ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
やはり藤原不比等が優秀やったからここまで藤原家が繁栄できたんやろうなぁ。一応まとめとこ【やったこと】・大宝律令と養老律令・藤原氏の基盤をつくる・平城京の遷都を進める・興福寺(藤原氏の氏寺)建てる
元号を掲げる菅さんがちょいちょい出てくるのが個人的なツボ🤣
歴史前後のつながりが分かりやすくて興味が湧きます。ありがとうございます。
不比等という名前は凄いね。(並ぶ者がいないと言いう意味だから)
最近こちらのチャンネルを知りましたが、素晴らしい内容に驚嘆しました。実際に当時の場所を取材しているのも本当に素晴らしく、普段見ている場所や地名の歴史を知ると、違う景色に見えてきます。当方アラフィフのおっさんですが、本当に勉強になります。今度時間がある時に、奈良の昔の宮都跡に行ってみたいと思いました。これからも動画楽しみにしています。
4:08 大宝年号を発表する超時空 菅さんにニッコリ😊
それぞれの動画で理解できるように構成されていて素晴らしいです。連続でみても、いい感じに復習になります。うまい作り方です。
二回みると理解が深まります
蘇我入鹿、毎回首ない画像しかでてこないの笑っちゃう
大阪メトロ御堂筋線にある駅「西田辺」、JR阪和線にある駅「南田辺」、大阪メトロ谷町線にある駅「田辺」、近鉄南大阪線にある駅「北田辺」この「田辺氏」が不比等が幼い頃に預けられた渡来人の一族なんですよね。
おお!そうなんや〜😮😮
まじで流れを把握してない人この動画全部みた方がいい しかも日本史好きになるで
いつも楽しい動画をありがとうございます。不比等って次男坊でしたっけ?
そうです。鎌足の長男は僧になって唐に渡った定恵です。
このたりの歴史があやふやだったので大変ためになりました。山○の教科書を10回読むよりこの動画を1回見る方がはるかに理解ができます。
まじで、ありがとう藤原氏。五摂家もお願いします。
藤原不比等さんの邸宅跡に詳しい調査もされずに奈良そごうが建てられたと聞いています。。今は奈良そごう跡になりました。(T_T)
天子は南面すを覚えとくと分かりやすいよね
安君半端ねえは!
数字が時折バラバラなのは一回消した動画があるんですか?
確か鎌足が◯んで不比等が大人になるまで一旦中臣の一族は藤原姓になって不比等が次いでから他の一族は中臣にもどりましたよね
藤原氏の繁栄もスムーズにいったわけではなく物部氏と蘇我氏の争いでは、中臣氏(藤原氏)は物部氏側につき衰退しさらに中臣鎌足が天武天皇と共に蘇我氏を倒して行った大化の改新で藤原氏は勢力を取り戻したが壬申の乱で大友皇子の側につき衰退し。藤原不比等が持統天皇に重用され勢力を拡大したが、不比等の子、藤原四兄弟が天然痘で相次いで死亡して衰退するこうしたことを繰り返していたのですよね最後には朝廷は公卿などの高位貴族は藤原氏で占められ、中堅以下の貴族にわずかに安倍や小野などの氏族が残るという朝廷=藤原氏になったが
(藤原不比等)が(続日本紀)に藤原氏を正当化しようとするために(聖徳太子・厩戸皇子)を英雄として書いた架空の人物だという事が今では歴史学者の中では常識になっています!
7:45平城京前は明日香では? 藤原京は平安京の前で京都の南では?
これ東と西逆じゃないですかね?
愛子天皇の時代なりますが、ピンチヒッターとしてですよね
1年ぶりに見た
ぷじわらのぷぴと
おもろ
中臣氏は忌部氏とともに祭祀を司る家柄で、山科に居を構え、様々な細工物も造る技術者集団でもあった。この中に鎌足は存在したと思われます。その後、「藤原」姓を賜ったわけです。ところが、藤原不比等が政治の中心に入ると、「中臣」姓に戻され、仕事も祭祀のみに限定されます。藤原不比等の出身は関東と言われ、つながりがあったとしても傍系であり、本家の藤原氏から出世した訳ではない。 文武天皇の若いころに家庭教師みたいにして取り入り、宮女と結婚し渡りをつけた。個人の力でのし上がった人物。鹿島の鹿を春日神社にもって来たり、いろいろと細工をして由緒ある家柄であることを出世してから後付けをした。 中臣氏と同族なら、そんな差別的なことはしないだろう。自分の血筋の家族・親族だけ藤原姓を名乗らせる命令を出すなんてことは、余程ですよ。鎌足の息子?年代的に合わないのでは?鎌足は中大兄の参謀役。年齢的に上だったはず。その頃に息子が居れば、葬式にも参列し、藤原姓をすぐに名乗って、天智はすぐ亡くなったが、持統に気に入られ、もっと早くから活躍しているはず。藤原不比等は皇族から嫌われていた。娘を皇族にして天皇にしようとしたり、娘を皇后にしようとしたり。鎌足はそんなことしていない。
へぇ…ほんとはどうなのか、わからないですね。
おもろ日本史
👀
どう最近?
やはり藤原不比等が優秀やったからここまで藤原家が繁栄できたんやろうなぁ。一応まとめとこ
【やったこと】
・大宝律令と養老律令
・藤原氏の基盤をつくる
・平城京の遷都を進める
・興福寺(藤原氏の氏寺)建てる
元号を掲げる菅さんがちょいちょい出てくるのが個人的なツボ🤣
歴史前後のつながりが分かりやすくて興味が湧きます。ありがとうございます。
不比等という名前は凄いね。
(並ぶ者がいないと言いう意味だから)
最近こちらのチャンネルを知りましたが、素晴らしい内容に驚嘆しました。
実際に当時の場所を取材しているのも本当に素晴らしく、普段見ている場所や地名の歴史を知ると、違う景色に見えてきます。当方アラフィフのおっさんですが、本当に勉強になります。
今度時間がある時に、奈良の昔の宮都跡に行ってみたいと思いました。これからも動画楽しみにしています。
4:08 大宝年号を発表する超時空 菅さんにニッコリ😊
それぞれの動画で理解できるように構成されていて素晴らしいです。連続でみても、いい感じに復習になります。うまい作り方です。
二回みると理解が深まります
蘇我入鹿、毎回首ない画像しかでてこないの笑っちゃう
大阪メトロ御堂筋線にある駅「西田辺」、JR阪和線にある駅「南田辺」、大阪メトロ谷町線にある駅「田辺」、近鉄南大阪線にある駅「北田辺」この「田辺氏」が不比等が幼い頃に預けられた渡来人の一族なんですよね。
おお!そうなんや〜😮😮
まじで流れを把握してない人この動画全部みた方がいい しかも日本史好きになるで
いつも楽しい動画をありがとうございます。
不比等って次男坊でしたっけ?
そうです。鎌足の長男は僧になって唐に渡った定恵です。
このたりの歴史があやふやだったので大変ためになりました。山○の教科書を10回読むよりこの動画を1回見る方がはるかに理解ができます。
まじで、ありがとう藤原氏。五摂家もお願いします。
藤原不比等さんの邸宅跡に詳しい調査もされずに奈良そごうが建てられたと聞いています。。今は奈良そごう跡になりました。(T_T)
天子は南面すを覚えとくと分かりやすいよね
安君半端ねえは!
数字が時折バラバラなのは一回消した動画があるんですか?
確か鎌足が◯んで不比等が大人になるまで一旦中臣の一族は藤原姓になって不比等が次いでから他の一族は中臣にもどりましたよね
藤原氏の繁栄もスムーズにいったわけではなく
物部氏と蘇我氏の争いでは、中臣氏(藤原氏)は物部氏側につき衰退し
さらに中臣鎌足が天武天皇と共に蘇我氏を倒して行った大化の改新で藤原氏は勢力を取り戻したが
壬申の乱で大友皇子の側につき衰退し。
藤原不比等が持統天皇に重用され勢力を拡大したが、不比等の子、藤原四兄弟が天然痘で相次いで死亡して衰退する
こうしたことを繰り返していたのですよね
最後には朝廷は公卿などの高位貴族は藤原氏で占められ、中堅以下の貴族にわずかに安倍や小野などの氏族が残るという朝廷=藤原氏になったが
(藤原不比等)が(続日本紀)に藤原氏を正当化しようとするために(聖徳太子・厩戸皇子)を英雄として書いた架空の人物だという事が今では歴史学者の中では常識になっています!
7:45平城京前は明日香では? 藤原京は平安京の前で京都の南では?
これ東と西逆じゃないですかね?
愛子天皇の時代なりますが、ピンチヒッターとして
ですよね
1年ぶりに見た
ぷじわらのぷぴと
おもろ
中臣氏は忌部氏とともに祭祀を司る家柄で、山科に居を構え、様々な細工物も造る技術者集団でもあった。この中に鎌足は存在したと思われます。その後、「藤原」姓を賜ったわけです。ところが、藤原不比等が政治の中心に入ると、「中臣」姓に戻され、仕事も祭祀のみに限定されます。藤原不比等の出身は関東と言われ、つながりがあったとしても傍系であり、本家の藤原氏から出世した訳ではない。
文武天皇の若いころに家庭教師みたいにして取り入り、宮女と結婚し渡りをつけた。個人の力でのし上がった人物。鹿島の鹿を春日神社にもって来たり、いろいろと細工をして由緒ある家柄であることを出世してから後付けをした。
中臣氏と同族なら、そんな差別的なことはしないだろう。自分の血筋の家族・親族だけ藤原姓を名乗らせる命令を出すなんてことは、余程ですよ。鎌足の息子?年代的に合わないのでは?鎌足は中大兄の参謀役。年齢的に上だったはず。その頃に息子が居れば、葬式にも参列し、藤原姓をすぐに名乗って、天智はすぐ亡くなったが、持統に気に入られ、もっと早くから活躍しているはず。藤原不比等は皇族から嫌われていた。娘を皇族にして天皇にしようとしたり、娘を皇后にしようとしたり。鎌足はそんなことしていない。
へぇ…ほんとはどうなのか、わからないですね。
おもろ日本史
👀
どう最近?