・と考えてしまいます。
今ここ月潟駅構内にキ100形除雪車や荷物電車廃止まで活躍してた、動画に出てきた車両が展示してありますね。新潟交通で忘れられない駅がときめき駅です。94年に発売された恋愛シュミレーションゲーム「ときめきメモリアル」のファンがこの駅に大勢集まり聖地にもなりました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。ググって出てきた画像によると、月潟駅では保存車両だけでなく、木造の駅舎も保存されているようですね。あの駅の雰囲気が好きで当時ビデオ撮影しました。東関屋駅に停まっていた車両とともに、月潟駅の映像も別の機会にアップしようかと思います。ときめき駅とゲームのエピソードは知りませんでした。この駅は開設後、僅か2年で鉄道自体が廃止になってしまいましたね。
JR線への渡り線があるのは、貨車輸送が盛んであった頃と関係がありそうな気がしますね。現在もあったら、月に1回は乗りに行ってみたいです・・・。六分駅から味方中学校前駅へ部活の練習試合で乗ったことや、新潟花火を観た後、県庁前駅から乗ったことを懐かしんでます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。新潟交通の線路を貨車が走ったとすると小型電機の牽引だったのかと思いますが、もし電車+貨車だったら、想像しただけで楽しそうな光景です。新潟交通の電車は、地元の方の記憶にいつまでも残る存在なのですね。
燕ー灰方間は、もっとも速度が出た区間だそうで。
私が乗った際も、速度計は見てませんでしたが、実際速そうでしたね。
新潟交通電車線の先行廃止区間の映像が残ってたのは意外でした!弥彦線も当時は115系でしたが、初期車から改造されたワンマン改造車もいました。黄色いカラー(ワンマン改造車)は全区間と越後線新潟~吉田で使われましたが、新潟色は弥彦線だと東三条~吉田だけだったと考えられます。現在弥彦線はみんなE129系になりました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。訪問した当時は、近いうちに廃止されるなどとは夢にも思っていませんでしたが、今思うと乗客は少なかったようです。ローカル私鉄では朝のラッシュ時だけは2両,3両編成になる例もありますが、新潟交通では平日朝なのに私が訪問したときはそんなことはなく寂しい1両でした。
楽しみですね
ご視聴、コメントありがとうございます。新潟交通の動画は何本もアップしてますので、宜しければ他もご覧ください。
木造のホーム上屋&待合室、黒板のような手書きの時刻表、発車ベルにブザー音、ラッパのタイフォン、何故か地方の中小私鉄に多かった高齢の運転士(失礼・笑)………本当に失われてしまった「THE・昭和」の数々ですね。JR115系も地方線は非冷房、昔は暑かろうが、文句も言わず乗っていました!新潟交通も昔は乗客が多かったのでしょうね。どの駅もホームの長いこと長いこと!
いつもご視聴、コメントありがとうございます。動画で伝えたかった細部を再描写いただき恐縮です。確かにホームが長いですね! 昔は2両どころか、3両,4両もあったのでしょうね。私が訪問した '89年当時は、動画に写っている日本車輛製新造車体吊り掛け車の単行運用のみになっていたようです。2両以上の編成、見たかったなぁ‥
@@昭和電車チャンネル ホームの長さは元々貨物輸送があった名残です。(1982年全廃)元々この鉄道が、中ノ口川の舟運の近代化と速達化を目的に建設された事。見ての通りの田園地帯ゆえ、まだ道路もトラック輸送も発達していない昭和初期では、沿線農産物の輸送にそれなりの意味があった事と思います。
この区間は一度だけしか乗る事が出来ませんでした。確かに設備は老朽化していましたが、燕駅の行き先表示や発車前のベルなどそれなりに近代化していた様に思えます。ATS装着は中小私鉄の中では早い方だと思います。ただ一番お金のかかる車両の更新や架線、保線、変電設備の強化が根本的にできなかったのが痛かったですね。電動ポイントがひとつもありませんでした。職員がベテランばかりだったのは、長い間定年退職者の補充を行っていなかったと思われます。燕〜月潟間廃止のタイミングは職員の定年に合わせたとも聞いています。昼間割引回数券や1日フリー乗車券は出していましたが、沿線自治体と一体になっての活動が乏しかったように思います。東関屋駅をせっかく建て直しても5年程で路線を全廃し、ときめき駅を開業後すぐに廃止表明などちぐはぐ感がありました。何かもったいない路線でしたね。
ご視聴並びに、詳細なコメントありがとうございます。仰るように、車両や然るべき施設に投資できず、あまり効果の無いお金の使い方だった面はあるかと思います。消えていった他のローカル私鉄にもおそらく当てはまるでしょう。ただ、新潟交通に関しては、経営方針で疑問に思うことがいくつかありました。①利便性が向上するのに、白山前~東関屋2.6kmの路面区間になぜ戦後停留所を設けなかったのか? ②東関屋駅に新投資をしてまで、なぜこの路面区間を廃止してしまったのか? ③JR駅との唯一の接続が失われるのに、燕~月潟間をなぜ廃止したのか? まあ、③については、おそらく全廃を想定してのことだったのでしょうが。
そうですね。地方私鉄のATSは、平成に入ってから整備が始まった路線が多いですし、おそらく出発信号機と連動のベルとか発車案内も、近代的設備にいち早く目をつけて導入してきたように見受けられます。途中駅に「まめに」入換信号機があったり、自動閉塞化も早かったのか、根本的な設備自体はよく考えられていて凄いと感じました。停止目標や場内信号機のATS地上子などの標識類も、他社の見やすいものを研究して導入しているように見えます。おっしゃるように、この動画からも老朽化が著しい状態で放置されているのが見受けられますし、鉄軌道部門には新規採用も見合わせていたのですね。路面電車が地元から敬遠されていなかったら、新潟駅まで通じていたら…という交通網として残念な部分がありましたが、本当にもったいないと思います。
@@ぽっぽ屋たなけんゆる鉄チャンネル さん 近代的設備導入に当たっては一畑電鉄に職員を派遣して見学に行ったり、車両面でもつながりのある小田急からアドバイスを受けていた様です。 路線縮小時点でいずれ全廃の予定だったが何とか残そうとは努力していましたが、県からの補助金は出さない事が決定打になりました。道路に強い福田組があることもあり、新潟県はJR以外の鉄道には消極的な姿勢でしたね。 ほくほく線は別ですが。 廃線前でも新品のコン柱が各所にあったので架線柱更新は廃止決定直前まで進められていました。
やはり研究熱心な鉄軌道会社だったのですね!架線柱の更新が進められていたのは意外でした。私は1996年の夏だったと思いますが、高校生のときに乗車しました。叶わぬことですが、現在の知識と目線で乗車して見学してみたい、と感じました。
大変貴重な映像をありがとうございます。正に地方ローカル私鉄線らしいですね。
ご視聴、コメントありがとうございます。昔ながらの雰囲気が残っていたのは、それが好きなファンにとっては嬉しいものでしたが、裏を返せば設備投資,近代化が困難だったということで、そういうローカル私鉄は、この頃を境に次々と廃止されていきました。逆に冷房化や車両の総入れ替えなどで近代化できた事業体は、今でも存続している例が多いと思います。
今のガランとした燕駅から、昔の新潟交通の走っていた燕駅を見ても、「どこの駅?」ってわからんかった。あちこち営業仕事でまわっていた時に気になっていた駅があちこちにあったけど、寄ってみる前にみんな消えた。貴重な映像です。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。そのうち行こう、と気になっていたモノ(車輛、駅、鉄道そのもの、年代モノの建造物、…)が、気づいたときには消えていた、という苦い経験は、私にもいろいろあります。
貴重な映像ありがとうございます。新潟市外の者ですが、電車線にはもっと通っておけば良かったと思います。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
乗っておけば良かった!という車輛や路線、私もいろいろと思い浮かびます。
2:47〜
の架線柱、Googleマップのストリートビューで残ってる⁈
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
ストリートビューであちこち「旅する」のは私も大好きですが、新潟交通の廃線跡にはまだ「行ったこと」がありませんでした・・・
路面区間ともどもアップありがとうございます。
私が乗っていない区間(燕側と白山下側)の展望動画が見れてよかったです。
※燕駅のホームの段差ですが、跨線橋の階段数の違いを確認出来ました。
ご視聴、コメントありがとうございます。
確認のお役に立てたのであれば、電車や路線以外に燕駅も撮影しておいた甲斐がありました。乗車された区間かと思いますが、残る東関屋~月潟間も不完全ながら映像がありますので、いずれアップ予定です。
3:20 映像には映っていませんが田んぼの右側少し離れたところにある小学校に通っていました(89年はまさに在学中)
グラウンドから走っている電車の姿がよく見えました
泣くほど懐かしいです
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
子供の時によく乗ったり見たりした電車というものは、何歳になっても懐かしく感じるものですよね。
何故廃止したのか?わからない路線ですね。新潟市に通う人の大事な路線だったと思うので。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
もし国鉄(JR)新潟駅まで接続していて昭和後期以降の利用客の減少がなかったら、今の富山や福井のようにLTRが行き来するような未来があったかもしれませんね。
かつては燕で国鉄からの貨車が乗り入れてたので線路がつながっていました。
元小田急2220型も、この渡り線を通って新潟交通線に入線しました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
2220形がどうやって入ったか考えたことはありませんでしたが、なるほど、そうだったのですね! 燕駅までは、電機に牽引されたのかぁ。まさか自走ではないでしょうから。
懐かしい燕駅、JR弥彦線と新潟交通線で別々に駅舎をっているのに跨線橋は共用、その先でホームが柵で分けられておりちょっと分かり難かった覚えがあります。ここから東関屋まで一気に乗りとおしましたが上越新幹線と並行しており白根辺りまでガラガラだったのを覚えています、燕駅からは自社の高速バスも出ており長くはないなと思いましたが、予想通りこの後直ぐに月潟までが廃止、最終的には残りの区間も廃止になりトキメキ駅や新装された東関屋駅も無駄になってしまいました。先日開通した宇都宮LRTを見てると新潟駅から古町経由で白根辺りだけでも無理かなと考えます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
燕駅は、昭和の国鉄とローカル私鉄との典型的な接続駅の雰囲気(木造の跨線橋など)を色濃く残し、とても良い感じだったのを憶えています。もし戦後間もない頃に無理してでも新潟駅まで延長していれば、(そして東関屋までの路面区間の電停を復活させていれば、)新潟交通が地域の交通を担う存在として生き延びて、お隣り富山のようにLRTが行き来する未来があったかもしれないのに・・・と考えてしまいます。
今ここ月潟駅構内にキ100形除雪車や荷物電車廃止まで活躍してた、動画に出てきた
車両が展示してありますね。新潟交通で忘れられない駅がときめき駅です。94年に
発売された恋愛シュミレーションゲーム「ときめきメモリアル」のファンがこの駅に
大勢集まり聖地にもなりました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
ググって出てきた画像によると、月潟駅では保存車両だけでなく、木造の駅舎も保存されているようですね。あの駅の雰囲気が好きで当時ビデオ撮影しました。東関屋駅に停まっていた車両とともに、月潟駅の映像も別の機会にアップしようかと思います。ときめき駅とゲームのエピソードは知りませんでした。この駅は開設後、僅か2年で鉄道自体が廃止になってしまいましたね。
JR線への渡り線があるのは、貨車輸送が盛んであった頃と関係がありそうな気がしますね。
現在もあったら、月に1回は乗りに行ってみたいです・・・。
六分駅から味方中学校前駅へ部活の練習試合で乗ったことや、新潟花火を観た後、県庁前駅から乗ったことを懐かしんでます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
新潟交通の線路を貨車が走ったとすると小型電機の牽引だったのかと思いますが、もし電車+貨車だったら、想像しただけで楽しそうな光景です。新潟交通の電車は、地元の方の記憶にいつまでも残る存在なのですね。
燕ー灰方間は、もっとも速度が出た区間だそうで。
私が乗った際も、速度計は見てませんでしたが、実際速そうでしたね。
新潟交通電車線の先行廃止区間の映像が残ってたのは意外でした!
弥彦線も当時は115系でしたが、初期車から改造されたワンマン改造車もいました。黄色いカラー(ワンマン改造車)は全区間と越後線新潟~吉田で使われましたが、新潟色は弥彦線だと東三条~吉田だけだったと考えられます。現在弥彦線はみんなE129系になりました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
訪問した当時は、近いうちに廃止されるなどとは夢にも思っていませんでしたが、今思うと乗客は少なかったようです。ローカル私鉄では朝のラッシュ時だけは2両,3両編成になる例もありますが、新潟交通では平日朝なのに私が訪問したときはそんなことはなく寂しい1両でした。
楽しみですね
ご視聴、コメントありがとうございます。
新潟交通の動画は何本もアップしてますので、宜しければ他もご覧ください。
木造のホーム上屋&待合室、黒板のような手書きの時刻表、発車ベルにブザー音、ラッパのタイフォン、何故か地方の中小私鉄に多かった高齢の運転士(失礼・笑)………本当に失われてしまった「THE・昭和」の数々ですね。JR115系も地方線は非冷房、昔は暑かろうが、文句も言わず乗っていました!新潟交通も昔は乗客が多かったのでしょうね。どの駅もホームの長いこと長いこと!
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
動画で伝えたかった細部を再描写いただき恐縮です。確かにホームが長いですね! 昔は2両どころか、3両,4両もあったのでしょうね。私が訪問した '89年当時は、動画に写っている日本車輛製新造車体吊り掛け車の単行運用のみになっていたようです。2両以上の編成、見たかったなぁ‥
@@昭和電車チャンネル
ホームの長さは元々貨物輸送があった名残です。
(1982年全廃)
元々この鉄道が、中ノ口川の舟運の近代化と速達化を目的に建設された事。
見ての通りの田園地帯ゆえ、まだ道路もトラック輸送も発達していない昭和初期では、沿線農産物の輸送にそれなりの意味があった事と思います。
この区間は一度だけしか乗る事が出来ませんでした。
確かに設備は老朽化していましたが、燕駅の行き先表示や発車前のベルなどそれなりに近代化していた様に思えます。
ATS装着は中小私鉄の中では早い方だと思います。
ただ一番お金のかかる車両の更新や架線、保線、変電設備の強化が根本的にできなかったのが痛かったですね。
電動ポイントがひとつもありませんでした。
職員がベテランばかりだったのは、長い間定年退職者の補充を行っていなかったと思われます。
燕〜月潟間廃止のタイミングは職員の定年に合わせたとも聞いています。
昼間割引回数券や1日フリー乗車券は出していましたが、沿線自治体と一体になっての活動が乏しかったように思います。
東関屋駅をせっかく建て直しても5年程で路線を全廃し、ときめき駅を開業後すぐに廃止表明などちぐはぐ感がありました。
何かもったいない路線でしたね。
ご視聴並びに、詳細なコメントありがとうございます。
仰るように、車両や然るべき施設に投資できず、あまり効果の無いお金の使い方だった面はあるかと思います。消えていった他のローカル私鉄にもおそらく当てはまるでしょう。ただ、新潟交通に関しては、経営方針で疑問に思うことがいくつかありました。①利便性が向上するのに、白山前~東関屋2.6kmの路面区間になぜ戦後停留所を設けなかったのか? ②東関屋駅に新投資をしてまで、なぜこの路面区間を廃止してしまったのか? ③JR駅との唯一の接続が失われるのに、燕~月潟間をなぜ廃止したのか? まあ、③については、おそらく全廃を想定してのことだったのでしょうが。
そうですね。
地方私鉄のATSは、平成に入ってから整備が始まった路線が多いですし、おそらく出発信号機と連動のベルとか発車案内も、近代的設備にいち早く目をつけて導入してきたように見受けられます。
途中駅に「まめに」入換信号機があったり、自動閉塞化も早かったのか、根本的な設備自体はよく考えられていて凄いと感じました。
停止目標や場内信号機のATS地上子などの標識類も、他社の見やすいものを研究して導入しているように見えます。
おっしゃるように、この動画からも老朽化が著しい状態で放置されているのが見受けられますし、鉄軌道部門には新規採用も見合わせていたのですね。
路面電車が地元から敬遠されていなかったら、新潟駅まで通じていたら…という交通網として残念な部分がありましたが、本当にもったいないと思います。
@@ぽっぽ屋たなけんゆる鉄チャンネル さん 近代的設備導入に当たっては一畑電鉄に職員を派遣して見学に行ったり、車両面でもつながりのある小田急からアドバイスを受けていた様です。 路線縮小時点でいずれ全廃の予定だったが何とか残そうとは努力していましたが、県からの補助金は出さない事が決定打になりました。道路に強い福田組があることもあり、新潟県はJR以外の鉄道には消極的な姿勢でしたね。 ほくほく線は別ですが。 廃線前でも新品のコン柱が各所にあったので架線柱更新は廃止決定直前まで進められていました。
やはり研究熱心な鉄軌道会社だったのですね!
架線柱の更新が進められていたのは意外でした。
私は1996年の夏だったと思いますが、高校生のときに乗車しました。
叶わぬことですが、現在の知識と目線で乗車して見学してみたい、と感じました。
大変貴重な映像をありがとうございます。正に地方ローカル私鉄線らしいですね。
ご視聴、コメントありがとうございます。
昔ながらの雰囲気が残っていたのは、それが好きなファンにとっては嬉しいものでしたが、裏を返せば設備投資,近代化が困難だったということで、そういうローカル私鉄は、この頃を境に次々と廃止されていきました。逆に冷房化や車両の総入れ替えなどで近代化できた事業体は、今でも存続している例が多いと思います。
今のガランとした燕駅から、昔の新潟交通の走っていた燕駅を見ても、「どこの駅?」ってわからんかった。
あちこち営業仕事でまわっていた時に気になっていた駅があちこちにあったけど、寄ってみる前にみんな消えた。
貴重な映像です。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
そのうち行こう、と気になっていたモノ(車輛、駅、鉄道そのもの、年代モノの建造物、…)が、気づいたときには消えていた、という苦い経験は、私にもいろいろあります。