【三国志】実際に使われた三国時代の戦術・兵法・陣形を徹底解説
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- เผยแพร่เมื่อ 27 ก.พ. 2024
- 三国志時代には様々な兵法や陣形が取り入れられ、時代ごとにその考え方も変化していきました。
古代から春秋時代前期にかけては儒教的戦い方が重んじられた一方、
春秋時代後期から三国時代ではとにかく勝ちにこだわった奇襲や心理戦など、
何でもありの戦法へと切り替わっていきました。
孫武が著した「孫子の兵法書」や、諸葛亮(諸葛孔明)の八陣図、
また吉備真備によって日本に伝わった三国時代の陣形など、多方面から三国志の戦を解明します。
今まで以上に三国志が面白くなること間違いなし!ぜひ最後までお楽しみください!!
#三国志 #諸葛亮 #曹操
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1993年に発見された江蘇省東海県尹湾漢墓から「武庫永始四年兵車器集簿」が出土し、大漢王朝の東海郡の官軍兵器庫の基本配置が記録されている:
剣:99901、刀:156315
弩:537707、弓:77521
弩矢:11458424枚、弓矢:119316枚
その中で最も数が多いのは「六石萸張弩」で、漢代の重量単位「斤」は250グラムで、長さ単位「尺」は23.1センチのため、六石の引張力は180キロ、有効射程は200歩、現代で277.2メートルだった。木車と砂袋を組み合わせることで簡単に防御工事を構築し、騎兵の攻撃を阻止することができる。
兵書なら孫子、呉子、尉繚子、六韜、三略、司馬法、李衛公問対、孫臏兵法、三十六計、百戦奇略、奇門遁甲を持ってます。(奇門遁甲は兵書じゃない(笑))
読んでいて面白いのが李衛公問対かな。孫臏兵法は戦術に偏った感じかな。奇門遁甲はほぼ風水のノリですよ
あと兵書以外なら論語、管子、韓非子、孟子、便宜十六策、将苑、戦国策、貞観政要を持ってますね。欧州のものなら君主論と戦争論とかも持ってます。この中では韓非子と将苑と戦国策が面白かったかな。
では韓非子を少し書いてみるよ。
①『民信其相、下不能其上、主愛信之而弗能廃者、可亡也』(韓非子)
↑民が王ではなく大臣を信頼し、王もその大臣を信頼して辞めさせることが出来ない時は危ない。
②『大臣甚貴、偏党衆強、壅塞主断而重、擅国者、可亡也』(韓非子)
↑大臣の力が強く、またそれに従う徒党が多く、王が正しい判断を出来ないようにして、しかも権威を持ち、国を思うままに動かすような状況は危ない。
これ韓非子は諸葛亮のようなカリスマを発揮している臣は国家にとっては危険だと言ってるんですよね。
こんな感じで中々ドライな韓非子は読んでいて面白いのでオススメしますよ
あとは韓非子と将苑を読むと人の扱い方の比較が出来て面白いよ。(これ管理職の人なら査定をする時に役立つ。たぶんw)
陳舜臣の十八史略には白村江の戦いが出てくるんですが、十八史略にはデフォルトで書かれてるんですか?
それとも陳舜臣が追加したんでしょうか?
光栄の三国志Vでのあの陣形が、日本だけでの名前だったとは知らなかったです!
日本に伝わる孫子の兵法は曹操が注釈を加えて分かりやすくしたもの(いわゆる孟徳新書)らしいです。李衛公問対は唐代のものなので曹操さんは知らないでしょうね😅
はちもんきんさの陣が印象に残ってます
こっちから侵入すれば死、こっちか侵入すれば生
なぜ~? てなってました(笑)
孫氏には二つあるかと。斉孫子と呉孫子です。いずれも戦術に関するエピソードが残っています。
魚鱗とか錐行とか本当にそんな複雑な陣形使ってたんだろうか?
横陣とか縦陣くらいじゃないのかな。
後漢時代の各郡国は常備軍を廃止したが、徴兵制はまだ一部の郡国と一部が朝廷に支配されている地方で実行されている。
農民の暴動、盗賊、武装反乱が頻発しているため、「州刺史」は地方の軍事権力を握る軍閥になり始めた,各郡から軍を調度する権限を持っている。各郡の太守も「軍政事務」を同時に管理する職務に変化し、軍隊を出動させる権限を備え、朝廷の虎符は完全に制御力を失っていた。「軍隊出動」の流れは簡単になった。各郡の太守には虎符が残っているが。しかし、「出兵」という行為は璽書と詔書だけで行うことができ、朝廷の許可は必要ありません。漢末三国時代の諸侯統治下の各郡国の兵員の大部分は募兵に由来していたが、このような軍の戦力はかなり弱いと言える,臨時募集で来た軍事単位としか言いようがない。軍閥と諸侯の真の主力部隊は、実は豪族たちの「部曲」、「賓客」など私人性質を持つ私兵だった。これらの地方の豪族の部曲武装は、すべて無期限の職業兵士である。朝廷の統制を受けず、家族间私人的譲渡、世襲継承が可能な「家兵」、「世兵」になった。涼州、幽州などの軍閥武装には大量の刑徒兵や刑徒兵の子孫、そして烏桓、西羌などの異民族の私兵が含まれている。だから董卓の西涼軍には大量の西羌兵がいた。屯田兵は主に匈奴の守備に使われていたが、実際の規模は前漢に比べて非常に小さかった。
八卦の陣(八門遁甲の陣)は、八門も合わせて紹介すると尚良かったです。
三国志演義だと、徐庶のときに八門金鎖の陣が登場したんだっけか
北方騎馬民族との戦闘で部分は武霊王や李牧が代表人物になるのかな?武霊王が騎兵を導入に乗馬用の胡服を着た時は批判があっただろうし、李牧はその騎兵の対策を練ったことかな。
女子に弓矢を向けない→ 春秋時代に周の天子の妃が他の男と逃げたときにそれを追いかけた将軍が妃の美しさに槍を向けられなかったが、兵士に矢を射掛けるように命じて矢だらけにして死なせていたのは良いのか?
日本の武士は、元寇や刀伊の入寇の時によく外国の悪い部分に毒されなかったな
日本だと孫子の兵法が基本だよね
マニュアルという言葉はらしくないなぁ。それしかしっくりくるものが無かったかもしれないけど。
いちこめ
今の世は陣形も戦術も無く戦車や爆撃機を用いて爆破するだけの殺人に特化したものだからなぁ~。下手に川に船を浮かべようものなら戦車と爆撃機の餌食になるだけ。