この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家、竹崎家とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に親族姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気を今のアホ政治屋共の媚中韓派に訊かせてやりたい。 You sent この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家(原性少弐)、竹崎家(菊池氏一族)、菊地氏(阿蘇家親族)とは血縁だった関係で、我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族・女真族・高麗軍の混成連合軍でこの戦いの主力は高麗軍と漢民族今のにっくき奴隷国家朝鮮(今の韓国)軍と現在の習主席の先祖漢民族。この戦いより以前の平安時代中期にも盗賊団満州女真族(清朝の先祖)新羅・高句麗軍の連合軍が日本に攻めて来た「「刀伊の入冠」の戦いにも総大将大宰権師中納言藤原隆家配下で参加して勝利。豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」にも参加して勝利
NHKの歴史探偵では、モンゴルの使者を無視した日本が悪いみたいな事を言っていた。
無視しなければ仲良くできて戦いにならなかったってアホな事を言っていた。
NHKはどうしても日本が悪く言わなければ気が済まないらしい。
NHKだけではなく、大手のマスコミ全体は戦後に、日本人を洗脳して二度と立ち上がれないようにするために作り直されたものです。現在は中国韓国人に乗っ取られていますが、そのことを知らない人が多い。 テレビにでれるような有名な芸能人はほとんどが韓国の関係の方々(在日、帰化、3世など)です。
国営放送は国粋放送、なんなら大本営放送でも特に問題ないはずなんだが、実際は…
NHKっっていうのは反日左翼在日が少なからず巣くっているからな!
善良な国民から受信料を巻き上げてNHK職員らは受信料不払いが少なくない!
私も今日再放送観て、鎌倉幕府凄いって感激してたら、最後の解説者の発言で「は?!ざっけんな💢」ってなりました。同じこと思ってる人いて嬉しい
@@yokkok4886 さん
これを言ってるのは、多摩大学客員教授・歴史研究家の河合敦なんです。
こんな歴史感覚を持った教授に教えられた生徒は可哀想です。
良くできた内容でした。特に最初の侵攻時に神風は吹いてないと言う説が斬新だった。
暦から考えても旧暦10月は初冬なので台風の可能性は低いと思われます
やはり日本が日本国をずっと維持できてきたのは国防がしっかりしていたからだと感じる。それは現代にも通じる事。
同意。自分達の身は最大限自分達でまもれるようにするべきだ。
まぁ国防が出来ても、その先鋒に立ってた武士たちが市民には略奪や犯罪を犯して、市民を苦しめてたわけだがな。
蒙古襲来--日清----日露--第一次---第二次😂は,攻め方がまずかったなあ~大石内蔵助😴武蔵--イ-400が出来る迄(耐えに耐えて)王道(正面突破)摩天楼に晴嵐飛ばしてお土産(〰️💣💥🚀)イイ講和に持ち込め---?軍が威張り散らすだろうなあ~負けて今が--しかしポン助多いなあ~💋お休みなさい😴
@@mimomo8109 だって恩賞ないんだから!戦争行ってない人達だけが得してたら!
@@user-jb1ej7rj8o とりあえず防衛という生命線が他国に握られている現状は良くないよな…。
以前ベトナム旅行をした時、ベトナム人の添乗員がモンゴルは日本侵略に失敗したので、優秀な水夫を得る為にベトナムに攻め込んで来たが、ベトナムが勝ったから3度目の元寇は起きなかったと聴きました。そこら辺の歴史は知らないのですが、その時神風が吹いたと安易に考えてはいけないと考えた次第です。
こののち、島津藩を起点としてベトナムまで蒙古の逆襲とばかり mede in Japan の海賊がはびこります。
島津製作所が戦前から大量の技術や資金を有していたのはこのため。(NHK大河ドラマ篤姫で少し触れられている)
正確な記録として朱 元璋(しゅ げんしょう 1368年、明の始祖、初代皇帝)が日本の朝廷に海賊がひでーから何とかしろとTwitterを送っています。
ただ、訪れた使節団は上から目線のTwitter のため、対応にあたった懐良親王(かねよししんのう)がブチ切れて、ほとんどブッ〇してます。
ちなみにベトナムの通貨、ドンは日本の銅があまりに洗練されていたため、交易(日本の海賊、よく言えば自主的に勝手に外交している通商団)
に利用されたことからきています。
この時の一人(ベトナムに滞在していたいまだ歴史の謎の人物)が日本語を学び、そののち様々な遍歴からジョン万次郎と出会い、英語を習得していく
というのは歴史の不思議といったとこですね。
安定にベトナム強いな…アメリカもフランスも元にも勝つのかよ…まぁ、戦争に勝者とかないけどな。
さすがベトナム
一度目惨敗、二度目大惨敗
3度目があった所でなw
ベトナムは大国には強い
フランスはそこまで大国じゃなかったから負けただけで、大国相手には無敗
今、僕たちが日本人として生きていられるのは、鎌倉武士が勇敢に戦ってくれたおかげです。鎌倉武士に感謝、感謝。
それではコロナ禍が終わったら、鎌倉と博多に行きましょう。
@@山見楽太郎 一蘭にも行きましょう
@@surinngo4129 一蘭って?
それは間違いないけども、北条得宗家が滅んで鎌倉幕府が滅亡した原因はやはり蒙古襲来だよね
敵を撃退しても敵の領地を手に入れて恩賞を与えるなどができなかったから、蒙古の襲来に身体を張って守った後家人達に報いれず、後家人達の不満がたまってしまったよね、、、
いざキャバクラ
なにごとも強気であたることは欠点にもなりますが、北条時宗のように、相手に対し「断固たる意志」を示すことは現在の日本外交にも少々見習っていただきたいところもありますね。
何かにつけ遺憾砲と揶揄されてますね
強気なのが欠点とは思わない。
強気の外交にはその裏付けとなる力が必要
北条時宗公は、極楽寺や桑ヶ谷診療所で、貧民、病人に慈善事業もやってたんですよ。
最近の例では、安倍外交は強気な方でしたよ。韓国に対してはホワイト国除外を通告し、インドネシアに対しては援助打ち切りを表明し、IWCからの脱退を表明しました。さらには対中包囲網を築くために、クアッドを作りましたし、明治以来の日英同盟を作りました。
オッサンです。自分の若い頃は学校もメディアも自虐史観一色で、日本が頑張って国を守ったなどという歴史は教えられるはずもなかった。近年になって鎌倉武士の奮闘も伝えられるようになり、溜飲の下がる思いです。
日本のために戦った武士たちを思うと胸が熱くなる 真剣に日々を生きなければならない
「"仲良くしよう"と言っているんだから使者を切らなければ戦争にならなかった」と時宗バッシングをする人がいるが、元との戦争は避けられるかもしれんが属国になって南宋との戦争に駆り出される事になるんだよな。源と戦争らしい戦争しなかった高麗が日本と戦争することになったように。
そう、それがモンゴルの督戦隊の思想です。征服した民族を、新たな領土獲得に利用し、戦場から逃げる兵士はモンゴル人に殺されます。反乱する恐れのある他民族の兵力を削ぎ、新たな領土を獲得し、モンゴル人の死者はださないようにする戦略です。
仲良くしよう(大嘘)だしな😑
仲良くしよう(奴隷になれ)だもんな。
そういう考え方もありますね。
@@山見楽太郎 日本だけが例外的に扱われたら幸せですね。例外的に扱われず元寇があったのに。
あのモンゴル帝国を追い払った‼️ありがとう😃
細かく解説ありがとうございます。
とてもわかりやすいです。。
蒙古襲来や日清日ロ等の戦い抜いたご先祖様達の愛国心で今が在る感謝しかありません。歴史は繰り返す。
知りたかった事がさらっと解って嬉しかったです❗
少弐氏が面会交渉役だったとは、予想はしていたですがびっくりでした。
時宗があの時代にいた事がまさに神風ですね!
北条時宗は、極楽寺や、桑が谷診療所で、慈善事業やってた、って面もあるんですよ。
元寇は初めての侵略じゃないよ。元寇の前に刀伊の入寇が有りましたよ。
刀伊と言って居るが既に刀伊は滅んで居るので高麗人の仕業ですが。
刀伊は女真系だと聞きましたが?まあ、光る君の次の大河ドラマ、刀伊の入寇になりますように!!
刀伊は東夷らしいね。
@@栄健 さん。
当て字、何のかなぁ?
自分は刀伊と習いました。
モンゴルの馬上弓と馬上で使用前提の和弓では飛距離が違うよ
モンゴルは動物の皮をつかって小型でも威力のある馬上で扱いやすいコンポジットボウ、誰でも扱える仕様
日本は木の反りと弓の長さで飛距離と威力に特化した2m以上の馬上弓、扱うには筋力つけろの脳筋仕様
戦国時代の武士が使ってた弓の飛距離が4町(436m)で弓の形状に大きな変化が無いので鎌倉武士も同等とすると
長い船旅で碌な騎馬兵も編成できず弓の飛距離が200m前後の歩兵弓兵のモンゴル軍と倍の射程の長弓騎馬兵が主力の日本軍
鎌倉武士団にしろ、戦国武士団にしろ、兵科で優位、地理で優位、時期で優位 島国日本上で戦う限り勝率は高いよ そして歴史が証明
ウクライナでも証明済み、飛び道具は射程が命、近距離なら貫通力に置き換わるエネルギー。
精密誘導・長射程ミサイルを増強しましょう。
六波羅探題の宇都宮氏の援軍6万が到着前に九州武士団の勝利した
現代の大陸連中の考え方と共通(正にそのもの)しているな。
結局は同類だからね
勝ったのは良かったが鎌倉幕府はこれがきっかけで鎌倉幕府滅亡まで行ってしまったからね。恩賞渡せなかったから北条離れが起きてしまった
同意です。恩賞問題と相続のシステムが悪かった問題。そして北条氏がかつての将軍同様傀儡化してしまったのが原因ですね。
しかし鎌倉幕府を滅ぼした側の有力武士のほとんどは元寇に関係がない家というね…
自分もそう思ってた。学校等でそう習ったからね。でも元寇から鎌倉幕府滅亡まで約50年あるんだぜ。
50年も昔の戦の褒美に不満を持った御家人らが怒って鎌倉幕府に歯向かった、というのは素人目にも無理があるし。倒幕の立役者の足利尊氏がそうじゃない。
そもそも元寇から滅ぶまで50年とはいうが、結構長く保った方、て感覚もあんだけど。
手前を王より偉いものだという単語を作り出したつって、15年そこらでご破算にした国もあるわけで。
筥崎宮の「敵国降伏」の扁額、昨年実際に行って見たけど、並々ならぬ覚悟を感じてゾクゾクしたものだった。
高麗の忠烈王が積極的に働きかけたのと、元の占領地の棄民政策が侵略の理由ですね。
日本海に守られていた事も大きいですが、元より長距離射程の和弓と重装弓騎兵という世界的にも珍しい日本武士の健闘が何より国難を防いだという事だと思います。
弓の違いはとても大きいです。
元、短弓(射程80m、慣れれば人によっては1分間30発は撃てる。)。日本、長弓(射程120m、貫通生と破壊力に特化)。戦術上、複雑地形と呼ばれる日本だと短弓は向かないのですよね。あと日本の当時の鎧は弓用と言っていいくらい弓に強い(だから日本は長弓を使う)ので相手からしたら脅威ですね。
ちなみに文永の役の時に元はベトナム方面へも侵攻していましたが、こちらも複雑地形で且つ弓に強い鎧だったので負けていますね。
@@ベルウッド秀 元軍は矢を討ち尽くしての撤退説もあります。
本来は平原で車懸かり的な戦法で相手を撹乱してから騎兵投入が元軍の常套戦法ですが、アウトレンジから長距離射程で狙われてでは対応出来なかったでしょうね。
また、上陸艇も一度に20名位が最大でしょうから、上陸前に和弓の的にされたと思いますよ。
@@taka4cr537
文永の役において元はまず博多に上陸する予定でしたが、意外に遠浅で直ぐに接舷不可能だった為、博多より西の海岸から上陸せざるおえなかった為、補給、特に矢の補給はバラバラにきて前線に間に合いませんでしたね。また、元の考えた戦術は日本が布陣した赤坂の地では使えなかった(両軍の間には湿地。日本は小高い山に布陣)事もありますね。
今も昔も朝鮮民族は大国に日本の悪口を執拗に吹き込み動かすことに長けている。統一教会の米国ロビー活動を軽視してはいけない。少女像乱立や旭日旗侮辱はこやつらの嘘に世界が騙された結果だ。統一教会などに篭絡されだんまりの自民党政権は売国奴集団、反論せずだんまりは肯定とみなされるのが世界だ
ゆっくり動画の一見物人として。夜になって船に戻ったモンゴル軍を武士が夜襲をかける。刀を振り回してフルボッコしてしまう。多勢(モンゴル側)が無勢(侍)にやられてしまう、これには理由がある。兵士(多くが高麗人など)が船に戻ると武器(刃物、槍、弓など)を督軍のモンゴル人に取り上げられる。船上で兵卒が武器を所持したままだと反乱を起こされるから。とある映画(名は忘れた)、アラブの船でこの慣習を見た。モンゴルも取り入れたはず。モトの画資料に当たれば証明できると思う。この反乱防止がアダと働きモンゴル側が相当痛めつけられた、この話は(いかなる)歴史書にも出ていない。元冦歴史書はどうも日本カッコいいは書きたくなくて、戦闘では不利みたいなことばっかだ。武士が敵の弱点を嗅ぎ取って臨機応変の戦法を採る。こんな事実もあったわけだから動画にしてくれ。
鎌倉武士はかっこいいというよりおっかない類だったと思うけど、最近有力な新説だとまさにこんな感じのはず
あと、浜での平地戦も短弓のアウトレンジから武士が長弓で矢を射かけて、武士一人当たり5~6人いる郎党が突撃、詰めに武士が騎兵として突っ込んで首を飛ばすって戦法のはず
白兵戦が可能な重装弓騎兵とかいう変態兵種だったのと、ルーツにあたる健児(こんでい)のころから「一人で一国守る」とかいう変態思想で教育されるのが武士だから
武器をモンゴル人に取り上げられる!それは考えた事なかった
馬は神経質な動物で船などの狭い乗物に長時間乗るとストレスで死んでしまうらしい。元寇の馬も海の上でかなりの数が死んでしまったと記録されている。
元は内陸戦にはめちゃめちゃ強かったけど、海上戦とかは全くダメで、高麗に押し付けたみたいですね。モンゴルは海ないからね。
インド攻めたときも暑すぎてやめたみたいだし。モンゴル寒いから無理だったかと。
カンナム軍って…なんでそこだけハングル読み?
南宋の江南(こうなん)やろ。
朝鮮半島から来たわけでもないのにハングル読みであること、気になりますよね。
モンゴルなどの馬賊は、刀などで体の一部を切り落とされることを何より嫌うらしい😅満洲で馬賊と戦った父親がよくそんなはなしをしていました。😅
首落としてやればいいんじゃない?
それを嫌わない民族っているの?
@@tetsupa 「何より」
17:52 すべての日本国民はこれをしっかり魂にハートに刻み込むべき。ルールとは、愛のための「道具」にすぎない!
ルールが愛を脅かすというならそんなルール、有無を言わさず即刻ぶっ壊されねばならない!
「いろんな人のいろんな言い分がある」等と言って「自分は良い人である」と体裁整える自分を鏡で見ろ!単なる恐れに満ちた奴隷が映ってるだけだ!
そんな言葉を世間に放って、ノイジーマイノリティに結局動かされてる低脳であってはならない
キリスト教に汚染されなかった日本を取り戻すべき。左翼に負けててはならない
決して嵐だけでは無く鎌倉武士の方々が一生懸命戦ってくれたからです。改めて日本国の先人の方々に感謝です。
奇しくも、今現在ヨーロッパで行われている、ロシアとウクライナの戦争に似たところがあるんだよな……。
特に、敵側の補給が上手く行っていないという状況と、兵士の士気の問題という点で。
兵力、武器の総合的な性能、そして国力……どれを取っても元の方が上なのに、日本が恐ろしく善戦し、最後は元を追い払ってしまった。
その原因として、元軍の補給が上手く行かなかったことや、元軍の兵士の士気が低かったことが挙げられるわけで……。
腹が減っては戦はできないし、守る側は死を恐れず戦いを挑んで来るから、それを上回る士気がないと勢いで押されて各個撃破されてしまう。
根性論だけで勝てるわけはないのだけれど、昔から今に至るまで、補給と士気が戦争の重要なファクターであることは変わらない。
3:26あたりは声出して笑った
元軍の集団戦法に、一騎討ちのサムライが一方的にヤラれたとか言われてるけど
鎌倉武士は上陸当日昼過ぎには切り替えを終えていて、オリジナル戦術を編み出してたとか聞いてる。
モンゴルは海で全滅してるのに誰に聞いたんだよ(笑)
@@chenbin157 全滅というのは何も一人も生きていないって事ではないですよ。
そもそも、当時でも珍しい一騎討ちをやる輩がいたから記録に残っている訳だしね。
動画見ました?
日本史の先生が「朝廷は祈祷しとっただけやのに『蒙古に勝ったんは自分らの祈祷のおかげ』って言うとんねん、アホやろ?」って授業中に言ってて笑った
チャンネルの趣旨から外れるかもしれないが、同時期のベトナムも3度モンゴルを退けているので、そちらもやってほしいな。
日本だけを賛美は、ちょっと恥ずかしいですもんね。
確かに。
日露戦争もそうですが「日本スゴイ日本スゴイ」の変な賛美は、
俯瞰視する能力を妨げますよね。
すごさを検証するには、やはり同時代の他との比較もあってこそだと思います。
意外?と昔からベトナムはかなり強いよね
@@山見楽太郎 自虐歴史の教育を受けると、自国の歴史を恥ずかしいと思ってしまう
川に罠を仕掛けて元の軍船を引っかけるとか結構ベトナムもダイナミック。
小中の歴史の授業ではモンゴル軍が日本に攻めてきた、ということしか習わなかったが、考えてみると内陸の騎馬民族が船で日本にやって来るにはそれなりの知識や装備が必要になるのでモンゴル軍単独ではあり得ない(手引きした者がいる)と気がついた。
元軍ってのは攻めていく先々で占領・降伏したとこの軍を先頭に立てて使う戦術をよく使い、文永の役時は金、高麗が主力。弘安の役には宋を従えたので宋が主力部隊となりました。
なるほど。ロシアがチェチェンのカディロフ・ツィをウクライナに投入したようなものですね。
ゲームでゴーストオブツシマってのがあるけど、あれは間違い。対馬や壱岐に着いて蹂躙したのは高麗軍だよ。参謀とか一部モンゴルから派遣された者も混ざってるけど。多勢に無勢ってのもあり、抵抗止む無くやられた。第一回目の襲来である文永の役では事前に軍の脅威があるの分かってたのに準備してなかった。軍の組織と軍事拠点を作って外敵にちゃんと備えたのはそれから。
日本側でも寝返った豪族がいたんだよね
一族郎党根絶やしになったけど
@@レックウザさん
今の政治家もそうなんねぇかな
あれは、モンゴルのふりをした、半島による日本しん_りゃくですよ。昔から変わりません。
モンゴル正規軍が宋船でやってきてたら馬も使えるので日本は負けてた
寄せ集めモンゴル軍の尖兵は高麗人部隊なので彼らは軍事的な戦略ではなく単純に略奪目的の欲だけで動くので撃破するのは容易
高麗の平底の船は風なんか吹かなくとも波の揺れが凄いので神経質な馬どころか人も耐えれない酔いでまともに戦える状態じゃないので負けようがない
元寇ほどの規模ではなくAB氏の言う通り古来より半島人は侵略(なにかを盗み)に来るので防人(さきもり)などという役職が接点である北九州に置かれる
日本列島に海岸線が何千㎞あると思います?
飛鳥時代から北九州にだけ防人置いておけば用が済むということは・・・つまりそういうことですw
あの民族が企むことなど大昔から変わりませんね
鎌倉時代に武士の戦い方が一騎打ちだったなどというのはとっくの昔に否定されています。
文永の役の時に既に武士たちは集団戦術に対応し、戦っていたことが元、高麗、南宋などの資料から解っています。
所謂「神風のおかげで運よく撃退できた」というのは皇国史観や戦後の軍国主義否定の価値観で生じたものであり、
現代では海外でも日本国内でも元軍は御家人たちに水際で上陸を阻まれ、夏場に3か月も北九州沿岸にくぎ付けにされたことで、
台風に会ったのは偶然ではなく必然(季節的に台風通過の頻度は平均で3回以上)であった、というのが有力説です。
チャンネル登録しました。
Eテレのネコネコ日本史でこのあたり面白くしてましたね
遅まきながら、鎌倉武士の強弱について色々誤解があるんで解説しとく。
まず、当時の兵として鎌倉武士及び郎党は間違いなく強かった。
理由は単純で、軍事訓練がマニュアル化されてない時代の兵の強弱は戦い慣れ してるかどうかで、
当然鎌倉武士は血で血を洗う争いを繰り返していたから。
そんで、兵科としてモンゴル騎兵と鎌倉武士はどちらが強かったかというと、
これも単純で、平原ならモンゴル騎兵の方が強く山や川で起伏の激しい地形なら鎌倉武士の方が強い。
得意分野というか、それぞれの地域特性に合わせて兵科や戦法が発展しただけ。
それと、兵を集中運用するモンゴル軍の方が効率的と思われがちだが、
それも平原での話で、起伏の激しい地形なら小集団の集まりである鎌倉武士団の方が
柔軟かつ機動性があり有利。
この辺は世界的にも同じで、キュノスケファライの戦いでは丘上でファランクスを組むのを手間取っていたマケドニア軍を、
部隊を細かく分けていたローマ軍が素早く攻撃して勝利を収めている。
兵科の面では、当時としては重装甲で更に弓矢対策の施された大鎧と
騎射を得意とする上に近接戦も好きな鎌倉武士はモンゴル兵にとっては天敵と言って良い存在。
ただ、鎌倉武士を重装弓騎兵というと馬鎧が無くちょっと微妙なんで、
平原だとやはりモンゴル兵が有利。
因みに、平原で育った馬は坂道だと足が突っ張るんで走って下りられないという弱点もある。
戦術面で言うと、勝つためには手段を択ばない鬼畜外道で有名なモンゴル軍だが、
源平合戦を経て義経の外道戦術を身に着けた鎌倉武士の方がもっとヤバいという有様。
最後に兵力面だが、元が日本に送れる兵数より鎌倉幕府が動員できる兵数の方が遥かに多い。
結論として、元が日本を征服するのは初めから無理だったという話。
この結果、元はかつて自分たち遊牧民族が周辺国に行っていた災害のような略奪を、
倭寇という形でやり返される事になるんだから面白いよな。
トイトブルク森の戦いみたいなもんだね。ゲリラ戦のゲルマン人に最強正規軍のローマ軍団は対応できなかった。
そもそも論として、元の皇帝のケツを掻いてけしかけたのは高麗王ではなかったかな?
朝鮮のお陰で瀑布が潰れたから韓国は秀吉が侵略したから謝罪しろと言うならこの韓国侵略の賠償金請求と謝罪求めても良いよね奴らのほうが先に仕掛けてるからな。今の日本の国家予算を請求してもらわないとね。
フビライは消極的だった。が高麗がノリノリで、「まあ、やってみろや」とやらせたらしくじった。もともと、宋の民だった中国人は戦争は嫌だった。と言う説もある。
勉強させて頂きました。
多くの犠牲の上に今の平和があるのですね。
国を守るのは大変なことだと教育してほしい。
どちらかというと、1980年代までの研究を踏まえたまとめになっていると思います。最近の研究だと、山内晋次の『日宋貿易と「硫黄の道」』の出版で日宋貿易以降の日中貿易の最重要物資が硫黄で、しかも軍事用の黒色火薬の原料として中華王朝の朝廷が独占的に日本からの硫黄を入手していたことが指摘されて以来、日本史の研究者と東洋史のモンゴル史の研究者の両方から元寇の真の目的が南宋に日本からの軍事用火薬原料の硫黄が流れることを阻止し、できることなら日本産の硫黄をモンゴル側が独占的に入手しようとしたことだったのではないかという説が提言されています。
あと、戦の前に名乗りを上げたり鏑矢で開戦を告げたりする習慣は、実はモンゴル高原の遊牧民社会の合戦作法にルーツがあるんです。実際、モンゴル帝国の帝室内の内紛での内戦で敵味方の将兵が互いに名乗りあって合戦儀礼のあいさつに余念がないのにしびれを切らしたクビライ帝が、モンゴル帝国版図の西方の辺境のコーカサスから連れてきた特殊部隊に名乗りを上げさせずに突撃させて勝利を収めたなんて話もあります。この時の内紛で戦争に使う資源を浪費したことが第三の元寇を不可能にしたことも指摘されています。私は日本側が鏑矢を使ったことにモンゴル軍側が笑い声をあげたのは、こんな島国にはるばる攻めてきたら、故郷のモンゴル高原と同じ作法が存在することに驚いて面白がったんじゃないかと疑っています。
なるほど~…やはり、神風ですね❗対馬海峡と玄界灘の荒波と台風の加勢が、日本列島への侵攻を防いでくれてますよね❓
大和武士が出るまでも無くて…ゲリラ戦法で勝てたのだからね⁉️😅👍
モンゴルは平原、平地での戦いには優れていたけど、海を通過したり熱帯のジャングルとか森を通過するような戦いは全然ダメだったみたいね。
日本だけでなく、東南アジア方面への侵攻にも失敗している。
ポーランドあたりも森が多いし
視力も遠視だけど、中近は視えづらかったかもですね
外敵と戦った経験は、実はこれ以前にある。刀伊の入寇と、白村江の戦い。
防人の詩を思い出したなりよ(*≧∇≦)ノ。
鎌倉武士、特に九州のもののふに感謝。執権時宗の果断さにも😟でも神風神話は昭和の軍指導者一部のアホに、誤った判断を導き出してしまった😵💧ね😠
だからか、今でも九州は、剣道、強いんですよ。
旧軍でも自衛隊でも九州の兵士は強いっていわれてるからね
今でも九州には防人制度は必要だと思います。
『意識だけでも、ね』
寝ぼけていると朝鮮難民が九州に巣食うようになる。そうなれば侵略と同じだ。
まあそれはあるな。日本が勝ったのは台風じゃなくてシンプルな実力によるものだと書き残しておけばこんな大きな被害にはならなかったかもしれない。それを神風なんて後世に伝えたからあんな悲惨なことになったんだと思う。
幕府からは幕府軍としてしっかりと戦力が整ってから、攻撃するように通達されていたが、九州の武士が幕府の命令を無視しての吶喊突撃が多かった模様。
戦うことが職業だから血の気がそうさせるみたいだよね。それは700年後の先の大戦での万歳突撃でもわかることだよね。医学が進んだ現在で説明するとアドレナリンってやつかな。
論功行賞ってやつだよ。戦果によって出世が決まってたので、個人行動する武士が多かったということ。要は軍としての組織化が徹底されてなかった。敵陣に一番乗りで切り込んでった者にもボーナス、一番最初に相手を切った者にボーナス、敵将の首を取ったものに大金星といったように細かく定められていた。インセンティブだね。
九州武士団の強さは、誇りです。
ただ、現代、DQN、ヤクザが多いのは副作用だろうか。
@@山見楽太郎
そのDQNとヤクザが武士の血をひいてるかどうかは分からないし、九州のヤクザは外国の方(主に半島系)が多いと聞いています
@社会派市民
>>武士なんて日本人の残虐性の象徴だろ。まぁそういう日本人本来の民族性とか尊重する右寄りの人は誇らしく思うのだろうけど。
(以上、削除された"社会派市民"さんのコメント)
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どうして武士が『残虐性の象徴』になるんですか?
元寇が起きた時代のモンゴルの方がよっぽど残虐だったのでは?
あと、まるで日本人が残虐な人達であるかのような発言はやめてください
@社会派市民
>>鎌倉武士が当時のモンゴルや中国、朝鮮からやって来た人々にどれだけ残酷な仕打ちをしたか知ってる?船に死体を投げ込んだり放火したり虐殺したりとか戦闘だからって到底正当化できない蛮族の振る舞いでしょ。そもそも攻められないような外交に失敗した時点で当時の日本が悪かったし、使者を虐殺するとかまさに未開の中世日本人の狂気だよ。
(以上、削除された"社会派市民"さんのコメント)
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日本がモンゴルに支配されていたら全く同じことをされていたと思いますし、外国が攻めて来たらどんな手段を用いてもやっつけるのは当たり前の話。
外交という名の脅しに対して、一歩も譲らない態度を見せるのは間違ってません。
@@山見楽太郎 需要と供給で、ろくでなしが多いから武士が強くならないといけないのではないかと思います。
皮肉なことに元寇への勝利で幕府の支配が全国に及んだことが鎌倉幕府の寿命を縮めた…
でも、数十年ももちましたから。
負けたらそれより酷い様になってただろうし😑
@@FZ-bj6hq 幕府としては勝たなきゃならんかったけど予期せぬ影響が出てきたというね
ロングボウ並の威力の弓を大鎧来た頭鎌倉野郎が騎射して追いかけてくると言う地獄。モンゴルくん成仏しちくり~。
「神風」と他力本願で勝ったかのように言われるけどモンゴル帝国軍(朝鮮人兵&中国人兵)に陸上戦で勝って橋頭堡を築かせなかったのが勝利した要因だよね
まぁずっと船に居た時点でお察しよね
江南を韓国語読みで「カンナム」というのはいかがなものか・・・
アンゴルモア元寇合戦記とかオススメだよな。
神風では無くて武士道か。結局は敵と戦うと言う決意!安易な妥協や落としどころなど敵に付け入られて見くびられるだけです。今も昔も!無礼な使者の敵の首を跳ねる勇気と決意に敬意を表します。
武士道って江戸時代の言葉だが・・・
鎌倉時代は弓馬の道で、
奉公と御恩は一致しなければならない契約関係だからね。
鎌倉武士団は重装弓騎兵で戦闘力、防御力、移動力が高く、弓の飛距離も元軍に勝っており、ひょっとしたら当時世界最強だったかも。
小説と現実を一緒にするな 当時の日本なんで全てにおいて弱いから(笑)
鎌倉武士団の重装弓騎兵は世界基準で見れば重装もクソもないから 大規模戦争の経験ゼロだし
村の戦いと戦争は違うから
@@chenbin157 でも、武士たちは武芸の鍛錬を怠りませんでした。戦国武士よりも、鎌倉武士の方が、ランクは上、とされる事も多いです。
@@chenbin157 現実を言えば、日本の鎌倉武士は元軍に勝利した。違いますか?日本軍の強さは日本側や大陸側の資料にも出ている。しかも、戦国時代には豊臣の武士らにも民や朝鮮の軍は負けている。こちらも大陸側の資料にある。現実を見るべきは貴殿の方ではありませんか。
@@chenbin157
鎌倉武士が勝ったのが事実だろ?
@@ジャギ-n1u 勝ち方に問題があるんでねーの?
実際台風なかったら負けてたと思うし。
追伸2:河野通有、大矢野種保、菊池武房、白石通泰、草野経永、...等の勇戦...。
高麗の口車に乗らなくて良かった😄
昔から仲間に迎えると敗戦する呪いは有ったのだ❗😱
第二次世界大戦での敗因の一つかな
それに引き換え、高麗の口車に乗った元は、、、
後にはあの国出身の皇后まで、、、
国ごと失いました。
この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家、竹崎家とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に親族姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気を今のアホ政治屋共の媚中韓派に訊かせてやりたい。
You sent
この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家(原性少弐)、竹崎家(菊池氏一族)、菊地氏(阿蘇家親族)とは血縁だった関係で、我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族・女真族・高麗軍の混成連合軍でこの戦いの主力は高麗軍と漢民族今のにっくき奴隷国家朝鮮(今の韓国)軍と現在の習主席の先祖漢民族。この戦いより以前の平安時代中期にも盗賊団満州女真族(清朝の先祖)新羅・高句麗軍の連合軍が日本に攻めて来た「「刀伊の入冠」の戦いにも総大将大宰権師中納言藤原隆家配下で参加して勝利。豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」にも参加して勝利
確かに御恩と奉公だったが、国を守るだけだったので恩賞つまり土地が貰えることはなかったので、これが原因で鎌倉幕府も衰退し始めたとも言われている。
そこいくと「茶道具」という、土地に代わる新しいご褒美ジャンルを開拓した信長はすごいな。
杉山さんの京大閥の切り貼りデマなんかねえ。鎌倉経済史の通説と矛盾してておかしいんだよね。
時輔の二月騒動で没収した土地があったので恩賞はきちんと出てて、
恩賞を差配した安達泰盛は絶賛された。
実際に恩賞は間違いなく出ている。
“関東の小御家人は参戦してないので恩賞がなく不満を持った”
求心力が高まった安達泰盛に危機感を持った北条家家人が安達を暗殺。
北条家の横暴だと御家人の火種になった。
@@aonegi3bon847 もともと幕府が強固なものでは無かった(執権体制とは何ぞやという疑問が御家人たちにはあった)し、飢饉なども相まって地方では小競り合いが頻発してて幕府の権威は揺らいでたんだよね。
そのために「元の国書」を外からの危機として求心力維持のために利用した側面もあり、その危機が無くなれば当然求心力も失われる。
フビライよりエビフライが好きです。
14:23 14:40 ここ気持ち良すぎる
渡洋侵略はめんどいから交渉で屈服させたかったんだろうけど結果的には日本に防衛体制を整えさせる時間を与えてしまいましたなぁ
田中芳樹さんの新作小説でモンゴルは最初修好を求めますが、それが断られると戦争吹っ掛けると書かれています。もしその国が修好OKしたら次の侵略でのモンゴル軍の中継基地か通行路の運命が待っています。たぶん鎌倉幕府が修好OKすれば南宋やベトナムの侵略の為にモンゴル軍に協力させられたでしょう。
元軍の立場だったら、なかなかの地獄だな、、
日本軍と直接戦ったアメリカ兵も似たような感想だね。
精鋭を送っているのに、なかなか占領できないし、こちらの死者が積みあがっていくと。
失礼ですが、舩坂弘さん、ご存知ですか?
九州御家人5万だけでモンゴルには勝ってる、京六波羅10万、本拠地鎌倉から数10万はまだ来てない
鎌倉武士と言えば首、首と言えば鎌倉武士と言えるくらいの狂戦士だからね…
頭領だけで誰も彼もの首をはねたわけじゃない。
クビカリ族じゃねーわ。
頭わりーな。
首を盛んに取るようになったのは戦国時代に入ってからですね。
鎌倉時代は、当時の軍忠状みる限り、そんなに取ってないですね。
特に、戦国時代みたいに一人で複数の首を取るケースは皆無です。
それに当時の習慣上、敗戦濃厚になると、敵は直ぐに切腹殉死してしまう為、首を取れない事が多いんです。(殉死者の首は手柄にはならない)
鎌倉幕府滅亡時すら、関係者のほとんどが集団殉死してしまった為、ほとんど首を取られていません。
まあ、まさか、何j民が広めた例の稚拙な創作を間に受けておられる訳じゃ無いと思いますが(´・ω・`)
@@zali-m5t
異世界に行くヤツ?
@@tiko-ko3wo
直リンは弾かれる為、
「反日勢力撃退資料館・HTML版」でググり、該当サイトの「鎌倉武士」に関するページにアクセスすれば分かります。
何j民の創作が史実と誤認され、ネット中に広まっている問題が特集されています。
ヒストリーチャンネルとか世界史の番組見てたらヨーロッパはモンゴルの騎馬軍団にやられてたとあったが、日本に上手く上陸できなかったらご自慢の騎馬軍団も使えなかっただろうなって思ってたのでこのチャンネルで納得できました、神風以前に上陸失敗してたらそら負けるわとw
それに防衛できたのは当時の日本武士のお陰でもありますね。
しっかし何というか、75年に行ったんだよねモンゴルに
なんも無い荒野って感じだっけど
実は憧れてた。いい経験だった
日本側はせっかく防塁を作ってあるのに、防塁から飛び出してわざわざ海岸側で戦う武士もいた事が武士の能力や日本側の防戦ではなかった事を示していると思う。
それ、笑えるwww
武士団はうんこ爆弾作って船に夜襲かけて、かなり悪臭で目もうんこの刺激で開けていられなくて苦戦したらしいよ。
@@surinngo4129
他にも小舟で近づき馬や牛等の動物の腐った死体や肉を元軍の船に投げ込んだ等逸話が多いですよね。
@@sorakohama758 普通は正々堂々と一騎討ちなどして大将同士で戦うけど、外道相手には、お似合いの戦い方をしたんでしょうね
@@surinngo4129
現代のように検疫や衛生の対策ができやい当時の船のような密閉空間の中に
汚物腐乱物を投入されると病気、怪我の壊死など殺傷能力を大幅に引き上げることが出来るんです
ちょっと想像すると分かりますよね?
怪我して治療中の抵抗力の落ちた仲間の体が疫病の宿主となって健康な仲間に被害を及ぼす
仲間を自分たちで殺して埋葬もできず海に捨てなければならない
今は仲間でも怪我して弱ったら味方に殺され捨てられるこれを日常で見続けることの士気低下
毒矢等と同じ要は中世の化学兵器です
もちろんある程度作法を持っての戦には使わないものなのでしょうが
蒙古を褒め称える「近代兵器」であるコケ脅しの大音で馬を脅かすてつはうだとか毒矢
もっと言えば非戦闘員である女子供老人をいたぶるように殺して縄かけして見せしめとする
こんな外道戦を挑むとそういった戦でも鎌倉武士の方が圧倒的に勝っていたというだけの話ですね
弱いものをいたぶってゲラゲラ笑っていた蒙古軍に怒りを燃やした鎌倉武士が目には目をと同じく外道戦で敵を追い散らしながら
さらに細菌兵器で阿鼻叫喚の蒙古軍に追い討ちをかける
たしかにある種のカタルシスを感じるのはわかりますが笑えるってのは少し不謹慎かもしれないですね
弘安の役において鎌倉武士が防塁から出て積極的な襲撃を行うようになったのは、防塁で敵を食い止めた後だと聞いたことがあります。
当時モンゴルを相手に奮戦する日本が今ロシアと戦う
ウクライナに重なる。いずれも圧倒的戦力の大国から
理不尽な侵略を受けて敢然と立ち向かい撃退した点や
敵国が士気の低い支配地域の人間を出兵して予想外の
苦戦を強いられた点がそっくり。
国書の内容がヒドイ(笑)
元寇 「オイ❗ニホン オレのケライになれ❗」
日本「あー…あいつらしつこいな~だっるいわ~💦」 的な?
動画upお疲れ様です❗
鏑矢笑う→ルールも理解できない蛮族ならみんなやってよし!! うおおおおおおお
大河ドラマ「北条時宗」でも似たような演出ありましたね。
テンション好き
いつの時代でも補給路が大事なんだなと思った。
5:07 高句麗じゃなくて高麗?
当時、敵対していた国(西遼、西夏、金、宋等)を容赦なく滅ぼしていた最強の帝国だった相手からの国交を、日本はよく断ったものだな……
(;=Φ人Φ=)
幕府の外交を掌る人が滅ぼされた金の人で、元を恨んでいたという
飛鳥時代からこのかた日本は「中華」に対しては文化的先人として一定の敬意は払っていたが政治的には隔意を示していたよ。天皇号がその最たるもの。
この時代でも元の隆盛と西遼や西夏の滅亡など、まともに知ってたか怪しいとも思える。
文永の役(1274年)の折にはまだ南宋(1279年滅亡)が江南の地で踏ん張っていて積極的な対外貿易を行っていたので日本から見れば大陸の覇権争いの正統性は「宋」にあるし、飢饉や地方の武士同士の争いの仲裁などに忙殺されていたという「国内事情」からも対岸の火事としていた点はいなめない。
それと低下した幕府の求心力向上のために「元からの国書」を利用したという面もあって「元が攻めて来る(かもしれんぞ)。みな団結せよ」と働きかけてるのでなおさら国交など結べないw
@kouchan machan 元々、926年に遣渤海使が廃止されて以降は日本の朝廷と他国との公式な交流(外交)は無いからね。
中華の冊封体制に服さぬ国は「国でも無ければ王でもない。国でなければ朝貢も通交も認めない」という中華思想のせいもあるけど北宋~南宋間の日宋貿易も国交ではなく私貿易止まりで「日本国王」足利義満による日明貿易(1401年)開始までは日本には外交そのものが無い。
ただ…あまり知られてないけど文永の役の後、在九州の西国御家人達の間から「こちらからも攻めるべき」という意見が多く挙がり、少弐氏が宥めるのに非常に苦労した記録が残っている。
又、当時の国際通念としても国使を斬首する事は宣戦と同質の返答と捉えて当然と考えられていた。
更に、太宰府は使節に対して「日本に服従するならば交流もやぶさかでない」と繰り返し伝えていたので、モンゴル側は非常に怒っていた。
おかしいですね、高麗の船は頑丈に造られてたと博多沖海底の調査から解っています。
攻めてきていたのが連合軍だあったため指揮系統、言語の違い戦闘戦術が違うのでバラバラに戦っていた
船の材料不足、造船技術の未熟さが民族ごとにばらつきがあり船速もそろえにくく統一の操船技術も難しかった
主力の騎兵馬が輸送に耐えられなかった 現代競走馬でも国内長距離でさえ疲弊し発熱発想取り消ししてしまうので海を超え何日もかけるとそのまま逝ってしまう馬がかなりの高い割合でいた 無論馬と奴隷、兵士の死体などで疫病が発生しやすく、食糧管理、船内衛生技術の未発達により衛生環境が敵を苦しめていた ゲリラ戦も何でもこなす超次元な鎌倉武士重装長弓騎兵がいたからこそだが敵が上陸後橋頭保確保できないで毎晩船に戻って攻略やり直しが一番大きい あと敵は精度がかなり悪く射程も短い連射向きの弓の矢がストックが戦闘中に早期に撃ち尽くす事が多く補充がいちいち船に戻らなければならなかった 防具も至近距離でないと敵の矢が刺さらない高防御とか刀、槍の長さの優位性など日本有利な装備の差も大きい 神風と呼ばれる事象は10分の1も戦況に影響は与えていない 船から兵馬を乗り降りさせるという事は当時の戦争ではかなり難しいことだった
一方的に神風のお陰で勝ったみたいな話に今の日本の教科書ではなってたけど戦前はマシな内容だったそうだけどね
諸説あるうちの一つで武功に対して神風のおかげにして褒美を払わなかったというのもあるらしい。
今の日本の教科書はGHQにより神風のお陰である様な教育方針になった。
NHKの歴史解説かなんかだと、日露戦争などと同様に、偶然、あるいはぎりぎりのところで勝ったことばかり強調されてたイメージかなく、それらを信じ込んでしまった悪い俺がいる。
理由もなにも、放たれた矢と同じで終着点を決めてなかったから。誰も止められなかったからどんどん進んだ(西はボーランドまで)。ただ、騎馬民族故に海を越えるのは苦手だった。現代でも海を越えて他国を制服することなんて大変なのに、一時期攻め込むことは出来ても支配を永続させるのは甚だ困難。それは後に豊臣政権が経験するね。イギリスがナチスドイツに屈服しなかったのも、間に海があったから。陸続きだったらフランスみたいに征服されてたかもね。人間は自然には勝てない。
モンゴルの主力は無敵の軽と重弓騎兵が主力だか日本では平地が少なく戦いにくい。その上に侍の弓騎兵と遭遇したらそりゃ頭を抱えるよ
この勝利に、鎌倉時代の武士の勇ましさは言うまでもない。
しかし、元側も日本を調査したはずなのに穴だらけの戦略しか取れなかったのは、何とも間抜けな話やね。
慢心していたんやろな。
それでよかったんじゃね?
特に二回目の弘安の役は南宋残党の水郡すりつぶすのが目的の一つだからね。
上級将校以外は蒙古の人間は居なかったみたいなんで、威信低下以外は大してダメージはなかったろうから。
@@bigmarch8686 さん
そうですね。
K・Rの情報が基になってるからそりゃ誤りだらけだったのでしょう😑
もともとモンゴルにとってはそこまで意義のある戦争ではないしねえ
文永の役のあとに南宋は滅亡しているからもう日本攻略の戦略的な価値は殆ど無くなっている
文永の役が威力偵察、弘安の役は高麗&南宋の余剰戦力の口減らしの意味合いが強かったのではないかと思う
@@einsfia さん
成程、面白いですね。
鎌倉武士の闘い方が古くて儀礼的だったと昔の授業では教わってきたけど、実際の戦では相手の戦法に合わせないと負けるのはコチラだものな。それに最初の元軍撤退も誰も知らなかったなんてそんなことあるかな?
日没後に日本側は水城・大宰府方面へ後退していた。
元軍の撤退は気づいてなかったと思う。翌朝に物見を出したら「あれ?船がおらん」だったのじゃないかとw
@@通りすがりの赤い人 武士団が博多から撤退したにせよ、元軍が恐ろしかったにせよ、海岸沿いに誰も目撃者が居ないってそんなわけ無い。おそらく天候が変わったか、日没近くになったので元軍が船に引き上げだし、日本側は追撃せずに体勢を整えるために距離を置いた。だが動きを見るための監視隊は残していると思う。
たぶん夜のうちに元軍が全軍規模で沖に移動していること、海が大きく荒れて船団にある程度の被害は出るだろうことは、段階的に報告されていたと思うが、日本側は明け方には元軍が上陸作戦を展開するだろうと、最初から考えていて、全く居なくなるとは想定していなかった感じがするな。
@@モア-s9n 古今東西の戦史を見渡しても戦意を維持した上陸軍が船に引き上げた例は無いよ。イーリアスは別だがw
これは陸から引き上げる手間と再上陸を考えれば明白な話でもあり、「まだ戦える」と考えているなら海岸に程近い位置で野営するほうが合理的なのだから。
文永の役に関しては中心となった博多の戦いは海岸より10km程度内陸側へ遷移していて博多空港の南辺りで行われたと思しいけれど、そこから大宰府方面へ引いているのだから更に遠ざかってるわけだし夜間に元軍の動向を何処まで把握しえたかは相当に疑問がある。
ある程度は元軍が海側へ引いたとまでは判っていたろうが船に引き上げたあたりは把握しきれていたか疑問と言うのが私の考え。
史料が無いので推論に推論を重ねるしかないのだけどね。
まあ全く居なくなるとは想定していなかったというのは同意。日本側も鎮西軍の本隊は到着しておらず前哨戦のつもりだっただろうし。
夜が明けると大船団がいなくなってたそうだね。第一回目の侵攻は脅しであり政治的なテロ効果を狙って交渉を有利にしようとしたのかは定かではないが、なにより高麗側にもその理由が書き残されてないと本で読んだ記憶がある。
日本側の武士は1対1の決闘方式で「いざ尋常に勝負!」と名乗り出てったらしい。
@@kuruko676 肥後の竹崎季長と蒙古襲来絵詞ですね。文永の役での戦功が認められなかったので鎌倉にまで赴いて「先駆けの功を認めてくれ」と談判におよび、恩賞を勝ち取ったことでも有名ですw
当時の武士の弓の射程距離はモンゴル兵の武器の4倍
はんぶんこっていい名前だな
日本国を守るのは最終的にも日本人である
誰も助けてはくれない
自分の国は自分で守るしかないんですよ
やっぱり武力は必要。
鎌倉武士の戦い方自体見直されてきてて、即席集団作った騎馬武者が大鎧で矢の雨防ぎながら突撃 → 和弓の射程まで近づいたらつがえた一撃だけブチ込んで離脱、だったとか。モンゴル軍の基本戦術が矢の雨で敵の大半は殲滅できること前提にしてたからこの戦法とすこぶる相性が悪かったみたいで、終いには矢が尽きて一方的に蹂躙された部隊もあったとか何とか。
ついでに戦闘狂の東国武士集団たる幕府軍主力はこの時まだ移動中っていうから、やっぱり大宰府占領まではできても押しつぶされるのは時間の問題な気がする。
まぁ文永の役の撤退中に次の戦争に使えたはずの兵力も軍戦も丸ごといなくなったのは間違いなく大きいと思うけど。
親父の実家の近くに竹崎季長氏のお墓あるわ 後忘れてはいけないのは、最強武士族の菊池一族ですね、竹崎季長と菊池一族との関係も面白いんじゃないかな
神風は人事を尽くして天命を待つというか、必死に頑張って奮戦した鎌倉武士に対する天の応援だった気がする。ただの浪漫だけども。
清原さんは最近ドラゴンズ主催以外の試合でもテレビで野球解説を行ったり、キャンプで若手選手に打撃指導を行うなど野球界に復帰出来ており安心しました。
また清原さんは仕事で名古屋を訪れた際に、ナゴヤ球場で石川やブライトに打撃指導を行っていると片岡ヘッドコーチがyoutubeで言ってましたが、今後も若手選手に自身の技術や経験を伝えることで球界に貢献して欲しいなと思います。
高麗は日本の無視のせいでひどい目にあったかもしれんけど
そもそもひどい目に合わせたのは元であって日本ではないな。
そもそも論として、元の皇帝のケツを掻いてけしかけたのは高麗王だからね。
この時、まだ日本の武力の一翼を担う僧兵(武装したお坊さん)は参戦してなかった。軽く見られがちだけど、戦国時代に信長が大苦戦したように、当時から僧兵はかなり大規模かつ精強な集団だった。なにせ出家した元武将なんかもいるわけで、彼らから兵法を学べるし、なにより彼らに対して修行を施せる程度には坊さん側も強かった
これだけ余力を残しながら、見事に撃退した武士団強すぎだろ!
思いの外、フビライ・ハーンが我慢強い件。
『日本史サイエンス』播田安弘
講談社ブルーバックス
船の設計者の著書が、蒙古襲来を
考察していて、おもろいのよ!
船酔い、上陸地点、海流、
両軍の武器、馬…
それにランチェスターの法則!
日本軍が橋頭保を作らせない作戦は良い作戦でした。長い間船で過ごすと船酔いが残ります。短期間に陸上の戦闘には適応出来ないでしょう。更に夜間の焼き討ちは手を焼いたと思います。一説には病気が蔓延したとあり、栄養状態も劣悪だったでしょう。英国がスペイン無敵艦隊を破った戦法に似ています。その後は違いましたが!
活躍した武士に、恩賞を僅かしか与えなかった。のが、鎌倉幕府の崩壊に繋がった
日本国国王と言う文言は、現在の日本人も怒ると確信する。
日王……。
怒るね
映画「300」のように思えました。外交面からスパルタ対ペルシアのような(あくまで映画目線ですが。)鎌倉武士相手に元軍指揮下とはいえ士気低めの高麗連合軍では分が悪い…。スパルタ戦士クラスでないとまともに戦えない、かも。