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亡き母が楽天地でスナックをやっておりました。とても思い出深い場所です。当時を思い出し涙しました。
楽天地のお店も僅かですが、思い出は一生ですね。どうぞ大切になさってください。
50年前、栄町に一時下宿、除雪の入らない冬の裏路地、雪をかき分け、入った店内には炬燵が、女性の足に触れたつもりが上司で怒られたのも懐かしい思い出、炬燵のある店はもうないでしょうね、当時車通勤は皆無で毎日のように職場で上がり酒、怒られ泣きながら仕事を覚えた初任地
女性の足に触れたつもり、吹き出しました😆
会津若松に住んでいる者です。あまり飲みには行かないので中心部の路地裏はあまり歩くことはありませんがいっぱいあったんですね。
なかなか魅力的でした😊
林谷医院と田季野の辺りは、記憶にありました😮
はじめまして。会津在住の者です。栄町、上町界隈の歓楽街の画をお撮りになったんですね。最初に出てきたバラック周辺は、昔は「三光町(さんこうちょう)」と呼ばれていました。近くに神社があったせいか、そこを中心とした歓楽街が形成され、長く愛されていたようです。上町辺りから西へ下ると「キヨミズ通り(亀井鮨がある処)」へ入れます。この呼び名は、三光町同様、地元では今も通じます。そして、最後の方に出てくる画は、昔は「楽天地街」と呼ばれていて、実に大きな歓楽街となっていました。しかし、数十年前、火災が発生して、区画の半分以上が焼失して以来、楽天地街は一気に廃れていきました。子供の頃、亡くなった我が父が、それら歓楽街の中にある飲食店(寿司屋と居酒屋でした)に連れて行ってくれたものです。
濃密なコメントをありがとうございます☺バラック周辺はとても不思議な空間だったのですが、由来がわかり喉につかえた骨が取れた思いです。楽天地の火災の前の姿を観てみたかったです。
@@shouwanafuukei コメント返信感謝いたします。我が父は、ご紹介頂いた辺りの店の常連であり、ワタシとワタシの姉をお供に連れて行ってくれたものですから、だから、今でも、思い出の中に、昔の呑み屋街の記憶が残っているのだと思います。今、ラストショットの、ラーメン屋さんが見えてくる通りの画を拝見しております。此処は「花小路通り」と呼ばれる処で、大正の頃から存在した歓楽地でした。右手に見えてくる駐車場には、以前、映画館が2軒入ったテナントビルがありました。反対を振り返れば、そこには、食堂やら、ビリヤード場やら、旅館やら、パチンコ屋があり、射的とスロットマシンが遊べる処もありました。そういえば、こういう通りには、必ず、何気に「旅館」が存在してますね。どのような用途で泊まるのかは、別として。まあ、仕方ないと思います。歓楽地には、必ずと云っていいほどに「置屋さん」が存在していたのですから。
想像以上に栄えていたのですね😳本当に貴重な情報をありがとうございます😊
遊郭のあった七日町(磐見町)の方が再開発やら道路付け替えで街自体新しい感じになってるのが皮肉というか・・・・。
七日町駅周辺はスッカリと観光地化されましたね、私は今の栄町近辺の方が好きです😆
国道121号線脇から入った末広町も,面影はほとんど無く駐車場になっている😔
ほんとに、駐車場だらけ状態でしたね😢
日本中の昭和の歓楽街がみんなこんな感じになって、日本人の大人の遊び方が変わったんだと思います。酒を呑んで女を買い宿にしけこむ、ってもう若者はやらないしそんな元気もなさそう。都会ではもっと手っ取り早く女性と付き合う方法もある。貴殿の映像はやがて往時の風景を記録する貴重な記録になりそうだ。
コメントありがとうございます😊少しでも多くの昭和を記録できればと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。
いい感じに寂れてますね、観光客はラーメン目当てに喜多方のほうに行っちゃったのかな。
会津のお城や白虎隊、野口英世と観光客は絶えない名所ですね☺栄町も夜になれば賑わっていると思います、ただ区画整理のため古い歓楽街は廃墟化していました。😢
建物にツタが張ったりして、ゴーストタウン、スラム街と言ったらいいのか?栄町というのは、あっちこっちの盛り場にありますね。沖縄にも栄町という、かつて怪しげな飲み屋街がありました。
再開発の影響か、ここはまさに昭和の残照でした。沖縄の栄町は元気で活気がありますね😊
会津若松か、、コロナでボロボロに廃れたような感じですかね。昔の上町界隈のイケイケ開発が懐かしい。
東北では数少ない博徒系組織、会津角定一家(現在は山口組傘下で福島市本部30人ソコソコ)の本拠地だった位ですから、小さい街のわりには花街の規模は大きかったんですね。角定一家は、会津松平藩の中元連中がやっていた博打が起源のようです、特に幕末、江戸屋敷や京都屋敷の維持費が大変で中元達が屋敷内で賭場を開くのを黙認していたようです、中元達から寺銭を取っていたからです。屋敷内は町方が踏み込めないですから、取り締まりを受けなかった訳です。因みに寺・神社も寺社奉行の管轄ですから、町方の取り締まりを受けず、賭場が開かれてました。寺銭とは寺に上がりを納めた所から来てます。鉄火巻も鉄火場(賭場)で博打をしながらでも食べれるように出されたのが始まりと言われてます。会津松平は京都守護職で、京屋敷の中元、上坂仙吉が博徒組織会津小鉄会(京都・現在は20人程で殆ど山口組傘下・最盛期1500名)の初代ですから、会津小鉄会と会津角定一家は、同じ松平藩が源流で、約150年の時を経て山口組を通して、また身内になった事になります 笑新撰組の近藤勇の愛刀も小鉄(虎徹・虎鉄)と呼ばれてます。
寺銭に鉄火巻、非常におもしろいお話をありがとうございます。歴史の深さと最盛期1500人には驚きました!?
亡き母が楽天地でスナックをやっておりました。とても思い出深い場所です。当時を思い出し涙しました。
楽天地のお店も僅かですが、思い出は一生ですね。どうぞ大切になさってください。
50年前、栄町に一時下宿、除雪の入らない冬の裏路地、雪をかき分け、入った店内には炬燵が、女性の足に触れたつもりが上司で怒られたのも懐かしい思い出、炬燵のある店はもうないでしょうね、当時車通勤は皆無で毎日のように職場で上がり酒、怒られ泣きながら仕事を覚えた初任地
女性の足に触れたつもり、吹き出しました😆
会津若松に住んでいる者です。あまり飲みには行かないので中心部の路地裏はあまり歩くことはありませんがいっぱいあったんですね。
なかなか魅力的でした😊
林谷医院と田季野の辺りは、記憶にありました😮
はじめまして。会津在住の者です。
栄町、上町界隈の歓楽街の画をお撮りになったんですね。
最初に出てきたバラック周辺は、昔は「三光町(さんこうちょう)」と呼ばれていました。
近くに神社があったせいか、そこを中心とした歓楽街が形成され、長く愛されていたようです。
上町辺りから西へ下ると「キヨミズ通り(亀井鮨がある処)」へ入れます。この呼び名は、三光町同様、地元では今も通じます。
そして、最後の方に出てくる画は、昔は「楽天地街」と呼ばれていて、実に大きな歓楽街となっていました。
しかし、数十年前、火災が発生して、区画の半分以上が焼失して以来、楽天地街は一気に廃れていきました。
子供の頃、亡くなった我が父が、それら歓楽街の中にある飲食店(寿司屋と居酒屋でした)に連れて行ってくれたものです。
濃密なコメントをありがとうございます☺バラック周辺はとても不思議な空間だったのですが、由来がわかり喉につかえた骨が取れた思いです。楽天地の火災の前の姿を観てみたかったです。
@@shouwanafuukei コメント返信感謝いたします。
我が父は、ご紹介頂いた辺りの店の常連であり、ワタシとワタシの姉をお供に連れて行ってくれたものですから、
だから、今でも、思い出の中に、昔の呑み屋街の記憶が残っているのだと思います。
今、ラストショットの、ラーメン屋さんが見えてくる通りの画を拝見しております。
此処は「花小路通り」と呼ばれる処で、大正の頃から存在した歓楽地でした。
右手に見えてくる駐車場には、以前、映画館が2軒入ったテナントビルがありました。
反対を振り返れば、そこには、食堂やら、ビリヤード場やら、旅館やら、パチンコ屋があり、射的とスロットマシンが遊べる処もありました。
そういえば、こういう通りには、必ず、何気に「旅館」が存在してますね。どのような用途で泊まるのかは、別として。
まあ、仕方ないと思います。歓楽地には、必ずと云っていいほどに「置屋さん」が存在していたのですから。
想像以上に栄えていたのですね😳本当に貴重な情報をありがとうございます😊
遊郭のあった七日町(磐見町)の方が再開発やら道路付け替えで街自体新しい感じになってるのが皮肉というか・・・・。
七日町駅周辺はスッカリと観光地化されましたね、私は今の栄町近辺の方が好きです😆
国道121号線脇から入った末広町も,面影はほとんど無く駐車場になっている😔
ほんとに、駐車場だらけ状態でしたね😢
日本中の昭和の歓楽街がみんなこんな感じになって、日本人の大人の遊び方が変わったんだと
思います。酒を呑んで女を買い宿にしけこむ、ってもう若者はやらないしそんな元気もなさそう。
都会ではもっと手っ取り早く女性と付き合う方法もある。貴殿の映像はやがて往時の風景を
記録する貴重な記録になりそうだ。
コメントありがとうございます😊少しでも多くの昭和を記録できればと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。
いい感じに寂れてますね、観光客はラーメン目当てに喜多方のほうに行っちゃったのかな。
会津のお城や白虎隊、野口英世と観光客は絶えない名所ですね☺栄町も夜になれば賑わっていると思います、ただ区画整理のため古い歓楽街は廃墟化していました。😢
建物にツタが張ったりして、ゴーストタウン、スラム街と言ったらいいのか?栄町というのは、あっちこっちの盛り場にありますね。沖縄にも栄町という、かつて怪しげな飲み屋街がありました。
再開発の影響か、ここはまさに昭和の残照でした。沖縄の栄町は元気で活気がありますね😊
会津若松か、、
コロナでボロボロに廃れたような感じですかね。
昔の上町界隈のイケイケ開発が懐かしい。
東北では数少ない博徒系組織、会津角定一家(現在は山口組傘下で福島市本部30人ソコソコ)の本拠地だった位ですから、小さい街のわりには花街の規模は大きかったんですね。
角定一家は、会津松平藩の中元連中がやっていた博打が起源のようです、特に幕末、江戸屋敷や京都屋敷の維持費が大変で中元達が屋敷内で賭場を開くのを黙認していたようです、中元達から寺銭を取っていたからです。
屋敷内は町方が踏み込めないですから、取り締まりを受けなかった訳です。
因みに寺・神社も寺社奉行の管轄ですから、町方の取り締まりを受けず、賭場が開かれてました。寺銭とは寺に上がりを納めた所から来てます。
鉄火巻も鉄火場(賭場)で博打をしながらでも食べれるように出されたのが始まりと言われてます。
会津松平は京都守護職で、京屋敷の中元、上坂仙吉が博徒組織会津小鉄会(京都・現在は20人程で殆ど山口組傘下・最盛期1500名)の初代ですから、会津小鉄会と会津角定一家は、同じ松平藩が源流で、約150年の時を経て山口組を通して、また身内になった事になります 笑
新撰組の近藤勇の愛刀も小鉄(虎徹・虎鉄)と呼ばれてます。
寺銭に鉄火巻、非常におもしろいお話をありがとうございます。
歴史の深さと最盛期1500人には驚きました!?