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上手いね、泣かせるいい口調、見てきたような講釈師、おみそれいたしやした。
何だろう、ほーりーの声って、本当に心地いいんですよね😆😆😆
関ヶ原近くで育ち、高校時代は島津退き口が関ヶ原駅への通学路。烏頭坂は毎日でした。冬は伊吹降ろしがめちゃくちゃ寒かった。50年以上前のことです。
伊吹山には半世紀くらい前は自動車でスキーに行った物だ当時は冬になると真っ白になったが20年前から10年間で新幹線通勤をして車窓を見ていても真っ白になるのは大雪の降った翌日ぐらいまでで関ヶ原から米原まで本当に雪が積もらなくなった
島津の退却の時、大阪で立花宗茂と鉢合わせになったと言うエピソードも面白いです。😅
頼朝鎌倉からの脱却、ジレンマなどなど感じることもありますねぇ、胸が踊る😅ようななんだか複雑、小早川さんも今までとは違った見方がしっくりくるような😅
現地をみて、その時のお話を聞くと、かなりの臨場感💦
私の地元まで来てくれてたんですね。ありがとうございます。私が関ヶ原古戦場で大好きな場所は山中城と呼ばる大谷吉継の陣跡です。小早川の裏切りを事前に予想し松尾山の正面に陣取った場所です。関ヶ原の戦いでの島津に匹敵するくらいの活躍した武将だと思います。関ヶ原は冬に来る時は雪に気をつけて下さい。最近はたいした事ないですが昔は積雪メートル超えでした。関ヶ原の戦い関連ですと竹鼻城の戦い、岐阜城の戦い、大垣城の戦いなど関連が沢山あるので歴史好きなら必見ですよ。
関ヶ原に博物館がオープンしてたんですね!今度、行ってみます!
すんごくためになる動画ありがとうございます♪応援してます
「天下分け目の戦い」と呼ばれた、日本を二分する戦いが時を超え全く同じ場所で行われたことは、歴史の偶然?必然?、不思議な巡りあわせを感じます。島津の退却の話は最近知ったのですが、本当に壮絶で魂が震える話ですね!! あんな狭い場所に15万人も集結したと思うと、「関ヶ原の戦い」はやっぱり凄い戦いだったんだなぁと思わされますね!!
「どうする家康」でも、次回描かれるであろう関ヶ原の戦い。それを前にして、学び直し・復習になりますタイムリーな動画ありがとう現在もこの戦いの研究が進められているなんて、ロマンを感じます新説が出てくるのか、ワクワクします😊そして、レンタサイクルを使った現地レポ、お疲れさまでした🙇やっぱり臨場感があり、いいですね😆「島津の退き口」の話、大好きなので、その道を紹介してくれて嬉しいです‼️次回の「どうする家康」も楽しみです
私も昨年関ケ原を訪ねましたが、目的は不破の関だったので、関ケ原の戦は関心が無く、壬申の乱遺跡などを巡りました。もちろん遺跡などは少なく、とても板さびしい風景を堪能しました。こんな小川が、有名な(一部の者だけ)藤川(歌枕の地)か?など。歴史分野って、自分だけの観光地って、有りますよね。
司馬先生の関ヶ原からハマったんですよ 最後の小早川に浴びせる 金吾かっ💢あのくだり大好きなんです ほーりーさんガイドいらんでしょう🤣僕らに分かりやすくありがとうございます関ヶ原僕も今度はちゃんと周ってみたいです
司馬遼太郎はいろいろな歴史小説でその後の歴史解釈の流れを作り実史を捻じ曲げた。それだけ小説が魅力的だったのでしょう。
坂本龍馬がその最たる例
乃木希典無能説も酷かったです。
ご苦労様でした。
十年前はなんにもないホントの寂れたローカル駅だったな~。冬の夕方、電車が来てくれるか不安になるほど。もっと前だったかな?でも十五年はくだってない
関ヶ原の合戦をかつてNHKにて放送されていた歴史堂々の番組ないで、作家の堺屋太一氏が現在の企業における抗争になぞらえて、豊臣株式会社社長豊臣秀吉の死去に伴なう、臨時株主総会で副社長徳川家康と秘書部長石田三成の抗争であると言っておりました。
結局は家康が就任したのは豊臣株式会社ではなく徳川株式会社の会長なので、堺屋さん例えは違うような気がします。
いいですねー関ヶ原検定受けようと勉強したの思い出しました🎉
関ヶ原へは昨年初めて訪れました。徳川家康コースを歩きましたが桃配山にある陣跡に足を踏み入れた時の感動はなかなかのものでした。次は石田三成コースを歩こうかなと思っていましたが動画を見ていたら島津義弘コースを先に歩きたくなりました。桃配山からちょっと東に歩くとありますおしゃれな蕎麦屋さんもなかなか美味しかったですし関ヶ原駅向かいにある交流館で買ったアイスも美味しかった。次は古戦場記念館で食事したいです。
歴史好きとしては一度は現地に行かないとと思いました。はい😅いつか必ず行きます🫡
ますみちゃん五街道の宿場町もみたいなぁ🤗
楽しいホーリーありがとう
私のご先祖は西軍にいたそうです。でも私は、祖父母のいた旧家の隣が神社で、その神社が幼少から好きだったのですが、後に、秀吉がその神社の土地を献上という名の没収をした様な話を偶々知り、個人的には秀吉には、あんまり好感を持っていません。。そこから幾らか離れた、私が長く住んだ地域でも、秀吉は朝鮮出兵の時に、神社の木々を切り倒して船を作ったらしく、それも私にはチョット不信感を感じてしまいました。。(その地域も桃の産地で、日本武尊のゆかりもありましたので、壬申の乱の時にも、もしかしたら通りかかったりもしたかなぁ?などと、私も妄想を膨らませてしまう。。)
関ヶ原凄いですね。ガイドさんが説明してくれるのがすごくいい。あと島津豊久さんの大河ドラマ作ってくれないかな。
現地の映像に感動しました!わずか6時間で終わるが日本一有名な野戦の簡潔なご説明に感服。チャンネル登録しました。
関ヶ原の戦いについて説明するほーりーマシンガントーク凄い‼️😆関ヶ原の戦いの最新の研究や考察には驚きです😲現場取材レポート🎶今後も機会がありましたら、ぜひ動画の🆙宜しくお願いします
さすが司馬先生と海音寺先生ですね。
もう…ね…
島津の本領安堵は、単に遠隔地だったから、という訳ではなかったのですね。敵に回したくなかった。
戦いの時間も2時間ほどだった。小早川も東軍に最初から参加している。
関ヶ原ロケは、ほーりーと共に行った気分になる良い企画ですね。明後日の『どうする家康』が楽しみです(^-^)/❗
興味あるのは、遠くから関ケ原に戦いに来て、ここで亡くなった人の遺体はどうなったのか・・近くの藩であれば運んで埋葬したかも知れないけど・・・また、この戦は何日位を想定していたのかによって兵糧の準備も変わってくるし、兵糧専門の人も同行してたのでしょうね。大群の移動で街道の人たちの行動など、歴史で語られない事が気になります。多くの人が亡くなり死臭漂っていたであろう所で霊は出ないのかな~現地案内の人にそういった所も質問して欲しかったけど、答えられないでしょうね。
今度行きますので、ガイドさんに聞いておきますね。 以前に川中島合戦古戦場史跡公園に、歴史の講師の先生と行ったことがありました。(馬上の上杉謙信が武田信玄に切りかからんとする銅像が在る公園です。) 奥の首塚の近くになると, 変な声が聞こえてくるのだそうで、講師の先生は「皆さんで好きに あそこに行ってください。私は嫌だから ここに残ります」と言っていました。 後で歴史博物館の学芸員の先生に聞いたら「はい, そういう話を聞いた事が有りますね」と言っていました。
初めて聞かせていただきました。とても心地よい語りに心が和みました。
今晩は!ホーリーさん二度目のコメントです(一度目は何故かボツ)関ヶ原の戦いは実は「派閥争い」には納得です。少なくとも開戦当時の世論はそうゆう認識なんだと思います、豊臣家もそう思ってた節がある。ただ家康や三成はそれぞれそれとは別な思惑で戦ったのではないでしょうか。関ヶ原の布陣図を見ると明らかに西軍有利ですよ、高台でぐるりと囲む布陣はメッケルでなくても西軍勝利と思います、側面の小早川軍と家康本隊の後背に位置する吉川.毛利軍がポイント、寝返り.内通.命令違反がなく一斉に戦ったら西軍が勝利してます。
間違いない
坂の上の雲で「西軍勝利」と言って生徒達から笑われるシーンがあるよね
ほーりーナイス!!
「いぶきさん」ではなく「いぶきやま」と言ってもらってありがとうございます。
購読完了
研究はどんどんアップデートされているのですね😮ほーりーは東軍西軍どっちに属しますか?
司馬さん、海音寺さんは 小説家であって歴史家ではありません現在の関ヶ原合戦の話しは 小説のお話です 西軍の総大将は 毛利元就であり石田さんではなく 石田さんが この戦を仕掛けた訳でもないようですよ。今後の新設関ヶ原合戦が 楽しみです。合戦場の見学の際には 少し離れていますが 旧関所あたりに足を延ばし 大谷陣・小早川陣の松尾山などいかがでしょう松尾山陣から見降ろす合戦場は また違った戦いを 感じる事ができると思います。【 蛇足 】敗戦後 西軍の 安国寺さん・小西さん・石田さんの3武将が 斬首刑となりました安国寺さん・小西さんは どのような役割・活躍をしたのかなぁ?他の武将は 無事で外様大名に??総大将の毛利さんは・・・?とにかく新説を 待ちましょう。
動画の中で、木が邪魔で見えない、という場面がありましたが、河川土木の竹村公太郎さんが、かつて関ヶ原の戦いに関して言っていたことがあります。今でこそ、どの山も杉や檜が鬱蒼としているけれど、かつての山々は、ほぼ禿山だったとのこと。見晴らしが、今とは全然違っていたと。
おいどん、最強🤨
東西の兵力は、参謀本部が単純に石高(1万石)×250人で算出したもので、会津遠征のための軍をそのまま転用していますから、遠隔地からくる西軍は1万石100人以下、一方で東軍は250人以上、東海道の大名は城も差し出したので400人~500人と数えると、東軍圧倒的な優勢なはずですね。だから、南宮山の毛利軍より目の前の池田他東海道の大名達ははるかに大軍で、山を下りて退路を断つとかそういうことができるような状況ではなかったはずですね。
関ヶ原に実家があります。地元だからほとんど陣地まわりしたことない。誇りに思います。
人類は長い歴史の中で、随分と戦争を経験して来ました❗しかし、どうして第二次世界大戦だけが「正義と悪の戦い」とされているのでしょう❓️ホーリーさんの様な方が、第二次世界大戦について語る様になるまで、あと何年くらいかかるでしょうか❓️
勝った側(=戦争を計画し始めた側)が歴史を捏造したからですよ。その捏造はいまも力を持っているしそれどころかC,K国ではさらに新しい捏造をすると称賛され金と地位がもらえる。そういう中で真実を語ろうとする者は排除されます(日本の文科省,大手メディア,教育労組,民族組織,オール役所,その他が政治工作機関として機能しています)私は真実はほとんどが真逆だと考えています。ふつうにメディアや学校,大学で真実が語られる日は永久に来ないでしょう。....現在国際社会で権力を握っている者,国が倒されるときが来ないかぎり
良かったね!なるほどと思いました!ありがとう
内部抗争だったのに、豊臣と徳川の地位がどうして逆転しちゃったんでしょうね? そこも解説して欲しかった気がします。
関ヶ原に限らないのですが、戦場の草木の丈は、どうなっていたのでしょう?植物は、人の腰くらいの丈までじゃないと戦うのがたいへんに思います。街道や城下町の道、屋敷の庭も同じことなのですが
信長、家康、秀吉はとっても仲良しでグルだったので全ては八百長みたいなものです詳しくは『縄文を作った男たち』読んでみてくださいね納得すると思いますよ(笑)
>関ヶ原の戦いは豊臣政権の内部抗争表向きはそうでしたが、家康が勝てば次の天下人になるのは公然の秘密でした。事実上、徳川家VS豊臣家で間違いないです。
島津豊久は他の武将が「豊久殿の部下がうらやましい」と言うほどのイケメンだったとか。部下は500と少数ながら大半が朝鮮半島で鬼島津と恐れられた超精鋭。豊久の夜襲提案を石田三成が受け入れていたら西軍は勝ったのではとも言われています。
東西首塚は空気が違う
この道でお豊が異世界転生したんやな…
勝った方が歴史を作る。従って今の歴史通説は何割引きかすべきだ。
近年の研究では関ヶ原は石田、浅野以外の3奉行が徳川家康にたいしクーデターしそこに毛利輝元がのっかり大阪城を占拠した大谷吉継のほうが石田三成より乗り気で、大谷吉継から石田三成を西軍にさそったともいわれ石田三成は人質を西軍側にとられてたこともあり、西軍についただけのはなしで。石田三成は関ヶ原直前まで家康とは関係わるくなかったことが、近年の研究でわかってるから歴史けいYou Tubeの雄戦国武士道さんも、いつか近年の研究の新説での石田三成主人公の大河みたいといわれてましたね。石田三成はたんなるスケープゴートにされただけのかわいそうな人近年の研究で関ヶ原がだいぶかわったのは本当にビックリ
小早川の裏切りは黒田長政がキーマンだったて話も有りませんでしたっけ?🙄
武州東多摩郡和泉村の産なるが、第二の故郷に等しきは南部と津軽也。往時、南部から謀反独立の津軽為信公は久慈平蔵といえる人にして、秀吉公に取り入らんと三成と深く誼を通じ所領安堵の首尾を得たるも天下分け目の合戦に際し、奥州諸大名家康に味方する中、津軽のみ西軍に与するを憚り、東軍の一翼を担ううちに西軍総崩れに及びて為信公、三成の次男重成を匿い津軽へ逃がしたるのみならず、三女辰姫を津軽家二代信枚の奥に迎えたるはこれ、三成との誼を重んじたる武士の振舞也。後年、弘前城の一間に秀吉公の尊像を祀りたるは為信公、実に豊臣恩顧の大名にあらずや。というようなお噂を伺いたいね。さすがに、BGMにパイのパイのパイを使うわけにもいかないだろうから、法螺貝や鬨の声やドンチャンの鳴り物なんか流せば盛り上がること請け合い。
「人物中心の俗説だらけの歴史物語」を広めまくった司馬遼太郎てのは、けしからんやつだな…
博物館の職員が恐れていること 「なに関ケ原の戦いで新説が出てきたって?」
前田利家が徳川家康を牽制していたと話されていますが、私は違うと思います。途中からではありますが、利家は家康側についたのだと思います。実際、関ヶ原の際に、前田利長が東軍側についていたので、ほぼ間違いないと思います。秀吉の命が終えた後、正室の寧々は家康側にいたそうですが、それは石田三成と淀殿に危機感を持っていたからだと思います。家康も寧々も、平和な世の中を作りたいと思っていたため、寧々は家康に協力したのだと思います。淀殿は浅井家と織田家と豊臣家の流れを継ぐ存在であり、特に浅井家を復興したいと思っていました。なので、とても権力欲が強かったのです。三成も淀殿に協力する立場でした。なので、この二人がいると、権力の取り合いになり、いつまで経っても平和な世の中にならないため、仕方なく二人を排除することにしたのです(淀殿は女性である事を考慮し、徳川に従うことを条件に生かすことにしましたが、淀殿が戦の準備を始めたため、仕方なく排除することになりました)。羽柴秀次の切腹も、この二人が仕掛けたことのようです。これが一番、私は納得できました。
メッケルが関ヶ原の布陣図を見て西軍勝利と断言したドイツの将軍が西軍が勝つと思う程度だから第一次、第二次世界大戦ともにドイツは負けた。
こんな時代だったから家康も野心をもっていて当然だろう豊臣内の抗争なんて根っから思ってないでしょうね淀殿が気づいていれば、豊臣側の西軍に号令をかけられたかもしれないまぁそこまで政治的手腕はなかったろうけども……
>豊臣内の抗争なんて根っから思ってないでしょうね、、/// wikにも有りますが 朝鮮撤兵後 恩賞に付いて騒ぎが有り 人治派(三成)vs武闘派(黒田等)2つに割れたのです。 ★今回の主さんの論調は もし仮に 徳川家が野心が無かったと仮定すれば 主さんの洒落は成立するでしょう。(ゆるく聞いといた方がイイです 元寇後も恩賞で幕府衰退と同じ)
豊臣秀吉の朝鮮出兵が失敗だったのかについても、違う説が出てきてますよね。日本侵略の意思が見えるオランダへの牽制だったとか。そういう事を踏まえると、失敗とか秀吉がボケていたとか本当なのかと思います。今回の本筋とは違うコメントですみません。
近年関ヶ原では戦いはなかった、三成、家康もいなかったってのがある。
小早川が寝返らなくても毛利、島津、長宗我部が動かなかった時点で西軍負けな気もするけどね。
飛車、角落ち
こんにちは!ホーリーさん自分もずっと不思議に思ってました、其れは天下分け目の関ヶ原の対戦相手が何故に石田三成なのか、徳川家康は納得いくが石田三成では役不足でしょ、徳川VS豊臣なら誰しも納得する筈、今でこそ天下分け目の合戦と認識している関ヶ原の合戦も、恐らく合戦当時は私事の争い(私闘)の認識であり、豊臣家もそう思っていた。ですから豊臣恩顧の大名も東軍に味方したんだと思います。結果的に家康の力が揺るぎない物になり幕府を開いた、「天下分け目」と言うネーミングは後々付けられた冠ではないでしょうかね。ただ自分が思うに、派閥争いの当の本人の家康と三成は周りとは全く違う別々の認識だったんだと思っています。関ヶ原の布陣はパッと見て誰が見ても西軍有利と思いますよ、西軍は高い場所でぐるりと囲む様に布陣している、側面の小早川軍と家康の背後の吉川.毛利軍がポイント、裏切りや内通、命令違反無く全軍が一斉に戦ったら西軍が勝利していると思いますよ。
⁇フィクション?はぁ?
このとき、島津と毛利を消しておけば、今の日本の不幸は無かったかも知れないと思うと家康の甘さが悔やまれる。
司馬遼太郎のウソは、罪が思い出す。
ウソではなくファンタジー。面白おかしく書いたのが史実になってしまった。三国志演義と同じ事。
・・・だからさぁ、みんな仲良くしろヨな。
寝返った鈴木親子は最低、無責任な奴
また司馬史観か😂
歴史、全くわからん。昨日、てめぇが喰った飯もわからん。そもそも、こういうのって、記述が残っているの?残っているなら、数百年後のいまになり公表されるの、おかしくない?
上手いね、泣かせるいい口調、見てきたような講釈師、おみそれいたしやした。
何だろう、ほーりーの声って、本当に心地いいんですよね😆😆😆
関ヶ原近くで育ち、高校時代は島津退き口が関ヶ原駅への通学路。烏頭坂は毎日でした。冬は伊吹降ろしがめちゃくちゃ寒かった。50年以上前のことです。
伊吹山には半世紀くらい前は自動車でスキーに行った物だ
当時は冬になると真っ白になったが20年前から10年間で新幹線通勤をして車窓を見ていても真っ白になるのは大雪の降った翌日ぐらいまでで関ヶ原から米原まで本当に雪が積もらなくなった
島津の退却の時、大阪で立花宗茂と鉢合わせになったと言うエピソードも面白いです。😅
頼朝鎌倉からの脱却、ジレンマなどなど感じることもありますねぇ、
胸が踊る😅ようななんだか複雑、小早川さんも今までとは違った見方がしっくりくるような😅
現地をみて、その時のお話を聞くと、かなりの臨場感💦
私の地元まで来てくれてたんですね。ありがとうございます。私が関ヶ原古戦場で大好きな場所は山中城と呼ばる大谷吉継の陣跡です。小早川の裏切りを事前に予想し松尾山の正面に陣取った場所です。関ヶ原の戦いでの島津に匹敵するくらいの活躍した武将だと思います。関ヶ原は冬に来る時は雪に気をつけて下さい。最近はたいした事ないですが昔は積雪メートル超えでした。関ヶ原の戦い関連ですと竹鼻城の戦い、岐阜城の戦い、大垣城の戦いなど関連が沢山あるので歴史好きなら必見ですよ。
関ヶ原に博物館がオープンしてたんですね!今度、行ってみます!
すんごくためになる動画ありがとうございます♪
応援してます
「天下分け目の戦い」と呼ばれた、日本を二分する戦いが時を超え全く同じ場所で行われたことは、歴史の偶然?必然?、不思議な巡りあわせを感じます。
島津の退却の話は最近知ったのですが、本当に壮絶で魂が震える話ですね!! あんな狭い場所に15万人も集結したと思うと、「関ヶ原の戦い」は
やっぱり凄い戦いだったんだなぁと思わされますね!!
「どうする家康」でも、次回描かれるであろう関ヶ原の戦い。それを前にして、学び直し・復習になりますタイムリーな動画ありがとう現在もこの戦いの研究が進められているなんて、ロマンを感じます新説が出てくるのか、ワクワクします😊そして、レンタサイクルを使った現地レポ、お疲れさまでした🙇やっぱり臨場感があり、いいですね😆「島津の退き口」の話、大好きなので、その道を紹介してくれて嬉しいです‼️次回の「どうする家康」も楽しみです
私も昨年関ケ原を訪ねましたが、目的は不破の関だったので、関ケ原の戦は関心が無く、壬申の乱遺跡などを巡りました。もちろん遺跡などは少なく、とても板さびしい風景を堪能しました。こんな小川が、有名な(一部の者だけ)藤川(歌枕の地)か?など。
歴史分野って、自分だけの観光地って、有りますよね。
司馬先生の関ヶ原からハマったんですよ 最後の小早川に浴びせる 金吾かっ💢
あのくだり大好きなんです
ほーりーさんガイドいらんでしょう🤣僕らに分かりやすくありがとうございます
関ヶ原
僕も今度はちゃんと周ってみたいです
司馬遼太郎はいろいろな歴史小説でその後の歴史解釈の流れを作り実史を捻じ曲げた。それだけ小説が魅力的だったのでしょう。
坂本龍馬がその最たる例
乃木希典無能説も酷かったです。
ご苦労様でした。
十年前はなんにもないホントの寂れたローカル駅だったな~。冬の夕方、電車が来てくれるか不安になるほど。もっと前だったかな?でも十五年はくだってない
関ヶ原の合戦をかつてNHKにて放送されていた歴史堂々の番組ないで、作家の堺屋太一氏が現在の企業における抗争になぞらえて、豊臣株式会社社長豊臣秀吉の死去に伴なう、臨時株主総会で副社長徳川家康と秘書部長石田三成の抗争であると言っておりました。
結局は家康が就任したのは豊臣株式会社ではなく徳川株式会社の会長なので、堺屋さん例えは違うような気がします。
いいですねー
関ヶ原検定受けようと勉強したの思い出しました🎉
関ヶ原へは昨年初めて訪れました。徳川家康コースを歩きましたが桃配山にある陣跡に足を踏み入れた時の感動はなかなかのものでした。次は石田三成コースを歩こうかなと思っていましたが動画を見ていたら島津義弘コースを先に歩きたくなりました。桃配山からちょっと東に歩くとありますおしゃれな蕎麦屋さんもなかなか美味しかったですし関ヶ原駅向かいにある交流館で買ったアイスも美味しかった。次は古戦場記念館で食事したいです。
歴史好きとしては一度は現地に行かないとと思いました。
はい😅
いつか必ず行きます🫡
ますみちゃん五街道の宿場町もみたいなぁ🤗
楽しい
ホーリーありがとう
私のご先祖は西軍にいたそうです。
でも私は、祖父母のいた旧家の隣が神社で、その神社が幼少から好きだったのですが、
後に、秀吉がその神社の土地を献上という名の没収をした様な話を偶々知り、個人的には秀吉には、あんまり好感を持っていません。。
そこから幾らか離れた、私が長く住んだ地域でも、秀吉は朝鮮出兵の時に、神社の木々を切り倒して船を作ったらしく、それも私にはチョット不信感を感じてしまいました。。
(その地域も桃の産地で、日本武尊のゆかりもありましたので、壬申の乱の時にも、もしかしたら通りかかったりもしたかなぁ?などと、私も妄想を膨らませてしまう。。)
関ヶ原凄いですね。ガイドさんが説明してくれるのがすごくいい。あと島津豊久さんの大河ドラマ作ってくれないかな。
現地の映像に感動しました!わずか6時間で終わるが日本一有名な野戦の簡潔なご説明に感服。チャンネル登録しました。
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もう…ね…
島津の本領安堵は、単に遠隔地だったから、という訳ではなかったのですね。
敵に回したくなかった。
戦いの時間も2時間ほどだった。小早川も東軍に最初から参加している。
関ヶ原ロケは、ほーりーと共に行った気分になる良い企画ですね。明後日の『どうする家康』が楽しみです(^-^)/❗
興味あるのは、遠くから関ケ原に戦いに来て、ここで亡くなった人の遺体はどうなったのか・・近くの藩であれば運んで埋葬したかも知れないけど・・・
また、この戦は何日位を想定していたのかによって兵糧の準備も変わってくるし、兵糧専門の人も同行してたのでしょうね。大群の移動で街道の人たちの行動など、歴史で語られない事が気になります。多くの人が亡くなり死臭漂っていたであろう所で霊は出ないのかな~現地案内の人にそういった所も質問して欲しかったけど、答えられないでしょうね。
今度行きますので、ガイドさんに聞いておきますね。
以前に川中島合戦古戦場史跡公園に、歴史の講師の先生と行ったことがありました。(馬上の上杉謙信が武田信玄に切りかからんとする銅像が在る公園です。)
奥の首塚の近くになると, 変な声が聞こえてくるのだそうで、講師の先生は「皆さんで好きに あそこに行ってください。私は嫌だから ここに残ります」と言っていました。
後で歴史博物館の学芸員の先生に聞いたら「はい, そういう話を聞いた事が有りますね」と言っていました。
初めて聞かせていただきました。とても心地よい語りに心が和みました。
今晩は!ホーリーさん
二度目のコメントです(一度目は何故かボツ)
関ヶ原の戦いは実は「派閥争い」には納得です。少なくとも開戦当時の世論はそうゆう認識なんだと思います、豊臣家もそう思ってた節がある。
ただ家康や三成はそれぞれそれとは別な思惑で戦ったのではないでしょうか。
関ヶ原の布陣図を見ると明らかに西軍有利ですよ、高台でぐるりと囲む布陣はメッケルでなくても西軍勝利と思います、側面の小早川軍と家康本隊の後背に位置する吉川.毛利軍がポイント、寝返り.内通.命令違反がなく一斉に戦ったら西軍が勝利してます。
間違いない
坂の上の雲で「西軍勝利」と言って生徒達から笑われるシーンがあるよね
ほーりーナイス!!
「いぶきさん」ではなく「いぶきやま」と言ってもらってありがとうございます。
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研究はどんどんアップデートされているのですね😮
ほーりーは東軍西軍どっちに属しますか?
司馬さん、海音寺さんは 小説家であって歴史家ではありません
現在の関ヶ原合戦の話しは 小説のお話です
西軍の総大将は 毛利元就であり石田さんではなく 石田さんが この戦を仕掛けた訳でもないようですよ。
今後の新設関ヶ原合戦が 楽しみです。
合戦場の見学の際には 少し離れていますが 旧関所あたりに足を延ばし 大谷陣・小早川陣の松尾山などいかがでしょう
松尾山陣から見降ろす合戦場は また違った戦いを 感じる事ができると思います。
【 蛇足 】
敗戦後 西軍の 安国寺さん・小西さん・石田さんの3武将が 斬首刑となりました
安国寺さん・小西さんは どのような役割・活躍をしたのかなぁ?
他の武将は 無事で外様大名に??
総大将の毛利さんは・・・?
とにかく新説を 待ちましょう。
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おいどん、最強🤨
東西の兵力は、参謀本部が単純に石高(1万石)×250人で算出したもので、会津遠征のための軍をそのまま転用していますから、遠隔地からくる西軍は1万石100人以下、一方で東軍は250人以上、東海道の大名は城も差し出したので400人~500人と数えると、東軍圧倒的な優勢なはずですね。
だから、南宮山の毛利軍より目の前の池田他東海道の大名達ははるかに大軍で、山を下りて退路を断つとかそういうことができるような状況ではなかったはずですね。
関ヶ原に実家があります。
地元だからほとんど陣地まわりしたことない。誇りに思います。
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勝った側(=戦争を計画し始めた側)が歴史を捏造したからですよ。その捏造はいまも力を持っているしそれどころかC,K国ではさらに新しい捏造をすると称賛され金と地位がもらえる。そういう中で真実を語ろうとする者は排除されます(日本の文科省,大手メディア,教育労組,民族組織,オール役所,その他が政治工作機関として機能しています)
私は真実はほとんどが真逆だと考えています。ふつうにメディアや学校,大学で真実が語られる日は永久に来ないでしょう。....現在国際社会で権力を握っている者,国が倒されるときが来ないかぎり
良かったね!なるほどと思いました!ありがとう
内部抗争だったのに、豊臣と徳川の地位がどうして逆転しちゃったんでしょうね? そこも解説して欲しかった気がします。
関ヶ原に限らないのですが、戦場の草木の丈は、どうなっていたのでしょう?植物は、人の腰くらいの丈までじゃないと戦うのがたいへんに思います。街道や城下町の道、屋敷の庭も同じことなのですが
信長、家康、秀吉はとっても仲良しでグルだったので全ては八百長みたいなものです
詳しくは『縄文を作った男たち』読んでみてくださいね納得すると思いますよ(笑)
>関ヶ原の戦いは豊臣政権の内部抗争
表向きはそうでしたが、家康が勝てば次の天下人になるのは公然の秘密でした。事実上、徳川家VS豊臣家で間違いないです。
島津豊久は他の武将が「豊久殿の部下がうらやましい」と言うほどのイケメンだったとか。
部下は500と少数ながら大半が朝鮮半島で鬼島津と恐れられた超精鋭。
豊久の夜襲提案を石田三成が受け入れていたら西軍は勝ったのではとも言われています。
東西首塚は空気が違う
この道でお豊が異世界転生したんやな…
勝った方が歴史を作る。従って今の歴史通説は何割引きかすべきだ。
近年の研究では関ヶ原は
石田、浅野以外の3奉行が徳川家康にたいしクーデターしそこに毛利輝元がのっかり大阪城を占拠した
大谷吉継のほうが石田三成より乗り気で、大谷吉継から石田三成を西軍にさそったともいわれ
石田三成は人質を西軍側にとられてたこともあり、西軍についただけのはなしで。石田三成は関ヶ原直前まで家康とは関係わるくなかったことが、近年の研究でわかってるから
歴史けいYou Tubeの雄戦国武士道さんも、いつか近年の研究の新説での石田三成主人公の大河みたいといわれてましたね。
石田三成はたんなるスケープゴートにされただけのかわいそうな人
近年の研究で関ヶ原がだいぶかわったのは本当にビックリ
小早川の裏切りは黒田長政がキーマンだったて話も有りませんでしたっけ?🙄
武州東多摩郡和泉村の産なるが、第二の故郷に等しきは南部と津軽也。往時、南部から謀反独立の津軽為信公は久慈平蔵といえる人にして、秀吉公に取り入らんと三成と深く誼を通じ所領安堵の首尾を得たるも天下分け目の合戦に際し、奥州諸大名家康に味方する中、津軽のみ西軍に与するを憚り、東軍の一翼を担ううちに西軍総崩れに及びて為信公、三成の次男重成を匿い津軽へ逃がしたるのみならず、三女辰姫を津軽家二代信枚の奥に迎えたるはこれ、三成との誼を重んじたる武士の振舞也。後年、弘前城の一間に秀吉公の尊像を祀りたるは為信公、実に豊臣恩顧の大名にあらずや。
というようなお噂を伺いたいね。
さすがに、BGMにパイのパイのパイを使うわけにもいかないだろうから、法螺貝や鬨の声やドンチャンの鳴り物なんか流せば盛り上がること請け合い。
「人物中心の俗説だらけの歴史物語」を広めまくった司馬遼太郎てのは、けしからんやつだな…
博物館の職員が恐れていること 「なに関ケ原の戦いで新説が出てきたって?」
前田利家が徳川家康を牽制していたと話されていますが、私は違うと思います。
途中からではありますが、利家は家康側についたのだと思います。
実際、関ヶ原の際に、前田利長が東軍側についていたので、ほぼ間違いないと思います。
秀吉の命が終えた後、正室の寧々は家康側にいたそうですが、それは石田三成と淀殿に危機感を持っていたからだと思います。
家康も寧々も、平和な世の中を作りたいと思っていたため、寧々は家康に協力したのだと思います。
淀殿は浅井家と織田家と豊臣家の流れを継ぐ存在であり、特に浅井家を復興したいと思っていました。
なので、とても権力欲が強かったのです。
三成も淀殿に協力する立場でした。
なので、この二人がいると、権力の取り合いになり、いつまで経っても平和な世の中にならないため、仕方なく二人を排除することにしたのです(淀殿は女性である事を考慮し、徳川に従うことを条件に生かすことにしましたが、淀殿が戦の準備を始めたため、仕方なく排除することになりました)。
羽柴秀次の切腹も、この二人が仕掛けたことのようです。
これが一番、私は納得できました。
メッケルが関ヶ原の布陣図を見て西軍勝利と断言した
ドイツの将軍が西軍が勝つと思う程度だから
第一次、第二次世界大戦ともにドイツは負けた。
こんな時代だったから家康も野心をもっていて当然だろう
豊臣内の抗争なんて根っから思ってないでしょうね
淀殿が気づいていれば、豊臣側の西軍に号令をかけられたかもしれない
まぁそこまで政治的手腕はなかったろうけども……
>豊臣内の抗争なんて根っから思ってないでしょうね、、/// wikにも有りますが 朝鮮撤兵後 恩賞に付いて騒ぎが有り 人治派(三成)vs武闘派(黒田等)2つに割れたのです。 ★今回の主さんの論調は もし仮に 徳川家が野心が無かったと仮定すれば 主さんの洒落は成立するでしょう。(ゆるく聞いといた方がイイです 元寇後も恩賞で幕府衰退と同じ)
豊臣秀吉の朝鮮出兵が失敗だったのかについても、違う説が出てきてますよね。日本侵略の意思が見えるオランダへの牽制だったとか。そういう事を踏まえると、失敗とか秀吉がボケていたとか本当なのかと思います。今回の本筋とは違うコメントですみません。
近年関ヶ原では戦いはなかった、三成、家康もいなかったってのがある。
小早川が寝返らなくても
毛利、島津、長宗我部が
動かなかった時点で西軍負け
な気もするけどね。
飛車、角落ち
こんにちは!ホーリーさん
自分もずっと不思議に思ってました、其れは天下分け目の関ヶ原の対戦相手が何故に石田三成なのか、徳川家康は納得いくが石田三成では役不足でしょ、徳川VS豊臣なら誰しも納得する筈、今でこそ天下分け目の合戦と認識している関ヶ原の合戦も、恐らく合戦当時は私事の争い(私闘)の認識であり、豊臣家もそう思っていた。ですから豊臣恩顧の大名も東軍に味方したんだと思います。結果的に家康の力が揺るぎない物になり幕府を開いた、「天下分け目」と言うネーミングは後々付けられた冠ではないでしょうかね。
ただ自分が思うに、派閥争いの当の本人の家康と三成は周りとは全く違う別々の認識だったんだと思っています。
関ヶ原の布陣はパッと見て誰が見ても西軍有利と思いますよ、西軍は高い場所でぐるりと囲む様に布陣している、側面の小早川軍と家康の背後の吉川.毛利軍がポイント、裏切りや内通、命令違反無く全軍が一斉に戦ったら西軍が勝利していると思いますよ。
⁇フィクション?はぁ?
このとき、島津と毛利を消しておけば、今の日本の不幸は無かったかも知れないと思うと
家康の甘さが悔やまれる。
司馬遼太郎のウソは、罪が思い出す。
ウソではなくファンタジー。
面白おかしく書いたのが史実になってしまった。
三国志演義と同じ事。
・・・だからさぁ、みんな仲良くしろヨな。
寝返った鈴木親子は最低、無責任な奴
また司馬史観か😂
歴史、全くわからん。
昨日、てめぇが喰った飯もわからん。
そもそも、こういうのって、記述が残っているの?
残っているなら、数百年後のいまになり公表されるの、おかしくない?