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今回の成功からの教訓の「普段から人望や人徳を磨いておく」は、ビジネスで一番大切なことだと思います。 常に心がけないと、なかなか得られないことだと改めて認識しました。
小5の時に見た大河ドラマの影響で、楠木正成は未だに武田鉄矢のイメージです。普段は自身も鍬を持って田畑を耕して、地域の民衆と交流している気さくな土豪、戦になれば戦上手の指揮官という正成像を武田鉄矢が好演してました。
そうなんですよね。じっくりとたどってみること...。あの1989年1月7日土曜日をもっての「昭和64年」.すなわち「昭和時代」の"終焉"...。翌日1月8日日曜日からの「平成元年」すなわち「平成時代」の"幕開け"を経て...。先の「昭和時代」における第二次世界大戦中の「皇国史観」の「名残」...。まだまだ尾を引いてしまっていた時勢だったのでしょう。足利尊氏は、時の帝・後醍醐天皇に背いた"国賊""逆賊""朝敵"として...。楠木正成は、後醍醐天皇に捧げた"忠臣""軍神""英雄"として...。約2年後...。かの1991(平成3)年1月6日日曜日から12月8日日曜日まで全49回...。吉川英治『私本太平記』原作・池端俊策チーフ脚本・佐藤幹夫チーフ演出・NHK大河ドラマ第29作目『太平記』...。いわゆる本格的「禁忌解禁」第1作目.NHK大河ドラマ...。あの2月10日日曜日放送.第6回「楠木登場」...。といった、畑におけるほのぼのとしたひとときから、はじまって...。3月17日日曜日放送.第11回「楠木立つ」から...。4月14日日曜日放送第15回「高氏と正成」...。武士としての決断から、主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田j広之 ]との、初めての出逢いまで...。6月9日日曜日放送.第23回「凱旋」...。鎌倉幕府討幕果たして...。久々の高氏と正成との再会...。本当に心地良いひとときも虚しく...。9月8日日曜日放送.第36回「湊川の決戦」...。9月15日日曜日放送.第37回「正成自刃」...。9月22日日曜日放送.第38回「一天両帝」...。をもって、南北朝時代における本格的な動乱の幕開けだけに...。NHK大河ドラマとして...。遠い将来に向けての"暗中模索"と"試行錯誤"...。まだまだ...。はじまったばかり...。でしかなかったのでしょうね。
髪飾りが後ろの花とマッチしていていいですね。
大楠公は時を超えて大楠公と尊敬されているのだから結果敗北してないですね
大事なものの為に死するは、負けとは申さぬものと心得おり候。🌸
寝返らず損得勘定しない楠木正成VS寝返っても損得勘定にならない足利尊氏!
やっぱ南北朝時代で大河の主人公やれそうなのは楠木正成しかいないな…足利尊氏はどちらかというと敵のほうが映えそう。
正成に次いで、正行、正儀とつなげても面白いと思います。想像するだけでもワクワクしてくる。
大河の主人公最大のタブーは楠木正成でしょ。実際「左」の人が反対運動していて、NHKに取り上げないよう反対の要望書を提出している。やるにしてなぜか南北朝時代なのに、リベラル色が強いリベラリスト・楠木正成にしないとね(笑)
楠木正成と聞いて、思い浮かぶ顔は金八先生なんです。人望があると言う点では共通していますね。w
「大楠公」富田林生まれ自分にとっての英雄「 なんこうさん」。数百年をへて尚慕われ、嗚呼忠臣楠子之墓が、かの黄門さん作と言われるほどの全国区の人気。正成公は永遠に不滅です。正成公は
大楠公、凄い人物ですよね😮小楠公と対峙した、高師直、高師冬も先生には、触れていただきたいです。石清水八幡宮、四條畷の戦い、武庫川で最後を遂げましたね😮 室町初期では、珍しく高は、氏族の高、氏姓を用い、名乗っていました。
高師直、高師冬は、小楠公との争いも解説して欲しいです。😮
いつも楽しみで毎回欠かさず観てます。もっとマニアックな武将をとりあげて欲しいと思います。太田道灌、尼子経久、宇喜多直家、最上義光など。あと信長の紹介内容で必ず登場する本願寺顕如など石山本願寺。伊東潤先生の意見を聞きたいと思います。
悲劇の尼子希望
近代国民国家の国民の最強のロールモデルにされてたのが楠木正成。だから近代になり皇居前に堂々と鎮座したのが楠木正成像。だから近代最初の正一位第1号は楠木正成(当時正成と比べて小者の信長は当然後回し、スーパーヒーローの秀吉でさえ後回し)だから近代最初の別格官幣社で神になった第1号が楠木正成。だから近代になって北朝の明治天皇に南朝の正統を認めさせた。もはや日本最初の国民国家の国民、尖兵が楠木正成。個人的には北朝を正統に戻したほういいと思っているが。
楠木正成はどうして最後まで後醍醐天皇を支えたのか、それこそ尊氏側に鞍替えしても丁重に扱われたと思います。忠義という言葉以上の繋がりが両者にはあったのかもしれませんね。湊川神社には正成の家紋菊水紋の旗が未だに高く掲げられていますが、それを見る度に色々考えてしまいます。
心情的には尊氏も同じで、武士の代表という立場がなかったら正成と同じ行動をしていいた可能性があります。
前の幕府を倒す動乱を起こした正成は、これから幕府を創るつもりの足利側からしたら 危険人物⚠️もし鞍替えして来たら 命は頂戴しますよそんな事は正成も分かってる政権争いは シビアなもんです湊川は 直義の首狙いで、もし直義を討てれば尊氏は動揺するから 一気に和平交渉に持ち込む…というシナリオを考えてたんじゃないか? と思うんですよねそれも叶わなかったので、こんな建武政権を作ってしまった戦争責任と もう後醍醐天皇には従わない、と言う意志表示の為にじがいした…そういう事じゃないかな、と思ってます
楠木正成の敗北は敗北であって敗北ではないむしろ勝利
名前ぐらいしか知らなかったので、すごい生きざまを本編で是非見たいです
楠木正成を祭っている、湊川神社(神戸)は地元では楠公さん(なんこうさん)と言います。神社の前の大通りは「多聞通り」と言って幼名の(多聞丸)からの言われです。戦前は皇国史観でしたので、湊川神社を通るときは、敬礼をしたと聞いています。
江戸時代、参勤交代の列も 正成のお墓の前を横切らないように遠回りしたそうですね
@@memejiro7147 そうなんですね ありがとうございます。
@@jurian- さま戦前は敬礼していた、は初めて知りましたこちらこそ ありがとうございます室町時代 正成は逆賊でしたから お墓もはっきりせず、太閤検地の際に 畑から偶然見つかったそうです秀吉が周りを少し整えて知られるようになり 志ある人が少しづつ整えていって、水戸光圀・黄門さまが今あるお墓を建てたそうです正成さんも 自分のお墓がこんな大きい神社になるとは 思ってもなかったでしょうね
@@memejiro7147 さん、詳しいエピソードもありがとうございます。
@@jurian- さま偉そうに書きましたが、遠くに住んでいるので 行った事がありません😅いつか 多聞通りを歩いて楠公さんに行きたいです😊
個人的に楠木正成は鈴木亮平に演じてほしいです。
正成も幸村も、総大将(後醍醐天皇・秀頼)には気に入られてる描写はあるんだけど、総大将の周りが聞く耳を持たなかったり、声を塞いだりしてますね。
公家連中がアホ過ぎて本当に気の毒です。😭
似てますね
真田信繁(父・昌幸)は上田城、楠木正成は千早城にて寡兵で大軍(幕府軍、徳川秀忠)を引き付け奇策をもって撤退させるという共通点もありますしね。
正成の敗北は、上司の戦への無理解が原因であって、本人にはあれをひっくり返し様がなかった気がするなぁ。強いてあげれば勢力を鞍替えするか、それをよしとしないのなら引退するしかなかった気がする。
後醍醐天皇の思考が平安時代の治天の君と同じだったよね。武士をないがしろにしたから実権を奪われたのだということが理解できていない。
これから幕府を作ろうとしている足利氏からしたら、前の幕府を倒す動乱を起こした正成は 危険人物⚠️ 寝返ってきたら 生かしてはいないでしょう正成もそれは分かってたと思いますよ
男の中の男。会いたかったな
昔NHKの歴史番組で楠木正成を悪党と紹介したら湊川神社の宮司がNHKに抗議したという事例があった。この宮司さん悪党の意味を取り違えていたようです。
戦前教育であまりに美化されすぎの様な気がしますがホントのところはどうなんですか!
悠里ちゃんは、敗北したことがありません🎉
信長・家康型戦略脳+闘将(戦上手)の行動気質を持つ武将が天下を動かします。義時・尊氏・信長・秀吉・家康・久光です。時代の変わり目に出現します。とくに幕末の長州は凄かった。高杉晋作・桂小五郎・大村益次郎・伊藤博文など現代にも人材を少し分けて欲しい。家康型の尊氏、信長型の新田義貞、闘将の正成などで北条は滅亡します。戦略脳をもつ後醍醐天皇も闘将なくして動けません。帝と正成は夫婦型。信長と勝家、秀吉と三成、家康と忠次と同じような関係です。行動をともにすることが理解できます。しかし時代は後醍醐帝の描く時代ではありませんでした。帝の返り咲きの恩賞が公家優先では、戦った武将は収まりません。勃興する武士の上に戦力を持たない天皇が権力で世を治めるなどどだい無理。帝の戦略が誤っていました。同時代に大変革を自らで行える尊氏が存在したことで、帝の夢は消えます。闘将で戦上手の正成でも戦略脳を駆使できる尊氏には所詮太刀打ちは出来ないことでした。
お互い名乗り合って一騎打ちなんてのは蒙古襲来の頃から廃れてますよ?
最近つまらない!
今回の成功からの教訓の「普段から人望や人徳を磨いておく」は、ビジネスで一番大切なことだと思います。 常に心がけないと、なかなか得られないことだと改めて認識しました。
小5の時に見た大河ドラマの影響で、楠木正成は未だに武田鉄矢のイメージです。
普段は自身も鍬を持って田畑を耕して、地域の民衆と交流している気さくな土豪、戦になれば戦上手の指揮官という正成像を武田鉄矢が好演してました。
そうなんですよね。
じっくりとたどってみること...。
あの1989年1月7日土曜日をもっての「昭和64年」.すなわち「昭和時代」の"終焉"...。
翌日1月8日日曜日からの「平成元年」すなわち「平成時代」の"幕開け"を経て...。
先の「昭和時代」における第二次世界大戦中の「皇国史観」の「名残」...。
まだまだ尾を引いてしまっていた時勢だったのでしょう。
足利尊氏は、時の帝・後醍醐天皇に背いた"国賊""逆賊""朝敵"として...。
楠木正成は、後醍醐天皇に捧げた"忠臣""軍神""英雄"として...。
約2年後...。
かの1991(平成3)年1月6日日曜日から12月8日日曜日まで全49回...。
吉川英治『私本太平記』原作・池端俊策チーフ脚本・佐藤幹夫チーフ演出・NHK大河ドラマ第29作目『太平記』...。
いわゆる本格的「禁忌解禁」第1作目.NHK大河ドラマ...。
あの2月10日日曜日放送.第6回「楠木登場」...。
といった、畑におけるほのぼのとしたひとときから、はじまって...。
3月17日日曜日放送.第11回「楠木立つ」から...。
4月14日日曜日放送第15回「高氏と正成」...。
武士としての決断から、主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田j広之 ]との、初めての出逢いまで...。
6月9日日曜日放送.第23回「凱旋」...。
鎌倉幕府討幕果たして...。
久々の高氏と正成との再会...。
本当に心地良いひとときも虚しく...。
9月8日日曜日放送.第36回「湊川の決戦」...。
9月15日日曜日放送.第37回「正成自刃」...。
9月22日日曜日放送.第38回「一天両帝」...。
をもって、南北朝時代における本格的な動乱の幕開けだけに...。
NHK大河ドラマとして...。
遠い将来に向けての"暗中模索"と"試行錯誤"...。
まだまだ...。
はじまったばかり...。
でしかなかったのでしょうね。
髪飾りが後ろの花とマッチしていていいですね。
大楠公は時を超えて大楠公と尊敬されているのだから結果敗北してないですね
大事なものの為に死するは、負けとは申さぬものと心得おり候。🌸
寝返らず損得勘定しない楠木正成VS寝返っても損得勘定にならない足利尊氏!
やっぱ南北朝時代で大河の主人公やれそうなのは楠木正成しかいないな…足利尊氏はどちらかというと敵のほうが映えそう。
正成に次いで、正行、正儀とつなげても面白いと思います。想像するだけでもワクワクしてくる。
大河の主人公最大のタブーは楠木正成でしょ。実際「左」の人が反対運動していて、NHKに取り上げないよう反対の要望書を提出している。
やるにしてなぜか南北朝時代なのに、リベラル色が強いリベラリスト・楠木正成にしないとね(笑)
楠木正成と聞いて、思い浮かぶ顔は金八先生なんです。人望があると言う点では共通していますね。w
「大楠公」富田林生まれ自分にとっての英雄「 なんこうさん」。
数百年をへて尚慕われ、
嗚呼忠臣楠子之墓が、かの
黄門さん作と言われるほどの全国区の人気。
正成公は永遠に不滅です。
正成公は
大楠公、凄い人物ですよね😮
小楠公と対峙した、高師直、高師冬も先生には、触れていただきたいです。石清水八幡宮、四條畷の戦い、武庫川で最後を遂げましたね😮 室町初期では、珍しく高は、氏族の高、氏姓を用い、名乗っていました。
高師直、高師冬は、小楠公との争いも解説して欲しいです。😮
いつも楽しみで毎回欠かさず観てます。もっとマニアックな武将をとりあげて欲しいと思います。太田道灌、尼子経久、宇喜多直家、最上義光など。あと信長の紹介内容で必ず登場する本願寺顕如など石山本願寺。伊東潤先生の意見を聞きたいと思います。
悲劇の尼子希望
近代国民国家の国民の最強のロールモデルにされてたのが楠木正成。
だから近代になり皇居前に堂々と鎮座したのが楠木正成像。
だから近代最初の正一位第1号は楠木正成(当時正成と比べて小者の信長は当然後回し、スーパーヒーローの秀吉でさえ後回し)
だから近代最初の別格官幣社で神になった第1号が楠木正成。
だから近代になって北朝の明治天皇に南朝の正統を認めさせた。
もはや日本最初の国民国家の国民、尖兵が楠木正成。
個人的には北朝を正統に戻したほういいと思っているが。
楠木正成はどうして最後まで後醍醐天皇を支えたのか、それこそ尊氏側に鞍替えしても丁重に扱われたと思います。忠義という言葉以上の繋がりが両者にはあったのかもしれませんね。
湊川神社には正成の家紋菊水紋の旗が未だに高く掲げられていますが、それを見る度に色々考えてしまいます。
心情的には尊氏も同じで、武士の代表という立場がなかったら正成と同じ行動をしていいた可能性があります。
前の幕府を倒す動乱を起こした正成は、これから幕府を創るつもりの足利側からしたら 危険人物⚠️
もし鞍替えして来たら 命は頂戴しますよ
そんな事は正成も分かってる
政権争いは シビアなもんです
湊川は 直義の首狙いで、もし直義を討てれば尊氏は動揺するから 一気に和平交渉に持ち込む…というシナリオを考えてたんじゃないか? と思うんですよね
それも叶わなかったので、こんな建武政権を作ってしまった戦争責任と もう後醍醐天皇には従わない、と言う意志表示の為にじがいした…
そういう事じゃないかな、と思ってます
楠木正成の敗北は敗北であって敗北ではないむしろ勝利
名前ぐらいしか知らなかったので、すごい生きざまを本編で是非見たいです
楠木正成を祭っている、湊川神社(神戸)は地元では楠公さん(なんこうさん)と言います。神社の前の大通りは「多聞通り」と言って幼名の(多聞丸)からの言われです。
戦前は皇国史観でしたので、湊川神社を通るときは、敬礼をしたと聞いています。
江戸時代、参勤交代の列も 正成のお墓の前を横切らないように
遠回りしたそうですね
@@memejiro7147 そうなんですね ありがとうございます。
@@jurian- さま
戦前は敬礼していた、は初めて知りました
こちらこそ ありがとうございます
室町時代 正成は逆賊でしたから お墓もはっきりせず、太閤検地の際に 畑から偶然見つかったそうです
秀吉が周りを少し整えて知られるようになり 志ある人が少しづつ整えていって、水戸光圀・黄門さまが今あるお墓を建てたそうです
正成さんも 自分のお墓がこんな大きい神社になるとは 思ってもなかったでしょうね
@@memejiro7147 さん、詳しいエピソードもありがとうございます。
@@jurian- さま
偉そうに書きましたが、遠くに住んでいるので 行った事がありません😅
いつか 多聞通りを歩いて楠公さんに行きたいです😊
個人的に楠木正成は鈴木亮平に演じてほしいです。
正成も幸村も、総大将(後醍醐天皇・秀頼)には気に入られてる描写はあるんだけど、総大将の周りが聞く耳を持たなかったり、声を塞いだりしてますね。
公家連中がアホ過ぎて本当に気の毒です。😭
似てますね
真田信繁(父・昌幸)は上田城、
楠木正成は千早城にて寡兵で大軍(幕府軍、徳川秀忠)を引き付け奇策をもって撤退させるという共通点もありますしね。
正成の敗北は、上司の戦への無理解が原因であって、
本人にはあれをひっくり返し様がなかった気がするなぁ。
強いてあげれば勢力を鞍替えするか、
それをよしとしないのなら引退するしかなかった気がする。
後醍醐天皇の思考が平安時代の治天の君と同じだったよね。武士をないがしろにしたから実権を奪われたのだということが理解できていない。
これから幕府を作ろうとしている足利氏からしたら、前の幕府を倒す動乱を起こした正成は 危険人物⚠️ 寝返ってきたら 生かしてはいないでしょう
正成もそれは分かってたと思いますよ
男の中の男。会いたかったな
昔NHKの歴史番組で楠木正成を悪党と紹介したら湊川神社の宮司がNHKに抗議したという事例があった。この宮司さん悪党の意味を取り違えていたようです。
戦前教育であまりに美化されすぎの様な気がしますがホントのところはどうなんですか!
悠里ちゃんは、敗北したことがありません🎉
信長・家康型戦略脳+闘将(戦上手)の行動気質を持つ武将が天下を動かします。
義時・尊氏・信長・秀吉・家康・久光です。時代の変わり目に出現します。
とくに幕末の長州は凄かった。
高杉晋作・桂小五郎・大村益次郎・伊藤博文など
現代にも人材を少し分けて欲しい。
家康型の尊氏、信長型の新田義貞、闘将の正成などで北条は滅亡します。
戦略脳をもつ後醍醐天皇も闘将なくして動けません。
帝と正成は夫婦型。信長と勝家、秀吉と三成、家康と忠次と同じような関係です。
行動をともにすることが理解できます。
しかし時代は後醍醐帝の描く時代ではありませんでした。
帝の返り咲きの恩賞が公家優先では、戦った武将は収まりません。
勃興する武士の上に戦力を持たない天皇が権力で世を治めるなどどだい無理。
帝の戦略が誤っていました。
同時代に大変革を自らで行える尊氏が存在したことで、帝の夢は消えます。
闘将で戦上手の正成でも戦略脳を駆使できる尊氏には所詮太刀打ちは出来ないこと
でした。
お互い名乗り合って一騎打ちなんてのは蒙古襲来の頃から廃れてますよ?
最近つまらない!