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この動画いいねすごくわかりやすいそして歴史が面白くわかる
このビデオは私にたくさんの良いアイデアを与えてくれました、ありがとう!
どんなアイデアですか?
日本史はこの動画だけで、すっかり理解できますね😊
薩長は関ヶ原の敗戦国というところから繋がっている視点で見ると(特に長州は120万石から36万石まで落とされた恨みがありますので)さらに深い理解が得られると思います😊
親王妃勢津子様のエピソードは誰より孝明帝がどれほどお喜びになったかと思うと... 言葉に出来ない
最後の孝明天皇の皇太后の会津は賊軍ではありません。これ一言で救われました。
故郷会津のお話しありがとう御座いました🥰チャンネル登録させて頂きました🥰
薩摩藩士末裔として会津藩の処遇に不満を申し上げる。西郷元帥の不在を良いことに木戸孝允、三条実美、大村益次郎らの輩による私怨ばらしとしか思えん。せめて西郷元帥が全権あらば家老の神保内蔵助、田中土佐、西郷頼母の切腹、松平容保公の謹慎程度だったのに…無念だ!仮に長州藩が異議を言ったところで自分らも同様の状況下で寛大な処置に応じたのだから文句は言えまいて
まあ150年以上経った今でも薩長の子孫が天下を牛耳っているわけよな。大久保さんちの孫の孫とか。
それは違う。麻生太郎を大久保利通の門閥として考えるのは、徳川家光を浅井長政の門閥とするぐらいの間違い。あそこは竹内綱に繋がる土佐系の門閥の系譜であって薩長ではない。
会津藩は家祖松平(保科)正之の作った藩風の苛烈なまでの徳川家への忠義の部分のみに縛られ過ぎたかも知れないね。対照的に薩摩は会津と組んだかと思えば密かに裏切って長州と組んで会津を攻める節操の無さは武士の風上にも置けないと思われても不思議はない
いや、最初に裏切ったのは薩摩ではなく会津側です。薩摩の島津久光と極端に仲が悪かった徳川慶喜と組んで一会桑政権を築いたので、薩摩との関係を見直す必要があったんです。そもそも薩摩と会津が蜜月だったのは秋月悌次郎が尽力したからで、その秋月も用済みとばかりに左遷させられてしまいました。
会津藩は将軍に忠義持って使え帝の信頼も受けていた所が会津藩と同盟してた薩摩藩が長州藩に寝返り己らとつながっていた公家と手を組み勅命として王政復古の大号命を出し鳥羽伏見の戦いでは岩倉らの仕掛けか錦の御旗を掲げ幕府軍は総崩れとなって敗れた。それから会津は朝敵となり江戸城明け渡し後は将軍の恭順も聞き入れなかったとして将軍にも背いたとされた。そもそも薩長の多くの者は天皇への忠誠よりも己らが政権を取りたいと考える者がほとんどだった会津藩は徹底抗戦したが同盟藩が次々と降伏し会津藩もついには降伏した。明治になって朝敵の汚名が残った。これは第二次大戦の時の日本と同じ日本はアジアの解放のため戦った。しかし中国の場合は侵略だが東南アジアのほとんどは欧米の手から日本は解放した。大戦後に東南アジアそしてインドおよび西南アジア並びにアフリカ諸国も日本に触発し独立戦争を起こし次々と独立した。しかし学校では日本のアジア侵略と教え込まれている、維新時の会津藩にせよ終戦時の日本せよこれは似通っている会津の正義は今の若い世代並びオヤジ世代の者の中に理解者は出たが太平洋戦争後の日本の正義を認める者は少なくまたそのような者がいたら周りから睨まれる何故かアメリカの思惑と共産党や旧社会党及び旧民主党(立憲民主党や国民民主党の一部)また創価学会などが反日論や自虐史観を押し付けるからだろう
戊辰の恨み…戊辰の恨み…
容保公が勝手に戦始めるなんてあり得ねえ。慶喜は責任擦り付けた。
ただ会津は主戦派が暴走していたことは仙臺戊辰史にも記録されているから、別におかしくはない
@ぷるぷる山脈 それなら戦後、ある人が慶喜に鳥羽伏見の戦い始めた理由について聞く必要無いでしょ。そしたら慶喜は「あれは容保が勝手にやった事じゃ」と言った。それを聞いた容保は「昔の事だからよく覚えて居ない」って答えた。本当にやったならそうだって答えるでしょ。会津武士は嘘をついてはいけないのです。
戊辰戦争の直接のきっかけを作ったのは庄内藩。戊辰戦争を最期迄戦ったのは庄内藩。
薩長薩摩が明治維新の英雄とは持ち上げ過ぎ 確かにクーデターに近い
萱野権兵衛を演じた西田敏行さんを思い出します
日本テレビ年末時代劇「白虎隊」(1986年)ですね。他に森繁久弥さんが井上丘隅、風間杜夫さんが松平容保、里見浩太朗さんが西郷頼母、夏八木勲さんが近藤勇、近藤正臣さんが土方歳三を演じました。ちなみに西田敏行さんは大河ドラマ「八重の桜」で西郷頼母を演じています。
米沢も仙台も負け会津が最後まで善戦したんですね。
会津藩は官軍だった・・・。
新政府軍の武器はどこから供与されたの?そこが重要なポイントだと思うけど。
薩長が権力欲しい為に、執拗に徳川や会津藩を追い詰めて戦争したかっただけじゃん!
それが今の自民党のクソ政治屋につながっています薩長はやはりクソだ
ちょい違う。最初に薩摩を追い詰めたのは一会桑政権のほう。元々、薩摩藩は朝廷の上洛要請を受けて、参預会議のメンバーとして政治に参加していた。しかし島津久光と徳川慶喜の相性が非常に悪かった事と、徳川慶喜が一会桑体制を構築して外様を排除した事で、公儀政体による政権参加が絶望的になった薩摩が怒り、権力を独占した一会桑体制の解体を目指したのが要因。薩摩も、なんとか話し合いで解決しようとしたが、四侯会議で慶喜が公儀政体を目指す意志がない事が分かり、徳川一強支配を解体するために戦争に至った。
板垣退助は、大したものだ。土佐藩は寛容性がありますな
率直に言って、すべてはすんだ事だけど、新政府軍にくたらしい。武器が最新だっただけじゃん。
歴史は大海の如し
江戸城無血入城は西郷隆盛(薩摩)で会津城降伏開城は板垣退助(土佐)と後に西南戦争で戦う二人結果昭和では事件に変わるまた松平容保(会津藩主)は日光東照宮(宮司)に官軍の将は互いに殺しあい暗殺され賊軍の将は神宮の幹部まさに勝てば官軍負ければ賊軍
@@良介-q5y 新撰組随一の使い手、斎藤一が明治7年に再婚した時の仲人を務めたのが松平容保だったかな。生き残らなければ味わえない感動の日だったと思います。
@user-ij6d 20年前NHK放映時代劇:香取慎吾主役で新撰組役柄はオダギリジョーが確か演じた幕府残党最後の函館戦い確か組浪士生き残り
薩摩に武士道無し!単なる山賊!
長州藩の単なる復讐戦争
四侯会議の結果です。長州なんて蚊帳の外で全く関係ないです。
孝明天皇が毒殺されなければ会津藩が賊軍になる事はなかったよ‼️命乞いしたのは徳川慶喜だよね?勝海舟が幕臣?笑わせんなよ!私は福島県民です!
孝明天皇の遺髪からヒ素が出た事は暗殺された事。暗殺した者が朝敵です。岩倉具視が関係したのでは?その縁続きが加山雄三です。特に恨みはないけれど。その官軍が天皇の軍隊が会津でレイプ、略奪をやったのだ!
薩長、公家が力を取りたかった単なるクーデター
表面的な見方ではそう見えるかも知れませんが、明治維新のプロセスを経て近代国家になる舵取りをしなかったら欧米の植民地にされていた可能性が高かったのも事実です。徳川慶喜自身が幕府に帝国主義の国際情勢に対応出来る能力がないのを良く解っていたから恭順したのではないでしょうか。
はは、薩長にそんな崇高な理念なぞ無かった。討幕あるのみ。廃藩置県でのあの混乱よの、馬鹿、、薩長。まだ、徳川のエリートの方がまし。いずれ、歴史はそう、書き換わります。あっほー、薩長。
維新が革命だったかどうかは議論の余地の残るところですが、身分制撤廃という社会構造の変革(徴兵制を可能にする為のリセットではありましたが)を成し遂げた点を見れば単純なクーデターではなかったと思います。薩長(土)には関ヶ原の無念をはらす、という気分が濃厚にあったのは確かですが。
半島に近い長州藩。清が欧米列強に侵略されているのを目の当たりにして次は日本だと危機感を持ったのが始まり。
会津に何ができたというんだ?莫迦らしい
上杉謙信「たわけだな、会津は」伊達政宗「あんな連中、助けたくないな」毛利元就「これが井上派が言うとったアームストロング砲か」島津義弘「子孫たちも頑張っとる!」
いろいろな見方があるとは思いますけど、倒幕派も佐幕派も日本を良くしようと思った人達である事は間違いない。ただ、そのやり方が戦という人が人の命を奪い合う愚かなやり方しか当時は出来なかっただけ。でも、そういう人達の戦いがあり、外国との交易が再開され、その後また戦争という愚かな行為を繰り返しはしたけど、先人達の犠牲があったからこそ今日の平和で豊かな日本があるって事を我々は忘れずに同じ過ちを犯さない事を考えていかなければいけないですね。
コメントありがとうございます。全くその通りだと思います。動画自体は俗な内容になってしまっておりますが、様々な立場からの見方で、動画制作していきたいと思っております。
スッゲー印象操作動画
松平容保は徳川将軍家にとっては忠臣でしょうね。自分の責任を一家臣に丸投げして自刃に追い込んでますから。会津の領民にとっては暴君以外の何者ではないでしょうね。会津藩が薩長が会津に行った以上の行為を東北の外様小藩に行ったことも流してください。
それはあったみたいですね
それは何ですか?
この動画も含め?皆さんのコメントも?戦後GHQが書き換えた歴史、御用学者、御用小説家の書いた歴史では?本当の歴史は戦後の日本人はずっと謎ではなかったのでは❓❓❓❓❓🤭🤪
木戸孝允は会津藩追討の命令なんて出してません。もし出したというなら証拠を見せて頂けると嬉しいです。そもそも、木戸にそんな権限なんてないですからね? 長州藩の中では重要人物ではありましたが、倒幕側は薩長しかいないわけではないですから。上級司令部の下参謀も西郷と宇和島藩士の林です。また会津討伐命令を下したのは宇和島藩士の林です。討伐を命令を出した理由は会津藩が・鳥羽伏見の開戦責任を認めずに正当防衛を主張・恭順の姿勢をとりながらも、戦準備をしている(武備恭順)・新政府軍に不満を持つ抗戦派の旧幕府陸軍の江戸城脱走に手を貸すなど、新政府軍を挑発する行為をとっている。(会津藩の山川健次郎が著者の本にも会津藩が脱走に手を貸した事について認めている)からです。世良修三は容保の首をもってこいだなんて言ってないんですけどね。また会津藩は戦争を有利にするために蝦夷地を担保にしてドイツと武器や軍資金の交渉をしていたやりとりの証拠が2013年に見つかっています。北海道新聞でも取り上げられました。ちなみにこの蝦夷地は「幕府から防衛にという目的で会津藩へ譲渡されたもの」それを担保にしてるわけです。これって幕府だけではなく孝明天皇をも裏切る行為なんですけど。漫画でわかりやすい動画だと思いますが、動画にするのであれば、もっといろいろ調べてからにしてほしいですね。会津戦争や戊辰戦争の動画なんてyoutube上にたくさんあるわけですから。
また君か
鳥羽伏見の戦い中に「錦旗」が官軍(明治政府)に掲げられるも徳川家領地維持を大義として戦いも江戸城無血開場城で大義がなくなる。会津戦争(このメイン)後仙台に江戸より来た旧幕府海軍と陸軍が合流し蝦夷地へ。旧幕府士族の維持と蝦夷地開拓の為明治元年12月に「蝦夷共和国」建国も翌年6月に政府軍に降伏し戊辰戦争終戦。最後まで戦って残った800名程はほぼ全員が「明治政府」に任用されました。箱館戦争の細部も動画アニメ化してください
小御所会議での辞官納地はその後の慶喜の粘り強い交渉と越前・土佐・尾張などの親幕派諸藩の執拗な抵抗に、ほぼ骨抜きとされ、松平容保のしなくてよい蛮勇がなければ薩長側が窮地に陥るところでした。ところで、薩摩藩が江戸城を放火したと言うのは本当ですか?江戸市中の放火くらいはあったと思っておりましたから、、。さて、木戸孝允が会津を処罰せよと言ったのは、会津の観光史学と呼ばれる、会津の悲劇を売り物にしたい小説家等による完全な捏造です。木戸は寧ろ、会津に同情的で長州は会津よりも前に朝敵の汚名を着せられ、処罰されてます(三家老の切腹など)。その同じ道を歩みつつある会津に、長州と同じように赦免されるよう模索してます。例えば、会津戦開戦前1868年4月25日、新政府軍は会津に対してこんな降伏勧告を行ってます。「松平肥後守容保。その方は今まで数々の暴動に及んでいるが、その罪科一等を減じて許されるためには、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰ぐ態度を見せるように。そうすれば、寛大な処分にする場合があるので、その旨を心得違いせぬように沙汰する」その直後の4月29日、今度は奥羽越列藩同盟の仲間の仙台藩・米沢藩と、会津藩は協議を持ち、仙台藩家老の但木土佐から「鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と要求され、強い説得の末、一旦はこの降伏案を受け入れました。会津が降伏を受け入れたと理解した列藩同盟は翌月の閏4月12日、仙台・米沢両藩主が直々に降伏歎願書を新政府軍に手渡しました。ところで首謀者というのは藩主のことでなく、家老格。第一次長州征伐の長州藩の時と同じ処罰を受ける覚悟をせよ、と仲間から説得されたわけですが、第一次長州征伐では無抵抗だった長州藩は3人の家老の首を差し出しましたが、会津は、その後も抵抗をしたのに、たった一人の家老の首で許されています。会津はその直後の閏4月15日、新政府軍に「謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます」と、挑発的な回答書を送ってます。藩祖保科正之は徳川宗家を第一に考えよと遺言を残したのに、慶喜が謹慎する中、容保は上野や宇都宮に兵を差し向け、慶喜の怒りを買うような不忠者ですが、藩内保守強派は根拠もない蛮勇が蔓延り、会津藩は越後や福島仲通りで大規模な略奪を行い、北海道をビスマルクに売ろうとしたり(未遂に終わって良かった)、江戸期最悪の偽金づくりを行いました。そして、世良修蔵の手紙を捏造し、仙台藩を戊辰戦争に引きずり込み、近隣の小国、二本松藩に介入、所謂、二本松少年隊の悲劇は会津が起こしたことでした。ついでに飯盛山の若き白虎隊の悲劇も隊長の日向内記が食料を探すと言って、一人、お城に逃げ帰ったことを抜きには考えられません。唯一蘇生した飯沼貞吉の手記には食料はあったと記していますから、、、。また、婦女隊に薙刀を持たせて戦わせた会津藩の首脳には恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか?動画にあるように重税を課された領民はヤーヤー一揆と呼ばれる反逆をし、新政府に様々な協力をしました。会津の武士道精神を過剰に賛賛美も良いのですが実際、資料に基づくと会津の蛮行や失敗の方が圧倒的に目立つような気がします。
それで今は令和ってことか
木戸孝允は会津戦争が終わった後に会津藩主に対して厳罰な処罰(会津藩が罪を認めなかった事や戦争を続けようと画策して数々の敵対する行動や蝦夷地売却の件も含めて)を求めたのであって、慶喜が降伏した後に会津藩追討なんて言ってませんね。世良の件も仙台出身の戊辰戦争研究家によると世良を悪者にするため密書が捏造された可能性を指摘してるので、世良は悪者にされて斬られただけの被害者の可能性がありますね。
何でこんな長文なんだ
尼子が本拠地郡山城に攻めてきた時に吉田の住民を全員城に収容して住民達と一緒に籠城して尼子を撃退した長州藩藩祖毛利元就とは大違いだな。そりゃ元就の子孫達が官軍として勝利するのも納得できる。
何にせよ世良を斬ったことで仙台は引っ込みがつかなくなったんだと思う。世良を「成り上がりの小者が調子こいて威張り散らしてる」って見てたんだろうな、と思う。
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まあ150年以上経った今でも薩長の子孫が天下を牛耳っているわけよな。大久保さんちの孫の孫とか。
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麻生太郎を大久保利通の門閥として考えるのは、徳川家光を浅井長政の門閥とするぐらいの間違い。
あそこは竹内綱に繋がる土佐系の門閥の系譜であって薩長ではない。
会津藩は家祖松平(保科)正之の作った藩風の苛烈なまでの徳川家への忠義の部分のみに縛られ過ぎたかも知れないね。対照的に薩摩は会津と組んだかと思えば密かに裏切って長州と組んで会津を攻める節操の無さは武士の風上にも置けないと思われても不思議はない
いや、最初に裏切ったのは薩摩ではなく会津側です。
薩摩の島津久光と極端に仲が悪かった徳川慶喜と組んで一会桑政権を築いたので、薩摩との関係を見直す必要があったんです。
そもそも薩摩と会津が蜜月だったのは秋月悌次郎が尽力したからで、その秋月も用済みとばかりに左遷させられてしまいました。
会津藩は将軍に忠義持って使え帝の信頼も受けていた所が会津藩と同盟してた薩摩藩が長州藩に寝返り己らとつながっていた公家と手を組み勅命として王政復古の大号命を出し鳥羽伏見の戦いでは岩倉らの仕掛けか錦の御旗を掲げ幕府軍は総崩れとなって敗れた。それから会津は朝敵となり江戸城明け渡し後は将軍の恭順も聞き入れなかったとして将軍にも背いたとされた。そもそも薩長の多くの者は天皇への忠誠よりも己らが政権を取りたいと考える者がほとんどだった会津藩は徹底抗戦したが同盟藩が次々と降伏し会津藩もついには降伏した。明治になって朝敵の汚名が残った。これは第二次大戦の時の日本と同じ日本はアジアの解放のため戦った。しかし中国の場合は侵略だが東南アジアのほとんどは欧米の手から日本は解放した。大戦後に東南アジアそしてインドおよび西南アジア並びにアフリカ諸国も日本に触発し独立戦争を起こし次々と独立した。しかし学校では日本のアジア侵略と教え込まれている、維新時の会津藩にせよ終戦時の日本せよこれは似通っている会津の正義は今の若い世代並びオヤジ世代の者の中に理解者は出たが太平洋戦争後の日本の正義を認める者は少なくまたそのような者がいたら周りから睨まれる何故かアメリカの思惑と共産党や旧社会党及び旧民主党(立憲民主党や国民民主党の一部)また創価学会などが反日論や自虐史観を押し付けるからだろう
戊辰の恨み…戊辰の恨み…
容保公が勝手に戦始めるなんてあり得ねえ。慶喜は責任擦り付けた。
ただ会津は主戦派が暴走していたことは仙臺戊辰史にも記録されているから、別におかしくはない
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それなら戦後、ある人が慶喜に鳥羽伏見の戦い始めた理由について聞く必要無いでしょ。そしたら慶喜は「あれは容保が勝手にやった事じゃ」と言った。それを聞いた容保は「昔の事だからよく覚えて居ない」って答えた。本当にやったならそうだって答えるでしょ。会津武士は嘘をついてはいけないのです。
戊辰戦争の直接のきっかけを作ったのは庄内藩。
戊辰戦争を最期迄戦ったのは庄内藩。
薩長薩摩が明治維新の英雄とは持ち上げ過ぎ 確かにクーデターに近い
萱野権兵衛を演じた西田敏行さんを思い出します
日本テレビ年末時代劇「白虎隊」(1986年)ですね。他に森繁久弥さんが井上丘隅、風間杜夫さんが松平容保、里見浩太朗さんが西郷頼母、夏八木勲さんが近藤勇、近藤正臣さんが土方歳三を演じました。ちなみに西田敏行さんは大河ドラマ「八重の桜」で西郷頼母を演じています。
米沢も仙台も負け会津が最後まで善戦したんですね。
会津藩は官軍だった・・・。
新政府軍の武器はどこから供与されたの?そこが重要なポイントだと思うけど。
薩長が権力欲しい為に、執拗に徳川や会津藩を追い詰めて戦争したかっただけじゃん!
それが今の自民党のクソ政治屋につながっています
薩長はやはりクソだ
ちょい違う。
最初に薩摩を追い詰めたのは一会桑政権のほう。
元々、薩摩藩は朝廷の上洛要請を受けて、参預会議のメンバーとして政治に参加していた。
しかし島津久光と徳川慶喜の相性が非常に悪かった事と、徳川慶喜が一会桑体制を構築して外様を排除した事で、公儀政体による政権参加が絶望的になった薩摩が怒り、権力を独占した一会桑体制の解体を目指したのが要因。
薩摩も、なんとか話し合いで解決しようとしたが、四侯会議で慶喜が公儀政体を目指す意志がない事が分かり、徳川一強支配を解体するために戦争に至った。
板垣退助は、大したものだ。土佐藩は寛容性がありますな
率直に言って、すべてはすんだ事だけど、新政府軍にくたらしい。武器が最新だっただけじゃん。
歴史は大海の如し
江戸城無血入城は西郷隆盛(薩摩)で会津城降伏開城は板垣退助(土佐)と後に西南戦争で戦う二人結果昭和では事件に変わるまた松平容保(会津藩主)は日光東照宮(宮司)に官軍の将は互いに殺しあい暗殺され賊軍の将は神宮の幹部まさに勝てば官軍負ければ賊軍
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@user-ij6d 20年前NHK放映時代劇:香取慎吾主役で新撰組役柄はオダギリジョーが確か演じた幕府残党最後の函館戦い確か組浪士生き残り
薩摩に武士道無し!単なる山賊!
長州藩の単なる復讐戦争
四侯会議の結果です。長州なんて蚊帳の外で全く関係ないです。
孝明天皇が毒殺されなければ
会津藩が賊軍になる事は
なかったよ‼️
命乞いしたのは徳川慶喜だよね?
勝海舟が幕臣?
笑わせんなよ!
私は福島県民です!
孝明天皇の遺髪からヒ素が出た事は暗殺された事。暗殺した者が朝敵です。岩倉具視が関係したのでは?その縁続きが加山雄三です。特に恨みはないけれど。その官軍が天皇の軍隊が会津でレイプ、略奪をやったのだ!
薩長、公家が力を取りたかった単なるクーデター
表面的な見方ではそう見えるかも知れませんが、明治維新のプロセスを経て近代国家になる舵取りをしなかったら欧米の植民地にされていた可能性が高かったのも事実です。徳川慶喜自身が幕府に帝国主義の国際情勢に対応出来る能力がないのを良く解っていたから恭順したのではないでしょうか。
はは、薩長にそんな崇高な理念なぞ無かった。討幕あるのみ。
廃藩置県でのあの混乱よの、馬鹿、、薩長。
まだ、徳川のエリートの方がまし。いずれ、歴史はそう、書き換わります。
あっほー、薩長。
維新が革命だったかどうかは議論の余地の残るところですが、身分制撤廃という社会構造の変革(徴兵制を可能にする為のリセットではありましたが)を成し遂げた点を見れば単純なクーデターではなかったと思います。薩長(土)には関ヶ原の無念をはらす、という気分が濃厚にあったのは確かですが。
半島に近い長州藩。清が欧米列強に侵略されているのを目の当たりにして次は日本だと危機感を持ったのが始まり。
会津に何ができたというんだ?莫迦らしい
上杉謙信「たわけだな、会津は」
伊達政宗「あんな連中、助けたくないな」
毛利元就「これが井上派が言うとったアームストロング砲か」
島津義弘「子孫たちも頑張っとる!」
いろいろな見方があるとは思いますけど、倒幕派も佐幕派も日本を良くしようと思った人達である事は間違いない。ただ、そのやり方が戦という人が人の命を奪い合う愚かなやり方しか当時は出来なかっただけ。でも、そういう人達の戦いがあり、外国との交易が再開され、その後また戦争という愚かな行為を繰り返しはしたけど、先人達の犠牲があったからこそ今日の平和で豊かな日本があるって事を我々は忘れずに同じ過ちを犯さない事を考えていかなければいけないですね。
コメントありがとうございます。全くその通りだと思います。動画自体は俗な内容になってしまっておりますが、
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スッゲー印象操作動画
松平容保は徳川将軍家にとっては忠臣でしょうね。
自分の責任を一家臣に丸投げして自刃に追い込んでますから。
会津の領民にとっては暴君以外の何者ではないでしょうね。
会津藩が薩長が会津に行った以上の行為を東北の外様小藩に行ったことも流してください。
それはあったみたいですね
それは何ですか?
この動画も含め?皆さんのコメントも?戦後GHQが書き換えた歴史、御用学者、御用小説家の書いた歴史では?本当の歴史は戦後の日本人はずっと謎ではなかったのでは❓❓❓❓❓🤭🤪
木戸孝允は会津藩追討の命令なんて出してません。もし出したというなら証拠を見せて頂けると嬉しいです。
そもそも、木戸にそんな権限なんてないですからね? 長州藩の中では重要人物ではありましたが、
倒幕側は薩長しかいないわけではないですから。
上級司令部の下参謀も西郷と宇和島藩士の林です。
また会津討伐命令を下したのは宇和島藩士の林です。
討伐を命令を出した理由は
会津藩が
・鳥羽伏見の開戦責任を認めずに正当防衛を主張
・恭順の姿勢をとりながらも、戦準備をしている(武備恭順)
・新政府軍に不満を持つ抗戦派の旧幕府陸軍の江戸城脱走に手を
貸すなど、新政府軍を挑発する行為をとっている。
(会津藩の山川健次郎が著者の本にも会津藩が脱走に手を
貸した事について認めている)
からです。
世良修三は容保の首をもってこいだなんて言ってないんですけどね。
また会津藩は戦争を有利にするために蝦夷地を担保にしてドイツと武器や軍資金の交渉をしていたやりとりの
証拠が2013年に見つかっています。北海道新聞でも取り上げられました。
ちなみにこの蝦夷地は「幕府から防衛にという目的で会津藩へ譲渡されたもの」
それを担保にしてるわけです。これって幕府だけではなく孝明天皇をも裏切る行為なんですけど。
漫画でわかりやすい動画だと思いますが、動画にするのであれば、もっといろいろ調べてからに
してほしいですね。会津戦争や戊辰戦争の動画なんてyoutube上にたくさんあるわけですから。
また君か
鳥羽伏見の戦い中に「錦旗」が官軍(明治政府)に掲げられるも徳川家領地維持を大義として戦いも江戸城無血開場城で大義がなくなる。
会津戦争(このメイン)後仙台に江戸より来た旧幕府海軍と陸軍が合流し蝦夷地へ。旧幕府士族の維持と蝦夷地開拓の為明治元年12月に「蝦夷共和国」建国も翌年6月に政府軍に降伏し戊辰戦争終戦。
最後まで戦って残った800名程はほぼ全員が「明治政府」に任用されました。
箱館戦争の細部も動画アニメ化してください
小御所会議での辞官納地はその後の慶喜の粘り強い交渉と越前・土佐・尾張などの親幕派諸藩の執拗な抵抗に、ほぼ骨抜きとされ、松平容保のしなくてよい蛮勇がなければ薩長側が窮地に陥るところでした。
ところで、薩摩藩が江戸城を放火したと言うのは本当ですか?江戸市中の放火くらいはあったと思っておりましたから、、。
さて、木戸孝允が会津を処罰せよと言ったのは、会津の観光史学と呼ばれる、会津の悲劇を売り物にしたい小説家等による完全な捏造です。
木戸は寧ろ、会津に同情的で長州は会津よりも前に朝敵の汚名を着せられ、処罰されてます(三家老の切腹など)。その同じ道を歩みつつある会津に、長州と同じように赦免されるよう模索してます。
例えば、会津戦開戦前1868年4月25日、新政府軍は会津に対してこんな降伏勧告を行ってます。
「松平肥後守容保。その方は今まで数々の暴動に及んでいるが、その罪科一等を減じて許されるためには、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰ぐ態度を見せるように。そうすれば、寛大な処分にする場合があるので、
その旨を心得違いせぬように沙汰する」
その直後の4月29日、今度は奥羽越列藩同盟の仲間の仙台藩・米沢藩と、会津藩は協議を持ち、仙台藩家老の但木土佐から「鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と要求され、強い説得の末、一旦はこの降伏案を受け入れました。
会津が降伏を受け入れたと理解した列藩同盟は翌月の閏4月12日、仙台・米沢両藩主が直々に降伏歎願書を新政府軍に手渡しました。ところで首謀者というのは藩主のことでなく、家老格。第一次長州征伐の長州藩の時と同じ処罰を受ける覚悟をせよ、と仲間から説得されたわけですが、第一次長州征伐では無抵抗だった長州藩は3人の家老の首を差し出しましたが、会津は、その後も抵抗をしたのに、たった一人の家老の首で許されています。
会津はその直後の閏4月15日、新政府軍に「謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます」と、挑発的な回答書を送ってます。
藩祖保科正之は徳川宗家を第一に考えよと遺言を残したのに、慶喜が謹慎する中、容保は上野や宇都宮に兵を差し向け、慶喜の怒りを買うような不忠者ですが、藩内保守強派は根拠もない蛮勇が蔓延り、会津藩は越後や福島仲通りで大規模な略奪を行い、北海道をビスマルクに売ろうとしたり(未遂に終わって良かった)、江戸期最悪の偽金づくりを行いました。そして、世良修蔵の手紙を捏造し、仙台藩を戊辰戦争に引きずり込み、近隣の小国、二本松藩に介入、所謂、二本松少年隊の悲劇は会津が起こしたことでした。
ついでに飯盛山の若き白虎隊の悲劇も隊長の日向内記が食料を探すと言って、一人、お城に逃げ帰ったことを抜きには考えられません。唯一蘇生した飯沼貞吉の手記には食料はあったと記していますから、、、。また、婦女隊に薙刀を持たせて戦わせた会津藩の首脳には恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか?動画にあるように重税を課された領民はヤーヤー一揆と呼ばれる反逆をし、新政府に様々な協力をしました。会津の武士道精神を過剰に賛賛美も良いのですが実際、資料に基づくと会津の蛮行や失敗の方が圧倒的に目立つような気がします。
それで今は令和ってことか
木戸孝允は会津戦争が終わった後に会津藩主に対して厳罰な処罰(会津藩が罪を認めなかった事や戦争を続けようと画策して数々の
敵対する行動や蝦夷地売却の件も含めて)を求めたのであって、
慶喜が降伏した後に会津藩追討なんて言ってませんね。
世良の件も仙台出身の戊辰戦争研究家によると世良を悪者にするため密書が捏造された可能性を指摘
してるので、世良は悪者にされて斬られただけの被害者の可能性がありますね。
何でこんな長文なんだ
尼子が本拠地郡山城に攻めてきた時に吉田の住民を全員城に収容して住民達と一緒に籠城して尼子を撃退した長州藩藩祖毛利元就とは大違いだな。そりゃ元就の子孫達が官軍として勝利するのも納得できる。
何にせよ世良を斬ったことで仙台は引っ込みがつかなくなったんだと思う。
世良を「成り上がりの小者が調子こいて威張り散らしてる」って見てたんだろうな、と思う。