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なるほどなるほどー。
ありがとうございます
ありがとうございました。
今回もありがとうございます🙇
煩悩があるままで悟れる不思議な心。。智慧の太陽を頂くこと。。😮お話よく分かりました。。
真剣な聴聞を続けていきたいと思います。今日もありがとうございました
素晴らしいです。
いつもありがとうございます。自分が疲れ切ってキツいと感じるとき、心のよりどころとさせていただいてます。
いつも励みになります。今日も有り難うございます🙇
不可思議な救いとしか言いようがないですね。正信偈に一度しか出てこない喩えを通じて、明らかにしようとされた真意を汲み取りたいです。いつもありがとうございます。
とても大切な動画です。ありがとうございます。☀️😌🐶👍
南無阿弥陀仏m(__)m
煩悩ある苦境が学びの里と思えればそれも幸福です 学びで得られる光は人生の宝です ありがとうございました
2024年5月16日(木曜日☀16時44分)人間は煩悩具足の凡夫100%でも幸せには成れますか、しかし煩悩は人生のあらゆる苦に成り得ますよね。やはり常に知恵の太陽を浴びて行く事ですね。菊谷先生、本日も貴重な大切なお話を学ばせて頂きました。ありがとう御座いました🙏
希望ですかね。
不断煩悩得涅槃仏法は聴聞に極まる南無阿弥陀仏✕3🙏🙇
プラスの感情があるなら逆にマイナスの感情もあるのは当然で、心理であることは言うまでもないでしょう。無明の闇の中で光り輝くこの世界がまさに涅槃ということなのですね。知恵の太陽をいただくことが信心獲得するということ。菊谷先生、今日もお教えいただきありがとうございました。
菊谷隆太先生、こんにちは。🇨🇺🤱🇨🇺🤱今日も、ありがとうございます。🙆🤱🙆♀🤱🙆♂🤱☕🤱🍵🤱🥃🤱🍷🤱
今日も,ありがとうございました。大変,学びになりました。
こんばんは!今日もありがとうございました!(菊谷隆太先生動画視聴メモ)★煩悩を抑えることなく、幸せになれる方法1.煩悩具足の凡夫(貪瞋痴、不断煩悩得涅槃)2.譬如日光覆雲霧(智慧の太陽)3.信心獲得(一念、南無阿弥陀仏)
ありがたいお話しです。一度、知恵の太陽をいただいたなら、もう沈むことがないと思います。1日も早くそうなりたいと願っていますが、自分でも嫌になるくらいの豆腐メンタルです。理由なく周囲に当たり散らすことはありませんが、自分を守るのに必死になりすぎて怒ることもあります。湖面の様な静かで落ち着いた心で過ごしたいと思っていても、すぐに波だち余計なことまで考えたりします。ただ不思議なことにお話しいただく内容は、腑に落ち受け入れることができます。今は頭で理解している段階、それを実感し確信に変えていくにはどうしたら良いのか....日々仕事に追われ、人からの評価や成果が露骨に可視化された社会の中で仕事をしていますので、穏やかさは、いつ何時ひっくり返るか分かわかりません。SNSやリモートワーク、ひっきりなしにいろんな意見が飛び込んでくるので、私には慌ただしすぎます。もちろん自分の能力の限界もあり1週間のり切るのも一苦労だったりします。落ち着いて内面を省みることすらできていませんが、信心獲得とても興味深いです。
利己的な欲が煩悩なら、利他的な欲は慈悲です。業の種子は来世に残り、善くも悪くも発現することになります。
菊谷先生 こんばんは😊本日もありがとうございます。今日のテーマは、『煩悩を断たずに幸せになる方法』というお話しでした。煩悩をなくさないままで、煩悩あるがままで幸福になれる方法がありますよと親鸞聖人から教えられている。『不断煩悩得涅槃』 煩悩を断たずに涅槃を得る (煩悩を断つことなしに涅槃を 得る) 『無碍の一道』『無上の幸福』 になれると親鸞聖人は言われ ている。煩悩は我々を煩わし悩ませるものとあるようにこれがある限り安らかな気持ちにはなれないし、満たされた気持ちにはなれないと思うけれども親鸞聖人は煩悩があるまんまで、煩悩をなくさないままで無上の幸福になれるとハッキリと言われている。この不思議な心の世界と言うのはどんな世界なのかと言うことである。1 煩悩具足の凡夫2 譬如日光覆雲霧3 信心獲得1 煩悩あるまんまで幸せになれる(無上の幸福になれる)よ と!!歎異抄で『煩悩具足の凡夫』と言われている。 具足:煩悩でできている 凡夫:人間よって煩悩でできているのが人間だと煩悩の塊だと!!言われる。 2 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇例えるならば日光は雲霧に覆われてれいる(常に)が雲霧の下はどうかと言うと明るい。闇はないんだと言われている。煩悩を雲や霧に例えて私達の心が無碍の一道、絶対の幸福になったことを明るいと例えられている。日光が上がると明るくなる。雲や霧は関係ない。雲や霧がどんなに覆われていても明るい。闇はなうい。日光が出てないときは真っ暗闇であるが、日光が出ると明るい。霧や霧は関係ない。雲や霧に覆われていてもその下は明るい。限りなく明るい。無碍の一道、煩悩が邪魔にならないんだと!! 『明無闇』 『無明の闇を破する慧日なり』 私達の暗い心を破る明るくする 知慧の太陽であるこのことを生涯教えられて行かれた方が親鸞聖人である。3 知慧の太陽を頂くことを親鸞聖人 は『信心獲得』と言われている。 知慧の太陽のことを真実信心とも 言う。 真実信心の太陽(真実信心の天)信心獲得するのはいつか? 平生の一念である。 一念で頂く。仏教を聞く目的は知慧の太陽を平生の一念に頂くことである。これは生きている時にできる。これが人間に産まれてきた生きている目的である。そのために私達は頑張って生きている。と蓮如上人は言われている。これを教えられたのか親鸞聖人である。煩悩が苦しみの原因ではない。煩悩はどれだけあっても良い。知慧の太陽を頂きさえすれば本当の幸せになれる。どうしたら信心獲得できるか? 真剣に聞きなさい。と聴聞が勧め られている。 ※ 聴聞しなさい と 『仏法は聴聞に極まる』聞く一つで知慧の太陽を頂くことができるから聞いて聞いてききぬきなさいと親鸞聖人の教えである。本日も貴重なお話しをありがとうございました。
泥まみれの人をホースで洗うと泥だけ落ちますが、煩悩をホースで洗い落とすと、人は溶けて無くなってしまうのでしょうか。暗いのは煩悩があるからではなく、智恵の太陽が上がらないからですね。金星のように分厚い雲に覆われていても、一念によって日の光が差してくることが救いなのでしょうね。
はっきり言えば、煩悩を抑えて生きないと、世間的な幸福にはなれませんよね!親鸞は煩悩にまかせていて、つまり悪人のままで相対の幸福も得られると説いていたのでしょうか?私はそれは違うと思います!菊谷さん如何でしょうか?
疑い心あること無しです。
出家か在家かにかかわらず、仏教徒であるならば、煩悩を抑えて、仏性を磨き、善人になるべきだと思いますが、如何でしょうか?親鸞聖人は信前信後に廃悪修善をして聖人になったのではないのか?そうでなければ、何故親鸞にだけ聖人と呼ぶのかな!他力信心とその覚りは皆同じなはずだけどね!
煩悩は、我慢することができても、違う煩悩が出てくるものです。減らすこともできなければなくすこともできないのが煩悩です。仏性を磨くとありましたが、わたしたちの中に仏性はあるのでしょうか。他人のためになることをしようと思っても、その裏には認めてもらいたい、褒められたいという欲がうごめいています。そんなものを雑毒の善と言われています。毒が混じった善はこの世では善ですが、仏の眼から見ると悪なのです。凡夫に仏性など微塵もないと感じます。廃悪修善は仏教で勧められている大切な教えです。南無阿弥陀仏をいただける時に、一つの善もできないのが私でありましたと知らされると言われています。自分も彌陀をタノム身になるまで、精進したいものだと思わされるコメントでした。ありがとうございました。
>煩悩 煩悩という話が出たのですが、この菊谷先生のこの動画で、煩悩の話をするのは無理があるのではと私は思います。 前々から不思議に思っていたのですが、菊谷先生は仏教教学の唯識論についてなぜ語らないのだろうかと? 浄土真宗では唯識思想は不要と考えているのだろうか?と思っていたのですが、他の浄土真宗のTH-camr先生は数十本の唯識思想の解説をしているので、そうでもないことが分かりました。 私は唯識学に関する本をそこそこの数を買いましたが、難解さを極めているので死ぬまで読み続けても理解は出来ないと思います。入門の入門から読んでいます。 私は【五位百法】の一覧表を持ち歩いていて、日々に時間がある時に取り出して【煩悩】【随煩悩】に囚われていないか確認しています。煩悩は抑えることが出来ると私は考えています。 超簡単な三毒(貪・瞋・痴)を例に出しますと、痴は無明なので凡夫には制御は出来ませんが貪欲ならば『少欲知足 或いは 唯だそれをする や 二念を継がず』の考えで、瞋ならば『自他の分別をつけず 或いは 慈悲』で抑えられると思います。 私は「仏性を磨く」というよりは、七仏通戒偈により、阿頼耶識の中の浄化をするという考えをしています。 善いことを考え、善い行いをして、潜在意識の中の穢れを薄めるみたいな感じですかね? 文庫本の「私だけの仏教 玄侑」という本を読んで、私のやっていることと同じことが書かれているなと感じました。 仏教の良いとこ取りのヴァイキングです。初期仏教・唯識・中観・浄土・禅などで、自分の腑に落ちる良いところだけを取り入れるという方式です。 あるがままと言っても、自己の欲望を満たす為なら、『詐欺・盗み・殺人など』も厭わずに行う あるがままでは、人と言えるのかという疑問が残りますね。まぁ~、ここは浄土真宗の動画なので、それにそっただけの内容の動画ということになりますが。
お釈迦様がついた嘘は死んだら極楽浄土がある。1番の逃げ上手は六道輪廻から解脱した誰かさん。また六道輪廻も確実に嘘であると思ふ
学び直した方がいいですよ😅
なるほどなるほどー。
ありがとうございます
ありがとうございました。
今回もありがとうございます🙇
煩悩があるままで悟れる不思議な心。。智慧の太陽を頂くこと。。😮お話よく分かりました。。
真剣な聴聞を続けていきたいと思います。
今日もありがとうございました
素晴らしいです。
いつもありがとうございます。
自分が疲れ切ってキツいと感じるとき、心のよりどころとさせていただいてます。
いつも励みになります。
今日も有り難うございます🙇
不可思議な救いとしか言いようがないですね。
正信偈に一度しか出てこない喩えを通じて、明らかにしようとされた真意を汲み取りたいです。
いつもありがとうございます。
とても大切な動画です。ありがとうございます。☀️😌🐶👍
南無阿弥陀仏m(__)m
煩悩ある苦境が学びの里と思えればそれも幸福です 学びで得られる光は人生の宝です ありがとうございました
2024年5月16日(木曜日☀16時44分)人間は煩悩具足の凡夫100%でも幸せには成れますか、しかし煩悩は人生のあらゆる苦に成り得ますよね。やはり常に知恵の太陽を浴びて行く事ですね。菊谷先生、本日も貴重な大切なお話を学ばせて頂きました。ありがとう御座いました🙏
希望ですかね。
不断煩悩得涅槃
仏法は聴聞に極まる
南無阿弥陀仏✕3🙏🙇
プラスの感情があるなら逆にマイナスの感情もあるのは当然で、心理であることは言うまでもないでしょう。無明の闇の中で光り輝くこの世界がまさに涅槃ということなのですね。知恵の太陽をいただくことが信心獲得するということ。菊谷先生、今日もお教えいただきありがとうございました。
菊谷隆太先生、こんにちは。🇨🇺🤱🇨🇺🤱今日も、ありがとうございます。🙆🤱🙆♀🤱🙆♂🤱☕🤱🍵🤱🥃🤱🍷🤱
今日も,ありがとうございました。
大変,学びになりました。
こんばんは!
今日もありがとうございました!
(菊谷隆太先生動画視聴メモ)
★煩悩を抑えることなく、幸せになれる方法
1.煩悩具足の凡夫(貪瞋痴、不断煩悩得涅槃)
2.譬如日光覆雲霧(智慧の太陽)
3.信心獲得(一念、南無阿弥陀仏)
ありがたいお話しです。
一度、知恵の太陽をいただいたなら、もう沈むことがないと思います。1日も早くそうなりたいと願っていますが、自分でも嫌になるくらいの豆腐メンタルです。
理由なく周囲に当たり散らすことはありませんが、自分を守るのに必死になりすぎて怒ることもあります。湖面の様な静かで落ち着いた心で過ごしたいと思っていても、すぐに波だち余計なことまで考えたりします。ただ不思議なことにお話しいただく内容は、腑に落ち受け入れることができます。今は頭で理解している段階、それを実感し確信に変えていくにはどうしたら良いのか....日々仕事に追われ、人からの評価や成果が露骨に可視化された社会の中で仕事をしていますので、穏やかさは、いつ何時ひっくり返るか分かわかりません。SNSやリモートワーク、ひっきりなしにいろんな意見が飛び込んでくるので、私には慌ただしすぎます。もちろん自分の能力の限界もあり1週間のり切るのも一苦労だったりします。落ち着いて内面を省みることすらできていませんが、信心獲得とても興味深いです。
利己的な欲が煩悩なら、利他的な欲は慈悲です。業の種子は来世に残り、善くも悪くも発現することになります。
菊谷先生 こんばんは😊
本日もありがとうございます。
今日のテーマは、『煩悩を断たずに幸せになる方法』というお話しでした。
煩悩をなくさないままで、煩悩あるがままで幸福になれる方法がありますよと親鸞聖人から教えられている。
『不断煩悩得涅槃』
煩悩を断たずに涅槃を得る
(煩悩を断つことなしに涅槃を
得る)
『無碍の一道』『無上の幸福』
になれると親鸞聖人は言われ
ている。
煩悩は我々を煩わし悩ませるものとあるようにこれがある限り安らかな気持ちにはなれないし、満たされた気持ちにはなれないと思うけれども親鸞聖人は煩悩があるまんまで、煩悩をなくさないままで無上の幸福になれるとハッキリと言われている。
この不思議な心の世界と言うのはどんな世界なのかと言うことである。
1 煩悩具足の凡夫
2 譬如日光覆雲霧
3 信心獲得
1 煩悩あるまんまで幸せになれる(無上の幸福になれる)よ
と!!
歎異抄で『煩悩具足の凡夫』と言われている。
具足:煩悩でできている
凡夫:人間
よって煩悩でできているのが人間だと煩悩の塊だと!!言われる。
2 譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
例えるならば日光は雲霧に覆われてれいる(常に)が雲霧の下はどうかと言うと明るい。闇はないんだと言われている。
煩悩を雲や霧に例えて私達の心が無碍の一道、絶対の幸福になったことを明るいと例えられている。
日光が上がると明るくなる。雲や霧は関係ない。雲や霧がどんなに覆われていても明るい。闇はなうい。
日光が出てないときは真っ暗闇であるが、日光が出ると明るい。霧や霧は関係ない。
雲や霧に覆われていてもその下は明るい。限りなく明るい。
無碍の一道、煩悩が邪魔にならないんだと!! 『明無闇』
『無明の闇を破する慧日なり』
私達の暗い心を破る明るくする
知慧の太陽である
このことを生涯教えられて行かれた方が親鸞聖人である。
3 知慧の太陽を頂くことを親鸞聖人
は『信心獲得』と言わ
れている。
知慧の太陽のことを真実信心とも
言う。
真実信心の太陽(真実信心の天)
信心獲得するのはいつか?
平生の一念である。
一念で頂く。
仏教を聞く目的は知慧の太陽を平生の一念に頂くことである。これは生きている時にできる。これが人間に産まれてきた生きている目的である。そのために私達は頑張って生きている。と蓮如上人は言われている。これを教えられたのか親鸞聖人である。
煩悩が苦しみの原因ではない。
煩悩はどれだけあっても良い。
知慧の太陽を頂きさえすれば本当の幸せになれる。
どうしたら信心獲得できるか?
真剣に聞きなさい。と聴聞が勧め
られている。 ※ 聴聞しなさい と
『仏法は聴聞に極まる』
聞く一つで知慧の太陽を頂くことができるから聞いて聞いてききぬきなさいと親鸞聖人の教えである。
本日も貴重なお話しをありがとうございました。
泥まみれの人をホースで洗うと泥だけ落ちますが、煩悩をホースで洗い落とすと、人は溶けて無くなってしまうのでしょうか。
暗いのは煩悩があるからではなく、智恵の太陽が上がらないからですね。
金星のように分厚い雲に覆われていても、一念によって日の光が差してくることが救いなのでしょうね。
はっきり言えば、煩悩を抑えて生きないと、世間的な幸福にはなれませんよね!親鸞は煩悩にまかせていて、つまり悪人のままで相対の幸福も得られると説いていたのでしょうか?私はそれは違うと思います!菊谷さん如何でしょうか?
疑い心あること無しです。
出家か在家かにかかわらず、仏教徒であるならば、煩悩を抑えて、仏性を磨き、善人になるべきだと思いますが、如何でしょうか?親鸞聖人は信前信後に廃悪修善をして聖人になったのではないのか?そうでなければ、何故親鸞にだけ聖人と呼ぶのかな!他力信心とその覚りは皆同じなはずだけどね!
煩悩は、我慢することができても、違う煩悩が出てくるものです。減らすこともできなければなくすこともできないのが煩悩です。
仏性を磨くとありましたが、わたしたちの中に仏性はあるのでしょうか。他人のためになることをしようと思っても、その裏には認めてもらいたい、褒められたいという欲がうごめいています。そんなものを雑毒の善と言われています。毒が混じった善はこの世では善ですが、仏の眼から見ると悪なのです。
凡夫に仏性など微塵もないと感じます。
廃悪修善は仏教で勧められている大切な教えです。
南無阿弥陀仏をいただける時に、一つの善もできないのが私でありましたと知らされると言われています。
自分も彌陀をタノム身になるまで、精進したいものだと思わされるコメントでした。ありがとうございました。
>煩悩
煩悩という話が出たのですが、この菊谷先生のこの動画で、煩悩の話をするのは
無理があるのではと私は思います。
前々から不思議に思っていたのですが、菊谷先生は仏教教学の唯識論について
なぜ語らないのだろうかと? 浄土真宗では唯識思想は不要と考えているのだろうか?と
思っていたのですが、他の浄土真宗のTH-camr先生は数十本の唯識思想の解説を
しているので、そうでもないことが分かりました。
私は唯識学に関する本をそこそこの数を買いましたが、難解さを極めているので
死ぬまで読み続けても理解は出来ないと思います。入門の入門から読んでいます。
私は【五位百法】の一覧表を持ち歩いていて、日々に時間がある時に取り出して
【煩悩】【随煩悩】に囚われていないか確認しています。
煩悩は抑えることが出来ると私は考えています。
超簡単な三毒(貪・瞋・痴)を例に出しますと、痴は無明なので凡夫には制御は出来ませんが
貪欲ならば『少欲知足 或いは 唯だそれをする や 二念を継がず』の考えで、
瞋ならば『自他の分別をつけず 或いは 慈悲』で抑えられると思います。
私は「仏性を磨く」というよりは、七仏通戒偈により、阿頼耶識の中の浄化をするという
考えをしています。 善いことを考え、善い行いをして、潜在意識の中の穢れを薄めるみたいな感じですかね?
文庫本の「私だけの仏教 玄侑」という本を読んで、私のやっていることと同じことが
書かれているなと感じました。 仏教の良いとこ取りのヴァイキングです。
初期仏教・唯識・中観・浄土・禅などで、自分の腑に落ちる良いところだけを取り入れるという方式です。
あるがままと言っても、自己の欲望を満たす為なら、『詐欺・盗み・殺人など』も
厭わずに行う あるがままでは、人と言えるのかという疑問が残りますね。
まぁ~、ここは浄土真宗の動画なので、それにそっただけの内容の動画ということになりますが。
お釈迦様がついた嘘は
死んだら極楽浄土がある。
1番の逃げ上手は
六道輪廻から解脱した誰かさん。
また六道輪廻も確実に嘘であると思ふ
学び直した方がいいですよ😅