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興味が有りましたが知らない事が多かったので勉強になりました。ありがとうございました。
江戸時代の生活の情報が満載で助かります。
勉強になります!ありがとう😊
たいへん勉強になりました!
絵図のこの御家人が住んでいたのは山本政恒の家ですね。後に残された日記から幕末の武士の生活が小説として出版されています。
江戸とは異なりますが、石川県金沢市には『足軽屋敷』なる観光地があります。ほぼほぼ当時のままなので、ぜひ金沢に赴かれた際には、中を見物して、生活の雰囲気を体感・想像してみていただきたいです。
大名屋敷地はとびきり恵まれた広さで立地も江戸城から概ね3~5km以内と現在は都心部に位置したためほとんどが政府の官用施設になったがごくまれに大学キャンパスとなったものがあった。いずれも明治初期における取得であり、主なところでは加賀前田藩上屋敷跡地を東京(帝国)大学慶応義塾が島原藩邸中屋敷跡地、青山学院が伊予西条藩上屋敷跡地といったものがある。
貧乏な藩だと家老までもが勤番長屋住まいだったらしい(漫画・風雲児たちの三河田原藩での渡辺崋山)。幕臣での最低給与が三両一人扶持だが、元は百石取りの身分なのに度重なる減俸令で9割引きになり、さらに家族が11人いるので『10両11人扶持』状態のため、サンピンより酷い有様。挙句、家老の子が養子はともかく奉公・小僧に出されていった事には驚いた。こういう藩って他にも在りそうだが、更に悲惨な感じがする。渡辺崋山はまだ、絵で食えていましたからね。
江戸城が無血開城された後、徳川宗家は駿河70万石に移封するわけだけど、その段階で下賜されていた旗本、御家人の屋敷地は当然ながら、没収移転とされたわけで、そりゃそりゃ大変な事だったのだろうと思います。大名屋敷は政府庁舎として利用されたのはわかるのだが、旗本、御家人の屋敷は空き家の後はどういう人が入ったのだろうか??
新政府の役人の屋敷になった他は分譲されて新しい町名がつけられてます。
あー、隣の組屋敷に住んでた遠藤殿は元気してるかなぁ?
勤番武士たちがどのような食生活をしていたのか知りたいです!
1日の食事量を1000とすると、白米990、梅や漬物1、御付け(汁物)9といった感じで極めて質素だった。日本の海に囲まれて魚介類が豊富に獲れ、魚売り商や市場も各地にでき潤った水も豊富だったから、共同銭湯なども多く配置され、清潔を保つ文化を作った当時高価だったのは砂糖、紙、油
一行目で、飢饉などに見舞われた年は稗、粟、麦、大豆、黍などを代用した。
@@iwanpavlof9700 ごはん99杯に対し、汁物1杯(以下)適当コントだとよく分かるわw
家屋に格差はあるけど武士といえど収入は扶持の米の石高だから収入は米の相場で決まり米が安いとこ収入は減るし米の価格が上がると収入は増えた。、
町人長屋には煮炊きしたり水瓶が置ける台所があったけど、武家長屋にはなかったんでしょうか?イメージとしては多門櫓を間地切った感じなんでしょうか?
畳の大きさは江戸間でしょうか?
こういう歴史の表舞台に出てこない実態を見るのは大変楽しいし興味深い!!江戸時代にはホームレスとかいたのかな?もしそれに類似してる生活者がいたらそんなのもピックアップしてくれると楽しいですよね^^
江戸時代には無宿人と呼ばれる住所不定の無職がいましたよ。その手の連中が犯罪に走らないようにするために火盗改の長谷川平蔵が人足寄場という施設を作ってそこに収容していました。
国許から君主の参勤に従って江戸へ来た勤番武士の他に、江戸家老以下の江戸在府の家臣がいたはずです。江戸家老は、長屋暮らしではないような気がするのですが、どこに住んでいたのでしょうか?
曾祖父は幕末から廃藩置県まで某藩の最後の江戸家老でした。住まいは藩の中屋敷地内にあったそうです。明治中期に生まれた祖母の話によると男性と女性は住まいの中で分かれて生活していたそうです。数千石の禄高でしたのでそこそこ大きなお屋敷であったとか。
御家人の屋敷に風呂場がないことを不思議に思っていましたが、やはり湯屋に行っていたんですね。町人などと一緒に入っていたのかなぁ。しかも禁令はなんどか出ていたようだが、混浴だよ。
ちょっと江戸時代行ってくる!
混浴といっても、男女で利用する時間帯が異なった。女性は午前中の家事が終わった昼に入り、男性は仕事が終わった夕方近くから入ったそうだ。うまくできているね。
赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)の記録を調べると、討ち入りに入る前に吉良邸の周囲に住む御家人の長屋の戸を打ち付けて馳せ参じられないようにした、という記述がありますね。
かすがい打ったね。
幕末、震災、空襲でどうにもならないのは分かるんだけど、せめてどこかの大名家の上中下屋敷が残っていてくれるといいんだけどね。。長屋とか見てみたい。
現在の港区三田の三井倶楽部がある場所はかつて佐土原藩藩邸があった場所です。そこには唯一現在地にある藩邸建造物がありました(長屋ですが)久しぶりに見に行こうとグーグルマップを見たら変な建物になっていました。つまり取り壊して新たに建てられたか、思いっきり改築されたかです。このように唯一無二の現在地に存在していた(火事にも耐え、戊辰戦争にも耐え、地震にも耐え、空襲にも耐えた)上屋敷建造物が消滅してしまったのです。今となってはかつての勇姿はネットでしか見ることはできません。
😅😅😅😮😅😅をひ😢😅
江戸時代は火事が多くて一度火災が発生するとたちまち焼け野原になった、残っていないのはそれもある
門ならば国立博物館に鳥取藩池田家上屋敷の黒門。東大の赤門は前田家上屋敷の門。結構残っています。
中村主水の八丁堀のイメージ😮
ある人を、住んでいる場所で呼称するって、面白いよね。うちのオヤジも「千住に行ってくる」とよく言っていたが、それは千住に住んでいる兄貴の家に行ってくるという意味だった。
与力二百坪、同心百坪。牢屋下男は五十坪、お掃除者は八十坪、黒鍬組は五十坪。御駕籠者は百坪、御小人は八十坪、御中間もハ十坪、鳥見役は百五十坪
御家人は家と貸家があるのに風呂がないのかw
俺んち武家地だ。
身分の違いが、あったのですね🎉
My ancestor was upper class samurai and part of daimyo's family. one ancestor was Kanjō bugyō and one ancestor was Karo.
武士が50万の兵力は凄いなー
町人に比べたら、武家なだけマシですね。 武家(幕臣、諸藩の藩士)も約50万人町人も約50万人だけど決められた住める地域は武家70%なのに町人は15%の地域寺社地の15%は別として町人は人口約 50万人で15%の土地に生活。これを、1平方㎞に換算すると約4万人。町人地で商人や庶民の多くが住んでいたのが4畳半の長屋。現在、最も人口密度が高い豊島区でも約2万人程度。しかも当時の建物は平屋が多いから、室内居住密度は異常に高かった。
伊勢丹や三越みたいに町人でもめちゃくちゃ財をなした人もいるし、厳しい規律や縛りがない分下級武士よりはマシにみえるけど
@@ハローシャコどんちゃんねる 伊勢丹や三越みたいな町人なんて0.1%もいないよ。それと伊勢丹は1886(明治19)年に初代小菅丹治が、呉服太物商「伊勢屋丹治呉服店」を開業したのが始まり。
ほとんど二階建て。
@@sawadaysawayaka7074 慶安のお触れ以降、民家や商家などの建物に対してその身分に応じての規制があり、新築等の場合には庄屋や町方肝煎を通じて代官所等に届け出が必要。江戸の庶民が住む長屋で2階建てはない。身分をわきまえろ。
イメージ的には戦後の焼け野原に多く建てられた「千円バラック」が庶民が住む長屋に近かったのかなぁ、とか思ってます。広さや生活スタイルという点で。
江戸時代はものすごく治安が悪いって聞いたけどねぇ
今と比べたらどの時代も治安が悪いけど、鎌倉室町と比べたら圧倒的に江戸時代のほうが治安がよかったです。
旗本、御家人は、徳川幕府の直属軍なのに、徳川幕府の存亡にかかる時は、何の役にも立たなかったなあ!!
あの時はすいやせんでしたぁぁーーーー‼︎‼︎‼︎
戦国時代で武勇を誇った一族も末期にはあまりにも長く続いた平和によって、腕も誇りも落ちていたからな…
参勤交代で長く江戸の時代が続いた。戦う力を失う代わりにね。
みんな命が惜しいからね
ごめんなさーいbyワイの先祖
ヨーロッパよりマシ。
江戸っ子から「浅黄裏」と見下され、暇は有るが金はない。およそ一昔前の田舎から出てきた大学生みたいだ。 こうして見ればお役目を頂くより、我が家の様な藩境を守る土志の身分のほうが楽だったかもね。江戸末期にはガッツリ、忘れ去れた家臣だっだけど。
格差=秩序悪しき平等意識が暴れているけども、格差はあってしかるべきなのです。日本は共産主義ではないのだから江戸時代にこんなにキッチリと秩序立てて社会を形成していたのは誇らしい
江戸の町を調べれば古代や中世の都市(主に中国)の規模と〇十万の人口が、物理的に合わないのがわかる
今も昔も東京は階級社会よ
あ
勉強になりました!
興味が有りましたが知らない事が多かったので勉強になりました。ありがとうございました。
江戸時代の生活の情報が満載で助かります。
勉強になります!
ありがとう😊
たいへん勉強になりました!
絵図のこの御家人が住んでいたのは山本政恒の家ですね。後に残された日記から幕末の武士の生活が小説として出版されています。
江戸とは異なりますが、石川県金沢市には『足軽屋敷』なる観光地があります。
ほぼほぼ当時のままなので、ぜひ金沢に赴かれた際には、中を見物して、生活の雰囲気を体感・想像してみていただきたいです。
大名屋敷地はとびきり恵まれた広さで立地も江戸城から概ね3~5km以内と現在は都心部に位置したため
ほとんどが政府の官用施設になったがごくまれに大学キャンパスとなったものがあった。
いずれも明治初期における取得であり、主なところでは加賀前田藩上屋敷跡地を東京(帝国)大学
慶応義塾が島原藩邸中屋敷跡地、青山学院が伊予西条藩上屋敷跡地といったものがある。
貧乏な藩だと家老までもが勤番長屋住まいだったらしい(漫画・風雲児たちの三河田原藩での渡辺崋山)。
幕臣での最低給与が三両一人扶持だが、元は百石取りの身分なのに度重なる減俸令で9割引きになり、さらに家族が11人いるので『10両11人扶持』状態のため、サンピンより酷い有様。
挙句、家老の子が養子はともかく奉公・小僧に出されていった事には驚いた。
こういう藩って他にも在りそうだが、更に悲惨な感じがする。
渡辺崋山はまだ、絵で食えていましたからね。
江戸城が無血開城された後、徳川宗家は駿河70万石に移封するわけだけど、その段階で
下賜されていた旗本、御家人の屋敷地は当然ながら、没収移転とされたわけで、そりゃ
そりゃ大変な事だったのだろうと思います。
大名屋敷は政府庁舎として利用されたのはわかるのだが、旗本、御家人の屋敷は空き家の
後はどういう人が入ったのだろうか??
新政府の役人の屋敷になった他は分譲されて新しい町名がつけられてます。
あー、隣の組屋敷に住んでた遠藤殿は元気してるかなぁ?
勤番武士たちがどのような食生活をしていたのか知りたいです!
1日の食事量を1000とすると、白米990、梅や漬物1、御付け(汁物)9といった感じで極めて質素だった。
日本の海に囲まれて魚介類が豊富に獲れ、魚売り商や市場も各地にでき潤った
水も豊富だったから、共同銭湯なども多く配置され、清潔を保つ文化を作った
当時高価だったのは砂糖、紙、油
一行目で、飢饉などに見舞われた年は稗、粟、麦、大豆、黍などを代用した。
@@iwanpavlof9700 ごはん99杯に対し、汁物1杯(以下)
適当コントだとよく分かるわw
家屋に格差はあるけど武士といえど収入は扶持の米の石高だから収入は米の相場で決まり米が安いとこ収入は減るし米の価格が上がると収入は増えた。、
町人長屋には煮炊きしたり水瓶が置ける台所があったけど、武家長屋にはなかったんでしょうか?
イメージとしては多門櫓を間地切った感じなんでしょうか?
畳の大きさは江戸間でしょうか?
こういう歴史の表舞台に出てこない実態を見るのは大変楽しいし興味深い!!
江戸時代にはホームレスとかいたのかな?
もしそれに類似してる生活者がいたらそんなのもピックアップしてくれると楽しいですよね^^
江戸時代には無宿人と呼ばれる住所不定の無職がいましたよ。
その手の連中が犯罪に走らないようにするために火盗改の長谷川平蔵が人足寄場という施設を作ってそこに収容していました。
国許から君主の参勤に従って江戸へ来た勤番武士の他に、江戸家老以下の江戸在府の家臣がいたはずです。江戸家老は、長屋暮らしではないような気がするのですが、どこに住んでいたのでしょうか?
曾祖父は幕末から廃藩置県まで某藩の最後の江戸家老でした。住まいは藩の中屋敷地内にあったそうです。明治中期に生まれた祖母の話によると男性と女性は住まいの中で分かれて生活していたそうです。数千石の禄高でしたのでそこそこ大きなお屋敷であったとか。
御家人の屋敷に風呂場がないことを不思議に思っていましたが、やはり湯屋に行っていたんですね。町人などと一緒に入っていたのかなぁ。しかも禁令はなんどか出ていたようだが、混浴だよ。
ちょっと江戸時代行ってくる!
混浴といっても、男女で利用する時間帯が異なった。女性は午前中の家事が終わった昼に入り、男性は仕事が終わった夕方近くから入ったそうだ。うまくできているね。
赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)の記録を調べると、討ち入りに入る前に吉良邸の周囲に住む御家人の長屋の戸を打ち付けて馳せ参じられないようにした、という記述がありますね。
かすがい打ったね。
幕末、震災、空襲でどうにもならないのは分かるんだけど、せめてどこかの大名家の上中下屋敷が残っていてくれるといいんだけどね。。長屋とか見てみたい。
現在の港区三田の三井倶楽部がある場所はかつて佐土原藩藩邸があった場所です。
そこには唯一現在地にある藩邸建造物がありました(長屋ですが)
久しぶりに見に行こうとグーグルマップを見たら変な建物になっていました。
つまり取り壊して新たに建てられたか、思いっきり改築されたかです。
このように唯一無二の現在地に存在していた(火事にも耐え、戊辰戦争にも耐え、地震にも耐え、空襲にも耐えた)上屋敷建造物が消滅してしまったのです。
今となってはかつての勇姿はネットでしか見ることはできません。
😅😅😅😮😅😅
をひ😢😅
江戸時代は火事が多くて一度火災が発生するとたちまち焼け野原になった、残っていないのはそれもある
門ならば国立博物館に鳥取藩池田家上屋敷の黒門。東大の赤門は前田家上屋敷の門。結構残っています。
中村主水の八丁堀のイメージ😮
ある人を、住んでいる場所で呼称するって、面白いよね。うちのオヤジも「千住に行ってくる」とよく言っていたが、それは千住に住んでいる兄貴の家に行ってくるという意味だった。
与力二百坪、同心百坪。
牢屋下男は五十坪、お掃除者は八十坪、黒鍬組は五十坪。
御駕籠者は百坪、御小人は八十坪、御中間もハ十坪、鳥見役は百五十坪
御家人は家と貸家があるのに風呂がないのかw
俺んち武家地だ。
身分の違いが、あったのですね🎉
My ancestor was upper class samurai and part of daimyo's family. one ancestor was Kanjō bugyō and one ancestor was Karo.
武士が50万の兵力は凄いなー
町人に比べたら、武家なだけマシですね。
武家(幕臣、諸藩の藩士)も約50万人
町人も約50万人だけど
決められた住める地域は武家70%なのに
町人は15%の地域
寺社地の15%は別として
町人は人口約 50万人で15%の土地に生活。
これを、1平方㎞に換算すると約4万人。
町人地で商人や庶民の多くが住んでいたのが4畳半の長屋。
現在、最も人口密度が高い豊島区でも約2万人程度。
しかも当時の建物は平屋が多いから、室内居住密度は異常に高かった。
伊勢丹や三越みたいに町人でもめちゃくちゃ財をなした人もいるし、厳しい規律や縛りがない分下級武士よりはマシにみえるけど
@@ハローシャコどんちゃんねる
伊勢丹や三越みたいな町人なんて0.1%もいないよ。
それと伊勢丹は1886(明治19)年に初代小菅丹治が、呉服太物商「伊勢屋丹治呉服店」を開業したのが始まり。
ほとんど二階建て。
@@sawadaysawayaka7074
慶安のお触れ以降、民家や商家などの建物に対してその身分に応じての規制があり、新築等の場合には庄屋や町方肝煎を通じて代官所等に届け出が必要。
江戸の庶民が住む長屋で2階建てはない。
身分をわきまえろ。
イメージ的には戦後の焼け野原に多く建てられた「千円バラック」が庶民が住む長屋に近かったのかなぁ、とか思ってます。広さや生活スタイルという点で。
江戸時代はものすごく治安が悪いって聞いたけどねぇ
今と比べたらどの時代も治安が悪いけど、鎌倉室町と比べたら圧倒的に江戸時代のほうが治安がよかったです。
旗本、御家人は、徳川幕府の直属軍なのに、徳川幕府の存亡にかかる時は、何の役にも立たなかったなあ!!
あの時はすいやせんでしたぁぁーーーー‼︎‼︎‼︎
戦国時代で武勇を誇った一族も末期にはあまりにも長く続いた平和によって、腕も誇りも落ちていたからな…
参勤交代で長く江戸の時代が続いた。戦う力を失う代わりにね。
みんな命が惜しいからね
ごめんなさーい
byワイの先祖
ヨーロッパよりマシ。
江戸っ子から「浅黄裏」と見下され、暇は有るが金はない。およそ一昔前の田舎から出てきた大学生みたいだ。
こうして見ればお役目を頂くより、我が家の様な藩境を守る土志の身分のほうが楽だったかもね。江戸末期にはガッツリ、忘れ去れた家臣だっだけど。
格差=秩序
悪しき平等意識が暴れているけども、格差はあってしかるべきなのです。
日本は共産主義ではないのだから
江戸時代にこんなにキッチリと秩序立てて社会を形成していたのは誇らしい
江戸の町を調べれば古代や中世の都市(主に中国)の規模と〇十万の人口が、物理的に合わないのがわかる
今も昔も東京は階級社会よ
あ
勉強になりました!