This was very interesting, it looks like you guys have been controlled by similar historical narratives just like we have. I hope this translates accurately. これは非常に興味深いものでした。あなた方も私たちと同じように、同様の歴史の物語に支配されてきたようですね。
Kono Tenshukaku-nashi no Edojoo no o-hanashi, kokorokara kansha ni taemasen. Itsu-mo hontoo ni kachi no aru Rekishi-to Bunka no o-hanashi o arigatoo gozaimasu.
保科正之はすばらしい人物ですね!
子供のころ、江戸城にはなぜ天守がないのだろう?、と不思議に思っていた
。大人になってその理由を知ったとき、かつての世の中には偉い政治家が居たものだなとちょっと感動したのを覚えています。日本史が好き、江戸が好きな私は嬉しいです。
この動画で両国橋の名前の由来も初めて知りました。これも嬉しいです。
幕府の権威よりも江戸の町の復興、民の生活を優先した幕府、保科正之公の決断に心を揺さぶられました🥹✨江戸時代は現在の日本よりも遥かに民のための政がなされていたような気がします💓ほーりーさん、素晴らしい動画をありがとうございました🙏💗感動しました♥️
そんなわけない 百姓一揆が多発してた時代だぞ
一般的に使われている「天守閣」ではなく、「天守」、その天守を「あげる」。
正しい用語を使われていて感心いたしました。
保科正之のような風通しの良い、信念を持った姿勢は、政治家や官僚、皇族にとっても参考になるでしょうね。持てる力や影響を社会全体の利益に貢献するために使うことは、重要な価値です。
ありがとうございます
有識者?による
天守再建の議論する前にこういう保科正之公のエピソードをもっと周知すべきだと思うんですけどねぇ🤔
@@nessrpanda
江戸城天守閣再建計画を推進している人達は、当時、江戸城天守閣がなぜ再建されなかったかなどということは百も承知ですが?
政府が問題に関心のない「有識者」を招集し、形だけの有識者会議て意味のない議論をしているわけではありません。
日本の歴史と伝統文化を愛し、江戸の歴史を熟知する人たちの自主的な活動です。
この、江戸城に天守がない理由については、以前ほーりーがDJ日本史などで説明されていたため知っていましたが、改めて詳しく解説していただき、嬉しいです。本当に保科正之公の大英断ですね
また、「むさしあぶみ」の朗読により浅草御門の悲劇と明暦の大火の悲惨な状況を知ることができました
今回も勉強になりました。
災害等があった時は、為政者のメンツを保つより
まず、民の暮らしを安定させることを優先しなければいけないんですよね
メンツを保つために予算を使い、民の暮らしが安定しなければ
税収入等も低いまま、結局、予算が尽きることにつながる
石出帯刀による切り放ちは、
現在の監獄法にも反映されているんですよね
親戚や知人と天守台に登ったとき、天守が無いのが残念と皆言っていましたが、無い理由を教えてあげると、天守が無いことが平和の象徴、災害からの町復興の象徴なのだと、皆考えを改めていました。
歴史的価値を理解されずに朽ち果てたり、空襲で焼けたりしたところとは違って、無いことにポジティブな意味がある、という興味深いところです。
❤なんだか「太陽と風」を思い出しました😊目的と手段を見誤ることなく🏯限りある資材をうまくマネジメントする🎉民の日々がより健やかになる様🤝皆で皆の未来を優しく育てる📚私も何かに活かします😉
大砲の出現により
戦術の変化もありますね
大きな高い目標があれば
間接照準で遠方から砲撃しやすくなりますし
天守閣への砲撃が盛んに行われた大坂の陣しかり
大砲が攻城戦の主力の西洋の砦である五稜郭とか
登録はしてありますが、時々しか観られません。 でもホーリーちゃんのこのチャンネルは大好きです❤️ 今回は保科正之が秀忠の側室の子であることわ知りました。 いつも勉強になります。ありがとう😊💕
観光の為に江戸城天守再建の動きがあるそうですが、こう言う経緯を知ると天守がない方が誇らしく思えてきますね
江戸城天守閣再建は、日本政府がよくやるような、上っ面の観光客向けのテーマパークのようなものとは違います。
言ってみれば、焼失した東大寺大仏殿や金閣寺を再建するような類の趣旨の計画です。
@@erikasono565 政府のメンツより民生重視の証左を無視するとか江戸/東京の凄さを凡百に貶める事にしか価値を見出せないんですね
@@moriritz9715
あなたは何も理解していませんね。別項に私が詳しくコメントしていますから、それをまずよく読んでください。
この計画は、政府主導ではありません。日本政府のメンツのためにやっているわけではありません。
当時、保科正之と共に、江戸城天守閣再建か、民の生活優先かを共に悩み抜いた加賀前田藩藩士の末裔が、土台だけを築いて長らく中断されてきた事業を今こそ再開すべきであると判断して自主的に動いた、江戸と日本の歴史と文化を愛する市民運動です。
-
江戸城天守閣再建計画を提唱したのは、私の母方の伯父です。母の家系は、曽祖父の代まで加賀藩御文庫係でした。
現存する江戸城天守閣の土台は、加賀藩が請け負い、大火の後に建設したもの。
名君として名高い加賀藩四代目藩主綱紀公の生母は三代将軍家光の養女大姫、綱紀公の正室は保科正之の娘・摩須姫です。
-
保科正之が明暦の大火後の江戸の町再建に苦心していた頃、綱紀公は、岳父保科正之の後見の許、藩政改革を進めていました。
中でも、綱紀公が力を入れたのが、かねてよりの念願だったお救い小屋設置です。
困窮する人のために食料を配給し、医療サービスなども無料で行った加賀藩のお救い小屋は、幕府の小石川療養所に先立つものであり、当時としては極めて先進的な福祉事業でした。
しかしながら、このお救い小屋設置は、加賀藩の財政を圧迫するとして、藩内からも強い反対がありました。
そんな最中に起きたのが明暦の大火です。
焼失した江戸城と江戸市中の再建のための手伝い普請は、石高により課されます。
ですから、徳川幕府に次ぐ随一の大藩だった加賀藩に課された負担は特に重く、江戸城天守閣再建も、もし保科正之が再建しないという決断を下していなかったら、恐らく加賀藩がその建設費用の大半を担う結果になっていたでしょう。
現に今でも残っている立派な天守閣の土台は、加賀藩によって再建されているではありませんか。
-
けれども、綱紀公による加賀藩藩政改革を岳父として貢献していた保科正之は、先進的な福祉施設であるお救い小屋設置のために多大な費用が掛かり、加賀藩の財政が圧迫され、藩内からも強い反対の声が上がっていたことを知っていた。
もしこのまま江戸城天守閣再建を進めれば、天守閣の土台だけではなく、天守閣そのものの建設費用負担も加賀藩に重くのしかかり、結果として綱紀公の悲願だった加賀藩のお救い小屋は藩内の反対で廃止されかねない。
そのことが正之にはよくわかっていた。
だからこそ、江戸の町民のためばかりではなく、加賀藩の庶民のための藩政改革の象徴としてのお救い小屋維持のためにも、正之は意を決して江戸城天守閣再建断念を決断したのではありませんか?
-
実際、天守閣の土台は加賀藩が施工しているのだから、天守閣を再建するにしても、果たして幕府が江戸の町再建のための資金を天守閣再建に投じていたかどうかは分かりません。
土台同様、加賀藩に殆ど丸投げすればいいということになりかねなかった。
そんなことをされても、外様大名の立場の加賀藩は何も反論できません。
幕府の命令が下れば、そちらが優先ですから、結局は藩政改革が犠牲になり、庶民のためのお救い小屋に回すお金などどこにもなくなります。
でも、保科正之の立場としては、娘の嫁入り先の加賀藩の藩政改革を貢献していて、その実情が分かっていても、幕閣の前でそのことを正直には言えないでしょう?
だから通りがいいように「江戸の町再建を天守閣再建より優先する」と言ったのではありませんか?
-
そのことでほっとしたのは、他の幕閣たち以上に、誰よりも綱紀公だったでしょう。これで飢えたり、病気に苦しむ領民を見捨てずに済む、と。
けれども、江戸城天守閣再建のために綿密な設計書を書き、多額の費用をかけて、何百年も崩れない見事な石垣の土台を築き上げた加賀藩士たちは、それをどう感じたでしょうか?
未曽有の災害に見舞われた江戸町民だけではない。加賀藩の領民を救うためにも、江戸城天守閣再建工事が中断されたのはありがたいこと。
でもその一方で、自分達が心血を注いで再建工事を請け負ってきた江戸城天守閣再建が土台だけで中断されてしまったことに、無念さと一抹の寂しさを覚えたのではないでしょうか?
だからこきそ、現在にまで伝えられている江戸城天守閣設計図を見て、江戸時代の何度もの大火、幕末の新政府軍による江戸城総攻撃こそ免れたものの、その後も関東大震災や東京大空襲などを乗り越えてきた現代日本の首都東京の歴史的遺産として、伯父たちは江戸城天守閣再建を計画したのでしょう。
*****
私がドイツに来た80年代、まだ東独時代に訪れたドレスデンでは、見事に破壊された惨めな姿の聖母教会が、敢えて復興されずに放置されていました。
広島の原爆ドーム同様、戦争の悲惨さを伝えるために、敢えて復興せずに残すつもり、とガイド役の講師の先生はそのとき仰っていました。
東西ドイツ再統合後は、西ドイツの住民に復興特別税が課され、東独地域を復興させるのに大変苦労しました。
そして、煤けたような街並み、でこぼこの道だった東独地域が西ドイツ地域並みにきれいに整備された後、なんとこのドレスデンの聖母教会まで、がれきを一つずつ集めて再建されたのです。
-
ドレスデンの聖母教会が再建されたのは、戦争の悲惨さを伝えるより、戦後復興して立ち直ったドイツの姿を見せることの方が歴史的にも意味があると判断された結果のようです。
私は、江戸城天守閣再建にも、同様の意味があると考えます。
保科正之も、加賀藩藩士たちも、当初は明暦の大火後の江戸城天守閣再建を計画していた。
最初から考えてもいなかったわけではない。だから精密な設計書があるし、土台も築かれている。
その工事を中断するのは、保科正之にとっても苦渋の決断だったし、恐らくは幕府以上に、実際に施工を担う、娘の嫁入り先である加賀藩にこれ以上の負担を掛けたくなかったからに違いないのです。
その先人たちの夢を引き継ぎたい。
それは、工事を中断せざるを得なかった保科正之も喜んでくれることだろうし、せっかく手掛けた工事を放置させられた加賀藩士やその末裔が抱き続けた夢なのだと思いますよ。
災害復興のあるべき姿
北陸の皆様にも届いてほしい。
なるほど、です!
勉強になりました🎉
火災で死んでいった人たちの無念を思うといたたまれないが 火災後の政府の対応には頭が下がる
天守が無いことが江戸っ子の誇り、カッコ良すぎるぜ!
お言葉ですが、古くから江戸下町に住む江戸っ子たちの少なからぬ数の方々が、江戸城天守閣を再建する会の会員になり、再建運動を支えて下さっています。
明暦の大火後、そして江戸時代が終わるまでは、江戸城守閣再建より、江戸の街が焼失するたびに街の再建や、火除け地を設けるなどして街を整備する幕府の姿勢が誇りだったでしょうが、今は少し違うでしょう。
*****
欧州に長く住んていると、欧州の街の整然とした美しさに心を打たれます。
多くの街には臍がある。中心に広場があり、教会や領主館などの中核になる建物があり、そこから放射線状に道が延びている。
京都の碁盤の目のような街づくりもよいですが、欧州の街は、慣れると迷わないのです。
-
それに比べると、今の東京の街は、あまりにも雑然としています。
無秩序に高層ビルが立ち並び、街の中心となる旧江戸城、現皇居の存在感がない。
私は、むしろ現代の東京にこそ、江戸城天守閣を再建し、政府の言うような薄っぺらな観光客寄せではなく、本当の意味での日本伝統文化発信の拠点にしたいのです。
観世流能楽師の奥さんになっている大学時代のクラスメートにその話をしたら、徳川宗家と観世家は縁が深い。家元の観世さんや野村萬斎さんとは懇意だから、あの二人が動いてくれれば、勧進能でも何でもできると請け合ってくれました。
-
誇りを持つべき対象は、時代によって違ってくるのではないでしょうか?
そもそも明暦の大火後も、保科正之も、最初から江戸城天守閣再建を諦めていたわけではなかった。
精密な設計図を作り、加賀藩が請け負って、立派な石垣の土台を完成させたのです。
それなのに建設計画を中断したのは、江戸の街の復興のためもあるでしょうが、むしろ加賀藩の財政を、藩主綱紀公の岳父である正之が心配してくれた面も強かったように思うのです。
様々な人の想いがあり、時は流れたのです。
今我々は、江戸時用天守閣を再建することに、むしろ誇りを感じてもよいと私は思います。
江戸城天守を再現しなかったのは財政的理由、くらいの認識でしたが、今回の動画で保科正之の人徳に基づく判断が大きな影響を与えていたことを知り、感動しました!
もちろん、儒教とかの影響もあったのでしょうが、古くは仁徳天皇の「民の竈」の考えが、江戸時代の為政者にも通じていた気がしてなりません。わが国ならではの、民を思う政治が。
江戸城天守閣再建計画について、誤解している方が多いようなので一言。
この計画の言い出しっぺは、旅行業の重鎮だった私の母方の次兄に当たる伯父です。今は、伯父が高齢になったので、理事長職も若い世代の方が引き継いでいます。
また、会長には、徳川家康が江戸に入る前に最初に江戸城を建てた太田道灌の子孫の方が着任しています。
-
現存する江戸城天守閣の土台は、加賀藩が請け負い、大火の後に建設したもの。
私の母方の家は、曽祖父の代まで加賀藩御文庫係でした。また、名君として名高い加賀藩四代目藩主綱紀公の生母は三代将軍家光の養女大姫、綱紀公の正室は保科正之の娘・摩須姫です。
保科正之は23万石で、家禄からは加賀前田藩とは比較にならない小藩。でも正之の見識、摩須姫の人柄を見込んだ綱紀公は、敢えて摩須姫を迎えることを望み、摩須姫が嫁いで8年後に18歳の若さで亡くなった後も、継室は迎えていません。
農地改革のほか、藩財政を圧迫してまでも、困窮する人のために食料の配給や医療などを行ったお救い小屋設置などの綱紀公のの藩政改革は、岳父保科正之の後見を得て行われたものです。
お救い小屋設置は、綱紀公の前々からの悲願で、前藩主が亡くなったあと、藩財政圧迫を心配する藩内の反対の声を押し切って、綱紀公が実現したもの。
このほかにも綱紀公は、加賀藩文庫を徳川幕府に匹敵するくらいに充実させ、京都から学者たちを招き、伝統工芸を興し、宝生能を庇護する等の文化活動も行っています。
*****
当然、加賀藩御文庫係の末裔である伯父も、保科正之の提言で江戸城天守閣が再建されなかった経緯は熟知しています。
また、江戸城天守閣再建計画は、現存する当時の設計図に忠実に基づくものであり、薄っぺらい客寄せパンダのような新築コンクリートによる観光客向けのテーマパークの類ではありません。
当時計画されていた天守閣を当時の設計図通りに再建することができるだけの古文書が残っていないのに、それを現代的に勝手にうわべだけコンクリートで造るようなことを、加賀藩御文庫の末裔である伯父が考えると思いますか?
-
伯父は大手旅行会社会長などを歴任した後、海外からの要人らを招聘する事業などを独自に始めていたそうです。
その際、ニューヨークの自由の女神、パリの凱旋門のような、歴史的に意義のあるランドマークが日本の首都東京にはないことを痛感。
大火で江戸城を含め、江戸の町の大半が焼失したあと、江戸の街の再建を天守閣より優先し、火除け地なども設けた幕府の方針の意義は伯父も認めています。
しかしながら、明治維新、関東大震災、東京大空襲などを乗り越え、世界有数の経済大国になった日本の首都には、江戸時代からの歴史を感じさせるランドマークがあってもよいのではないか、という考えに基づき、江戸城天守閣再建を提案し、あちこちに声を変えて奔走したそうです。
*****
私は80年代に来欧し、ずっと日本は不在にしていましたから、細かな経緯は聴いていません。
ですが、伯父がこの提案をした時期は、おそらくはまだバブル時代か、その余韻が残っていた頃のことです。
当時、あまり意味もないハコモノが次々に建てられていくのを見て、そんなものよりは、せっかく当時の設計図も残っているのだから、この際、江戸城天守閣を当時の計画のままに再建した方が、日本の伝統文化発信拠点としても意味があると伯父は考えたのでしょう。
この計画は、オリンピックのように税金を億兆単位で投入するわけでもないし、決して庶民の生活を無視した無謀な計画を立てたわけでもなければ、文化的、歴史的価値のない浅薄なものを作ろうとしたわけでもありません。
東大寺大仏殿や金閣寺が焼失したら、やはり日本の歴史伝統文化の継承のために、お金がかかっても再建しようとするわけでしょう?
ならば、なぜ首都の顔となるべき江戸城の天守閣は、設計図も残っているのに再建されないのか。もっとどうでもいいようなハコモノがたくさん建てられているではないか、というのが、伯父の疑問の出発点だったように思います。
-
しかしご存じの通り、90年代以降の日本は、バブル崩壊後の長期経済低迷期に苦しみ、寄付を募ろうとしても、なかなか江戸城天守閣再建のための寄付は集まらないのが実情。
伯父たちは、2020年の東京オリンピックに間に合わせようと苦心していたようですが、その矢先に襲ったのが、新型コロナウィルスパンデミック。
東京オリンピックは、1年延期し、無観客という日本経済のためには最悪の形で強行開催されましたが、伯父たちの江戸城天守閣再建計画は成りませんでした。
-
これに先立つ2017年春、国際学会研究発表のため一時帰国した私は、観世流能楽師の奥さんになっている大学時代のクラスメートに伯父たちの計画を話しました。
彼女曰く、「徳川家と観世家は縁が深い。家元の観世さんや、狂言師の野村萬斎さんとは懇意にしているから、あの二人が動いてくれれば、勧進能でも何でも、大抵のことはできる」と請け合ってくれました。
でもそうはいっても、仲介役となる肝心の私が在欧では、話は動きません。
というわけで、こちらの方面からの話も放置されているのが現状です。
-
文化学研究者である私としては、もし伯父たちの言うように江戸城天守閣を再建するのであれば、それが歴史的、文化的に意味があるものでなければならないと考えています。
観世さんや野村萬斎さんに助力を仰いで勧進能を行うだけではない。建物は当時の設計図通りに作るとしても、普段は人が住んでいず、有事には武器庫になるような巨大な内部空間に、例えば能舞台や茶室などを設けて、そうした伝統文化に携わる方が活動できるような場にできないかな、と。
前述の私のクラスメートは、夫君のほか、息子二人が観世流能楽師で、都内の寺社で能楽を習う子供達も子役で出演するような薪能を、1000円くらいの庶民的なチケット価格で開催する活動をしています。
また、中学校の音楽教科書に、能楽師である夫君名義で能楽の特殊な楽譜の読み方に関する記事を執筆し、中学校の音楽教師たちを生徒役に、夫君や息子たちが教え方を教えるワークショップなども開催しています。
私の母校の中高では、能楽堂を貸し切りにし、全校生徒だけのために能狂言を演じてもらう鑑賞会が開催されていたという話をしたら、「日本の伝統文化なのだから、本当はそのくらいのことは、どこの学校でもやるべきだと思う」と言っていました。
でもそのためには、既存の能楽堂だけでは足りない。彼女は、自宅をリフォームする際、夫君や息子たちの練習やレッスンのために、防音仕様の練習用能舞台を備えた能ホールを併設したらしいのですが、そのくらい、練習する場所も足りないのです。
我々のクラスメートには、文化庁の職員になっている人もいます。
文化庁では、全国各地の学校の体育館でバレエなどを上演する学校公演に助成金を出しています。
生の舞台を見る貴重な機会です。でも能楽の場合、能舞台の板敷の下に仕込まれている甕が共鳴することで、舞台そのものが楽器のようになっているので、普通の体育館などで上演するのも難しいのです。
*****
江戸時代から残る貴重な設計図に基づく江戸城天守閣の復元。
そのために、徳川家とゆかりの深い観世家などの協力の許、勧進能を行って寄付を集め、完成した天守閣の内部には、日本の伝統文化を発信できるような拠点を設ける。
そこで、児童生徒を含む多くの日本の方々に、日本文化を体験してもらう。
もちろん、外国人に対する日本文化の発信も大切ですが、まずは日本人自身からですね。
-
私や私のクラスメートが夢見ていることは間違っているでしょうか?
確かにお金はかかりますが、もっと遥かに下らないことに大金が費やされている例が今の日本には多すぎるように思うのですが?
僕は江戸城天守再建に好意的でしたが、このコメントを読んでなんとなく反対派になりかけてます。
今の両国の地名は「両国橋」ができてからなのかな。江戸の庶民は「徳川様」となったと思います。
This was very interesting, it looks like you guys have been controlled by similar historical narratives just like we have.
I hope this translates accurately.
これは非常に興味深いものでした。あなた方も私たちと同じように、同様の歴史の物語に支配されてきたようですね。
天守が無い事が逆に権威の象徴とも言えるわけね。
大英断ですね
最初の江戸城天守は鉛瓦と漆喰の壁で全体が白く雪山のように見えたそうです。
この話しの後も何度も江戸では火災が起きるけど復興に力を入れて立て直したから全国から大工など職人が増え世界でも珍しい人口100万人都市で水道もある最先端の都市になったと思う
本丸御殿も密集しており、防火防風スペースがなさすぎるよね。火が風を呼ぶし。物見として富士見櫓がその役割果たしていたかな。
保科正之は後に会津初代藩主となり、全国に先駆けて家臣に主君の死後の追腹(殉死)を禁止し幕府もそれを取り入れた、と聞きました。この時代に珍しく人間愛を持った名君だったと思います。
追い腹を禁止したのは綱吉の生類憐れみの令で、武士の辻斬りも止めさせたと聞いていますが。😮
会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加えたのが1661年。正之の指導の元、武家諸法度の公布と共に幕府が殉死は「不義無益」と各大名家に伝達されたのが1663年。生類憐れみの令は1687年からです。
そ、そうだったのかぁ・・・
いつも不思議に思っていた。
二時間ドラマが作れそうな話しです。
再建計画もあるようだけど、しなくていいように思います。
それでも、江戸城は絶対に再建したほ方が良い。
時間を掛けてクラウドファンディングでお金を集めれば税金も必要ない。
何百億円もかかるけど、当時の技術で再建すればこの先何百年も観光客が来る。
投資以上の費用対効果が必ず有ります。
コンクリートで出来てるのに名古屋城や大坂城の観光の効果は絶大です。
300年も経てば国宝になりますよ。🏯✨✨✨
大火による人民救済を優先しての事だったのですね。英断をする人物がいて良かったです。それにしても、江戸時代の火事の影響は恐ろしい😢
両国橋ができたのも、大火の恐ろしさを体験してのことなんですね。
焼失前の天守、本丸御殿図面が有るのに木造復元しないのは勿体無い。
江戸城の天守を再建して東京のランドマークとして、国内外から観光客を呼び込もうとする計画があるそうです。コンクリートで出来た新築の天守のどこが有難いのかサッパリ分かりません。
あの場所に天守がない事自体が貴重な文化遺産なのだと思います。
計画の趣旨も詳細も何も知らず、とんでもないお門違いの風評を建てないでいただきたいものです。
誰もコンクリートで新築しようなどとは言っていません。当時の設計図通りに復元しようという計画です。
@@erikasono565 さん
「新築計画」の基本設計も知らずにコンクリート云々の発言は軽率でした。申し訳ございません。
しかし自分の投稿の本旨は幕府の権威の象徴である天守の再建より、庶民の生活、今後の防火対策に重点を置いた当時のそしてその後の幕閣の判断こそが尊重されるべきにありました。
建築当時の内外装の素材から装飾まで忠実な再現をされた再建でも、再建に反対の本旨は変わりません。
@@ざんぱの
あなたの投稿の主旨はよく理解しているつもりです。
そのことについては、私が別項に書いたコメント、およびmoriritz9715 産への返信を呼んでいただきたいと思います。
-
要点をかいつまんで繰り返すならば、まず保科正之の決断は、単に江戸の街の再建を優先しただけではなく、岳父である保科正之が貢献となって進めていた、加賀藩4代藩主綱紀公の藩政改革、とりわけ藩財政を圧迫していたお救い小屋設置計画を頓挫させないためのものだったと考えられること。
明暦の大火後の江戸城天守閣再建は、最初から放棄されていたわけではありません。
綿密な設計図による再建計画があり、加賀藩が今でも皇居に残る立派な天守閣土台を石垣で建設したのです。
あのまま天守閣が再建されていても、果たして幕府が江戸の町再建費用を天守閣再建に回したかどうかは怪しい。
むしろ、天守閣の土台同様、加賀藩がその費用負担を押し付けられる恐れがあった。
綱紀公の加賀藩藩政改革の後見役だった正之は、このまま加賀藩に江戸城天守閣再建のための膨大な出費を強いれば、綱紀公の悲願だった、餓えたり病気になった領民を救うためのお救い小屋設置計画がとん挫することを恐れたのではないでしょうか。
でもそのために、江戸城天守閣再建のために多大な労をかけて新たに設計し、土台を築いた加賀藩士たちの労苦が無駄になることは、保科正之も、綱紀公も、忸怩たる思いだったでしょう。
-
この江戸城天守閣再建計画は、日本政府の浅薄な客寄せパンダ的な観光客向け事業などではありません。
この計画を提唱したのは私の伯父、加賀藩御文庫係の末裔です。
綿密な設計書を書き、苦労して立派な石垣の土台を築いたのに、結局工事は中断された。
災害からの復興がなり、様々な歴史的苦難を乗り越えた現代日本の首都東京に、祖先が果たせなかった天守閣を築くのは、加賀藩士の末裔の夢なのだと思いますよ。
応援してくれている江戸城天守閣を再建する会の会員の多くは、下町に住み、江戸の歴史と伝統を愛する江戸っ子たちです。
彼らは、江戸城天守閣再建より江戸の町復興を優先してくれた保科正之の決断には感謝しているでしょうが、だからこそ今、豊かになった日本で、新たな日本の象徴として江戸城天守閣を再建したいのでしょう。
その方が、保科正之も喜んで下さるでしょうし。
コンクリじゃなくて本物の材料で再建すればいいじゃん。将来の日本に素晴らしい観光資源を残せますよ。
コンクリで出来た大坂城でさえ、観光客長い事大勢来てますよ。
金閣寺だって燃えて再建された物なのに(勿論国宝では無くなったのに)、凄い数の観光客来てますよ。
@@佐藤蓮-r4n
江戸城天守閣を再建する会のホームページで、当時の設計図に基づく完成予想内部ヴィデオがCG合成映像で公開されています。
外部だけではなく、内部も木組みの木造建築日本側ら漆喰塗りなど、見事です。
当時の設計図通りに造ると、内部の階段がやや急傾斜で上り下りに少し苦労しますが、これは西洋の塔などでも同じ。
エレベーターなどで上がれるようにしてしまうと内部構造を壊してしまうので、内部に入るのは登り切れる自信のある人だけで、入場真数も制限することになるかもしれませんが、仕方がないですね。
外見を眺めるだけでも絵、日本の伝統建築技術の粋を集めたものでになる見事さですし、もし内部に能舞台などを設けるのなら、階段を上らずに済む1階部分は使えるはず。
そのように使うのであれば、2階以上の階段以外の部分は、能などの出演者の控室や小道具置き場にしてもよいと思いますし。
初代会津藩主保科正之公!
Are we talking about tenshu-dai (天守台)?
Exactly!
名古屋城との関係は不明ですが、地元の車のエンジンオイルは「キャッスル」です。
私見ですが江戸幕府は各藩に一国一城の規制を掛けたが幕府は大阪城など各地に直轄城を持っているので江戸城に天守を建てると自らの規制に自ら反する、で自制した・・・・かな❔💸
まさに、大阪万博を控えても能登半島の復興に力を注ぐべきとのホーリーさんのタイムリーなお話だとご推察します。
しかし今、地球規模での地殻変動による災害が各国で起こっています。
これだけは防ぎようがありませんが、もし起こったらを常に考えて日常を過ごす必要があると思います。
江戸東京博物館で明暦の大火の地層は5メートル下に埋もれてると解説していました。江戸城も埋もれているのでしょうね
Kono Tenshukaku-nashi no Edojoo no o-hanashi, kokorokara kansha ni taemasen. Itsu-mo hontoo ni kachi no aru Rekishi-to Bunka no o-hanashi o arigatoo gozaimasu.
悲惨な実話😮なるほど 一歩目か 復興精神? ほーりーさん判りやすい😃
江戸城天守再建、是非とも令和の時代に成し遂げてほしいです。保科正之公もお喜びになることでしょう。
江戸城天守閣再建計画を推進しているのは、保科正之の薫陶を受けて藩政改革を推進した加賀藩士の末裔です。
正之も、明暦の大火後も、明治維新後も、関東大震災や東京大空襲でなんども焼け野原になりながら、そのたびに不死鳥のように復興した日本の首都東京の象徴には、頭タワーやスカイツリーより、江戸城天守閣再建の方がふさわしいと思われるでしょう。
-
何より、今の都心には、一戸何億円もの億ションが数えきれないほど入居する、富裕層向けの巨大なマンション群が立ち並んでいるではありませんか。
そういう富裕層からもっと税金を徴収し、日本人が日本という国を誇りに思えるような日本伝統文化発信の拠点として、江戸城天守閣再建を果たすべきだと私は考えます。
@@erikasono565
ありがとうございます。江戸城天守再建の費用はインバウンドなど関連する経済効果を含めると、1年で回収できるという試算もあるそうですね。是非やってほしい。
@@綾瀬川はるか-v6g
この江戸城天守閣再建計画を提唱したのは、旅行業に従事していた私の伯父です。伯父が高齢になり、理事長も若い世代に引き継がれてはいますが。
伯父は立場上からも、確か90年前後だと思いますが、「観光業は虚業ではなく実業である」として、政府の観光業促進に加担するコラムを朝日新聞に執筆しています。
-
政府は、オリンピックでも何でも、なにかというと経済効果がいくら、とカネ勘定します。
日本経済が低迷している昨今、経済効果が大切なのはわかります。
きれいごとではない。高度成長期のような経済成長が見込めない今の日本では、別の方法で生き残ることを考えなければなりません。
付加価値の付くような高度な科学技術、日本人にしか作れないような優れた製品。
それと共に、政府が目論むのが、欧米な中東などの金持ちに日本に来てもらい、金を落として行ってもらうために観光業促進です。
-
伯父が立場上、似たような趣旨のコラムも書いているので、姪としては言いにくいのですが、文化学者の端くれである私としては、経済効果ばかりを考えてうわべの観光業促進をしてもうまくいかないと思うのです。
そのことは、伯父もよく分かっているはずだと思うのです。
私は80年代に来欧しているので、伯父たちの江戸城天守閣再建計画の詳細や経緯も詳しくは知らないのですが、母から江戸城天守閣を再建する会の瓦版を見せてもらったことがあります。
そこで感じたのは、江戸城天守閣を再建する会のメンバーとして寄付などをしている人達は、江戸の下町に住み、江戸を愛する庶民が多いということ。
そういう江戸の下町の商店街の人達なども、結局は観光客が増えて街がにぎやかに活性化し、経済効果が見込めることを期待しているのではないかと言われればそれまでかもしれません。
でも、政府の冷たいそろばん勘定とは違います。そこにあるのは、祭りや芝居に血が騒ぐ、江戸っ子気質。
天海祐希さんは上野の下町出身で、祭りの日に実家に帰ると御輿を担ぎたくなる、と徹子の部屋で仰っていましたが、そんな風な。
彼らは、保科正之が江戸の町の再興を優先し、江戸城天守閣を再建しなかったことに感謝はしていても、やはりどこかで、江戸の街が誇りうる立派な天守閣を見たいのでしょう。
-
もうひとつ、これは伯父たちに相談したわけではないので、私個人の勝手な意見なのですが、私は、江戸城天守閣が再建されるのであれば、そこを日本伝統文化発信の拠点にしたいのです。
2017年、国際学会研究発表のため、実に26年ぶりに一時帰国した私は、観世流能楽師の奥さんになっている大学時代のクラスメートとひとしきりお喋りをし、伯父の計画も話しました。
彼女は家元の観世さんや狂言師の野村萬斎さんらとも懇意で、どこだかの寺社の再建のために勧進能が行われた例があるとかで、徳川家と観世家とはゆかりも深いことだし、あの二人が動いてくれれば大抵のことはできる、と請け合ってくれたのです。
とはいえ、仲介に立つべき私が在外では、今は動きようがない。
けれども私は、もし観世さんや萬斎さんらが江戸城天守閣再建に溜めに勧進能を舞ってくれるのであれば。それだけにとどまらず、再建された天守閣内に能舞台などを設け、多くの人がもっと気軽に日本伝統芸能に触れる場を作れないか、と考えているのです。
もちろん、観光客向けのショーのような薄っぺらなものではなく、都内の寺社で薪能なども開催している前述のクラスメートらの力を借りて、やろうと思えばいろいろなことができるのではないかな、と。
-
ただ心配なのは、伯父たちの江戸城天守閣を再建する会には、そういう文化関係者は関わっていないようで、私のクラスメートが観世さんや萬斎さんらに声をかけてくれると請け合ってくれても、私の方で江戸城天守閣を再建する会にどう話を付けたものか、と。
伯父ももう理事長はとっくの昔に引退しておりますし?
こちらの動画のコメント欄を見ても、ホーリーさんの動画での取り上げ方も関係しているのですが、江戸城天守閣再建計画は、観光客目当て、金目当ての薄っぺらなものと誤解している人が多くて。
推進者側もそういう意識の人が多いと、我々はとてもやりにくくなる。
-
私は在欧38年、そのうち足掛け15年は、ドイツの本拠地と往復する形で、ウィーンで資料研究生活をしています。
オーストリアは、音楽遺産とウィンタースポーツを軸にした観光立国です。特に首都ウィーンは、小手先の観光業振興などでは到底実現できない、長い伝統と本物の芸術が基盤にあり、その歴史的遺産をうまく管理してみせるだけでお金になる。
私はよく、夏場は、世界中から政財界のトップがザルツブルクに集結し、ザルツブルク音楽祭の幕間のベームザール(大劇場と小劇場の間にあるロビー)のVIPスポンサー会員用特設ラウンジで、毎晩のように億単位の商談が決まる、という話をします。
これが実現するのは、年会費600万円を払っても惜しくないと思わされるようなVIPサービスもさることながら、オーストリアの音楽芸術の水準が世界レヴェルで本物だということ。
カラヤン没後は、カラヤン時代のような華やかさはなくなりましたが、それでもウィーンフィルが夏場はザルツブルグに移動しますから、レヴェルの高さはか折り紙付き。
そして、VIPたちが気前良くお金を落として行ってくれるから、ザルツブルク音楽祭公演はオーストリアテレビで無料放送されるし、結構安い値段のチケットもあって、様々な人が楽しめる。
そういうノウハウは一言では書き尽くせません。
-
ただ強調しておきたいのは、江戸城天守閣再建も含め、歴史的建物を再建し、祖怪我経済効果に結び付く時には、その歴史や伝統文化を含め、深い本物の理解が必要だということ。むしろ経済効果が出るのは、結果論に過ぎません。
だから、こういう計画の推進には、今日本政府がやっているようなインバウンドによる経済効果云々というカネ勘定ばかりを専攻させるのではなく、どうしたら日本の伝統芸能を現代に生かせるかを考えている我々の意見も入れてほしいと思うのです。
昔の人の方が人徳がありますね。見栄の大阪万博など止めて被災地への回復を進めようする気概のある役人はいないものなのか。
岸田首相や自民党のような吝嗇な人間はむかしの日本にはいなかった。
しかも江戸城を再建しようとしてるやつらがいる
保科正之公の言葉を都合よく解釈して作ろうとしてる 利権でしかない
役人では無くて、【政治家】がカジノに繋げる為の万博ですね〜
時代劇『暴れん坊将軍』のオープニングの江戸城は姫路城でしたね。
皇居には立派なお掘りは残ってるのに、天守閣が無いのは残念。
修復した土台は残ってるのだから再建して欲しい。
本物の江戸城が観たい!!
ついでに、安土城も誰か再建してくれないかなぁ。😅
動画の主題の意図 理解できん人ってやっぱりいるんだな〜。って思った。
おそらく、徳川埋蔵金があれば、天守閣は再建されていたかもしれませんね。
火事以後も天守閣も再建できなかった、という事は徳川埋蔵金は無かった、、、という事でしょうか?
私は、幕府が江戸城天守閣再建に幕府のお金を使うつもりだったのか、疑問に思っています。
だって、天守閣を再建しなくても、江戸の街の復興以前に、江戸城本丸の表、中奥、大奥、つまり政務をとる場所や、将軍、御台所らの居室も焼け落ちているわけでしょう?
江戸城でも、本丸の再建は江戸の街の復興や被災者救済と同時進行で進めなければ、幕府が成り立ちません。
-
そうなるとやはり、天守閣は土台だけではなく、本体も加賀藩にほぼ丸投げするつもりだったのではないかと。
そうなると加賀藩のお救い小屋などの藩政改革ができなくなりますから、綱紀公は藩政の後見役でもある正之に、そんなことはお受けいたしかねますと申し出たでしょうね。
そのくらいの理由がないと、正之の独断で天守閣再建を中止することは、さすがにできなかったどしょう。
家光時代に日光東照宮建設で幕府の資金が無くなっていた、という方が正しいのかなと思います。
火事で 焼けちゃたのです‼️‼️明暦の大火だっけ⁉️⁉️江戸の大火って 他にも 無かった⁉️⁉️
天守閣が再建されなかったのは天下泰平の時代になって天守閣を作る必要がないから。
無駄なものを作る必要はない
元々アレは監視塔なんで平和な時代には不要だね。大砲が開発されたので的にしかならんし。
現代の政府も見習うべき、
というか既存の政党は全部一新して、参政党や日本保守党などの日本のこと考えてる人達が主になるべきですね
明石城を真似したのでしょうか?
江戸の町の復活が最優先の急務、為政者たる者の摂るべき道であることを判断できぬ幕府でもあるまい。
それがすなわち御仁政というもの。
さほど評価するには及ぶまい。
いや、当たり前の事が実践できないのが人間。
というか、既に幕府は財政難なだけ
江戸城って黒っぽかったの? 徳川家だから白を基調にした城かと思ってた。
初代家康の天守が黒壁でしたが、二代秀忠はわざわざ流行の白壁天守に改築、三代家光は父親を憎んでいたのか、祖父家康の黒壁天守に建て直しましたが家光の没後間もなく焼亡しました。幕閣は天守を再建しようと天守台を作り直しましたが、最終的に保科正之の英断で再建は中止されました。
ゲルゲロお前が1番に交代しろ!
オイラが壊したから
今晩は!ホーリーさん
江戸城に天守閣が無い理由は?の答えはホーリーさんが言った事は間違いでは無いでしょう。
普通の人ならそれでほぼ納得するんでしょうが、ひねくれ者の自分としてはそれだけでは納得いかないんですよね(ホーリーさんを責めている訳では有りません)
保科正之公が「天守は後々に再建すれば良い」と言った筈なのにとうとう再建されなかった、問題は此処なんですよね。何故後々に再建されなかったのでしょう、ここに本当の答えが有るんだと思いますよ(理由は大体推測が付きますけどね)
財政難で金がなかった あと飢饉が頻発してそれどころじゃなかったし。
なかなかタメになる動画
しっかしお江ってヤなババアだ
私見ながら…
保科正之が江戸城天守再建を見送ったことによる
現代への影響力、波及効果を考えると…
それはこの半世紀近い映画やテレビの時代劇に対してであると思う。
明暦の大火以降の江戸を舞台にした時代劇に
当たり前のように姫路城天守を使って江戸城天守に見立てたシーンが多用されるパターンのお約束wwww
これっていわゆる
「このドラマはフィクションです。」
という事実上の無言の表示効果になってるって思うので(笑)
わざわざドラマの最後に字幕つけなくても
架空の江戸城天守を画面に出すことが
フィクション時代劇ですよ~って注記注意書の役割を果たしている。
そんな副作用を保科正之が生み出したとも言える(笑)
それはつまり、江戸城に天守閣がないと、やはり構図としては様にならないということでしょう?
ましてや今の東京は、東京タワーやスカイツリーすら見下ろす勢いの巨大なマンション群が立ち並んでいるのだもの。
日本の首都東京のイメージ、ランドマークが江戸城天守閣ではなく、そうした摩天楼になってしまうというのは、日本の歴史や伝統文化を否定されているようで悲しいです。