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この時代の映像があるのかなり貴重だよね ありがたい
香椎参道に暮らしていた頃を懐かしく思い出す。
酒殿の分岐と宇美の奥の方まであったのを初めて見れました。貴重な映像ありがとうございます。
車窓から見える懐かしい街並みや車、貴重な映像ありがとうございます。伊賀駅前、今葬儀会館が建ってるところに米の加工をしに祖父や父と出かけていました。
いつも通勤でこの区間利用しております。ちなみにこの時代は香椎神宮、舞松原、長者原、須恵中央の4駅が無かったのですね。※自分平成生まれなので知りません
とても懐かしいです。この頃自動車を積載したDD51形機関車に牽かれた貨物列車が伊賀駅を通過しながらタブレット交換して走り去って行く姿を思い出しました。とても長く、駅横の踏切を通過し終わる前に機関車は駅構内を過ぎて酒殿への登り勾配を登る姿に感動し、これが鉄道が好きになるきっかけです。昭和44年の頃、その当時の駅はホームが千鳥状で駅長が手動でポイント切替し、タブレットの入った大きな輪っかを持って向かいのホームに行って列車交換している姿が鮮明に思い出ました。
懐かしい。この動画の2年ほど前には1:03 沿線の左側の路地でタバコを吹かしていたなぁ。高校生時代。
今無き筑前勝田線の、貴重な映像ありがとうございます、このデイゼルカーがあった頃、篠栗乗り換え抜きで、篠栗に行けてました、終点の宇美駅は香椎線の宇美駅と、勝田線の宇美駅とは、離れてたようで、勝田せんの筑前志免駅は残ってますし、75年頃までSLでした、がこの翌年85年に惜しまれ、廃止で香椎線のと、なりました
香椎線の宇美駅と勝田線の宇美駅は数十メートル離れていました。元々、両者は違う鉄道会社でしたから。香椎線は博多湾鉄道、勝田線は筑前参宮鉄道でした。ただし、国鉄時代には1枚のきっぷで宇美駅を介した両線相互の乗り換えも可能だったという記憶はあります。
お返事ありがとうございます、とてもお詳しいですね、
@@user-bv9zu8fe7b さまいえいえ、地元のお年寄りの方でご存知という人から伺いました。あとついてですが、博多湾鉄道も筑前参宮鉄道も、西鉄として吸収合併されたので、とちらの路線も一時的に西鉄の一部だった時期があります。その後に国鉄が博多湾鉄道の香椎線部分と筑前参宮鉄道を買い取ったのですが、なぜか宮地岳線部分だけは買い取らず西鉄宮地岳線として残されました。おそらく、香椎線と勝田線を石炭輸送用として国鉄が優先的に欲しがったのではないかと思います。
@@jamesjacobsen7824さまはい勝田線の方は停留場状態でしたが申し出れば乗換え自体は可能でした。でもそのような乗換え需要は日中は私たちのような者以外なかったのではないでしょうか🙂でも車掌さんは放送してたような気はします乗換え案内。
@@jamesjacobsen7824さま国有化は戦時国策、また志免鉱は海軍から国鉄に引き継がれた炭鉱で、勝田鉱と合わせて西戸崎や戦後は西鉄吉塚線経由博多港からも積み出していたとのことです。また、吉塚〜香椎〜酒殿・志免〜吉塚とデルタ線が構成され、特急かもめ(固定クロスシート車で運行時代)の方向転換をしていたそうですね。
なつかしいです。運転席まる見えというか開放感たっぷりのキハ20ならではのアングル。列車本数は少なかったですよね。酒殿駅で志免への分岐を気にしていると「後の方、ホームにかかりませんので...」と放送。忙しかった🙂停まるとホームかからない車両もドアはばーんって開いてたと思います。宇美方の分岐器はばね式だったんですね。香椎線残ってよかった。貴重な映像をありがとうございました。
昔子供の頃須恵に住んでいました。流石に14年ほど前なので貨物線分岐とか全く知りませんでした。キハがいた頃の香椎はなんか懐かしくて哀愁がありましたね。
この時代は新原駅に列車交換設備がなかったんですね
現在酒殿駅北東側にあるトイレはこれに映ってるトイレのままかな?
5:38都市高の高架が無いよ!
新原あんまり変わりなくて草
この時代の映像があるのかなり貴重だよね ありがたい
香椎参道に暮らしていた頃を懐かしく思い出す。
酒殿の分岐と宇美の奥の方まであったのを初めて見れました。貴重な映像ありがとうございます。
車窓から見える懐かしい街並みや車、貴重な映像ありがとうございます。
伊賀駅前、今葬儀会館が建ってるところに米の加工をしに祖父や父と出かけていました。
いつも通勤でこの区間利用しております。ちなみにこの時代は香椎神宮、舞松原、長者原、須恵中央の4駅が無かったのですね。※自分平成生まれなので知りません
とても懐かしいです。この頃自動車を積載したDD51形機関車に牽かれた貨物列車が伊賀駅を通過しながらタブレット交換して走り去って行く姿を思い出しました。とても長く、駅横の踏切を通過し終わる前に機関車は駅構内を過ぎて酒殿への登り勾配を登る姿に感動し、これが鉄道が好きになるきっかけです。昭和44年の頃、その当時の駅はホームが千鳥状で駅長が手動でポイント切替し、タブレットの入った大きな輪っかを持って向かいのホームに行って列車交換している姿が鮮明に思い出ました。
懐かしい。この動画の2年ほど前には1:03 沿線の左側の路地でタバコを吹かしていたなぁ。高校生時代。
今無き筑前勝田線の、貴重な映像ありがとうございます、このデイゼルカーがあった頃、篠栗乗り換え抜きで、篠栗に行けてました、終点の宇美駅は香椎線の宇美駅と、勝田線の宇美駅とは、離れてたようで、勝田せんの筑前志免駅は残ってますし、75年頃までSLでした、がこの翌年85年に惜しまれ、廃止で香椎線のと、なりました
香椎線の宇美駅と勝田線の宇美駅は数十メートル離れていました。元々、両者は違う鉄道会社でしたから。香椎線は博多湾鉄道、勝田線は筑前参宮鉄道でした。ただし、国鉄時代には1枚のきっぷで宇美駅を介した両線相互の乗り換えも可能だったという記憶はあります。
お返事ありがとうございます、とてもお詳しいですね、
@@user-bv9zu8fe7b さま
いえいえ、地元のお年寄りの方でご存知という人から伺いました。
あとついてですが、博多湾鉄道も筑前参宮鉄道も、西鉄として吸収合併されたので、とちらの路線も一時的に西鉄の一部だった時期があります。その後に国鉄が博多湾鉄道の香椎線部分と筑前参宮鉄道を買い取ったのですが、なぜか宮地岳線部分だけは買い取らず西鉄宮地岳線として残されました。おそらく、香椎線と勝田線を石炭輸送用として国鉄が優先的に欲しがったのではないかと思います。
@@jamesjacobsen7824さま
はい勝田線の方は停留場状態でしたが申し出れば乗換え自体は可能でした。でもそのような乗換え需要は日中は私たちのような者以外なかったのではないでしょうか🙂でも車掌さんは放送してたような気はします乗換え案内。
@@jamesjacobsen7824さま
国有化は戦時国策、また志免鉱は海軍から国鉄に引き継がれた炭鉱で、勝田鉱と合わせて西戸崎や戦後は西鉄吉塚線経由博多港からも積み出していたとのことです。
また、吉塚〜香椎〜酒殿・志免〜吉塚とデルタ線が構成され、特急かもめ(固定クロスシート車で運行時代)の方向転換をしていたそうですね。
なつかしいです。運転席まる見えというか開放感たっぷりのキハ20ならではのアングル。列車本数は少なかったですよね。酒殿駅で志免への分岐を気にしていると「後の方、ホームにかかりませんので...」と放送。忙しかった🙂停まるとホームかからない車両もドアはばーんって開いてたと思います。宇美方の分岐器はばね式だったんですね。
香椎線残ってよかった。貴重な映像をありがとうございました。
昔子供の頃須恵に住んでいました。
流石に14年ほど前なので貨物線分岐とか全く知りませんでした。
キハがいた頃の香椎はなんか懐かしくて哀愁がありましたね。
この時代は新原駅に列車交換設備がなかったんですね
現在酒殿駅北東側にあるトイレはこれに映ってるトイレのままかな?
5:38都市高の高架が無いよ!
新原あんまり変わりなくて草