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最近になって邪馬台国関連のニュースが増えてきて嬉しい
卑弥呼の墓は前方後円墳では なかったはず…あと宇佐神宮説や 四国剣山ふもとの天照の墓がある所も 面白い説だけどね
もう「卑弥呼ここに眠る」の墓碑付きの古墳が発掘されても決着はつかないといわれるくらい対立してる。必ず墓碑の真偽にケチが付くと。九大対京大の面子が掛かった戦い。これに新聞社や出版社も絡んでるし、鉄道会社までも関係してるらしい。どちらかに決定的な証拠が出たら、日本全国の博物館や教育委員会所属の考古学研究員の顔ぶれがガラリと変わるとも言われているくらい根深い対立になってる。
二千年前の北九州地方は!遠賀川と洞海湾がかなり内陸まで続いていたそうです。遠賀川はかなり広範囲で川では無く、海だった事が地質調査で判明しています。なので南に水行は遠賀川を船で遡行した。と言う意味かも知れませんね。遠賀川の先にあるのが田川周辺の筑豊になります。マツラは松浦ではなく、宗像の神湊だと思っています。
福岡なんか前方後円墳とおぼしき土地に民家が建ってるからな。ほんのり
裸足で暮らしていたっていうとこの画像がスケキヨ2体で可笑しくて内容が入ってこなかったので2回見ましたw
この説は地元では数十年以上前から言われていました。最近見つかったとされている前方後円墳の近くに神社があり、その神社に卑弥呼が祀っていると密かに言われています
福岡の赤村説は初めて知ったので興味深かったです。ですが折角のゆっくり解説が 1:41 と 9:23 で、台詞が入れ違っていた様なので気になりました。
箸墓を掘り返せば貴重なものが出ても出なくてもどちらか決着するでしょう。
これも固定観念邪馬台国に絹、鉄器、丹が豊富とか?
これ良い話だな。大和王権派だけど新発見なら期待してしまう。考古学が解決すべき案件?
今時距離や方位を根拠に研究してる学者はゼロですよ。間違ってることだけは全員が同意する魏志の記述は何の根拠にもならないし論文は考古学に基づかなかったら誰も相手にしませんよ。
人間の心理として、牛馬がいない土地で大量の物資(銅鏡だけでも100枚)を抱えて陸上移動は出来るだけしたくない。船で行けるとこまで行って陸上移動は最低限にしたい。外海移動の船を降りても、海岸線、河川用の船に乗り換えて、邪馬台国の近くの港、船着き場まで行ったはず。そこから、かかっても一・二日で行ける場所に国(人々が生活している場所)はあったんじゃないかなぁ。島国日本、どこにでも海岸がある。福岡は十分可能性はある。素人考えですけど。
墓多に息子が住んでます!活断層も見つかって地名が墓多なのは地震による死者の墓かと思ってましたが邪馬台国だったとは!吉野ヶ里遺跡や天領日田に宇佐神宮などを考慮したらそうなると思います。(あくまで神籠石が好物の私の私見ですw)
呉服を調べて。好古都は博多。北九州、四国って狭すぎる。大月氏国と同等とは考え難い。ここから短里の話。役人が出張で朝鮮あたりから上司が確かめへんやろと断りもなく短くした。だから基本的に長里で地図を作ってみては?でっかい日本地図。出雲、越を通って常陸国=日高見国説の方が面白い。
なんでもかんでも卑弥呼に結びつける、話題のつくりかたは、どうなんでしょう。私は沖縄説。
皆さん同意しませんか、考古学待ちで実際けんかのしようもない状況であると。
新しく生まれた邪馬台国候補地と言われていますが、私はそこに卑弥呼が眠っていると幼い頃から話を聴いていたので、今まで邪馬台国の候補地でなかった事と前方後円墳が知られていなかった事に驚きです。
返信をこちらに移動しました。赤村ですか?私は魏志倭人伝重視で、卑弥呼が居たのは伊都国で、卑弥呼の墓は平原王墓だとしています。正直、自分の妄想する邪馬台国とエリアと外れています。まぁ何か出ると良いですが。
@@yoshitome6648 私も基本的に魏志倭人伝を重視して、吉野ヶ里遺跡に邪馬台国があったと思っています。さらで今回発掘調査が行われる場所は幼い頃から卑弥呼の墓と聴いていた場所なので、今回の調査でその証拠が見つかれば良いと思っています。因みに私が何処の人かは個人情報になるので秘密です。同じ九州説でも、導き出した場所が違うのは面白いですね。
@@o10meza さん邪馬台国と卑弥呼は魏志倭人伝にしか登場しませんからね。笑それを奈良大和王権や四国の神話がたかだか邪馬台国に人気便乗する必要はないと思うのですが…
@@yoshitome6648 同感です。大和王権や神話と邪馬台国を結びつける必要は無いと思います。因みに私は邪馬台国は大和王権の勢力が拡大する過程で滅びたと思っています。
西九州説は無いと思います。東に海あり、その先に他の倭人の国あり。に該当しませんから。東九州しか考えられません。
吉野ヶ里の元神社があったところ、GMで見たら発掘公開の写真があったぞ。なんで神社は古墳と縁があることが多いんだろ?
古墳を守るために神社を建立した
縄文の古墳です
動画のはじめに畿内説のほうが根拠があるようになってたのが気になったので今回はいいねはしません。畿内説には大きな遺跡=邪馬台国って全く根拠無しにしか感じられませんが、何故文献的な根拠無しが遺跡大だけで九州説よりも根拠があるように考えられるのか。全く理解できない。
スケキヨは何なんだ?w距離は単位の解釈など曖昧さが大きいけど方角にそれはないでしょう90度ずれるとかありえませんね畿内はないでしょ
根拠が「桃」はいつ聞いても吹いちゃうわ。
現在なら桃は簡単に手にはいるものだけど、当時としては貴重な果物西遊記でも、1000年寿命が伸びるとか、「桃源郷」という言葉があるように、桃は当時は特別な果物今の価値観でものを考えてはいけないですよ
@@ziocelsius3742 さん桃の種は岡山県が多くて、桃の種は魏志倭人伝とは「何の関係も無い」という意味で。どんな理論を述べられても吹いちゃう。
正直に言えば、金印でも、曹操の鉄鏡でも、八咫の鏡でもない。「桃の種」やっぱり、吹いちゃうわ。
奈良県と言えばどっちかと言えば柿ですね。柿の種、私は好きです。
最後の古墳らしきものがとても興味出ました!卑弥呼のとはぶっちゃけ考えにくいですが調査の価値がある場所だと思います。
赤村の前方後円墳は、豊の国古代史研究会の福永晋三先生が、何年も前から卑弥呼の墓だと唱えてましたね。自然丘陵なのか,前方後円墳なのか?一刻も早い学術調査を願います。‼️
五郎山古墳と津古生掛古墳の近くに創建が不明な古い神社があるけど、今回の吉野ヶ里と似た感じがしますね。個人的には大宰府周辺の埋もれた遺跡にもヒントがあって、位置的には大宰府から八女もしくは小倉の間のような気がします。あえてはっきりとは書きませんが。で、三種の神器は北部九州の豪族の風習ですからわかりますよね。
入れ墨をする理由だが、船乗りや漁師は万が一海で遭難し遺体になった時に個人を区別出来る様に墨を入れたという話が昔からありますね。あと、稲作ですが、鹿児島の遺跡では火山灰の下の層から12000年前の稲のプラントオパールが出土していて、朝寝花貝塚(岡山県)からは、6,000年前の稲のプラントオパール(ガラス質の結晶)が見つかり、稲作が弥生時代からとか長江や朝鮮から稲作が伝わったとか小学校で習う古い情報は現在間違った歴史認識になっております。
九州説と近畿説が有名だから卑弥呼観光バスは福岡と大阪に有るのでしょうね。
九州説は日にちで換算して距離が合わないと言われてたけど。それはどこも寄らずにただ歩いた場合であり、実際は寄る村々で駐屯しながら進んだので北九州辺りの地で決まりです。人が住んでる場所を横切って目的地に向かうので単純計算でスムーズに進める訳がないです。通り道の村や国の人を全滅させながら目的地に行くわけにも行かないし。
赤村に卑弥呼の墓があるかもだなんて、ロマンを一つ知れました!あの辺りは川もあるし、古墳もあるし、大きなクニがあっても不思議じゃないですね
何故に神社が移転することになったのだろう…。そして待ってましたとばかりに新発見!?都合が良すぎる気がする…。邪推だが、考古学にも派閥が有って、損得と名誉の争奪戦で、ごった返しの混沌の様な気がする…。だとしたら、歴史も考古学も馬鹿らしくなるなぁ…。
茨城県説の方が面白いぞー。記載がいい加減なじゃない。その訳がいい加減。
魏志倭人伝でいう「木綿」は「ゆふ」つまりコットンではなく、楮(コウゾ)のことのようです。コットンはインドから中国に伝わったのが早くても7世紀、日本には8世紀に一度伝わるも栽培文化が途切れ、戦国時代末期に栽培が再開されるまで、長く輸入に頼っていました。
Googlemapで見つかったという前方後円墳は、見ての通り後円墳部分に比べて前方部が発達しているので、邪馬台国時代のでは無いですね。土師ニサンザイ古墳と同じ5世紀後半のものでしょうか。
北部九州はほぼ確定だな
福岡県ね♪九州説が高くて何より‼️🤩👍😏
卑弥呼の住所は、八女の山奥で八(多数の)女(女性氏子)が仕えている。投馬国(久留米市)と熊襲国(熊本)の中間にあり、邪馬台国(山門国)となる。投馬国とは、物部(海洋民族)が統治する地であり、吉野ヶ里や現在の西鉄大牟田線辺りまで直接船で行けました。投馬国の由来は、水と沼の国と言う意味で水沼から水間から三潴から久留米に変わりました。吉野ヶ里は、防衛拠点に過ぎず余り期待出来ないと思っています。紀元前の中央集権は筑紫国で紀元後畿内に移ったと考えれば、魏志倭人伝の邪馬台国は、明らかに北部九州で卑弥呼の死以前から大和朝廷は倭国統一も進めており血縁関係とチカラで統制した。箸墓=卑弥呼が住んで居たとはならない卑弥呼の墓は円墳だし畿内説の唱えてる学者は自論を展開すると出世できない。或いは教科書が間違っているとは言えないから
弥生時代短すぎだろ
九州に比べて近畿には物的証拠が少なすぎるその他の説は論外
桃の種が邪馬台国の証拠とするのはおかしい。桃の種の出土は岡山県が多いでしょう。魏志倭人伝には環濠集落の描写ですので無防備な集落はどうかなと思います。絹は鉄器の出土もありませんんし、方角や距離的にも畿内説は該当しないと思います。
邪馬台国は分からない方が、いろんな方がお金になるので良いのでわ。九州vs近畿の言葉遊び。自説の有利な事だけ主張。不利な事は、書き間違い。講演会と本で先生様になれるTV出演ユーチューバーで金になる。地方自治体の村おこしで悪ノリ
これは何でも九州が起源と言うあの過激な人達の意見ですね。現在の地図で検証が間違いの元で、古代地図で検証しましょう。例えば龍谷図とか・・・古代地図が無いなら白紙に東西南北だけ決めて、里程に合わせて国を記入していけば古代地図が作れますね。多分日本列島は縦長になると思いますが、それが古代の地図で、地形の概念なのです。彼らが言うには、大宮神社が大津宮だと主張。更に、続日本紀に、都にゆず大の噴石が飛んで来た記述があり、奈良には火山が無いので、桂川に平城京があったと言い、大分の鶴見岳小規模噴火の噴石と主張。だが、鶴見岳から桂川まで約75㌔小規模噴火でも中規模でも不可能。九州で大宰府以外、何処を掘っても条坊制の痕跡どころか、敷石さえも発掘されない。多賀城国府で発掘された石碑に書かれた京、蝦夷国、常陸国、下野国までの距離では、常陸、下野までの距離と京までの距離を比較すると、九州には到底たどり着けませんが・・全て奈良に持って行かれた、発掘される木簡も持って行かれたと主張される。他にも論破出来る主張はあります。
赤村のあの地層は地質学者が調べて、自然の地層だと言われたはずですよ。プロなりの根拠があるのではないでしょうか?それに、記述の墓は円墳と書かれてたとか・・・まあ、何処でも良いけどさ。(笑)
前方後円墳は大和で円墳は邪馬台国連合なのでは?
自然地形やで。
邪馬台国→よこしま? 卑弥呼→いやしい? ・・悲しいネーミングっスね😅 8割の真実に2割の嘘を潜ませて描いた可能性は?・・
まは
ええ加減の昔の書物何かで、わかるわけないやろ!宜保愛子さんに霊視してもらえば良かったのに!ツタンカーメンは叔父に毒殺されたと言われてましたね。
古墳は古墳時代に出来たもので、卑弥呼がいた弥生時代には作られていません。時系列もわからないのによく解説ができますね。
もう、良いですよ。四国説を知れば疑いなく、これ以上の議論の必要もないです。
邪馬台国の領土って千葉県まで届いてますよね?纏向型古墳は千葉にもありますが、四国説はそこまで踏み込んだ考察があるのでしょうか。九州説や畿内説もそうですが、一つの遺跡を指して邪馬台国云々と決めつけるのは流石にどうなのでしょう。7万戸の人口を養える田畑や7万戸の居住地など、人間が文明的な生活を送るのに必要な面積を割り出して端の末盧国から順に当てはめていかなければ、正解に近い答えは出せないのでは。
@@nekono_mimikon 稲作の適さない地域が発展するわけが無いのに四国推しの人達は理解できないんだよねぇ
阿波信者が発狂する発見だなー
@nekono_mimikonさんこういう説はどうでしょうか?邪馬台国は近畿から諏訪、糸魚川方面、投馬国が関東傍国が九州の一部から山陰、山陽、四国。女王国は北部九州。卑弥呼がいたのは北部九州。海渡東千里は、壱岐から宗像方面奴国の南に狗奴国、奴国から南4千里に侏儒国。投馬国、邪馬台国里数なしは遠方なので行っていない。南至の後の詳細な方向や停泊場所も当然、書けず、可xx万戸、官名、ぐらいになったとか?邪馬台国は重要視されていないしなんら中心国でも支配もしていないという思考。
九州説は帯方郡から南方向もしくは南南東方向です。魏志倭人伝の前の書物には帯方郡から南東に倭国があると書いてありますから帯方郡から南東方向12000里(918km)は徳島県神山町になります。つまり邪馬壹国の前の記述に不祢国(行橋)から南に水行10日(宇和島)から陸行1月で徳島県神山町に着きます。記述に種朱国(種子島)から4000里(306km)に邪馬壹国があるとありますがこれも徳島県神山町に着きます。
弥生時代の遺物から絹織物と鉄器が出土したという例は九州北部に限られています。当時銅製の武器しか持っていなかった四国の田舎者が大乱が有った倭国を平定出来るわけがありません。
@@nurechin 淡路島の戎の前遺跡は1世紀頃の遺跡で国産鉄と朝鮮鉄と高価な水銀朱精製してた道具が発掘されてます。同じく徳島では2世紀頃の遺跡加茂宮の前遺跡では鉄の鍛冶炉跡と高価な水銀朱精製してた道具が発掘してます。九州北部には高価な水銀朱精製した道具は出ませんしどこでも取れる安価のべんがらしか取れません。徳島の2世紀頃の若杉山辰砂発掘遺跡がその山に丹ありです。加茂宮の前遺跡は辰砂のコンビナート跡もあり、この周囲には人口35万人住んでたと思われる西日本最大集落の矢野遺跡があり吉野ヶ里の倍の広いですよ。弥生時代は働く為の大都会ですよ。ちなみに私は北九州住みですよ。北九州の人口も阿波に似てて昔は八幡が絶頂の時は大都会だったが今は寂れてます。
倭国は魏志倭人伝に拠ると..国の範囲は.徒歩で東西5か月、南北3か月でそれぞれが海に面していると記述されています。倭国は..楽浪郡..(帯方郡)から..12000里の場所に在したそうで..行程は帯方郡より→7000里で狗邪韓国(任那)→1000里、対馬→1000里、壱岐→1000里、松浦まで10000里で九州着。上陸して..伊都国、奴国.等九州北部の地名が出て来る..この辺りを行くと帯方郡から12000里になるので..吉野ケ里遺跡辺りが..倭国だったと思われます。この倭国の西北の港..別府辺りから..水行20日で..投馬国、又水行10日で..何処かの港町..ここで上陸し..陸行1か月で..女王、卑弥呼の邪馬台国に到着します。投馬国、や港町..が不明なので..特定はムズイですが..古墳群の数や..出土品から見て..やはり邪馬台国は 近畿地方に有ったのではと...思います...。
魏志倭人伝には書いてないですね。三百年後の大和王権の時代の隋書です。残念ながら、大和王権と邪馬台国は別王朝です。
私は邪馬台国は九州にあったと思います。まず、帯方郡〜邪馬台国までに12,000里にも関わらず、帯方郡から狗邪韓国までに7,000里も費やしています。さらにそこから津島国までに1000里、そこから壱岐国までに1000にそこから松浦国までに1000里と九州上陸までに10,000里も費やしています。そこから残り1200里で畿内まで行くのは距離的に無理があります。
@@o10mezaさんと同意見です。どんな時代でも、畿内説の「南が東」にはなりません。
@@yoshitome6648 私も大和王権と邪馬台国は別王朝だと思います。当時の大和王権の大王が崇神天皇ではないかと思っています。北部九州→邪馬台国を含む30ヶ国が集まり女王国連合が出来る畿内→同時代に大和国と周辺諸国が集まり、大和連合王権が出来る天皇→神武〜開花までは小国の王に過ぎなかったが、崇神天皇の代で連合王権の大王となると言うのは私の主な考えです。
@@o10meza さん邪馬台国時代。孝霊、孝元、開化、崇神天皇あたりですかね。
中国のブンケンに有る人ですか?当時、文字が無いのに世界一難しい言語とは。俺もフックユーザーぐらいしか分らね🤷♀(笑)
当時文字なかったかどうかは怪しいけどね。個人的には統一された文字はなく神代文字が各地にあった説をとってます。
@@鈴麗リンリー なるほど🤔勉強になりました。
@@鈴麗リンリー神代文字はあったかもしれないけど、当時のオリジナルが残っていなくて、伝わっている物は後世の創作なのが残念です。どこかに当時の神代文字が発見されると良いのですが。
最近になって邪馬台国関連のニュースが増えてきて嬉しい
卑弥呼の墓は前方後円墳では なかったはず…あと宇佐神宮説や 四国剣山ふもとの天照の墓がある所も 面白い説だけどね
もう「卑弥呼ここに眠る」の墓碑付きの古墳が発掘されても決着はつかないといわれるくらい対立してる。
必ず墓碑の真偽にケチが付くと。
九大対京大の面子が掛かった戦い。これに新聞社や出版社も絡んでるし、鉄道会社までも関係してるらしい。
どちらかに決定的な証拠が出たら、日本全国の博物館や教育委員会所属の考古学研究員の顔ぶれがガラリと変わるとも言われているくらい根深い対立になってる。
二千年前の北九州地方は!遠賀川と洞海湾がかなり内陸まで続いていたそうです。
遠賀川はかなり広範囲で川では無く、海だった事が地質調査で判明しています。
なので南に水行は遠賀川を船で遡行した。と言う意味かも知れませんね。
遠賀川の先にあるのが田川周辺の筑豊になります。
マツラは松浦ではなく、宗像の神湊だと思っています。
福岡なんか前方後円墳とおぼしき土地に民家が建ってるからな。ほんのり
裸足で暮らしていたっていうとこの画像がスケキヨ2体で可笑しくて内容が入ってこなかったので2回見ましたw
この説は地元では数十年以上前から言われていました。最近見つかったとされている前方後円墳の近くに神社があり、その神社に卑弥呼が祀っていると密かに言われています
福岡の赤村説は初めて知ったので興味深かったです。
ですが折角のゆっくり解説が 1:41 と 9:23 で、台詞が入れ違っていた様なので気になりました。
箸墓を掘り返せば貴重なものが出ても出なくてもどちらか決着するでしょう。
これも固定観念
邪馬台国に絹、鉄器、丹が豊富とか?
これ良い話だな。
大和王権派だけど新発見なら
期待してしまう。考古学が解決すべき案件?
今時距離や方位を根拠に研究してる学者はゼロですよ。間違ってることだけは全員が同意する魏志の
記述は何の根拠にもならないし
論文は考古学に基づかなかったら
誰も相手にしませんよ。
人間の心理として、牛馬がいない土地で大量の物資(銅鏡だけでも100枚)を抱えて陸上移動は出来るだけしたくない。船で行けるとこまで行って陸上移動は最低限にしたい。外海移動の船を降りても、海岸線、河川用の船に乗り換えて、邪馬台国の近くの港、船着き場まで行ったはず。そこから、かかっても一・二日で行ける場所に国(人々が生活している場所)はあったんじゃないかなぁ。島国日本、どこにでも海岸がある。福岡は十分可能性はある。素人考えですけど。
墓多に息子が住んでます!活断層も見つかって地名が墓多なのは地震による死者の墓かと思ってましたが邪馬台国だったとは!
吉野ヶ里遺跡や天領日田に宇佐神宮などを考慮したらそうなると思います。(あくまで神籠石が好物の私の私見ですw)
呉服を調べて。好古都は博多。北九州、四国って狭すぎる。大月氏国と同等とは考え難い。ここから短里の話。役人が出張で朝鮮あたりから上司が確かめへんやろと断りもなく短くした。だから基本的に長里で地図を作ってみては?でっかい日本地図。出雲、越を通って常陸国=日高見国説の方が面白い。
なんでもかんでも卑弥呼に結びつける、話題のつくりかたは、どうなんでしょう。私は沖縄説。
皆さん同意しませんか、
考古学待ちで実際けんかのしようもない状況であると。
新しく生まれた邪馬台国候補地と言われていますが、私はそこに卑弥呼が眠っていると幼い頃から話を聴いていたので、今まで邪馬台国の候補地でなかった事と前方後円墳が知られていなかった事に驚きです。
返信をこちらに移動しました。
赤村ですか?
私は魏志倭人伝重視で、卑弥呼が居たのは伊都国で、卑弥呼の墓は平原王墓だとしています。
正直、自分の妄想する邪馬台国とエリアと外れています。
まぁ何か出ると良いですが。
@@yoshitome6648
私も基本的に魏志倭人伝を重視して、吉野ヶ里遺跡に邪馬台国があったと思っています。さらで今回発掘調査が行われる場所は幼い頃から卑弥呼の墓と聴いていた場所なので、今回の調査でその証拠が見つかれば良いと思っています。因みに私が何処の人かは個人情報になるので秘密です。同じ九州説でも、導き出した場所が違うのは面白いですね。
@@o10meza さん
邪馬台国と卑弥呼は魏志倭人伝にしか登場しませんからね。笑
それを奈良大和王権や四国の神話がたかだか邪馬台国に人気便乗する必要はないと思うのですが…
@@yoshitome6648
同感です。大和王権や神話と邪馬台国を結びつける必要は無いと思います。因みに私は邪馬台国は大和王権の勢力が拡大する過程で滅びたと思っています。
西九州説は無いと思います。
東に海あり、その先に他の倭人の国あり。
に該当しませんから。
東九州しか考えられません。
吉野ヶ里の元神社があったところ、GMで見たら発掘公開の写真があったぞ。
なんで神社は古墳と縁があることが多いんだろ?
古墳を守るために神社を建立した
縄文の古墳です
動画のはじめに畿内説のほうが根拠があるようになってたのが気になったので今回はいいねはしません。
畿内説には大きな遺跡=邪馬台国って全く根拠無しにしか感じられませんが、何故文献的な根拠無しが遺跡大だけで九州説よりも根拠があるように考えられるのか。
全く理解できない。
スケキヨは何なんだ?w
距離は単位の解釈など曖昧さが大きいけど
方角にそれはないでしょう
90度ずれるとかありえませんね
畿内はないでしょ
根拠が「桃」はいつ聞いても吹いちゃうわ。
現在なら桃は簡単に手にはいるものだけど、当時としては貴重な果物
西遊記でも、1000年寿命が伸びるとか、「桃源郷」という言葉があるように、桃は当時は特別な果物
今の価値観でものを考えてはいけないですよ
@@ziocelsius3742 さん
桃の種は岡山県が多くて、
桃の種は魏志倭人伝とは「何の関係も無い」という意味で。
どんな理論を述べられても吹いちゃう。
正直に言えば、
金印でも、曹操の鉄鏡でも、八咫の鏡でもない。
「桃の種」
やっぱり、吹いちゃうわ。
奈良県と言えばどっちかと言えば柿ですね。
柿の種、私は好きです。
最後の古墳らしきものがとても興味出ました!
卑弥呼のとはぶっちゃけ考えにくいですが調査の価値がある場所だと思います。
赤村の前方後円墳は、豊の国古代史研究会の福永晋三先生が、何年も前から卑弥呼の墓だと唱えてましたね。
自然丘陵なのか,前方後円墳なのか?一刻も早い学術調査を願います。‼️
五郎山古墳と津古生掛古墳の近くに創建が不明な古い神社があるけど、今回の吉野ヶ里と似た感じがしますね。個人的には大宰府周辺の埋もれた遺跡にもヒントがあって、位置的には大宰府から八女もしくは小倉の間のような気がします。あえてはっきりとは書きませんが。で、三種の神器は北部九州の豪族の風習ですからわかりますよね。
入れ墨をする理由だが、船乗りや漁師は万が一海で遭難し遺体になった時に個人を区別出来る様に墨を入れたという話が昔からありますね。
あと、稲作ですが、鹿児島の遺跡では火山灰の下の層から12000年前の稲のプラントオパールが出土していて、朝寝花貝塚(岡山県)からは、6,000年前の稲のプラントオパール(ガラス質の結晶)が見つかり、稲作が弥生時代からとか長江や朝鮮から稲作が伝わったとか小学校で習う古い情報は現在間違った歴史認識になっております。
九州説と近畿説が有名だから卑弥呼観光バスは福岡と大阪に有るのでしょうね。
九州説は日にちで換算して距離が合わないと言われてたけど。それはどこも寄らずにただ歩いた場合であり、実際は寄る村々で駐屯しながら進んだので北九州辺りの地で決まりです。人が住んでる場所を横切って目的地に向かうので単純計算でスムーズに進める訳がないです。通り道の村や国の人を全滅させながら目的地に行くわけにも行かないし。
赤村に卑弥呼の墓があるかもだなんて、ロマンを一つ知れました!
あの辺りは川もあるし、古墳もあるし、大きなクニがあっても不思議じゃないですね
何故に神社が移転することになったのだろう…。
そして待ってましたとばかりに新発見!?
都合が良すぎる気がする…。
邪推だが、考古学にも派閥が有って、損得と名誉の争奪戦で、ごった返しの混沌の様な気がする…。
だとしたら、歴史も考古学も馬鹿らしくなるなぁ…。
茨城県説の方が面白いぞー。記載がいい加減なじゃない。その訳がいい加減。
魏志倭人伝でいう「木綿」は「ゆふ」つまりコットンではなく、楮(コウゾ)のことのようです。
コットンはインドから中国に伝わったのが早くても7世紀、日本には8世紀に一度伝わるも栽培文化が途切れ、
戦国時代末期に栽培が再開されるまで、長く輸入に頼っていました。
Googlemapで見つかったという前方後円墳は、見ての通り後円墳部分に比べて前方部が発達しているので、邪馬台国時代のでは無いですね。
土師ニサンザイ古墳と同じ5世紀後半のものでしょうか。
北部九州はほぼ確定だな
福岡県ね♪九州説が高くて何より‼️🤩👍😏
卑弥呼の住所は、八女の山奥で八(多数の)女(女性氏子)が仕えている。投馬国(久留米市)と熊襲国(熊本)の中間にあり、邪馬台国(山門国)となる。投馬国とは、物部(海洋民族)が統治する地であり、吉野ヶ里や現在の西鉄大牟田線辺りまで直接船で行けました。投馬国の由来は、水と沼の国と言う意味で水沼から水間から三潴から久留米に変わりました。吉野ヶ里は、防衛拠点に過ぎず余り期待出来ないと思っています。紀元前の中央集権は筑紫国で紀元後畿内に移ったと考えれば、魏志倭人伝の邪馬台国は、明らかに北部九州で卑弥呼の死以前から大和朝廷は倭国統一も進めており血縁関係とチカラで統制した。箸墓=卑弥呼が住んで居たとはならない卑弥呼の墓は円墳だし畿内説の唱えてる学者は自論を展開すると出世できない。或いは教科書が間違っているとは言えないから
弥生時代短すぎだろ
九州に比べて近畿には物的証拠が少なすぎる
その他の説は論外
桃の種が邪馬台国の証拠とするのはおかしい。桃の種の出土は岡山県が多いでしょう。魏志倭人伝には環濠集落の描写ですので無防備な集落はどうかなと思います。絹は鉄器の出土もありませんんし、方角や距離的にも畿内説は該当しないと思います。
邪馬台国は分からない方が、
いろんな方がお金になるので
良いのでわ。九州vs近畿の
言葉遊び。自説の有利な事だけ
主張。
不利な事は、書き間違い。
講演会と本で先生様になれる
TV出演ユーチューバー
で金になる。
地方自治体の村おこしで悪ノリ
これは何でも九州が起源と言うあの過激な人達の意見ですね。
現在の地図で検証が間違いの元で、古代地図で検証しましょう。例えば龍谷図とか・・・古代地図が無いなら白紙に東西南北だけ決めて、里程に合わせて国を記入していけば古代地図が作れますね。多分日本列島は縦長になると思いますが、それが古代の地図で、地形の概念なのです。
彼らが言うには、大宮神社が大津宮だと主張。更に、続日本紀に、都にゆず大の噴石が飛んで来た記述があり、奈良には火山が無いので、桂川に平城京があったと言い、大分の鶴見岳小規模噴火の噴石と主張。だが、鶴見岳から桂川まで約75㌔小規模噴火でも中規模でも不可能。
九州で大宰府以外、何処を掘っても条坊制の痕跡どころか、敷石さえも発掘されない。
多賀城国府で発掘された石碑に書かれた京、蝦夷国、常陸国、下野国までの距離では、常陸、下野までの距離と京までの距離を比較すると、九州には到底たどり着けませんが・・
全て奈良に持って行かれた、発掘される木簡も持って行かれたと主張される。
他にも論破出来る主張はあります。
赤村のあの地層は地質学者が調べて、自然の地層だと言われたはずですよ。
プロなりの根拠があるのではないでしょうか?
それに、記述の墓は円墳と書かれてたとか・・・
まあ、何処でも良いけどさ。(笑)
前方後円墳は大和で円墳は邪馬台国連合なのでは?
自然地形やで。
邪馬台国→よこしま? 卑弥呼→いやしい? ・・悲しいネーミングっスね😅 8割の真実に2割の嘘を潜ませて描いた可能性は?・・
まは
ええ加減の昔の書物何かで、わかるわけないやろ!宜保愛子さんに霊視してもらえば良かったのに!ツタンカーメンは叔父に毒殺されたと言われてましたね。
古墳は古墳時代に出来たもので、卑弥呼がいた弥生時代には作られていません。
時系列もわからないのによく解説ができますね。
もう、良いですよ。四国説を知れば疑いなく、これ以上の議論の必要もないです。
邪馬台国の領土って千葉県まで届いてますよね?
纏向型古墳は千葉にもありますが、四国説はそこまで踏み込んだ考察があるのでしょうか。
九州説や畿内説もそうですが、一つの遺跡を指して邪馬台国云々と決めつけるのは流石にどうなのでしょう。
7万戸の人口を養える田畑や7万戸の居住地など、人間が文明的な生活を送るのに必要な面積を割り出して端の末盧国から順に当てはめていかなければ、正解に近い答えは出せないのでは。
@@nekono_mimikon
稲作の適さない地域が発展するわけが無いのに四国推しの人達は理解できないんだよねぇ
阿波信者が発狂する発見だなー
@nekono_mimikonさん
こういう説はどうでしょうか?
邪馬台国は近畿から諏訪、糸魚川方面、投馬国が関東
傍国が九州の一部から山陰、山陽、四国。女王国は北部九州。
卑弥呼がいたのは北部九州。
海渡東千里は、壱岐から宗像方面
奴国の南に狗奴国、奴国から南4千里に侏儒国。投馬国、邪馬台国里数なしは遠方なので行っていない。南至の後の詳細な方向や停泊場所も当然、書けず、可xx万戸、
官名、ぐらいになったとか?
邪馬台国は重要視されていないし
なんら中心国でも支配もしていないという思考。
九州説は帯方郡から南方向もしくは南南東方向です。魏志倭人伝の前の書物には帯方郡から南東に倭国があると書いてありますから帯方郡から南東方向12000里(918km)は徳島県神山町になります。つまり邪馬壹国の前の記述に不祢国(行橋)から南に水行10日(宇和島)から陸行1月で徳島県神山町に着きます。記述に種朱国(種子島)から4000里(306km)に邪馬壹国があるとありますがこれも徳島県神山町に着きます。
弥生時代の遺物から絹織物と鉄器が出土したという例は九州北部に限られています。当時銅製の武器しか持っていなかった四国の田舎者が大乱が有った倭国を平定出来るわけがありません。
@@nurechin 淡路島の戎の前遺跡は1世紀頃の遺跡で国産鉄と朝鮮鉄と高価な水銀朱精製してた道具が発掘されてます。同じく徳島では2世紀頃の遺跡加茂宮の前遺跡では鉄の鍛冶炉跡と高価な水銀朱精製してた道具が発掘してます。九州北部には高価な水銀朱精製した道具は出ませんしどこでも取れる安価のべんがらしか取れません。徳島の2世紀頃の若杉山辰砂発掘遺跡がその山に丹ありです。加茂宮の前遺跡は辰砂のコンビナート跡もあり、この周囲には人口35万人住んでたと思われる西日本最大集落の矢野遺跡があり吉野ヶ里の倍の広いですよ。弥生時代は働く為の大都会ですよ。ちなみに私は北九州住みですよ。北九州の人口も阿波に似てて昔は八幡が絶頂の時は大都会だったが今は寂れてます。
倭国は魏志倭人伝に拠ると..国の範囲は.徒歩で東西5か月、南北3か月でそれぞれが海に面していると
記述されています。倭国は..楽浪郡..(帯方郡)から..12000里の場所に在したそうで..行程は
帯方郡より→7000里で狗邪韓国(任那)→1000里、対馬→1000里、壱岐→1000里、松浦まで
10000里で九州着。上陸して..伊都国、奴国.等九州北部の地名が出て来る..この辺りを行くと帯方郡から
12000里になるので..吉野ケ里遺跡辺りが..倭国だったと思われます。この倭国の西北の港..別府辺りから..
水行20日で..投馬国、又水行10日で..何処かの港町..ここで上陸し..陸行1か月で..女王、卑弥呼の邪馬台国に
到着します。投馬国、や港町..が不明なので..特定はムズイですが..古墳群の数や..出土品から見て..やはり
邪馬台国は 近畿地方に有ったのではと...思います...。
魏志倭人伝には書いてないですね。
三百年後の大和王権の時代の隋書です。
残念ながら、大和王権と邪馬台国は別王朝です。
私は邪馬台国は九州にあったと思います。まず、帯方郡〜邪馬台国までに12,000里にも関わらず、帯方郡から狗邪韓国までに7,000里も費やしています。さらにそこから津島国までに1000里、そこから壱岐国までに1000にそこから松浦国までに1000里と九州上陸までに10,000里も費やしています。そこから残り1200里で畿内まで行くのは距離的に無理があります。
@@o10mezaさんと同意見です。
どんな時代でも、畿内説の「南が東」にはなりません。
@@yoshitome6648
私も大和王権と邪馬台国は別王朝だと思います。当時の大和王権の大王が崇神天皇ではないかと思っています。
北部九州→邪馬台国を含む30ヶ国が集まり女王国連合が出来る
畿内→同時代に大和国と周辺諸国が集まり、大和連合王権が出来る
天皇→神武〜開花までは小国の王に過ぎなかったが、崇神天皇の代で連合王権の大王となる
と言うのは私の主な考えです。
@@o10meza さん
邪馬台国時代。孝霊、孝元、開化、崇神天皇あたりですかね。
中国のブンケンに有る人ですか?当時、文字が無いのに世界一難しい言語とは。俺もフックユーザーぐらいしか分らね🤷♀(笑)
当時文字なかったかどうかは怪しいけどね。個人的には統一された文字はなく神代文字が各地にあった説をとってます。
@@鈴麗リンリー
なるほど🤔勉強になりました。
@@鈴麗リンリー神代文字はあったかもしれないけど、当時のオリジナルが残っていなくて、伝わっている物は後世の創作なのが残念です。どこかに当時の神代文字が発見されると良いのですが。