【大宰府】現時代誕生の地!?ぱっと見地味だが実はすごい古都・大宰府に行くべし!!【福岡】
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- เผยแพร่เมื่อ 15 ธ.ค. 2024
- 最近突然の気温低下にブルってます。布団から出てこれないよ・・・。
そうこうしているうちにもう11月末。時の流れは早いですね。
1300年前というのは、歴史からすれば我々が感じているより最近の話かもしれません。
・・・あれ?今年あと1ヶ月しかないんですか?
▼前回の動画はこちら▼
• 【関門海峡】日本の要所で転換点!あらゆる歴史...
X(旧Twitter)→ / ano_jyoukei
<今回ご紹介した場所>
・水城跡
・姿見井
・大宰府政庁跡
・坂本八幡宮
・観世音寺
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クレジット
効果音等:OtoLogic
音楽:しゃろう / 甘茶の音楽工房 / BGMer
字幕フォント:はれのそら明朝
制作:或ノ情景
※動画内の画像や映像等の無断使用はお控えください。
#福岡 #旅行 #福岡観光 #大宰府 #太宰府 #水城 #大宰府政庁跡 #令和 #或ノ情景
とても良かったです。
太宰府の「府」は大阪府などと同じ意味なのかなと、ずっと疑問に思っていました。
水城や山城などで防御するほど立派な都だったんでしょうね。 ロマンがあります。
多分当時の大宰府を落とされると九州全土持っていかれる可能性が高いので、
絶対に守らないといけなかったんでしょうね…🛡
とふろう前にも 行って もらいたかったです。
最初は都府楼前スタートの予定でしたが、水城を紹介することにしたので変更しました・・・笑
実はまだ大宰府でやり残したことがあるので、次訪れる際は都府楼前駅もご紹介したいと思います。
はじめまして😊
興味深い内容で楽しませていただきました!ワタクシも福岡近辺をブラリ旅した動画上げたりしてます😊
引き続き他の動画も拝見させていただきます!
チャンネル🔔させてもらいます😊
ありがとうございます!
自分はまだまだ未熟者ですが、ぼちぼち活動していくので
今後ともよろしくお願いします!
大宰府政庁跡に行くとは渋いですね。小学校の遠足の定番でした。大宰府の大の字が太の字を使用するようになったのは、道真の祟りを鎮めるのに931年太政大臣の追贈されたのがきっかけの様です。990年に本来は天皇家・皇族をまつる神社の社号の天満宮までに至りました。それ以降の歴史は太宰府ですね。観世音寺の日本最古の現役梵鐘は除夜の鐘として一般の方も先着70〜90人ほど突けます。
小学校の遠足で行くんですね・・・自分は高校生の頃初めて訪れましたが、当時全くここの魅力を理解できませんでした笑
やっぱ道真公以降は太宰府なんですね。一応動画内では天満宮と区別するためにも大宰府表記にしています。
観世音寺の梵鐘、この間九博で見ましたけど除夜の鐘に使われるんですね・・・😲
自分もいつか道真公が聞いた音色を響かせてみたいものです。
懐かしいですね、地元では都府楼跡と呼んでましたね
大宰府・都督府・都府楼と様々な呼び方があったようですが、
自分もたしかに都府楼が一番しっくりくる気がします。
「だざいふ」だと会話では天満宮とごっちゃになってしまいますもんね笑
「大宰府」ではなく「太宰府」でお願いします。
公式である古都大宰府保存協会様では「大宰府」の表記にほぼ統一されているので動画内ではそれに倣っています。
が、実は私は都府楼派です。
水城や大野城、基肄城は大宰府防衛のために築城された施設らしいですが、一地方拠点防衛のためだけにこのような大規模な工事が行われたのでしょうか。唐が攻めてくるなら都の防衛に力を尽くすべきだと思いますが、なぜか唐軍は北部九州だけを攻めると考えたのでしょうかね。
面白い観点ですね・・・色々調べたところ、一応西日本各地に防衛拠点が置かれたほか、
都も難波から大津京に移しているのでちゃんと防衛体制はあったみたいです。
大宰府がめちゃくちゃ強化されたのは最初に侵攻される可能性が高かったからですかね。
当時正確な日本地図がないうえに航海の技術も未熟だったため、
唐が大軍で攻めてくるなら、すでに遣隋使で確立されていた九州ルート以外はありえん!と考えていたのかもしれません。
そもそも当時貿易港が博多だけだったはずなので、お互い九州ルートしか知らなかった可能性もありますけどね笑
@@ano_jyoukei 大宰府政庁跡に筑紫都督府と記された石碑があります。都督府は唐が占領した百済や新羅、高句麗にも置かれていたようです。ということは、唐は筑紫にあった倭国を占領したのでしょうね。そして、2千名の唐兵を率いた唐の官吏 郭 務悰が筑紫を訪れて滞在しています。唐の占領軍のいる中、唐軍侵攻の防衛施設である水城、大野城などを築いたとはおかしいですね。日本書紀による日本古代史の改竄と思います(教科書的にはあり得ない話ですが)。
要塞都市としての大宰府は人工的に作られた都市。外交施設としての前身は博多にあった。それが作られてから130年後白村江の戦い(我が国最初の対外戦争)があって新羅と唐の軍隊に敗れ敗走した。大陸の軍勢が攻めてくるのが懸念され、防衛のために内陸部の太宰府に引っ込んだということです。最初は軍事都市として建設され、敵の侵入を防ぐために水城を作ったという経緯かと。
結局大陸から攻めてくることはなく後の奈良時代初めに外交施設として作り替えられた。その時期に都から大伴旅人が長官として派遣され、お付きのものたちを集めて歌会が催されたのが梅花の宴。その和歌集の前文に令和の元になった文字が残されている。梅花の宴から170年後の901年に菅原道真が左遷されてやってきた。大宰府政庁にお住まいになっていたが病気のために2年後に亡くなられた。そして、ご遺体を運ぶ牛車が止まったところに埋葬された。その地が今の太宰府天満宮。最初は小さな祠が建てられていただけだったが、だんだんお参りする人が増え江戸時代には天満宮参りが大流行りになったそうです。太宰府天満宮の下には道真公のご遺体があると言われている。みなさんが天満宮にお参りしている時道真公に直接お参りしていることになりますね。
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倭国の都として日本初の条坊制の都市を作り上げたと思う。その大宰府を囲むように周囲51Kmに渡り土塁や山城、水城が点在する。663年白村江の戦いに負けた後に、1年間で作るのは不可能。白村江には現在の人口規模換算で100万人以上を送り込んでおり労働力不足も明らか。
大宰府は、「大王の遠の朝廷」と万葉集に歌われているが、他には継体天皇の出身地の越後があるようだ。個人的な解釈では、白村江の戦い以前は、倭国は強国で大和王権は従の関係であり、倭国の大王がいた都に柿本人麻呂は幾度か通ったことがあり、懐かしんで歌ったのだろうと思う。