This program is excellent, Great satellite pictures and super aerial photos. Really appreciate the team for providing the excellent virtual "being there experience" to all the virewers, it gave us lots of insights on why Suwa Katsuyori chose that site to build the final castle for glorious Takeda clan.
動画upありがとうございます。
武田築城術を集大成した城に、戦わずして、自ら火を放たざるを得なかった勝頼。そして北条夫人の健気な願文、切ないですね。悲
夫人の願文、後世の作との説もあるようですね。本人のものだと思いたいですね。
@@yamajiro そうあって欲しいです!
雄大な七里岩と河川を利用した壮大な縄張り。大軍が籠れば織田と言えども簡単には落とせないだろうけど、肝心の民心が離れてしまっては、ただ虚しく広いだけ。勝頼の心中察すると切ない。
人は石垣、人は城
人の力を頼みとしていた父信玄との違いが面白いですね。勝頼の苦境は信玄のせいでもありますが😅
武田勝頼は自分が歴史に興味を抱き、歴史オタになるきっかけとなった武将でとても思い入れがあります。10年近く前になりますが、新府城跡を訪ねた際に丸馬出し・三日月堀を直に見た時はとても感動したのを思い出しました。素晴らしい動画でした!!
今回の新府城はコロナの前に行きました。アクセスしやすくて城址も広く、樹木もあまり無くて見やすい場所です。武田氏の没落過程の城として、胸が熱くなります。それにしても良く解説されて改めて勉強になります!
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
3月11日は東日本大震災の日だが勝頼の命日でもあり新府城から武田八幡宮、躑躅ヶ崎館、恵林寺、駒飼宿、笹子峠(冬季通行止のため手前まで)、景徳院、栖雲寺まで勝頼一行の逃避行の道を巡って来ました。あの広い甲府盆地が勝沼を越えると急に前方と両側に山が立ち塞がり今の僕にさえ胸に迫るものがあるのに勝頼一行の気持ちは如何ばかりだったのか。19歳の勝頼夫人はどれほど心ぼそい気持ちでいたのか。一行のご冥福を祈ってきました。
コメントありがとうございます。良いことをされましたね。信勝もあの若さで何を思っていたのでしょうか。
私は大善寺に行けなかったので、また機会があれば行こうかと思っています。
自分も時間配分を間違え大善寺は行けませんでした。日を改め雲峰寺や岩殿城も一緒に回って来たいと思います。
完璧な内容です。新府城の動画決定版と思います!自分もこれくらいのを作れればと猛省してしまいました。
恥ずかしくて恐縮ですが、堀切さんにお褒めいただけるとは、光栄です。ありがとうございます。堀切さんの新府城も拝見させていただいてますよ。ドローン映像、季節もよく富士山の景色も含め最高ですね!
聞きやすい解説をありがとう御座います!
こちらこそご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
私個人としては武田氏、一国の滅亡は一君主個人の無能にあると言うより、
実は先代の武田信玄の時より徐々に武田氏に組織的な問題が存在しはじめていたのだがそれについて
信玄の戦争による勝利のカリスマ性によりそれを問題にしなかったため改善なされなかったことに問題を感じます。
武田氏は家臣団と君主が旧来の鎌倉的な利害関係に依存しており、利が少なくなると離反しやすかったのではないかと思います。
つまり他国へ侵略し、利益を得るスタイルは武田氏が攻勢に出てる時は非常に良かったのですが守りになると非常に脆い。
その弱点を勝頼は補おうとしていたのではないかと感じます。様々な負の遺産が勝頼に引き継がれた経緯があるように思えます。
ですから勝頼個人が無能であるのではなく、武田氏の組織的な欠陥を最後まで改善できなかった武田氏の敗北と言えると思います。
同意です。
武田家に限らず当時の多くの大名主家は「旗印」で、主家の実力や直轄領が部将(各地域の小領主)と比べて格段に大きいわけではありません。主家に求心力が無くなれば瓦解しやすい構造でした。ほとんどが下剋上で成り上がった家ですから家系による求心力は期待できないので、何代にも渡る支配力保持は至難だったでしょう。
早雲→氏綱→氏康と名将が三代続いた北条家は非常に幸運な例ですが、大内、尼子、大友、芦名などは急速に衰退。上杉家は内乱。竜造寺家は主権を鍋島家に移譲してしまいます。
その点でいえば勝頼は信玄死後も一時的に領土を拡大するなど、むしろ有能な方であったと思います。
その他に武田家が内包していた弱点といえば、領内人口の少なさがあげられるでしょう。
天下を握った徳川家の有能な家臣が「十二神将」なのに、甲信駿他しか支配できなかった武田家は二十四将(信玄本人や兄弟、子なども含むので実際は二十人ほど)もいます。
これは狭い地域内にもかかわらず武田家以外の小領主の数が多かったことの証であり、それだけの小領主(部将)を集めなければ他国へ進出可能な軍編成ができないほど、主家と部将家それぞれの動員可能数が少なかった。つまり武田領内にはその程度の人口しかいなかったと考えられます。
そのため武田軍は最大動員でも4~5万程度の「少数精鋭軍」とならざるを得ず、織田/徳川による多方面からの同時侵攻に対応できなかったのです。
もし勝頼が織田/徳川の同時侵攻にも動じず、川中島戦で「信玄が(妻女山の上杉軍を無視して)このまま春日山を攻めるなら、我らは無人の甲斐に攻め入るまで」と言った謙信のような不敵さを持っていたら、戦況は変わっていたかもしれませんね。
どちらのご解説もなるほどーと納得が行きました。
This program is excellent, Great satellite pictures and super aerial photos.
Really appreciate the team for providing the excellent virtual "being there experience" to all the virewers, it gave us lots of insights on why Suwa Katsuyori chose that site to build the final castle for glorious Takeda clan.
美しい映像と共に詳しく解説してくださり感謝の極みです。
自分が八王子から電車に乗って諏訪に遊びに行く途中、こんなお城のそばを通ってたんですね。
全然知らずにいました。
電車は台地の上を通ってしまっているんですね、どおりで崖のこと今まで知らずにいた訳だ。
いつもご視聴ありがとうございます。調べてみたら新府城のところだけ線路が迂回して離れていってますね。七里岩の下からの景色は圧巻ですよ。機会があれば見てみてください。
いつも楽しみに拝見してます。
ありがとうございます‼️
技術の粋を集めて普請したことがよくわかります。
が…駆り出された人夫も、武士も足軽もやはり人間。人は城、人は石垣の例えどおりになってしまったことには悲しいものを感じました。
浅間山の噴火が戦局に影響した可能性への言及と、勝頼夫人が立て膝で描かれている姿を見るのは初めてで、「麒麟がくる」の帰蝶を思いだしました。
次回も期待してます‼️
コロナ前に武田家巡りで山梨県と長野県行ってきました。
武田館は観光客が沢山居ましたが、新府城は本当の戦国好きしか行かないから人居なかった(笑)
やはり武田の城と言えば躑躅ヶ崎館で、仰る通り、かなりのマニアでないと知らないのではないでしょうか。
感動しました。
よく調べられているな〜という感激と共に。
勝頼さんもとい武田一門もこの動画に対して有り難く感じ、感謝しているでしょう。
ありがとう御座いました😊
こちらこそ過分なお言葉をいただき、ありがとうございます。少しでも参考になることがあるようでしたらうれしいです。また時間があればチャンネルに遊びに来てくださいね。
去年の12月24日(勝頼入場の日)に見学しました。遺構の発掘も盛んなようで整備されてて、見ごたえありましたね~
階段がやっぱりしんどかったけどw
とても分かりやすく興味をそそられました。アップもとても上手いです。又別の作品お願いします。
自分は地元大阪なのでイジって欲しいです。松永久秀弾正公由縁の生駒山の信貴山城や多聞も渋いですよ。
たくさんあるので辞めときます。
城構えから考えて北条氏の小田原城のように、最終的にここを防衛ラインとして運用すれば
敵が兵糧などの補給の問題で撤退まで持ちこたえられるという計算で作ったのでしょうが
時間が無かった。そして、この城の労役を急ぎすぎたために民の反感を買うことに・・・・・
しかしこの新府城の遺構に籠城して天正壬午の乱で北条軍を撃ち破った徳川家康が天下を獲ることになろうとは皮肉ですね。徳川家康は8000の兵で籠城し数万の北条と戦ったことから仮に勝頼に8000くらいの兵が残ってたら織田軍に一泡吹かせる可能性は十分にあったかと。
城自体の基本的構想や規模と構造は近世城郭に遜色ないものだと思います。付近からは石材も豊富に採れそうなので、時間をかけて総石垣にでもしたらさぞかし名城になったことでしょう。
ただ、領国経営を見据えた場合は、場所選定が適切であったかは疑問です。安土や大坂のように急激に成長できるような恵まれた立地ではないと思います。徳川家が江戸という都市を育てるのに何年もかけたように時間的余裕があれば「武田家の首都」となり得たかのもしれませんが。
旧武田領争奪戦では徳川が新府城で諏訪方面から南下する北条の大軍を足止めして、甲州支配を確立しました。城としての防御機能はそれなりにあったと思われます。
しかしそれは甲斐中央にあった徳川本軍が援軍(後詰め)の役割を担ったからであり、どんな堅城でも後詰めが無いと最終的には負けてしまう(高天神、小田原、小谷城の様に)
勝頼の為を思うなら、新府を捨てるのは正解としても、北条に近い岩殿でなく、上杉の援軍を期待できる上州の真田を頼った方がまだ何とかなったのではと思ってしまいます。
本当にそう思いますね。岩殿ではなく、岩櫃山に行っていたら・・・。でもミッドウェーで沈められていなかったらと同じで、結局滅んでしまったかもとも思ってしまいます。
ドローンによる上空からの映像で城の全容が見られて良いですね、解説もグー!
本丸に向けて車道を作って大切な遺構を破壊した事は誠に残念です、、
車道、本当に残念ですね。これ以上壊されないようにしてほしいですね。
能見城は以前まで武田勝頼によって築かれたとされていたものの、発掘調査から天正壬午の乱の際に後北条氏と対峙した徳川勢によって築かれたと見られるようになったと聞きましたが、どうなのでしょうね。
仰る点は、私も気になって調べたのですが、勝頼が作ったものを、徳川が手を入れているという可能性が高いのではということでここでは勝頼が作ったことで説明しました。
武田、真田がからむ城は、河岸段丘の崖の城が多いですね。新府城で最期を向かえて欲しかったですね。
ご視聴ありがとうございます。新府城で最後をという事ですが、次回作で信勝が主張します。またよろしければご覧ください。
新プジョーは面白いところですかね
畿内の赤坂城のように霊験あらたかでしょうか
昔出張の合間に駅でチャリレンタルして行った覚えがあるけど何もなくてびっくりした記憶
解説みると色々残ってるんですね
ご視聴ありがとうございます。新府城は韮崎市さんが結構力を入れて整備しているようですね。
組織的に時代の変化に追いつかなかったというのは武田という勢力にはそこが限界だったんでしょうね 鉄砲があっても撃つための弾や火薬になる硝石が堺から遠いので入手困難では鉄砲隊の精度も上がらず弾幕を張るような戦いもできず うまく戦国を生き抜いた上杉家のように残ってもらいたかった この城も復元もっとしてくれて観光地にしてもらいたい
やはり、上杉と今川と同盟を結ぶのがベスト。武田、上杉、今川、北条が同盟を組み、織田、徳川と対抗すれば、織田が東進できなかったはず。ということは、義信公が戦略的に正しいことになるんだよね。義信事件はやはり、第4次川中島の戦いと同様に武田にとって大きな痛手だった。
@@室井修-k1r さん
ただし信長はこの
上杉ー武田、今川ー北条
ラインの更に後ろに
佐竹ー伊達ー最上
と言う包囲網を敷く事で武田義信構想を機能不全に陥らせたと思われます。
現に氏真は将としては失格も良いところでせいぜい足利将軍との折衝役にしか使えず
上杉には伊達が
北条には佐竹が
それぞれ背後から攻撃して無力化していたでしょうね。
現に上杉謙信でさえ、手取川で織田軍に大勝したにも関わらず、伊達輝宗が越後侵攻を企て、更に北条氏政が呼応して上野の上杉軍に攻めかかっている
と言う知らせを聞くと即座に軍を撤退させてますからね。
@@古家武史-f5d 佐竹は北条で十分だし、伊達は芦名家がこの頃にあるので、芦名と連携すればいいし、最上は伊達と仲が悪いので、味方に引き入れることができる。なので、東北はそれほど脅威にはならない。ただ伊達政宗が出てくると面倒なことにはなるが。
もうちと早く新府城が完成していれば武田は滅亡しなかったかもですね
新府城の築城が高天神が落ちた後だからあまりにも遅かった。
新府城が築城されても武田の旧態依然とした豪族連合と織田徳川との兵力差では厳しかったんじゃないですかね
認識以上に先進的な名城ですね、求心力の低下が一気に来ており、一門衆(特に穴山)の裏切りと、信長、徳川、北条の経済封鎖も影響を及ぼしている一方で勝頼自身の認識は概ね正しいが故に無理が目立ち、歴史の歯車を強く感じてしまう武将です。
信玄が義信を殺さなければ、勝頼の立場も変わっていたような気がします。勝頼一人の力量ではどうしようもない状態だったのではないでしょうか。
2:39 ???「富士や浅間の山が火でも噴かぬ限り、武田お家は安泰でございます」
何かおかしかったですか? 噴火した画像ではないという事?
@@yamajiro さん
すみません、真田丸のネタです^^;
了解しました。?があったので、何か間違えたかと思いました。これ、今でもたまにTH-camの動画でこの切り取り見ますよ(笑)。草刈正雄のやつですよね?@@katsumaro_games
突然のご連絡失礼いたします。私「所さんお届けモノです!」というテレビ番組を制作しております。ジャンプコーポレーション余田と申します。「所さんお届けモノです!」で現在七里岩を取り上げさせていただいており、七里岩の資料映像といたしましてこちらの映像を借用させていただきたいのですが、こちら借用は可能でしょうか。突然のご連絡で大変恐縮ですが、ご検討よろしくお願い申し上げます。
七里岩の台地の高低差、見てるだけでゾクゾクしますね。織田勢の侵攻により滅ぼされた勝頼ですが、武田家を滅ぼして有頂天の信長が数か月後には家臣の裏切りで死ぬので、道連れにしていったとも言えるかなと・・・😇。
あと少し持ちこたえていればとか、岩殿城ではなく、岩櫃城に行っていればとか、後世の人間は思ってしまいますね。
新しい城って丘陵や大地の端に造られるんだよね。
大坂城、明石城、江戸城・・・。その先駆けかな。
地中レーダー探査?なんてあるんですね!😮
今まで、躑躅ヶ崎に居館を構えて、「攻められることがない」って考えから、一気に防御に特化した設備を建築したのは、消極的な第一歩に感じます。
近年、勝頼の両国経営等が再評価されてますが、新府城の建築そのものや、高天神の見殺し、家臣の離反など、あまり良いイメージは抱けませんね…
武田の城ネットワークを、まとめた動画も見てみたいです!
城それぞれの動画もとても面白いですが、それぞれが併設、助け合うことでどんなネットワークになるのか?
※琵琶湖の4城みたいな
考古学では結構使っていて、堀があるかどうかとか、掘らずにザックリとわかるようですよ。次の次で武田の城の総集編を考えていますが、ネットワークにまで踏み込めるか、でもそうした視点も意識して作ってみようと思います。琵琶湖4城はいい脚本というか、研究成果を使わせていただけたので出来たんですよ。自分の能力だけでは無理なので、武田の城もそういうものがあればいいんですが。
新府城武家屋敷が穴山、山県、真田(隠岐守→信尹?)以外は勝頼側近ばかり優先して建築という、確執が深刻だった感が…→一条信龍とか武田逍遙軒とかの重臣・一門がない
「全領地動員、武田の近習が各国衆領地の棟別・人足改の帳簿作成する、諸役免除されてる軍役(兵士)達も人足用の水と食料用意しろ、家十間(約5,6坪?畳12畳?)につき一人徴発、動員日数が30日(武田氏の人足役のほぼ1年分の勤務日数)の臨時役である」という昌幸書状から見るに、滅茶苦茶過酷で見返りの税の免除0。築城してる最中高天神城見殺し…
穴山梅雪や木曾義昌らが寝返るのも無理はないし、信濃から攻めてくる読みが梅雪寝返り=駿河がら空きで全て狂ってしまったんだなって思う
勝頼は柔軟で優秀だけど四天王は老害だったな
あと信玄がやらかした戦犯や負の遺産を勝頼は全て背負わせれたな
信玄が神格化され過ぎた分、勝頼は相対的に低い評価にされている気がしますね。
人は石垣、人は城
巨大な城も人がいなければ役に立たないということですね。
城が未完ということもあるでしょうが、十分な兵力がないのが城を捨てた理由でしょう。
兵士の士気が低ければ、どんな城も守り切れないでしょうね。
ドローンから観る風景は富士山も眺められて、雄大ですね。とはいっても濃尾平野や琵琶湖の交通の良さには敵いません。土の城の集大成だが、石の城を発達させるようには進化できなかったのですね。他の皆さんのコメントも拝読して、あまりに強すぎたために、中世前半の社会に適応し過ぎたために次の時代に残れなかった悲哀を感じました。勝頼は不憫だが、歴史の必然なのかなぁ。それにしても家康いじめられ過ぎ!
勝頼は戦は強かったけど、人の気持ちが分からなかった。
信長と和議を結ぼうなどとは甘く考えすぎの愚か者、駄目だ負けより🙅♂️