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被災状況の数値・範囲は入手した資料を元に解説しています。時間経過により、現状知らされている数値とは異なることをご理解ください。
20:58 集計の時期などによって異なることはわかりますし、一家全滅も多くありますから誤差があるのも理解できますが、広島の死者が4万ということはないかと思います。1945年末までに14万の誤りでは?わたしの認識では時期を変えても広島は長崎の倍といったところです。
誤りではありません。原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません、年末には推計で14万だろうで、数字は被爆直後の広島市史のデータです。
@@fm1 早速の返信ありがとうございます。被爆後2週間か1945年8月末までの集計というのを過去に見たことがあったかと思いますが、4万という数字は初耳です。医師の診断なく荼毘に付された方が多かったので、医師の死亡診断が出た方なのでしょうか。広島の場合、市役所も爆心地に近くて相当亡くなっているようですから、相当の混乱の中での数字といえるかと思います。機会があれば広島市史見てみます。
さすがにこの被害状況は誤解を招くのでは?コメント欄ではなく動画内に注釈を入れるべきではないかと思いました。
@@4tissuesHokkaidoJPN 広島の当日即死者が8万人。長崎は当日即死者が4万人規模。4万人という数値は長崎の資料では見たことがあるけど、広島の資料では見たことが無いですね。
母方が小倉に住まいしていたので、原爆が落ちていたら無事では済まなかったでしょう。偶然が重なったおかげで今があると思うと、胸が苦しくなります。
自分も小倉の叔父から、原爆投下の話をよく聞かされていました。お気持ちに同感です。
このコメント欄見てたら、これのおかげで生まれてこれたって人が大勢いる。広島と長崎にも、もし原爆がなかったら生まれた命がこれほどあったんだと思うと、原爆の犠牲者は50万人どころじゃないって恥ずかしながら初めて気がついた。
私は小倉生まれ小倉育ちですが小学生の頃、夏休みの中でも8月9日は登校日で平和授業がありました。教室でビデオを見ながら先生から本当は小倉に原爆が落とされるはずだったと小さい頃から聞かされてきました。紙一重で歴史は大きく変わる…小倉に住む者として絶対に忘れてはならないことだと思っています。
原爆では、一家もろとも犠牲になり、そこでその一族が途絶える…ということはたくさんあったとおもう。だから、小倉に投下された場合の被害距離を見て、「いま、自分はいなかったんだろうな」「仲良くしている友達や、近所のばあちゃんたちも、いなかったかもしれないんだよな」と悲しくなった。同時に、もし小倉に投下されていたら、あの日なくなってしまった方たちが、今も幸せに広島、長崎で暮らしていたのだろうかとおもい、更に悲しくなった。とてもわかりやすくて、考えさせられます。勉強になりました。ありがとうございます。
95歳になる父が当時、八幡製鉄所で敵機来襲の報を受けて、みんなで煙幕をしたと話してます。製鉄所周囲の煙幕だけで小倉が守れたとは思いませんが、避難しないで、製鉄所を守るために煙幕行為を行った事は本当だと思います。
広島に落とされた新型爆弾(原爆)の情報で煙幕を張って免れたといっても過言ではない。
私も昔、その「八幡製鐵所の煙幕」の話、聞いたことがあります。小倉に原爆が投下されていたら、親父が被爆し、私は生まれてこなかったと思います。
米軍の機密保持のため、8月8日の八幡空襲と原爆投下は、全く関係なしに行われた。彼らは、小倉の陸軍工廠と八幡製鉄が、こんなに近いなんて知らなかった。これが、真実。
うちの爺さんも生前八幡製鉄所勤務してました。
米国では、8年くらい前に、新聞にのった。日本では、なぜかマスコミは、この事実を報道しない。八幡製鉄、現 日本製鉄に対する遠慮?
私も北九州市で生まれ育ち、現在も北九州市に住んでいます。とても分かりやすい動画、ありがとうございます。心から感銘を受けました。話の流れ、裏話の解説、とても素晴らしく、知らなかった事実を知ることができました。そして何と言っても、ゴンちゃんさんの語りが心に沁みました。ありがとうございました。
西鉄北九州線が被曝路面電車になったら果たして
励みになるコメントありがとうございます。日射病に注意しながら町歩きを頑張ります😊
長崎市内の者です・・・原爆で曾祖父、曾祖母ちゃん、叔父さん達、皆亡くなりました。。小倉の代わりに長崎が・・と言うことも考えられますが。押し付け合うのもよくありませんね。。運命だったのでしょうね。。。
時の、国が暴走し戦争を続けたから、二発目を撃ち込まれた。広島だけで降伏していれば、違った未来もあったかもしれない。戦争の続行を指示したのもその時の日本が悪い。だから、現行の総理に責任とってもらいたい。
小倉が重要な投下目標であったということがとてもよくわかりました。ありがとうございます。
お役に立ててよかったです😊
他の方コメントされてますが北九州市は8/9が登校日で原爆投下時刻に黙祷し平和授業がありました。就職して他府県に赴任して初めて8/9が登校日ではないと知り平和授業も無いことを知りました。
小倉が本来の予定だった事は、ある程度理解しておりましたが、今回のように詳しく教えて頂き、とても貴重な内容でした。子供の頃行った、長崎の原爆資料館での悲惨な状況を思い出しました。本当にありがとうございます。
雲が多かっため小倉ではなく、長崎に原爆が落とされたことは知ってました。が、福岡県民として、とても他人事ではないです。亡き父は長崎出身、8月9日は小倉にいたそうです。いくつかの偶然が重ならなければ、今私はここにいなかったかもしれません。核廃絶を願い、仲間たちと千羽鶴を折り、広島に寄贈しました。今も折り続け長崎に寄贈する予定です。
当日は、八幡製鉄所でコークスを焚いて、かなり視界を悪くさせてました。前日の空襲の煙も、理由の一つでした。凄いのは、八幡製鉄所が48時間で操業復旧させた事も凄い。私は、小倉北区産まれ、八幡東区育ちで、現在は広島に住んでます。
母は枝光でしたから自分うまれてないですね。※小倉と彦島は3kmないので下関も直撃で壊滅してたと思います※八幡は前日の空襲で壊滅してるので原爆による建物被害は少なかったでしょうねごんちゃんさんは触れていませんけども長崎、広島に共通することは無抵抗だったということ。長崎は小倉 廣島は呉だというので空襲警報が解除されて迎撃が間に合わなかったし北九州は抵抗し手こずらせたと言う事実があった。これは大事だと思います。無抵抗ならやられるだけということ。
広島県以外の、中国地方の県に住んでおります。たいへん分かりやすい解説で、爆心地からの距離などいちいち、自分の居住地に当てはめて考えてみました。爆風がそれほどの距離を、一気に吹き抜けるということ。改めて、背筋が凍る心地です。九州地方に縁もゆかりもない身ですが、平和を願う気持ちにお国柄もなにもないと思い、ひと言コメントさせて戴きました。
小倉に原爆が投下されていたら、親父が被爆し、私は生まれてこなかったと思うと、ゾッとするし、代わりに犠牲となった長崎を思うと、切なくなります。貴重な動画を有難うございました。
プーチンはウクライナに核をちらつかせとる。言語道断の暴挙❗プーチンにこの映像を見せたれ❗
私の場合、父は疎開していたものの家族は三萩野付近に住んでいたそうで投下されていたら父は天涯孤独となって人生が変わっただろうから違う意味で私は生まれてないですね。
詳しいお話とても有難く感じます。初めて知った事実、とても勉強になりました。両親の祖父母ともに広島出身であり、またどちらも若松に住んでおりました。祖父母の運の良さに驚きますが、替わりに犠牲になった広島、長崎の方々には言葉もありません…今ある自分の命に感謝して生きていかないとですね。長々と失礼いたしました。
私は茨城の出身だけど親戚が小倉の枝光にいます。私の祖父は7人兄弟でしたけど兄にあたる人は枝光。もう一人の兄は広島市内にいました。もし小倉に原爆が落ちていたら祖父の二人の兄が悲惨なことになっていました。小倉に原爆が落ちなかったのは 「製鉄所で練炭を大量に燃やして上空を黒煙にして小倉の街を守った」という話を聞いたことがあります。故郷茨城には 「模擬原爆」と言われるパンプキン爆弾が日立市と北茨城市に落とされています。
枝光は小倉ではなく八幡です。現在は八幡東区、です。
代ゼミの地理の先生の話を思い出しました。8月9日小倉にいて雲の隙間からちらちら見えるB29をずっと目で追っていたそうです。そうこうしてるうちに飛び去ったと。。長崎に足を向けて寝ることはできん。という言葉が印象に残っています。
すごく勉強になりました。ということは原子爆弾を格納したB29が小倉上空に来ていたのですね。 私はのうのうと小倉で生活してます。小倉に投下されていれば悲しい歴史の街になっていただろうと…やはり当時の長崎市民の皆様に世代は違いますが申し訳ない気持ちがする8月9日です。運が良かったと言えばそれまでですが私はこれまで天候だけで回避できたのだと思ってました。当時の広島の天候が悪かったら小倉が世界初の被爆地区となっていたらと思うと…小倉市民全員に知ってもらいたいです。 ありがとうございました。
小倉在住です。感動しました。
元八幡製鉄所従業員がコールタールを燃やして煙幕を張ったとの証言があります。これも視界不良の一因かもしれません。証言された方は長崎に原爆が投下されたことを悔やんでいました。複雑な心境です。
私も当然それを解説する動画だと思って見ましたが、小倉工廠が狙わてる事は後に知る事になるって解説だけで一蹴したのに驚きましたね。勇気を出して証言してくれた方々がいるのにとても残念です。
新日鉄退職者に聞きました。
北九州で軍関係の仕事をしていた祖母に聞いた話です。小倉が原爆投下の目標となっていることは、祖母たちは聞かされていたそうで、北九州の各地(小倉や八幡など)で、とにかく燃えるものは何でもかき集めて燃やしたそうです。家に使われていた木材や着物などの貴重な物までも必死でかき集めたのだと聞きました。そこまで死に物狂いだったのだと。この話を聞いた当時、私はまだ子どもだったのですが、それまでも広島や長崎のことを考えると悲しい気持ちになっていましたが、この話を聞いてからは「申し訳ない」とも思うようになりました。(なんだか自分の身代わりにしてしまったような気がしているのです。。祖母が戦時中のことを話したのはこのときの話が最初で最後でした。もちろん悲しい記憶ばかりなので話したくないのは当然だと思いますが、祖母も申し訳なさを抱いていたのではないかと勝手に推測しています。)原爆投下を避けるために北九市民(のうちの一部かもしれませんが)が『雲を作るよう行動した』という話は、学校では習いませんでしたしネットでも(八幡製鉄所がガンガン稼働させていたというのはネットにものっているかなと思いますが、その他の北九州各地でも動いていた人がいるというのは)見つけられませんでしたが、こんなこともあったのだということを知ってほしくてコメントさせていただきました。
原爆投下の標的となっている都市には8月7日着で原爆対策マニュアルが配布されています。小倉市は8月7日に原爆対策マニュアルを受け取っていたため、8月8日には対空防備を整えてB-29を迎え撃つ体制が構築されていました。貴方の祖母が原爆対策に駆り出されたのは8月8日の出来事だと思われます。飛ばせる戦闘機をありったけかき集めてB-29フォックスカーを迎え撃ちました。一方で長崎市には8月8日午後8時に原爆対策マニュアルが配布されました。8月9日、午前11時より長崎市長や警察関係者らが防空壕の中で原爆対策会議を始めていました。長崎市長がまさに原爆対策会議を始めようとした瞬間にファットマンが長崎上空で爆発しました。8月6日の広島から8月9日の長崎まで、この3日間の日本国内の動きは詳細に記録が残っているので調べてみると考える切っ掛けになりますよ。
北九州市民として大変興味深い内容の動画でした。もし北九州市に原爆が投下されていたらどうなっていたか…と戦慄が走ります。わかりやすい解説をありがとうございました!
確実に言えることは今ここに書き込みできていないと言うことです。自分にかぎりいえることは自分が生まれてなかったということです。小倉から半径3kmは焼け野原ですから中央体育館あたりまでは壊滅。下関や門司も壊滅していたでしょう。北九州民です。
動画ありがとうございます。観ていて涙がとまりません今私達が生まれて送っている人生にほんとに感謝しなければと思いました。
アメリカは今でも原爆投下は早く戦争を終わらせこれ以上の被害者を出さない為にやった事と言ってますが、その頃の日本はもぉ戦える状況じゃないのはアメリカも分かっていたのに投下したので許せない事です。
本当の利用は、ウラン型原爆とプルトリウム型原爆を使い都市の被害状況確認と人体実験が目的でした。
戦える力がないのに、御前会議で本土決戦賛成と反対がどうすうになるの?アメリカの軍人なら、味方1人を救うために敵を数万焼き殺すのもしかたないのでは?
アラフィフオヤジですが、もし小倉に落とされていたら祖父母が確実に死んでいたので自分も生まれてない。小さい頃から毎年8月は感慨深くなる。今生きていることへの感謝。
私も全く同じです。今年で54歳です。日々感謝です。
私もです。
私の祖父が長崎市出身で、あの地獄を生き抜いてくれたから今私が生きているんだとこの時期になると特に思います。もう亡くなってしまったので、当時の話を聞けなかったのが心残りです。聞いたところで話すのを嫌がったでしょうが…
祖父が字を綺麗に書けると言う理由で久留米連隊から南方戦線には招集されず、この小倉造兵廠へ。蓄電池の担当だったと聞いております。あの日も朝から暑く作業開始していたと言います。爆撃機のエンジン音が聞こえて地下道に避難。この地下道は頑丈で今でも残っておりライフラインが通っているそうです。愛宕の北九州ダイハツ本社近くまで秘密の抜道もあるみたいですが…確かに防空壕はたくさん残っていますね。
原爆の話になるとよく聞く『小倉』、そこが福岡県のどこで何があるのかよく分かっていませんでしたがこの動画を見て理解が深まりました。僕は新潟出身ですが、祖父は戦時中呉にいて、原爆爆発直後の広島へ救援に行って被爆したそうです。
昭和20年8月9日当時、私の祖父母は小倉城に程近いところにすんでおりました。幼き日の私の母も一緒でした。もし小倉に原爆が投下されていたら、私は今この世には存在しておらず、この動画に巡り会うことも無かったと思います。動画の中にもありましたように広島と長崎が小倉の身代わりになったことについて手放しで喜ぶことはできないとおっしゃっていました。本当にその通りだと思います。それには多くの尊い人命が失われすぎました…そして、同じ日に長崎では島原半島から今は亡き、幼き日の父が長崎に投下された原爆のキノコ雲を見ていたと生前に聞いたことがありました。今回この動画を拝見して、改めて人命の尊さ、平和の尊さを実感いたしました。この動画に出会えたことに感謝します。ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございます。自分も当時の事を叔母からよく聞かされました。
私も福岡出身ながら知り得ない歴史の深掘りに感謝です。有難う御座います。暑い日が続きます。ご自愛ください。今後も期待しています。
ありがとうございます。ハイ水筒ぶら下げて町歩きを頑張ります😊
当時の長崎市長は【広島がやられた。次は必ず3日後に長崎に来る】と言い会議したそうですそして原爆落ちる前に急いで市民に知らせて市民を移動させてる最中に原爆を落とされました😢なぜこの様なことがわかったのか修学旅行の時に詳しくしおりに書いてたからです今もそのしおりを持ってます
小倉にファットマンを投下出来なかった理由は前日に八幡大空襲の煙が小倉市上空に流れていて視認出来なかったのと八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やして煙幕を作ったのを聞いた事があります。もし投下されていたら今の北九州一帯どころか対岸の山口県の下関市まで被害が及んでいただろうと言われてます。ただその代わりに長崎市に投下され壊滅的な被害を受けましたが。
8月6日の広島市のデータをまとめた原爆対策マニュアルが8月7日に小倉市に配布されています。原爆投下機の前に偵察を兼ねた気象観測機が飛来することが記載されており、気象観測機が飛来したときは高射砲を発射して上空に煙幕を作れとの指示が政府から出ていました。小倉市が原爆投下の標的になっていることは日本政府も事前に想定しており、標的になるであろう各都市には8月7日着で原爆対策マニュアルが配布されています。小倉市は近隣から飛ばせる戦闘機をかき集めて、B-29フォックスカーの飛来を確認すると、ありったけの戦闘機を飛ばして迎撃しています。1時間以上にわたるドッグファイトの末にフォックスカーは原爆投下を諦めました。原爆には使用のタイムリミットが設定されており、組み立てから4時間以内に投下できなかった場合は海上にて投棄することが命じられています。そのため、小倉市を離脱したB-29の3機編隊は太平洋側へ抜けようと長崎の方向に飛び去って行きました。最悪なことに、8月9日の長崎上空は快晴。海上に投棄するぐらいなら長崎に落としてしまえ、とB-29パイロットたちは名声を得るために狙いを定めることなくファットマンを投下しています。
ゴンちゃんの語り声がとても心地よく、そして暖かく、故郷福岡を愛する気持ちが伝わってきます。サムネも動画も、大変興味をそそられ、質の高いものだと感じます。ファンになりました☆
励みになるコメントありがとうございます。台本作り始めたのが今年の2月ごろで、あーでもないこうでもないと、やっとこ完成しました。楽しんで頂き嬉しいです😊
当日父親が小倉で働いていましたもし小倉が被爆していたら今の自分は無かったと思います貴重なお話しありがとうございました
僕は、長崎出身です。小倉の上空が晴れてたら.......とかは、思いません。誰かしらが犠牲になってたのですから。だから、核兵器を廃絶させなくては、なりません。もう長崎を世界で最後の被爆地として欲しいてす。欲しいでなく、そうしなければなりません。
私は広島で産まれました。5歳の時までしかいませんでしたが、小さいながらに平和公園や原爆ドームに行った記憶は残ってます。本当は小倉が一番のターゲットになっていたという事実もまた、決して風化させてはいけないことです。1日も早く「核なき世界」が実現することを強く願います。
八幡製鉄所が爆撃回避の為、兼ねて準備していた真っ黒な煙幕をはった為に目標を 識別出来なかったと云われます。
それはデマっぽいな。
@@NomuraIsamuデマではなく、煙幕との証言が新聞で取り上げられた経緯があります。つい先日小倉の平和のまちミュージアムに伺いましたが、たしかに投下目標日の8月9日の前日は大空襲が酷かったようですね。しかし、戦後何十年も経過して証言により当時の様子が克明に知らされることもあり、証言を決してデマとして切り取ってはいけないと思います。当時は厳しい情報統制、物資人の往来も厳しい状況で、口にしただけで「非国民」扱いされることはザラにあったでしょうし、そこに人情が入り込むことでなかなか言えなくもなりますからね。煙幕の件では当時の新聞記事を読むと長崎に申し訳なく言えなかったとありました。所変わって大阪でも大空襲時に真夜中地下鉄が梅田⇔天王寺間で走行しており、当時の国家総動員令ならびに厳しい情報統制下では小出しになって出てくるだけです。こちらも地下鉄側、住民側双方の「夜中に走っていた。」という証言があるので、【当時の環境下ではあり得ないとできますが】当時間違いなく起こっていた出来事でしょう。煙幕については追随する情報はありませんが、当時八幡製鉄所に勤務していた人もご存命の方が少なくなってきており【そういう証言があり、証言に基づく事実があった可能性はそれなりにある。】ことを念頭において我々は歴史を見ていかねばならないかと思います。
煙幕や銃でB29撃ち落とそうとした結果、小倉は守れたが長崎に原爆が落ちてしまったため関係者は言えなくなったみたいですね。
コールタールを燃やしたらしいですね
長崎の人たちを慮り、長く秘匿された話として、記事を読んだ事があります。数日前、米軍機から予告ビラが投下され、廃タイヤや重油を燃やして視界不良にしていたと。悲しみしかありませんね。
まさに父親が小倉に居ました。10才だった父は、不発弾の部品を取って、売ったりしていたそうです。もし投下されていたら、確実に父は死んでいて、私もこの世に存在してないと思います。戦争体験者(特に原爆)も少なくなっています。その子供たちである私たち世代が、本気で語り部にならなければ、また遠い将来に原爆が投下されるかもしれません。世界で唯一被爆国である日本が、先頭に立って本気でやらないといけないと思います。
アメリカは、戦争終結のためにやむなくとか言っているが、9日に日本のどこでもいいから絶対に落とす(本当に陸地に落とせないなら最終的には海上でもいいので落とせという命令だった)ということなんだから、アメリカの事情だよ。
先に密約はされていたとはいえ、ソ連の対日参戦が思いのほか早かったからだとも言われていますね。逆にソ連もアメリカの原爆投下に、日本を攻めるのは今しか無いという思惑があったのでしょう。
長崎に落とされた際には土地柄坂道が多くて、ある意味広島の時ほど範囲は広がらなかったのが幸いしてると思います…!
もし小倉に投下されていたら、北九州5市合併は実現していても先の話だったかもしれないし、九州の玄関口として現在は福岡(博多)になっている地域バランスも違っていたかもしれない
8:24 様々な文献がありますが、一般に知られている時間は午前8時15分だと思います。8月6日に平和の鐘がなる時間、黙祷する時間は午前8時15分です。制定されているこの午前8時15分というのを完全に否定できないので、投下時間は午前8時15分にした方が良いと思います。
とても分かりやすかったです。
うちの父が 北九州 小倉 戸畑 出身です 父から 長崎ではなく 本当は 小倉に原爆を 落とす予定だったと聞きました もし原爆が落ちていたら 今はいなかっただろうと 言ってたのを 思い出しました 天候で 落とせなかったと聞きました
いつも分かりやすく、まとまりがあり、整然とした語りがとても素晴らしいです。ゴンさん自身もどんな人生を歩まれたのかまとめた動画見たいです😊
ありがとうございます、自分も波乱万丈の人生でしたが、人生下り坂も楽しいです😊
長崎県民です。幼稚園や小学校に通っていた頃から、絵本を見たり映像を見たりして平和学習を重ねてきました。子どもながら、長崎に原子爆弾が投下されていなければ、今頃どのような街だったのだろうとも考えることがありました。ただ、山に囲まれた長崎だからこそ、威力の割に被害が少なかったという事実も知り、もどかしい思いでいました。幼い頃は、ただただ怖くて酷くて、展示物にも目を背けていましたが、大人になって平和学習をする機会が減った今、改めて平和の有り難みを痛感しました。
長崎に原爆投下されたのは当時九州最大の工場で武蔵を建造した三菱長崎造船所があったから。当日の長崎も雲があり視界不良だったが一瞬晴れ間に市街地が見えたので其処に投下した。場所は大浦天主堂の真上で造船所は無傷だったが関連会社と市民が犠牲となった。
大浦天主堂ではなくて浦上天主堂です。
造船所無傷だったということは投下目標にはなってなかったからですよ。😅
雲☁があって造船所が見えなかったのだ。
@@緒方雄一-x2rそうです
三発目が新潟ではないかということで 新潟県知事は警戒して疎開までさせていたとかしかし実際は 米軍は当初の予定にはあったが その後外した
小倉は神様に守られているってあながち間違ってないと思いました。
八幡製鉄所がタイヤ等燃やして煙幕を張ったとか、芦屋航空基地が広島に新型爆弾が投下された情報を知り得て、B-29を死に物狂いでゼロ戦が追い払った等、聞いた事あったので、その真相かと思い見ましたが残念でした😢
ハイ、タイトルの通りです。残念させましたね。
広島県呉市の出身です海軍工廠があったのに呉が原爆でなく通常爆撃だったのは傾斜地が多い地形だからかもしれませんね呉からもキノコ雲はよく見えたそうです
当時小倉に住んでいた祖父、祖母。赤ちゃんだった父と母。原爆投下が小倉だったら私は生まれていない・・・😢
去年亡くなった叔父が中学生くらいの頃、小倉造兵廠で勤労動員されていたと本人から聞きました。もし小倉に原爆が落とされていたら俺は今ここにいなかったと語っていたのを思い出しました。
小倉に投下されなかったのは単純に天候不順じゃなかったのを最近知ってショックです。代替地の長崎も予定外の場所に投下で浦上天主堂を破壊してしまったのはアメリカもショックだったとか…
私は広島生まれ広島育ちの広島市民です。ですが、私の祖父は小倉市民で、1945年当時も小倉におりました。いま自分が幸せに生きているのが不思議な気持ちです。当時の日本国民に感謝し、毎日を生きようと思います。
祖父が小倉で育った人で、私が幼い頃、夏に祖父母の家に遊びに行くとよくこの話しをしていました。当時は難しい話しで正味理解出来ずいたものの、幾つもの偶然が重なり回避出来た事で、今私がここに居ると思うとすごく考えさせられますね
自分も小倉の叔父、八幡の叔母から耳にタコができるほど空襲の状況を聞かされていました。平和を祈っています😊
オープンのとき見学しました✨八幡西区在籍なのでよく存じ上げてます😢平和が、一番です😮
いまや、新幹線「のぞみ」は、広島、小倉とつなぎ、長崎へと向かおうとしているのは感慨深い事実です。
いえ、佐賀で止まってます
横から失礼いたします。この動画を見て小倉が原爆の標的にされていたこと、免れた結果が広島、そして長崎への投下と言うことを詳細に知ることができました。核兵器が及ぼす人類への悲惨さ、それから平和に向けて立ち上がった皆様を全世界の方々に知って頂き、後世に伝えることが必要ですね。そのためにも多くの方を高速で結べる新幹線が必要かと思います。今は鳥栖~武雄温泉は在来線への乗り換えが必要ですが、いつか広島、小倉、長崎を直通の新幹線で結べる日が来てほしいものですね。
@@吉村卓-f8s在来線の問題を解決しないとですね。国もJRも放おって置けばいずれ佐賀県が折れてくるという、いつもの手で来る腹なのでしょうか。
生まれも育ちも北九州市ですが、今まで行ったことなかったので今度のお休みの日に平和ミュージアムに行ってみようと思います。小学生の頃、毎年8月9日は出校日、映画や映像で戦争の悲惨さを学ぶ平和授業の日でした。…ただ、ウチの小学校はちょっとズレており、8月9日は長崎に原爆が落とされた日と言いながら見せる映画は広島のもの(長崎より先に広島に原爆が落とされたと聞かされるからこれはまだいい)、小倉(造兵廠)が目標だったのに八幡製鉄所が目標だった、と八幡大空襲とごちゃ混ぜになっていたりと、かなり間違った授業をしていましたが。もうすぐ8月9日が来ます。今の時代、平和授業をしている学校があるかどうかはわかりませんが、広島、長崎の原爆のこと、北九州も例外ではなかった(2回も(3回目は小倉予定だった)目標にされていた)こと、伝えていって欲しいと切に願います。
貴重な配信有難う御座います偶然により小倉では無く広島と長崎とが目標地となってしまった事……今私の命がある事……重く感じざるを得ません戦いの無い世界を強く思いますウクライナに一日も早く平穏な日がきますよう
ありがとうございます。世界に平和が来ますように。
婆さんは、長崎市、本河内で、被爆した、17の、時らしい、爆風ガすごくて、吹き飛ばされ、膨大な、ごみが、ふってきたと、いっていました。
動画ありがとうございます20:50 死者数ですが広島の方が長崎より多かったはずですせっかくの良い動画なので気になってコメントいたしました
データは当時の長崎県史、広島市史の数値なんですが、今回は数値発表の経緯を詳しく解説していません、すみません。
確かに!4万ではなく14万の打ち間違いやろね!
@@fm1 広島は当時晴れで死者数もそれで多かったんですよね。長崎は当時雲に覆われていたと思います。それで広島より死者数が少なかったはずです。でもウラン型よりプルトニウム型の方が威力も強く、もし長崎が晴天だったら被害は広島に比じゃなかったとも言われてます。
@@44pipi32長崎の数値は昭和20年12月末までの累計数値です。同じ期間なら広島は死者数14万人(誤差±1万)(推計)、負傷者数は79,130人です。また国立公文書館にある広島と長崎の裁判所の検事が司法省に提出した被害の報告書にはどちらも原爆が投下された日から2~3日後に書かれたものがあり、広島の報告書には死者約1万名、重軽傷14~5万名と書かれ、長崎の報告書には死者3万以上、重軽傷者合わせて5~6万の見込みだが正確な計算は不可能と書かれています。それは不可能ですよね。当時は街が壊滅的な被害にあい、大混乱の中で状況把握までにかなり時間がかかるのは当たり前です。このため死者数や負傷者数は20年12月末までの累計値が用いられることが多いです。被害に関してですが、山に囲まれて平地が少なく、人口も広島より少ない長崎の方が被災者は12月末までの累計だと少なくなります。また当日の長崎は7割ほどが雲に覆われている状態で、雲の切れ間に見えた本来落とす予定の場所からは5〜600mも北に外れた浦上地区にファットマンは投下されました。これは確実に投下するため目視でしか投下できない決まりだったためです。そしてたまたま雲の切れ間から長崎の街が見えたために投下された場所が浦上地区だったのです。こういったことも含め、威力はリトルボーイよりファットマンの方が1.3倍強いとされていますが、広島より被災者数は少なくなり、平地が広く街の中心部に落とした広島の方が被害が大きくなっています。
亡き父が隣町の苅田町出身(長崎で言うと諫早・広島で言う呉・宮島の距離)です。落とされていたら、きのこ雲と被災者を目撃していたと思います。俺の父方の遠縁が八幡大空襲の被災者です。
母は枝光でまさに被災しました。小さい頃よく脱いだ服枕元に置きなさい いつでも逃げられるようにと。母は当時珍しいゴム底の靴(殆どが下駄や草履)でして8・8八幡空襲時にはそのゴムが焦げるほどだったそうです。
この小倉の投下目標とされた造兵廠のスグ近くに我が母の家かが有り暮らしてたそうです。もし小倉に投下されてたら、ほぼ爆心地なので一瞬にしてこの世から消え去ってた事になりますし、そこで母が亡くなって居たら、その後に私がこの世に生を受ける事も無い訳で、ゾッとしてしまいます
祖母が造兵廠に行っていたので、もし小倉に投下されていたらこの動画もなかっただろうし、こうやってコメントすることも出来なかったと思うと不思議な気分です。しかし広島の第二目標だったのは今まで知りませんでした。
北九州市小倉に原爆が落とされる予定だったと聞いた事はありますが、具体的な資料がほとんどない状況の中、この動画を見て改めて知ることが出来ました。数少ない貴重な資料を見ることができ平和・命の大切さを感じました。戦争を経験された方が高齢化により、当時の記憶・風化が懸念される中、後世に伝えていくに欠かせない動画といっても過言ではありません!学校の授業に取り入れても良いレベルです。天候次第ですが、8月9日平和祈念式典に参加予定です。貴重な資料のアップありがとうございます。
ボックスカーは3回初回は姫島から 二回目は120度転換して再度 3回目はさらに120度ほど変換3回目には高射砲(最新式)や日本軍の迎撃機屠龍やなどが迎撃して気密システムを破壊しています抵抗がはげしくなってエンジンの燃料ポンプ不調もあり燃料が心細くなり長崎へ※邂逅できなかった観測機(撮影機)は投下直後に邂逅して阿久根しが別部隊のB29により空爆され黒煙が上がっているところを撮影しています
私も生まれも育ちも北九州です。亡くなった母方の祖母が当時、小倉にいました。まだ、子供でした。もし小倉に原爆が落ちていたら、祖母も家族もこの世に生を受けていなかったと思います。模擬原爆の被害を小倉は受けていましたね。もう戦争は懲り懲りですね。ちなみに小倉に原爆投下されていたら、山口の下関まで被害が及んでいた可能性があったと言われてますね。
20:50の広島の死者数は1945年末までで14万人が一般的ですが、別の資料では約9万人ともありました。当日のみにおいても広島のほうが被害は大きかったので、初期数値でも長崎のほうが大きいといったことはないと思われます。爆弾の威力は長崎のプルトニウム型の方がありましたが、平坦ではない、中心部とずれた等、いくつかの要素によって被害は広島より小さかったといろいろな資料によって記されていますね。
私は小倉に原爆が落ちていたら生まれていなかった人間です。現政府が軍事産業を推し進めていることに恐怖を感じます。ゴンちゃんの言う通り、たくさんの人の努力があってある平和なので、このまま継承していけることを願っています。
平和が永遠に続きますように🙌
神様に守られているというのはある意味言い得て妙なのかも。2回も目標にされたのに1回目は第一目標の天候が良くて投下を免れ、2回目は数十分のディレイにより投下できなくなって標的から外れたと考えれば、これこそ奇跡としか言いようがない気もする。
当時祖母が小倉に住んでいて、当日も少数編成のB29を見たと教えてくれました。しばらくぐるぐるしていたそうです。特段対空砲火による迎撃もなかったと言っていました。学校は空襲警報も出て、早退になったそうです。小倉城近くに住んでいて、陸軍に土地を徴発されたので、軍に対してイメージ良くないみたいです。身内も多く戦死しておりますので。貴重な考察ありがとうございました。
私の父は当時北九州に居たそうです 「もし小倉に原爆が落ちてたらお前は生まれてなかったかも」と言われた事があります そう思うと不思議な気持ちになりますね
風船爆弾の展示があるのは、貴重です、
そうですね唯一アメリカ本土を爆撃した爆弾です
本当に、痛ましいです。そして、いつの時代も犠牲になるのは市民ということ。自分は戦争を経験していませんが決して、戦争が、この国であった事、尊い命が犠牲になったことを忘れてはならないし、風化させてはいけない。本来なら、修学旅行でも広島、長崎、沖縄に赴き戦争というものが、どう言ったものか認識して欲しい。沖縄戦の日、広島、長崎原爆の日、敗戦の日には、全国民が黙祷すべきだと思う。戦争という悲劇を、繰り返さないために。
米軍が京都を投下地から外したのは、前に京都に訪れていた米軍の上官(名前は忘れましたが)が京都には歴史的建造物の多い事も知っていたので外す様に進言したと記憶にあります。
という、美談になっていますが、真相は、神社仏閣だらけで、原爆落としても効果が限定される(市民の犠牲が少ない)ので、落とすのヤメた。という事ですよ。
それは大した理由では無いのでデマです。京都は矮小な盆地にあるので原爆の効果確認に不向きであることが最大理由。
長岡市も模擬爆弾が投下されました。8月1日の空襲で甚大な被害がありました。
北九州市民です。小学校の頃、学校で教えられた通りでした。
若松はどうなっていたのか、父の系譜はどうなっていたのか…考えさせられます
8/8の空襲の流れ弾でひさいしています。高塔山の忠霊塔にいくと被災した五重塔が鎮座しています
終戦がもう少し遅かったら3発目は小倉だっただろうね
亡祖父母が当時、小倉で働いていました。祖母は小倉に原爆が落とされるという噂を聞いていましたが、逃げるという考えはなく、8/9もいつも通り出勤したそうです。もし小倉に落とされていたら…私の母も、私も、私の子ども達も全員生まれていません。今ある自分の存在は当たり前ではないことを忘れてはいけませんね。
うちの爺さんが小倉の人で当時は中国で暗号解析の軍務についていて、広島と長崎に原爆が落とされた事を知ったそうです。当日の小倉には小学生になる前の親父がおり、もし落とされていたら考えてしまいます。
長崎市出身です。父と祖父と祖母と叔父叔母がいましたが皆助かりました。煙幕の話は知ってます。でもこれは小倉が自衛したのであり、仕方ないです。どこでも方法有効と分かれば、やったでしょう。残念なはなしですが、日本が原爆を先に持ってたらやられて無いと思います。
奇跡の連続で今の私が生きているんだな…
母の親が当時小倉で働いていて門司に住んでいたので、ゾッとします…
母親が小倉北区木町出身なので、投下されていたら今の私は存在してません!そんな私は現在広島市に住んでおり、妻は被爆2世なんです。何の因果なのでしょうか、、、
「清水」は『しみず』ではなく小倉の場合『きよみず』と読みます。
10年前に死んだ私の祖父は当時戸畑の高射砲部隊にいました。当日は上官がゲンバクゲンバクと騒いでいて何のこっちゃと思ってたそうです。
小倉が投下予定であったと聞いた事がありますあんな原爆を落としむごたらしい事をしたのわ今も知るところで2度と合ってわならないことそして平和について家族で話し合う8月でありたいものです
有難うございます
俺は世田谷出身だけどルーツが福岡と熊本だから身近に感じる、福岡は小倉が近いし熊本は長崎が近いから、
歴史的建造物や遺産が数多く存在する京都も最初は候補地に入っていたことに驚き!結果的には候補地からはずれたようですが。日本を占領地にした際に文化的遺産が何もない状態は避けたいため有名な古都、京都と奈良は大規模な空襲にさらすことはしなかったと聞いたことがある。当時から日本の研究家の人たちが口を揃えて古都の遺物は歴史的にも重要なので攻撃を止めたんだそうです。
長崎の次に京都 東京でした
小学校の頃それ授業で知って、祖父がそこら辺に幼少期住んでたんやけど、同クラにもそういう人沢山いて家族が住んでてって発表する時みんな生きてて良かったってことは伝えたいけど、結果的にそれで落とされてしまった場所のことを考えたら…って言葉濁しながら伝えて先生も意図を汲み取ってくれてたな…。
詳細なレポートありがとうございます。大変参考になりました。原爆投下については未だ公表されていない謎の部分が多すぎる。広島原爆に関しては、エノラゲイ号の正確な飛行ルートさえ米国は公表していません。また、1945年7月16日にニューメキシコ州(アラモゴード)で実験したのはプルトニウム爆弾(長崎原爆と同種)のみで、広島原爆のウラン爆弾の実験は未実施(つまり、ぶっつけ本番)で投下されたことになる。原爆開発のために天文学的な予算と大量の人員をつぎ込んだマンハッタン計画。その成果を見届けるための初めての原爆投下を、米国政府や軍が「ぶっつけ本番」でやるものなのか?これには多くの人が違和感を感じるはずです。また、マンハッタン計画の天文学的な資金源と国際金融資本との関わりも何ら解明されないままです。私には、最近のワク〇〇騒動と共通のドス黒い部分があるように思えてならない。米国の戦争犯罪、残虐非道な原爆人体実験によって亡くなった多くの罪なき人々を、本当の意味で慰霊するためには事実の解明が絶対に必要です。
以前、広島に小数で飛んで来て全滅したが、あったので注意と全国にふれが、出ていたので、9日に小倉に怪しい飛行機が飛んで来てるで、コールタールを燃やしたと言う人が、出た番組を視ました
小倉に落ちていたら、父は生きておらず私は生まれなかった。
もしものことがあったら、北九州市は存在せず、小倉市のままだったろうな...
北九州市の都市部は頻繁に空襲があったらしいけど、農村部は全然空襲がなかったらしい。うちのばあちゃんは一度も防空壕に入ったことないって言ってたので。
下関市民なだけに、小倉に落ちていたらと考えると、、
被災状況の数値・範囲は入手した資料を元に解説しています。時間経過により、現状知らされている数値とは異なることをご理解ください。
20:58 集計の時期などによって異なることはわかりますし、一家全滅も多くありますから誤差があるのも理解できますが、広島の死者が4万ということはないかと思います。1945年末までに14万の誤りでは?わたしの認識では時期を変えても広島は長崎の倍といったところです。
誤りではありません。原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません、年末には推計で14万だろうで、数字は被爆直後の広島市史のデータです。
@@fm1 早速の返信ありがとうございます。被爆後2週間か1945年8月末までの集計というのを過去に見たことがあったかと思いますが、4万という数字は初耳です。医師の診断なく荼毘に付された方が多かったので、医師の死亡診断が出た方なのでしょうか。広島の場合、市役所も爆心地に近くて相当亡くなっているようですから、相当の混乱の中での数字といえるかと思います。機会があれば広島市史見てみます。
さすがにこの被害状況は誤解を招くのでは?
コメント欄ではなく動画内に注釈を入れるべきではないかと思いました。
@@4tissuesHokkaidoJPN 広島の当日即死者が8万人。長崎は当日即死者が4万人規模。4万人という数値は長崎の資料では見たことがあるけど、広島の資料では見たことが無いですね。
母方が小倉に住まいしていたので、原爆が落ちていたら無事では済まなかったでしょう。偶然が重なったおかげで今があると思うと、胸が苦しくなります。
自分も小倉の叔父から、原爆投下の話をよく聞かされていました。お気持ちに同感です。
このコメント欄見てたら、これのおかげで生まれてこれたって人が大勢いる。広島と長崎にも、もし原爆がなかったら生まれた命がこれほどあったんだと思うと、原爆の犠牲者は50万人どころじゃないって恥ずかしながら初めて気がついた。
私は小倉生まれ小倉育ちですが小学生の頃、夏休みの中でも8月9日は登校日で平和授業がありました。
教室でビデオを見ながら先生から本当は小倉に原爆が落とされるはずだったと小さい頃から聞かされてきました。
紙一重で歴史は大きく変わる…
小倉に住む者として絶対に忘れてはならないことだと思っています。
原爆では、一家もろとも犠牲になり、そこでその一族が途絶える…ということはたくさんあったとおもう。
だから、小倉に投下された場合の被害距離を見て、「いま、自分はいなかったんだろうな」「仲良くしている友達や、近所のばあちゃんたちも、いなかったかもしれないんだよな」と悲しくなった。
同時に、もし小倉に投下されていたら、あの日なくなってしまった方たちが、今も幸せに広島、長崎で暮らしていたのだろうかとおもい、更に悲しくなった。
とてもわかりやすくて、考えさせられます。勉強になりました。ありがとうございます。
95歳になる父が当時、八幡製鉄所で敵機来襲の報を受けて、みんなで煙幕をしたと話してます。製鉄所周囲の煙幕だけで小倉が守れたとは思いませんが、避難しないで、製鉄所を守るために煙幕行為を行った事は本当だと思います。
広島に落とされた新型爆弾(原爆)の情報で煙幕を張って免れたといっても過言ではない。
私も昔、その「八幡製鐵所の煙幕」の話、聞いたことがあります。
小倉に原爆が投下されていたら、親父が被爆し、私は生まれてこなかったと思います。
米軍の機密保持のため、8月8日の八幡空襲と原爆投下は、全く関係なしに行われた。彼らは、小倉の陸軍工廠と八幡製鉄が、こんなに近いなんて知らなかった。これが、真実。
うちの爺さんも生前八幡製鉄所勤務してました。
米国では、8年くらい前に、新聞にのった。日本では、なぜかマスコミは、この事実を
報道しない。八幡製鉄、現 日本製鉄に対する遠慮?
私も北九州市で生まれ育ち、現在も北九州市に住んでいます。とても分かりやすい動画、ありがとうございます。心から感銘を受けました。
話の流れ、裏話の解説、とても素晴らしく、知らなかった事実を知ることができました。
そして何と言っても、ゴンちゃんさんの語りが心に沁みました。ありがとうございました。
西鉄北九州線が被曝路面電車になったら果たして
励みになるコメントありがとうございます。日射病に注意しながら町歩きを頑張ります😊
長崎市内の者です・・・
原爆で曾祖父、曾祖母ちゃん、叔父さん達、皆亡くなりました。。
小倉の代わりに長崎が・・と言うことも考えられますが。
押し付け合うのもよくありませんね。。
運命だったのでしょうね。。。
時の、国が暴走し戦争を続けたから、二発目を撃ち込まれた。
広島だけで降伏していれば、違った未来もあったかもしれない。戦争の続行を指示したのもその時の日本が悪い。だから、現行の総理に責任とってもらいたい。
小倉が重要な投下目標であったということがとてもよくわかりました。ありがとうございます。
お役に立ててよかったです😊
他の方コメントされてますが北九州市は8/9が登校日で原爆投下時刻に黙祷し平和授業がありました。
就職して他府県に赴任して初めて8/9が登校日ではないと知り平和授業も無いことを知りました。
小倉が本来の予定だった事は、ある程度理解しておりましたが、今回のように詳しく教えて頂き、とても貴重な内容でした。子供の頃行った、長崎の原爆資料館での悲惨な状況を思い出しました。本当にありがとうございます。
雲が多かっため小倉ではなく、長崎に原爆が落とされたことは知ってました。が、福岡県民として、とても他人事ではないです。亡き父は長崎出身、8月9日は小倉にいたそうです。いくつかの偶然が重ならなければ、今私はここにいなかったかもしれません。核廃絶を願い、仲間たちと千羽鶴を折り、広島に寄贈しました。今も折り続け長崎に寄贈する予定です。
当日は、八幡製鉄所でコークスを焚いて、かなり視界を悪くさせてました。
前日の空襲の煙も、理由の一つでした。
凄いのは、八幡製鉄所が48時間で操業復旧させた事も凄い。
私は、小倉北区産まれ、八幡東区育ちで、現在は広島に住んでます。
母は枝光でしたから自分うまれてないですね。
※小倉と彦島は3kmないので下関も直撃で壊滅してたと思います
※八幡は前日の空襲で壊滅してるので原爆による建物被害は少なかったでしょうね
ごんちゃんさんは触れていませんけども
長崎、広島に共通することは無抵抗だったということ。
長崎は小倉 廣島は呉だというので空襲警報が解除されて迎撃が間に合わなかったし
北九州は抵抗し手こずらせたと言う事実があった。
これは大事だと思います。無抵抗ならやられるだけということ。
広島県以外の、中国地方の県に住んでおります。
たいへん分かりやすい解説で、爆心地からの距離などいちいち、自分の居住地に当てはめて考えてみました。
爆風がそれほどの距離を、一気に吹き抜けるということ。
改めて、背筋が凍る心地です。
九州地方に縁もゆかりもない身ですが、平和を願う気持ちにお国柄もなにもないと思い、ひと言コメントさせて戴きました。
小倉に原爆が投下されていたら、親父が被爆し、私は生まれてこなかったと思うと、ゾッとするし、代わりに犠牲となった長崎を思うと、切なくなります。
貴重な動画を有難うございました。
プーチンはウクライナに核をちらつかせとる。
言語道断の暴挙❗
プーチンにこの映像を見せたれ❗
私の場合、父は疎開していたものの家族は三萩野付近に住んでいたそうで投下されていたら父は天涯孤独となって人生が変わっただろうから違う意味で私は生まれてないですね。
詳しいお話とても有難く感じます。
初めて知った事実、とても勉強になりました。
両親の祖父母ともに広島出身であり、またどちらも若松に住んでおりました。祖父母の運の良さに驚きますが、替わりに犠牲になった広島、長崎の方々には言葉もありません…
今ある自分の命に感謝して生きていかないとですね。
長々と失礼いたしました。
私は茨城の出身だけど親戚が小倉の枝光にいます。私の祖父は7人兄弟でしたけど兄にあたる人は枝光。もう一人の兄は広島市内にいました。もし小倉に原爆が落ちていたら祖父の二人の兄が悲惨なことになっていました。
小倉に原爆が落ちなかったのは 「製鉄所で練炭を大量に燃やして上空を黒煙にして小倉の街を守った」という話を聞いたことがあります。
故郷茨城には 「模擬原爆」と言われるパンプキン爆弾が日立市と北茨城市に落とされています。
枝光は小倉ではなく八幡です。現在は八幡東区、です。
代ゼミの地理の先生の話を思い出しました。8月9日小倉にいて雲の隙間からちらちら見えるB29をずっと目で追っていたそうです。そうこうしてるうちに飛び去ったと。。長崎に足を向けて寝ることはできん。という言葉が印象に残っています。
すごく勉強になりました。
ということは原子爆弾を格納した
B29が小倉上空に来ていたのですね。 私はのうのうと小倉で生活してます。小倉に投下されていれば
悲しい歴史の街になっていただろうと…やはり当時の長崎市民の皆様に世代は違いますが申し訳ない
気持ちがする8月9日です。
運が良かったと言えばそれまで
ですが私はこれまで天候だけで
回避できたのだと思ってました。
当時の広島の天候が悪かったら
小倉が世界初の被爆地区となって
いたらと思うと…
小倉市民全員に知ってもらいたい
です。 ありがとうございました。
小倉在住です。感動しました。
元八幡製鉄所従業員がコールタールを燃やして煙幕を張ったとの証言があります。これも視界不良の一因かもしれません。
証言された方は長崎に原爆が投下されたことを悔やんでいました。
複雑な心境です。
私も当然それを解説する動画だと思って見ましたが、小倉工廠が狙わてる事は後に知る事になるって解説だけで一蹴したのに驚きましたね。
勇気を出して証言してくれた方々がいるのにとても残念です。
新日鉄退職者に聞きました。
北九州で軍関係の仕事をしていた祖母に聞いた話です。
小倉が原爆投下の目標となっていることは、祖母たちは聞かされていたそうで、北九州の各地(小倉や八幡など)で、とにかく燃えるものは何でもかき集めて燃やしたそうです。
家に使われていた木材や着物などの貴重な物までも必死でかき集めたのだと聞きました。そこまで死に物狂いだったのだと。
この話を聞いた当時、私はまだ子どもだったのですが、それまでも広島や長崎のことを考えると悲しい気持ちになっていましたが、この話を聞いてからは「申し訳ない」とも思うようになりました。
(なんだか自分の身代わりにしてしまったような気がしているのです。。祖母が戦時中のことを話したのはこのときの話が最初で最後でした。
もちろん悲しい記憶ばかりなので話したくないのは当然だと思いますが、祖母も申し訳なさを抱いていたのではないかと勝手に推測しています。)
原爆投下を避けるために北九市民(のうちの一部かもしれませんが)が『雲を作るよう行動した』という話は、学校では習いませんでしたしネットでも(八幡製鉄所がガンガン稼働させていたというのはネットにものっているかなと思いますが、その他の北九州各地でも動いていた人がいるというのは)見つけられませんでしたが、こんなこともあったのだということを知ってほしくてコメントさせていただきました。
原爆投下の標的となっている都市には8月7日着で原爆対策マニュアルが配布されています。小倉市は8月7日に原爆対策マニュアルを受け取っていたため、8月8日には対空防備を整えてB-29を迎え撃つ体制が構築されていました。貴方の祖母が原爆対策に駆り出されたのは8月8日の出来事だと思われます。飛ばせる戦闘機をありったけかき集めてB-29フォックスカーを迎え撃ちました。一方で長崎市には8月8日午後8時に原爆対策マニュアルが配布されました。8月9日、午前11時より長崎市長や警察関係者らが防空壕の中で原爆対策会議を始めていました。長崎市長がまさに原爆対策会議を始めようとした瞬間にファットマンが長崎上空で爆発しました。8月6日の広島から8月9日の長崎まで、この3日間の日本国内の動きは詳細に記録が残っているので調べてみると考える切っ掛けになりますよ。
北九州市民として大変興味深い内容の動画でした。
もし北九州市に原爆が投下されていたらどうなっていたか…と戦慄が走ります。
わかりやすい解説をありがとうございました!
確実に言えることは今ここに書き込みできていないと言うことです。
自分にかぎりいえることは自分が生まれてなかったということです。
小倉から半径3kmは焼け野原ですから中央体育館あたりまでは壊滅。
下関や門司も壊滅していたでしょう。
北九州民です。
動画ありがとうございます。観ていて涙がとまりません今私達が生まれて送っている人生にほんとに感謝しなければと思いました。
アメリカは今でも原爆投下は早く戦争を終わらせこれ以上の被害者を出さない為にやった事と言ってますが、その頃の日本はもぉ戦える状況じゃないのはアメリカも分かっていたのに投下したので許せない事です。
本当の利用は、ウラン型原爆とプルトリウム型原爆を使い
都市の被害状況確認と人体実験が目的でした。
戦える力がないのに、御前会議で本土決戦賛成と反対がどうすうになるの?アメリカの軍人なら、味方1人を救うために敵を数万焼き殺すのもしかたないのでは?
アラフィフオヤジですが、もし小倉に落とされていたら祖父母が確実に死んでいたので自分も生まれてない。
小さい頃から毎年8月は感慨深くなる。
今生きていることへの感謝。
私も全く同じです。
今年で54歳です。日々感謝です。
私もです。
私の祖父が長崎市出身で、あの地獄を生き抜いてくれたから今私が生きているんだとこの時期になると特に思います。
もう亡くなってしまったので、当時の話を聞けなかったのが心残りです。
聞いたところで話すのを嫌がったでしょうが…
祖父が字を綺麗に書けると言う理由で久留米連隊から南方戦線には招集されず、この小倉造兵廠へ。蓄電池の担当だったと聞いております。あの日も朝から暑く作業開始していたと言います。爆撃機のエンジン音が聞こえて地下道に避難。この地下道は頑丈で今でも残っておりライフラインが通っているそうです。愛宕の北九州ダイハツ本社近くまで秘密の抜道もあるみたいですが…確かに防空壕はたくさん残っていますね。
原爆の話になるとよく聞く『小倉』、そこが福岡県のどこで何があるのかよく分かっていませんでしたがこの動画を見て理解が深まりました。僕は新潟出身ですが、祖父は戦時中呉にいて、原爆爆発直後の広島へ救援に行って被爆したそうです。
昭和20年8月9日
当時、私の祖父母は小倉城に程近いところにすんでおりました。幼き日の私の母も一緒でした。
もし小倉に原爆が投下されていたら、私は今この世には存在しておらず、この動画に巡り会うことも無かったと思います。
動画の中にもありましたように広島と長崎が小倉の身代わりになったことについて手放しで喜ぶことはできないとおっしゃっていました。本当にその通りだと思います。それには多くの尊い人命が失われすぎました…
そして、同じ日に長崎では島原半島から今は亡き、幼き日の父が長崎に投下された原爆のキノコ雲を見ていたと生前に聞いたことがありました。
今回この動画を拝見して、改めて人命の尊さ、平和の尊さを実感いたしました。
この動画に出会えたことに感謝します。ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございます。自分も当時の事を叔母からよく聞かされました。
私も福岡出身ながら知り得ない歴史の深掘りに感謝です。有難う御座います。暑い日が続きます。ご自愛ください。今後も期待しています。
ありがとうございます。ハイ水筒ぶら下げて町歩きを頑張ります😊
当時の長崎市長は
【広島がやられた。
次は必ず3日後に長崎に来る】
と言い会議したそうです
そして
原爆落ちる前に
急いで市民に知らせて
市民を移動させてる最中に原爆を
落とされました😢
なぜこの様なことがわかったのか
修学旅行の時に詳しく
しおりに書いてたからです
今もそのしおりを持ってます
小倉にファットマンを投下出来なかった理由は前日に八幡大空襲の煙が小倉市上空に流れていて視認出来なかったのと八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やして煙幕を作ったのを聞いた事があります。もし投下されていたら今の北九州一帯どころか対岸の山口県の下関市まで被害が及んでいただろうと言われてます。ただその代わりに長崎市に投下され壊滅的な被害を受けましたが。
8月6日の広島市のデータをまとめた原爆対策マニュアルが8月7日に小倉市に配布されています。原爆投下機の前に偵察を兼ねた気象観測機が飛来することが記載されており、気象観測機が飛来したときは高射砲を発射して上空に煙幕を作れとの指示が政府から出ていました。小倉市が原爆投下の標的になっていることは日本政府も事前に想定しており、標的になるであろう各都市には8月7日着で原爆対策マニュアルが配布されています。小倉市は近隣から飛ばせる戦闘機をかき集めて、B-29フォックスカーの飛来を確認すると、ありったけの戦闘機を飛ばして迎撃しています。1時間以上にわたるドッグファイトの末にフォックスカーは原爆投下を諦めました。原爆には使用のタイムリミットが設定されており、組み立てから4時間以内に投下できなかった場合は海上にて投棄することが命じられています。そのため、小倉市を離脱したB-29の3機編隊は太平洋側へ抜けようと長崎の方向に飛び去って行きました。最悪なことに、8月9日の長崎上空は快晴。海上に投棄するぐらいなら長崎に落としてしまえ、とB-29パイロットたちは名声を得るために狙いを定めることなくファットマンを投下しています。
ゴンちゃんの語り声がとても心地よく、そして暖かく、故郷福岡を愛する気持ちが伝わってきます。
サムネも動画も、大変興味をそそられ、質の高いものだと感じます。
ファンになりました☆
励みになるコメントありがとうございます。台本作り始めたのが今年の2月ごろで、あーでもないこうでもないと、やっとこ完成しました。楽しんで頂き嬉しいです😊
当日父親が小倉で働いていました
もし小倉が被爆していたら今の自分は無かったと思います
貴重なお話しありがとうございました
僕は、長崎出身です。
小倉の上空が晴れてたら.......
とかは、思いません。
誰かしらが犠牲になってたのですから。
だから、核兵器を廃絶させなくては、なりません。
もう長崎を世界で最後の被爆地として欲しいてす。
欲しいでなく、そうしなければなりません。
私は広島で産まれました。5歳の時までしかいませんでしたが、小さいながらに平和公園や原爆ドームに行った記憶は残ってます。
本当は小倉が一番のターゲットになっていたという事実もまた、決して風化させてはいけないことです。1日も早く「核なき世界」が実現することを強く願います。
八幡製鉄所が爆撃回避の為、兼ねて準備していた真っ黒な煙幕をはった為に目標を 識別出来なかったと云われます。
それはデマっぽいな。
@@NomuraIsamuデマではなく、煙幕との証言が新聞で取り上げられた経緯があります。
つい先日小倉の平和のまちミュージアムに伺いましたが、たしかに投下目標日の8月9日の前日は大空襲が酷かったようですね。しかし、戦後何十年も経過して証言により当時の様子が克明に知らされることもあり、証言を決してデマとして切り取ってはいけないと思います。当時は厳しい情報統制、物資人の往来も厳しい状況で、口にしただけで「非国民」扱いされることはザラにあったでしょうし、そこに人情が入り込むことでなかなか言えなくもなりますからね。
煙幕の件では当時の新聞記事を読むと長崎に申し訳なく言えなかったとありました。
所変わって大阪でも大空襲時に真夜中地下鉄が梅田⇔天王寺間で走行しており、当時の国家総動員令ならびに厳しい情報統制下では小出しになって出てくるだけです。こちらも地下鉄側、住民側双方の「夜中に走っていた。」という証言があるので、【当時の環境下ではあり得ないとできますが】当時間違いなく起こっていた出来事でしょう。
煙幕については追随する情報はありませんが、当時八幡製鉄所に勤務していた人もご存命の方が少なくなってきており【そういう証言があり、証言に基づく事実があった可能性はそれなりにある。】ことを念頭において我々は歴史を見ていかねばならないかと思います。
煙幕や銃でB29撃ち落とそうとした結果、小倉は守れたが長崎に原爆が落ちてしまったため関係者は言えなくなったみたいですね。
コールタールを燃やしたらしいですね
長崎の人たちを慮り、長く秘匿された話として、記事を読んだ事があります。
数日前、米軍機から予告ビラが投下され、廃タイヤや重油を燃やして視界不良にしていたと。
悲しみしかありませんね。
まさに父親が小倉に居ました。
10才だった父は、不発弾の部品を取って、売ったりしていたそうです。
もし投下されていたら、確実に父は死んでいて、私もこの世に存在してないと思います。
戦争体験者(特に原爆)も少なくなっています。その子供たちである私たち世代が、本気で語り部にならなければ、また遠い将来に原爆が投下されるかもしれません。
世界で唯一被爆国である日本が、先頭に立って本気でやらないといけないと思います。
アメリカは、戦争終結のためにやむなくとか言っているが、9日に日本のどこでもいいから絶対に落とす(本当に陸地に落とせないなら最終的には海上でもいいので落とせという命令だった)ということなんだから、アメリカの事情だよ。
先に密約はされていたとはいえ、ソ連の対日参戦が思いのほか早かったからだとも言われていますね。逆にソ連もアメリカの原爆投下に、日本を攻めるのは今しか無いという思惑があったのでしょう。
長崎に落とされた際には土地柄坂道が多くて、ある意味広島の時ほど範囲は広がらなかったのが幸いしてると思います…!
もし小倉に投下されていたら、北九州5市合併は実現していても先の話だったかもしれないし、九州の玄関口として現在は福岡(博多)になっている地域バランスも違っていたかもしれない
8:24 様々な文献がありますが、一般に知られている時間は午前8時15分だと思います。8月6日に平和の鐘がなる時間、黙祷する時間は午前8時15分です。制定されているこの午前8時15分というのを完全に否定できないので、投下時間は午前8時15分にした方が良いと思います。
とても分かりやすかったです。
うちの父が 北九州 小倉 戸畑 出身です 父から 長崎ではなく 本当は 小倉に原爆を 落とす予定だったと聞きました もし原爆が落ちていたら 今はいなかっただろうと 言ってたのを 思い出しました 天候で 落とせなかったと聞きました
いつも分かりやすく、まとまりがあり、整然とした語りがとても素晴らしいです。ゴンさん自身もどんな人生を歩まれたのかまとめた動画見たいです😊
ありがとうございます、自分も波乱万丈の人生でしたが、人生下り坂も楽しいです😊
長崎県民です。幼稚園や小学校に通っていた頃から、絵本を見たり映像を見たりして平和学習を重ねてきました。子どもながら、長崎に原子爆弾が投下されていなければ、今頃どのような街だったのだろうとも考えることがありました。ただ、山に囲まれた長崎だからこそ、威力の割に被害が少なかったという事実も知り、もどかしい思いでいました。
幼い頃は、ただただ怖くて酷くて、展示物にも目を背けていましたが、大人になって平和学習をする機会が減った今、改めて平和の有り難みを痛感しました。
長崎に原爆投下されたのは当時九州最大の工場で武蔵を建造した三菱長崎造船所があったから。当日の長崎も雲があり視界不良だったが一瞬晴れ間に市街地が見えたので其処に投下した。場所は大浦天主堂の真上で造船所は無傷だったが関連会社と市民が犠牲となった。
大浦天主堂ではなくて浦上天主堂です。
造船所無傷だったということは投下目標にはなってなかったからですよ。😅
雲☁があって造船所が見えなかったのだ。
@@緒方雄一-x2rそうです
三発目が新潟ではないかということで 新潟県知事は警戒して疎開までさせていたとか
しかし実際は 米軍は当初の予定にはあったが その後外した
小倉は神様に守られているってあながち間違ってないと思いました。
八幡製鉄所がタイヤ等燃やして煙幕を張ったとか、芦屋航空基地が広島に新型爆弾が投下された情報を知り得て、B-29を死に物狂いでゼロ戦が追い払った等、聞いた事あったので、その真相かと思い見ましたが残念でした😢
ハイ、タイトルの通りです。残念させましたね。
広島県呉市の出身です
海軍工廠があったのに呉が原爆でなく通常爆撃だったのは傾斜地が多い地形だからかもしれませんね
呉からもキノコ雲はよく見えたそうです
当時小倉に住んでいた祖父、祖母。赤ちゃんだった父と母。
原爆投下が小倉だったら私は生まれていない・・・😢
去年亡くなった叔父が中学生くらいの頃、小倉造兵廠で勤労動員されていたと本人から聞きました。
もし小倉に原爆が落とされていたら俺は今ここにいなかったと語っていたのを思い出しました。
小倉に投下されなかったのは単純に天候不順じゃなかったのを最近知ってショックです。代替地の長崎も予定外の場所に投下で浦上天主堂を破壊してしまったのはアメリカもショックだったとか…
私は広島生まれ広島育ちの広島市民です。
ですが、私の祖父は小倉市民で、1945年当時も小倉におりました。
いま自分が幸せに生きているのが不思議な気持ちです。
当時の日本国民に感謝し、毎日を生きようと思います。
祖父が小倉で育った人で、私が幼い頃、夏に祖父母の家に遊びに行くとよくこの話しをしていました。
当時は難しい話しで正味理解出来ずいたものの、幾つもの偶然が重なり回避出来た事で、今私がここに居ると思うとすごく考えさせられますね
自分も小倉の叔父、八幡の叔母から耳にタコができるほど空襲の状況を聞かされていました。平和を祈っています😊
オープンのとき見学しました✨八幡西区在籍なのでよく存じ上げてます😢平和が、一番です😮
いまや、新幹線「のぞみ」は、広島、小倉とつなぎ、長崎へと向かおうとしているのは感慨深い事実です。
いえ、佐賀で止まってます
横から失礼いたします。
この動画を見て小倉が原爆の標的にされていたこと、免れた結果が広島、そして長崎への投下と言うことを詳細に知ることができました。
核兵器が及ぼす人類への悲惨さ、それから平和に向けて立ち上がった皆様を全世界の方々に知って頂き、後世に伝えることが必要ですね。
そのためにも多くの方を高速で結べる新幹線が必要かと思います。
今は鳥栖~武雄温泉は在来線への乗り換えが必要ですが、いつか広島、小倉、長崎を直通の新幹線で結べる日が来てほしいものですね。
@@吉村卓-f8s
在来線の問題を解決しないとですね。国もJRも放おって置けばいずれ佐賀県が折れてくるという、いつもの手で来る腹なのでしょうか。
生まれも育ちも北九州市ですが、今まで行ったことなかったので今度のお休みの日に平和ミュージアムに行ってみようと思います。
小学生の頃、毎年8月9日は出校日、映画や映像で戦争の悲惨さを学ぶ平和授業の日でした。…ただ、ウチの小学校はちょっとズレており、8月9日は長崎に原爆が落とされた日と言いながら見せる映画は広島のもの(長崎より先に広島に原爆が落とされたと聞かされるからこれはまだいい)、小倉(造兵廠)が目標だったのに八幡製鉄所が目標だった、と八幡大空襲とごちゃ混ぜになっていたりと、かなり間違った授業をしていましたが。
もうすぐ8月9日が来ます。今の時代、平和授業をしている学校があるかどうかはわかりませんが、広島、長崎の原爆のこと、北九州も例外ではなかった(2回も(3回目は小倉予定だった)目標にされていた)こと、伝えていって欲しいと切に願います。
貴重な配信有難う御座います
偶然により小倉では無く広島と長崎とが目標地となってしまった事……今私の命がある事……
重く感じざるを得ません
戦いの無い世界を強く思います
ウクライナに一日も早く平穏な日がきますよう
ありがとうございます。世界に平和が来ますように。
婆さんは、長崎市、本河内で、被爆した、17の、時らしい、爆風ガすごくて、吹き飛ばされ、膨大な、ごみが、ふってきたと、いっていました。
動画ありがとうございます
20:50 死者数ですが広島の方が長崎より多かったはずです
せっかくの良い動画なので気になってコメントいたしました
データは当時の長崎県史、広島市史の数値なんですが、今回は数値発表の経緯を詳しく解説していません、すみません。
確かに!4万ではなく14万の打ち間違いやろね!
@@fm1 広島は当時晴れで死者数もそれで多かったんですよね。長崎は当時雲に覆われていたと思います。それで広島より死者数が少なかったはずです。でもウラン型よりプルトニウム型の方が威力も強く、もし長崎が晴天だったら被害は広島に比じゃなかったとも言われてます。
@@44pipi32長崎の数値は昭和20年12月末までの累計数値です。同じ期間なら広島は死者数14万人(誤差±1万)(推計)、負傷者数は79,130人です。また国立公文書館にある広島と長崎の裁判所の検事が司法省に提出した被害の報告書にはどちらも原爆が投下された日から2~3日後に書かれたものがあり、広島の報告書には死者約1万名、重軽傷14~5万名と書かれ、長崎の報告書には死者3万以上、重軽傷者合わせて5~6万の見込みだが正確な計算は不可能と書かれています。それは不可能ですよね。当時は街が壊滅的な被害にあい、大混乱の中で状況把握までにかなり時間がかかるのは当たり前です。このため死者数や負傷者数は20年12月末までの累計値が用いられることが多いです。
被害に関してですが、山に囲まれて平地が少なく、人口も広島より少ない長崎の方が被災者は12月末までの累計だと少なくなります。また当日の長崎は7割ほどが雲に覆われている状態で、雲の切れ間に見えた本来落とす予定の場所からは5〜600mも北に外れた浦上地区にファットマンは投下されました。これは確実に投下するため目視でしか投下できない決まりだったためです。そしてたまたま雲の切れ間から長崎の街が見えたために投下された場所が浦上地区だったのです。こういったことも含め、威力はリトルボーイよりファットマンの方が1.3倍強いとされていますが、広島より被災者数は少なくなり、平地が広く街の中心部に落とした広島の方が被害が大きくなっています。
亡き父が隣町の苅田町出身(長崎で言うと諫早・広島で言う呉・宮島の距離)です。落とされていたら、きのこ雲と被災者を目撃していたと思います。俺の父方の遠縁が八幡大空襲の被災者です。
母は枝光でまさに被災しました。小さい頃よく
脱いだ服枕元に置きなさい いつでも逃げられるようにと。
母は当時珍しいゴム底の靴(殆どが下駄や草履)でして
8・8八幡空襲時にはそのゴムが焦げるほどだったそうです。
この小倉の投下目標とされた造兵廠のスグ近くに我が母の家かが有り暮らしてたそうです。
もし小倉に投下されてたら、ほぼ爆心地なので一瞬にしてこの世から消え去ってた事になりますし、そこで母が亡くなって居たら、その後に私がこの世に生を受ける事も無い訳で、ゾッとしてしまいます
祖母が造兵廠に行っていたので、もし小倉に投下されていたらこの動画もなかっただろうし、
こうやってコメントすることも出来なかったと思うと不思議な気分です。
しかし広島の第二目標だったのは今まで知りませんでした。
北九州市小倉に原爆が落とされる予定だったと聞いた事はありますが、具体的な資料がほとんどない状況の中、この動画を見て改めて知ることが出来ました。
数少ない貴重な資料を見ることができ平和・命の大切さを感じました。
戦争を経験された方が高齢化により、当時の記憶・風化が懸念される中、後世に伝えていくに欠かせない動画といっても過言ではありません!
学校の授業に取り入れても良いレベルです。天候次第ですが、8月9日平和祈念式典に参加予定です。
貴重な資料のアップありがとうございます。
ボックスカーは3回初回は姫島から 二回目は120度転換して再度 3回目はさらに120度ほど変換
3回目には高射砲(最新式)や日本軍の迎撃機屠龍やなどが迎撃して気密システムを破壊しています
抵抗がはげしくなってエンジンの燃料ポンプ不調もあり燃料が心細くなり長崎へ
※邂逅できなかった観測機(撮影機)は投下直後に邂逅して阿久根しが別部隊のB29により
空爆され黒煙が上がっているところを撮影しています
私も生まれも育ちも北九州です。亡くなった母方の祖母が当時、小倉にいました。まだ、子供でした。もし小倉に原爆が落ちていたら、祖母も家族もこの世に生を受けていなかったと思います。模擬原爆の被害を小倉は受けていましたね。もう戦争は懲り懲りですね。ちなみに小倉に
原爆投下されていたら、山口の下関まで被害が及んでいた可能性があったと言われてますね。
20:50の広島の死者数は1945年末までで14万人が一般的ですが、別の資料では約9万人ともありました。
当日のみにおいても広島のほうが被害は大きかったので、初期数値でも長崎のほうが大きいといったことはないと思われます。
爆弾の威力は長崎のプルトニウム型の方がありましたが、平坦ではない、中心部とずれた等、いくつかの要素によって被害は広島より小さかったといろいろな資料によって記されていますね。
私は小倉に原爆が落ちていたら生まれていなかった人間です。
現政府が軍事産業を推し進めていることに恐怖を感じます。
ゴンちゃんの言う通り、たくさんの人の努力があってある平和なので、このまま継承していけることを願っています。
平和が永遠に続きますように🙌
神様に守られているというのはある意味言い得て妙なのかも。2回も目標にされたのに1回目は第一目標の天候が良くて投下を免れ、2回目は数十分のディレイにより投下できなくなって標的から外れたと考えれば、これこそ奇跡としか言いようがない気もする。
当時祖母が小倉に住んでいて、当日も少数編成のB29を見たと教えてくれました。
しばらくぐるぐるしていたそうです。
特段対空砲火による迎撃もなかったと言っていました。
学校は空襲警報も出て、早退になったそうです。
小倉城近くに住んでいて、陸軍に土地を徴発されたので、軍に対してイメージ良くないみたいです。
身内も多く戦死しておりますので。
貴重な考察ありがとうございました。
私の父は当時北九州に居たそうです 「もし小倉に原爆が落ちてたらお前は生まれてなかったかも」と言われた事があります そう思うと不思議な気持ちになりますね
風船爆弾の展示があるのは、貴重です、
そうですね
唯一アメリカ本土を爆撃した爆弾です
本当に、痛ましいです。そして、いつの時代も犠牲になるのは市民ということ。自分は戦争を経験していませんが決して、戦争が、この国であった事、尊い命が犠牲になったことを忘れてはならないし、風化させてはいけない。本来なら、修学旅行でも広島、長崎、沖縄に赴き戦争というものが、どう言ったものか認識して欲しい。
沖縄戦の日、広島、長崎原爆の日、敗戦の日には、全国民が黙祷すべきだと思う。
戦争という悲劇を、繰り返さないために。
米軍が京都を投下地から外したのは、前に京都に訪れていた米軍の上官(名前は忘れましたが)が京都には歴史的建造物の多い事も知っていたので外す様に進言したと記憶にあります。
という、美談になっていますが、真相は、神社仏閣だらけで、原爆落としても効果が限定される(市民の犠牲が少ない)ので、落とすのヤメた。という事ですよ。
それは大した理由では無いのでデマです。
京都は矮小な盆地にあるので原爆の効果確認に不向きであることが最大理由。
長岡市も模擬爆弾が投下されました。8月1日の空襲で甚大な被害がありました。
北九州市民です。小学校の頃、学校で教えられた通りでした。
若松はどうなっていたのか、父の系譜はどうなっていたのか…考えさせられます
8/8の空襲の流れ弾でひさいしています。
高塔山の忠霊塔にいくと被災した五重塔が鎮座しています
終戦がもう少し遅かったら3発目は小倉だっただろうね
亡祖父母が当時、小倉で働いていました。祖母は小倉に原爆が落とされるという噂を聞いていましたが、逃げるという考えはなく、8/9もいつも通り出勤したそうです。
もし小倉に落とされていたら…私の母も、私も、私の子ども達も全員生まれていません。今ある自分の存在は当たり前ではないことを忘れてはいけませんね。
うちの爺さんが小倉の人で当時は中国で暗号解析の軍務についていて、広島と長崎に原爆が落とされた事を知ったそうです。当日の小倉には小学生になる前の親父がおり、もし落とされていたら考えてしまいます。
長崎市出身です。父と祖父と祖母と叔父叔母がいましたが皆助かりました。煙幕の話は知ってます。でもこれは小倉が自衛したのであり、仕方ないです。どこでも方法有効と分かれば、やったでしょう。残念なはなしですが、日本が原爆を先に持ってたらやられて無いと思います。
奇跡の連続で今の私が生きているんだな…
母の親が当時小倉で働いていて門司に住んでいたので、ゾッとします…
母親が小倉北区木町出身なので、投下されていたら今の私は存在してません!そんな私は現在広島市に住んでおり、妻は被爆2世なんです。何の因果なのでしょうか、、、
「清水」は『しみず』ではなく小倉の場合『きよみず』と読みます。
10年前に死んだ私の祖父は当時戸畑の高射砲部隊にいました。当日は上官がゲンバクゲンバクと騒いでいて何のこっちゃと思ってたそうです。
小倉が投下予定であったと聞いた事がありますあんな原爆を落としむごたらしい事をしたのわ今も知るところで2度と合ってわならないことそして平和について家族で話し合う8月でありたいものです
有難うございます
俺は世田谷出身だけどルーツが福岡と熊本だから身近に感じる、福岡は小倉が近いし熊本は長崎が近いから、
歴史的建造物や遺産が数多く存在する京都も最初は候補地に入っていたことに驚き!結果的には候補地からはずれたようですが。日本を占領地にした際に文化的遺産が何もない状態は避けたいため有名な古都、京都と奈良は大規模な空襲にさらすことはしなかったと聞いたことがある。当時から日本の研究家の人たちが口を揃えて古都の遺物は歴史的にも重要なので攻撃を止めたんだそうです。
長崎の次に京都 東京でした
小学校の頃それ授業で知って、祖父がそこら辺に幼少期住んでたんやけど、同クラにもそういう人沢山いて家族が住んでてって発表する時みんな生きてて良かったってことは伝えたいけど、結果的にそれで落とされてしまった場所のことを考えたら…って言葉濁しながら伝えて先生も意図を汲み取ってくれてたな…。
詳細なレポートありがとうございます。
大変参考になりました。
原爆投下については未だ公表されていない謎の部分が多すぎる。
広島原爆に関しては、エノラゲイ号の正確な飛行ルートさえ米国は公表していません。
また、1945年7月16日にニューメキシコ州(アラモゴード)で実験したのはプルトニウム爆弾(長崎原爆と同種)のみで、広島原爆のウラン爆弾の実験は未実施(つまり、ぶっつけ本番)で投下されたことになる。
原爆開発のために天文学的な予算と大量の人員をつぎ込んだマンハッタン計画。
その成果を見届けるための初めての原爆投下を、米国政府や軍が「ぶっつけ本番」でやるものなのか?
これには多くの人が違和感を感じるはずです。
また、マンハッタン計画の天文学的な資金源と国際金融資本との関わりも何ら解明されないままです。
私には、最近のワク〇〇騒動と共通のドス黒い部分があるように思えてならない。
米国の戦争犯罪、残虐非道な原爆人体実験によって亡くなった多くの罪なき人々を、本当の意味で慰霊するためには事実の解明が絶対に必要です。
以前、広島に小数で飛んで来て全滅したが、あったので注意と
全国にふれが、出ていたので、9日に小倉に怪しい飛行機が飛んで来てるで、コールタールを燃やしたと言う人が、出た番組を視ました
小倉に落ちていたら、父は生きておらず私は生まれなかった。
もしものことがあったら、北九州市は存在せず、小倉市のままだったろうな...
北九州市の都市部は頻繁に空襲があったらしいけど、農村部は全然空襲がなかったらしい。うちのばあちゃんは一度も防空壕に入ったことないって言ってたので。
下関市民なだけに、小倉に落ちていたらと考えると、、