「南無阿弥陀仏は往生の定まりたる証拠」とは│御文章(4帖目8通 八箇条)

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  • เผยแพร่เมื่อ 14 ม.ค. 2025
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ความคิดเห็น • 14

  • @三戸健司-n9j
    @三戸健司-n9j หลายเดือนก่อน +2

    蓮如上人と親鸞聖人の明確な根拠のご教示に重ねて感謝致します。渡部先生いつも大切なお話と尊い有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。ありがとうございます。大聖釈迦牟尼世尊の出世本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏

  • @あるまじき-t1u
    @あるまじき-t1u หลายเดือนก่อน +3

    尊い御説法有難うございました 確かに気付くことが信心決定なら仏法を聞く必要はない こんなことをいっている本願寺の坊主がいるから 浄土真宗は衰退する 責任は重大です

    • @ツインリーフ-f4b
      @ツインリーフ-f4b หลายเดือนก่อน +1

      @あるまじき-t1uさん
      渡部先生は、気付くことが信心決定したから仏法を聞く必要は無くなる・・・ような話をする坊主が「本願寺の坊主だ」とは動画では言っていないはずです。そういう僧侶がいるというだけで直接「どこの」を言わないのはその証拠を求められるからでしょう。
      そして、信心決定→仏法を聞く必要がもう無くなることが正しい真宗の信仰構造なら、渡部先生の所属する会ですら、信心決定者は全国の会館に説法を聞きに来なくなるはずです。むしろ、会館に多くの聴聞者が来ると言うことは老若男女皆、信心未決者ばかりとなります。
      弥陀のお慈悲を聞いて見りゃ
      きくよりさきの おたすけよ
      聞くに用事は さらにない
      用事なければ 聞くばかり
      聞けば聞くほど 底深く  
      不思議でならぬ このお慈悲 (六連島お軽同行の句)

    • @智明武部
      @智明武部 หลายเดือนก่อน

      人間は 臨終の一念の時おうじょう定まりぬと あります それは そうだと思います 人間は生きているあいだは 煩悩具足の凡夫と 言われているから だと思います

    • @あるまじき-t1u
      @あるまじき-t1u หลายเดือนก่อน

      ​@@ツインリーフ-f4bさん ご返信有難うございました お軽御同行の御文もいただき有難うございました 心に記します ただ渡部先生は 信心決定→仏法を聞く必要がなくなるとは言われていません 逆に信後は喜んで聴聞されると聞いております

    • @ツインリーフ-f4b
      @ツインリーフ-f4b หลายเดือนก่อน

      @あるまじき-t1uさん
      又のご返信有難うございます。
      現実的に考えて、渡部先生は(先生所属の会では)、信心決定→信後は慶びの上に益々聴聞されるとお感じになるはずですし、そうお説きになるでしょう。当然のことです。同じように真宗の坊主も信心決定→信後は慶びの上に益々聴聞されるとお感じになるはずですし、そうお説きになるのも当然のことに考えます。むしろ、信心決定→仏法を聞く必要は無くなる・・・ような話をする坊主が真宗に本当に存在するのか不思議に感じます(全僧侶自体相当数いると思いますので絶対いないとは言い切れませんが)。

    • @ながはま-n
      @ながはま-n หลายเดือนก่อน +2

      ツインリーフさん、あるまじきさんは最初から救われていることに気付くことが信心決定だというのならそもそも仏法を聞かせていただく必要なんかありませんよねと、つまり渡部先生は十劫安心を破邪されていると仰っているのではありませんか?話が食い違っているように思いましたもので、横やり失礼いたしました。

  • @よしノリ
    @よしノリ หลายเดือนก่อน +3

    南無阿弥陀仏

  • @117neko
    @117neko หลายเดือนก่อน +4

    南無阿弥陀仏m(__)m

  • @朝顔椿
    @朝顔椿 หลายเดือนก่อน +2

    頂いた信が誠なら、弥陀の念力が届いたら、苦が抜けたら、死んだら、「なら」とか「たら」とか「だら」とか言うのは希望であり、期待であり、未来のことであって、現在の事ではない。常に仮定であって現実では無いのだから、慶べるはずがない。「百万円貰ったら…」という仮定だけでは、本当に嬉しくないのと同じ。ましてや『慶喜一念相応後』は味わえない。