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事実を知れば納得した。こんなことは歴史書にも書いてないし、非常に面白い話で、現代も同じことが起こってるということだ。公務員も、非正規の臨時職員が多いのと同じことだ。
大学講師に非常勤が多いのも同じ構図ですよね。東大や京大とかだと非常勤でもすごいことになるそうですが(よその常勤講師がほとんどで)
非常に面白く興味深い内容だった、処分された細かい人数とか数字を出してすごく説得力があって良い内容ですね。他の人の桜田門外の変も興味深く見たけど派遣アルバイトが含まれていた話はここで初めて知って興味深かった。
その昔(昭和53~55年)、高校の日本史の授業で、先生が、「わたしの祖先は桜田門外の変の際に護衛役をつとめていたが、襲撃時に腰を抜かして何もできないでいた」というような雑談を笑いながらされていたのを思い出しました。その祖先は、商人あがりの武士であったとのこと。何か処罰を受けたというような話は一切でなかったので、もしかしたら、その先生の御祖先様は、彦根藩士ではなく、護衛のアルバイトの武士であったのではと思ったところです。
アルバイトではなく、困窮したり、娘しかいない武家のところに、富裕商人が持参金を付けて次男や三男坊を養子や婿入りさせることはありました。幕府の御家人などは、借金のカタに御家人株を取られてしまい、その株を買った商人の息子が御家人になることは珍しくなく、幕末に登場する勝海舟や榎本武揚は、いずれも二、三代前の先祖が御家人株を買って武士になったクチです。
それって、本当っすか?☺️
実に興味深い話を先生からお聞きして、良かったですね、greeting fromtoyama city by 70 years old man
確か後日、彦根藩の江戸詰め武士たちが、水戸藩江戸屋敷に仕返しの襲撃寸前に、幕府から仲裁で中止になったらしい。彦根藩のメンツもあったからね。
天狗党の処刑では彦根藩士がかなり志願して処刑に携わりましたね。
吉良邸討ち入り以来157年間無かった武士間の集団戦闘を目の当たりにした現場の人はすごく驚いたようです。桜田門外の変が今から163年前ですから、いきなり平成時代の街中で真剣の集団チャンバラが起きたようなものですね。
平成なら銃撃戦だろ
そう考えると、戦国時代の戦とも似てますね。一方が3万人とか言っても、その大部分を占める足軽なんて殿様に対する忠誠心などなく、勝った時のおこぼれ目当てで、負けそうになると一目散に逃げたって聞きますから。
龍造寺隆信は側近にまで逃げられてポツンと1人残された
乱取り目当ての傭兵も
末端の兵達は通常動員された農民兵ですが、傭兵として野武士や、プロのスペシャリストとして雑賀衆や根来衆を雇ったりしてますね。
伯母の連れ合いのご先祖が某藩の江戸詰めの武士で桜田門外の変を目撃していたそうです。その人から直接話を聞いたという話で、幕末といってもそんなに遠い過去ではありません。彦根藩の行列に日雇いの者が混じっていたのはありそうな話。水戸浪士もそういった事情は心得ていたのでしょう。時と場所を選べることから、事件は襲撃側に圧倒的に有利であり、主君を守ることができなかった藩士に厳しい処置が下されたのは気の毒です。
子供の頃に見た国勢調査の調査票の生年月日欄は慶應以前・明治・大正・昭和でした。そんな世代なので幕末の人々も同時代人だという感覚があります。逆に1788年生の菊池容斎の写真を見たりすると、現実感がなく妙な違和感を覚えたりもします。
闘っても現場の事情で主君を守り切れないことは往々にしてあることだから、逃げ帰った藩士はともかく、闘って怪我した武士までなぜ責めを負わねばならなかったのか、甚だ不可解です。また亡くなった武士は忠義の士だから遺族にそれなりの褒美があってしかるべきではなかったのか。どうも合点がいきません。
イランのフセイン大統領の息子の乗った車が襲撃された時、生き残ったボディーガードは病院で治療を受けて完治してから、改めて死刑になった。
襲撃する水戸藩士の方もそのような事情を知っていて、この人数でも襲撃できると考えたんだろうなぁ。
それは充分に考えられますね。
襲撃側の闘死は一人だが重傷から自刃が四人けがが原因での病死が二人(黒澤を含めれば三人)だから、襲撃側16人中(二人は切りあいに不参加)半分が重傷以上奇襲を受けた彦根側も黙ってやられていたわけでは無くきちんと反撃しているんだけどね。
その場で全員斬り捨てに出来てない時点で大失態だと思う。
初めてわかりました大変面白いです勉強になりました参考ありがとうございました
実は元水戸藩士もそのことを十分に知ってのこと、彦根藩士剣術の達人の名前と人数も調べていた。水戸藩士も人を切ったことがない武士、無か夢中で斬りかかっても数分で首を取られた。人を斬る早さは数秒、刀を出して攻撃する時時と刀を抜いて防御態勢の時間、あまりにも違いすぎる。10秒あれば一人でしごにんは斬れる、一瞬で決着がつく、彦根藩士が甲冑を着ていれば別の話で丸裸の状態。襲う方と襲われる方、この差は大きい、彦根藩士剣術の達人が自分と同じ腕のいい人が、あと数人いれば防御'(首は取られなかったと悔やむ)できたと、記録に残っている。最後に井伊が、自分が襲撃されることなど1mmも思っていなかったことですね、自分が将軍の代わりみたいなもの、権力と地位の油断が招いた事件。
わかりやすく解説くださり、ありがとうございました。「柘榴坂の仇討」を観ましたが、暗殺の場面は、映像も綺麗で美談になっていましたが、ほとんど派遣のバイトだったとはビックリです。面白いですね😅
小者が約40人くらいと考えてよいだろう。剣客河西某は駕籠訴の段階で刀を抜けるよう準備したと思われ襲撃時点でいち早く応戦できたようである。井伊某は恐らく駕籠訴の短筒が致命傷と思われるので早いうちに首をとられたと思われる。まさかの大雪、紀尾井町から桜田門、まさか襲われまい、といった油断もあったとは思うが死ぬべくして死んだものと思う。彦根藩にとってさらに屈辱的なのは血染めの雪を清めることだったんじゃないだろうか。それだけに逃げた藩士たちに容赦ないだろう。彼らも切腹していれば面目も保て家名も残ったかもしれないが隠れてたからね🤔敵味方双方で同士討ちもあったくらい大混乱だったろうからバニクって逃げた、と思えなくはないけれどね。
勉強不足で「血染めの雪を清める」の意味がよくわからんのです説明いただくと助かるのですが(^_^;)
その中間・小物の中に薩摩飛脚やら勘定方隠密が紛れ込んで各藩をスパイしていたのだから、口入屋すら幕府の『アウトソーシング』機関員が混ざっていた可能性があった。江戸幕府は元が軍政機関であった事は、案外忘れ去られているなぁ、とよく想う。軍事パレードたる大名行列は臨時増員で済まして、国元では外国船打ち払い令の緊張状態と防衛担当者は維持していた事が多い(問答無用策は止めても兵備自体は解けないから)。坂本龍馬の江戸留学は表向きは剣術修行だが、主目的は近代砲術習得の為だったとの話も高知で見聞きしたことがあった。この件は当人の特性上無理があったようで、あっさり脱藩したのも『モノにならんと判った以上、無駄な努力はしない』といった理由からだったそうで。この点は『司馬竜馬』的で大笑いしたし、佐久間象山の事を『威張りくさるだけの人間は師とは呼べない』といって塾通いを止めたのも、急発達し続ける火砲と砲兵操典の現実を見知ったからだ、とも聞いたことがある。高知の人たちの贔屓の引き倒しかな?とも想って聞いていたが、江戸時代なりの合理性は在って、巧く明治に引き継げたから維新は成功した、と観ている。
当日は他の大名も登城することになっていたので、汚れていない雪で血の跡をうめていったそうです。
当時井伊大老は安政の大獄の張本人であちこちから恨まれていた。そのくらいは本人も井伊家も判っていたろうから、例えごく近距離の外出でも用心すべきだったね。刀だけでなく鉄砲での襲撃も考えて駕籠脇に警護の武士を何人かぴったりくっ付けて歩かせていれば彼らが犠牲になって大老本人は軽傷くらいで済んだかもしれない。まあタラネバ言ってもしかたないか。
@@金悟空-m1p映画で見ましたが、血だらけになった雪の現場を、 彦根藩の藩邸に勤める下男らしき町人風の祖父さんがホウキで這いていました。
大名行列に派遣業者が絡んでいたとは知らなかった。人だけではなく道具までもレンタルとは。昔も今も経費節減のため人材派遣やレンタルを使うのは同じ構図なのがおもしろかった。
仕官させるという事は、固定費になるという事。ならばその場の可変費で済ませられればそれもよし。ただ、当時のこうした有事の時や、現代でも盆暮れ正月に学生バイトのシフトが組めないとか、いざというときに困るのさ。
桜田門外の変で彦根藩の逃亡者が多かったのが謎だったんですが、おかげで納得できました。ただ、襲撃の噂や報告が事前にあったのに井伊本人が拒否したらしく正式な藩士が40人程度で固めていれば歴史は変わっていたかもと考えてしまいます
この頃のテロ事件はかなり横行し始めていましたが、それでも大老を江戸城に登城途中で襲うとはあまりにも突拍子すぎていたと思われます。またこうした事件は襲う側はアドレナリン一杯であり、また用意周到であることからたとえ彦根藩士が多少多かったとしても防ぎきれなかったように思います。
人材派遣業のお話に生活の知恵もあった事に妙に納得しています。襲撃した浪士側にも落ち延びた地元の関わりを恐れた藩の対応にも悲惨さを感じます。
以前、何かで読んだ不確かな知識ですが、平和が続いて帯刀以外に刀を使うことが無いため、刀身を薄くして軽くした刀が流行り、武器としてほぼ役に立たなかったそうです。ガチで襲撃する側はガチな刀だったと思いますが、もしかするとこんな日常的な極めて形式的な警護だと、薄身な飾りでしかない刀だったかも知れませんね。
9:49 駕籠かきは武器なくて逃げるしかなさそうなのに斬首かあ(´・ω・`)
水戸浪士の墓や唯一の生き残りが近所の神社宮司だったりだが、割と近年までは地元の話題にもなっていなかったな。悲惨な末路が多くてあまり観光にも使えなかったためかな
面白かったです。ありがとうございました。
大名行列は街ではバイトを雇ってゆっくり歩いていたけど街道に出る正規の藩士だけとなりと走っていたと聞いたことがある
桜田門外は事前に計画が察知されましたが、伝えられた井伊直弼は「護衛の人数を増やすと、幕府が襲撃者を恐れてるように見えるから」と言って護衛を規定の60人のままにしたようです。にも伝えられた彦根藩一の剣豪だった河西忠左衛門は、この時斬られて最期に「殿を守る手練れが後数人いればやられはしなかったものを」と言い亡くなったそうです。最初聞いたとき人数を増やせばと思ったけど、同人数でも腕のある藩士に入れ換えられたのになあ。
当時でもいわゆる非正規社員を雇って経費削減をしていたのですね。
町奉行所に勤める同心も一年契約の非正規社員でしたよね。ただ、めったに契約を切られることなく毎年更新され、さらに跡取り息子も同じ条件で入社させることができるのが普通だっただけで。
アウトソーシングの時代よ
なるほど、だから「大富豪同心」ってTVドラマも成り立ったのか。
やっぱりそうでしたか 日雇いのバイトのほうが多かった 大老の登城も大名行列と同じでしたかしかし 不穏な動きは 彦根藩にも入ってたはず なのに手練れのモノに警護させかった彦根藩の落ち度ですね不穏な動きは知っていたが まさか将軍のおひざ元である江戸で大老を襲うなんて考えても無かったのかな?それとも譜代筆頭と言う安閑とした地位に200年もいて 藩全体が小市民的な役人ばっかりで武芸にはとんとダメで 危機感がまるでなかった?
「本能寺事件」と同じくらいの「桜田門外の変」ですよねいろいろな解説をお聞きしてきました。50年位まえ?映画も見ましたね、好きだった「三船敏郎さん」が出演なさってました。「織田さん」も「井伊さん」も「浅野さん」もお気の毒でした。伝説の語りは勉強になります有り難う御座いました(91歳)「ほんとうはどうだったの」でいろいろ知りたくなります。
エキストラって、考える事は今も同じだね。バンド業界でも人数合わせの為にエキストラを入れるが、昔は「枯れ木も山の賑わい」と、演奏が出来ない「立ちんぼ」と言うトラもいたなw
GS時代のカスタネットとか( ゚Д゚)
為になった。 行列のエキストラに刺客が混ざっていた可能性は無かったのですか?
私個人的には、彦根藩に成りすましのスパイが相当数混ざっていたのではないかと思っていました。
@@あかとんぼ-y2h エキストラも門内に入れて行列を整えてから門を出ていたのでしょうから、派遣業者と懇意にして彦根藩に需要があるたびに派遣してもらい、邸内の様子を窺ったり、彦根藩士と仲良くなって事情を聴いたりとかはできたんじゃないかと私も思います。
映画の「桜田門外ノ変」では、柄袋のまま立ち回る藩士もいたりと再現してて面白かったです。衣装も襲撃側と比べると動きにくそうでした。最初の狙撃で井伊本人が行動不能になったのは痛かったですね。
井伊直弼は剣術は免許皆伝だったらしいですね。しかし駕籠の中で撃たれてしまったのではその腕も生かせなかった。
この話は風雲児たち幕末編の21巻に判りやすく経緯が詳細に書かれてるから興味がある方は読んでみる事をお勧め
読みました!現場を見ていた人がいたのですね。みなもと氏のご冥福をお祈り申し上げます。
江戸時代にそんなバイトがあったとは…
バイトルあたりで参加か?
背が高いとか体格がいいと見栄が良いからという理由で大名行列の先頭に立てた上にバイト料も多めに貰えたという話が残ってますね
何故上巳に総登城したのですか?
じゃあこのエキストラの中に水戸藩の内通者がいて行列のスケジュールを漏らしていても不思議じゃないね。
当時にはごくありふれた実情立場に応じてお供の数合わせが必要だったから、すでに人材派遣の店も機能していたし
今迄気にしなかった事でした。よく解りました。ありがとうございます😊 生き残った彦根藩士の処分に付いてよく分かりますが、討死した8人の家には何か彦根藩からの処分始め報奨が有ったのでしょうか?また彦根藩に雇われたエキストラは江戸では口入屋から派遣された者だったのでしょうか?
変で亡くなった8名の家には跡目相続が認められ、彼らの慰霊碑が直弼の墓の後方に寄り添うように建っているそうです。エキストラは口入屋からの派遣だと思います。
なるほど納得しました..坂崎磐音は雇われていませんでしたか..残念。
ギリ桜田門外ノ変の世代なので懐かしいです。当時瓦版を大勢で囲んで見たのを覚えてますね。
成クレ
いつも傘貼りしてて、たまの日雇いエキストラでこんな目にあった下級武士は怖かったろうなー
浪人も口入屋から、紹介されたので逃亡するというのが無理ない。
護衛のサムライがつか袋に紐を結んで、わざわざ刀を抜け辛くするなど考えられない。
襲撃した水戸浪士が、この日、この時刻、この場所を選んだのは、なぜなのでしょうか。江戸城のすぐそばという場所は、水戸浪士にとって「不利な場所」ではなかったのでしょうか。
藩邸は二階建ての長屋に囲まれた要塞のようで押し入りは不可。そうすると登城途中を狙うしかない。そして桜田門外には行列を見物する市民がいて、彼らに紛れれば怪しまれなかった。江戸城に登城する全国の大名行列の見物は当時の江戸庶民の楽しみの一つ。そのためのガイドブック「武鑑」は江戸時代を通じてベストセラーだった。
警視庁が桜田門に建てられた理由は、同じような事件は絶対起こさせないぞという強い決意の表れでしょうか?
江戸藩邸から江戸城までなら、バイト雇う方が無駄じゃないかと...直弼厳しすぎて彦根藩内でも嫌いだわって藩士が多かったw
江戸藩邸には15人しか藩士はいなかったのでしょうか。財政難でもアルバイト代を払う余裕はあったのでしょうか。どのくらい払っていたのか気になります。
奈良県警の先祖が護衛してたんじゃないか?
奥が深くて上手い😉😊✌️!
貴方を尊敬します。
大老は今でいうと内閣総理大臣みたいなものですかね?
懐かしい話を聞きました。83歳の年寄りです。先祖が上杉家の御殿医で桜田門にあった事件を見た、という話しをお袋から聞いた記憶があります。ひい婆さんが、掃部のかみの頭が梅干しみたいに斬られてた。とか。ちなみにその婆様は枕元に短刀を置いて寝んでたそうです。
なるほど面白い説です。本当なら納得もの。しかし、そうなると疑問も沸きます。彦根藩ともあろう大藩が藩主の江戸城までのお供にアルバイトをわざわざ雇わなくても藩邸に100や200の、いえもっとたくさんの家臣が居るはず。何なら中屋敷や下屋敷にもたくさんの家臣が居たはず。藩主のお供は栄誉的仕事。登城の日は分かっているはずですから、ひと声かければその者達が。。ましてや大老職に付いた主君、100や200、わざわざお金を使って集めなくても喜んでお供したでしょう。そんな家臣共を置いてけぼりにして、わざわざお金を払ってアルバイトを雇うかなぁ。。参勤の大名行列なら納得ですが、、彦根藩には目の前の江戸城まで、主君の登城のお供の僅か5~60人程の家臣も調達出来なかった?と……疑問も沸いたりしました。いや、しかしいつもこうして色々考えられて楽しい動画感謝します!追伸…この時の政情を考えると、、つまり安政の大獄の大鉈を振るった藩主の共にアルバイトを付けたとしたら、この件で罪を問われるのは共をしたもの達では無く、そのアルバイトを付ける判断をした藩の家老以下重臣達になるのでは。。なんて、、長々と失礼しました。
幕末はどこの大名屋敷もかなり人手不足だったようで、登城の際のお供だけではなく、武家屋敷周辺の治安を守る辻番でさえ口入屋からのアルバイトに頼っていました。口入屋の中には、数十もの大名屋敷に出入りしていた者もいましたし、派遣アルバイトは大名屋敷にとってなくてはならない存在でした。もちろん、人手不足は御三家であっても同様で、ある口入屋の親分は、水戸家のお屋敷に何度も出入りをしているうちにコネクションをつくって、自分の娘を15代将軍慶喜のお妾さんにしているほどです。つまり、藩主たちもみんな派遣アルバイトを使っていることは知っていたということですね。
@@edojidai-paradise なるほど、人手不足ならば雇うしかありませんね。しかし、井伊直弼本人も含め……日米通商条約はじめ、安政の大獄であれだけのことをして、尊皇攘夷派が、水戸には天狗党なんて物騒な人達も居たのに、例え目の前でも江戸城までの主の共に、身内で固めずアルバイトを雇い。。藩の家老や重臣たちはかなり呑気だったのか。世情が見れなかったのか。。脇が甘いとしか。だとしたら仰っしゃる通り、その事を分かっていて、討たれるべくして討たれたのか、彦根藩の身内に黒幕……なんてことまで想像してしまいますw面白いお話しありがとうございます!
この辺は「みなもと太郎」氏の『風雲児たち』でも取り上げられていました。その後に起きた老中襲撃事件では護衛を追加していたので見事に撃退されていました。そもそも彦根藩邸から目視できる場所で起きた事件なので、門番がそのまま江戸城に着くまで眺めていれば、救援をすぐに派遣することができたはずでした。
坂下門外の変でも、斬りつけられ、背中を負傷した、老中 安藤信正も、一年もたたず、辞任させられ、隠居させられた。老中 安藤信正の出身地の、磐城平藩は、二万石を没収され、三万石に減封された。更に、信正は、藩主を引退、蟄居させられる。桜田門外の変から、間をおおかず起きた、思考停止の、奴隷 社畜行列、思考停止の、ゾンビ行列化していた、参勤交代 大名行列への江戸都心部での襲撃、要人の負傷という江戸幕府の威信を、徹底的に失墜させた案件だもの。
桜田門外の変に人材派遣が使われたのは初めて知りました。子連れ狼にも「渡り徒士(かち)」のことが出ていますね。
第22話です
子連れ狼は江戸初期の話ですけどそうなると江戸最初期から「人材派遣」があったことになりますけどね😲⁉これは驚きですね😲!
江戸時代にもパソナがあったとは!
ヾ(⌒(ノ'ω')ノ不動産屋と手配師は江戸からの伝統怪しい商売
NHKの歴史シリーズで昔この襲撃を取り上げてました。侍の登城のときは結構見物人がいたらしいです。あと証言で、切りあいのあと現場にはたくさんの指が落ちていたと言ってました。
小手ェーー、ハイ一本というのが多かったのかな。
柄袋の話はどうも疑問に思っていました。別の動画で鞘は木を張り合わせて作るから時代劇のように鞘ごと刀を打ち合わせると割れてしまうようで、逆に言えば命あっての物種ですから刀が抜けなければ鞘ごと相手をぶっ叩き、壊れたらそのまま鞘を投げ捨てて戦えばよいのにと思っていました。無傷の者や軽症の者が処分を受けるのは当然ですが、重症者も処分は厳しいですね。忠臣蔵でも吉良義周が赤穂浪士相手に奮戦して力及ばず切り倒され失神、現代人の感覚ではよくやったと称賛される行為ですが義父(祖父)を守れなかったという結果を問われて流罪、武士とは厳しいですね。
事件前、井伊直弼の元に不穏分子の動きがある旨の報告があったようですが、直弼が「そんなことで警備を増やせば藩の威信に関わる」と、その報告を一蹴したことも要因でしょうね。。
この事件まで唯の一度も『大名行列を襲撃する』という事案が起きなかったのも大きな要因だと思う。
バイアスってヤツですね。
大変面白く驚きました。
みなもと太郎の風雲児たちで読みました。みなもと先生長生きして完結して欲しかった。
御意!
誰かが「風雲児たち」を書き継いで完結させてほしいですよね🤔
今もこの事案は警察の護衛に脈々と受け継がれますね!
大名行列のやり持ちはイケメンのモデル体型を雇い、高い給料。大内内蔵助の仇討ちも吉良の屋敷の侍はアルバイトばかりで逃げた。
なるほど、腑に落ちた。
彦根藩も藩士ではない人間を処罰できないし、したら世間から笑いもので、もちろんしたら彦根藩に今後雇われる人間はいないですよね。命がけで藩主守る給料なんてもらってないし。派遣バイトが一般的だったのは良く言われますが、桜田門外の変と結びつけて話す人って本当にいないですね。ちゃんと色んな情報を集めて全体像を語れる人は少なくて、お決まりの資料だけを基にしてるだけで満足して、あまり物を考えてない(事さえ気が付いていなし)人が多いんでしょうね。
なるほど。確かに60人全員が彦根藩士だったら、それこそ死に物狂いで戦ったはずだし、それなら逆に返り討ちにしてたはずだろうし。日雇いにそこまでする義理はないもんな。
興味深い考察です。となると水戸浪士はそれを知っていて作戦を立てていたのか・・・興味は尽きません。
この動画を見る限りその日雇い派遣業者ってそうとう優秀な組織だよね😊
大名行列雇った方が安いんかーい、もはやちんどん屋ですな
事前に水戸浪士からの襲撃が警告されていたにも関わらず、手練れ者を揃えるとか何かあれば藩邸から応援を寄越すとか、危機管理が甘すぎたのではないかと思われる
水戸から持ってきたピストルで井伊直弼の居合を封じたとの説もある。
いくら日雇いとは言え、二本差しの武士がいたら警護で雇われてるんだから襲撃には応戦する義務があると思うがねえ。日雇いは荷物運びだけかも知れないが。
襲撃者は短筒を使用して井伊直弼を撃ったみたいなので、刀の使えない者はそりゃ逃げますよね。
この桜田門外の変では、水戸藩士側は鉄砲を使用したと記録に有ります。更に、水戸藩士側は行列の大多数が雇われ者で、殿様の籠付近にはいないことも承知していたでしょう。鉄砲音で威嚇され、刀や槍で不意討ちをされれば、驚愕して逃げ惑うことは当たり前です。ただし、行列見物の人々からすると、姿格好で雇われか家臣かは判断出来ないので、藩士が逃げたとされたのでしょうね!
幕政も後期に達すると門閥貴族化してしまい格好に異常な神経を注ぐが肝心の猛々しい差が消失してしまっており田舎育ちの粗アク性の強い地方侍にして殺られてしまったと云う事ですか!😮
いいコンテンツだった。ところで、直弼が刀の達人だったので、鉄砲打ちがいて、狙撃してから、刀で襲いかかったって話があったが、ここには、ないね。どうなってるのかな?
殿様は剣術の達人であっても刀を振り回して応戦することは許されない。
1人に偉い方が何人も、遭難してますが。
桜田門外の変の当日、天候が大雪であったのは襲撃した側にとっては天啓だったでしょう。この頃は天気予報などありませんから。彦根藩の登城する人数やある程度の内容(どのくらいが雇われの藩士か)は調査した上での18人という人数に行き着いたように思います。
駕籠かきまで口封じに殺されたのか。日雇い人足は、そもそも口入屋から連れてきたとすると江戸の民ですので、彦根に処断権がないですね。
新たなる知識ありがとうございます 特に 剣の束袋否定説は新しい情報 ましてや 最高官職の 大老の御府内行列にアルバイトソルジャーいたとは また 大老生存中にして 将軍家よりお見舞い 受けたのも驚いた
井伊直弼は安政の大獄で恨みを買い、命懸けだと思っていたということですが、襲撃対策より経費節減だったのでしょうか?
あらまぁ、大半は逃げ散ったのね?。奇襲や気象条件は有ろうが、死者が多すぎかと思ったら、武士は同数なのね?。直属の彦根藩士、逃げ出したのも当然ですね
エキストラを罰したら以後は誰も集まらなそう、
彦根藩は30万石だから、藩士は3000人は存在したな。経費削減のためにエキストラを雇い入れるのは、普通に行われていた事であり。幕府から江戸城に登城の際は、この身分の者であれば、供を何人つけろ。この身分であれば馬に乗れと決められていたから、見栄を張りたくなくてもそうせざろう得なかった。ましてや井伊直弼は大老だったから。六十人もの行列が必要であったのだろう。桜田門外の変では、大老が討たれるということで幕府の威信を傷つけたこともあり、彦根藩の対応は苛烈を極め。討ち死にした者だけが無罪とし、傷を負った者は切腹で無傷だった者は斬首とされ家門もとり潰しになったその中には救援を求めて藩邸に走った藩士も存在したとされる。この厳しい処分でも、幕府の彦根藩への対応は冷ややかであり、これ以降、彦根藩は倒幕に傾くことになった。
護衛は襲撃側と同じ程度か、本当に数名しかいない上に、雪の中ですぐに刀を抜けるように準備していたが僅かに一人くらいだったのも災いしたんだよな
居合の名人であった井伊直弼。賊側の合図の鉄砲が腰部に流れ弾的に当たってしまい、籠から出られなかった(動けない)のが、簡単に討たれた主因かと。が、そうだとしても、賊に首級を取られ持ち去られるというのは失態中の失態(直様追って探索、新しい飯櫃に収めて屋敷に持ち帰ったものの)
何で幽閉なんだ‼️‼️英雄だ‼️‼️
漫画風雲児たちにかなりリアルに書かれてます。リアルですよ🎵
背景から当日の乱闘模様、その後2年ほど経ってからの処分まで詳細に描かれてましたね。鳥羽伏見や戊辰戦争一連の戦いを描いてほしかったな。惜しい漫画家が亡くなってしまった…。
この日雇いはどういうところから派遣されてたんだろ?口入屋かな?そういう記録は残っているのかな?それにしても、経費節減をするところを間違えるとトンデモナイことになるのは今も昔も一緒だな…
当時ですら今日でいう派遣社員を雇っていたりしたとは。武家社会の世知辛さが垣間見える。なお、事件時の襲撃者側の犠牲者は重傷を負って切腹した有村次左衛門も含めれば二名と言えなくもない。
後世にはひこにゃんなんぞを作られていったい何を考えてるのやら
長い間斬り合いをしてないからいきなり来られたら咄嗟に動けないしパニック起こすよね
なっとく😲💦
彦根藩の人間ということで、駕籠かきまで処分というのは、ちょっと気の毒ですね。駕籠かきが武士なら仕方ないとは思いますけど。
桑畑三十郎「斬られたら痛えぞお」
幕末期にも、「人材派遣法」の被害者がいた😂
桜田門外の変前から巨人の星が放送開始まで生きてた人がいた。桜田門外の変ももはや戦国時代の戦争に近いし、そんな歴史的な出来事から南北戦争、太平天国の乱、戊辰戦争、西南戦争、日清、日露、W1、W2、朝鮮戦争と色んな戦争が世界中であったし、ちょんまげの人が本気でいた時代から昭和の姿も見れたことになる。
そうでしょうね🤔。私は53歳で私が中1の時大河ドラマ「徳川家康」を放送していて当時のNHKの歴史番組の本で「歴史への招待 徳川家康」の本を読んだことがありましてその本の中に番組の解説をしてた当時もう90歳近くの学者の人が「私は天保生まれの曾祖母に育てられました」と発言なさってたのが未だに強烈に記憶にありますので幕末から1960年代後半まで生きられた方々も多かったでしょうね🤔
マイナビバイトの侍cmも間違ってないんかw
これはわかり易くよくできた解説です。👍しかし処罰されたのが、この程度とは天下太平な世情もあったでしよう。同様のが中国辺りであったなら60人全員斬首です!😳
刀は竹光やったんやろ
声が良くて聞きやすいです。👍 登録記念コメ 2023年9月25日 登録者数5380人→5381人 再生回数2.6万回
ありがとうございます。
柄袋は直ぐに外せる。居合の技のひとつ。
薩摩の行列ならきっとこんな襲撃でも主君の首を獲られるような無様なことはなかったでしょうねこれが現実
大老の首をとったのは薩摩藩の人でしたよね。
@@由夫板橋さま確か有村某
まあ、生麦事件でも駕籠の近くにいた松方正義(後に首相)は、イギリス人に切りかかろうとする奴等に、「お前ら持ち場離れんじゃねーよ」と切れてるからな。
江戸時代から人材派遣かよwそりゃ安い金で雇われてんだし命張るわけないわな
記録に残る世界初ピストルを使った暗○事件(`・ω・´)ゞ
「桜田門外の変」は、 安政 7年 3月3日 ( 1860年 3月24日 )「リンカーン大統領暗殺事件」は、1865年4月14日"銃創"こそが直接的な致命傷であつたことが真実ならば、確かに「狙撃」による国家トップ暗殺事件の嚆矢と謂えるわな、桜田門外・・・
そもそも桜田門外の変まで大名行列を襲う事例がなかったくらいに平和だった。桜田門外の変以降の大名行列は戦闘に長けた江戸で住んでいた大名や旗本の部屋住みがバイトとして雇われた。
事実を知れば納得した。こんなことは歴史書にも書いてないし、非常に面白い話で、現代も同じことが起こってるということだ。公務員も、非正規の臨時職員が多いのと同じことだ。
大学講師に非常勤が多いのも同じ構図ですよね。東大や京大とかだと非常勤でもすごいことになるそうですが(よその常勤講師がほとんどで)
非常に面白く興味深い内容だった、処分された細かい人数とか数字を出してすごく説得力があって良い内容ですね。他の人の桜田門外の変も興味深く見たけど派遣アルバイトが含まれていた話はここで初めて知って興味深かった。
その昔(昭和53~55年)、高校の日本史の授業で、先生が、「わたしの祖先は桜田門外の変の際に護衛役をつとめていたが、襲撃時に腰を抜かして何もできないでいた」というような雑談を笑いながらされていたのを思い出しました。
その祖先は、商人あがりの武士であったとのこと。
何か処罰を受けたというような話は一切でなかったので、もしかしたら、その先生の御祖先様は、彦根藩士ではなく、護衛のアルバイトの武士であったのではと思ったところです。
アルバイトではなく、困窮したり、娘しかいない武家のところに、富裕商人が持参金を付けて次男や三男坊を養子や婿入りさせることはありました。
幕府の御家人などは、借金のカタに御家人株を取られてしまい、その株を買った商人の息子が御家人になることは珍しくなく、幕末に登場する勝海舟や榎本武揚は、いずれも二、三代前の先祖が御家人株を買って武士になったクチです。
それって、本当っすか?☺️
実に興味深い話を先生からお聞きして、良かったですね、greeting from
toyama city by 70 years old man
確か後日、彦根藩の江戸詰め武士たちが、水戸藩江戸屋敷に仕返しの襲撃寸前に、幕府から仲裁で中止になったらしい。彦根藩のメンツもあったからね。
天狗党の処刑では彦根藩士がかなり志願して処刑に携わりましたね。
吉良邸討ち入り以来157年間無かった武士間の集団戦闘を目の当たりにした現場の人はすごく驚いたようです。桜田門外の変が今から163年前ですから、いきなり平成時代の街中で真剣の集団チャンバラが起きたようなものですね。
平成なら銃撃戦だろ
そう考えると、戦国時代の戦とも似てますね。一方が3万人とか言っても、その大部分を占める足軽なんて殿様に対する忠誠心などなく、勝った時のおこぼれ目当てで、負けそうになると一目散に逃げたって聞きますから。
龍造寺隆信は側近にまで逃げられてポツンと1人残された
乱取り目当ての傭兵も
末端の兵達は通常動員された農民兵ですが、傭兵として野武士や、プロのスペシャリストとして雑賀衆や根来衆を雇ったりしてますね。
伯母の連れ合いのご先祖が某藩の江戸詰めの武士で桜田門外の変を目撃していたそうです。
その人から直接話を聞いたという話で、幕末といってもそんなに遠い過去ではありません。
彦根藩の行列に日雇いの者が混じっていたのはありそうな話。水戸浪士もそういった事情は心得ていたのでしょう。
時と場所を選べることから、事件は襲撃側に圧倒的に有利であり、主君を守ることができなかった藩士に厳しい処置が下されたのは気の毒です。
子供の頃に見た国勢調査の調査票の生年月日欄は慶應以前・明治・大正・昭和でした。そんな世代なので幕末の人々も同時代人だという感覚があります。逆に1788年生の菊池容斎の写真を見たりすると、現実感がなく妙な違和感を覚えたりもします。
闘っても現場の事情で主君を守り切れないことは往々にしてあることだから、逃げ帰った藩士はともかく、闘って怪我した武士までなぜ責めを負わねばならなかったのか、甚だ不可解です。また亡くなった武士は忠義の士だから遺族にそれなりの褒美があってしかるべきではなかったのか。どうも合点がいきません。
イランのフセイン大統領の息子の乗った車が襲撃された時、生き残ったボディーガードは病院で治療を受けて完治してから、改めて死刑になった。
襲撃する水戸藩士の方もそのような事情を知っていて、この人数でも襲撃できると考えたんだろうなぁ。
それは充分に考えられますね。
襲撃側の闘死は一人だが重傷から自刃が四人けがが原因での病死が二人(黒澤を含めれば三人)だから、襲撃側16人中(二人は切りあいに不参加)半分が重傷以上奇襲を受けた彦根側も黙ってやられていたわけでは無くきちんと反撃しているんだけどね。
その場で全員斬り捨てに出来てない時点で大失態だと思う。
初めてわかりました大変面白いです勉強になりました参考ありがとうございました
実は元水戸藩士もそのことを十分に知ってのこと、彦根藩士剣術の達人の名前と人数も調べていた。水戸藩士も人を切ったことがない武士、無か夢中で斬りかかっても数分で首を取られた。人を斬る早さは数秒、刀を出して攻撃する時時と刀を抜いて防御態勢の時間、あまりにも違いすぎる。10秒あれば一人でしごにんは斬れる、一瞬で決着がつく、彦根藩士が甲冑を着ていれば別の話で丸裸の状態。襲う方と襲われる方、この差は大きい、彦根藩士剣術の達人が自分と同じ腕のいい人が、あと数人いれば防御'(首は取られなかったと悔やむ)できたと、記録に残っている。最後に井伊が、自分が襲撃されることなど1mmも思っていなかったことですね、自分が将軍の代わりみたいなもの、権力と地位の油断が招いた事件。
わかりやすく解説くださり、ありがとうございました。
「柘榴坂の仇討」を観ましたが、暗殺の場面は、映像も
綺麗で美談になっていましたが、ほとんど派遣のバイト
だったとはビックリです。面白いですね😅
小者が約40人くらいと考えてよいだろう。剣客河西某は駕籠訴の段階で刀を抜けるよう準備したと思われ襲撃時点でいち早く応戦できたようである。井伊某は恐らく駕籠訴の短筒が致命傷と思われるので早いうちに首をとられたと思われる。まさかの大雪、紀尾井町から桜田門、まさか襲われまい、といった油断もあったとは思うが死ぬべくして死んだものと思う。彦根藩にとってさらに屈辱的なのは血染めの雪を清めることだったんじゃないだろうか。それだけに逃げた藩士たちに容赦ないだろう。彼らも切腹していれば面目も保て家名も残ったかもしれないが隠れてたからね🤔敵味方双方で同士討ちもあったくらい大混乱だったろうからバニクって逃げた、と思えなくはないけれどね。
勉強不足で「血染めの雪を清める」の意味がよくわからんのです
説明いただくと助かるのですが(^_^;)
その中間・小物の中に薩摩飛脚やら勘定方隠密が紛れ込んで各藩をスパイしていたのだから、口入屋すら幕府の『アウトソーシング』機関員が混ざっていた可能性があった。
江戸幕府は元が軍政機関であった事は、案外忘れ去られているなぁ、とよく想う。
軍事パレードたる大名行列は臨時増員で済まして、国元では外国船打ち払い令の緊張状態と防衛担当者は維持していた事が多い(問答無用策は止めても兵備自体は解けないから)。
坂本龍馬の江戸留学は表向きは剣術修行だが、主目的は近代砲術習得の為だったとの話も高知で見聞きしたことがあった。
この件は当人の特性上無理があったようで、あっさり脱藩したのも『モノにならんと判った以上、無駄な努力はしない』といった理由からだったそうで。
この点は『司馬竜馬』的で大笑いしたし、佐久間象山の事を『威張りくさるだけの人間は師とは呼べない』といって塾通いを止めたのも、急発達し続ける火砲と砲兵操典の現実を見知ったからだ、とも聞いたことがある。
高知の人たちの贔屓の引き倒しかな?とも想って聞いていたが、江戸時代なりの合理性は在って、巧く明治に引き継げたから維新は成功した、と観ている。
当日は他の大名も登城することになっていたので、汚れていない雪で血の跡をうめていったそうです。
当時井伊大老は安政の大獄の張本人であちこちから恨まれていた。そのくらいは本人も井伊家も判っていたろうから、例えごく近距離の外出でも用心すべきだったね。刀だけでなく鉄砲での襲撃も考えて駕籠脇に警護の武士を何人かぴったりくっ付けて歩かせていれば彼らが犠牲になって大老本人は軽傷くらいで済んだかもしれない。
まあタラネバ言ってもしかたないか。
@@金悟空-m1p
映画で見ましたが、血だらけになった雪の現場を、 彦根藩の藩邸に勤める下男らしき町人風の祖父さんがホウキで這いていました。
大名行列に派遣業者が絡んでいたとは知らなかった。人だけではなく道具までもレンタルとは。昔も今も経費節減のため人材派遣やレンタルを使うのは同じ構図なのがおもしろかった。
仕官させるという事は、
固定費になるという事。
ならばその場の可変費で済ませられればそれもよし。
ただ、当時のこうした有事の時や、現代でも盆暮れ正月に学生バイトのシフトが組めないとか、いざというときに困るのさ。
桜田門外の変で彦根藩の逃亡者が多かったのが謎だったんですが、おかげで納得できました。
ただ、襲撃の噂や報告が事前にあったのに井伊本人が拒否したらしく正式な藩士が40人程度で固めていれば歴史は変わっていたかもと考えてしまいます
この頃のテロ事件はかなり横行し始めていましたが、それでも大老を江戸城に登城途中で襲うとはあまりにも突拍子すぎていたと思われます。またこうした事件は襲う側はアドレナリン一杯であり、また用意周到であることからたとえ彦根藩士が多少多かったとしても防ぎきれなかったように思います。
人材派遣業のお話に生活の知恵もあった事に妙に納得しています。
襲撃した浪士側にも落ち延びた地元の関わりを恐れた藩の対応にも悲惨さを感じます。
以前、何かで読んだ不確かな知識ですが、平和が続いて帯刀以外に刀を使うことが無いため、刀身を薄くして軽くした刀が流行り、武器としてほぼ役に立たなかったそうです。ガチで襲撃する側はガチな刀だったと思いますが、もしかするとこんな日常的な極めて形式的な警護だと、薄身な飾りでしかない刀だったかも知れませんね。
9:49 駕籠かきは武器なくて逃げるしかなさそうなのに斬首かあ(´・ω・`)
水戸浪士の墓や唯一の生き残りが近所の神社宮司だったりだが、割と近年までは地元の話題にもなっていなかったな。悲惨な末路が多くてあまり観光にも使えなかったためかな
面白かったです。ありがとうございました。
大名行列は街ではバイトを雇ってゆっくり歩いていたけど街道に出る正規の藩士だけとなりと走っていたと聞いたことがある
桜田門外は事前に計画が察知されましたが、伝えられた井伊直弼は「護衛の人数を増やすと、幕府が襲撃者を恐れてるように見えるから」と言って護衛を規定の60人のままにしたようです。にも伝えられた彦根藩一の剣豪だった河西忠左衛門は、この時斬られて最期に「殿を守る手練れが後数人いればやられはしなかったものを」と言い亡くなったそうです。
最初聞いたとき人数を増やせばと思ったけど、同人数でも腕のある藩士に入れ換えられたのになあ。
当時でもいわゆる非正規社員を雇って経費削減をしていたのですね。
町奉行所に勤める同心も一年契約の非正規社員でしたよね。ただ、めったに契約を切られることなく毎年更新され、さらに跡取り息子も同じ条件で入社させることができるのが普通だっただけで。
アウトソーシングの時代よ
なるほど、だから「大富豪同心」ってTVドラマも成り立ったのか。
やっぱりそうでしたか 日雇いのバイトのほうが多かった 大老の登城も大名行列と同じでしたか
しかし 不穏な動きは 彦根藩にも入ってたはず なのに手練れのモノに警護させかった彦根藩の落ち度ですね
不穏な動きは知っていたが まさか将軍のおひざ元である江戸で大老を襲うなんて考えても無かったのかな?
それとも譜代筆頭と言う安閑とした地位に200年もいて 藩全体が小市民的な役人ばっかりで武芸にはとんとダメで 危機感がまるでなかった?
「本能寺事件」と同じくらいの「桜田門外の変」ですよねいろいろな解説をお聞きしてきました。50年位まえ?映画も見ましたね、好きだった「三船敏郎さん」が出演なさってました。「織田さん」も「井伊さん」も「浅野さん」もお気の毒でした。伝説の語りは勉強になります有り難う御座いました(91歳)「ほんとうはどうだったの」でいろいろ知りたくなります。
エキストラって、考える事は今も同じだね。バンド業界でも人数合わせの為にエキストラを入れるが、昔は「枯れ木も山の賑わい」と、演奏が出来ない「立ちんぼ」と言うトラもいたなw
GS時代のカスタネットとか( ゚Д゚)
為になった。 行列のエキストラに刺客が混ざっていた可能性は無かったのですか?
私個人的には、彦根藩に成りすましのスパイが相当数
混ざっていたのではないかと思っていました。
@@あかとんぼ-y2h エキストラも門内に入れて行列を整えてから門を出ていたのでしょうから、派遣業者と懇意にして彦根藩に需要があるたびに派遣してもらい、邸内の様子を窺ったり、彦根藩士と仲良くなって事情を聴いたりとかはできたんじゃないかと私も思います。
映画の「桜田門外ノ変」では、柄袋のまま立ち回る藩士もいたりと再現してて
面白かったです。衣装も襲撃側と比べると動きにくそうでした。
最初の狙撃で井伊本人が行動不能になったのは痛かったですね。
井伊直弼は剣術は免許皆伝だったらしいですね。
しかし駕籠の中で撃たれてしまったのではその腕も生かせなかった。
この話は風雲児たち幕末編の21巻に判りやすく経緯が詳細に書かれてるから興味がある方は読んでみる事をお勧め
読みました!
現場を見ていた人がいたのですね。
みなもと氏のご冥福をお祈り申し上げます。
江戸時代にそんなバイトがあったとは…
バイトルあたりで参加か?
背が高いとか体格がいいと見栄が良いからという理由で大名行列の先頭に立てた上にバイト料も多めに貰えたという話が残ってますね
何故上巳に総登城したのですか?
じゃあこのエキストラの中に水戸藩の内通者がいて行列のスケジュールを漏らしていても不思議じゃないね。
当時にはごくありふれた実情
立場に応じてお供の数合わせが必要だったから、すでに人材派遣の店も機能していたし
今迄気にしなかった事でした。よく解りました。ありがとうございます😊 生き残った彦根藩士の処分に付いてよく分かりますが、討死した8人の家には何か彦根藩からの処分始め報奨が有ったのでしょうか?また彦根藩に雇われたエキストラは江戸では口入屋から派遣された者だったのでしょうか?
変で亡くなった8名の家には跡目相続が認められ、彼らの慰霊碑が直弼の墓の後方に寄り添うように建っているそうです。
エキストラは口入屋からの派遣だと思います。
なるほど納得しました..坂崎磐音は雇われていませんでしたか..残念。
ギリ桜田門外ノ変の世代なので懐かしいです。当時瓦版を大勢で囲んで見たのを覚えてますね。
成クレ
いつも傘貼りしてて、たまの日雇いエキストラで
こんな目にあった下級武士は怖かったろうなー
浪人も口入屋から、紹介されたので逃亡するというのが無理ない。
護衛のサムライがつか袋に紐を結んで、わざわざ刀を抜け辛くするなど考えられない。
襲撃した水戸浪士が、この日、この時刻、この場所を選んだのは、なぜなのでしょうか。江戸城のすぐそばという場所は、水戸浪士にとって「不利な場所」ではなかったのでしょうか。
藩邸は二階建ての長屋に囲まれた要塞のようで押し入りは不可。そうすると登城途中を狙うしかない。そして桜田門外には行列を見物する市民がいて、彼らに紛れれば怪しまれなかった。
江戸城に登城する全国の大名行列の見物は当時の江戸庶民の楽しみの一つ。
そのためのガイドブック「武鑑」は江戸時代を通じてベストセラーだった。
警視庁が桜田門に建てられた理由は、同じような事件は絶対起こさせないぞという強い決意の表れでしょうか?
江戸藩邸から江戸城までなら、バイト雇う方が無駄じゃないかと...直弼厳しすぎて彦根藩内でも嫌いだわって藩士が多かったw
江戸藩邸には15人しか藩士はいなかったのでしょうか。財政難でもアルバイト代を払う余裕はあったのでしょうか。どのくらい払っていたのか気になります。
奈良県警の先祖が護衛してたんじゃないか?
奥が深くて上手い😉😊✌️!
貴方を尊敬します。
大老は今でいうと内閣総理大臣みたいなものですかね?
懐かしい話を聞きました。
83歳の年寄りです。先祖が上杉家の御殿医で桜田門にあった事件を見た、という話しをお袋から聞いた記憶があります。ひい婆さんが、掃部のかみの頭が梅干しみたいに斬られてた。とか。ちなみにその婆様は枕元に短刀を置いて寝んでたそうです。
なるほど面白い説です。本当なら納得もの。
しかし、そうなると疑問も沸きます。彦根藩ともあろう大藩が藩主の江戸城までのお供にアルバイトをわざわざ雇わなくても藩邸に100や200の、いえもっとたくさんの家臣が居るはず。何なら中屋敷や下屋敷にもたくさんの家臣が居たはず。藩主のお供は栄誉的仕事。登城の日は分かっているはずですから、ひと声かければその者達が。。
ましてや大老職に付いた主君、100や200、わざわざお金を使って集めなくても喜んでお供したでしょう。そんな家臣共を置いてけぼりにして、わざわざお金を払ってアルバイトを雇うかなぁ。。
参勤の大名行列なら納得ですが、、彦根藩には目の前の江戸城まで、主君の登城のお供の僅か5~60人程の家臣も調達出来なかった?
と……疑問も沸いたりしました。
いや、しかしいつもこうして色々考えられて楽しい動画感謝します!
追伸…この時の政情を考えると、、つまり安政の大獄の大鉈を振るった藩主の共にアルバイトを付けたとしたら、この件で罪を問われるのは共をしたもの達では無く、そのアルバイトを付ける判断をした藩の家老以下重臣達になるのでは。。
なんて、、長々と失礼しました。
幕末はどこの大名屋敷もかなり人手不足だったようで、登城の際のお供だけではなく、武家屋敷周辺の治安を守る辻番でさえ口入屋からのアルバイトに頼っていました。
口入屋の中には、数十もの大名屋敷に出入りしていた者もいましたし、派遣アルバイトは大名屋敷にとってなくてはならない存在でした。
もちろん、人手不足は御三家であっても同様で、ある口入屋の親分は、水戸家のお屋敷に何度も出入りをしているうちにコネクションをつくって、自分の娘を15代将軍慶喜のお妾さんにしているほどです。
つまり、藩主たちもみんな派遣アルバイトを使っていることは知っていたということですね。
@@edojidai-paradise
なるほど、人手不足ならば雇うしかありませんね。
しかし、井伊直弼本人も含め……日米通商条約はじめ、安政の大獄であれだけのことをして、尊皇攘夷派が、水戸には天狗党なんて物騒な人達も居たのに、例え目の前でも江戸城までの主の共に、身内で固めずアルバイトを雇い。。藩の家老や重臣たちはかなり呑気だったのか。世情が見れなかったのか。。脇が甘いとしか。
だとしたら仰っしゃる通り、その事を分かっていて、討たれるべくして討たれたのか、彦根藩の身内に黒幕……なんてことまで想像してしまいますw
面白いお話しありがとうございます!
この辺は「みなもと太郎」氏の『風雲児たち』でも取り上げられていました。
その後に起きた老中襲撃事件では護衛を追加していたので見事に撃退されていました。
そもそも彦根藩邸から目視できる場所で起きた事件なので、門番がそのまま江戸城に着くまで眺めていれば、救援をすぐに派遣することができたはずでした。
坂下門外の変でも、
斬りつけられ、背中を負傷した、老中 安藤信正も、
一年もたたず、辞任させられ、隠居させられた。
老中 安藤信正の出身地の、磐城平藩は、
二万石を没収され、三万石に減封された。
更に、信正は、藩主を引退、蟄居させられる。
桜田門外の変から、間をおおかず起きた、
思考停止の、奴隷 社畜行列、
思考停止の、ゾンビ行列化していた、
参勤交代 大名行列への
江戸都心部での襲撃、要人の負傷という
江戸幕府の威信を、徹底的に失墜させた案件だもの。
桜田門外の変に人材派遣が使われたのは初めて知りました。
子連れ狼にも「渡り徒士(かち)」のことが出ていますね。
第22話です
子連れ狼は江戸初期の話ですけどそうなると江戸最初期から「人材派遣」があったことになりますけどね😲⁉
これは驚きですね😲!
江戸時代にもパソナがあったとは!
ヾ(⌒(ノ'ω')ノ不動産屋と手配師は江戸からの伝統
怪しい商売
NHKの歴史シリーズで昔この襲撃を取り上げてました。侍の登城のときは結構見物人がいたらしいです。あと証言で、切りあいのあと現場にはたくさんの指が落ちていたと言ってました。
小手ェーー、ハイ一本というのが多かったのかな。
柄袋の話はどうも疑問に思っていました。別の動画で鞘は木を張り合わせて作るから時代劇のように鞘ごと刀を打ち合わせると割れてしまうようで、逆に言えば命あっての物種ですから刀が抜けなければ鞘ごと相手をぶっ叩き、壊れたらそのまま鞘を投げ捨てて戦えばよいのにと思っていました。
無傷の者や軽症の者が処分を受けるのは当然ですが、重症者も処分は厳しいですね。
忠臣蔵でも吉良義周が赤穂浪士相手に奮戦して力及ばず切り倒され失神、現代人の感覚ではよくやったと称賛される行為ですが義父(祖父)を守れなかったという結果を問われて流罪、武士とは厳しいですね。
事件前、井伊直弼の元に不穏分子の動きがある旨の報告があったようですが、直弼が「そんなことで警備を増やせば藩の威信に関わる」と、その報告を一蹴したことも要因でしょうね。。
この事件まで唯の一度も『大名行列を襲撃する』という事案が起きなかったのも大きな要因だと思う。
バイアスってヤツですね。
大変面白く
驚きました。
みなもと太郎の風雲児たちで読みました。
みなもと先生長生きして完結して欲しかった。
御意!
誰かが「風雲児たち」を書き継いで完結させてほしいですよね🤔
今もこの事案は警察の護衛に脈々と受け継がれますね!
大名行列のやり持ちはイケメンのモデル体型を雇い、高い給料。
大内内蔵助の仇討ちも吉良の屋敷の侍はアルバイトばかりで逃げた。
なるほど、腑に落ちた。
彦根藩も藩士ではない人間を処罰できないし、したら世間から笑いもので、もちろんしたら彦根藩に今後雇われる人間はいないですよね。
命がけで藩主守る給料なんてもらってないし。
派遣バイトが一般的だったのは良く言われますが、桜田門外の変と結びつけて話す人って本当にいないですね。
ちゃんと色んな情報を集めて全体像を語れる人は少なくて、お決まりの資料だけを基にしてるだけで満足して、あまり物を考えてない(事さえ気が付いていなし)人が多いんでしょうね。
なるほど。確かに60人全員が彦根藩士だったら、それこそ死に物狂いで戦ったはずだし、それなら逆に返り討ちにしてたはずだろうし。日雇いにそこまでする義理はないもんな。
興味深い考察です。
となると水戸浪士はそれを知っていて作戦を立てていたのか・・・興味は尽きません。
この動画を見る限りその日雇い派遣業者ってそうとう優秀な組織だよね😊
大名行列雇った方が安いんかーい、もはやちんどん屋ですな
事前に水戸浪士からの襲撃が警告されていたにも関わらず、手練れ者を揃えるとか何かあれば藩邸から応援を寄越すとか、危機管理が甘すぎたのではないかと思われる
水戸から持ってきたピストルで井伊直弼の居合を封じたとの説もある。
いくら日雇いとは言え、二本差しの武士がいたら警護で雇われてるんだから襲撃には応戦する義務があると思うがねえ。日雇いは荷物運びだけかも知れないが。
襲撃者は短筒を使用して井伊直弼を撃ったみたいなので、刀の使えない者はそりゃ逃げますよね。
この桜田門外の変では、水戸藩士側は鉄砲を使用したと記録に有ります。
更に、水戸藩士側は行列の大多数が雇われ者で、殿様の籠付近にはいないことも承知していたでしょう。
鉄砲音で威嚇され、刀や槍で不意討ちをされれば、驚愕して逃げ惑うことは当たり前です。
ただし、行列見物の人々からすると、姿格好で雇われか家臣かは判断出来ないので、藩士が逃げたとされたのでしょうね!
幕政も後期に達すると門閥貴族化してしまい格好に異常な神経を注ぐが肝心の猛々しい差が消失してしまっており田舎育ちの粗アク性の強い地方侍にして殺られてしまったと云う事ですか!😮
いいコンテンツだった。
ところで、直弼が刀の達人だったので、鉄砲打ちがいて、狙撃してから、刀で襲いかかったって話があったが、ここには、ないね。どうなってるのかな?
殿様は剣術の達人であっても刀を振り回して応戦することは許されない。
1人に偉い方が何人も、遭難してますが。
桜田門外の変の当日、天候が大雪であったのは襲撃した側にとっては天啓だったでしょう。この頃は天気予報などありませんから。彦根藩の登城する人数やある程度の内容(どのくらいが雇われの藩士か)は調査した上での18人という人数に行き着いたように思います。
駕籠かきまで口封じに殺されたのか。
日雇い人足は、そもそも口入屋から連れてきたとすると江戸の民ですので、彦根に処断権がないですね。
新たなる知識ありがとうございます 特に 剣の束袋否定説は新しい情報 ましてや 最高官職の 大老の御府内行列にアルバイトソルジャーいたとは また 大老生存中にして 将軍家よりお見舞い 受けたのも驚いた
井伊直弼は安政の大獄で恨みを買い、命懸けだと思っていたということですが、襲撃対策より経費節減だったのでしょうか?
あらまぁ、大半は逃げ散ったのね?。奇襲や気象条件は有ろうが、死者が多すぎかと思ったら、武士は同数なのね?。直属の彦根藩士、逃げ出したのも当然ですね
エキストラを罰したら以後は誰も集まらなそう、
彦根藩は30万石だから、藩士は3000人は存在したな。
経費削減のためにエキストラを雇い入れるのは、普通に行われていた事であり。
幕府から江戸城に登城の際は、この身分の者であれば、供を何人つけろ。
この身分であれば馬に乗れと決められていたから、見栄を張りたくなくてもそうせざろう得なかった。
ましてや井伊直弼は大老だったから。六十人もの行列が必要であったのだろう。
桜田門外の変では、大老が討たれるということで幕府の威信を傷つけたこともあり、彦根藩の対応は苛烈を極め。
討ち死にした者だけが無罪とし、傷を負った者は切腹で無傷だった者は斬首とされ家門もとり潰しになった
その中には救援を求めて藩邸に走った藩士も存在したとされる。
この厳しい処分でも、幕府の彦根藩への対応は冷ややかであり、これ以降、彦根藩は倒幕に傾くことになった。
護衛は襲撃側と同じ程度か、本当に数名しかいない上に、雪の中ですぐに刀を抜けるように準備していたが僅かに一人くらいだったのも災いしたんだよな
居合の名人であった井伊直弼。賊側の合図の鉄砲が腰部に流れ弾的に当たってしまい、籠から出られなかった(動けない)のが、簡単に討たれた主因かと。
が、そうだとしても、賊に首級を取られ持ち去られるというのは失態中の失態
(直様追って探索、新しい飯櫃に収めて屋敷に持ち帰ったものの)
何で幽閉なんだ‼️‼️英雄だ‼️‼️
漫画風雲児たちにかなりリアルに書かれてます。リアルですよ🎵
背景から当日の乱闘模様、その後2年ほど経ってからの処分まで詳細に描かれてましたね。
鳥羽伏見や戊辰戦争一連の戦いを描いてほしかったな。
惜しい漫画家が亡くなってしまった…。
この日雇いはどういうところから派遣されてたんだろ?
口入屋かな?
そういう記録は残っているのかな?
それにしても、経費節減をするところを間違えるとトンデモナイことになるのは今も昔も一緒だな…
当時ですら今日でいう派遣社員を雇っていたりしたとは。武家社会の世知辛さが垣間見える。なお、事件時の襲撃者側の犠牲者は重傷を負って切腹した有村次左衛門も含めれば二名と言えなくもない。
後世にはひこにゃんなんぞを作られていったい何を考えてるのやら
長い間斬り合いをしてないからいきなり来られたら咄嗟に動けないしパニック起こすよね
なっとく😲💦
彦根藩の人間ということで、駕籠かきまで処分というのは、ちょっと気の毒ですね。
駕籠かきが武士なら仕方ないとは思いますけど。
桑畑三十郎「斬られたら痛えぞお」
幕末期にも、「人材派遣法」の被害者がいた😂
桜田門外の変前から巨人の星が放送開始まで生きてた人がいた。
桜田門外の変ももはや戦国時代の戦争に近いし、そんな歴史的な出来事から南北戦争、太平天国の乱、戊辰戦争、西南戦争、日清、日露、W1、W2、朝鮮戦争と色んな戦争が世界中であったし、ちょんまげの人が本気でいた時代から昭和の姿も見れたことになる。
そうでしょうね🤔。私は53歳で私が中1の時大河ドラマ「徳川家康」を放送していて当時のNHKの歴史番組の本で「歴史への招待 徳川家康」の本を読んだことがありましてその本の中に番組の解説をしてた当時もう90歳近くの学者の人が「私は天保生まれの曾祖母に育てられました」と発言なさってたのが未だに強烈に記憶にありますので幕末から1960年代後半まで生きられた方々も多かったでしょうね🤔
マイナビバイトの侍cmも間違ってないんかw
これはわかり易くよくできた解説です。👍しかし処罰されたのが、この程度とは天下太平な世情もあったでしよう。同様のが中国辺りであったなら60人全員斬首です!😳
刀は竹光やったんやろ
声が良くて聞きやすいです。👍 登録記念コメ 2023年9月25日 登録者数5380人→5381人 再生回数2.6万回
ありがとうございます。
柄袋は直ぐに外せる。居合の技のひとつ。
薩摩の行列ならきっとこんな襲撃でも主君の首を獲られるような無様なことはなかったでしょうね
これが現実
大老の首をとったのは薩摩藩の人でしたよね。
@@由夫板橋さま
確か有村某
まあ、生麦事件でも駕籠の近くにいた松方正義(後に首相)は、イギリス人に切りかかろうとする奴等に、「お前ら持ち場離れんじゃねーよ」と切れてるからな。
江戸時代から人材派遣かよw
そりゃ安い金で雇われてんだし命張るわけないわな
記録に残る世界初ピストルを使った暗○事件(`・ω・´)ゞ
「桜田門外の変」は、 安政 7年 3月3日 ( 1860年 3月24日 )
「リンカーン大統領暗殺事件」は、1865年4月14日
"銃創"こそが直接的な致命傷であつたことが真実ならば、確かに「狙撃」による国家トップ暗殺事件の嚆矢と謂えるわな、桜田門外・・・
そもそも桜田門外の変まで大名行列を襲う事例がなかったくらいに平和だった。桜田門外の変以降の大名行列は戦闘に長けた江戸で住んでいた大名や旗本の部屋住みがバイトとして雇われた。