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三国志の勝者は司馬一族というより儒学名士だと思う。司馬懿が積極的に魏を滅ぼそうと動いたとは考えづらい。積極的に動いたのは司馬師くらいじゃないかと...。
仲達「俺何も疑われることしてないのに、孔明がいないと自分の立場が危ういからわざと策にかかったふりをしたとか、自分の才能を揺るぎないものにするために死んでも逃げだす敵と戦い続けたとか、虎狼だとか足の裏が真っ白のままだとか好き放題いう曹一族なんて好きになれる訳無いだろう!」
司馬懿は優秀すぎた
後漢時代のように豪族の力が強い場合は中央派遣の地方官の統治が上っ面だけのものになるので、それよりは地方王国の貴族として豪族を取り込んだ方が実のある統治になるんでしょうね。
司馬氏はそもそもが儒者だから、徳の必要ない実力主義の中央集権に反対していたというのは納得できる。諸葛京や陸機のような、敵対国の名士を優遇して一族の分封国王の臣下にしたりそのまま中央に登用したりというのも魏とは全く異なる思想。これが曹操や曹丕だったら家柄無視の実力主義でそこらの地方官もしくは排斥で二度とチャンスは来ない。九品官人法がそもそも家柄や評判重視の、後になるほど門閥政治の象徴であることも司馬氏=封建政治の傍証となる。これと同じようなことを荀彧や催琰なども考えており、その立場から曹操の魏公・魏王就任を拒否していたが、徹底したリアリスト・曹操と九品官人法を受け入れるくらいには寛容な曹丕、はたまたそれ以降の少年皇帝達では生きた時代も価値観も異なる。司馬懿らの思想は、ある意味で曹操が最も望まない結末だったのかもしれない。実際、魏末期から既に西晋崩壊の予兆である思想の腐敗・拝金主義も始まっているし、結局司馬懿らが成し遂げたことは歴史の繰り返しに過ぎなかったのである。
曹操と意気投合していたとしても最終的には乗っ取っていたと思います。誰かの下で仕えるような気質では無かったし本人もそう思っていたから仕官を断ったのだと思います。
河内(かだい)郡ですね。固有名詞かつ一意なので、流石に指摘させて頂きました;内容むっちゃ良かったです!
司馬懿がしっかり地固めをしても孫の司馬炎や恵帝・司馬衷がやらしちゃうんだよなあ。切ないねえ...。
だ
司馬朗が行方不明とあるが、族兄の司馬芝が母を連れて荊州に逃げている事を考えてると司馬朗も荊州に居たんじゃなかろうか。荊州は劉表が支配してるから避難場所として良かったと思う。あと周を目指した反面教師王莽が忘れられている。司馬芝をシバシバと読んで憶えると忘れない。これはマメです(笑)
曹操が中央集権なら司馬氏は封建制、考えていませんでしたが面白いですね。一方、先日読んだ「雑誌ムー10月号No,467」の「東日流外三郡誌の謎と超古代アラハバキ王国」の中に、「中国の晋から動乱を逃れてやってきた流民の晋族」「アラハバキ五王の制度を敷いた」「アラハバキという呼称は中国の軍神の名によるとも、晋の王子の名によるともいうが、のちには津軽の神、アラハバキ族の祖神を指すようにもなっている。」と書かれてあり、かつて日本に司馬氏の関係者が来ていたことを示しています。封建制が敷かれることと関係があるかもしれませんね。
意外過ぎるお話でした。だから、歴史は面白いですね(^^)v。
司馬懿が嫌いなのは曹操のみ。なので曹丕の代から活躍しました。ところで八達のうち三人以外はどこいったの?
甲古文有記載井田制的事 對中國歷史學家來說 「井田」是一種理想 大公無私的理想 現實要推行是困難重重 不只考慮人的自私心還要考慮當地地形 儒教都不斷推崇周朝 但是現實上周王朝真的有這麽棒嗎 我個人認為殷商是比周更文明的社會 周朝就如同滿清未入中原那類的民族 再說「新朝」王莽就是推行井田制 結果是讓中國大饑荒 這證明井田制在現實是一種荒謬的理論
這影片總結我認為就是有人對曹操的主張不滿 晉朝分封諸王「八王之亂」已經很明白 不管「分封」或中央集權的「郡縣」 如果地方政府還保有「下剋上」的觀念 征戰就永不停止 晉惠帝就是證明 也許曹操真的很霸道 但是我個人是認為三國之中曹操是對中國安定貢獻最大的人 西漢高祖劉邦為了讓戰後貧困的中國經濟能夠流通 發行「榆莢半兩」 一個大概是0.5到1.2公克 但是卻讓郡王也能生產 結果導致貨幣大幅度貶值 人民對貨幣不信任 這個問題到西漢武帝發行「五銖錢」才解決 後來王莽跟董卓破壞「五銖錢」制度 對中國經濟破壞可想而知 曹操努力要恢復人民對「五銖錢」的信用 雖然是失敗但是證明曹操對穩定中國經濟是有貢獻的 反而劉備跟孫權不但對穩定中國經濟沒貢獻還發行大量虛值貨幣像是「直百五銖」對人民巧取豪奪
司馬孚は曹奐が禅譲させられた時は泣いて自分は魏の臣下であると忠義誓ったらしいが…
ペンタゴンチャートの魔道師 さん 司馬孚は、西晋朝からの打診された安平王・四万戸を蹴っています。陳留王となった曹奐の上位にいくのは、節義に反するというのが理由です。兄の司馬仲達は、西晋朝の皇祖。魏にあって司馬一族の求心力となった司馬孚は、西晋朝にとってもう一人の仲達と称してもいい、国父というべき存在。皇帝司馬炎にとっての大叔父で、敬称は『司馬皇叔』三国志演義においての劉皇叔(劉備)のモデルとなった人物ではないでしょうか。資治通鑑の編著者である北宋の司馬光は、自ら司馬孚の子孫と名乗っている位の人物ですから。
周王朝の制度は時代遅れだからあわないですよてっきょく晋の時代もあんなり乱れたし場所がよかったから司馬懿は勝てただけで司馬一族が優秀なのか疑問?王莽も周王朝の制度使ったけど長く持たないし令和に江戸時代の制度で政治する感じだから(T_T)
儒教也崇尚「禪讓」 實際有可能嗎 比如說舜跟禹 禹的父親鯀是因為治水不利被舜殺害 後來禹成功了 舜讓位給禹 看來好像很美好很公道 你覺得有可能嗎 舜是禹的殺父仇人 舜因為水患民心盡失而現在民心全歸禹 所以我認為根本沒有禪讓 孔子說「大禹三過家門不入」是大公無私 我認為倒不如說禹因為盡得民心怕回家會被殺害所以躲在工地 因為工地的人全都是支持禹的人 那才是安全的地方
どんかんおりでは無いでしょうか?ホントに何時も惜しいです応援してます
在中國上古社會 一般民眾的房舍門很矮 要用跪著才能進去 只有貴族才能擁有我們現代這種房舍 一但發生水患 一般民眾大多只能受害 所以舜的治水不利肯定被民眾罵到臭頭
董太尉は思った以上に知識人を大事にしますよね蔡左中郎将とか
三国志の勝者は司馬一族というより儒学名士だと思う。
司馬懿が積極的に魏を滅ぼそうと動いたとは考えづらい。積極的に動いたのは司馬師くらいじゃないかと...。
仲達「俺何も疑われることしてないのに、孔明がいないと自分の立場が危ういからわざと策にかかったふりをしたとか、自分の才能を揺るぎないものにするために死んでも逃げだす敵と戦い続けたとか、虎狼だとか足の裏が真っ白のままだとか好き放題いう曹一族なんて好きになれる訳無いだろう!」
司馬懿は優秀すぎた
後漢時代のように豪族の力が強い場合は中央派遣の地方官の統治が上っ面だけのものになるので、
それよりは地方王国の貴族として豪族を取り込んだ方が実のある統治になるんでしょうね。
司馬氏はそもそもが儒者だから、徳の必要ない実力主義の中央集権に反対していたというのは納得できる。諸葛京や陸機のような、敵対国の名士を優遇して一族の分封国王の臣下にしたりそのまま中央に登用したりというのも魏とは全く異なる思想。これが曹操や曹丕だったら家柄無視の実力主義でそこらの地方官もしくは排斥で二度とチャンスは来ない。九品官人法がそもそも家柄や評判重視の、後になるほど門閥政治の象徴であることも司馬氏=封建政治の傍証となる。
これと同じようなことを荀彧や催琰なども考えており、その立場から曹操の魏公・魏王就任を拒否していたが、徹底したリアリスト・曹操と九品官人法を受け入れるくらいには寛容な曹丕、はたまたそれ以降の少年皇帝達では生きた時代も価値観も異なる。司馬懿らの思想は、ある意味で曹操が最も望まない結末だったのかもしれない。実際、魏末期から既に西晋崩壊の予兆である思想の腐敗・拝金主義も始まっているし、結局司馬懿らが成し遂げたことは歴史の繰り返しに過ぎなかったのである。
曹操と意気投合していたとしても
最終的には乗っ取っていたと思います。
誰かの下で仕えるような気質では無かったし
本人もそう思っていたから仕官を断ったのだと思います。
河内(かだい)郡ですね。固有名詞かつ一意なので、流石に指摘させて頂きました;
内容むっちゃ良かったです!
司馬懿がしっかり地固めをしても孫の司馬炎や恵帝・司馬衷がやらしちゃうんだよなあ。
切ないねえ...。
だ
司馬朗が行方不明とあるが、族兄の司馬芝が母を連れて荊州に逃げている事を考えてると司馬朗も荊州に居たんじゃなかろうか。
荊州は劉表が支配してるから避難場所として良かったと思う。
あと周を目指した反面教師王莽が忘れられている。
司馬芝をシバシバと読んで憶えると忘れない。これはマメです(笑)
曹操が中央集権なら司馬氏は封建制、考えていませんでしたが面白いですね。一方、先日読んだ「雑誌ムー10月号No,467」の「東日流外三郡誌の謎と超古代アラハバキ王国」の中に、「中国の晋から動乱を逃れてやってきた流民の晋族」「アラハバキ五王の制度を敷いた」「アラハバキという呼称は中国の軍神の名によるとも、晋の王子の名によるともいうが、のちには津軽の神、アラハバキ族の祖神を指すようにもなっている。」と書かれてあり、かつて日本に司馬氏の関係者が来ていたことを示しています。封建制が敷かれることと関係があるかもしれませんね。
意外過ぎるお話でした。
だから、歴史は面白いですね(^^)v。
司馬懿が嫌いなのは曹操のみ。なので曹丕の代から活躍しました。
ところで八達のうち三人以外はどこいったの?
甲古文有記載井田制的事 對中國歷史學家來說 「井田」是一種理想 大公無私的理想 現實要推行是困難重重 不只考慮人的自私心還要考慮當地地形 儒教都不斷推崇周朝 但是現實上周王朝真的有這麽棒嗎 我個人認為殷商是比周更文明的社會 周朝就如同滿清未入中原那類的民族 再說「新朝」王莽就是推行井田制 結果是讓中國大饑荒 這證明井田制在現實是一種荒謬的理論
這影片總結我認為就是有人對曹操的主張不滿 晉朝分封諸王「八王之亂」已經很明白 不管「分封」或中央集權的「郡縣」 如果地方政府還保有「下剋上」的觀念 征戰就永不停止 晉惠帝就是證明 也許曹操真的很霸道 但是我個人是認為三國之中曹操是對中國安定貢獻最大的人 西漢高祖劉邦為了讓戰後貧困的中國經濟能夠流通 發行「榆莢半兩」 一個大概是0.5到1.2公克 但是卻讓郡王也能生產 結果導致貨幣大幅度貶值 人民對貨幣不信任 這個問題到西漢武帝發行「五銖錢」才解決 後來王莽跟董卓破壞「五銖錢」制度 對中國經濟破壞可想而知 曹操努力要恢復人民對「五銖錢」的信用 雖然是失敗但是證明曹操對穩定中國經濟是有貢獻的 反而劉備跟孫權不但對穩定中國經濟沒貢獻還發行大量虛值貨幣像是「直百五銖」對人民巧取豪奪
司馬孚は曹奐が禅譲させられた時は泣いて自分は魏の臣下であると忠義誓ったらしいが…
ペンタゴンチャートの魔道師 さん 司馬孚は、西晋朝からの打診された安平王・四万戸を蹴っています。陳留王となった曹奐の上位にいくのは、節義に反するというのが理由です。
兄の司馬仲達は、西晋朝の皇祖。魏にあって司馬一族の求心力となった司馬孚は、西晋朝にとってもう一人の仲達と称してもいい、国父というべき存在。
皇帝司馬炎にとっての大叔父で、敬称は『司馬皇叔』三国志演義においての劉皇叔(劉備)のモデルとなった人物ではないでしょうか。
資治通鑑の編著者である北宋の司馬光は、自ら司馬孚の子孫と名乗っている位の人物ですから。
周王朝の制度は時代遅れだからあわないですよてっきょく晋の時代もあんなり乱れたし場所がよかったから司馬懿は勝てただけで司馬一族が優秀なのか疑問?王莽も周王朝の制度使ったけど長く持たないし令和に江戸時代の制度で政治する感じだから(T_T)
儒教也崇尚「禪讓」 實際有可能嗎 比如說舜跟禹 禹的父親鯀是因為治水不利被舜殺害 後來禹成功了 舜讓位給禹 看來好像很美好很公道 你覺得有可能嗎 舜是禹的殺父仇人 舜因為水患民心盡失而現在民心全歸禹 所以我認為根本沒有禪讓 孔子說「大禹三過家門不入」是大公無私 我認為倒不如說禹因為盡得民心怕回家會被殺害所以躲在工地 因為工地的人全都是支持禹的人 那才是安全的地方
どんかんおり
では無いでしょうか?
ホントに何時も惜しいです
応援してます
在中國上古社會 一般民眾的房舍門很矮 要用跪著才能進去 只有貴族才能擁有我們現代這種房舍 一但發生水患 一般民眾大多只能受害 所以舜的治水不利肯定被民眾罵到臭頭
董太尉は
思った以上に知識人を大事にしますよね
蔡左中郎将とか