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伊東先生がウインドサーフィンやってらっしゃるというのが衝撃
戦史研究家の海上知明氏の「義経愚将論」も面白いですよ。義経の評価は結果論にとらわれ過ぎているというのである。両論聞くと考察の深みが増します。
兄弟の信頼関係で言えば秀吉&秀長も良いが真田信之&信繁(幸村)もアツい。関ヶ原の戦いで家系を賭けて東軍と西軍に袂を分かつ「犬伏の別れ」。結果は兄の東軍が制したが、父と弟の助命嘆願をして幽閉先の九度山で困窮する彼らに支援を続けた信之の長男っぷりは見事だと思う。結果真田家を明治まで遺せた偉業は源氏や豊臣氏を凌駕しているかと。
真田家は武田家の影響を多大に受け武勇誉れ高く戦略に長けていましたからね. 当然と言えば当然ですね. 🤔😊
義経は奥州藤原氏との関係がなければここまで重用されなかったのでは?とも思っています。それを自分の力だと思ってしまったのも彼の失敗ですが、十年の辛酸を舐めた頼朝の配慮はわからなかっただろうなぁ~と思いつつ、三年で平家を滅ぼしたのは凄いことですよね。そして大抵の武将は兄弟で失敗してるんだよなぁ…。
義経の父義朝もやってください!
😅
こんにちは! この短い時間がなんともファンタスティックでたまりません。
伊東先生の源義経の分析は、鋭いところがあるなぁ!と感心しました。また、現代社会では多様な価値観をもった人が多いので義経の対人関係の失敗から対人関係について学びたいなと思いました。また、キュウちゃんの問がかけも素晴らしかったです。
昨年の鎌倉殿の13人の義経を思い出しながら拝見しました。兄弟仲って本当に大切だと思います。
義経がもし周りに配慮できる人物だったというか、頼朝からすれば右腕ともいえる梶原景時を始めとした代官クラスに従順だとしても、遅かれ早かれ頼朝が難癖をつけて始末していた(身内でも容赦はしないという見せしめというか捨て石にするには都合がいい)可能性のほうが高いと思う義経を生かしておくメリットもが無いともいえるし、繫がりのある奥州藤原氏も義経関係なしに難癖をつけて先祖の宿願でもある奥州平定を目指していた頼朝からすれば、寧ろ後白河法皇から奥州藤原氏追討の院宣が実は平氏追討の院宣よりは欲しいものだったのかも平氏追討か平氏が滅亡はしなくても源氏のホームともいえる関東に攻め込めるだけの力がない状態になった時点で、義経の運命は決まっていたというか用済みになったからあとは理由をつけて誅する狙いがあったとも
やっぱり源義経ヒーロー1番好き👍かっこいい
平家と戦った源範頼は、安徳天皇・二位尼・神器を迎えるために、平家を包囲する形で攻めていった。義経は、功を焦って独断専行した。範賴は失脚時に兵を挙げなかったが不遇な最後を遂げたので、誰が弟でも同じ憂き目に遭う。奥州藤原秀衡は鎌倉方が迂闊に攻めて来られないように義経を抑止力として使うように考えていた。
ほかの方もコメントされていますが、源義朝も取り上げて欲しいです。宜しくお願いします。
ありがとうございますm(_ _)m
義経の素晴らしいところは周りにそそのかされて頼朝と戦しなかった事だと思う
源義経は敗者として、勝者としても教訓があるんですね 大変役に立ちます ありがとうございます。
8:59
自分の中では昨年の大河ドラマの義経がしっくりきます。共感力の欠如。サxコパス的な。
多分アスペですよね。
一番のこぼれ話は、先生のウインドサーフィン話。
頼朝は戦略脳を持ち天下に号令できる気質です。泰時や秀忠と同じ気質です。義朝が一応天下を平定し、頼朝が後を次ぐ。法整備など幕府システムを完成させる位置が最高なのですが、創業者も兼ねる状況で生きなくてはならない頼朝には大変な負担がかかりました。頼朝と義経には気質的に合うところがなにもありません。尊氏と直義は一目惚れ型、秀吉と秀長は同型です。頼朝と義経とは空なのですから問題発生でも解決の糸口が見つかりません。不運な兄弟です。義経は闘将で、大変な戦上手です。楠正成・島津義弘・柴田勝家・立花宗茂・石田三成等そうそうたる人物と同じです。しかし戦略能力は薄い。負け組を選択してしまう。戦略脳が希薄なことで頼朝の真意を読み取れず自滅の道を辿ります。後白河法皇の命で頼朝討伐を図ろうとして失敗。義経にとっても兄弟の絆などなかったのでしょう。尊氏・直義兄弟の葛藤に比べ、なんと味気ないことか。藤原秀衡も気質で大局を誤らせる義経を庇護し、一族滅亡の火種を残し亡くなりました。秀衡に戦略脳がなく、頼朝の戦力の正しい評価が出来なかった結末です。
伊藤先生の伊藤史観に感服しています。どんな資料を読んでいるんですか。司馬史観も素晴らしいですが伊藤史観の源泉を知りたいです。還暦を過ぎもう一度日本の歴史を勉強したいと思います。源平藤橘の由来や源氏の発祥など教えて下さい。
ごめんなさい。立場上、コメント欄にコメントできないのです。そのうち「こぼれ噺」で「歴史の勉強法」「知識を史観にする方法」などを語りたいと思っています。
公家社会の頚城から脱却しないと平氏没落のようになるとの教訓を得て、頼朝は新天地で武家政権を樹立しようとした。律令期の荘園制度は時代にそぐわず、現実社会の諸問題(特に水争い)を解決するには新体制が必要であった。長期的な戦略を考えた兄と、具体的な戦術しか眼中に無かった弟、この断絶、両者をいさめる、あるいは仲介する人物がいなかったことが悲劇を生んだと思う。
もののあはれ…敗者に共感してしまうのは日本人のサガよのう。
KYの人だったかな。御家人と争ったのもまずかったし気持ちにまっすぐだったのもあるかな。
昨日、本編の放送を見ました。義経が頼朝軍ではなく、藤原泰衡に討たれた点にもう少し注目してもよかったのではと思いました。秀衡は、息子の泰衡がいるのに義経を将軍とするよう遺言を残しました。泰衡にとっておもしろいはずがなく、義経を排除しようと考えてもおかしくはありません。泰衡との不和が義経の死期を早めたと私は思います。
腹違いの兄弟が多いから、嫡男以外はその部下
義経に関しては、海上知明著「義経」愚将論がオススメ!これ読むと従来の”英雄”義経のイメージが一変する。
泰衡が秀衡の遺言を守り、義経主従と頼朝と戦ったとしても勝ち目はないと思います。奥州軍が最強だと言っても、奥州は戦のない時代を長く過ごしてきて。逆に鎌倉側は平家との戦を経験してきたものばかり。そう考えると経験の差で鎌倉に軍配を。
鎌倉軍は、義経が鍛えたようなモノ
まーどうだろうね難しい所ではあるただ鎌倉が勝つにしても相手に義経がいればそれなりの損がいは出たような気もする
攻城戦・防城戦あった?
弁慶さんいなかったのかな
義経の戦い方は卑怯だと思います。戦略家、戦術家としては優秀だとは思いますが、勝てばなんでもいい感が凄くします。
卑怯ってどのことを言ってます?漕ぎ手を射る等は創作と言われてます当時の手法である搦手を上手く使ったと言う印象しかないですね
もしかして義経はEQ(心の知能指数)が低かったんですかね?超有能だけど空気が読めなくて上司に怒られるタイプ
研究家が戦に関しては最高センスまつりに関しては最低センスと評価してますね
天才だったのは疑いようはないから…政治的には……戦に関しては天才…どう天才かって言うと勝ってるから…勝ってるって事は付いていく人間がいた…つまりカリスマがあった…カリスマの前には戦術とか無意味だから…義経、謙信は軍神…居るだけで最強部隊の出来上がり。
河内源氏の一族争乱内紛で衰退する、の、河内源氏をぜひお願いします
源義経は、平家滅亡のことしか考えていなかった単純な人ですが、集団戦を得意としていたと言うことは、他人への配慮もある程度できて、人望があった人なのでは?と私は考えます。
義経は奥州藤原氏の泰衡が裏切らなければ、結果は全然変わっていて、むしろアイヌ民族含めて奥州藤原氏連合で頼朝の鎌倉幕府を滅ぼせるぐらいだったのにな。義経にとって養父とか後ろ盾になってくれた秀衡が死ななくてもっと長生きし、泰衡が裏切らず奥州藤原氏一族で義経に味方しアイヌ民族ももちろん味方し、後白河法皇が裏切らずに義経に味方した上に、過去の朝廷の蝦夷征討を謝罪しアイヌ(蝦夷)は朝敵ではなく味方で征夷大将軍はアイヌ征討の大将軍ではなく朝廷のアイヌ民族の大将軍として名称変更して義経を任じて、完全に反頼朝包囲網で東北と京都の両側から鎌倉幕府を挟み撃ちにできるし。
問題なのはそれで鎌倉の政権を滅ぼしても、その後の天下を誰が治めるのかという事。もし鎌倉滅亡後また京都(朝廷)に実権が戻るなら今度は義経が「第二の平家」になるだけ。いずれ地方武士達が源氏の血を引く誰かを旗頭に立てて…となるのは目に見えている。この時代は京都の朝廷政治の枠組みには入らない、しかしもはやその存在を無視出来ない『武士』という新興階級の人々が実質日本を支配していたと言っても過言ではない。朝廷が地方を治めるために任官した国守もこの頃には完全に有名無実化していた。朝廷が武士のための政治を行わない限り、武士達は新たな盟主による新たな政権を求める。時代は下るが、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政があっという間に瓦解したのと要は同じ。
頼朝だって「幕府」という組織を作り上げるまでの手腕は確かでも、それを自分の後継者に継承させるための環境を悪いもので鹿用意できなかったという意味では、頼家個人の素質以前の問題言われてるし、寧ろ頼家実朝兄弟の末路は頼朝にも責任があるだろうに同じ幕府の創始者の二代目の足利義詮や徳川秀忠が、先代の政権に参加して、ある程度の地盤を固めてもらった上で引き継いだ後でそれを何とか守り抜くだけの力はあったこの二人のレベルまで育てることが出来なかった(育てようとしたら暗殺された説もあるとはいえ)のは、頼朝の落ち度だろう
命のやり取りずっとしてたらそうなるのかもなー 兄弟とか言ってられなかったんだろうなーでも平氏より源氏の方が好き!
「勝てば官軍」とは言え、一流という単語は適当じゃないような気がする。自分なら異端って感じかな?
今の日本に欲しい人物
義経はやり方が宮迫さんに似てますね。
頼朝、義経の事なら神護寺文書を読めば少しは解ると思いますが、承久の乱の真実は義経の嘘が発端で発生した事は余り発信されていないですが原因が本当にしょぼい内容でびっくりしますよww当家は頼朝と同じ河内源氏の家系で親戚ですが、主に寺社警備、荘園管理の仕事で地方の母方領地の管理をしていましたが偶々、孫の代から高僧が出て天皇家から京都の寺社で警備を一族4家で任され京都にいましたが義経がお前たちだけズルいと頼朝に嘘の手紙を出したことが承久の乱に発展し京都入りした頼朝が義経の嘘に気が付き破壊された寺社の修繕費等莫大な損害賠償を払うことになり頼朝はキレたそうです。当家は源氏で母方は平氏で平家とも良好な関係でしたよ。天皇と天皇家、公家の保護をして頼朝の和議に間に入って居たのである程度は聞いていますが、本当の歴史の内容だったら流石にドラマに出来ない内容ですよww
「一次資料見ている」と言いながら、こんな話しかできないのはなぜ?その資料はねじ曲げられた嘘モノ一次ばかりだろう。
伊東氏、、、毎度毎度浅い考察ですね。
伊東先生がウインドサーフィンやってらっしゃるというのが衝撃
戦史研究家の海上知明氏の「義経愚将論」も面白いですよ。
義経の評価は結果論にとらわれ過ぎているというのである。両論聞くと考察の深みが増します。
兄弟の信頼関係で言えば秀吉&秀長も良いが真田信之&信繁(幸村)もアツい。
関ヶ原の戦いで家系を賭けて東軍と西軍に袂を分かつ「犬伏の別れ」。結果は兄の東軍が制したが、父と弟の助命嘆願をして幽閉先の九度山で困窮する彼らに支援を続けた信之の長男っぷりは見事だと思う。結果真田家を明治まで遺せた偉業は源氏や豊臣氏を凌駕しているかと。
真田家は武田家の影響を多大に受け武勇誉れ高く戦略に長けていましたからね. 当然と言えば当然ですね. 🤔😊
義経は奥州藤原氏との関係がなければここまで重用されなかったのでは?とも思っています。それを自分の力だと思ってしまったのも彼の失敗ですが、十年の辛酸を舐めた頼朝の配慮はわからなかっただろうなぁ~と思いつつ、三年で平家を滅ぼしたのは凄いことですよね。そして大抵の武将は兄弟で失敗してるんだよなぁ…。
義経の父義朝もやってください!
😅
こんにちは! この短い時間がなんともファンタスティックでたまりません。
伊東先生の源義経の分析は、鋭いところがあるなぁ!と感心しました。
また、現代社会では多様な価値観をもった人が多いので義経の対人関係の失敗から対人関係について学びたいなと思いました。
また、キュウちゃんの問がかけも素晴らしかったです。
昨年の鎌倉殿の13人の義経を思い出しながら拝見しました。兄弟仲って本当に大切だと思います。
義経がもし周りに配慮できる人物だったというか、頼朝からすれば右腕ともいえる梶原景時を始めとした代官クラスに従順だとしても、遅かれ早かれ頼朝が難癖をつけて始末していた(身内でも容赦はしないという見せしめというか捨て石にするには都合がいい)可能性のほうが高いと思う
義経を生かしておくメリットもが無いともいえるし、繫がりのある奥州藤原氏も義経関係なしに難癖をつけて先祖の宿願でもある奥州平定を目指していた頼朝からすれば、寧ろ後白河法皇から奥州藤原氏追討の院宣が実は平氏追討の院宣よりは欲しいものだったのかも平氏追討か平氏が滅亡はしなくても源氏のホームともいえる関東に攻め込めるだけの力がない状態になった時点で、義経の運命は決まっていたというか用済みになったからあとは理由をつけて誅する狙いがあったとも
やっぱり源義経ヒーロー1番好き👍かっこいい
平家と戦った源範頼は、安徳天皇・二位尼・神器を迎えるために、平家を包囲する形で攻めていった。義経は、功を
焦って独断専行した。範賴は失脚時に兵を挙げなかったが不遇な最後を遂げたので、誰が弟でも同じ憂き目に遭う。
奥州藤原秀衡は鎌倉方が迂闊に攻めて来られないように義経を抑止力として使うように考えていた。
ほかの方もコメントされていますが、源義朝も取り上げて欲しいです。
宜しくお願いします。
ありがとうございますm(_ _)m
義経の素晴らしいところは
周りにそそのかされて
頼朝と戦しなかった事だと思う
源義経は敗者として、勝者としても教訓があるんですね 大変役に立ちます ありがとうございます。
8:59
自分の中では昨年の大河ドラマの義経がしっくりきます。共感力の欠如。サxコパス的な。
多分アスペですよね。
一番のこぼれ話は、先生のウインドサーフィン話。
頼朝は戦略脳を持ち天下に号令できる気質です。泰時や秀忠と同じ気質です。
義朝が一応天下を平定し、頼朝が後を次ぐ。法整備など幕府システムを完成
させる位置が最高なのですが、創業者も兼ねる状況で生きなくてはならない
頼朝には大変な負担がかかりました。
頼朝と義経には気質的に合うところがなにもありません。
尊氏と直義は一目惚れ型、秀吉と秀長は同型です。
頼朝と義経とは空なのですから問題発生でも解決の糸口が見つかりません。
不運な兄弟です。
義経は闘将で、大変な戦上手です。
楠正成・島津義弘・柴田勝家・立花宗茂・石田三成等そうそうたる人物と
同じです。しかし戦略能力は薄い。負け組を選択してしまう。
戦略脳が希薄なことで頼朝の真意を読み取れず自滅の道を辿ります。
後白河法皇の命で頼朝討伐を図ろうとして失敗。義経にとっても兄弟の絆
などなかったのでしょう。
尊氏・直義兄弟の葛藤に比べ、なんと味気ないことか。
藤原秀衡も気質で大局を誤らせる義経を庇護し、一族滅亡の火種を残し亡く
なりました。
秀衡に戦略脳がなく、頼朝の戦力の正しい評価が出来なかった結末です。
伊藤先生の伊藤史観に感服しています。
どんな資料を読んでいるんですか。
司馬史観も素晴らしいですが伊藤史観の源泉を知りたいです。
還暦を過ぎもう一度日本の歴史を勉強したいと思います。
源平藤橘の由来や源氏の発祥など教えて下さい。
ごめんなさい。立場上、コメント欄にコメントできないのです。そのうち「こぼれ噺」で「歴史の勉強法」「知識を史観にする方法」などを語りたいと思っています。
公家社会の頚城から脱却しないと平氏没落のようになるとの教訓を得て、頼朝は新天地で武家政権を樹立しようとした。律令期の荘園制度は時代にそぐわず、現実社会の諸問題(特に水争い)を解決するには新体制が必要であった。長期的な戦略を考えた兄と、具体的な戦術しか眼中に無かった弟、この断絶、両者をいさめる、あるいは仲介する人物がいなかったことが悲劇を生んだと思う。
もののあはれ…敗者に共感してしまうのは日本人のサガよのう。
KYの人だったかな。御家人と争ったのもまずかったし気持ちにまっすぐだったのもあるかな。
昨日、本編の放送を見ました。義経が頼朝軍ではなく、藤原泰衡に討たれた点にもう少し注目してもよかったのではと思いました。
秀衡は、息子の泰衡がいるのに義経を将軍とするよう遺言を残しました。泰衡にとっておもしろいはずがなく、義経を排除しようと考えてもおかしくはありません。
泰衡との不和が義経の死期を早めたと私は思います。
腹違いの兄弟が多いから、嫡男以外はその部下
義経に関しては、海上知明著「義経」愚将論がオススメ!これ読むと従来の”英雄”義経のイメージが一変する。
泰衡が秀衡の遺言を守り、義経主従と頼朝と戦ったとしても勝ち目はないと思います。奥州軍が最強だと言っても、奥州は戦のない時代を長く過ごしてきて。逆に鎌倉側は平家との戦を経験してきたものばかり。そう考えると経験の差で鎌倉に軍配を。
鎌倉軍は、義経が鍛えたようなモノ
まーどうだろうね
難しい所ではある
ただ鎌倉が勝つにしても相手に義経がいればそれなりの損がいは出たような気もする
攻城戦・防城戦あった?
弁慶さんいなかったのかな
義経の戦い方は卑怯だと思います。
戦略家、戦術家としては優秀だとは思いますが、勝てばなんでもいい感が凄くします。
卑怯ってどのことを言ってます?
漕ぎ手を射る等は創作と言われてます
当時の手法である搦手を上手く使ったと言う印象しかないですね
もしかして義経はEQ(心の知能指数)が低かったんですかね?
超有能だけど空気が読めなくて上司に怒られるタイプ
研究家が戦に関しては最高センス
まつりに関しては最低センスと評価してますね
天才だったのは疑いようはないから…政治的には……戦に関しては天才…どう天才かって言うと勝ってるから…勝ってるって事は付いていく人間がいた…つまりカリスマがあった…カリスマの前には戦術とか無意味だから…義経、謙信は軍神…居るだけで最強部隊の出来上がり。
河内源氏の一族争乱内紛で衰退する、の、河内源氏をぜひお願いします
源義経は、平家滅亡のことしか考えていなかった単純な人ですが、集団戦を得意としていたと言うことは、他人への配慮もある程度できて、人望があった人なのでは?と私は考えます。
義経は奥州藤原氏の泰衡が裏切らなければ、結果は全然変わっていて、むしろアイヌ民族含めて奥州藤原氏連合で頼朝の鎌倉幕府を滅ぼせるぐらいだったのにな。
義経にとって養父とか後ろ盾になってくれた秀衡が死ななくてもっと長生きし、泰衡が裏切らず奥州藤原氏一族で義経に味方しアイヌ民族ももちろん味方し、後白河法皇が裏切らずに義経に味方した上に、過去の朝廷の蝦夷征討を謝罪しアイヌ(蝦夷)は朝敵ではなく味方で征夷大将軍はアイヌ征討の大将軍ではなく朝廷のアイヌ民族の大将軍として名称変更して義経を任じて、完全に反頼朝包囲網で東北と京都の両側から鎌倉幕府を挟み撃ちにできるし。
問題なのはそれで鎌倉の政権を滅ぼしても、その後の天下を誰が治めるのかという事。
もし鎌倉滅亡後また京都(朝廷)に実権が戻るなら今度は義経が「第二の平家」になるだけ。
いずれ地方武士達が源氏の血を引く誰かを旗頭に立てて…となるのは目に見えている。
この時代は京都の朝廷政治の枠組みには入らない、しかしもはやその存在を無視出来ない
『武士』という新興階級の人々が実質日本を支配していたと言っても過言ではない。
朝廷が地方を治めるために任官した国守もこの頃には完全に有名無実化していた。
朝廷が武士のための政治を行わない限り、武士達は新たな盟主による新たな政権を求める。
時代は下るが、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政があっという間に瓦解したのと要は同じ。
頼朝だって「幕府」という組織を作り上げるまでの手腕は確かでも、それを自分の後継者に継承させるための環境を悪いもので鹿用意できなかったという意味では、頼家個人の素質以前の問題言われてるし、寧ろ頼家実朝兄弟の末路は頼朝にも責任があるだろうに
同じ幕府の創始者の二代目の足利義詮や徳川秀忠が、先代の政権に参加して、ある程度の地盤を固めてもらった上で引き継いだ後でそれを何とか守り抜くだけの力はあったこの二人のレベルまで育てることが出来なかった(育てようとしたら暗殺された説もあるとはいえ)のは、頼朝の落ち度だろう
命のやり取りずっとしてたらそうなるのかもなー 兄弟とか言ってられなかったんだろうなー
でも平氏より源氏の方が好き!
「勝てば官軍」とは言え、一流という単語は適当じゃないような気がする。
自分なら異端って感じかな?
今の日本に欲しい人物
義経はやり方が宮迫さんに似てますね。
頼朝、義経の事なら神護寺文書を読めば少しは解ると思いますが、
承久の乱の真実は義経の嘘が発端で発生した事は余り発信されていない
ですが原因が本当にしょぼい内容でびっくりしますよww
当家は頼朝と同じ河内源氏の家系で親戚ですが、主に寺社警備、荘園管理の仕事で地方の母方
領地の管理をしていましたが偶々、孫の代から高僧が出て天皇家から京都の寺社で警備を一族
4家で任され京都にいましたが義経がお前たちだけズルいと頼朝に嘘の手紙を出したことが
承久の乱に発展し京都入りした頼朝が義経の嘘に気が付き破壊された寺社の修繕費等莫大な
損害賠償を払うことになり頼朝はキレたそうです。当家は源氏で母方は平氏で平家とも良好な
関係でしたよ。天皇と天皇家、公家の保護をして頼朝の和議に間に入って居たのである程度は聞いていますが、
本当の歴史の内容だったら流石にドラマに出来ない内容ですよww
「一次資料見ている」と言いながら、こんな話しかできないのはなぜ?
その資料はねじ曲げられた嘘モノ一次ばかりだろう。
伊東氏、、、毎度毎度浅い考察ですね。