名古屋周辺にあった7つの空港、飛行場 清洲、豊田、大府、尾張旭…港区には洋上の国際空港も
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- เผยแพร่เมื่อ 15 ธ.ค. 2024
- 現在、名古屋で空港といえば、中部国際空港セントレアや小牧にある名古屋飛行場を思い浮かばれるかと思います。しかしながら、過去、名古屋周辺にはそれ以外にも多くの飛行場がありました。
本当に名古屋周辺にそんなに飛行場があったの?と思われるかもしれませんが、今回は、過去名古屋周辺に存在していた、空港や飛行場について見ていきたいと思います。
戦前の名古屋にも、セントレアのように海の上に国際空港があったことや、この地方から出発した神風特攻隊があったなど、それぞれの飛行場に色んなドラマがありました。
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VOICEVOX:四国めたん
国土地理院 航空写真利用
この様な史跡が紹介されるのは嬉しいですね。この他にも県内には、半田の我妻川境川河口にも中島飛行機の短い飛行場の痕跡が残ってるし、河和には水上機用の滑りの跡が残ってます。地元でもわからない人が増えている様なので、少しでも記録が残されてゆくと良いですね。
ありがとうございます
港区なのに「空見町」
飛行機に乗って空を見る
だから空見町か〜
うん、ロマンチック❤
近所に空港があったことを最近知りましたが、ネットでも殆ど情報がなかったのでこのような動画はありがたいです。
清洲飛行場は終戦間際に軍に無理やり接収されたので、戦後払下げ(というか地主に戻された)てすぐに田んぼに戻されました。その名残で市街化調整区域に指定されてたので地形が分かりやすく残されました。あま市側はいま調整区域外されたので、IC目の前ということもあり大型倉庫が立ちまくってますね。
名鉄甚目寺駅の待避線や線路沿いの名鉄協商駐車場は飛行場建設の荷下ろし場の跡です。
本地ヶ原飛行場跡地近くに住んでるんで、戦前生まれの方及び戦時中兵役経験者の方から話は聞いていたが、滑走路は名古屋市守山区のサイクルベースあさひ四軒家店から尾張旭市のMARUWA本社あたりまでだが、敷地の西限は名古屋市守山区のエネオスエネジェット白山SSあたりまでだったと聞いてるが、しかもそれ知ったの俺が成人してからで小学生時代戦前生まれの学校長も知らなかった。さらに西側の四軒家フランテの駐輪場や森孝交番の下は暗渠になっていて、名古屋市守山区白山一丁目西端あたりは昔その暗渠の源流となる池だったらしく、あの団地とひまわり幼稚園あたりは池を埋め立てて宅地造成したとの事。敷地東端は不明。国道363号四軒家交差点~森孝新田白山交差点の間はかなりの急勾配で、愛知トヨタ晴丘店から瀬戸方面が長い下り坂になり、矢田川河川敷が迫ってくるんで平坦な場所を滑走路に使ってたんだろうね。
40年住んでいて知らなかったです。情報ありがとうございます。
半田市にも飛行場の跡地がありますね。
まだ当時の舗装が一部残っています。
今の安城市と岡崎市の境目にも明治航空基地・岡崎航空基地として戦中に突貫で作られた飛行場がありました。今の三菱自動車岡崎製作所やマルヤス工業などが滑走路跡地のようです。
あと半田市にも中島飛行機半田製作所内に滑走路があったとか。どちらも実働期間は1年に満たなかったようです。
なぜ、動画内容にないんだろ
三菱岡崎工場ちかくの升塚味噌の建物がその基地の建物の移築物だそうです。
桝塚味噌ですね。
戦時中、安城市橋目町周辺に海軍の飛行場がありました。
橋目霊園に碑が建ってます。
その近くの安城市尾崎町にある熊野神社には
予科練之碑があります。
その熊野神社は花見の穴場でもありますね。
解説ありがとうございました。名古屋市港区空見町。それが飛行場に関係あったとは💦💦
実家が北区でした。死んだ爺ちゃんが名城公園のことを、練兵場と呼んでましたが、飛行場の話ほ初耳です。
以前、大府近辺で仕事をしていた時に地元のお婆さんから
大府市の「上野台本通り線」とよばれる道路が、かつて飛行機の滑走路だったと聞いたことがある
実際この道を走ると果てしなく真っ直ぐなのが確認できる
あと、 飛行場ではないが野跡近辺の「永徳スリップ」にも思いを馳せてみたり…
(動画2:54にて確認できる)
豊橋の住民になる前は、豊田市に住んでいました。自宅が伊保原に有りましたので、飛行場の有ったことは知っています。何度か、飛行場跡で慰霊祭みたいなことを旧隊員の方の手で行われていたのを見たことがあります。確か、海軍の航空隊が有ったのだと思います。今は、その跡地が「少年刑務所」になっています。そこには、桜の木が沢山あり、4月になると家族でお花見に
出かけていましね。近くに、UFJ銀行の電算機センターもありましたね!
今回は勉強になりましたが飛行場があったとは知りませんで尚且つ特攻隊が出撃したとは驚きです。
全国各地の特攻隊の基地や跡地を回ったことがありますが身近にあったとは情けないです。もし海軍であれば九州の鹿屋あたりまで飛んでからの特攻だったのかも知れません。又はB29迎撃のための出動も考えられますが。
飛行場ではないですが、戦後名古屋と新舞子を結ぶ水上飛行機路線があったようです。当時新舞子は名古屋の裕福な方々に別荘保養地として人気があったようです。
大昔子供の頃新舞子付近でワタリガニ漁を船でやったことがありますが当時は四阿を構えた別荘らしき家がありました。特に知多は繊維産業が発達していましたのでその関係者の別荘?がありそこにお世話になりました。新舞子は神戸の舞子に”新”を冠したものです。
めちゃくちゃ面白かったです
常滑沖にセントレアが決定する前に鈴鹿沖と共に金城ふ頭も空港の候補地であった
明治基地(安城市)も忘れないで下さい。
琵琶湖零戦の出撃地です。>現在呉に存在してます。
生成aiの画像ない方が素敵
努力いたします
北郵便局の前の道路を地元の方々が防衛道路と呼んでましたよ、空港じゃなくて戦時中に作られた滑走路だとか。
安城市の東端町にも軍の飛行場が、有りました❗️
明治生まれの祖父が陸軍で飛行機整備をしていました。地元各務原をはじめ立川、大阪などで勤務していました。ここには紹介されていないようですが、昭和初期に 知多半島の 新舞子で 水陸両用機の 試験をしたり パラシュート降下の 訓練を一般公開しながら 行っていたようで 海水浴客が それを見ている写真が 我が家に残っています。 また名古屋港野跡の 現・稲永スポーツセンター近くの 愛知時計の工場で 水陸両用機を作って 藤前干潟の方へ 進水させていた 「永徳スリップ」と呼ばれる遺構が残っています。ここは勤労動員されていた伯母が 爆死した場所ですが、このあたりでも 訓練を行っていたみたいです。
貴重なお写真ですね
大府飛行場は戦後もしばらくは中日新聞が航空取材用飛行機が利用していました。
大府は今は豊田自動織機長草工場ですね
そこのふもとにある会社に弟が勤めています
織機とは無関係のただの近所ですが
安城市東端町や半田市にも中島飛行機と滑走路が有りました、海軍の戦闘機が飛び立ってたと思います、工場や滑走路が有ったから半田市は知られてないですが大空襲が有りました。
本地が原基地の話は長久手出身の祖母から聞いていました。場所がどこかわからなかったのですが、まさか自分がよく使う363号が滑走路だったとは、、、、
他には、新舞子の辺りに旧海軍の水上飛行場跡があったりする
そこからは今ではセントレアから飛びたつ旅客機が見れる
安城には明治航空基地があり、紫電とか月光とかが飛び立っていったらしいです
現在では、弾薬庫が老人ホームの敷地内にあります
また、当時のバンカーと思われる構造物が近くの田んぼにあります
気になる人は行ってみてね
本地ヶ原飛行場はR363でなく、小学校のすぐ南の道路です(※自分も同じ勘違いをしていました)。当時の人に話を聞いたら零戦みたいなでっかい飛行機は到底無理な小さな飛行場だったとか(※零戦が大きいとの表現でびっくり)。小学校横あたりに当時のバンカーがあり、しばらくは中に商店が出来たりしていたのですが残念ながら建物その物が焼失してしまいました。
戦争末期に友人のお爺さんが大府飛行場に飛来する敵機を見に行ったら、グラマンに銃撃されたという話を聞いたことがあります。土手の陰に伏せて無事だったそう。
安城の明治飛行場跡地には、飛行機を入れてたコンクリのバンカーがいくつか残っていますね
❌神風(カミカゼ)特攻隊
⭕️神風(シンプウ)特攻隊
来年、2025年は戦後80年の節目になります。
散華された英霊には、敬意をもって対応したいものです。
PS:終戦80年の節目に「大東亜戦争」→「太平洋戦争」と呼称される様になった理由を振り返るきっかけにしたいと思っております。
M15年に生まれた祖母は、いつも大東亜戦争と言っておりました。
大府出身の愛知県住みですが、大府飛行場なんて学校では教わりませんでしたね...
自分の地元にも飛行場があって(今はもう開発されて痕跡すらない)
知多常滑に工場群を拡げて、遠すぎる中部空港でなく空見町の滑走路を空港として拡大すればよかったのに(笑)
だよね😂
それであおなみ線でアクセスもいいわで😂
@ その場合はそもそもあおなみ線にならずに岐阜方面や長野方面から枇杷島経由で名古屋通ってJRが金城埠頭まで通っていただろうなと
@@Asaky-v 本当にそうなってたら良かったとつくづく思いますわ😅…セントレア遠すぎるんよ😅
名古屋城が、空襲で狙われてたの、飛行場があったからもしれない。すごく残念
戦後この航空機を作る技術が失われたのが嘆かわしい
さすが三菱と愛知時計の地元だけありますね。地元豊橋にも海軍の航空隊があり、今も海軍橋という地名があります。ここを狙って艦載機が襲来して機銃掃射を行うのが空襲よりも怖かったとなくなった母親が言っていました。
大崎には艦載機発着の練習用の飛行場が、大清水にも飛行場らしきものがあったような記憶がある。
豊橋の飛行場も三河湾を埋め立てた海上の飛行場です。昭和50年代跡地にトピー工業の製鉄所だけが有りました。荒れた広い土地は日曜日に多くのラジコンマニアが飛行機を飛ばしていました。その後周辺も埋め立てられて明海町として多くの工場が建ちました。その後対岸の田原町(市)にトヨタ自動車の工場が建てられ岸壁では巨大な自動車運搬船が見られました。
名鉄瀬戸線小幡喜多山間にも飛行学校がありしたよ
末期には小幡緑地に丸太のダミー高射砲が設置されているのを目撃して負けるんだなと思ったという話を聞きました