2021年度 第1問 東京大学 日本史  「承和の変の意義」

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  • เผยแพร่เมื่อ 27 ม.ค. 2025
  • 与えられているリード文をそのまままとめても答案にはなりません。それでは日本史の問題ではなくて、日本語の問題になってしまいます。皇位継承の争いがないというのは、「次期天皇候補者が2人以上いて、その候補者に連携している母方の有力貴族同士の勢力争いが起こる」という状態がないことを意味します。なぜ、そういう状態になったのか、がこの問題の表面的なテーマであることになります。
    東京大学 日本史 2021年度 第1問
    次の⑴~⑸の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。
    ⑴ 842年嵯峨上皇が没すると,仁明天皇を廃して淳和天皇の子である皇太子恒貞親王を奉じようとする謀反が発覚し,恒貞親王は廃され,仁明天皇の長男道康親王(文徳天皇)が皇太子に立てられた。以後皇位は,直系で継承されていく。
    ⑵ 嵯峨・淳和天皇は学者など有能な文人官僚を公卿に取り立てていくが,承和の変の背景には,淳和天皇と恒貞親王に仕える官人の排斥があった。これ以後,文人官僚はその勢力を失っていき,太政官の中枢は嵯峨源氏と藤原北家で占められるようになった。
    ⑶ 文徳天皇は,仁寿年間以降(851~),内裏の中心である紫宸殿に出御して政治をみることがなかったという。官僚機構の整備によって天皇がその場に臨まなくても支障のない体制になったためだと考えられる。藤原氏の勧学院,在原氏や源氏の奨学院など,有力氏族は子弟のための教育施設を設けた。
    ⑷ 858年清和天皇はわずか9歳で即位した。このとき外祖父で太政大臣の藤原良房が実質的に摂政となったと考えられる。876年に陽成天皇に譲位する時に,清和天皇は藤原基経を摂政に任じ,良房が自分を補佐したように陽成天皇に仕えよと述べている。
    ⑸ 清和天皇の貞観年間(859~876)には,『貞観格』『貞観式』が撰定されたほか,唐の儀礼書を手本に『儀式』が編纂されてさまざまな儀礼を規定するなど,法典編纂が進められた。
    設問
    9世紀後半になると,奈良時代以来くり返された皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり,安定した体制になった。その背景にはどのような変化があったか。5行以内で述べなさい。
    *****
    藤原種継暗殺から承和の変までは、壬申の乱の後の天武皇統と天智皇統の相互牽制と、天武皇統の聖武天皇による断絶とにより、迭立による「大兄制」の復活が見られ、これが皇位継承の争いの原因になっていた。
    そこで皇統の統一という観点での天皇と外戚の利害が一致して成立したのが9世紀後半の摂関政治である。本問は、この枠組みを成立させた承和の変の歴史的な意義についての皇統統一の側から見た再評価を求める問題である。
    そして、ここで成立した体制は10世紀後半の摂関政治の盛期になると、外戚の影響力の下で、争いは生じないものの再び、兄弟間の皇位継承が生じる状況に至るのである。
    10世紀後半の兄弟間での皇位継承は、外戚から見れば、同一人物、あるいはその氏長者の地位の継承者の間での直系による権力継承であるが、皇統から見れば、爬行的な皇位継承になる。
    これがその後の院政を生む契機となったというのが、出題者の大きい見方であろうと思う。

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