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当時の曖昧な地理感と現在何も出土されてない状況からあれこれこねくり回してもどうしようもないのが実情だから邪馬台国論争は荒れるのが悲しいね
リクエストなのですが文化についても触れて欲しいです。
伊都国は小さな国ではなく、筑紫平野まで含めた地域だったんじゃないかしら。松浦から東にあるものを南と書くのは変なので。
諸説有り
There are many [Private video]s in the playlist, could you please share them ? A lot of thanks for your invaluable lessons, I really enjoy with gratitude!!!
後漢書の解説には意義あり^^ 朝鮮半島に伽耶あるいはミナマと云う倭国の飛び地があったため、北九州地域を南側と表現したと思います^^ 決して「勘違い」とかで片付けて欲しくないですね(^_-)-☆ 更に、鳥越憲三郎さんは、上古音で「越/wo」「倭/wo」と類音異字と推察しています^^ つまり、倭人は古来中国の揚子江流域で水稲農耕や高床式住居を営んでいた「百越」が、秦の始皇帝や前漢武帝によって武力弾圧されて移民してきた人々と考えておられました^^ 僕はそれを支持したいなぁ^^
鎌倉仏教お願いします!🤲だれが何を書いたか覚えやすい方法とかありますか??
三内丸山遺跡とか、古代はいくつか歯抜けで非公開になってるけど何ででしょうか?
投稿を始めた当初はまさか数万人に見られることになるとは思わずに暇つぶしで適当に動画を作っていましたしかし途中で「適当な情報を無責任に発信するのはまずい」と考えるようになったので旧石器時代から飛鳥時代までの動画を一度全て非公開にしたという経緯があります現在視聴できるのはその後再編集した動画ですなお、再編集は順次進めており現在は「祝日の前日に公開する」というのが慣例となっていますつまり祝日が来るたびに歯抜けが埋まっていくシステムです(個人的には奈良時代、平安時代にも非公開にすべきだと思う質の動画はありますが、視聴者の方々からの要望もあり現在は公開しています)
@@Y_Eschool 素早い長文のご返信ありがとうございます。お待ちしております。
甚兵衛は日大の過去問で出てた記憶
日本最小の国宝だったよな金印、福岡博物館で見ました。
私は倭国は九州にあり機内のヤマト王朝とは全く別の政権だったと思います。倭国=邪馬台国の直接の子孫が筑紫君磐井ではないでしょうか?
倭国がやすやすと自国の都の位置を正確に伝える必要もあるまい。位置があいまいなほうが戦になったときの攪乱情報になる。つまり、その当時の支配者もアホではなかったということ。情報戦、隠密、忍の文化はこの頃からあったのだろうね。
どうやって海峡を跨いで距離を測ったかを考えると、何か見えるかも。
邪馬台国の位置の記述が不正確なのは、当時の倭人の地理感が悪すぎたせいなのかなぁ
일본에서는야요이인이어디서왔다고배우나요?
この時代って方位磁針や羅針盤もないのにどうやって東西南北分かったのか😅
司南
中国の古文書「呂氏春秋」によると、西欧のマグネットと同じ頃、すでに中国でもこのような鉱石が当時の慈州にあり、且つ母親の二つの乳房のように慈愛深く乳児をひきつけることから“慈石”と書かれていました。二つの乳房はもちろんN極、S極のことです。また、この慈石が南北を示す方位計(羅針盤の原型)になることは、すでにこの頃わかっていて、スプーン(蓮華)形の方位磁石“司南(指南器)”が造られていました。このスプーンに似た形は、磁石が良く回ることと、当時の方位の目印であった北斗七星を形どったのが理由だったと言われています。その後、中国後漢の時代、方位に関する知識が完成され、それを基礎に司南が改良されて、東西南北、十二支等を示す盤がつくられ、方位を示すと同時に占い道具としての“羅盤”へと発展してゆきました。中国におけるこの羅盤の発明は、すぐには航海に利用する羅針盤とはならず、主な用途は地相占いにあったようです。中国では古くから風水占術が発達していて、風水師が家や建物を建てるとき、地相を占っていました。もちろん、これが後の羅針盤の元になったことはいうまでもありません。
@@蒼氓你说的非常详实客观
わかってないから道に迷いまくっていた旅をする際は現地の案内人が必須だった
慈愛かぁ…なるほど…
あれ、エンディング!?
陳寿さんは、倭人と書いてるんですよ~烏丸鮮卑東夷伝は、エリア【場所】を指定してる。陳寿は、倭の場所は分からない。場所が書いてあるのは、遣隋使以降の追加。前漢時代には、楽浪郡は存在しない。朝鮮。高句麗の部分に光武帝 滅朝鮮なので、後漢前半も楽浪郡は存在しない。歴史書を先に精査しないと正しい歴史は理解出来無いのかも?女王国の卑弥呼は、高句麗王【位宮】司馬懿が政権掌握に協力した人をモデルにした作り話だと思いますよ。三国志の高句麗と韓の部分を読めば、存在しない事に気付くかも?しれません。
いと国の読み方ですね!なんでワノナノなんて読ませるんですかね。訓読みで。宮崎の西都原古墳ですかね!邪馬台国
志賀島で発見された金印の持ち主は第3代安寧天皇の皇子常根津日子いのです。 常根津日子命は紀元22年に生まれ66年に崩御されました。 漢の光武帝から金印を授かったのが紀元57年でしたから符号しています。 このことは池田市三氏著の画像解析によって判明した古墳墓碑が記されていて、金印のは側面に常根津日子命と刻印されているのがはっきりとわかります。
倭は奄美諸島、徳之島ですよ。
小泉館長
『旧唐書』(945年)では「倭國者、古倭奴國也。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。」(「倭国(わこく)は、かつては倭の者どもの国だった。日本国は、倭国(わこく)の分家なり。その国は太陽に接しているため、日本と名付けた」)『新唐書 日本伝』(1060年)では「日本、古倭奴也」(「日本(やまと)は、かつては倭の者どもだった」)。つまり倭は九州にあったが(たぶん一部の人々が)東方に移動して、畿内に移った分家と考えられる。分家は(倭国から見て)日が昇るところにあるため日本と名付けられた。邪馬台国の「邪馬」は「山」の意なので、邪馬台国は山中にあると推定できる。また邪馬台国の「臺=台」は魏では中央官庁の意なので、「邪馬(=山)の国」の中央官庁の置かれた場所であろう。あるいは「中央官庁」から「官庁」の意味が除かれ「周囲を山々で囲まれた所」と解釈できる。そこで邪馬台国は「邪馬(山)の国の中央政府」、あるいは「山々の真ん中」の意で=山台=山都(やまと)ではないか。奈良盆地は条件に合っている。「倭(やまと)は国の真秀(まほ)ろば 畳(たたな)づく青垣 山籠れる倭しうるわし」(倭建命(ヤマトタケル)・古事記)の「山籠れる倭」より、この時代の倭は、奈良にあった。邪馬台国への経路対馬国「つまこく」(1000余戸)⇒南に渡海千余里⇒ 一支国「いきこく」(3000余戸)⇒渡海千余里⇒末廬国 ⇒陸を南東に500里⇒伊都国「いとこく」(1000余戸)⇒東南に100里⇒ 奴国「なこく」(20000余戸)⇒東に100里⇒ 不弥国「ふみこく」(1000余戸)⇒南に水行20日⇒ 投馬国「とまこく」(50000余戸)⇒南に水行10日・陸行1月⇒ 邪馬台国「やまとこく」(70000余戸)1.奴国の対岸は狗邪韓国なので、奴国は海沿いの国(福岡市といわれる)2.不弥国から出航するので、不弥国は海沿いの国(福津市あるいは宗像市かも)3.「南に水行20日」、「南に水行10日」は、「南の方角を向いて陸地に沿って航行」の意味だが、羅針盤の使用は9または11世紀の中国とされており、当時、航行中は羅針盤を使用していないので、正確に南に向かってはいないと思える。むしろ常時、太陽の方向が東で、その直角が南と考えていたのではないか。太陽は東から昇り、西に沈むから、海上では太陽の動きに対応して、南の方角が徐々に別の方角に変るのではないか。太陽方向をつねに東と考えると、早朝に出発するときと、昼間に出発するときでは、異なった方向に進むことになる。※国内の国はすべて時計回りに45度ずれて書かれている。対馬国(対馬)から一支国(壱岐)の方角は「南」⇒実際は「南東」壱岐から末廬国(唐津)の方角は「南」⇒実際は「南東」末廬国(唐津)から伊都国(糸島)の方角は「東南」⇒実際は「東」伊都国から奴国(福岡)の方角は「東南」⇒実際は「東」そこで不弥国を出航し、南に(宮崎方向)に進み、途中から四国方面に進んだとしても、船員たちは南方向に進んでいると思っていたかもしれない。あるいは中国は陸上の文明なので、その使者も海上航行のことは知らず、はじめは南方向に進んだが途中から東方向に移ったことがわからなかったかもしれない。いずれにしても、「水行20日」「50000余戸」なら徳島に着いたのではないか。つまり投馬国(徳島)も倭国の分家、あるいは交流している国だったかもしれず、倭の船が港を使用でき、倭国の交易品などもあったと思える。同様に投馬国(徳島)を出て南に進み、「水行10日」なら「伊勢」「松坂」当たりに着いたのではないか。(現在の三重県熊野市も考えられるが、女王國の南に「狗奴国(くなこく)があり、男子を王とし、女王國と対立していた」ので、ここの港は使用できないだろう)ここから「陸行1月」は「陸行1日」の間違い(1か月=28日、29日、30日、31日のいずれかという問題もあるし、魏志倭人伝には原本がなく、写本だという問題もある)と考えると陸行1日で、奈良に着く。陸行も具体的に「○○里」と書かれていないのは、具体的に○○里と書いた人とは別人かもしれない。※「水行」川の航行なら、20日の間に投馬国より前にも停泊する国があったろうから、それらの国名が記されていないので川の航行は考えにくい。※松坂市から奈良市までは、現在のルートで90.2km、徒歩で21時間24分、松坂市から纏向遺跡のある桜井市までは85.3 km、19 時間 53 分(map data(c)2024 google)このルートは、当時、瀬戸内海には海賊や邪馬台国と対立する国などがあり、瀬戸内海を通れなかったからだろう。
当時の曖昧な地理感と現在何も出土されてない状況からあれこれこねくり回してもどうしようもないのが実情だから邪馬台国論争は荒れるのが悲しいね
リクエストなのですが文化についても触れて欲しいです。
伊都国は小さな国ではなく、筑紫平野まで含めた地域だったんじゃないかしら。
松浦から東にあるものを南と書くのは変なので。
諸説有り
There are many [Private video]s in the playlist, could you please share them ? A lot of thanks for your invaluable lessons, I really enjoy with gratitude!!!
後漢書の解説には意義あり^^ 朝鮮半島に伽耶あるいはミナマと云う倭国の飛び地があったため、北九州地域を南側と表現したと思います^^ 決して「勘違い」とかで片付けて欲しくないですね(^_-)-☆ 更に、鳥越憲三郎さんは、上古音で「越/wo」「倭/wo」と類音異字と推察しています^^ つまり、倭人は古来中国の揚子江流域で水稲農耕や高床式住居を営んでいた「百越」が、秦の始皇帝や前漢武帝によって武力弾圧されて移民してきた人々と考えておられました^^ 僕はそれを支持したいなぁ^^
鎌倉仏教お願いします!🤲
だれが何を書いたか覚えやすい方法とかありますか??
三内丸山遺跡とか、古代はいくつか歯抜けで非公開になってるけど何ででしょうか?
投稿を始めた当初は
まさか数万人に見られることになるとは思わずに
暇つぶしで適当に動画を作っていました
しかし途中で「適当な情報を無責任に発信するのはまずい」と考えるようになったので
旧石器時代から飛鳥時代までの動画を一度全て非公開にしたという経緯があります
現在視聴できるのはその後再編集した動画です
なお、再編集は順次進めており
現在は「祝日の前日に公開する」というのが慣例となっています
つまり祝日が来るたびに歯抜けが埋まっていくシステムです
(個人的には奈良時代、平安時代にも非公開にすべきだと思う質の動画はありますが、視聴者の方々からの要望もあり現在は公開しています)
@@Y_Eschool 素早い長文のご返信ありがとうございます。お待ちしております。
甚兵衛は日大の過去問で出てた記憶
日本最小の国宝だったよな金印、福岡博物館で見ました。
私は倭国は九州にあり機内のヤマト王朝とは全く別の政権だったと思います。倭国=邪馬台国の直接の子孫が筑紫君磐井ではないでしょうか?
倭国がやすやすと自国の都の位置を正確に伝える必要もあるまい。位置があいまいなほうが戦になったときの攪乱情報になる。
つまり、その当時の支配者もアホではなかったということ。情報戦、隠密、忍の文化はこの頃からあったのだろうね。
どうやって海峡を跨いで距離を測ったかを考えると、何か見えるかも。
邪馬台国の位置の記述が不正確なのは、当時の倭人の地理感が悪すぎたせいなのかなぁ
일본에서는야요이인이어디서왔다고배우나요?
この時代って方位磁針や羅針盤もないのにどうやって東西南北分かったのか😅
司南
中国の古文書「呂氏春秋」によると、西欧のマグネットと同じ頃、すでに中国でもこのような鉱石が当時の慈州にあり、且つ母親の二つの乳房のように慈愛深く乳児をひきつけることから“慈石”と書かれていました。二つの乳房はもちろんN極、S極のことです。
また、この慈石が南北を示す方位計(羅針盤の原型)になることは、すでにこの頃わかっていて、スプーン(蓮華)形の方位磁石“司南(指南器)”が造られていました。
このスプーンに似た形は、磁石が良く回ることと、当時の方位の目印であった北斗七星を形どったのが理由だったと言われています。
その後、中国後漢の時代、方位に関する知識が完成され、それを基礎に司南が改良されて、東西南北、十二支等を示す盤がつくられ、方位を示すと同時に占い道具としての“羅盤”へと発展してゆきました。
中国におけるこの羅盤の発明は、すぐには航海に利用する羅針盤とはならず、主な用途は地相占いにあったようです。中国では古くから風水占術が発達していて、風水師が家や建物を建てるとき、地相を占っていました。もちろん、これが後の羅針盤の元になったことはいうまでもありません。
@@蒼氓你说的非常详实客观
わかってないから道に迷いまくっていた
旅をする際は現地の案内人が必須だった
慈愛かぁ…なるほど…
あれ、エンディング!?
陳寿さんは、倭人と書いてるんですよ~
烏丸鮮卑東夷伝は、エリア【場所】を指定してる。
陳寿は、倭の場所は分からない。
場所が書いてあるのは、遣隋使以降の追加。
前漢時代には、楽浪郡は存在しない。朝鮮。
高句麗の部分に
光武帝 滅朝鮮なので、後漢前半も楽浪郡は存在しない。
歴史書を先に精査しないと正しい歴史は理解出来無いのかも?
女王国の卑弥呼は、高句麗王【位宮】司馬懿が政権掌握に協力した人をモデルにした作り話だと思いますよ。
三国志の高句麗と韓の部分を読めば、存在しない事に気付くかも?しれません。
いと国の読み方ですね!なんでワノナノなんて読ませるんですかね。訓読みで。宮崎の西都原古墳ですかね!邪馬台国
志賀島で発見された金印の持ち主は第3代安寧天皇の皇子常根津日子いのです。
常根津日子命は紀元22年に生まれ66年に崩御されました。
漢の光武帝から金印を授かったのが紀元57年でしたから符号しています。
このことは池田市三氏著の画像解析によって判明した古墳墓碑が記されていて、金印のは側面に常根津日子命と刻印されているのがはっきりとわかります。
倭は奄美諸島、徳之島ですよ。
小泉館長
『旧唐書』(945年)では「倭國者、古倭奴國也。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。」(「倭国(わこく)は、かつては倭の者どもの国だった。日本国は、倭国(わこく)の分家なり。その国は太陽に接しているため、日本と名付けた」)
『新唐書 日本伝』(1060年)では「日本、古倭奴也」(「日本(やまと)は、かつては倭の者どもだった」)。つまり倭は九州にあったが(たぶん一部の人々が)東方に移動して、畿内に移った分家と考えられる。分家は(倭国から見て)日が昇るところにあるため日本と名付けられた。
邪馬台国の「邪馬」は「山」の意なので、邪馬台国は山中にあると推定できる。また邪馬台国の「臺=台」は魏では中央官庁の意なので、「邪馬(=山)の国」の中央官庁の置かれた場所であろう。あるいは「中央官庁」から「官庁」の意味が除かれ「周囲を山々で囲まれた所」と解釈できる。そこで邪馬台国は「邪馬(山)の国の中央政府」、あるいは「山々の真ん中」の意で=山台=山都(やまと)ではないか。奈良盆地は条件に合っている。
「倭(やまと)は国の真秀(まほ)ろば 畳(たたな)づく青垣 山籠れる倭しうるわし」(倭建命(ヤマトタケル)・古事記)の「山籠れる倭」より、この時代の倭は、奈良にあった。
邪馬台国への経路
対馬国「つまこく」(1000余戸)⇒南に渡海千余里⇒ 一支国「いきこく」(3000余戸)⇒渡海千余里⇒末廬国 ⇒陸を南東に500里⇒伊都国「いとこく」(1000余戸)⇒東南に100里⇒ 奴国「なこく」(20000余戸)⇒東に100里⇒ 不弥国「ふみこく」(1000余戸)⇒南に水行20日⇒ 投馬国「とまこく」(50000余戸)⇒南に水行10日・陸行1月⇒ 邪馬台国「やまとこく」(70000余戸)
1.奴国の対岸は狗邪韓国なので、奴国は海沿いの国(福岡市といわれる)
2.不弥国から出航するので、不弥国は海沿いの国(福津市あるいは宗像市かも)
3.「南に水行20日」、「南に水行10日」は、「南の方角を向いて陸地に沿って航行」の意味だが、羅針盤の使用は9または11世紀の中国とされており、当時、航行中は羅針盤を使用していないので、正確に南に向かってはいないと思える。むしろ常時、太陽の方向が東で、その直角が南と考えていたのではないか。太陽は東から昇り、西に沈むから、海上では太陽の動きに対応して、南の方角が徐々に別の方角に変るのではないか。太陽方向をつねに東と考えると、早朝に出発するときと、昼間に出発するときでは、異なった方向に進むことになる。
※国内の国はすべて時計回りに45度ずれて書かれている。
対馬国(対馬)から一支国(壱岐)の方角は「南」⇒実際は「南東」
壱岐から末廬国(唐津)の方角は「南」⇒実際は「南東」
末廬国(唐津)から伊都国(糸島)の方角は「東南」⇒実際は「東」
伊都国から奴国(福岡)の方角は「東南」⇒実際は「東」
そこで不弥国を出航し、南に(宮崎方向)に進み、途中から四国方面に進んだとしても、船員たちは南方向に進んでいると思っていたかもしれない。あるいは中国は陸上の文明なので、その使者も海上航行のことは知らず、はじめは南方向に進んだが途中から東方向に移ったことがわからなかったかもしれない。
いずれにしても、「水行20日」「50000余戸」なら徳島に着いたのではないか。つまり投馬国(徳島)も倭国の分家、あるいは交流している国だったかもしれず、倭の船が港を使用でき、倭国の交易品などもあったと思える。同様に投馬国(徳島)を出て南に進み、「水行10日」なら「伊勢」「松坂」当たりに着いたのではないか。(現在の三重県熊野市も考えられるが、女王國の南に「狗奴国(くなこく)があり、男子を王とし、女王國と対立していた」ので、ここの港は使用できないだろう)ここから「陸行1月」は「陸行1日」の間違い(1か月=28日、29日、30日、31日のいずれかという問題もあるし、魏志倭人伝には原本がなく、写本だという問題もある)と考えると陸行1日で、奈良に着く。
陸行も具体的に「○○里」と書かれていないのは、具体的に○○里と書いた人とは別人かもしれない。
※「水行」川の航行なら、20日の間に投馬国より前にも停泊する国があったろうから、それらの国名が記されていないので川の航行は考えにくい。
※松坂市から奈良市までは、現在のルートで90.2km、徒歩で21時間24分、松坂市から纏向遺跡のある桜井市までは85.3 km、19 時間 53 分(map data(c)2024 google)
このルートは、当時、瀬戸内海には海賊や邪馬台国と対立する国などがあり、瀬戸内海を通れなかったからだろう。