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大変興味深い内容でした。大阪湾の埋立て事業の歴史もぜひ学びたいです。
大変勉強になりました。生家のある生野区も大阪中心部の地名も非常に勉強になりました。その地に貢献した方の名前が地名になっている所が数多く、未来もこの地名が残っている事を願います。有難う御座いました。
こちらこそ、ありがとうございます!聖徳太子など歴史で習う人物に由来をもつ地域に住む子どもたちは、そのことをきっと誇りに思うでしょうね☺️様々な古い由来を守っていきたいですね!
面白かった。また関西でやってほしい
ありがとうございます!とても励みになります☺️
大阪は京都に都が遷る前からの古い土地であることを意識しない大阪人のなんと多いことか。京都より古い奈良の何時から奈良にいるかわからないくらいの旧家出身で大阪に嫁いだ祖母が大阪はホンマは京都より古い奈良と同じくらい古いんやでと言っていたことを思い出す。
現代社会では、歴史に想いを馳せる余裕がないように感じます。とくに若い方には歴史を学び、地元に誇りを持って豊かに生きて欲しいものです。
歴史の授業で教えてくれませんからねぇ。大化の改新は教科書に載ってても、難波宮で行われたことは教えてくれません。
大阪(摂津)、京、大和、河内、和泉、畿内から近畿の地名の歴史だけでも地元の学校で教え、知っている方が日本、外国で地名の意味を聞かれた時に説明できて地元愛が深まるでしょう❤
とても面白いお話でした。個人的には験担ぎを込めた地名も多いなという印象でした。また、奈良の独立運動があったことをここで初めて耳にして驚きました。
うちの小学校の先生の得意なお話でした。御所当たりの旧家の分家出身らしい。
奈良県が一時期とはいえ大阪府に編入していたなんて驚きですよね😳験担ぎを込めている地名も確かに多いですね。ありがとうございます!
13:41この今市は京街道中で摂津国=東成郡東端、現代の大阪人に馴染みある言い方やと地下鉄「太子橋今市」の今市今でこそ今市は市内やけど、当時は街道上の村落で、旧市:大坂からは距離があり、仮に片町からでも5km弱そんななか、市街ではなくわざわざ国境での出迎えが嬉しかったという、家光の気持ちが地租免除に直結した三郷惣年寄の政治力に感心するエピソードや
百人一首の競技会で最初に歌われるのは札にない、18:18「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」と王仁の句で始まります。
なんと競技会での初めの句なんですね☺️和歌の中でも特別な句なんでしょうか?王仁の句というのが重要だったりしますか?
@@nihon_chimei 日本に文字と儒教を伝えたのが王仁だと信じられています。ですので年少者が読み書きすることのきっかけとなるかるた会で顕彰する意味合いがあるものと考えられます。現在の同wikiは2000頃の金栄達の発表を大きく受けて学術を装っていますが、おそらく多くが単一ソース根拠依頼で歪んでいると思われます。王仁ネタは韓国のネットユーザーには馴染みのものの様です。
「難波津に咲くやこのはな… 」の歌は昔むかしは手習いの最初だったそうです。源氏物語の「若紫」には少女がこの歌で仮名の手習いをする場面があるそうです。
@TheBikkuri なるほど、王仁を顕彰する意味合いがあるんですね。wikiも参照してみましたが歴史的な事象は様々な賛否があるようですね、、、色々と勉強になりました。ありがとうございます!
@蛙井出野 何気なく扱っていましたが、重要な歌とされていたんですね。大河でも源氏物語をテーマにしていますよね。なかなか見る機会がなかったですが、年末年始は古文の勉強をしてようという気になりました。
たまに阿倍野神社の前通ったら、「♪いよぉ~(ポン、ポン、ポン)、いよ~」とか、能面被って踊ってるのやってるのが、門から見えるパンフレット貰って見たら、招待客が全員「裏千家流」とか、その筋の専門の人しか来てなさそうでワロタw
堺市もこういう歴史にちなんだ区名になれば良かったんですけどね…。
中央区のとこ、間違ってますよー
かみまち台地?
我が東成がどんどん小さくなってくの、何度見ても笑えるw
明治維新の際、大阪市が首都になっていたら摂津が大阪都になっていたかもしれません。
そうなれば、関西弁が標準語になっていたのでしょうか(笑)大政奉還後に天皇を中心とした公家政治の打開のため、大久保利通は京の御所から遷都をするべく行動していたようです。白羽の矢が立ったのが、政府軍が早くから掌握をしていた大阪でした。大久保の様々な働きかけの最中に、北海道開拓の後には江戸が日本の地理的中心になること、省庁の代わりになる藩屋敷があり道幅も余裕のあることなどの上申を受けた上に、江戸城の無血開城で比較的穏便に江戸が手に入るという奇跡が重なり、現在の東京に首都機能が移ることになります。もし、無血開城がなされなければ、江戸は治安が乱れ、その市街も戦火に見舞われたことでしょう。もしそうなれば、大阪が首都になったと思います。
大変興味深い内容でした。大阪湾の埋立て事業の歴史もぜひ学びたいです。
大変勉強になりました。生家のある生野区も大阪中心部の地名も非常に勉強になりました。
その地に貢献した方の名前が地名になっている所が数多く、未来もこの地名が残っている事を願います。有難う御座いました。
こちらこそ、ありがとうございます!聖徳太子など歴史で習う人物に由来をもつ地域に住む子どもたちは、そのことをきっと誇りに思うでしょうね☺️
様々な古い由来を守っていきたいですね!
面白かった。また関西でやってほしい
ありがとうございます!
とても励みになります☺️
大阪は京都に都が遷る前からの古い土地であることを意識しない大阪人のなんと多いことか。京都より古い奈良の何時から奈良にいるかわからないくらいの旧家出身で大阪に嫁いだ祖母が大阪はホンマは京都より古い奈良と同じくらい古いんやでと言っていたことを思い出す。
現代社会では、歴史に想いを馳せる余裕がないように感じます。とくに若い方には歴史を学び、地元に誇りを持って豊かに生きて欲しいものです。
歴史の授業で教えてくれませんからねぇ。
大化の改新は教科書に載ってても、難波宮で行われたことは教えてくれません。
大阪(摂津)、京、大和、河内、和泉、畿内から近畿の地名の歴史だけでも地元の学校で教え、知っている方が日本、外国で地名の意味を聞かれた時に説明できて地元愛が深まるでしょう❤
とても面白いお話でした。個人的には験担ぎを込めた地名も多いなという印象でした。また、奈良の独立運動があったことをここで初めて耳にして驚きました。
うちの小学校の先生の得意なお話でした。御所当たりの旧家の分家出身らしい。
奈良県が一時期とはいえ大阪府に編入していたなんて驚きですよね😳
験担ぎを込めている地名も確かに多いですね。ありがとうございます!
13:41
この今市は京街道中で摂津国=東成郡東端、現代の大阪人に馴染みある言い方やと地下鉄「太子橋今市」の今市
今でこそ今市は市内やけど、当時は街道上の村落で、旧市:大坂からは距離があり、仮に片町からでも5km弱
そんななか、市街ではなくわざわざ国境での出迎えが嬉しかったという、家光の気持ちが地租免除に直結した
三郷惣年寄の政治力に感心するエピソードや
百人一首の競技会で最初に歌われるのは札にない、18:18「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」と王仁の句で始まります。
なんと競技会での初めの句なんですね☺️和歌の中でも特別な句なんでしょうか?
王仁の句というのが重要だったりしますか?
@@nihon_chimei 日本に文字と儒教を伝えたのが王仁だと信じられています。ですので年少者が読み書きすることのきっかけとなるかるた会で顕彰する意味合いがあるものと考えられます。
現在の同wikiは2000頃の金栄達の発表を大きく受けて学術を装っていますが、おそらく多くが単一ソース根拠依頼で歪んでいると思われます。
王仁ネタは韓国のネットユーザーには馴染みのものの様です。
「難波津に咲くやこのはな… 」の歌は
昔むかしは手習いの最初だったそうです。
源氏物語の「若紫」には
少女がこの歌で仮名の手習いをする場面があるそうです。
@TheBikkuri なるほど、王仁を顕彰する意味合いがあるんですね。wikiも参照してみましたが歴史的な事象は様々な賛否があるようですね、、、色々と勉強になりました。ありがとうございます!
@蛙井出野 何気なく扱っていましたが、重要な歌とされていたんですね。大河でも源氏物語をテーマにしていますよね。なかなか見る機会がなかったですが、年末年始は古文の勉強をしてようという気になりました。
たまに阿倍野神社の前通ったら、「♪いよぉ~(ポン、ポン、ポン)、いよ~」とか、
能面被って踊ってるのやってるのが、門から見える
パンフレット貰って見たら、招待客が全員「裏千家流」とか、その筋の専門の人しか来てなさそうでワロタw
堺市もこういう歴史にちなんだ区名になれば良かったんですけどね…。
中央区のとこ、間違ってますよー
かみまち台地?
我が東成がどんどん小さくなってくの、何度見ても笑えるw
明治維新の際、大阪市が首都になっていたら摂津が大阪都になっていたかもしれません。
そうなれば、関西弁が標準語になっていたのでしょうか(笑)
大政奉還後に天皇を中心とした公家政治の打開のため、大久保利通は京の御所から遷都をするべく行動していたようです。白羽の矢が立ったのが、政府軍が早くから掌握をしていた大阪でした。
大久保の様々な働きかけの最中に、北海道開拓の後には江戸が日本の地理的中心になること、省庁の代わりになる藩屋敷があり道幅も余裕のあることなどの上申を受けた上に、江戸城の無血開城で比較的穏便に江戸が手に入るという奇跡が重なり、現在の東京に首都機能が移ることになります。
もし、無血開城がなされなければ、江戸は治安が乱れ、その市街も戦火に見舞われたことでしょう。もしそうなれば、大阪が首都になったと思います。