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詳細な情報、踏み込んだ推論でそれぞれの当事者たちの緊迫した状況、心情が手に取るように解り、千年以上も昔のことなのに正に今その光景を眼の前に見ているような胸の高鳴りを覚えました。天智天皇と運命を共にした倭姫皇后やお妃たちの思い、、、その人たちの思いにまた思いを馳せる持統天皇や柿本人麻呂の心、、、 こんなに感動したのは初めてです。「女たちの壬申の乱」早速読ませていただこうと思います。
詳細な情報、踏み込んだ推論を知りたければ、古田武彦氏の2012年の著作『壬申大乱』をお読み下さい。日本書紀に天武によって書かれた壬申の乱がいかにでたらめな記述かを、読まれた歌の季節や場所や軍馬の考察から極めて詳細に論破してみえます。
素晴らしい講演でした。まさに日本史のロマンでした。ありがとうございました。
大海人王子の生年月日が不詳なのは何故でしょうか。正統な皇統継承者の生年月日が不詳はありえない。天武が自分に都合よく編纂した記紀からだけ古代史を考察するのは馬鹿げている。
今年は、万葉集、壬申の乱、ブラームスが私のブーム、朝のストレッチの時間、これをいつも聞いています。万葉集の本ど一緒に女たちの壬申の乱の本、Kinokuniya USA にオーダーしました。奈良県最高。来年の夏、出雲、広島の後に行く予定。ヤマトのDNA が魂の奥底にあるのを感じます。ありがとうございます。
水谷先生、壬申の乱、
額田王は近江の出身か、そうでなくともなにか縁があったように記憶しています。娘と孫を伴って近江朝を去る時の心情はいかがだったろう。水谷先生が万葉集に着目されて壬申の乱を解説しているのは素晴らしい。巻一には、作者を中大兄とだけ記す歌があったと思う。持統天皇でないと天智天皇のことをそんなふうに書けません。
壬申の乱で劣勢であった天武は、白村江の戦いで勝った唐から派遣されていた占領軍の支援を得て天智側に勝っている。そして在位わずか14年で唐式律令制を取り入れてそれまでの各地の豪族で成り立っていた日本を天皇一極の中央集権国家に作り替えた。つまり絶大な権力がバックにあったと言う事を示している。天武が天皇になったということはマッカーサーが天皇になったようなものだった。日本史の謎は白村江の戦いにあります。そこでだれとだれが戦い、誰が滅ぼされたのか。それは天武以前の皇統が滅亡し古代史を背乗りされたという事です。
古田武彦氏が 2012年に著作『壬申大乱』で、日本書紀に天武によって書かれた壬申の乱がいかにでたらめな記述かを、読まれた歌の季節や場所や軍馬の考察から極めて詳細に論破してみえます。
「あしやドーマン」を出版しました。三重県、石川県、広島県立図書館に蔵書あり。
いつもありがとうございます平和昔の出来事勝てばかんぐんーびわこのーひげじんじやおとめがいけまでにげたとか?
古墳から馬具が出土されています。
天皇号の成立, 飛鳥浄御原宮造営, 天皇権威の創成,部民制の廃止, 中央官制の整備, 飛鳥浄御原令の編纂, 八色の姓と新冠位制定, 歴史書編纂と日本語の表記などがあり, まだ完成からはほど遠いとしても, 少なくとも『日本書記』や『古事記』の編纂が企画されたのもその治世であった。 これだけの変革を僅か14年の在位で成し遂げたのはありえない。一人の聡明な天皇が行った偉業としてではなく、そこで支配層の変革があったと考える方がむしろ自然。
天皇系図では、天武は天智天皇の弟になっているが、天智より年上で赤の他人だ。皇后の持統天皇も天智の娘になっているが、持統天皇は即位前の名を鸕野讃良皇女といい 鯛野讃良は「天智紀」の古注に娑羅々皇女とあり、「讃良」や「娑羅々」は新羅を意味する。 つまり天武天皇と皇后は白村江の戦いで戦った敵国である唐と新羅のシンパ夫妻である。白村江の戦い自体国内に裏切りがあって負けたとも考えられているので、当初から敵国である唐と通じた人物だったのかもしれない。 天武天皇は唐の捕虜だったとも言われており、唐の高級役人だった可能性が高い。天智と違って唐の言葉も自由に会話できたのだろう。唐の高宗の真似をして 大王から天皇へ称するようになった。
あれ、こんなに短い時間でこんなに長い距離を子供連れで回れるものですかね?馬に乗るのは、ずーっと後なのに、現在でも厳しい思います。日本書紀の天智天皇記、天武天皇記を読むと300キロ以上歩きますが ?
聖徳太子の時代には馬に乗っていたと思う。斑鳩から飛鳥への古道のひとつの途中に馬見丘陵があり、聖徳太子が馬に乗って国を見たから「馬見」と呼ぶようになったと地元の人から聞いた。
@@sigmasns かに😢
何故、皇位継承上の乱が発生したのか? 多数の方が疑問に持つ案件であり、計画的であったのは了解でき、発生原因を研究者の意見を拝聴したし。
なんで殺し合いの歴史が、ロマンに満ちているのですか
アタオカ😅
くだらけいと しらぎけ じゅうみん
二十日あまりのたたかいと
いわゆる「半島南部」は倭人が多く住んでいて共通語も倭語だったんでしょうね😅藤原氏の前身中臣氏は、金官伽耶国の王だったらしいですが、任那復興会議から後々半島系「源平籐橘」の覇権争いになって行くのでしょうか?😢
天武とは何者か。 白村江の多胎で勝った唐から占領軍として列島へやってきた郭務悰の支援を受けて 正統な天智天皇から皇位を簒奪し政権を握り、唐風律令制度を唐の絶大な権力を背景に僅か14年の短期間の在位で大改革を成し遂げた。つまりマッカーサーが天皇になったようなものだった。 そこで国津神の神話が天孫族の神話に脚色され背乗りされた。 記紀の基本の思想性は、“天皇家の侵略支配“という、「原罪」の完全削除だ。 『記・紀』の根本の思想性は、「殺戮の血も、神意の実行である限り、浄化され、罪となり得ない」この一点につきる。 つまり勝つためには手段を選ばず。これは古来よりの我が国の思想ではない。 皇室の基礎を作ったのは天武天皇だ。天孫族の物語は記紀で伝えられ、記紀以外の古書伝承は抹殺された。 何故皇祖であるなら皇祖を伝える神代文字まで抹消するのか。 そこに歴史の欺瞞があるからに他ならない。
天智天皇が亡くなってこのままでは自分たちが殺されと出家を止めて立ち上がった?なんと勝手な理由で皇統を簒奪したのでしょうか。全く理不尽な話ですね。
この方本当に先生?高速もない時代に長距離を姫、女官、輿担ぎ、数十人が山越できる訳ないでしょう。もっと日本書紀を調べて人前で喋りましょう。
壬申の乱の現実的な行程とはおもえないです。この古代史塾チャンネルの説の方が説得力があるとおもいませんか?阿波古代史講座 第15回・前編、阿波古代史講座 第16回・後編
詳細な情報、踏み込んだ推論でそれぞれの当事者たちの緊迫した状況、心情が手に取るように解り、
千年以上も昔のことなのに正に今その光景を眼の前に見ているような胸の高鳴りを覚えました。
天智天皇と運命を共にした倭姫皇后やお妃たちの思い、、、
その人たちの思いにまた思いを馳せる持統天皇や柿本人麻呂の心、、、
こんなに感動したのは初めてです。
「女たちの壬申の乱」早速読ませていただこうと思います。
詳細な情報、踏み込んだ推論を知りたければ、古田武彦氏の2012年の著作『壬申大乱』をお読み下さい。
日本書紀に天武によって書かれた壬申の乱がいかにでたらめな記述かを、読まれた歌の季節や場所や軍馬の考察から極めて詳細に論破してみえます。
素晴らしい講演でした。まさに日本史のロマンでした。ありがとうございました。
大海人王子の生年月日が不詳なのは何故でしょうか。
正統な皇統継承者の生年月日が不詳はありえない。
天武が自分に都合よく編纂した記紀からだけ古代史を考察するのは馬鹿げている。
今年は、万葉集、壬申の乱、ブラームスが私のブーム、朝のストレッチの時間、これをいつも聞いています。万葉集の本ど一緒に女たちの壬申の乱の本、Kinokuniya USA にオーダーしました。奈良県最高。来年の夏、出雲、広島の後に行く予定。ヤマトのDNA が魂の奥底にあるのを感じます。ありがとうございます。
水谷先生、壬申の乱、
額田王は近江の出身か、そうでなくともなにか縁があったように記憶しています。
娘と孫を伴って近江朝を去る時の心情はいかがだったろう。
水谷先生が万葉集に着目されて壬申の乱を解説しているのは素晴らしい。
巻一には、作者を中大兄とだけ記す歌があったと思う。
持統天皇でないと天智天皇のことをそんなふうに書けません。
壬申の乱で劣勢であった天武は、
白村江の戦いで勝った唐から派遣されていた占領軍の支援を得て天智側に勝っている。
そして在位わずか14年で唐式律令制を取り入れてそれまでの各地の豪族で成り立っていた日本を天皇一極の中央集権国家に作り替えた。
つまり絶大な権力がバックにあったと言う事を示している。
天武が天皇になったということはマッカーサーが天皇になったようなものだった。
日本史の謎は白村江の戦いにあります。そこでだれとだれが戦い、誰が滅ぼされたのか。
それは天武以前の皇統が滅亡し古代史を背乗りされたという事です。
古田武彦氏が 2012年に著作『壬申大乱』で、日本書紀に天武によって書かれた壬申の乱がいかにでたらめな記述かを、読まれた歌の季節や場所や軍馬の考察から極めて詳細に論破してみえます。
「あしやドーマン」を出版しました。三重県、石川県、広島県立図書館に蔵書あり。
いつもありがとうございます平和昔の出来事勝てばかんぐんーびわこのーひげじんじやおとめがいけまでにげたとか?
古墳から馬具が出土されています。
天皇号の成立, 飛鳥浄御原宮造営, 天皇権威の創成,部民制の廃止, 中央官制の整備, 飛鳥浄御原令の編纂, 八色の姓と新冠位制定, 歴史書編纂と日本語の表記などがあり, まだ完成からはほど遠いとしても, 少なくとも『日本書記』や『古事記』の編纂が企画されたのもその治世であった。
これだけの変革を僅か14年の在位で成し遂げたのはありえない。一人の聡明な天皇が行った偉業としてではなく、そこで支配層の変革があったと考える方がむしろ自然。
天皇系図では、天武は天智天皇の弟になっているが、天智より年上で赤の他人だ。皇后の持統天皇も天智の娘になっているが、持統天皇は即位前の名を鸕野讃良皇女といい 鯛野讃良は「天智紀」の古注に娑羅々皇女とあり、「讃良」や「娑羅々」は新羅を意味する。 つまり天武天皇と皇后は白村江の戦いで戦った敵国である唐と新羅のシンパ夫妻である。白村江の戦い自体国内に裏切りがあって負けたとも考えられているので、当初から敵国である唐と通じた人物だったのかもしれない。
天武天皇は唐の捕虜だったとも言われており、唐の高級役人だった可能性が高い。天智と違って唐の言葉も自由に会話できたのだろう。唐の高宗の真似をして 大王から天皇へ称するようになった。
あれ、こんなに短い時間でこんなに長い距離を子供連れで回れるものですかね?馬に乗るのは、ずーっと後なのに、現在でも厳しい思います。日本書紀の天智天皇記、天武天皇記を読むと300キロ以上歩きますが ?
聖徳太子の時代には馬に乗っていたと思う。斑鳩から飛鳥への古道のひとつの途中に馬見丘陵があり、聖徳太子が馬に乗って国を見たから「馬見」と呼ぶようになったと地元の人から聞いた。
@@sigmasns かに😢
何故、皇位継承上の乱が発生したのか? 多数の方が疑問に持つ案件であり、計画的であったのは了解でき、発生原因を研究者の意見を拝聴したし。
なんで殺し合いの歴史が、ロマンに満ちているのですか
アタオカ😅
くだらけいと しらぎけ じゅうみん
二十日あまりのたたかいと
いわゆる「半島南部」は倭人が多く住んでいて共通語も倭語だったんでしょうね😅藤原氏の前身中臣氏は、金官伽耶国の王だったらしいですが、任那復興会議から後々半島系「源平籐橘」の覇権争いになって行くのでしょうか?😢
天武とは何者か。
白村江の多胎で勝った唐から占領軍として列島へやってきた郭務悰の支援を受けて 正統な天智天皇から皇位を簒奪し政権を握り、唐風律令制度を唐の絶大な権力を背景に僅か14年の短期間の在位で大改革を成し遂げた。つまりマッカーサーが天皇になったようなものだった。
そこで国津神の神話が天孫族の神話に脚色され背乗りされた。
記紀の基本の思想性は、“天皇家の侵略支配“という、「原罪」の完全削除だ。 『記・紀』の根本の思想性は、「殺戮の血も、神意の実行である限り、浄化され、罪となり得ない」この一点につきる。
つまり勝つためには手段を選ばず。これは古来よりの我が国の思想ではない。 皇室の基礎を作ったのは天武天皇だ。天孫族の物語は記紀で伝えられ、記紀以外の古書伝承は抹殺された。 何故皇祖であるなら皇祖を伝える神代文字まで抹消するのか。 そこに歴史の欺瞞があるからに他ならない。
天智天皇が亡くなってこのままでは自分たちが殺されと出家を止めて立ち上がった?
なんと勝手な理由で皇統を簒奪したのでしょうか。
全く理不尽な話ですね。
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阿波古代史講座 第15回・前編、阿波古代史講座 第16回・後編