【鉄道歴史】10分で語る福知山線の歴史
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- เผยแพร่เมื่อ 12 พ.ย. 2021
- 故郷尼崎から北へ伸びる福知山線の歴史を手短にご紹介します。全国にはやはり2005年の事故で有名ですが、この路線自体の歴史も実は深いのです。私は故郷のことを思いながら福知山線の歴史を振り返ってみたいと思います。
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☆管理者 平成鐵郎 略歴 ☆
1964年生まれ 乗り鉄の前面展望マニア 某IT会社に勤務の傍ら2005年よりJR乗りつぶしを開始し、2016年JR四国の内子線を最後にJR在来線完乗、現在民鉄に挑戦。兵庫県出身
千葉県在住。
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私、平成鐵郎は1995年に「マーフィーの法則(アスキー出版)」という本がヒットしたため
その失敗策を防ぐとおもって間違ってジョセフマーフィー博士の
「マーフィー100の成功法則(産能大学出版部)」という本を
買ったことがきっかけで潜在意識理論と出会いました。
潜在意識理論を用いて人生を変えたメソッドを皆様と共有したく
このチャンネルを立ち上げました
当チャンネルで利用している各種ツールは皆様へシェアさせていただきます。
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☆いらすとや かわいいイラストがフリーで利用できます
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www.ah-soft.com/voice/6nare/
【BGM】
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名曲揃いです。鉄道TH-camrはあまり利用されていないようです。どちらかと言えば
スピリチュアル系の方が多用されておりますが、名曲が多いのでこのChでも取り入れております
amachamusic.chagasi.com/
☆DOVA‐SYNDROME
dova-s.jp/ - ยานยนต์และพาหนะ
ただただ感動しました。中学時代、大阪駅から福知山線の客車列車の走行音を録音しに
行った記憶があります。
大阪駅からすでにローカル線の趣を味わえたのは、本当にいい時代でした。
地元の住民の方々は不便だったと思いますが・・。
投稿、ありがとうございました。
そして、2010年代には例の号泣県議が城崎温泉への日帰り(空)出張するための経路として頻繁に利用することになるw
私の生まれた街も尼崎で親父の田舎が丹波篠山。だから福知山線は良く乗ってました。ディーゼル機関車が引っ張る客車にも乗っていた記憶も有ります。トイレの便器の下に線路レールと枕木が見えていたのが懐かしいです。
そうそう!
かつては、駅で停車中は、
客車内トイレ🚽を使用しないで下さい!
って、車掌のアナウンスが有りました。
確かに1980年代まで客車列車が走っていたとは、かなり近代化から取り残された感が強かったですね。
あとは、やはり「北近畿」というネーミングセンスには驚きました。普通に急行名を引き継いだらよかったのに。
宝塚と福知山が非電化のときは福知山内はたしかキハ40系のたらこ色が走っていました。DD51が12系の客車を引っ張ってましたのでその方面ではかなり近代化されました。ドアが手動のスハなどは1981年の宝塚電化まではしっていました。北近畿はまつかぜの後だけに残念でしたね
97年生まれ福知山出身の僕にとっては「北近畿」というネーミングに全く違和感を持ってなかったですし
「こうのとり」に改名するとなった時も「北近畿の方がかっこいいのに…」と自分も周りの同級生も言っていた記憶がありますね
1984か85年だったと思うけど、姫路から新快速か快速に乗っていたら、大阪に着く手前の淀川鉄橋で福知山線の客車列車を追い抜きました。その時デッキに出て手を振ってる人が居て、普段阪急か東海道線しか乗ってなかったので凄く衝撃的でいまだに記憶に残ってます。
福知山線の旧線跡は、渓谷美や真っ暗なトンネルと映画スタンドバイミーのような鉄橋残るハイキングコースになっていて賑わってますね。旧線時代に乗ってみたかったな。
福知山線は「忌み番」の巣窟でもあったんですね。C54やDD54。いずれも国鉄を代表する不幸を背負った機関車でした。
たった2両の客車を機関車が牽く運用があったこと、今となっては贅沢な運用でしたね。ま、近代化を急ぎたいがためにスピードがのらない客車運用の廃止はやむを得なかったものの、それに見合う線路の改修が追いつかなかったことが悲劇を招いたと思います。それを運転手一人のせいにしようとしたJR西日本もどうかしています。
武庫川渓谷沿いの車窓は子供心にワクワクでした
かつては特急エーデル北近畿、エーデル鳥取、北近畿、文殊、寝台急行だいせんがありましたが、今は特急こうのとりに統一されています。
S48~49頃、生瀬に住んでおりました。
DD54牽引の旧型客車の最後尾の扉はなくロープ一本でしたね。仰る通り淀川では恐怖でした。
阪急とのスピード競争なんてどこ吹く風という感じでしたね。
武庫川渓谷をクネクネと走るまつかぜはカッコよかったです。
懐かしいです。
ただ昔の歴史を辿るだけの動画では無くて良かったです!絶対あの事故を風化させないでほしいと思いました!!
福知山線、食堂車ついた、まつかぜ走っていましたね。昔は食堂車ついた特急や急行沢山走っていたのに過去のものになってしまいましたね。駅弁もいいけど
食堂車で食事しながら眺める車窓よかったのに!
3、4歳の頃、田舎に帰るときに福知山線に乗ってました。鮮明に憶えているのは、大阪から三田までの間にトイレに行きたくなって、母親に途中で降りたいってお願いしたら、この電車にトイレあるよって教えられてビックリした事です。多分、この動画に出てきた113系だと思います。(記憶間違いだったらすみません。色はあずき色みたいな感じだった)
三田駅に降りるとよくディーゼル車に牽引された客車を見かけました。
88年生まれで尼崎港線は廃線の土塁しか知らない世代なので、主の世代がうらやましいです。
ギリギリで平屋の尼崎駅舎を覚えてるくらいですね
住道に現れるまつかぜはめっちゃ笑った。
まだ国鉄時代にこの計画が発表されたとき真剣に思いました。山陰線から来る列車がすべて片町線とつながるとおもっておりました
昔の福知山線って魅力のある列車ばっかりだなぁ〜、旧客や気動車そしてサンパチが特に魅力的だね
神戸で震災があった時、福知山線は、山陽本線の「迂回ルート」として使われました。福知山線の他に、加古川線と播但線も迂回ルートになりました。和田山~大阪間の特急「北近畿」は乗車券のみで利用可能でしたけど、通勤電車並みの混雑でした。谷川は普段は特急の通過駅ですが、加古川線の接続の為、臨時停車をしていました。
福知山線の歴史として記憶に残してほしいですね。
ちなみに私は神戸震災の時は
岡山に住んでいました。
岡山は震度5だったと記憶しています。朝でした,,,,
運転開始まもない智頭急行のHOT7000系が播但線迂回輸送用の快速として使用されましたね。
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それは知りませんでした。
播但線でキハ80系の運用は
見たことがありますし、乗車したこともあります。このキハ80系は、おそらくですが、毎年夏に
臨時列車で使われている「若狭マリン号」の車両と思います。?
加古川線には珍しいキハ58系の運用もありました。こちらは石川県の七尾線?からの「助っ人」だったみたいですね。
福知山線事故現場間近の中学校出身の爺です。昔は、貨物列車も走っていました。現在はJR貨物のエリアではないので、貨物列車は走っていません。東海道線の外側線に乗りたくてわざわざ福知山線列車に乗ったりしてました。尼崎港線にも乗りました。わが町は、福知山線(と東海道線)が近いのですが、駅が無いのであまり乗りません。
昔は、塚口・伊丹・北伊丹駅付近は工場地帯、川西池田・中山寺駅付近は田畑ばかりでした。現在は再開発され、北伊丹駅付近に公園、それ以外は住宅とショッピングセンターになりました。
こんにちは。電化、複線化、ルート付替えと急激な近代化を経た路線なのですね。地元京急のかつては完全に名前負けしていた空港線が
本当に羽田空港アクセス路線に化けたのも感慨深いです。
知らない事が多く勉強になりましたありがとうございます!今年の夏生瀬から武田尾まで旧線跡を歩きました 旧線時代の車窓を楽しんでみたかったです!
凄い懐かしいです。
私たちと同じように
旧客車の1番後ろに居たと
私と同年代でしょうか?
私も尼崎市民です。
金楽寺駅が出て来てびっくりしました。
懐かしかった。
駅も綺麗になりましたよね
尼崎、塚口、立花とr
あと駅前の再開発も止まりませんね。
昔の尼崎(人情も)が無くなりつつありますね。
1964年生まれです。金楽寺は高校の目の前なのです。あの駅体育で身体鍛えたり、好きな女の子を呼び出して告白したり列車が滅多に来ないので好き放題使っていました。いつも3時になると貨物列車が通りまし警笛ならすので6時限目が終わる合図でした。懐かしいです
@@heitetsu4649 一年先輩でした。
ありがとうございます。
実は私の友達は淀川の鉄橋から落ちて無くなりました。
夏休み前の出来事でした。
本来は阪急に乗って梅田まで行くのですが、
あの迫力に魅了されて
列車の時間ありますよね
いつも通るまつかぜは小学生の時の帰りで見ましたよ。
4両編成の電車は通勤時大混雑でしたね🎵
やはり駅が変わったのが1番大きいと思います。
尼崎は東よりに
塚口は北よりに
尼崎駅の開発が私に取っては何か
不思議な感じですね🎵
懐かしい場面も多くありがとうございます。
確か脱線事故で、車両の塗装が変更されたんでしたね。
多くの人が事故当時のカラーだと思い出すので車両塗装の変更を被害に遭われた方がたが、JRに申し出たと記憶しています。
あとは、新聞記事にもなった「おばあさんに電車から下ろされて助かった」と不思議なことがありましたね。
私も尼崎在住です。
大物辺りの某幼稚園に通い、金楽寺駅そばの某高校にも通いました。
学生の時は、森永製菓塚口工場で夜勤のアルバイト後に篠山口発の客車列車で大阪駅へ~、10分くらいあとの電車でも到着はほとんど変わらないのですけどね…
勤めに出てからは、出張で8時の北近畿よく乗りました。立花から大阪へ向かうのですが、寝過ごした時にはすれ違いで北近畿をお見送り!
京都からあさかぜで何とか追い付きも時々有りました。
いろいろ懐かしいこと思い出しました。ありがとうございます‼️
尼崎港線も時々乗りに行きましたよ‼️
大物あたりは今は様変わりしました。まつかぜのスジは北近畿が担っていたのですね。大日本インキ工場の前が尼崎港線の尼崎駅がありました。あそこに立って福知山線の列車の行き来をよく見ました。灯台下暗しというか尼崎港線は一度ものれずじまいでした
@@heitetsu4649 ご丁寧に返信ありがとうございます‼️その昔、福知山線から山陰への特急まつかぜに乗った記憶があります。母の実家が奥出雲で帰省の時です。 子供の時の記憶なので、おきだったかも~?
山陽新幹線が無かった時ですので長い旅路でした。夕方5時頃宍道駅で木次線を待つホームで見たひまわりの花、まだまだ先かの侘しさ有りましたが、木次線ローカルは賑やかな事、窓開けてたらイナゴも入って来ました。
夜行のだいせんも乗りました‼️大阪駅の駅弁と沢の鶴のガラス瓶とっくりも楽しみでした。北陸行きの夜行急行の時も一緒‼️
いろんな事思い出させて貰えて嬉しいです。今後の配信お待ちしております‼️
旧型客車好きな私は京都〜福知山〜大阪の周回乗車を頻繁にしてました、当初は尼崎から単線非電化時代、朝の7時45分頃に出る下り客車の735列車、ほぼ全ての駅で上り通勤列車と離合、大阪〜宝塚僅か25.5㎞に47分も必要な列車でした、下り客車列車は最後部貫通路に立つ事が可能でしたがデッキに立ち塚本駅通過が爽快でしたね、草津線から京都直通の客車列車のデッキから見た瀬田駅通過も同じでした、宝塚電化当初も電車と客車が共存、朝の下り福知山(宝塚)方面、5.6時台は僅か1本、7.8時台でも僅か2本とは今と比べたら驚くべき時代に取り残された路線でしたね、尼崎港も何度か利用、いつも貸切状態でした、最終日は乗車してます、大変な混雑でした、福知山線で最も印象深い列車は山陰線橋梁架け換えの迂回運行された夜行鈍行の(山陰)で大阪〜福知山ノンストップ、上りは確か三田だげ運転停車、京都〜大阪もノンストップEF58牽引で深夜和田山折り返しで往復乗車を2回しています、事実上旧型客車の特急列車でした。武庫川渓谷の旧線は保津峡より水面(みなも)に近いから好きな風景でしたが排水規制が強化される前の時代だったから川の水は今より遥かに汚い渓谷でしたね。
私は735列車が福知山線デビューでしたが、交換待ちが多いせいか、福知山まで4時間以上かかったと記憶しています。
調べると、三田まで2時間弱もかかっていました。
@@user-nl5zv8jl3y 確かに福知山まで4時間近い所要時間でしたね、ただ福知山区基本編成で京都発の列車よりニス塗りの茶色い客車が最後尾になる事が少ない列車でしたね、
懐かしいですね中学生、高校生の事柄が多く出てきます複線になった時、福知山線の事故の時会社が近くで仕事をして居る時だったのでヘリコプターが何機も空を旋回していて何があったのだろうと思いました。
私も同世代の55歳で尼崎市出身です😃✌️
実家は阪神尼崎寄りですが、大阪から立花まで国鉄に乗ってその時は尼崎までわざわざ福知山線の旧客に乗りました😉👍✨
また当時中学生だったと思いますが、尼崎港線が廃止になる1ヶ月前くらいに塚口から尼崎港まで乗りに行きました😃✌️
中学の卒業旅行に博多から新大阪まで特急まつかぜを通しで乗りにも行きました😃✌️
平成7年に結婚して今では西宮名塩に住んでます‼️
まさかここまで福知山線に浸るとは…自分でもビックリです👀‼️
ありがとうございます。最後は確か1981年でしたでしょうか。電化工事の邪魔になるので塚口に短縮されたのですね。まさか起源が馬車鉄道とは思いもしませんでした。西宮の生瀬あたりは西宮市の首上半身あたりになるので鉄道の駅のアクセスが不便でしたが今ではすごく便利になりました。三田まで行くのが武庫川渓谷沿いをゆっくり行く客車にのり一苦労だった1970年代から見れば三田までが通勤圏になっているのは信じられないくらいです。
私の故郷は川西ですが母が出雲出身で、はまかぜで実家に帰省してたそうです。
おすすめから来ました。
1972〜1978年頃、伊丹市の北伊丹地区におりましたので、機会は少なかったですが福知山線に乗る事がありました。あの頃の北伊丹駅や伊丹駅は木造の小さな駅だったのに、今の伊丹駅の周辺はイオンモールが出来てから、阪急伊丹駅よりも主要ターミナル駅に化けましたね。
途中、黄色の車体に青いラインがある車両がありましたが、平成元年に一時通勤で宝塚〜三田間で利用していました。生瀬駅から道場駅間のトンネルの煩さに閉口したものです(笑)。
単線時代ののんびりとした雰囲気が懐かしくなります。
懐かしいですね。確か城崎まで電化されたとき黄色に青いラインの113系がありました。恐らく103系(国電)に色合わせたと思います。JR伊丹駅は運転免許センターもでき明石まで行かずにすみました。イオンで完成に栄えました。阪急伊丹は阪神大震災で被害をうけてからは若干さびれました。
電化前の福知山線はよかったです。
旧客、DC、沿線景色。
沿線に住む身として福知山線の歴史について知ることが出来ました
幼い記憶ながら北近畿や文殊が走っていたのはよく覚えています
大阪育ちだが福知山市は兵庫県だと思っていた(実際は京都府)。DD54+旧型客車にも乗車しました。猪名川の左岸→右岸。(追加)阪急の塚口駅はてっきり伊丹市だと(尼崎市が正しい)💧
塚口は尼崎市ですね。三菱電機伊丹製作所も尼崎市です。あれは不思議ですね。
福知山線は終点だけが京都府であとはすべて兵庫県に存在します
ここでも福知山線の事故に触れるとは 意外でした でも急速な近代化の歪みは同感です もはやサンパチは伝説になってますね 場当たり系列の極みです 貴重な情報ありがとうございます
そうですね。逆にふれなければ皆様からご意見があるのとおもいさらっと触れました。逆に阪神大震災のう回路を紹介すればよかったですね。
旧客鈍行時代、尼崎から武田尾まで、何度か乗ったことがあります(当時、小学生でした)。DD54はすでに撤退しており、DD51でしたが。
僕は宝塚線に115系のコーヒー牛乳色が走ってるのをギリ覚えてるくらいの歳です。福知山に行くとき183系が来たらハズレ、287系が来たら当たりだと思っていた時代が懐かしいです。
家族で、休日の夕方、旧客に乗り、福知山から大阪まで乗りましたが、乗客は多く、実に古典的なアットホームな雰囲気で今ではほとんど味わえない「旅」でした。
篠山口の駅弁立ち売りは名物でした。
一日二本しかないキハ10系の快速篠山口行きによくのり宝塚まで行きました。確かに旅の雰囲気は抜群でしたね
関東在住の者にとって、1980年代になっても大都市大阪駅に福知山線からの旧型客車が乗り入れていたのが驚きでした。武田尾で終日撮影にあけくれたのも今では懐かしい思い出です。
おもしろかったです。摂津鉄道時代は知っていましたが、馬車鉄道時代の写真は初めて見ました。阪急との関係も初めて知りました。尼崎港戦の写真も面白かったです。廃止はもったいなかったですね。なんとなく清水港線を思い出しました
ありがとうございます。生まれ故郷の尼崎なのでコメントをいただき光栄です。金楽寺の駅は高校のすぐそばなので思い入れはあるのですが、尼崎市で育ってこのかた27年。尼崎港線には一回も乗りませんでした。後悔しております
混合列車や機関車が懐かしいですね。わざわざ乗りに出かけてました。
私も昔、派遣社員時代に宝塚市ヘ通うのに利用しましたよ!当時あの事故が遭って暫くは阪急電車にお世話になり復旧後は退職まで福知山線で通いましたね!✌️🤓
多数コメントしてすみませんが、戦後国鉄は全国の幹線網と東京の5方面作戦に力を入れ、関西はかなりほっておかれました。
大阪環状線開通と兵庫~西明石の複々線化以外、昭和45年以降にやっと電化や複(々)線化、湖西線開通などがありました。
そのお蔭で、大都市圏にありながら福知山線、山陰本線など昔ながらの旅が出来ました。
名古屋は関西本線電化はありましたが、さらに後回しで高山本線は電化が予定されていましたが、分割民営化によって中止になって今に至っています(電化せずとも今の気動車は高速化されていますが)。
宝塚~福知山電化の前後、舞鶴港からフェリーで北海道旅行をし、大阪から行きはディーゼル急行、帰りは普通電車に乗りました。
福知山からの通勤帰りのサラリーマン二人が、客車はゆっくり座れたのに、電車になって居住性が悪くなったとぼやいていました。
私の実家は金楽寺駅から歩いて5分もかからないとこにありました。
産まれた時に貨物輸送廃止になったので知りませんが、通るだけだけで振動が離れててもすごかったと親から聞きました。
宝塚電化の際 103系は6両だったと思います。
後年 4両化され 外された2両は1ユニットが松戸区へ転属して常磐快速線で活躍。
しばらくは黄色のままオリジナルの青緑の編成に 元淀川区のオレンジのユニットと元日根野区のサハと共に組み込まれ 4色で走っていて凄く目立ちました。
尼港線はDD13牽引の為 蒸気暖房がなく 冬場は寒かったそうですね。
全線電化の頃は そのまま乗っていた方が大阪まで早く行けるのに それでもわざわざ
宝塚で阪急電車に乗り換えるお客さんも多かったそうですが 今はどうなのでしょう?
そうでしたか。福知山線の103が4両という印象がありましたが6両だったのですね。1982年に乗車したときはすでに4両でした。国電と12系の客車が同じ路線に走ってたのは違和感を感じました
宝塚までの複線電化時は103系6両編成で合ってます。
当時、塚口駅の近くに住んでいましたし、
宝塚駅での複線電化開業セレモニーにも行きましたので。
ただ、今では信じられませんが、
風を運んでる状態だったので、あえなく4両化されましたが。
207系も当初4両で配置されたものの、
東西線開業近くになって103系共々7両化されました。
ちなみに宮原の12系客車の他に福知山の50系客車も走ってました。
運賃の安さと座れることから
西北乗り換え経由でも利用者はいます
子供の頃、阪急宝塚線と福知山線の沿線住民だったけど、福知山線の電化記念に乗りに行ったけど確かに6両だった。けど阪急に比べて線路が真っ直ぐな割に速度が遅いし、ゴトゴトやかましかった印象しか残らなかった。あの頃は運賃も割高だったから4両化も当然の流れだったと思う。
福知山線の旧線も嵯峨野観光鉄道みたいにトロッコ列車を走らせて欲しかった。
山陰本線(園部ー綾部)より舞鶴線のほうが先に開通していたのは知りませんでした。DD54かっこいい
DD54,DF50牽引が懐かしいですね。親父にねだって武田尾までよく乗りました。
大きな馬のロバのパン屋も懐かしいですね。よく蒸しパンを買ってもらいました。
鉄道紀行作家の宮脇俊三氏は、須磨の海岸や武田尾を見て関西の人は羨ましいと言っていました。阪和線の和歌山平野を見下ろす辺りも賞賛していました。
ところで、日本の国鉄(JR)を享受する意味合いにおいて、氏ほど恵まれた人はいないのでと思います。
戦前の「つばめ」などの国鉄全盛時代、戦後の東海道新幹線開通やヨンサントウの国鉄全盛時代、国鉄の斜陽時代からJRへの変遷を体験し、蒸気時代から新幹線の時代を跨ぎ、寝台列車も乗りまくり……。
晩年食堂車もない寝台列車などビジネスホテルより侘しいと書いていたが、その寝台列車すらほとんどない今、氏が生きていたらどう思うだろうか。
しかし、今は今でまた違う楽しみ方を見つけていたろうとは思う。
時刻表20000キロを読んだとき寝台列車の昼間運用でヒルネと読んでいたのが印象的でした。足尾線には悪いが最後に乗り潰すのは北海道の湧別あたりで終わりたいが公害の水の間藤になるとは、なんて結構宮脇氏の小説は下手に自慢のないところがよかったですね。晩年は海外や廃線めぐりに注力されていました。娘さんが出した編集ノートも結構面白かったでした
ちょうど自分が小1の頃に宝塚まで電化したんだけど、その頃に親にねだって大阪から福知山まで連れてってもらった思い出。
DD51に牽かれた茶色い客車で、まだ道場のトンネルないから三田に出るまでめちゃ時間かかってた。
5:22 確か50系客車も走っていたと思います。
宝塚電化しても、大した効果なく、日中乗ると103系もがらがらでした。
この黄色の103系のお蔭で運良くば、大阪駅で、4色の103系が見られたはずです(緑は関西本線乗り入れ車)。
福知山までの電化直後、8両の列車を2両の電車にして、積み残し多数で問題になりましたね。
1:09ロバのパン屋に爆笑しましたww
良い動画を残して頂きありがとうございます!!
こんにちは。福知山線ではかつて山陰のクイーンと呼ばれていた大阪と博多の間を山陰本線福知山線で運転されていた。特急まつかぜを思いだしますね。
4:23~
私も小学生の頃、旧型客車のデッキ付近によくいたものです。
確かに、淀川橋梁を渡るときは、手を手すりから離れればOUT😱の状態だったので、スリルはありましたね。
やはり、あれはスリルがありました。やっぱり淀川を渡るときが一番スリルがありました
@@heitetsu4649 様
私はこの車両を、戸を開けっ放しで走る列車だったので『戸開き列車』と呼んでいました😀
淀川落下はなかったものの、大阪駅出発直後で徐々にスピードを上げていく中で、右手を車外に出していたので、コンクリート製の架線柱に手を当ててしまった40年近く前の苦い思い出がよみがえってきました😂
やっぱりみんなしてたんですね
私の友は堕ちてしまいました。
何度も後悔しました。
アホの遊びでした。
でも、神戸線の電車を塚本から抜くのがとても気持ち良かったですね
塚口駅まで電化されてて、夜間に雷鳥とか電車特急が回送されてきていた。
宝塚まで103系が走り出したとき、「総武線と同じ黄色だ」と妙に納得していた記憶があります。
当時、東海道・山陽線は水色(京浜東北線)、大阪環状線は朱色(中央線)、関西線は黄緑(山手線)の電車が走っていましたので,,,,
中学の頃、わざわざ神戸から神戸電鉄で三田まで行き、三田から大阪まで旧客車列車や特急まつかぜに乗った記憶があります。
又、中学の卒業旅行で米子から大阪まで、寝台急行「だいせん」に乗りました。
懐かしいですね!
有岡小学校の児童でしたが冬に屋根に雪を乗せて走る列車が通るのを見てはしゃいでました
まつかぜは一日に一回だけ見れるレア列車でしたね
卒業前に校庭と線路の間に高い塀が設置されて電車が見れなくなってしまいましたが
こんばんは
田舎が広野でしたので
良く旧型客車乗ってましたよ
大阪駅1番ホ―ムで
駅弁やおやつを買い込み乗ってましたよ
生瀬~武田尾間の武庫川沿いに走る景観は思い出に残ってます。
キハ55はたぶん2回ほどしか乗った記憶がないです?
薄暗い黄色ぽぃ車内照明でしたね確か?
まつかぜや急行だいせん 丹波号は
あの時代自分には
別格に見えました‼️
北近畿の後継特急こうのとり
来る3/12のダイヤ改正で全車指定席になりますね
尼崎港線は戦前まではまとまった本数が運行されていたようです。戦後しばらくも本数はあったようですが、サンロクトオ、ヨンサントオ改正で段階的に減らされていったようです。
尼崎港線の歴史
1896年(明治29年)9月号→18往復(池田発着35本、伊丹発1本)
1898年(明治31年)8月号→15往復(神崎発着(今の尼崎駅)30本)
1904年(明治37年)7月号→東海道線との立体交差工事のため休止
1912年(大正元年)10月号→5往復(池田発着10本)
1915年(大正4年)2月号→8往復(伊丹発着1本、池田発着11本、生瀬発着2本、武田尾発2本)
1925年(大正14年)8月号→7.5往復(池田発着13本、生瀬発着2本)
1929年(昭和4年)2月号→10往復(塚口発着2本、池田発着17本、三田発1本)
1930年(昭和5年)10月号→10往復(塚口発着2本、池田発着17本、三田発1本)
1931年(昭和6年)6月号→10往復(塚口発着2本、池田発着17本、三田発1本)
1934年(昭和9年)12月号→10往復(塚口発着2本、池田発着18本)
1935年(昭和10年)10月号→10往復(塚口発着2本、池田発着18本)
1940年(昭和15年)1、10月号→10往復(塚口発着2本、池田発着18本)
1942年(昭和17年)11月号→10往復(塚口発着2本、池田発着18本)
1944年(昭和19年)12月号→9往復(塚口発着2本、池田発着16本)
1945年(昭和20年)1月号→6往復(塚口発着2本、池田発着10本)
1946年(昭和21年)2月号→8.5往復(2往復は休止)(塚口発着2本、池田発着15本(4本は休止))
1946年(昭和21年)8月号→8往復(2往復は休止)(塚口発着2本、池田発着14本(4本は休止))
1946年(昭和21年)12月号→6往復(塚口発着2本、池田発着10本)
1947年(昭和22年)8、11月号→3往復(塚口発着2本、池田発着4本)
1950年(昭和25年)10月号→5往復(塚口発着4本、池田発着6本)
1956年(昭和31年)12月号→6往復(塚口発着4本、川西池田発着8本)
1959年(昭和34年)4月号→6往復(塚口発着4本、川西池田発着8本)
1961年(昭和36年)10月号→3往復(川西池田発着6本)
1964年(昭和38年)9、10月号→3往復(川西池田発着6本)
1966年(昭和41年)8月号→3往復(川西池田発着6本)
1968年(昭和43年)10月号→2往復(川西池田発着4本)
この後は廃止まで2往復体制が続きます。
なつかしいです。当時は大阪住みで早朝1本の川西池田から尼崎港まで乗り、折り返しで帰りましたが、定期券程ある乗車券には驚いたのを思い出します。当時中学生でしたが、友人が今乗らないと廃止になるのが分からないとの事でしたので行きました。もう45年前の事何ですね。
だいせんは2004年まで走ってたと思います
関西住んでいた時福知山線沿線でした。西宮名塩駅から、昔は113系2両の時ありました。震災時加古川線迂回ルートいろいろな車両が、広島応援車両入ってた。大好きな線です。今関西離れて7年根府川ですが、熱海近く小田原近く小田原から湘南新宿ラインと東京上野ライン選択あります。
福知山線の歴史がわかりやすいですね
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします
他の方ほど歴史の古いものではありませんが
北近畿と文殊とたんごエクスプローラーが走ってたのが懐かしいです
震災時はすごい混雑だったとお母さんが言っていました
兵庫県川西市が実家の私には、電化前の福知山線は「存在するが無きに等しい」路線でした。
中3(1979年)の修学旅行で川西池田から新大阪まで客車列車で行ったような記憶があります
(青色のやつ、形式は記憶が無い)。その後1981年に電化されて黄色の国電でかつ4両編成と
なったのですが、便数は阪急と比較にならないほどお粗末(しかも阪急は8両編成)で、
それこそJRになった後、JR西が力を入れるまでは宝塚-梅田間は阪急宝塚線・神戸線の独壇場
だった記憶があります。
尼崎港線は廃止の1週間前に乗りに行った
客車1両で超満員だった
福知山沿線です💡 ぼくが物心ついたときはDD51牽引の旧型客車かキハ47、あとキハ58系急行『丹波』、特急『まつかぜ』は存在は知ってたけど見たことはほとんどないし福知山線内は宝塚にしか停車しなかったので雲の上のような存在。急行でもちょっとリッチな気分になってた。そしてみんな普通列車(特にDD51牽引旧型客車)のこと『どんこ(たぶん鈍行からやと思われる)』って言ってたわ。柏原~大阪まで二時間以上😱
尼崎生まれでありながら尼崎港線に一度も乗った事はありませんが、2年前にたまたま仕事で尼崎へ行く機会ありついでに尼崎港線の遺構を探してみたら残されている所が一箇所あり阪神尼崎車庫のすぐ側やったと思います。
同じですね。私なんて高校が金楽寺の前にありながら素通りですから。灯台もと暗しですね。
片町線に「まつかぜ」が乗り入れるとなれば、常磐線に「はこね」が、小田急線に「ひたち」が乗り入れることも思い浮かびそう。東横線に「きぬ」「けごん」「りょうもう」とかもですね。
兵庫の尼崎からスタートして京都府の福知山へ向かう路線、一見矛盾しているが、福知山は京都銀行発祥の地であり、明智光秀の経済圏である。
そのため大阪、京都からは距離を置かれ、なかなか近代化が出来なかった。
明智光秀は福知山では英雄であり、陰陽連絡線は福知山を経由しなければならなかった。
ファン目線ではおおくの気動車、客車が最後まで残った面白い路線であった。
103系は最初6両だったはずです。
6:27道場駅は、神戸市内に有りながら、新幹線新神戸駅からの乗り継ぎ運賃を取られます。
片福連絡線で福知山線が化け、福島界隈が活性化する事になります。
神戸市内(道場駅を除く)と
あったね。
ちょっと鉄道の話からは脱線しますが、同じ尼崎としてw
ロバのパン屋が、比較的長い間尼崎で生き残った要因として、園田競馬場の存在があります。
蹄鉄を履かせる事が出来たので。
尼港線懐かしいです。今は大半が住宅地に転用されてますが、バス走らせても良かったかも知れませんね。
ロバが荷車を牽くパン屋は日本全国にあったんですね。その名残が札幌に本社を置く「ロバパン」の社名になっています。現在はフジパンと業務提携で成り立っています。だけど私はロバパンは嫌いです。
@@nanalinnさん
実はロバパンとロバのパン屋は別系統なんです。
ロバパンは、石上商店さんで普通のパン。
ロバのパン屋は、株式会社ビタミンパン連鎖本部と言う会社の運営で、普通のパンでは無くて、いわゆる蒸しパンでした。
1972-1974にロバのパン屋が尼崎市内を歩いていました。あの歌が印象に残っています。ロバのパン屋はピンカラリン、園田競馬場ですか。懐かしいですね。父親が競馬好きだったのでよく連れて行かされました。父親は地方競馬、中央競馬両方やっていました。阪急梅田前の場外馬券場に何回連れて行かされたか。そのせいで競馬は嫌いです
ロバのパン屋は楽しいパン屋!
実際、ロバではなかったですもんね🎵
福知山線宝塚電化時に導入されたカナリアイエローの103系が6両だったのは、当時の国鉄が電動車2ユニットにこだわってたためだと思います。ローカル線では1ユニットでの運行はありましたが、本線系統では故障時に立ち往生させないために1ユニットでの運行には消極的でした。福知山線は優等列車が運行される路線だし東海道本線に乗り入れていますから、需要がないとわかってても6両にしたのでしょう。もっとも国鉄末期の財政難ですぐにそんなことを言ってられなくなりましたが。
丹後出身の私としては幼少期には急行「丹波6号」で旅行に出かけたことや、大人になってからは甲子園球場への行き帰りに丹波路快速や特急「北近畿」夜行急行「だいせん」などにお世話になった路線。あの事故の2日後も甲子園に行くのに利用する予定でしたが不通になっており宝塚で阪急に乗り換えた思い出があります。
優等列車の名称にはぜひ「丹波」を復活してほしいですね。
城崎温泉・豊岡行きは「こうのとり」
福知山行きは「丹波」とか。
丹波、だいせん すべて復活運転してほしいです。ついでにまつかぜも。。欲張りでしょうか
@@heitetsu4649 本当にそう思います。山陰本線の「あさしお」「丹後」も…
黄色の103系は投入当初は6連でした。
その後1ユニットを淀川に転属させて4連化されてますね。
おっしゃる通りです
福知山線が旧型客車の頃(1976年頃)、友達と大阪〜武田尾〜篠山口を堪能しました🚆
乗降口と最後尾が開放型なので、いろいろチャレンジしました(詳細は言えません笑)
旧客時代は趣きが有りました。
特にコンディションが良好な個体が多かった宮原所属車は。
12系時代も夏場はクーラーが効いたシートピッチが広い急行型でそれはそれで快適でした。
しかし城崎電化後に各地からかき集めて黄色く塗った113系初期車が来た時は閉口しました。
時間帯によっては2両や3両で非冷房車も混ざりシートピッチも狭く酷使されて流れついた個体はボロボロでした。
民営化直前だったとは言え赤字国鉄をアピールしなくても。
その割に無駄にトンネルは単線トンネルを新規に掘削していたりするんですけどね。
そう言えば電化開業記念に開業当日にEF65が牽引する団体臨時列車が客車で運転されました。
国鉄がメディアに広告費でカネを積んだのか在阪民放が記念列車をヘリコプターで空撮して生中継していました。
電化区間が中途半端であったり新三田以北の軌道は明らかに手抜き整備でしたし福知山線にELが入線する事自体が少なかったですね。
2006年頃に電化30周年記念列車が運転されましたがその時は牽引機関車がDD51ディーゼル機関車でこれはなんの皮肉だ?と感じたものです。
それがポンコツ経営の国鉄ですね。私も103の黄色の車両には唖然としました
福知山線色々ありすぎ
鉄道ビジネスカジュアル最高
宝塚電化時、当初の103系は6両編成だった。
かなり昔ですが福知山線も山陰本線と同様にDF50が引く客車でした。その後D D54D D51とかになりましたが大阪駅からよく乗りました。三田駅まで行きました。
旧客時代、開いたままの扉から転落する事故があったと聞いています。
大都市圏の鉄道としては、あまりにも時代に取り残されていましたが、ローカル度が半端なくかえって威風堂々という感じもしました。
嵯峨嵐山、宝塚から入り、亀岡、三田の手前で出る感じが似ている同じ渓谷でも、武庫川は、山陰本線の保津峡より地味で渋い感じがしますね。
トロッコを走らすなら、保津峡の方で正解と思います。
尼港線は、線路のへりの国鉄用地に沿線の住民が庭のように草花を植えたり、野菜畑にしていたような……。
和歌山から姫路まで、海側にちょこっと走る支線の一つでしたが、播但線の「飾磨港線」、高砂線と同じく消えましたね。
残っているのは、「和田岬線」、桜島線、「羽衣線」、紀勢本線に加え、関西空港線が新しく増えました。
ありがとうございます。福知山線の客車でデッキから淀川橋梁をわたるのはスリルがありました。嵯峨の方が古都の観光地としてトロッコ列車は確かふさわしいですね
7:20
一部宝塚線走っていたけどね。
尼崎支線の貴重な写真ありがとうございます。尼崎駅周辺には近年まで廃線跡も残っていましたが、区画整理で消失してしまい残念です。短い区間でしたので平成になってすぐの頃、尼崎から尼崎港まで廃線跡を歩きました。が、現役時代を知らないのでその時は金楽寺駅や尼崎港駅のイメージが掴めず、動画の写真を見て納得してしまいました。
時代が追い付いていればこの路線もドル箱路線になっていたのに、残念ですね。
長文失礼しました。
ありがとうございました。廃線跡が長洲あたりにしばらく空き地になって洗濯物などを干している場所に変わりました。現役の時はDD13が六両くらいの貨物を引っ張ってました。1500頃金楽寺駅を通過するのが楽しみでした。尼崎港駅は43号線の下あたりにあり、廃止前は新規にできた阪神高速の完全下にありました。見たのは何度も見たのですが結局乗らずじまいでした。
@@heitetsu4649 地元だといつでも乗れると油断しますよね(笑)それは残念でした。尼崎港駅は日通の建物なんですよね、その写真は見た事があります。木造平屋の駅舎は初見ですごく味があって良かったです。
福知山線全線電化完成の際登場した特急「北近畿」友人の間では正体不明の特急
113系800番代はカラーデザインがエグいので「エグ電」と揶揄してました。
なぜ今のように特急の名前も「こうのとり」にしなかったんでしょうね。
尼崎脱線事故で207系が突っ込んだマンション、居住者の家財道具搬出作業で入りましたが死亡者のうめき声も聞こえてましたよ。
父親が福知山鉄道学校を経て山陰線の
駅員をしてましたね、当時は福知山駅に
鉄道寮が有って大変賑わっていたとか
戦前の昭和10年頃の写真が残っています
生存していたら99歳です
尼崎港線、阪神尼崎乗り換え駅になってたらと当時思いました。
5:00カナリアイエローの103系とオレンジバーミリオンの103系の並びが関西でも見れたとは…
福知山線事故あとに車両が足りなくなりしばらくオレンジバーミリオンの車両が運用につきました
山陰新幹線(標準軌高速化路線)は、小浜駅ー舞鶴駅ー綾部駅ー福知山駅ー和田山駅 経由の方が良い気がしてきました。
尼崎港線、なんか哀愁感漂ってて良いですね~
もし多少でも遺構か何か残ってれば、辿ってみたいと思います(^^)
阪神尼崎車庫の近くに残ってましたよ
今は段々とその形跡は無くなりつつありますね。
住宅が昔の線路があった場所に建ってます。
阪神電車の尼崎車庫の東側にはまだ
線路だった形跡がありますよ
行ってみてください。
@@user-eg7pi3jm5v とあるサイトを参考に先日探索しました。JR塚口駅~阪神大物まで地図と照らし合わせながら歩きましたが、確かに跡地に住宅やら工場やらが建ってました。良い運動になり楽しかったです(^^)
@@Mekuyt65 さすがにもう駅のあとはないですが
私が小学生の時は旧国鉄が
良い日旅立ちの始発駅~終着駅
で乗車記念を出していたので
乗った記憶があります。
JR系列の、JR尼崎駅北NKビルの端に尼崎港線の記念碑のようなものがあったはずです。違っていたらすみません。
今の福知山線は篠山口〜尼崎までが複線です。
確かにアマは南北移動しづらいわ。
行き先によって鉄道会社変えるわな(大阪市民)
出屋敷から塚口へ行く場合は市バスしかなくトロトロ40分近くかかります。
北近畿ビッグXネットワーク
現在なら宝塚まで電車特定区間に組み込んでもよさそうですが、JRとしてはその予定はないんでしょうかね。
客車列車が走っていた時代。大阪駅からギリ乗り込み尼崎で先行普通に追いつき乗換え立花下車というのをやっておりました。尼港線の走っていたのも覚えています。廃線跡残っていますね。尼崎の駅の変化にはただただ驚くばかり潮江の商店街懐かしい
鉄道グループに投稿させて頂きます❗
福知山線は一度だけ乗ったことがあります♪確か当時は客車だったと思います(*´▽`*)
福知山線はJR宝塚線区間を除きローカル線感を感じる
谷川~福知山は特にそう感じます。