【ゆっくり解説】毛利輝元編その9ー秀吉・毛利・長宗我部の思惑が複雑に絡み合った四国出兵

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  • เผยแพร่เมื่อ 10 ก.ย. 2024

ความคิดเห็น • 50

  • @hayakawamikan
    @hayakawamikan 25 วันที่ผ่านมา +35

    この長宗我部が最後まで秀頼を守って戦うというのが戦国の皮肉

    • @user-nk6qy4ee8q
      @user-nk6qy4ee8q 25 วันที่ผ่านมา +16

      調整外交ヘタすぎて徳川に嫌われたから死に場所を求めただけで、浪人組のほとんどに忠義はない
      だから忠義はあるが現場を知らない豊臣馬廻組と内部対立した

    • @toshis3972
      @toshis3972 25 วันที่ผ่านมา +7

      @@user-nk6qy4ee8q 盛親はおそらく天王寺の戦いの混乱に紛れて城外に脱出していますからね。忠義も恩義も感じていなかったでしょうね

    • @user-ne2js3lg2b
      @user-ne2js3lg2b 25 วันที่ผ่านมา +2

      これこそ、裏切れば一国もらえたのでは?裏切らずとも、徳川家で参戦したら最低限の大名には成れたと思うのよ

    • @user-ww3lc7bi6b
      @user-ww3lc7bi6b 23 วันที่ผ่านมา +3

      結果的にそうなったが長宗我部盛親にとっては土佐復帰を賭けた一発逆転の大博打に出ただけだろう。

    • @hita5991
      @hita5991 23 วันที่ผ่านมา

      一発逆転狙って大阪に行っただけで敗色濃厚になったら盛親はとっとと逃げてるけどな。
      元親の時代から畿内の情勢に対して外交オンチだよな。コネクションが少なくて情報が乏しかったんだろうな。うまく世渡りすれば土佐と阿波を維持できたのに。

  • @user-is9gx8ij5k
    @user-is9gx8ij5k 25 วันที่ผ่านมา +9

    毛利と長宗我部のケンカの踏み台にされた挙げ句改易の憂き目に遭った河野家が可哀想だな……。
    ってか四国出兵って開戦前に筋書きが出来上がってたってもはやヤラセじゃん

  • @user-ic8kq8xe7j
    @user-ic8kq8xe7j 25 วันที่ผ่านมา +6

    今回も両川の小早川は出てくるのに裏に隠れるステルス当主の輝元くん、次回は目立てるといいね。
    小ネタだがこの後の秀吉から元親宛の書状で「本能寺の変はお前のせいでもあるんだぞ、天正八年に上さま(信長)の指示どうり毛利を攻めてたら毛利なんてあっさり降伏して天下は定まったのに」と愚痴なのか嫌味なのかわからん事を言ってる。後に天下人として栄耀栄華を極める秀吉も山崎、賤ヶ岳、小牧長久手、紀伊、四国攻めと続いてさらに九州や東国も残ってるのでこの時期はストレスが溜まってた模様。
    もう一つ小ネタ、天正八年くらいに毛利長宗我部は友好関係を深めて極秘に準同盟みたいになってる。長宗我部が織田と敵対した理由が四国統一だとすると今回の動画のように伊予の所有権の問題が出てくる。信長の四国征伐でも早々に降伏準備していたし無鳥島の蝙蝠は何を考えてたのかマジで不明。

  • @user-tg9om2qc1m
    @user-tg9om2qc1m 23 วันที่ผ่านมา +4

    河野は「こうの」ではなく「かわの」です。蒙古襲来絵詞の河野通有の肖像に「かは(わ)のの六ろうみちあり」と名前が書かれている
    「こうの」というのは近代に入ってから使われるようになった読みで、戦国末期に断絶した河野が「かわの」なのは確定的に明らか
    あと河野氏の重臣で来島村上水軍の頭領村上通総は信長存命中にすでに織田家に降っている
    毛利と河野に伊予から追い出されることになったが、秀吉の四国征伐よりも前に秀吉の家臣として伊予に復帰していて来島通総と名乗っていた
    秀吉の家臣の通総が伊予にいる状況で、長宗我部が四国統一していたなんていうのはありえない話だということが分かる
    通総は四国征伐中は小早川隆景の指揮下で戦っていて、毛利軍が東予で戦っている間、通総は中予で河野の城を切り取りまくっていた
    そのまま来島氏は関ヶ原の戦いまで、小なりといえどもずーっと伊予の大名だった(風早郡1万4千石)

    • @user-nx6xg1vj1x
      @user-nx6xg1vj1x 13 วันที่ผ่านมา

      そうですね。四国の大名で唯一、明治時代まで家が残ったのが来島村上家(後に久留島と改名)ですね!!!

  • @user-rx5nm6zs3s
    @user-rx5nm6zs3s 24 วันที่ผ่านมา +2

    毛利領になった伊予だけど、文禄の役の後で秀吉家臣の藤堂高虎と加藤嘉明が入るまでの過程が気になる。

    • @user-nx6xg1vj1x
      @user-nx6xg1vj1x 13 วันที่ผ่านมา +1

      やっぱり、瀬戸内海の制海権を毛利•小早川に握られる危機感が秀吉にあったと言うことでしょうね。

  • @ひょうべえ
    @ひょうべえ 25 วันที่ผ่านมา +4

    12:50 隆景「ぬん、しかのこのこのこ虎視眈々♫」
    元親「……………………………………………。」
    ・・土地柄的には久秀か順慶のほうがネタとして合ってるかも。
    隆景って隆元死後は基本的には毛利本家に尽くしてましたが、伊予領有の前後から若いころの「小早川の家格は毛利と同格かそれ以上」という意識が蘇ってきたんじゃないかと思います。通説では秀吉は小早川を重用して吉川は冷遇されたと言われていますが、実際は秀吉に重臣取り込みに対して小早川が熱心に応じただけなのかもしれません。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  25 วันที่ผ่านมา +2

      コメントありがとうございます!ネタにツッコンでいただいて嬉しいです😆😆

  • @umaaba0233
    @umaaba0233 25 วันที่ผ่านมา +1

    毛利と戦い始めて播磨国衆反旗、荒木謀叛、鳥取城二度手間、信長横死
    秀吉「毛利とはもう戦いたくないだぎゃ」

  • @t.hayama
    @t.hayama 25 วันที่ผ่านมา +1

    伊予国は国境画定で譲渡した領土より大きいですね、慶長の検地では38万石(阿波18.5、讃岐17.5、土佐20万石)、古代から熟国(名目以上税収ある国)として有名だったらしいですし。毛利家としては何としても手に入れたい、毛利家の希望で豊臣・長宗我部破談、四国侵攻の説に得心しました。

  • @kazuoka1143
    @kazuoka1143 25 วันที่ผ่านมา +12

    巷の戦略シュミレーションゲームだと中盤以降は、「領土を拡大し手持ちの武将が増える」→「増えた戦力を使って次の勢力を圧倒する」という作業ゲーム化するので、ついこの時期の秀吉をヌルゲー状態だと勘違いしそうですが、実際は新たに加わった勢力への対応は結構悩まされていそうですね。
    この「走り続けないと死ぬ」状態は九州・関東・東北と続き、最終的に大陸進出へと駆り立てた一因になったような気がします。

  • @nature-um1oz
    @nature-um1oz 25 วันที่ผ่านมา +1

    上杉と比べて毛利は臣従まで紆余曲折あったのか…
    上杉と違って、やっぱり共通の敵がいなかったのと、領土が接していたことで領土問題が発生したのが一番の原因なのかな

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke 25 วันที่ผ่านมา +3

    金子氏は捨て石になったのかな…
    実は今日、サイクリングで金子氏の出自の地である入間郡金子周辺を走ってました。まさかおススメに出てくるとは…

  • @user-sv8hi9in8n
    @user-sv8hi9in8n 25 วันที่ผ่านมา +3

    直接は関係ないですが、大友氏の影響力も島津氏の本格的な侵攻までは無視できなかったんですね。まぁ風神雷神をはじめ劣勢と分かっていながらも最後まで主家に殉じた猛者揃いでしたからね。
    余談ですが、昔遊んでいた天下統一と言うゲームで河野通直を選んで伊予、土佐、讃岐までは支配でき、戦国大名に昇格と言うところで行きました。
    が、譜代の家臣が少なくあちこちで謀反を起こされ上、毛利や三好にタコ殴りにされ滅亡しました😰

  • @user-th8rx3uq3z
    @user-th8rx3uq3z 25 วันที่ผ่านมา +5

    戦略自体は悪くないのに、タイミングの良し悪しで大きく運命が変わるのが、特に戦国時代では強く映えますね
    この前の島津忠恒の伊集院忠棟お手討ち事件は三成襲撃事件で難を逃れていましたし
    運も実力のうちという言葉を実感します

  • @伝説の麻婆豆腐
    @伝説の麻婆豆腐 25 วันที่ผ่านมา +1

    なんだかんだで、土佐しか残らない長宗我部さんカワイソス

  • @くるわたろう
    @くるわたろう 25 วันที่ผ่านมา +1

    こんなので終わってしまった伊予の名族の河野家がお気の毒。
    後の長曾我部家といい、天下人さん達は四国勢に冷たいような。

  • @えびせん-f7d
    @えびせん-f7d 25 วันที่ผ่านมา +1

    元親は秀吉配下の名参謀蜂須賀正勝公に頭が上がらないからね。

  • @user-np2qk4mu1p
    @user-np2qk4mu1p 25 วันที่ผ่านมา +2

    そしてこの後、九州征伐で…。
    長宗我部さんかわいそう😢

    • @hahuto
      @hahuto 25 วันที่ผ่านมา +1

      「信」がつく跡継ぎは悲惨な最期が多い。信親、信康、信忠・・・

    • @user-np2qk4mu1p
      @user-np2qk4mu1p 25 วันที่ผ่านมา

      @@hahuto
      私の祖父は信一でした😅

    • @user-ww3lc7bi6b
      @user-ww3lc7bi6b 23 วันที่ผ่านมา

      長宗我部だけでなく九州征伐とその後で四国の旧勢力は全滅する事になる

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan 25 วันที่ผ่านมา +5

    今までの解説シリーズって「武田→北条→上杉」の東国シリーズと「島津→毛利」の西国シリーズですよね。紹介した大名家とかかわりの深い大名家が紹介される傾向にありました。もしかして、毛利の次は長曾我部でしょうか?

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  25 วันที่ผ่านมา +1

      コメントありがとうございます!長宗我部元親も取り上げてみたいのですが、島津や毛利と比べて戦国の同時代史料が少ないという問題があって、解説の密度が薄くなりそうです😥😥

    • @user-ne2js3lg2b
      @user-ne2js3lg2b 25 วันที่ผ่านมา +1

      まじか…出来人さんなのにお手紙少ないんですね…

    • @nekozame_history_fan
      @nekozame_history_fan 25 วันที่ผ่านมา +1

      やっぱり短期間で滅んだ大名家は一次資料も少ないのですね……。確か長曾我部元親の初陣が桶狭間と同じ時期で、土佐統一で国持大名になったのが長篠と同じくらい。最大版図はこの動画の頃で、大名家としての滅亡は関ケ原……。独立した大名だった期間は10年くらいですね。江戸時代に家が残っていないから自分たちで編纂した歴史書もないですし、残ったのは創作情報ばかりでしょうか。

  • @nagoyashimin569
    @nagoyashimin569 25 วันที่ผ่านมา

    元親は戦いたくなくても配下の一両具足は納得しないだろうしね。

  • @user-oo9zg7do3h
    @user-oo9zg7do3h 25 วันที่ผ่านมา +2

    愛媛に青島(猫島)島民元は播磨から移り住んでるらしいこの少し後に来たらしい、島で盆踊り言われで1590代かなりの人が来たらしい

  • @F3iAKeT5
    @F3iAKeT5 26 วันที่ผ่านมา +3

    湯築城かぁ 道後温泉楽しんだな? 湯築はライトアップきれいだったでしょ

  • @user-oo9zg7do3h
    @user-oo9zg7do3h 25 วันที่ผ่านมา

    モト冬樹の先祖が伊予の国侍、戦いに負けて小早川氏を頼って伊予国から落ち延びる、NHKファミリーヒストリーでやってた、この時代かな

  • @sotan-qz9yg
    @sotan-qz9yg 25 วันที่ผ่านมา

    投稿お疲れ様です!
     先週またコメントできなくて申し訳ございません。なので先週のも兼ねて思ったことなのですが、まず吉川元春の対秀吉視観で、蜂須賀家政が元春と通じていたことは初耳でした。だからこそ、仰っていました通りに元春が秀吉を嫌っていないことが分かってきます。また、元春に筑前国を与えるという話もあり、のちに広家が秀吉から領地を与えられたことも、秀吉が元春と仲の良かったことが窺えます。
     秀吉の四国征伐の際、伊予一国が小早川隆景に与えられましたが、河野氏が事実上の滅亡を迎えたのですが、隆景は永禄11年の伊予出兵にも携わっているので、もしかしたら、主君と同等の支配権を持っていると、河野氏家中もそういう認識を持っていたのではないかなとも思えてきます。
     次回の九州平定戦、元春・元長父子が居なくなる中で、輝元は、隆景はどういう采配をするのか、楽しみです。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  25 วันที่ผ่านมา +1

      コメントありがとうございます!次回もご期待ください😄😄

  • @YY-rj4up
    @YY-rj4up 26 วันที่ผ่านมา +1

    ?宗我部「伊予はまだしも土佐はねーだろ、土佐は。」

  • @schnellbart
    @schnellbart 25 วันที่ผ่านมา +3

    毛利と秀吉のやり取りを見ると、秀吉の統一事業は、ポスト信長としてとりあえず臣下の礼をとらせて天下統一の形を先に作ってからパワーバランスの調整をして政権基盤を固めていこうというやり方なのかな。
    本能寺の変のチャンスを生かして勢いに乗ったものの、もともとの自前の勢力基盤が小さかった秀吉としてはそうせざるを得なかったのかもしれませんね。
    だから最後まで大名たちのパワー調整のため次々に天下普請をし戦争をやめられなかったのかなと思いました。そのいいカモにされるたのが輝元で、今後の解説が楽しみです。

  • @user-eq1kh7ts1j
    @user-eq1kh7ts1j 25 วันที่ผ่านมา

    チラチラ現れる女の子のイラストのほうが輝元よりシナリオを盛り上げてくれてますね

  • @user-gz5tv1wh6p
    @user-gz5tv1wh6p 25 วันที่ผ่านมา

    長宗我部、可哀想😭

  • @saka_PayPal
    @saka_PayPal 25 วันที่ผ่านมา +1

    元親も若い頃は中央とパイプ作ったり信長に接近したり先見性があったけど家が大きくなるにつれて国衆や家臣団を納得させるために毛利や羽柴との対決に進んでいった感がありますねー
    ここら辺の苦い経験から後々粛清に走ったのかも?

  • @user-qb2dv1vo9c
    @user-qb2dv1vo9c 26 วันที่ผ่านมา

    毛利元就どのの凄さも語ってください😊

  • @うみのいたち
    @うみのいたち 26 วันที่ผ่านมา +1

    まだ全部観てないけどお盆真っ只中に乙

  • @user-oo9zg7do3h
    @user-oo9zg7do3h 25 วันที่ผ่านมา

    八幡浜、西園寺氏の子孫が最近名乗り出てる先祖の墓石竹藪に隠して

  • @takashi-aoki
    @takashi-aoki 25 วันที่ผ่านมา +1

    曾我部さんの長なんで、長宗我部(ちょうそがべ)なのよね。大学のサークルの後輩にいた