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嫡流では全くないのですが、祖先が古代に戦に敗れ香川に落ち着き、第二次大戦あたりまで高松にいた、ときいています。一度敗れて落ち延びてからは、戦とは関わらない生業をした、とも。わくわくして聞いていましたが戦国時代の国人としては全然名前は出てきませんでした…。縁戚として十河や京極の名前は聞いていました。江戸時代には松平につかえ、生業は商い、伏石屋といい、家老に近い扱いだったと。戦国の世も平和主義で生きたのかな。それはそれで嬉しい。
もし讃岐藤家六十三家の古川氏の詳細について知っている方いらっしゃれば、曽祖父の代でさらに分家し、祖父の代で香川を離れ情報を得る手段がないためどこから分家しどのような歴史を辿ったのか教えていただければと思います。
香川県民です。解説ありがとうございます。香西氏・寒川氏・香川氏・十河氏など、『平成の大合併』やもしかしたら『昭和の大合併』が起こるまであった自治体や地名の由来になった人たちがいたんですね。気になるのは高松市を中心に「大西」という苗字の人が多いのですが、彼らはここには出てこなかったけど一定勢力を持っていたんでしょうか?香川県は明治維新後の廃藩置県でも四国なのに愛媛県や名東県(みょうどうけん、現徳島県)に併合されて大変でした。江戸時代ではあの平賀源内も様々な発明や坂出・宇多津に塩田を気づいた久米通賢も高松藩の人間でその辺りまで版図が広がっていたんでしょうか。一方で丸亀藩は金毘羅参りの玄関口の港を持ち、その参詣やうちわの製造の奨励などで発展を図っていたそうです。
大西氏は阿波の大西氏です。長曾我部の敵となって逃げてきた大西氏もいる一方で長曾我部の一軍として戦った大西氏もいます。どちらかと言えば後者の子孫が多くいるのかと思われます。讃岐で中讃から東讃にかけて進軍した長曾我部軍は西衆と言い、香川氏を対象とした阿波・大西氏、東予、讃岐の降伏勢力の混成部隊だったのです。江戸時代に長曾我部がすべて悪いという風潮の中で(おそらく政治的にも子孫の絶えた長曾我部がすべて悪いとするのが都合よかった)長曾我部勢力として戦った地元の勢力の話はされなくなり、知る人も少ないのです。よく長曾我部元親が寺を焼いたなどと伝承がありますが、そこに来ていた長曾我部軍の中身は阿波、東予、讃岐の兵だったのになあ・・と苦笑してしまうことがあります^^;
十河氏の子孫の方が、十河城跡近くでお店をしていらっしゃいます。
香川県民ですが何の歴史も知らないまま災害が少ない良い所だと今まで生きてきました!良い動画です👍️
今日も、動画配信ありがとうございます。 大変勉強に、成りました。 次の、動画配信又は、ライブ配信お願い致します。
香川に限らず四国の戦国時代なんて大雑把に長宗我部と三好、これだけで語れるもんな勿論愛媛の河野氏や中村御所の一条氏、瀬戸内の村上水軍等そこそこ有名な人達もいるけど徳島香川はまじで三好しかない
十河一族の末裔で〜す😊おじいちゃんの家には、十河存保の使ってた刀・鎧があります😊
それは国宝モノですね。昔は十河同族会でイベントがあったけど、今もやってるのかな?
それは凄い!私も十河の末裔です。是非拝見したいです。
栄枯盛衰
寒川の読みは、「さんがわ」です。さむかわは、神奈川の地名よみです。
地域の歴史をTH-camで見れて感無量です。なかなか香川県の歴史を聞かないですから嬉しいです。
香川県出身なので興味深く聞きました。
うどんが美味しいイメージしかないけど、細川氏や三好氏が絡んでいるとなると、重要な位置にあるよな。現地のうどん本当に美味しかったよ!
誇らしいよ
戦国後期の古地図を調べると、当時の高松市の海岸線は琴電長尾線のラインとほぼ一致してる。長尾線から北側の土地は殆ど干潟だった屋島は文字通り『島』
長尾線ではなく志度線ですね
@@masasato4321 林道駅から向こうが干潟だから長尾線かと思ってたんですが
@@wadepsilon01 すみません林道あたりであれば、北側が干潟はありえますね。
@@masasato4321 説明不足でした(高松市内は)長尾線の北側が~と書くべきだったのかも志度線の北側も海だったのは間違いでは無いですね。古高松辺りは陸地でした
たまには伏石地域の佐藤志摩介も思い出してください。香西氏の命により讃岐の使者として上洛し、信長公に大変気に入られて馬まで贈られた人物で、生駒統治時代は丸亀城城代を務め、後の栗林公園と呼ばれるものの礎を築いた人物なのですよ。
讃岐人です。「さぬき」の発音は、「さ」にアクセントを付けず、平坦に「さぬき」と発音していただければと思います。
高松の十河で生まれ苗字は香西、、なかなか地元の歴史が詰まってる私
「へらこい」という讃岐弁を聞けてうれしいですw😂
ちなみに鎌倉時代の讃岐守護は北条得宗家でした。細川政元暗殺の混乱の中で、讃岐の武士たちは当主や嫡男が討死して、衰退していくことになりました…。
香川県民です。解説ありがとうございます。支配領主が目まぐるしく変遷していたのですね。本能寺の変との関係など、勉強になりました。
私も香川県 民
一応県で頑張ってみるものの、結局国に頼る県政、今の世に繋がってる気が…
四国は、日本の副王こと三好長慶や、土佐の出来人こと長宗我部元親ばかりに脚光が集まりがちですが、香川の戦国大名にも深い歴史があることが分かり、面白かったです。
細川、三好の策源地なんだけとその要素は絶対阿波の方が強いよなぁ…
うちのご先祖様は長曾我部が攻めてきた時に帰農したそうです。その後のゴタゴタを見るに慧眼だったなとw
阿野は「あの」ではなく「あや」。鵜多郡と合わせて、現在は綾歌郡です。
よく調べられていると思います。長宗我部と十河の戦いの前に西讃の香川氏と長宗我部が同盟、西から香川氏、東から長宗我部本軍で十河城を囲んだというところが真実です
香川県は現在、日本の都道府県で面積が最小である(関西空港の開港前は大阪府)。失礼ながら、こんな地に藩が三つもあったとは、米は多く取れなかったであろうから、税は塩で納めさせたのだろうか。余談だが、多度津町には少林寺拳法の総本山がある。どこまで本当か分からないが、総本山を東京に移転する話があったときに当時の香川県知事と多度津町長が訪れ、どうか移転しないでと懇願し、中止になったそうだ。
高松藩は江戸幕府の臣下で最上位。塩、砂糖、工芸品などで藩政は潤っていました。特に塩は明治期に日本一、砂糖は和三盆の開発に成功し唯一の藩で大坂の白砂糖の6割は高松藩のものでした
讃岐といえば西嶋八兵衛。生駒の舅、藤堂高虎の命を受け溜池などの治水工事に尽力。
江戸時代、高松藩からは平賀源内が出ている。
平賀源内と言えば土用の丑の日発案に感謝!!
志度にある『平賀源内遺品館』は必見ですね。
でも悲しいかなどこ出身地かは語られることは少ない(元うどん県民のおいらも知ったな比較的最近の)(。´Д⊂)
十河一族の末裔です。ありがとうございます。
自分も、十河一族の末裔で〜す😊
松平頼重、嫡流じゃないから、水戸本家を継げずに高松に来たのでは?
産まれたのは頼重のほうが早かったので「嫡流」という言い方をしているのでしょう。実際に水戸徳川家を継いだのは光圀(嫡男という扱いだが、厳密に言うと実際には次男である)です。このへんの見方(言い方)が難しいところです。
まあ、光圀の後継は養子になった頼重の子だし。
頼重と光圀は同じ母から生まれた兄弟です。尾張、紀州より先に嫡男が生まれたことをはばかった父親が元服まで隠し密かに養育したので頼重が次男扱いなんです。ちなみに、弟であるにも関わらず水戸を継いだ光圀が遠慮したからなのか、頼重の子を水戸藩主に、光圀の子が高松藩主にと、養子として互いの子を交換しています。
生駒氏は十河氏の忘れ形見を殺害している。
香川だけでなく、香西、長尾も人名由来だったのね西じゃないのに香西の謎が解けたw
その香西から笠居と云う地名がつきましたけど、笠居の方が殆ど残ってなかったりしますね。
篠原長房を殺したのが運の尽き。篠原自遁の私欲に騙された部分もあるが、三好長治ももはやマトモな感覚は持っていなかったって事かな。
普通は地方の県民性だと素朴でとか人情があってとかが多いのですが、へらこいというのがいいですね。
「寒川」は(さむかわ)ではなくて(さんがわ)と言います。
昔、日本史の時間になぜか超ローカルな香川の歴史をやった。香西氏とか十河氏とか聞いた覚えがある。が、歴史全般が苦手なので残念ながら全く覚えてない。もうちょっと真面目に聞いてもよかったと今になって思う。予想外にずっと香川にいるし。
伊予編もお願いします
さむかわではなくさんがわでは?
漢字の読み間違いが多数あります。もっときちんと調べてから動画をアップした方が良いと思います。
うどん文化に理解がある当主になら協力するがうどんを蔑ろにしたらそれはもう内乱勃発ですよ
2:52 地図間違えましたか?
これは面白いです。戦国時代好きにはあまり興味が引かれない内容かもしれませんが(笑)
四国だし、長宗我部がブイブイいわせてたのでは?と、かなり適当な見解しか持ってませんでした。
あんなの、国親の代でも土佐統一出来てない状態。
今も昔も香川県民は「へらこい」が似合うなぁ力のある人の下について上手く立ち回ることでそれなりの地位で生きて行くって生き方が賢いよな
兵庫県もできればお願いします!
うどん藩じゃなかったのか(違)
寒川→さむかわではなくて、さんがわですよ
四国は長宗我部や村上海賊や坂本龍馬のイメージが強いからね~よく出てくるのは愛媛か高知辺りかもな~(;>_<;)
香川県は雨が少ないから 米作り大変だから傀儡政権になっちゃう 讃岐の『岐』の字は 岐路の岐 文字通りの歴史御解説ありがとうございます🙇
長宗我部の四国統一や、織豊の四国侵攻で香川や徳島の辺りは戦国時代に絡んできますが、東と南の端の方に長宗我部の侵攻はあったものの、それ以外に戦国時代らしい話のない愛媛よ…。ご当地大名についても、築城絡みで三河出身の加藤嘉明と、近江出身の藤堂高虎になるという…しかも栄転で他所に行ってしまうし。
九州の少弐氏並みのしぶとさを誇った伊予守護河野家や、瀬戸内海の覇者村上水軍の本拠地じゃないですか。特に河野家と来島村上氏の興亡史は十分濃厚かと。
今度は、埼玉県の戦国時代を解説してください
のぼうの城とかですかね
十河存保さん、運が無いにも程がある。大名になった時には既に長宗我部が四国統一に向けて力を付けてて、それを信長に助けを求めたら程なく信長はお亡くなりに。後釜の秀吉を頼って長宗我部を大人しくさせたと思ったらその代わりに九州で暴れてる島津を大人しくさせに行けと。で、その上官が酷い奴で見頃氏にされるとは。救いは無いのかと。そういえば信長の四国方面軍の大将は池田恒興でしたっけ?
四国方面軍の総大将は信長の三男信孝で、補佐役で実務を取るのは丹羽長秀。それに、救援が成功した暁に三好家総領の地位は信孝が養子に入って継ぐ事になっていたから、どの道その立場は失う事は確定していました。よって、どんなに良くても讃岐内の十河領だけしか手元に残らない可能性が高く、丸亀を中心とした西讃岐は信孝なり長秀なり現地の織田側に付いた諸侯に与えられていたかと。
何でわざわざ香川なのかと思ったら「へらこい」からだと思った。
オオチにサンガワやろ!❤️コヤツ、なんも知らん!❤️
県民性…うっ、なんもいえんww
💬皆さまのコメントをお待ちしています----------------------------------------------あなたは戦国時代の沖縄県についてどう思いますか?参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。🙇コメント欄についてのお願い---------------------------------------------いつも視聴者様には当チャンネルをご視聴、沢山のコメント頂きありがとうございます。当チャンネルのコメント欄は、日本史に関する様々な意見や考えがあつまる場所です。他の人の見解や歴史感に触れ、多角的に日本史を楽しむきっかけの一つになればよいと思っています。歴史好きの視聴者が集う「ほのぼの日本史」だからこそ、より深く、日本史の魅力や歴史的事象を考察したり、視聴者の皆様と共有したいと考えています。しかしながら時折、あまり好ましくない表現や議論の方向性のコメントが見受けられます。皆さまが末長く歴史の楽しさを語り合えるよう、乱暴な表現やコメント、参加者同士の不毛な争いが起こっている場合は、見つけ次第、非表示にさせて頂く場合がございます。このようなコメントも、歴史を愛する気持ちが溢れ出た上であることは十二分に承知していますが、動画を視聴し、視聴者の皆様が気持ちよく歴史感を共有できるよう、ご協力・ご理解の程、よろしくお願いします。
天王寺の発音が違うな。 関東人のイントネーションだ。
合理的な思考😅?少なくとも行政や教育は染まっている気が。
四国を統一した?長宗我部元親
夏目漱石にクソミソいわれるわけだ。
松山と高松を混同してませんか?
共通点は何方も藩主は松平家って事くらいかな?高松の方は異父弟の大河内松平家で、松山は松平アナの本家の方の松平家。
俺の中では、とがわ ぞんぽ。息子?だと思うのが、とがわ ぞんやす
香川県の戦国時代面白そうと思ってみてみればw結局文字のみで全部説明してて分かりにくいわ。動画なんだから絵で説明すればいいのにw残念過ぎるな
嘘はいいです
嫡流では全くないのですが、祖先が古代に戦に敗れ香川に落ち着き、第二次大戦あたりまで高松にいた、ときいています。
一度敗れて落ち延びてからは、戦とは関わらない生業をした、とも。わくわくして聞いていましたが戦国時代の国人としては全然名前は出てきませんでした…。縁戚として十河や京極の名前は聞いていました。江戸時代には松平につかえ、生業は商い、伏石屋といい、家老に近い扱いだったと。戦国の世も平和主義で生きたのかな。それはそれで嬉しい。
もし讃岐藤家六十三家の古川氏の詳細について知っている方いらっしゃれば、曽祖父の代でさらに分家し、祖父の代で香川を離れ情報を得る手段がないためどこから分家しどのような歴史を辿ったのか教えていただければと思います。
香川県民です。解説ありがとうございます。香西氏・寒川氏・香川氏・十河氏など、『平成の大合併』やもしかしたら『昭和の大合併』が起こるまであった自治体や地名の由来になった人たちがいたんですね。気になるのは高松市を中心に「大西」という苗字の人が多いのですが、彼らはここには出てこなかったけど一定勢力を持っていたんでしょうか?
香川県は明治維新後の廃藩置県でも四国なのに愛媛県や名東県(みょうどうけん、現徳島県)に併合されて大変でした。
江戸時代ではあの平賀源内も様々な発明や坂出・宇多津に塩田を気づいた久米通賢も高松藩の人間でその辺りまで版図が広がっていたんでしょうか。
一方で丸亀藩は金毘羅参りの玄関口の港を持ち、その参詣やうちわの製造の奨励などで発展を図っていたそうです。
大西氏は阿波の大西氏です。長曾我部の敵となって逃げてきた大西氏もいる一方で長曾我部の一軍として戦った大西氏もいます。どちらかと言えば後者の子孫が多くいるのかと思われます。讃岐で中讃から東讃にかけて進軍した長曾我部軍は西衆と言い、香川氏を対象とした阿波・大西氏、東予、讃岐の降伏勢力の混成部隊だったのです。江戸時代に長曾我部がすべて悪いという風潮の中で(おそらく政治的にも子孫の絶えた長曾我部がすべて悪いとするのが都合よかった)長曾我部勢力として戦った地元の勢力の話はされなくなり、知る人も少ないのです。よく長曾我部元親が寺を焼いたなどと伝承がありますが、そこに来ていた長曾我部軍の中身は阿波、東予、讃岐の兵だったのになあ・・と苦笑してしまうことがあります^^;
十河氏の子孫の方が、十河城跡近くでお店をしていらっしゃいます。
香川県民ですが何の歴史も知らないまま
災害が少ない良い所だと今まで生きてきました!
良い動画です👍️
今日も、動画配信ありがとうございます。
大変勉強に、成りました。
次の、動画配信又は、ライブ配信お願い致します。
香川に限らず四国の戦国時代なんて大雑把に長宗我部と三好、これだけで語れるもんな
勿論愛媛の河野氏や中村御所の一条氏、瀬戸内の村上水軍等そこそこ有名な人達もいるけど徳島香川はまじで三好しかない
十河一族の末裔で〜す😊おじいちゃんの家には、十河存保の使ってた刀・鎧があります😊
それは国宝モノですね。昔は十河同族会でイベントがあったけど、今もやってるのかな?
それは凄い!
私も十河の末裔です。
是非拝見したいです。
栄枯盛衰
寒川の読みは、「さんがわ」です。さむかわは、神奈川の地名よみです。
地域の歴史をTH-camで見れて感無量です。
なかなか香川県の歴史を聞かないですから嬉しいです。
香川県出身なので興味深く聞きました。
うどんが美味しいイメージしかないけど、細川氏や三好氏が絡んでいるとなると、重要な位置にあるよな。
現地のうどん本当に美味しかったよ!
誇らしいよ
戦国後期の古地図を調べると、当時の高松市の海岸線は琴電長尾線のラインとほぼ一致してる。
長尾線から北側の土地は殆ど干潟だった
屋島は文字通り『島』
長尾線ではなく志度線ですね
@@masasato4321 林道駅から向こうが干潟だから長尾線かと思ってたんですが
@@wadepsilon01 すみません林道あたりであれば、北側が干潟はありえますね。
@@masasato4321 説明不足でした
(高松市内は)長尾線の北側が~と書くべきだったのかも
志度線の北側も海だったのは間違いでは無いですね。
古高松辺りは陸地でした
たまには伏石地域の佐藤志摩介も思い出してください。
香西氏の命により讃岐の使者として上洛し、信長公に大変気に入られて馬まで贈られた人物で、生駒統治時代は丸亀城城代を務め、後の栗林公園と呼ばれるものの礎を築いた人物なのですよ。
讃岐人です。「さぬき」の発音は、「さ」にアクセントを付けず、平坦に「さぬき」と発音していただければと思います。
高松の十河で生まれ苗字は香西、、
なかなか地元の歴史が詰まってる私
「へらこい」という讃岐弁を聞けてうれしいですw😂
ちなみに鎌倉時代の讃岐守護は北条得宗家でした。細川政元暗殺の混乱の中で、讃岐の武士たちは当主や嫡男が討死して、衰退していくことになりました…。
香川県民です。解説ありがとうございます。支配領主が目まぐるしく変遷していたのですね。本能寺の変との関係など、勉強になりました。
私も香川県 民
一応県で頑張ってみるものの、結局国に頼る県政、今の世に繋がってる気が…
四国は、日本の副王こと三好長慶や、土佐の出来人こと長宗我部元親ばかりに脚光が集まりがちですが、
香川の戦国大名にも深い歴史があることが分かり、面白かったです。
細川、三好の策源地なんだけとその要素は絶対阿波の方が強いよなぁ…
うちのご先祖様は長曾我部が攻めてきた時に帰農したそうです。
その後のゴタゴタを見るに慧眼だったなとw
阿野は「あの」ではなく「あや」。鵜多郡と合わせて、現在は綾歌郡です。
よく調べられていると思います。長宗我部と十河の戦いの前に西讃の香川氏と長宗我部が同盟、西から香川氏、東から長宗我部本軍で十河城を囲んだというところが真実です
香川県は現在、日本の都道府県で面積が最小である(関西空港の開港前は大阪府)。失礼ながら、こんな地に藩が三つもあったとは、米は多く取れなかったであろうから、税は塩で納めさせたのだろうか。余談だが、多度津町には少林寺拳法の総本山がある。どこまで本当か分からないが、総本山を東京に移転する話があったときに当時の香川県知事と多度津町長が訪れ、どうか移転しないでと懇願し、中止になったそうだ。
高松藩は江戸幕府の臣下で最上位。塩、砂糖、工芸品などで藩政は潤っていました。特に塩は明治期に日本一、砂糖は和三盆の開発に成功し唯一の藩で大坂の白砂糖の6割は高松藩のものでした
讃岐といえば西嶋八兵衛。
生駒の舅、藤堂高虎の命を受け溜池などの治水工事に尽力。
江戸時代、高松藩からは平賀源内が出ている。
平賀源内と言えば
土用の丑の日
発案に感謝!!
志度にある『平賀源内遺品館』は必見ですね。
でも悲しいかなどこ出身地かは語られることは少ない
(元うどん県民のおいらも知ったな比較的最近の)(。´Д⊂)
十河一族の末裔です。ありがとうございます。
自分も、十河一族の末裔で〜す😊
松平頼重、嫡流じゃないから、水戸本家を継げずに高松に来たのでは?
産まれたのは頼重のほうが早かったので「嫡流」という言い方をしているのでしょう。
実際に水戸徳川家を継いだのは光圀(嫡男という扱いだが、厳密に言うと実際には次男である)です。このへんの見方(言い方)が難しいところです。
まあ、光圀の後継は養子になった頼重の子だし。
頼重と光圀は同じ母から生まれた兄弟です。尾張、紀州より先に嫡男が生まれたことをはばかった父親が元服まで隠し密かに養育したので頼重が次男扱いなんです。
ちなみに、弟であるにも関わらず水戸を継いだ光圀が遠慮したからなのか、頼重の子を水戸藩主に、光圀の子が高松藩主にと、養子として互いの子を交換しています。
生駒氏は十河氏の忘れ形見を殺害している。
香川だけでなく、香西、長尾も人名由来だったのね
西じゃないのに香西の謎が解けたw
その香西から笠居と云う地名がつきましたけど、笠居の方が殆ど残ってなかったりしますね。
篠原長房を殺したのが運の尽き。篠原自遁の私欲に騙された部分もあるが、三好長治ももはやマトモな感覚は持っていなかったって事かな。
普通は地方の県民性だと素朴でとか人情があってとかが多いのですが、へらこいというのがいいですね。
「寒川」は(さむかわ)ではなくて(さんがわ)と言います。
昔、日本史の時間になぜか超ローカルな香川の歴史をやった。香西氏とか十河氏とか聞いた覚えがある。
が、歴史全般が苦手なので残念ながら全く覚えてない。もうちょっと真面目に聞いてもよかったと今になって思う。予想外にずっと香川にいるし。
伊予編もお願いします
さむかわではなくさんがわでは?
漢字の読み間違いが多数あります。
もっときちんと調べてから動画をアップした方が良いと思います。
うどん文化に理解がある当主になら協力するがうどんを蔑ろにしたらそれはもう内乱勃発ですよ
2:52 地図間違えましたか?
これは面白いです。戦国時代好きにはあまり興味が引かれない内容かもしれませんが(笑)
四国だし、長宗我部がブイブイいわせてたのでは?と、かなり適当な見解しか持ってませんでした。
あんなの、国親の代でも土佐統一出来てない状態。
今も昔も香川県民は「へらこい」が似合うなぁ
力のある人の下について上手く立ち回ることでそれなりの地位で生きて行くって生き方が賢いよな
兵庫県もできればお願いします!
うどん藩じゃなかったのか(違)
寒川→さむかわではなくて、さんがわですよ
四国は長宗我部や村上海賊や坂本龍馬のイメージが強いからね~よく出てくるのは愛媛か高知辺りかもな~(;>_<;)
香川県は雨が少ないから 米作り大変だから
傀儡政権になっちゃう 讃岐の『岐』の字は 岐路の岐 文字通りの歴史
御解説ありがとうございます🙇
長宗我部の四国統一や、織豊の四国侵攻で香川や徳島の辺りは戦国時代に絡んできますが、東と南の端の方に長宗我部の侵攻はあったものの、それ以外に戦国時代らしい話のない愛媛よ…。
ご当地大名についても、築城絡みで三河出身の加藤嘉明と、近江出身の藤堂高虎になるという…しかも栄転で他所に行ってしまうし。
九州の少弐氏並みのしぶとさを誇った伊予守護河野家や、瀬戸内海の覇者村上水軍の本拠地じゃないですか。
特に河野家と来島村上氏の興亡史は十分濃厚かと。
今度は、埼玉県の戦国時代を解説してください
のぼうの城とかですかね
十河存保さん、運が無いにも程がある。大名になった時には既に長宗我部が四国統一に向けて力を付けてて、それを信長に助けを求めたら程なく信長はお亡くなりに。
後釜の秀吉を頼って長宗我部を大人しくさせたと思ったらその代わりに九州で暴れてる島津を大人しくさせに行けと。で、その上官が酷い奴で見頃氏にされるとは。
救いは無いのかと。
そういえば信長の四国方面軍の大将は池田恒興でしたっけ?
四国方面軍の総大将は信長の三男信孝で、補佐役で実務を取るのは丹羽長秀。
それに、救援が成功した暁に三好家総領の地位は信孝が養子に入って継ぐ事になっていたから、どの道その立場は失う事は確定していました。
よって、どんなに良くても讃岐内の十河領だけしか手元に残らない可能性が高く、丸亀を中心とした西讃岐は信孝なり長秀なり現地の織田側に付いた諸侯に与えられていたかと。
何でわざわざ香川なのかと思ったら「へらこい」からだと思った。
オオチにサンガワやろ!❤️
コヤツ、なんも知らん!❤️
県民性…うっ、なんもいえんww
💬皆さまのコメントをお待ちしています
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あなたは戦国時代の沖縄県についてどう思いますか?
参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。
※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
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いつも視聴者様には当チャンネルをご視聴、沢山のコメント頂きありがとうございます。
当チャンネルのコメント欄は、日本史に関する様々な意見や考えがあつまる場所です。他の人の見解や歴史感に触れ、多角的に日本史を楽しむきっかけの一つになればよいと思っています。歴史好きの視聴者が集う「ほのぼの日本史」だからこそ、より深く、日本史の魅力や歴史的事象を考察したり、視聴者の皆様と共有したいと考えています。
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このようなコメントも、歴史を愛する気持ちが溢れ出た上であることは十二分に承知していますが、動画を視聴し、視聴者の皆様が気持ちよく歴史感を共有できるよう、ご協力・ご理解の程、よろしくお願いします。
天王寺の発音が違うな。 関東人のイントネーションだ。
合理的な思考😅?
少なくとも行政や教育は染まっている気が。
四国を統一した?長宗我部元親
夏目漱石にクソミソいわれるわけだ。
松山と高松を混同してませんか?
共通点は何方も藩主は松平家って事くらいかな?
高松の方は異父弟の大河内松平家で、松山は松平アナの本家の方の松平家。
俺の中では、
とがわ ぞんぽ。
息子?だと思うのが、
とがわ ぞんやす
香川県の戦国時代面白そうと思ってみてみればw
結局文字のみで全部説明してて分かりにくいわ。
動画なんだから絵で説明すればいいのにw残念過ぎるな
嘘はいいです