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秀吉=太閤のイメージが定着したのは、小瀬甫庵が書いた「太閤記」が江戸時代に人気を博しその後も現代まで数々の人気作家が「太閤記」を書いてきたことによるのが大きいのでは。また秀吉の後継は関白を譲ったことで秀次に決まっていました。それをひっくり返したので豊臣政権が揺らいだのだと思います。
関白を引退した者を太閤、出家した太閤を禅閤と呼ぶ。秀吉は出家していないので禅閤とはいわない。
中国での劉邦とかいう秀吉の完全上位互換
劉邦は皆のまとめ役で戦術指揮官としては酷いほうの部類だから比較するなら大村益次郎のほうだとおもう。ただあの手の戦術指揮官はどうしても地図読めて数学的知識ないと務まらないから卑賎の身から一からは中々成立しにくいんだよな。ノブの前身で奉公しただけの教育受けただけで身についたとしたらかなりおかしい頭脳としかいえない転生者を疑うよ
大政所は秀吉とねねが勝手に結婚したとして生涯にわたり二人を夫婦と認めなかった。わらじの逸話は江戸期の『絵本太閤記』が初出なんで創作だよw清須会議で信孝や信雄は後継者として推されてなどいない。最初から三法師が織田家の後継者とされていて、信孝や信雄を遇する際に問題になったのは「誰が幼君である三法師を後見するのか」という点においてのみだよ。
力に物を言わせて叙任した関白だったが朝廷を空転させ、また長期の武家の棟梁にはなれなかったか(将軍位のように独占出来なかったのは大きそう
太閤は関白の子供が次いだ時の呼び名だよ前関白の近衛前久の猶子として秀吉は関白についたから太閤と呼ばれた太閤は役職じゃなく呼称だからね
昭和の頃の通説からアップデートされてない人が作った動画やん
秀吉が天下人になれたのは朝廷や公家と交友する機会に恵まれたから。三成の三献の茶に感動する秀吉だから人間扱いされたことも礼遇されることもなかったんじゃないかな秀吉は苦労をしたために若くして既に老人のような風貌をしていたという。朝廷は自責の念にかられ秀吉を哀れんだ。秀吉のような人こそ大切にするのが我が国の国柄で清須会議のとき秀吉は身分の低い私でございますがとへりくだったが、秀吉を軽んじた柴田勝家はその時信長の後継者から脱落した。「身分の低い私でございますが」これは天皇の言葉だったからです。秀吉と同じ尊皇家である水戸黄門の漫遊記は、天下りの伝説を元に作られました。神さまがみんながつつがなく暮らしているか心配して見に来たのが天下りの伝説です。そして水戸黄門は身分を隠すのです
秀吉は、元々、征夷大将軍になりたかったらしいが、家柄的に、なれなかった。そこで、関白になったということだが、関白とは、公家であり、より家柄を重視されそうだが、関白には、なれている。このあたり、違和感がある。 徳川家康は、征夷大将軍になっているが、こちらも、本来は、家柄的に、ダメだったが、系図をごまかしたと言われている。 これも、不可解である。
征夷大将軍になるには源氏でないとなれなかった。だから徳川家康も得川すなわち徳川にして源氏系と言いだしたが確かではない。
系図をごまかすにしても、秀吉には、ごまかすべき、元になる系図がないということですかね。 農民出身ですからね。
征夷大将軍になるのに源氏の血筋は必要ないよ。鎌倉期に源氏将軍家が三代で絶えたので、それ以降は京から親王や摂家出身の将軍を招いた事実をご存じないかな。征夷大将軍=源氏の専権事項と言い出したのは他ならぬ徳川氏で、徳川氏創業の事蹟を伝えるために江戸幕府によって編纂された『朝野旧聞裒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)に「古来より武家の任として源氏の専権事項であり、信長や秀吉は源氏ではなかったので将軍になれなかった」と書いていて、これが源氏でなければ将軍になれないとする説のもとになっている。
ちなみにのちに平氏を名乗る信長を含めて三英傑はその人生の一時期で「藤原氏」を名乗っていた。家康の系図改変はもっとややこしくわけがわからんw 三河を掌握した家康は朝廷に対して三河守叙任を願い出るが世良田氏(三河松平の祖)の三河守は前例がないと拒否されたので「わが家は得川氏の支流で実は藤原氏である」との奇怪な主張を行い、それがなぜか認められたために徳川改姓以前の家康は朝廷では藤原氏を称していた。のちに徳川へ改めるにいたり源氏と結びつけるために何らかの工作を行ったというのだけど、この辺がよくわからない。気になって調べたこともあるが本当にわけのわからないことになっている。
秀吉が摂関家の近衛家と親戚になったのを知らないバカw
信長は今でいう職場結婚を奨励していた。別に秀吉だけに目をかけて婚礼に顔を出したわけではない。そして・・・こういう職場の例にもれず、織田家はいわゆるブラック企業だったことは言うを待たないwww
ブラックじゃない軍事組織なんかないから功績に公平なだけマシ
寧々なんか跡継ぎも産めずに役立たずだったろ寧々なんか居なくても秀吉は天下取れた
加藤清正、福島正則、黒田長政、徳川秀忠、加藤嘉明「寧々(北政所)様のために頑張ります」
秀吉=太閤のイメージが定着したのは、小瀬甫庵が書いた「太閤記」が江戸時代に人気を博しその後も現代まで数々の人気作家が「太閤記」を書いてきたことによるのが大きいのでは。
また秀吉の後継は関白を譲ったことで秀次に決まっていました。それをひっくり返したので豊臣政権が揺らいだのだと思います。
関白を引退した者を太閤、出家した太閤を禅閤と呼ぶ。秀吉は出家していないので禅閤とはいわない。
中国での劉邦とかいう秀吉の完全上位互換
劉邦は皆のまとめ役で戦術指揮官としては酷いほうの部類だから比較するなら大村益次郎のほうだとおもう。ただあの手の戦術指揮官はどうしても地図読めて数学的知識ないと務まらないから卑賎の身から一からは中々成立しにくいんだよな。ノブの前身で奉公しただけの教育受けただけで身についたとしたらかなりおかしい頭脳としかいえない
転生者を疑うよ
大政所は秀吉とねねが勝手に結婚したとして生涯にわたり二人を夫婦と認めなかった。わらじの逸話は江戸期の『絵本太閤記』が初出なんで創作だよw
清須会議で信孝や信雄は後継者として推されてなどいない。最初から三法師が織田家の後継者とされていて、信孝や信雄を遇する際に問題になったのは「誰が幼君である三法師を後見するのか」という点においてのみだよ。
力に物を言わせて叙任した関白だったが朝廷を空転させ、また長期の武家の棟梁にはなれなかったか(将軍位のように独占出来なかったのは大きそう
太閤は関白の子供が次いだ時の呼び名だよ
前関白の近衛前久の猶子として秀吉は関白についたから太閤と呼ばれた太閤は役職じゃなく呼称だからね
昭和の頃の通説からアップデートされてない人が作った動画やん
秀吉が天下人になれたのは朝廷や公家と交友する機会に恵まれたから。三成の三献の茶に感動する秀吉だから人間扱いされたことも礼遇されることもなかったんじゃないかな
秀吉は苦労をしたために若くして既に老人のような風貌をしていたという。朝廷は自責の念にかられ秀吉を哀れんだ。秀吉のような人こそ大切にするのが我が国の国柄で
清須会議のとき秀吉は身分の低い私でございますがとへりくだったが、秀吉を軽んじた柴田勝家はその時信長の後継者から脱落した。「身分の低い私でございますが」
これは天皇の言葉だったからです。秀吉と同じ尊皇家である水戸黄門の漫遊記は、天下りの伝説を元に作られました。神さまがみんながつつがなく暮らしているか心配して見に来たのが天下りの伝説です。そして水戸黄門は身分を隠すのです
秀吉は、元々、征夷大将軍になりたかったらしいが、家柄的に、なれなかった。そこで、関白になったということだが、関白とは、公家であり、より家柄を重視されそうだが、関白には、なれている。このあたり、違和感がある。 徳川家康は、征夷大将軍になっているが、こちらも、本来は、家柄的に、ダメだったが、系図をごまかしたと言われている。 これも、不可解である。
征夷大将軍になるには源氏でないとなれなかった。だから徳川家康も得川すなわち徳川にして源氏系と言いだしたが確かではない。
系図をごまかすにしても、秀吉には、ごまかすべき、元になる系図がないということですかね。 農民出身ですからね。
征夷大将軍になるのに源氏の血筋は必要ないよ。鎌倉期に源氏将軍家が三代で絶えたので、それ以降は京から親王や摂家出身の将軍を招いた事実をご存じないかな。
征夷大将軍=源氏の専権事項と言い出したのは他ならぬ徳川氏で、徳川氏創業の事蹟を伝えるために江戸幕府によって編纂された『朝野旧聞裒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)に「古来より武家の任として源氏の専権事項であり、信長や秀吉は源氏ではなかったので将軍になれなかった」と書いていて、これが源氏でなければ将軍になれないとする説のもとになっている。
ちなみにのちに平氏を名乗る信長を含めて三英傑はその人生の一時期で「藤原氏」を名乗っていた。
家康の系図改変はもっとややこしくわけがわからんw 三河を掌握した家康は朝廷に対して三河守叙任を願い出るが世良田氏(三河松平の祖)の三河守は前例がないと拒否されたので「わが家は得川氏の支流で実は藤原氏である」との奇怪な主張を行い、それがなぜか認められたために徳川改姓以前の家康は朝廷では藤原氏を称していた。のちに徳川へ改めるにいたり源氏と結びつけるために何らかの工作を行ったというのだけど、この辺がよくわからない。
気になって調べたこともあるが本当にわけのわからないことになっている。
秀吉が摂関家の近衛家と親戚になったのを知らないバカw
信長は今でいう職場結婚を奨励していた。
別に秀吉だけに目をかけて婚礼に顔を出したわけではない。
そして・・・こういう職場の例にもれず、織田家はいわゆるブラック企業だったことは言うを待たないwww
ブラックじゃない軍事組織なんかないから功績に公平なだけマシ
寧々なんか跡継ぎも産めずに役立たずだったろ
寧々なんか居なくても秀吉は天下取れた
加藤清正、福島正則、黒田長政、徳川秀忠、加藤嘉明
「寧々(北政所)様のために頑張ります」