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戦国時代突入前の地元の歴史を知る事が出来てためになります全国制覇目指してください😊
富山の者です、神保も椎名も単独で越中統一出来ない小物だから一向宗や上杉、後年の織田の草刈場のイメージ自分の実家の新庄なんかは新庄城と言う富山城の東の最終防衛線があったので一向宗と上杉(長尾)が激戦を繰り広げたと地元の歴史書にも記載されてます、実際近所の寺は上杉方の首実検場だった後、加賀との関係性は良く言われますが飛騨の関係性も越中に影響を与えてます
コメントありがとうございます!新庄城は謙信の拠点の一つですし、越中の戦国史でも特に重要ですよね^ ^
分かりやすい解説をありがとうございます。北陸方面は上杉勢による兵火が特に凄まじい地域だったそうで越中、能登、加賀の三ヶ国で上杉勢に焼き払われた記録のある寺社は関東を遥かに上回る147箇所を数えるそうです。
コメントありがとうございます!凄まじい数ですね… 一向一揆の影響力の差も感じられますね…!
越中は一時的にといえど越中公方が設置されたくらい室町時代は先端地域だったのに戦国時代にインフラが破壊し尽されて人口は大幅に減少するわ河川管理が出来なくなって洪水が多発するようになるはで江戸時代に入るまで地獄のような地域になってしまったそう。江戸時代も搾取されまくって地獄だったみたいだけどw
上杉の軍勢は何度も越中へ進軍していますが、現在でも越後と越中の境には親不知という日本有数の交通の難所があるんですよね上杉軍がどうやって親不知を行き来していたのかとても気になります
コメントありがとうございます!簡単に行き来できないでしょうね…! 関東進軍時の三国峠といい、謙信は難所マスターですね!笑
昔の親不知は海岸の砂浜(砂利浜?)がかなり広くて現在ほどの難所ではなかったそうです。加賀藩の参勤交代の集団が歩いて通れるくらいでしたから。当時の親不知を通過する加賀藩の参勤交代の様子が絵として残っています
動画投稿ありがとうございます!越中国は隣国の勢力(越後長尾氏・加賀一向一揆)や中央勢力(畠山氏・織田氏・豊臣氏)の影響をより受けやすかったのかなという印象ですね。
コメントありがとうございます!仰る通りですね!隣国に比べると、越中一国を統一するような大勢力がなかなか登場しなかったですね…!
@@rekishitravel これより少し前には、明応の政変(1493)で一時失脚した足利義材(義稙)が、神保氏を頼って越中に逃れてきているので、やはり畿内の政情に左右されやすかったのかもしれませんね。
戦国時代は上杉との攻防というか関係がよく話題になるけど、資料を漁ってると飛騨方面も面白い戦国時代や室町時代の資料を見ると白川村など現在飛騨になっている勢力の何割かが当時は越中だったりした
方言は富山と石川はかなり近く、恐らく加賀藩統治など歴史的な影響が大きいと思われます。福井と石川は簡単に行き来できるすぐ隣町(県境の吉崎御坊近辺)でもガラっと言葉が変わります。
コメントありがとうございます!とても参考になります!今も方言に色濃く残っているのですね^ ^
石川・富山方言と言います。まあ、かなり近いも何も隣県ですからね。大阪府と兵庫県の方言がほぼ同じなのと同じですよ。むしろ隣県で方言が離れている例の方が珍しいですね。江戸時代は今でいう石川県と富山県は前田家とその分家の領地でしたが、越前は徳川家の分家が治めてましたから。
富山は意外と平地が多い気がしました。豊かな土地だったんですかね
コメントありがとうございます!平野部が広いですよね! ただし神通川など河川も割と集中しているので、洪水の被害も多かったようですね…
実は豊かで、足利の将軍も一時期拠点にしていたし、実高が60万石超えていたらしい。
@@rekishitravel 治水の大事さを感じますね。越中にも武田信玄がいれば、そこを足がかりに強い大名が出たかもですね
いや「意外」ではないでしょう。県の形から言って広大な平野が広がってますよ。なぜ「意外」と思ったんでしょうね?
富山県の平野は豊かで戦国時代以前の石高も凄く高かったそうですが、それらのインフラが戦国時代の長い戦乱で破壊し尽されて水害が頻発する荒れた土地になり、前田氏が支配するようになった江戸時代初期はかなり石高が少なくなっていたようですね。その後再開発されていきます。
次々に頼る相手を乗り換えた神保氏もなかなかしたたかでしたね。
コメントありがとうございます!謙信や信玄からしたら厄介極まりないですね…!笑
どうかな? 謙信が手を焼いたのは神保氏というより一向一揆ですし。
隣に上杉謙信がいたのが神保氏最大の不幸
佐々成政の冬の黒部越えは有名ですが、黒部峡谷下ノ廊下を歩いてましたが内蔵助谷がありました。もしかしてこの谷を通ったのでしょうか。
コメントありがとうございます!さらさら超えのルートは謎が多いですよね! 一部だけでも現地を歩いてみたいです^ ^
@@rekishitravel実際には安房峠を越えたというところです。なんぼ何でも飛騨山脈を冬季に抜けることはできないです。
良く勉強なさっていらっしゃいますね。とかく、尾張、三河の3英傑、信玄、謙信に脚光が当たりますが、秋田県、富山県のこうした戦国時代を年代で、知ることができるのは僕にも大きな勉強になります。
コメントありがとうございます!励みになります^ ^ 今後も様々な地域を取り上げたいと思います!
楽しみにしてるチャンネルが更新されてますね!次は富山ですか
コメントありがとうございます!二回に渡って北陸編をアップ予定です^ ^ 毎度ご視聴頂きありがとうございます!
地図上の勝興寺の位置が違う
コメントありがとうございます!どの時期の勝興寺でしょうか?(土山or高木場/安養寺or現在地)^ ^ 動画の該当箇所教えて頂けますと幸いです>_
この時代は、土山御坊と言われた時代なので、現在の南砺市(旧福光町)土山に有ったので、地図と有っています。
たしか、柴田勝家は1582年6月5日に越中宮崎城を落とし、越中国を平定したことを聞いています。
コメントありがとうございます!境目の城は大体陥落して、越後は目前でしたね!景勝はまさに九死に一生を得ましたね…
本能寺の変が無ければ武田の次は上杉も滅んでたな佐々成政の後釜が前田利長だったから加賀百万石になったわけだ
コメントありがとうございます!景勝と勝頼を比較すると、まさに運命は紙一重ですね…
7:53 10:12
やっぱり富田勢源かなぁ
江戸時代に富山県と福島県には深い関係が有る
コメントありがとうございます!意外な組み合わせですね!気になるのでリサーチしてみます^ ^
ほんま上杉謙信とかいう戦闘狂は怖いわ
コメントありがとうございます!仰る通りですね!あっという間に越中を制圧…!
なんか知らんけど、アウトレイジと化してますね。
コメントありがとうございます!守護の影響力が小さい分、混沌としていますね!
アルピニスト武将の成政!
Etigozeiha.oyasirazuno.tenkeno.koete.semekondanodesuka
戦国時代突入前の地元の歴史を知る事が出来てためになります
全国制覇目指してください😊
富山の者です、神保も椎名も単独で越中統一出来ない小物だから一向宗や上杉、後年の織田の草刈場のイメージ
自分の実家の新庄なんかは新庄城と言う富山城の東の最終防衛線があったので一向宗と上杉(長尾)が激戦を繰り広げたと地元の歴史書にも記載されてます、実際近所の寺は上杉方の首実検場だった
後、加賀との関係性は良く言われますが飛騨の関係性も越中に影響を与えてます
コメントありがとうございます!
新庄城は謙信の拠点の一つですし、越中の戦国史でも特に重要ですよね^ ^
分かりやすい解説をありがとうございます。
北陸方面は上杉勢による兵火が特に凄まじい地域だったそうで
越中、能登、加賀の三ヶ国で上杉勢に焼き払われた記録のある寺社は関東を遥かに上回る147箇所を数えるそうです。
コメントありがとうございます!
凄まじい数ですね… 一向一揆の影響力の差も感じられますね…!
越中は一時的にといえど越中公方が設置されたくらい室町時代は先端地域だったのに戦国時代にインフラが破壊し尽されて人口は大幅に減少するわ河川管理が出来なくなって洪水が多発するようになるはで江戸時代に入るまで地獄のような地域になってしまったそう。江戸時代も搾取されまくって地獄だったみたいだけどw
上杉の軍勢は何度も越中へ進軍していますが、現在でも越後と越中の境には親不知という日本有数の交通の難所があるんですよね
上杉軍がどうやって親不知を行き来していたのかとても気になります
コメントありがとうございます!
簡単に行き来できないでしょうね…! 関東進軍時の三国峠といい、謙信は難所マスターですね!笑
昔の親不知は海岸の砂浜(砂利浜?)がかなり広くて現在ほどの難所ではなかったそうです。
加賀藩の参勤交代の集団が歩いて通れるくらいでしたから。
当時の親不知を通過する加賀藩の参勤交代の様子が絵として残っています
動画投稿ありがとうございます!
越中国は隣国の勢力(越後長尾氏・加賀一向一揆)や中央勢力(畠山氏・織田氏・豊臣氏)の影響をより受けやすかったのかなという印象ですね。
コメントありがとうございます!
仰る通りですね!隣国に比べると、越中一国を統一するような大勢力がなかなか登場しなかったですね…!
@@rekishitravel
これより少し前には、明応の政変(1493)で一時失脚した足利義材(義稙)が、神保氏を頼って越中に逃れてきているので、やはり畿内の政情に左右されやすかったのかもしれませんね。
戦国時代は上杉との攻防というか関係がよく話題になるけど、資料を漁ってると飛騨方面も面白い
戦国時代や室町時代の資料を見ると白川村など現在飛騨になっている勢力の何割かが当時は越中だったりした
方言は富山と石川はかなり近く、恐らく加賀藩統治など歴史的な影響が大きいと思われます。
福井と石川は簡単に行き来できるすぐ隣町(県境の吉崎御坊近辺)でもガラっと言葉が変わります。
コメントありがとうございます!
とても参考になります!今も方言に色濃く残っているのですね^ ^
石川・富山方言と言います。まあ、かなり近いも何も隣県ですからね。大阪府と兵庫県の方言がほぼ同じなのと同じですよ。
むしろ隣県で方言が離れている例の方が珍しいですね。
江戸時代は今でいう石川県と富山県は前田家とその分家の領地でしたが、
越前は徳川家の分家が治めてましたから。
富山は意外と平地が多い気がしました。豊かな土地だったんですかね
コメントありがとうございます!
平野部が広いですよね! ただし神通川など河川も割と集中しているので、洪水の被害も多かったようですね…
実は豊かで、足利の将軍も一時期拠点にしていたし、実高が60万石超えていたらしい。
@@rekishitravel 治水の大事さを感じますね。越中にも武田信玄がいれば、そこを足がかりに強い大名が出たかもですね
いや「意外」ではないでしょう。県の形から言って広大な平野が広がってますよ。なぜ「意外」と思ったんでしょうね?
富山県の平野は豊かで戦国時代以前の石高も凄く高かったそうですが、それらのインフラが戦国時代の長い戦乱で破壊し尽されて水害が頻発する荒れた土地になり、前田氏が支配するようになった江戸時代初期はかなり石高が少なくなっていたようですね。その後再開発されていきます。
次々に頼る相手を乗り換えた神保氏もなかなかしたたかでしたね。
コメントありがとうございます!
謙信や信玄からしたら厄介極まりないですね…!笑
どうかな? 謙信が手を焼いたのは神保氏というより一向一揆ですし。
隣に上杉謙信がいたのが神保氏最大の不幸
佐々成政の冬の黒部越えは有名ですが、黒部峡谷下ノ廊下を歩いてましたが内蔵助谷がありました。もしかしてこの谷を通ったのでしょうか。
コメントありがとうございます!
さらさら超えのルートは謎が多いですよね! 一部だけでも現地を歩いてみたいです^ ^
@@rekishitravel実際には安房峠を越えたというところです。なんぼ何でも飛騨山脈を冬季に抜けることはできないです。
良く勉強なさっていらっしゃいますね。とかく、尾張、三河の3英傑、信玄、謙信に脚光が当たりますが、秋田県、富山県のこうした戦国時代を年代で、知ることができるのは僕にも大きな勉強になります。
コメントありがとうございます!
励みになります^ ^ 今後も様々な地域を取り上げたいと思います!
楽しみにしてるチャンネルが更新されてますね!次は富山ですか
コメントありがとうございます!
二回に渡って北陸編をアップ予定です^ ^ 毎度ご視聴頂きありがとうございます!
地図上の勝興寺の位置が違う
コメントありがとうございます!
どの時期の勝興寺でしょうか?(土山or高木場/安養寺or現在地)^ ^ 動画の該当箇所教えて頂けますと幸いです>_
この時代は、土山御坊と言われた時代なので、現在の南砺市(旧福光町)土山に有ったので、地図と有っています。
たしか、柴田勝家は1582年6月5日に越中宮崎城を落とし、越中国を平定したことを聞いています。
コメントありがとうございます!
境目の城は大体陥落して、越後は目前でしたね!景勝はまさに九死に一生を得ましたね…
本能寺の変が無ければ武田の次は上杉も滅んでたな
佐々成政の後釜が前田利長だったから加賀百万石になったわけだ
コメントありがとうございます!
景勝と勝頼を比較すると、まさに運命は紙一重ですね…
7:53 10:12
やっぱり富田勢源かなぁ
江戸時代に富山県と福島県には深い関係が有る
コメントありがとうございます!
意外な組み合わせですね!気になるのでリサーチしてみます^ ^
ほんま上杉謙信とかいう戦闘狂は怖いわ
コメントありがとうございます!
仰る通りですね!あっという間に越中を制圧…!
なんか知らんけど、アウトレイジと化してますね。
コメントありがとうございます!
守護の影響力が小さい分、混沌としていますね!
アルピニスト武将の成政!
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