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お疲れ様です。久々むすび大学らしい小名木先生の授業を拝聴致しました。むすび大学さんの魅力は、小名木先生、茂木先生、坂東先生、神社チャンネルの先生や多くの先生方の単独講義、また各分野の知識人の方と共にテーマに沿って展開する見事なストーリーに、目から鱗 となる瞬間が毎回味わえることだと感じています。従来の路線も忘れずに、素晴らしい瞬間をこれからも期待しています。
ありがとうございます😊感謝いたしております💕
なるほど、昔の地形を把握しておかないとタイムスリップした時に海や川に落ちてしまう可能性がありますね勉強になりました
小名木先生清洲城は信長が築いた城ではないですよ!室町時代、尾張守護に任命された斯波義重が築城しました。その後清須織田家のものになりましたが、それも信長が台頭して来るよりずっと前の話しです!
地形図を使った説明は、非常にわかりやすいし勉強になります。
勉強になりました。
大阪の上町台地は砂丘とは成り立ちが違います。なりは小さいが、生駒山地と同じ造山活動で出来た、地面の皺ですよ。
仁徳天皇が上町台地を切り水を抜いた?そんな歴史もありません!
霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼、牛久沼を全部飲み込んでいた香取海も、今の東京湾並の大きさがあったそうです。河口の南北に鹿島神宮と香取神宮を置いたようです。
昔から重要な場所だったから、明治になるまで伊勢の皇大神宮以外にここの2つだけ神宮を名乗ってたようです。
古代は香取海を利用して交通、物流が盛んだった。関東各地で徴兵された人々が香取海を利用して香取鹿島に集まった。香取鹿島の神官達が防人としての知識、武術を教育した。香取鹿島で武術が発展したのはそれが背景にあると思う。
災害なのであれだけど、裾をまくる度合いを地名にするなんてお洒落だな。なんというか芸能と災害に負けない日本人の精神を一緒に感じる
春日部の隣の千葉県野田市にも貝塚があるから、やっぱりその辺り一帯も海があったんでしょうね…すごい。
考えてもみないような内容でした。面白かったです。ありがとうございます
小名木先生いつも興味深いお話ありがとうございます。海面の上昇、下降だけでなく、土壌の堆積に触れていただきとても嬉しいです。山野井徹先生の『日本の土』によると、風による土壌の堆積は低地で年1mmから2mm程度です。川の氾濫のあるところでは年10mm以上になるところもあります。関東平野ではこの2万年で70m堆積しているところもあります。土壌の堆積を考えると、大八洲の国産みの謎が解けます。謎の島、越の洲と大洲は奥能登と出雲です。どちらも海進により本州から切り離されていたものが川の力による土壌の堆積で本州と繋がりました。(吉備の児島が繋がったのは人の手による埋め立てです。)また、佐渡ヶ島を双子に生んだとある日本書紀の記述は、佐渡ヶ島が南北に分かれて同じ形をしていた2つの島だったことを記録したものです。海面の上昇と土壌の堆積の追いかけっ子で、島が生まれたり消えたりしています。まだ確信はありませんが、ヒルコは大きな島が水没したことを表していて、その残骸が山形県の飛島で、アワシマは、大半が沈んでしまった新潟県の粟島ではないかと思っています。このように考えていくと、イザナギの尊とイザナミの尊(を信仰する人々)が日本列島にやってきた時代や日本列島の中で居住区域を広げていった時代を推定することができます。
江戸城を作ったのは家康ではないし江戸時代とこの海岸線は別物では?
富士山の火山灰も、かなり厚いらしい・・・
12:03〜、「マグマ」じゃなくて「プレート」とその下の「上部マントル」な...。エエカゲンな歴史についてはいくらか詳しいようだが、マトモな地球物理学については半可通の知ったかだな。「時代によって地形が違っていた」ということ自体はまあ正しいんだが、それを我田引水的な謬説に結びつけるのは実にいただけない。そもそも日本書紀みたいな事実と妄想(とゴマスリ)ごた混ぜの胡散臭い書物の中にいくらか真実の記述もあるとか見つけて鬼の首取ったかのように言い散らかすのも厨二っぽい。事実と妄想ごた混ぜだから丸ごと受け取れないんだよ。神武天皇の名前を出した時点で真面目に見る気失せたわ。中央構造線を琵琶湖の方に捻じ曲げたとこなんて爆笑したが、漫談ならともかくこれ一応学問系の動画なんだろ?歴史学の人間て科学のカの字もわかってないな。まあこのおっさんだけかもしれないが。
神武天皇は実在の人物だと思うよ。但し3世紀後半の人物。古事記や日本書紀には一切登場しない銅鐸を使ってた文明が滅んだと思われます。銅鐸は弥生時代の関西地方に出土してる器具で、日本書紀には一切記述がないので、何の為に作られてたのかが不明なんだよね。日本書紀の作者も存在は知っていたようだが、何の為にあるのかまでは知らなかったみたい。
有名な所では、神田山削って有楽町辺りから浜松町辺りまで埋めたんですよね。江東区の周辺が軒並み海抜ゼロメートルなのは埋立地だからで、江戸川区に住んでいた頃は何となく不安でした😮当時の埋め立て事業は想像以上の規模です!
江東区がゼロメートル地帯なのは、東京の水道料金が高いので、工業用水を汲み上げ、地盤沈下が起きた為です。
@@大内匡憲 確かにそれで拍車が掛かったんですね。
6000年前の地形、2000年前の地形、400年前の地形がごっちゃに話されるのでとても混乱します。6000年前は5mほど海水面が高く、2000年前は現在とほぼ同じ海水面、800年前は現在より数10cm海水面が高く、400年前は現在より5cmほど海水面が低くなっています。それではなぜ地形が違うかいうと土砂の堆積によります。また、大阪平野や濃尾平野の0m以下の土地は近く運動ではなく地下水汲み上げによる地盤沈下が原因ですし、中央構造帯の動きは潜り込みではなくて水平移動での破砕活動で、造山運動は太平洋プレートの潜り込みに乗ります。琵琶湖から大阪平野は100年数cmの沈み込みはありますが今回話されたようは大きな地形の変動は土砂の堆積と地下水の変化による地形変化です。
なるほど まさに水辺の葦だね‼️ベニスも同じだよね❗️物流は,開運だもんね‼️暮らしやすい場所だよね‼️😊確かに先ず地形だね‼️😊
地層は歴史を語る!!! ありがとうございます!!!
先生が家康築城時に海底だったとご指摘された浜松城下の低湿地ですが、弥生時代の集落跡も発見され、家康時代の2千年前から陸地だとわかってます。「鎌倉道」という平安時代から続く街道(東海道とは異なる)も見つかっています。また、地形から見た江戸城築上の意図はブラタモリですでに一般放送されており、先生の見解と異なる点もあります。思い込みではなく、もう少しお勉強されたほうがよろしいかと。
琵琶湖と淡路島の形成に相関関係があるかのように話している点から察してやってください、所詮は素人の勝手読みです。地質学的に双方の形成年代ははるかにスケールが異なり、そもそも琵琶湖は三重県伊勢あたりで形成されたものが今の位置まで北上してきたものです。地質学的にかなり正確な証拠があります。淡路島と琵琶湖の形状が「偶然」似ているのは、たかだかこの数千年くらいのことで、400万年以上ある琵琶湖の湖史上、「似ているのは当たり前」なんて話にはなりません。
都市伝説の出どころこういう人なんやろな
軍艦島
当たり前やけど調べたら江戸城の周り普通に町人街とか武家屋敷とか寺社とかあるやんけ江戸時代に治水工事あったのは知ってるけど潮の満干までは操れんやろ月一回その辺浸かっとったんか?と思ってたけど幾代にも繰り返し行われた治水と埋め立て工事が江戸の街のエクメーネ押し広げたんやって知って感動すわ
海抜4から5メートルの場所なら全国どこでも数千年間に海だったり陸になったりしていた。ということなのでどちらも間違いではない。
群馬県、今は内陸ですが、随分と標高が低かったんですね。驚きが止まりません!固定観念を壊して歴史を学び直すのは新しい発見があって楽しいです。
私は春日部市出身で内牧公園のすぐ近くに住んでいましたが、内牧小学校に通っていた時は、社会科見学で花積貝塚や塚内古墳群を見て回りましたね。因みに、内牧公園には縄文時代の竪穴式住居の模型があり、その当時の暮らしについて書かれた説明板が立てられています。
「尾張地方の今や内陸の津島や金山に港があった。中島郡ってのがもともと島だった」ってのを思い出す、納得できるお話ですね。
熱田神宮の南門の鳥居の所がちょうど熱田神台地のとっつきで、昔の海岸線だったみたいですね。
時代が変わる時期に必ずといっていいほど、色々と新しい真実のようなことを耳にしますが、その時代で生きること楽しく😂方向転換❤してます。
高校の歴史の時間に 先生が昔は関東は湿地帯だったから家康は褒美と称してわざと関東を与えられたんだと言ってましたどんな所だったんだろうと思ったらほぼ海だったんですね〜それを日本一 人の住む場所に変えた家康も 凄い人物ですねだから地盤も緩いのかと 納得しました
湿地の土を掘ってや利根川の流れを変えたとか、家臣の進言なのか家康発想? 当時の大阪を変えた秀吉のを知っていたのだろう。大阪でのことは秀吉発想か家臣なのか? 先人の知恵ですかね。
四国を切っている断層は中央構造線のことだと思うが、淡路島や琵琶湖方面に行っていない。紀伊半島をぶった切り、渥美半島の北縁(海中か?)を通ってこの辺りから北東に進路を変え、酷道の汚名高い国道152号線に沿って諏訪湖に至ります。
琵琶湖から淡路島にかけての断層群は鳴門海峡付近で中央構造線に合流するので、それを指摘しているんだと思います。
長島一向一揆(長島温泉)は島だったし、信長の父の信秀の拠点の津島も湊町。信秀は物流で力をつけたんですよね。物流を確保するために、琵琶湖伝いに京に上った。大阪城は、石山本願寺が押さえてた難攻不落の場所でもありますね。
埼玉県富士見市にはずばり「縄文海進」という名前のお酒が売ってますね
高校生が見る 戦国時代の 国名の地図などにおいては 当時の海岸線で書いていただきたいですね。
関西空港の沈下は、湾全体の地盤沈下だけでは説明できないと思いますよ。なぜなら陸地はそんなに早く沈んでいませんから。海面の上下によって大阪湾の底は粘土層(海の時代に積もった層)と砂礫層(陸の時代にできた層)が互層になっているそうです。そこに重い島を作ったから島の重みで粘土層が時間をかけて圧縮されているとの説明を聞いたことがあります。
そもそも軟弱地盤の陸から離れた地に、完全人工島を造成し空港を作ることが問題視されてましたから。当時は世界初の試みですし。計画時に空港完成時からの沈下を少なくする地盤沈下対策が取られました。 関西国際空港の下に横たわる厚い沖積粘土の沈下そのものを止めることはできないので、沈下を人工的に早めるサンドドレーン工法という地盤改良を行い、数十年もかかる沈下を1年足らずで完了させました。さらに地盤が固い洪積層も長年にわたれば沈下するという予想のもと地盤沈下するぶんだけ人工島の高さを上乗せして埋め立てていますね。
貴重なお話、ありがとうございました。本来の「地理」とはこの様な内容で語るべきだと思います。趣味で旧街道をランキングしています。街道沿いに建つ神社仏閣、城跡、塞跡を走るとその土地の歴史をと「地の理合」を自分の脚で感じる事ができます。
大阪城の前には大阪本願寺があって秀吉が作り上げた土地ではありませんよ。
毎回毎回知識が深まります。小名木先生ありがとうございます。
地理って面白いですね
縄文海進時の海岸線と、江戸時代の海岸線はだいぶ違いますよ。江戸切絵図(古地図)で当時の海岸線が1軒1軒詳しくわかります。江戸前島や日比谷入江でもお調べください
縄文海進のピークはおよそ7000年前。それ以降は海面は下降していっていますね。
清州城の付近が地元ですが、お膝元にある貝塚も有名です。枇杷島なんてまんま島ってついてますしね。時代劇も信長~家康までの時代は文献多いせいかまだなるべく当時の地図使ってくれること多いですが雑なとこだと平気で現代日本地図出してくるから一気に冷めちゃうことが。
よく知られた話として、源義経が平家を攻撃した時に、屋島に「馬で渡って」後背から攻撃したと言うのがあります。今現在ではその屋島への道は琴平電鉄や国道11号が通る香川県の幹線になってますね。つまり水が引いたと言う事ですね。
太田氏の三城(河越城、江戸城、岩付城)は、相模の扇谷上杉氏を守るための出城的役割を果たしていましたというのともう一つの目的としては、河越城 → 厩橋等の上野国制圧の拠点・江戸城 → 安芸・上総の里見氏制圧の拠点・岩付城 → 古河(正確には関宿)、下野国制圧の拠点但し、この三城の弱点は、相模・武蔵南部が敵に奪われれば孤立化してしまうこと(岩付城築城者については諸説あり)
大阪城がある上町台地は隆起によって形成された台地でしょう。沿岸流によって堆積した土砂による砂州(さす)のみで形成されたといった説明は誤りです。
古地形を使った解説は非常に良いことだと思いますが、出鱈目を述べるのは良くないです。織田信長の時代に清洲は海に面していません。そうでなければ、濃尾平野各地で発見されている古墳や集落跡の遺跡に対する説明ができませんし、名古屋の中心街は台地上にあります。そして、織田信長の生誕地(名古屋)や織田家の菩提寺の万松寺も同じ台地上にあります。※名古屋城から熱田神宮まで歩くだけでも体感できます。
歴史上の考察でいつも思うのが海岸線は今と全然違うということが抜けていますよね。SDGsとかいう如何様も海面上昇するのが致命的だとか煽ってますが、もともとどんどん変わるもの。
関西空港のあたりのご説明はわりとガバガバですね。
地形図を使った説明がわかりやすくて面白かったです。1点、「家康はここに江戸城作った」は誤りではないでしょうか?江戸城を作ったのは1450年代に扇谷上杉家の家臣太田道灌によって築城、家康公が関東に移封の際に今のかたちに改造したが正解だと思います。
いつもありがとうございます。地名は大切ですね。古い大大工さんがよく仰ってました。 「谷」が入る所は絶対建てるなとか「芦」とか様々ありますが割愛。先生のお考えの通りで日本は太古から海上交通が発達してたのですね。何処からでも伊勢参りを夢見れるワケですね🤔🤔🤔
この陰影起伏図も面白い、あと過去の航空写真も見れますよ
はっはっは!是は面白い。地名に残る過去の地形の逸話には驚いた。上間久里、下間久里は、着物の裾をまくるほどの水が有ったという事実の名残とは、ビックリだ。
清洲周辺に住んでいますが、戦国時代の頃の清洲周辺は海ではなく泥湿地ではないかと思います。愛知県は城が多く、近隣には蟹江城がありました。名古屋周辺は城が少ないですが、熱田神宮より南は城や砦が多くあります。川はたびたび氾濫していたと思いますが。
大変勉強になりました。地図の設定を教えてください。🙇
大坂夏の陣で、東軍が大坂城を南の方から攻めたのは東の方は元は海だったところで湿地帯だったからですよね。
5:15 「波越え」が「なごや」の語源だという節も。9:35 「浪速」の語源ですな。
千葉はほぼほぼ、そのままあったんですね
地震による隆起を一言も言われていないのがずっと気になる。江戸は家康転封後、河川の流れを変え、干拓事業で現在に近い海岸線が築かれたのでしょう。石垣に波がざぶんざぶんはないでしょうに。。。これだからこのむすび大学は素人がだまされる
最初は良かったけどマグマがどーたらは笑ったわ。知らん事は言わん方がええなぁ
前半はまあいいけど、断層の話からはデタラメもいいところ。淡路島と琵琶湖の形が似ているのはただの偶然。そもそも、断層としては琵琶湖西岸断層帯と四国を通る断層(中央構造線断層帯)に関しては相関性はあるが直接的な関係はない。あったとしても、隆起する場所(淡路島)と沈降する場所(琵琶湖)というだけの話。プレートの動きにより地表は波打つように変形し、ある場所では隆起し褶曲山脈を作り、ある場所では沈降し盆地や湖を作る。それだけのことであり、形が似ているだけで関連性を語るのはあまりにも酷い。また、マグマとプレートは全く別のもの。マグマとマントルを混同していると思われる。少なくとも、地理の知識としては破茶滅茶である。小中学生はこんなのを信じないようにね。小名木さんは、面白い話が多いんだけど、ありえない嘘を平然と織り交ぜてくるから、教え子には決して薦められません。スタッフの方、もう少しスクリプトを考えてあげてください。
個人的な趣味で、弥生時代から鎌倉時代くらいまでのことを調べているんですが、他の研究者の文献を漁ると、現代の地図や地形図をベースに議論しているものが多い。9:00神武東征で干満を利用して大阪湾の奥に行った話しは、10年くらい前に長浜浩明という土木技師が主張してましたね。2700年前ではなく、ボーリング調査の結果では紀元前50年(約2070年前)前後ということでした。
戦国時代にお城を造る場所は、山の上(竹田城・小谷城などなど)か川に面したところ(天然の要害)が多かった。北条が扇谷上杉の江戸城を攻めた時は、江戸湾に面した南と川に面した東には水軍が向かった。
非常に興味深い内容でした。様々な角度から見なければならないと思い知らされました。
ほぼ海だった所にビルや地下鉄があるって凄い技術だなと思いました。
淀川より南側は50年後みてもかなり下がる、コンクリートの耐用年数が50年くらい、建て替えの時期に入るので問題ないと思う。大阪湾が神戸とつながり淡路島の洲本付近まで陸続きになる、これも300年から400年で
大阪城や名古屋城も海からの海運(水運)が出来るよう扇状地近くの小山の上に築城が定番になっているよね 戦になったら少し小高い丘の上に築城
江戸時代に海だった場所だからといって、大雨のたびに必ず冠水するわけではありません。もしそうなら、江戸・東京の下町も、大雨のたびに冠水しなければならないことになるでしょう? でもじっさいにはそうではありませんよね?- 草加市の団地というのは、江戸時代に干拓されて水田になっていた場所に、高度成長期の人口増加で、最初に狭山団地ができた後くらいの、公団住宅建設のごく初期に造成された。そのため、団地ができた頃は、団地の周辺は見渡す限りの水田で、お稲荷さんとその参道が、遊歩道脇の芝生の緑地帯の中にひっそりと佇んでいました。水田稲作のための用水路などもそのままの状態で、ちょうど団地を取り囲むように用水路が流れていた。獨協大学のキャンパスも、川を渡った先にありました。-水田の場合には、梅雨時に雨が降り、用水路から水が溢れて水田が水に浸るくらいで、稲作にはちょうど良かったのでしょう。ところが、団地を造成する際に、周りの水田より団地を高く造成するような工夫はしなかった。戸数が多かったのと、家そのものは1階でも浸水しない、冠水するのは道路だけでしたから、それでいいことになってしまったのかもしれませんね。-今は竹ノ塚辺りに外国人が増えて治安が悪くなっているそうですが、団地が作られた当初は、獨協大学前の文教地区、上野まで日比谷線直通で30分くらいと、都心への通勤の足回りがよく、インテリの多い地区でした。広大な敷地の団地内は、外部から入ってくる車が少なく、小さな子供が安心して遊べる公園が多くて、野球場やテニスコート、プールなどもあった。各ブロックの商店街近くに集会所があり、バレエやコーラス、英語会話、絵画教室などの習い事も豊富。ピアノや日本舞踊などを自宅で教えている人も多くて、新婚から幼稚園、小学生くらいの子供を育てるのには最適だったのでしょう。-今は老朽化し、高層住宅に建て替えられ、公園よりも車のターミナルや駐車場が目立つようになり、子育てには適さない雰囲気になってしまいました。近くの松林か何かを強調した駅名に変更したようですが、どんな人が住んでいるのでしょう?
話が面白い
東京湾は埋め立て多いですね。千葉方面はほぼ埋立ですね。家康の江戸への三河からの移動に伴い埋め立てられた。市川や江戸川の河口部や幕張など千葉の一部は埋め立てられているそのため311の時に液状化した都内も四谷秋葉周辺は埋め立てですね。古地図の川と大きな街道に沿って埋められている。江戸城から東京湾のクジラが見えたというのだからすごい時代だ。今でも東京湾にはクジラにいるかに鯱がいますけど釣り船で釣りに行くと湾内にいます。観音崎の沖や海ほたるの周りの第一航路の深いところが驚く魚がいます。米軍の空母が通ってますが自然が残ってます。
昭島、福生(牛浜)くらいまでは湿地
埼玉は海無し県では無かったのですね😊
浜松市入野町在住です。佐鳴湖が海だったと先生がおっしゃっていますが、太刀洗の池(動画内地形図だと海底)近くには蜆塚遺跡という縄文時代(4000〜3000年前とされる)の遺跡が有ります。淡水or汽水に生息のシジミは海だった佐鳴湖ではなくどこで採取していたのでしょうか?ちなみに佐鳴湖と繋がる浜名湖は明応地震(1498年)で海と繋がったと云われています。歴史は考察なのでどちらが正しいか分かりません。しかし影響力の有る方なので動画にする前にもう少しお調べになられた方がよろしいかと。
大阪の上町台地を縦に大阪城のすぐ南に首都 難波宮がある 港も難波津があった
暴れん坊将軍観てれば新さんと御庭番の二人で御城の御堀から櫓舟で城抜けするシーンありましたしね🙄織田信長の石山本願寺攻めの時九鬼水軍と毛利水軍の大坂湾海戦でも兵糧止める為木津川河口封鎖してたと言われてるし長島願証寺攻めの時も九鬼水軍は木曽三川の内陸の入り江まで突っ込んで安宅舟砲台にして総攻撃かけてるシーンありましたし🙄
旧国名も地形と併せて考えると面白いですよね😄上総と下総。今の日本地図で見ると陸地からいくと下総の方が京都に近い様に思えますけど、当時は海に隔たれていたから、海路で行きやすい上総の方が「上」という字を当てられたんですよね🎶
江戸付近が海と湿地帯でしたからね。
その上総・下総と武蔵国を結んだことかた、総武線になった。
@@KOKI-cy3ph当初の総武鉄道は 武蔵国にないんだよね、両国がターミナルだから。
草加松原団地は完全に撤去されました。ほんの最近の話です。まだ空地がたくさんあります。
浅草の歴史の話が出てきているのですが、浅草寺は源頼朝ともかかわりがあるらしいのですが、江戸時代は湿地帯の草むらだったという点が矛盾するように思えます。この辺りはどう説明するのでしょうか?
名古屋城は熱田台地の北端、南端には熱田神宮。熱田神宮の南に熱田湊を造り、熱田台地の西端に堀川を造り、名古屋城の造城をした。
私も遺跡好きですから、地形からこの辺には遺跡が有るのではと目星をつけるのですが、勘がみに付いてきます。
海まではいかないまでも、岩盤がしっかりした所にお城があるってことなんだろうな。香川県の高松城だったかな(丸亀ではなかったよ)?そこのお堀は海水で、河豚とか鯛が泳いでたよ(海岸線に造られてるってのこと)。なんともシュールで贅沢だなと思った。江戸時代に入ってからの城主は松平家らしいよ。そんなお城が他にもあったんじゃないかな~なんて思った
江戸時代は縄文時代と違って現在の海岸線の地形に近かったのでは。江戸東部、現在の総武線沿線の街は海の中だったって事になりません?
江戸城と云えば…太田道灌。
信長や秀吉、家康が生きていた16世紀は現在より温暖だったんだね。明帝国をも滅亡させたマウンダー極小期が極悪な気象環境だったが想像できます。マウンダー極小期の結果、海が陸地になったとも見とれます。3代将軍家光の時代の江戸の気候は寒かったと思われます。海が陸地になったのは良い事だと思いますが。マウンダー極小期が終わっても、江戸後期にはダルトン極小期に入り一揆が多発してるから江戸時代は寒い時代だった事が伺えます。
赤城山は大昔、海でした。火山が噴火して山になりました。その時に山の下に海が閉じ込められました。ですから赤城の温泉は、ほんのりと塩の味がするのです。
こんな海だらけ湿地だらけの土地を今につながる世界有数の国家都市に作り上げた家康はなんて凄いのだろう
ほぼ海ではなく、東京の多くは埋立地の方が分かりやすいかな皇居の周りとか月島とか築地とか明らかに埋立地の地名から解説した方が分かりやすいかと
また海に戻ることもあるでしょうね
縄文海進って、歴史の授業でやっているはずですけどね。縄文時代はこのあたりは海だった、とか、だから温暖化が進めば海に戻る、という話をすると、みんな凄く嫌な顔をするんですよね…
岡崎城〜尾が先か 頭が先かウロボロス〜🌏🌀☝️🙏
小学生の頃は世界地図で大陸棚を同じように観た記憶があります勉強嫌いだったけど!平成元年から21歳になり平の名前で成り上がりを期待したが棚ぼたに期待は無理があると今現在では莞爾さんや時代になっていると思います
関空がジャッキアップしてるのは建物の重さで地下水や空気が抜けてしまうことによる沈下を防止するものだと聞いたことあります
埋立て前の江戸時代の初期だけだよ海だったの。縄文時代には東京湾が全部陸地だった時代もある
大阪城の辺は断層の隆起で盛り上がってるんでしょ?
東京だと佃島が有名だよね、あそこって漁師が立ち寄る島だったって聞く
食性ってものでも解ったりしますね。元々沼地に住んでた家では鮒や鯰を食べる習慣があったりします。ずっと海辺に住んでた家は 海の魚しか受け付けなくなってたり。
現代から500年〜1000年後はどうなっているのでしょうね。物流の発展で災害リスクの高い海岸線に近い場所は避けられるようになって内陸部の価値が上昇していくのか。物流を支える石油枯渇が先で、海運中心の頃へ戻って結局人口集中地域は水辺を中心のままなのか
当時には当時の法があり、現在とは倫理観も違う。現代の感覚で考えるのは間違いのもとです。たかが40〜50年前の会社は普通にブラックでパワハラで、タバコ吸うのが当たり前だった。でも、当時はそれが良しとされていた。
淡々とそれらしい説明をするが、地形、活断層、台地の隆起、沈降の知識は所々間違いが見られます。あと、皇紀27000年 神武…なにがしは現学説では否定的です。日本の歴史はせいぜい1500年前です。
マグマ→マントル
大阪は土砂が流れなくなってしまったから今後-10、-20メートルとかになるのかなそりゃ家もナナメになって当然だよね
だから、浅草海苔が有名だったんですね。
400年後の未来、令和という昔の地形はこうだったといわれるんだろうね。
大山ドラえもんの声でサンシャイン池崎とCMでコラボしてるオバチャンにそっくり☺✌
地震が襲うことが予想されていて反しにゃ京浜工業地帯は日本海側にも工場やマンションを移転するべきだ。
一応七千年前は草加の辺りまで海だったらしい。草加市の郷土資料館より。
日比谷入江が残ってたらなあ。東京駅を降りたら潮の香りがするなんて最高だったろうね
江戸時代は小氷河とも言われ海面が今より50cm以上低かった。
江戸時代の地図を見ようと思ったら東京がほとんどで自分の地域は対象外だった。
お疲れ様です。久々むすび大学らしい小名木先生の授業を拝聴致しました。むすび大学さんの魅力は、小名木先生、茂木先生、坂東先生、神社チャンネルの先生や多くの先生方の単独講義、また各分野の知識人の方と共にテーマに沿って展開する見事なストーリーに、目から鱗 となる瞬間が毎回味わえることだと感じています。従来の路線も忘れずに、素晴らしい瞬間をこれからも期待しています。
ありがとうございます😊感謝いたしております💕
なるほど、昔の地形を把握しておかないとタイムスリップした時に海や川に落ちてしまう可能性がありますね
勉強になりました
小名木先生
清洲城は信長が築いた城ではないですよ!
室町時代、尾張守護に任命された斯波義重が築城しました。
その後清須織田家のものになりましたが、それも信長が台頭して来るよりずっと前の話しです!
地形図を使った説明は、非常にわかりやすいし勉強になります。
勉強になりました。
大阪の上町台地は砂丘とは成り立ちが違います。なりは小さいが、生駒山地と同じ造山活動で出来た、地面の皺ですよ。
仁徳天皇が上町台地を切り水を抜いた?そんな歴史もありません!
霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼、牛久沼を全部飲み込んでいた香取海も、今の東京湾並の大きさがあったそうです。
河口の南北に鹿島神宮と香取神宮を置いたようです。
昔から重要な場所だったから、明治になるまで伊勢の皇大神宮以外にここの2つだけ神宮を名乗ってたようです。
古代は香取海を利用して交通、物流が盛んだった。関東各地で徴兵された人々が香取海を利用して香取鹿島に集まった。
香取鹿島の神官達が防人としての知識、武術を教育した。香取鹿島で武術が発展したのはそれが背景にあると思う。
災害なのであれだけど、裾をまくる度合いを地名にするなんてお洒落だな。
なんというか芸能と災害に負けない日本人の精神を一緒に感じる
春日部の隣の千葉県野田市にも貝塚があるから、やっぱりその辺り一帯も海があったんでしょうね…すごい。
考えてもみないような内容でした。面白かったです。ありがとうございます
小名木先生いつも興味深いお話ありがとうございます。
海面の上昇、下降だけでなく、土壌の堆積に触れていただきとても嬉しいです。
山野井徹先生の『日本の土』によると、風による土壌の堆積は低地で年1mmから2mm程度です。川の氾濫のあるところでは年10mm以上になるところもあります。関東平野ではこの2万年で70m堆積しているところもあります。
土壌の堆積を考えると、大八洲の国産みの謎が解けます。謎の島、越の洲と大洲は奥能登と出雲です。どちらも海進により本州から切り離されていたものが川の力による土壌の堆積で本州と繋がりました。(吉備の児島が繋がったのは人の手による埋め立てです。)
また、佐渡ヶ島を双子に生んだとある日本書紀の記述は、佐渡ヶ島が南北に分かれて同じ形をしていた2つの島だったことを記録したものです。
海面の上昇と土壌の堆積の追いかけっ子で、島が生まれたり消えたりしています。まだ確信はありませんが、ヒルコは大きな島が水没したことを表していて、その残骸が山形県の飛島で、アワシマは、大半が沈んでしまった新潟県の粟島ではないかと思っています。
このように考えていくと、イザナギの尊とイザナミの尊(を信仰する人々)が日本列島にやってきた時代や日本列島の中で居住区域を広げていった時代を推定することができます。
江戸城を作ったのは家康ではないし江戸時代とこの海岸線は別物では?
富士山の火山灰も、かなり厚いらしい・・・
12:03〜、「マグマ」じゃなくて「プレート」とその下の「上部マントル」な...。エエカゲンな歴史についてはいくらか詳しいようだが、マトモな地球物理学については半可通の知ったかだな。「時代によって地形が違っていた」ということ自体はまあ正しいんだが、それを我田引水的な謬説に結びつけるのは実にいただけない。
そもそも日本書紀みたいな事実と妄想(とゴマスリ)ごた混ぜの胡散臭い書物の中にいくらか真実の記述もあるとか見つけて鬼の首取ったかのように言い散らかすのも厨二っぽい。事実と妄想ごた混ぜだから丸ごと受け取れないんだよ。神武天皇の名前を出した時点で真面目に見る気失せたわ。中央構造線を琵琶湖の方に捻じ曲げたとこなんて爆笑したが、漫談ならともかくこれ一応学問系の動画なんだろ?歴史学の人間て科学のカの字もわかってないな。まあこのおっさんだけかもしれないが。
神武天皇は実在の人物だと思うよ。但し3世紀後半の人物。古事記や日本書紀には一切登場しない銅鐸を使ってた文明が滅んだと思われます。銅鐸は弥生時代の関西地方に出土してる器具で、日本書紀には一切記述がないので、何の為に作られてたのかが不明なんだよね。日本書紀の作者も存在は知っていたようだが、何の為にあるのかまでは知らなかったみたい。
有名な所では、神田山削って有楽町辺りから浜松町辺りまで埋めたんですよね。
江東区の周辺が軒並み海抜ゼロメートルなのは埋立地だからで、江戸川区に住んでいた頃は何となく不安でした😮
当時の埋め立て事業は想像以上の規模です!
江東区がゼロメートル地帯なのは、東京の水道料金が高いので、工業用水を汲み上げ、地盤沈下が起きた為です。
@@大内匡憲 確かにそれで拍車が掛かったんですね。
6000年前の地形、2000年前の地形、400年前の地形がごっちゃに話されるのでとても混乱します。
6000年前は5mほど海水面が高く、2000年前は現在とほぼ同じ海水面、800年前は現在より数10cm海水面が高く、400年前は現在より5cmほど海水面が低くなっています。
それではなぜ地形が違うかいうと土砂の堆積によります。
また、大阪平野や濃尾平野の0m以下の土地は近く運動ではなく地下水汲み上げによる地盤沈下が原因ですし、中央構造帯の動きは潜り込みではなくて水平移動での破砕活動で、造山運動は太平洋プレートの潜り込みに乗ります。
琵琶湖から大阪平野は100年数cmの沈み込みはありますが今回話されたようは大きな地形の変動は土砂の堆積と地下水の変化による地形変化です。
なるほど まさに水辺の葦だね‼️
ベニスも同じだよね❗️物流は,開運だもんね‼️
暮らしやすい場所だよね‼️😊
確かに先ず地形だね‼️😊
地層は歴史を語る!!! ありがとうございます!!!
先生が家康築城時に海底だったとご指摘された浜松城下の低湿地ですが、弥生時代の集落跡も発見され、家康時代の2千年前から陸地だとわかってます。「鎌倉道」という平安時代から続く街道(東海道とは異なる)も見つかっています。また、地形から見た江戸城築上の意図はブラタモリですでに一般放送されており、先生の見解と異なる点もあります。思い込みではなく、もう少しお勉強されたほうがよろしいかと。
琵琶湖と淡路島の形成に相関関係があるかのように話している点から察してやってください、所詮は素人の勝手読みです。地質学的に双方の形成年代ははるかにスケールが異なり、そもそも琵琶湖は三重県伊勢あたりで形成されたものが今の位置まで北上してきたものです。地質学的にかなり正確な証拠があります。淡路島と琵琶湖の形状が「偶然」似ているのは、たかだかこの数千年くらいのことで、400万年以上ある琵琶湖の湖史上、「似ているのは当たり前」なんて話にはなりません。
都市伝説の出どころこういう人なんやろな
軍艦島
当たり前やけど調べたら江戸城の周り普通に町人街とか武家屋敷とか寺社とかあるやんけ
江戸時代に治水工事あったのは知ってるけど潮の満干までは操れんやろ月一回その辺浸かっとったんか?
と思ってたけど幾代にも繰り返し行われた治水と埋め立て工事が江戸の街のエクメーネ押し広げたんやって知って感動すわ
海抜4から5メートルの場所なら全国どこでも数千年間に海だったり陸になったりしていた。
ということなのでどちらも間違いではない。
群馬県、今は内陸ですが、随分と標高が低かったんですね。驚きが止まりません!固定観念を壊して歴史を学び直すのは新しい発見があって楽しいです。
私は春日部市出身で内牧公園のすぐ近くに住んでいましたが、内牧小学校に通っていた時は、社会科見学で花積貝塚や塚内古墳群を見て回りましたね。
因みに、内牧公園には縄文時代の竪穴式住居の模型があり、その当時の暮らしについて書かれた説明板が立てられています。
「尾張地方の今や内陸の津島や金山に港があった。中島郡ってのがもともと島だった」
ってのを思い出す、納得できるお話ですね。
熱田神宮の南門の鳥居の所がちょうど熱田神台地のとっつきで、昔の海岸線だったみたいですね。
時代が変わる時期に必ずといっていいほど、色々と新しい真実のようなことを耳にしますが、その時代で生きること楽しく😂方向転換❤してます。
高校の歴史の時間に 先生が
昔は関東は湿地帯だったから
家康は褒美と称してわざと
関東を与えられたんだと言ってました
どんな所だったんだろうと思ったら
ほぼ海だったんですね〜
それを日本一 人の住む場所に変えた
家康も 凄い人物ですね
だから地盤も緩いのかと 納得しました
湿地の土を掘ってや利根川の流れを変えたとか、家臣の進言なのか家康発想? 当時の大阪を変えた秀吉のを知っていたのだろう。大阪でのことは秀吉発想か家臣なのか? 先人の知恵ですかね。
四国を切っている断層は中央構造線のことだと思うが、淡路島や琵琶湖方面に行っていない。紀伊半島をぶった切り、渥美半島の北縁(海中か?)を通ってこの辺りから北東に進路を変え、酷道の汚名高い国道152号線に沿って諏訪湖に至ります。
琵琶湖から淡路島にかけての断層群は鳴門海峡付近で中央構造線に合流するので、それを指摘しているんだと思います。
長島一向一揆(長島温泉)は島だったし、信長の父の信秀の拠点の津島も湊町。信秀は物流で力をつけたんですよね。物流を確保するために、琵琶湖伝いに京に上った。
大阪城は、石山本願寺が押さえてた難攻不落の場所でもありますね。
埼玉県富士見市には
ずばり「縄文海進」という名前のお酒が売ってますね
高校生が見る 戦国時代の 国名の地図などにおいては 当時の海岸線で書いていただきたいですね。
関西空港の沈下は、湾全体の地盤沈下だけでは説明できないと思いますよ。なぜなら陸地はそんなに早く沈んでいませんから。
海面の上下によって大阪湾の底は粘土層(海の時代に積もった層)と砂礫層(陸の時代にできた層)が互層になっているそうです。そこに重い島を作ったから島の重みで粘土層が時間をかけて圧縮されているとの説明を聞いたことがあります。
そもそも軟弱地盤の陸から離れた地に、完全人工島を造成し空港を作ることが問題視されてましたから。当時は世界初の試みですし。
計画時に空港完成時からの沈下を少なくする地盤沈下対策が取られました。
関西国際空港の下に横たわる厚い沖積粘土の沈下そのものを止めることはできないので、沈下を人工的に早めるサンドドレーン工法という地盤改良を行い、数十年もかかる沈下を1年足らずで完了させました。
さらに地盤が固い洪積層も長年にわたれば沈下するという予想のもと地盤沈下するぶんだけ人工島の高さを上乗せして埋め立てていますね。
貴重なお話、ありがとうございました。本来の「地理」とはこの様な内容で語るべきだと思います。
趣味で旧街道をランキングしています。街道沿いに建つ神社仏閣、城跡、塞跡を走るとその土地の歴史をと「地の理合」を自分の脚で感じる事ができます。
大阪城の前には大阪本願寺があって秀吉が作り上げた土地ではありませんよ。
毎回毎回知識が深まります。
小名木先生ありがとうございます。
地理って面白いですね
縄文海進時の海岸線と、江戸時代の海岸線はだいぶ違いますよ。
江戸切絵図(古地図)で当時の海岸線が1軒1軒詳しくわかります。
江戸前島や日比谷入江でもお調べください
縄文海進のピークはおよそ7000年前。それ以降は海面は下降していっていますね。
清州城の付近が地元ですが、お膝元にある貝塚も有名です。枇杷島なんてまんま島ってついてますしね。
時代劇も信長~家康までの時代は文献多いせいかまだなるべく当時の地図使ってくれること多いですが
雑なとこだと平気で現代日本地図出してくるから一気に冷めちゃうことが。
よく知られた話として、源義経が平家を攻撃した時に、屋島に「馬で渡って」後背から攻撃したと言うのがあります。
今現在ではその屋島への道は琴平電鉄や国道11号が通る香川県の幹線になってますね。つまり水が引いたと言う事ですね。
太田氏の三城(河越城、江戸城、岩付城)は、相模の扇谷上杉氏を守るための出城的役割を果たしていましたというのと
もう一つの目的としては、
河越城 → 厩橋等の上野国制圧の拠点
・江戸城 → 安芸・上総の里見氏制圧の拠点
・岩付城 → 古河(正確には関宿)、下野国制圧の拠点
但し、この三城の弱点は、相模・武蔵南部が敵に奪われれば孤立化してしまうこと
(岩付城築城者については諸説あり)
大阪城がある上町台地は隆起によって形成された台地でしょう。沿岸流によって堆積した土砂による砂州(さす)のみで形成されたといった説明は誤りです。
古地形を使った解説は非常に良いことだと思いますが、出鱈目を述べるのは良くないです。
織田信長の時代に清洲は海に面していません。
そうでなければ、濃尾平野各地で発見されている古墳や集落跡の遺跡に対する説明ができませんし、名古屋の中心街は台地上にあります。
そして、織田信長の生誕地(名古屋)や織田家の菩提寺の万松寺も同じ台地上にあります。
※名古屋城から熱田神宮まで歩くだけでも体感できます。
歴史上の考察でいつも思うのが海岸線は今と全然違うということが抜けていますよね。SDGsとかいう如何様も海面上昇するのが致命的だとか煽ってますが、もともとどんどん変わるもの。
関西空港のあたりのご説明はわりとガバガバですね。
地形図を使った説明がわかりやすくて面白かったです。
1点、「家康はここに江戸城作った」は誤りではないでしょうか?
江戸城を作ったのは1450年代に扇谷上杉家の家臣太田道灌によって築城、
家康公が関東に移封の際に今のかたちに改造したが正解だと思います。
いつもありがとうございます。
地名は大切ですね。
古い大大工さんがよく仰ってました。 「谷」が入る所は絶対建てるなとか「芦」とか様々ありますが割愛。
先生のお考えの通りで日本は太古から海上交通が発達してたのですね。
何処からでも伊勢参りを夢見れるワケですね🤔🤔🤔
この陰影起伏図も面白い、あと過去の航空写真も見れますよ
はっはっは!是は面白い。地名に残る過去の地形の逸話には驚いた。上間久里、下間久里は、着物の裾をまくるほどの水が有ったという事実の名残とは、ビックリだ。
清洲周辺に住んでいますが、戦国時代の頃の清洲周辺は海ではなく泥湿地ではないかと思います。
愛知県は城が多く、近隣には蟹江城がありました。
名古屋周辺は城が少ないですが、熱田神宮より南は城や砦が多くあります。
川はたびたび氾濫していたと思いますが。
大変勉強になりました。
地図の設定を教えてください。🙇
大坂夏の陣で、東軍が大坂城を南の方から攻めたのは東の方は元は海だったところで湿地帯だったからですよね。
5:15 「波越え」が「なごや」の語源だという節も。
9:35 「浪速」の語源ですな。
千葉はほぼほぼ、そのままあったんですね
地震による隆起を一言も言われていないのがずっと気になる。江戸は家康転封後、河川の流れを変え、干拓事業で現在に近い海岸線が築かれたのでしょう。石垣に波がざぶんざぶんはないでしょうに。。。これだからこのむすび大学は素人がだまされる
最初は良かったけどマグマがどーたらは笑ったわ。知らん事は言わん方がええなぁ
前半はまあいいけど、断層の話からはデタラメもいいところ。淡路島と琵琶湖の形が似ているのはただの偶然。そもそも、断層としては琵琶湖西岸断層帯と四国を通る断層(中央構造線断層帯)に関しては相関性はあるが直接的な関係はない。あったとしても、隆起する場所(淡路島)と沈降する場所(琵琶湖)というだけの話。プレートの動きにより地表は波打つように変形し、ある場所では隆起し褶曲山脈を作り、ある場所では沈降し盆地や湖を作る。それだけのことであり、形が似ているだけで関連性を語るのはあまりにも酷い。また、マグマとプレートは全く別のもの。マグマとマントルを混同していると思われる。少なくとも、地理の知識としては破茶滅茶である。小中学生はこんなのを信じないようにね。小名木さんは、面白い話が多いんだけど、ありえない嘘を平然と織り交ぜてくるから、教え子には決して薦められません。スタッフの方、もう少しスクリプトを考えてあげてください。
個人的な趣味で、弥生時代から鎌倉時代くらいまでのことを
調べているんですが、他の研究者の文献を漁ると、
現代の地図や地形図をベースに議論しているものが多い。
9:00神武東征で干満を利用して大阪湾の奥に行った話しは、
10年くらい前に長浜浩明という土木技師が主張してましたね。
2700年前ではなく、ボーリング調査の結果では紀元前50年(約2070年前)前後ということでした。
戦国時代にお城を造る場所は、山の上(竹田城・小谷城などなど)か川に面したところ(天然の要害)が多かった。北条が扇谷上杉の江戸城を攻めた時は、江戸湾に面した南と川に面した東には水軍が向かった。
非常に興味深い内容でした。様々な角度から見なければならないと思い知らされました。
ほぼ海だった所にビルや地下鉄があるって凄い技術だなと思いました。
淀川より南側は50年後みてもかなり下がる、コンクリートの耐用年数が50年くらい、建て替えの時期に入るので問題ないと思う。大阪湾が神戸とつながり淡路島の洲本付近まで陸続きになる、これも300年から400年で
大阪城や名古屋城も海からの海運(水運)が出来るよう扇状地近くの小山の上に築城が定番になっているよね 戦になったら少し小高い丘の上に築城
江戸時代に海だった場所だからといって、大雨のたびに必ず冠水するわけではありません。
もしそうなら、江戸・東京の下町も、大雨のたびに冠水しなければならないことになるでしょう? でもじっさいにはそうではありませんよね?
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草加市の団地というのは、江戸時代に干拓されて水田になっていた場所に、高度成長期の人口増加で、最初に狭山団地ができた後くらいの、公団住宅建設のごく初期に造成された。
そのため、団地ができた頃は、団地の周辺は見渡す限りの水田で、お稲荷さんとその参道が、遊歩道脇の芝生の緑地帯の中にひっそりと佇んでいました。
水田稲作のための用水路などもそのままの状態で、ちょうど団地を取り囲むように用水路が流れていた。
獨協大学のキャンパスも、川を渡った先にありました。
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水田の場合には、梅雨時に雨が降り、用水路から水が溢れて水田が水に浸るくらいで、稲作にはちょうど良かったのでしょう。
ところが、団地を造成する際に、周りの水田より団地を高く造成するような工夫はしなかった。戸数が多かったのと、家そのものは1階でも浸水しない、冠水するのは道路だけでしたから、それでいいことになってしまったのかもしれませんね。
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今は竹ノ塚辺りに外国人が増えて治安が悪くなっているそうですが、団地が作られた当初は、獨協大学前の文教地区、上野まで日比谷線直通で30分くらいと、都心への通勤の足回りがよく、インテリの多い地区でした。
広大な敷地の団地内は、外部から入ってくる車が少なく、小さな子供が安心して遊べる公園が多くて、野球場やテニスコート、プールなどもあった。
各ブロックの商店街近くに集会所があり、バレエやコーラス、英語会話、絵画教室などの習い事も豊富。ピアノや日本舞踊などを自宅で教えている人も多くて、新婚から幼稚園、小学生くらいの子供を育てるのには最適だったのでしょう。
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今は老朽化し、高層住宅に建て替えられ、公園よりも車のターミナルや駐車場が目立つようになり、子育てには適さない雰囲気になってしまいました。
近くの松林か何かを強調した駅名に変更したようですが、どんな人が住んでいるのでしょう?
話が面白い
東京湾は埋め立て多いですね。千葉方面はほぼ埋立ですね。家康の江戸への三河からの移動に伴い埋め立てられた。市川や江戸川の河口部や幕張など千葉の一部は埋め立てられているそのため311の時に液状化した都内も四谷秋葉周辺は埋め立てですね。古地図の川と大きな街道に沿って埋められている。江戸城から東京湾のクジラが見えたというのだからすごい時代だ。今でも東京湾にはクジラにいるかに鯱がいますけど釣り船で釣りに行くと湾内にいます。観音崎の沖や海ほたるの周りの第一航路の深いところが驚く魚がいます。米軍の空母が通ってますが自然が残ってます。
昭島、福生(牛浜)くらいまでは湿地
埼玉は海無し県では無かったのですね😊
浜松市入野町在住です。
佐鳴湖が海だったと
先生がおっしゃっていますが、
太刀洗の池(動画内地形図だと海底)近くには蜆塚遺跡という縄文時代(4000〜3000年前とされる)の遺跡が有ります。
淡水or汽水に生息のシジミは海だった佐鳴湖ではなくどこで採取していたのでしょうか?
ちなみに佐鳴湖と繋がる浜名湖は明応地震(1498年)で海と繋がったと云われています。
歴史は考察なのでどちらが正しいか分かりません。
しかし影響力の有る方なので動画にする前にもう少しお調べになられた方がよろしいかと。
大阪の上町台地を縦に大阪城のすぐ南に首都 難波宮がある 港も難波津があった
暴れん坊将軍観てれば新さんと御庭番の二人で御城の御堀から櫓舟で城抜けするシーンありましたしね🙄織田信長の石山本願寺攻めの時九鬼水軍と毛利水軍の大坂湾海戦でも兵糧止める為木津川河口封鎖してたと言われてるし長島願証寺攻めの時も九鬼水軍は木曽三川の内陸の入り江まで突っ込んで安宅舟砲台にして総攻撃かけてるシーンありましたし🙄
旧国名も地形と併せて考えると面白いですよね😄
上総と下総。今の日本地図で見ると陸地からいくと下総の方が京都に近い様に思えますけど、当時は海に隔たれていたから、海路で行きやすい上総の方が「上」という字を当てられたんですよね🎶
江戸付近が海と湿地帯でしたからね。
その上総・下総と武蔵国を結んだことかた、総武線になった。
@@KOKI-cy3ph当初の総武鉄道は 武蔵国にないんだよね、両国がターミナルだから。
草加松原団地は完全に撤去されました。ほんの最近の話です。まだ空地がたくさんあります。
浅草の歴史の話が出てきているのですが、浅草寺は源頼朝ともかかわりがあるらしいのですが、江戸時代は湿地帯の草むらだったという点が矛盾するように思えます。この辺りはどう説明するのでしょうか?
名古屋城は熱田台地の北端、南端には熱田神宮。
熱田神宮の南に熱田湊を造り、熱田台地の西端に堀川を造り、名古屋城の造城をした。
私も遺跡好きですから、地形からこの辺には遺跡が有るのではと目星をつけるのですが、勘がみに付いてきます。
海まではいかないまでも、岩盤がしっかりした所にお城があるってことなんだろうな。
香川県の高松城だったかな(丸亀ではなかったよ)?そこのお堀は海水で、河豚とか鯛が泳いでたよ(海岸線に造られてるってのこと)。なんともシュールで贅沢だなと思った。江戸時代に入ってからの城主は松平家らしいよ。そんなお城が他にもあったんじゃないかな~なんて思った
江戸時代は縄文時代と違って現在の海岸線の地形に近かったのでは。
江戸東部、現在の総武線沿線の街は海の中だったって事になりません?
江戸城と云えば…太田道灌。
信長や秀吉、家康が生きていた16世紀は現在より温暖だったんだね。明帝国をも滅亡させたマウンダー極小期が極悪な気象環境だったが想像できます。マウンダー極小期の結果、海が陸地になったとも見とれます。3代将軍家光の時代の江戸の気候は寒かったと思われます。海が陸地になったのは良い事だと思いますが。マウンダー極小期が終わっても、江戸後期にはダルトン極小期に入り一揆が多発してるから江戸時代は寒い時代だった事が伺えます。
赤城山は大昔、海でした。火山が噴火して山になりました。その時に山の下に海が閉じ込められました。ですから赤城の温泉は、ほんのりと塩の味がするのです。
こんな海だらけ湿地だらけの土地を今につながる世界有数の国家都市に作り上げた家康はなんて凄いのだろう
ほぼ海ではなく、東京の多くは埋立地の方が分かりやすいかな
皇居の周りとか月島とか
築地とか
明らかに埋立地の地名から解説した方が分かりやすいかと
また海に戻ることもあるでしょうね
縄文海進って、歴史の授業でやっているはずですけどね。
縄文時代はこのあたりは海だった、とか、だから温暖化が進めば海に戻る、という話をすると、みんな凄く嫌な顔をするんですよね…
岡崎城〜尾が先か 頭が先か
ウロボロス〜🌏🌀☝️🙏
小学生の頃は世界地図で大陸棚を同じように観た記憶があります勉強嫌いだったけど!
平成元年から21歳になり平の名前で成り上がりを期待したが棚ぼたに期待は無理があると今現在では莞爾さんや時代になっていると思います
関空がジャッキアップしてるのは建物の重さで地下水や空気が抜けてしまうことによる沈下を防止するものだと聞いたことあります
埋立て前の江戸時代の初期だけだよ海だったの。
縄文時代には東京湾が全部陸地だった時代もある
大阪城の辺は断層の隆起で盛り上がってるんでしょ?
東京だと佃島が有名だよね、あそこって漁師が立ち寄る島だったって聞く
食性ってものでも解ったりしますね。
元々沼地に住んでた家では鮒や鯰を食べる習慣があったりします。
ずっと海辺に住んでた家は 海の魚しか受け付けなくなってたり。
現代から500年〜1000年後はどうなっているのでしょうね。
物流の発展で災害リスクの高い海岸線に近い場所は避けられるようになって内陸部の価値が上昇していくのか。
物流を支える石油枯渇が先で、海運中心の頃へ戻って結局人口集中地域は水辺を中心のままなのか
当時には当時の法があり、現在とは倫理観も違う。現代の感覚で考えるのは間違いのもとです。たかが40〜50年前の会社は普通にブラックでパワハラで、タバコ吸うのが当たり前だった。でも、当時はそれが良しとされていた。
淡々とそれらしい説明をするが、地形、活断層、台地の隆起、沈降の知識は所々間違いが見られます。
あと、皇紀27000年 神武…なにがしは現学説では否定的です。
日本の歴史はせいぜい1500年前です。
マグマ→マントル
大阪は土砂が流れなくなってしまったから今後-10、-20メートルとかになるのかな
そりゃ家もナナメになって当然だよね
だから、浅草海苔が有名だったんですね。
400年後の未来、令和という昔の地形はこうだったといわれるんだろうね。
大山ドラえもんの声でサンシャイン池崎と
CMでコラボしてるオバチャンにそっくり☺✌
地震が襲うことが予想されていて反しにゃ京浜工業地帯は日本海側にも工場やマンションを移転するべきだ。
一応七千年前は草加の辺りまで海だったらしい。
草加市の郷土資料館より。
日比谷入江が残ってたらなあ。東京駅を降りたら潮の香りがするなんて最高だったろうね
江戸時代は小氷河とも言われ海面が今より50cm以上低かった。
江戸時代の地図を見ようと思ったら東京がほとんどで自分の地域は対象外だった。