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サウンド・トラックのサーというノイズが懐かしいですね。また16mmの映像はやっぱり綺麗です。この頃の個人による撮影は8mmの18コマが主流ですから、非常に値打ちのあるえいぞうですね。テレシネの垂直同期のズレが少し残念と言うか、懐かしいと言うか。横川のアプト式の映像も貴重ですが、銀塩写真を学んだ者としても非常に懐かしいですね。
アプトの走行音がしっかりと聞くことができますね❗幼い頃父から「アプト区間に入ったから音が違うよ」と言われて聞いていた音はこれだったのですね❗中尾川橋梁から26号までのトンネルの映像があるので貴重です👍碓氷峠に鉄道を敷設した当時の人々の苦労と努力に感謝をしながら、碓氷アプト線に乗っていた当時に思いをはせています。
これは凄い貴重な動画ですね。デジタル技術で、是非、カラー化してほしいです。
熊ノ平駅を見られたのがありがたいです。
1:30碓氷線開通の際には500名が犠牲になったという…碓氷線を語るとき、避けては通れないだろうその招魂碑が碓氷線を見守っている…碓氷線が姿を消し、500名の霊魂は何を思うのか…横川を訪れたら招魂碑に手を合わせていただきたい…
アプト区間のメカニカル音は一定のリズムを奏でていて非常に独特です。一度聴いたら忘れません。一方、最後に出てくるデゴイチのドラフト音もやはり、素晴らしい音。忘ませんね。是非!この時代に生まれていたかった!!非常に貴重な音声入り映像をどうもありがとうございました!!
71歳男。齋藤様の仰言る通りでした。60年余り前、アプト式のこの区間は夏の信州への旅のハイライトでした。風景は深山の鮮やかな緑と清冽な水の流れ。都会の子供には別世界の美しさでした。当時の列車には冷房などなく、映像のように皆が窓を開けて、特にこの区間では顔や身まで乗り出して外を眺め、風の冷たさを感じておりました。あの警笛や走行の音は今でも耳に残っています。もっとはっきりした大きな響きでした。一切が感無量です。
初めて祖父に連れられて長野に行った時、アプト式でしたね。 祖父がアプト式の説明をしてくれたのですが幼少期だったので意味が分からなくて。 横川で長い時間止まっていたのと牛乳を買ってもらった、トンネルがやたらと多かったのを覚えています。
ここはいつ行ってもいい所ですね釜飯食べたくなりました
先程途中になってしまい申し訳ありません。鉄道は無くても、先人の方々がこの急勾配に列車を走らせようとした尽力、ご苦労を訪れたメガネ橋の下で感じ取ることができた様な気がしました。映像ではアプトを走る走行音が聴けて感動です!貴重な動画ですね。
こんな貴重な映像ありがとう😉👍️🎶ございます。
あっりゃぁ~!!!アプト区間の音付き映像なんて初めて見た。貴重な映像だこりゃ。
素晴らし歴史的遺産ですね。
線路整備に従事されていた作業員の方の映像を見ていると、その時代の礎となった鉄道のさらに根っことなる影の功労者に感謝しなくちゃな、と少し思いました。
目頭が熱くなりました。碓氷線に従事した鉄道員に、心より感謝致します。
1日最低一回は見させて頂いております。感謝🥲‼️‼️
ED42の動画を見た時パンタグラフを下ろしてどうやって上り下りしていたのかと思っていたのですが 旧線は第三軌条方式だったんですね 横川機関区の出入庫時と横川駅の入換時はパンタグラフを上げて客車に連結したらパンタグラフを下ろしていたことをこの動画を見て初めて知りました しかも客車列車や貨物列車は軽井沢寄りに1両・横川寄りには3両も連結して合計4両で峠を上り下りし さらに高崎~横川間と軽井沢から先は蒸気機関車がけん引していたとは驚きです 貴重な映像をありがとうございました
17:21しれっと物凄いのが繋がってるのに注目。タンク車2両目は恐らくタキ50000(ガソリン・荷重50㌧)か同系のタキ55000(石油類・荷重50㌧)。三軸台車TR78を履いていた。
小学生の頃、父親の田舎の高田に毎年夏休みに碓氷峠を通って行きました。軽井沢側に1両、横川側に3両のED42を連結してゆっくり登っていきました。客車1両で約1mの勾配ですので乗っていても急勾配が分かりました。急行白山は途中から軽量客車ナハ10系となり新しくなりました、碓氷峠前後の蒸気機関車も懐かしいですね。
ヌ600がED42に連結していましたヌ600は暖房車ですが元はピフというブレーキ車ですピニオンブレーキの略称です、信越線には10系軽量客車が優先的に使用されました長野前後25パミールと碓氷の難所があったので優先的に使いました
貴重すぎる映像だわ。上野編成の特急『白鳥』でもあの速度が限界。如何に碓氷峠の勾配が厳しいものかと実感。
11:06 熊ノ平駅前に(奥羽線の板谷駅のごとく)力餅を売ってる商店があったという事実。官舎とはいえ7件も家があったのも驚き!。両側をトンネルで挟まれてるので、今もあったら「小幌」と並ぶ究極の秘境駅になったかも。
貴重な映像すぎだろ…
What a treat! Thank you. Arigato Gozaymasu!
ただただ素晴らしい映像です。スゴイ貴重な映像です。先人の苦労を感じる映像です。
「碓氷アブト」と検索したら出てきた(笑)アブト君は地元愛がありますね!
小樽の博物館でキハ82-1が保存されていますが、最初は尾久にいました。つまり、上野白鳥に使われたわけです。青森白鳥の編成は向日町運転所で、上野白鳥の編成は尾久機関区に所属していました。
夏に軽井沢、碓氷峠、横川行ってきました。勿論、もう鉄道はありませんが、
懐かしくて貴重な撮影、ありがとうございました。私はすでに50代の半分を過ぎてしまいましたが、せめて、アプト式の電車に乗りたかったです。(大井川鉄道にあると聞いたので、時間とお金があれば行きたいですね)碓氷峠の坂(66㍊)は新幹線でも登りきれないみたいだから、専用機関車に連結してみるのもありかな?(時速200kmで以上で降り登るのは圧巻でしょうね。安全とはいえないが・・・)叶えるわけないけど、やって欲しいと思うのは、私の勝手な妄想ですね?
I hiked the Kumanotaira-Yokokawa segment earlier this year and it's amazing how little the scenery has changed. It was really easy to recognize all of the landmarks in the video!
貴重な音付き、ありがとうございます子供の頃通った時の音を勝手にラックを噛む音と解釈していましたが今になッて考えてみると、違うものでしたね、永年の勘違いが解けました。これで変速点のホイッスルも聞けたら、と云うのは贅沢ですね。
昔、子供の頃に白山号に乗って石川県金沢に行った時にこの映像で見る橋に落ちた日産311だと思いますが、これを目撃した覚えがあります。
1950/6/9/0608時。2021/6/9熊の平駅構内土砂崩れ災害より71年が経過しました。殉職した鉄道員と家族に哀悼の意を表します。
2022/6/8/2053時。今年で72年が経過した熊の平駅土砂崩落大災害。今の時間の第一復旧作業で続々と高崎管理部配下の横川保線区、横川電力区通信区の職員が集計し始め雨天で足場が悪い中で線路開作作業に従事している時間です。
前補機の後に、暖房車(暖房用の蒸気を供給する車両)が、連結していました。
新線ができる前のアプト式の映像見てみたいな。どこからどこまで複線でどこから単線になるか気になる。
17:01 車どうした!?
Hello, Does anyone know the title for the song playing at 1:46? Thanks!
当時アマチュアの方が音付きで撮影するには16ミリよりなかったかと思いますが、それとも8ミリで撮影されて別でテープレコーダーを回したのでしょうか・・・。すごく希少動画アップありがとうござます!
Very nice!
18:16 当時の特急「白鳥」は上野を出発して碓氷峠を経由して直江津で大阪発と連結して青森へ行っていたんですね。
違いますよ。当時の気動車特急「白鳥」号は、大阪〜直江津間が、大阪〜青森間+大阪〜上野間と言う編成で走り、直江津駅で分割・併合が行われていました。
金比羅製麺に来たみたいなBGMですね。
見て下さい、ヨコヘンの二代目ロータリーコンバーターの手入れの良さ‼️1921年我が国商用周波数50Hz用に製作されたもので、二基は東芝製で一基はアメリカのウエスチングハウス社製です。関東大震災以降山手、中央線を設備増強の為、田端変電所より移設した機器です。カルヘンも同様。ヨコヘンは水銀整流器、当時電鉄用として低電圧大電流機器としては最高の機器です。
1927年前後に時期のずれがありますが、大正末期より増加するヨコ〜カル間の負荷が鉄道省営横川発電所(25Hz6·6kv1000KW 3基の同期発電機、二機常用一基予備)の単独電源では対応出来ず、また高価な常磐炭を燃料とする省営電力と水力の安価な東京電灯の売電を比較して売電購入に切り替える草案が出て来た頃、偶然に関東大震災で当時の山手線が被災し、設備増強で余剰となった既設に設備を信越本線横川ー軽井沢間の電力設備増強に転用したのです。横川変電所は東京電灯より60/10KVの受電変圧器を三基新設、50Hz/1000KW 3基の回転変流機(2機常用1基予備)を東京鉄道局田端他変電所より移設。横川変電所は横川発電所の運転停止まで10kv 地中送電線で連絡し、横川発電所に50/25Hzのサイクルチャンジャーを設置し並列運転しました。以降横川発電所が廃止後設備を撤去しました。軽井沢変電所は東京電灯軽井沢変電所(のち日本発送電軽井沢変電所から1951年の電力再編成令を経て東京電力軽井沢開閉所ー中部電力軽井沢変電所、60/10Kv,50Hz2000Kw4基,を2基VーV結線でA及びBバンク運転)より10kvで受電。横川変電所と同様の設備です。理由は不明ですが旧蓄電室棟を解体し新設の機械室棟を新設、天井クレーンも設置しました。1936/9/1以降呼称改正にて変電所は変電区と改称。横川軽井沢間の増加する負荷に対する電圧救済のため、1937年に熊の平変電区開設、鐵槽型水銀整流器600V/2000KW1基、1954年に格子制御型の鐵槽型型水銀整流器1基増設。1958年に横川変電区より遠方制御に切り替え熊の平変電区を無人化し、熊の平変電所となりました。なお電力回生制動では横川及び軽井沢変電区の回転変流機が列車力行時はコンバーターとして、列車惰力時の発電電力をバックカーレントとして受け電車線を通して力行列車へ、また回転変流機がインバーターとなり電灯高圧配電線や東京電力側へ送ることが出来ました。熊の平変電区は水銀整流器でインバーター改造していませんので、回生電力は受けません。
群馬県内も、非電化だったんですね。
18:12旧碓氷線を車でくぐる場所なんてあったかい??
今はありませんよ。後の工事で道路自体が線路の高さまでかさ上げされて廃止されたようです、去年「廃線ウォーク」に何度も参加したときに昔を知っている方が教えてくれました。この映像に映る部分、アンダーパスする部分の上部に黒と黄で塗装された跡を見ることも出来ました。なお、国土地理院のホームページから昔の航空写真を見ることが出来ますが、確かにこの部分、窮屈なカーブの道路が鉄路の下にあるのが確認できます。
碓氷峠の第三軌条には工夫がされていると聞いた事がある。
音楽は何ですか?
7:54 キハ82だ!
アプト式が第三軌条では無く架線式を使ったなら、アプト式は第三軌条と比べて現実で長く使われたかな?
碓氷峠の貴重なアプト式時代の映像此だけ苦労して造ったこの区間を🆕新幹線と引き換えに廃止にして良いものか?
BGMはRavel"Borelo"
板谷峠の4連スイッチバックが、38‰なのに、ここは、66.7‰かぁ、,,壮絶だ。ちなみに、SLが登れる限界と言われて居るのが25‰だから。
動画が終わりそうになったら必ず音量下げろよ😆
0:43〜3:21 の間に流れている音楽が気になって仕方がない。何なんだコレ?
good
いつ頃なんだろう
1960年代前半です
6:30 何をしてるのかな?まるで畑を耕してるみたいだ。
これは保線では言うムラ直し作業と言います。バラスト道床の軌道では例え1本の列車が通過するたびに道床のバラストは少しずつ崩れて軌道は狂い始めます。なので当時はヨコーカル間に保線支区、さらに配下の線路班が存在して保線職員がツルハシに似たビーターという工具で道床のバラストを雪固めています。このアブト区間は多くは鉄枕木にてタイタンパーが利用出来ませんし、急勾配ゆえにレール運搬にもモーターカーは運転出来ず、工事臨時列車を運転して指定位置に正確に停止して機材を無蓋車から搬出積み下ろししていたのです。
特急の場合、前補機はないのですか?
気動車は自分達の動力もあるので、前補機は不要なのだと思います。
@@toshihorrich8405 さん。ありがとうございます。名前を変更しました。よろしくお願いいたします。(20-02-19)
じぶんの動力でなく運転席を持っていますのでブレーキをかけることができます。
15:59 トンネル入り口レンガの損傷は、確か米軍機が列車を襲った機銃掃射の跡だろう。
一寸考え過ぎだと思います。軽井沢は駅前で標高940mあり冬季の寒さは格別です。国道18号線の舗装のコンクリートは極めて分厚い(確か20cm位あったように思います)もので、これは冬季には霜柱によってコンクリートが持ち上げられて、繋目毎に凹凸が出来ないように厚くしてあると聞きました。隧道11号から26号が補修されていたのは、この峠の標高差の違いにより煉瓦に沁み込んだ水分が凍結を繰り返して煉瓦を欠落させた所為だと思います。因みに隧道10号の軽井沢側の標高は660mあります。隧道10号より横川側の隧道がそれ程傷んでいないのはこの標高差(冬季の気温差)によるものと考えるのが自然ではないでしょうか。
第三常軌方式が熊ノ平事故の原因となった
うーーん 、BGM いらない。
サウンド・トラックのサーというノイズが懐かしいですね。
また16mmの映像はやっぱり綺麗です。この頃の個人による撮影は8mmの18コマが主流ですから、非常に値打ちのあるえいぞうですね。
テレシネの垂直同期のズレが少し残念と言うか、懐かしいと言うか。
横川のアプト式の映像も貴重ですが、銀塩写真を学んだ者としても非常に懐かしいですね。
アプトの走行音がしっかりと聞くことができますね❗
幼い頃父から「アプト区間に入ったから音が違うよ」と言われて聞いていた音はこれだったのですね❗
中尾川橋梁から26号までのトンネルの映像があるので貴重です👍
碓氷峠に鉄道を敷設した当時の人々の苦労と努力に感謝をしながら、碓氷アプト線に乗っていた当時に思いをはせています。
これは凄い貴重な動画ですね。デジタル技術で、是非、カラー化してほしいです。
熊ノ平駅を見られたのがありがたいです。
1:30
碓氷線開通の際には500名が犠牲になったという…
碓氷線を語るとき、避けては通れないだろう
その招魂碑が碓氷線を見守っている…
碓氷線が姿を消し、500名の霊魂は何を思うのか…
横川を訪れたら招魂碑に手を合わせていただきたい…
アプト区間のメカニカル音は一定のリズムを奏でていて非常に独特です。一度聴いたら忘れません。
一方、最後に出てくるデゴイチのドラフト音もやはり、素晴らしい音。忘ませんね。
是非!この時代に生まれていたかった!!
非常に貴重な音声入り映像をどうもありがとうございました!!
71歳男。齋藤様の仰言る通りでした。60年余り前、アプト式のこの区間は夏の信州への旅のハイライトでした。風景は深山の鮮やかな緑と清冽な水の流れ。都会の子供には別世界の美しさでした。当時の列車には冷房などなく、映像のように皆が窓を開けて、特にこの区間では顔や身まで乗り出して外を眺め、風の冷たさを感じておりました。あの警笛や走行の音は今でも耳に残っています。もっとはっきりした大きな響きでした。一切が感無量です。
初めて祖父に連れられて長野に行った時、アプト式でしたね。 祖父がアプト式の説明をしてくれたのですが幼少期だったので意味が分からなくて。 横川で長い時間止まっていたのと牛乳を買ってもらった、トンネルがやたらと多かったのを覚えています。
ここはいつ行ってもいい所ですね
釜飯食べたくなりました
先程途中になってしまい申し訳ありません。
鉄道は無くても、先人の方々がこの急勾配に列車を走らせようとした尽力、ご苦労を訪れたメガネ橋の下で感じ取ることができた様な気がしました。
映像ではアプトを走る走行音が聴けて感動です!貴重な動画ですね。
こんな貴重な映像ありがとう😉👍️🎶ございます。
あっりゃぁ~!!!
アプト区間の音付き映像なんて初めて見た。
貴重な映像だこりゃ。
素晴らし歴史的遺産ですね。
線路整備に従事されていた作業員の方の映像を見ていると、その時代の礎となった鉄道のさらに根っことなる影の功労者に感謝しなくちゃな、と少し思いました。
目頭が熱くなりました。碓氷線に従事した鉄道員に、心より感謝致します。
1日最低一回は見させて頂いております。感謝🥲‼️‼️
ED42の動画を見た時パンタグラフを下ろしてどうやって上り下りしていたのかと思っていたのですが 旧線は第三軌条方式だったんですね 横川機関区の出入庫時と横川駅の入換時はパンタグラフを上げて客車に連結したらパンタグラフを下ろしていたことをこの動画を見て初めて知りました しかも客車列車や貨物列車は軽井沢寄りに1両・横川寄りには3両も連結して合計4両で峠を上り下りし さらに高崎~横川間と軽井沢から先は蒸気機関車がけん引していたとは驚きです 貴重な映像をありがとうございました
17:21
しれっと物凄いのが繋がってるのに注目。
タンク車2両目は恐らくタキ50000(ガソリン・荷重50㌧)か同系のタキ55000(石油類・荷重50㌧)。三軸台車TR78を履いていた。
小学生の頃、父親の田舎の高田に毎年夏休みに碓氷峠を通って行きました。軽井沢側に1両、横川側に3両のED42を連結してゆっくり登っていきました。客車1両で約1mの勾配ですので乗っていても急勾配が分かりました。急行白山は途中から軽量客車ナハ10系となり新しくなりました、碓氷峠前後の蒸気機関車も懐かしいですね。
ヌ600がED42に連結していましたヌ600は暖房車ですが元はピフというブレーキ車ですピニオンブレーキの略称です、信越線には10系軽量客車が優先的に使用されました長野前後25パミールと碓氷の難所があったので優先的に使いました
貴重すぎる映像だわ。
上野編成の特急『白鳥』でもあの速度が限界。如何に碓氷峠の勾配が厳しいものかと実感。
11:06 熊ノ平駅前に(奥羽線の板谷駅のごとく)力餅を売ってる商店があったという事実。
官舎とはいえ7件も家があったのも驚き!。
両側をトンネルで挟まれてるので、今もあったら「小幌」と並ぶ究極の秘境駅になったかも。
貴重な映像すぎだろ…
What a treat! Thank you. Arigato Gozaymasu!
ただただ素晴らしい映像です。スゴイ貴重な映像です。先人の苦労を感じる映像です。
「碓氷アブト」と検索したら出てきた(笑)アブト君は地元愛がありますね!
小樽の博物館でキハ82-1が保存されていますが、最初は尾久にいました。
つまり、上野白鳥に使われたわけです。
青森白鳥の編成は向日町運転所で、上野白鳥の編成は尾久機関区に所属していました。
夏に軽井沢、碓氷峠、横川行ってきました。勿論、もう鉄道はありませんが、
懐かしくて貴重な撮影、ありがとうございました。
私はすでに50代の半分を過ぎてしまいましたが、
せめて、アプト式の電車に乗りたかったです。
(大井川鉄道にあると聞いたので、時間とお金があれば行きたいですね)
碓氷峠の坂(66㍊)は新幹線でも登りきれないみたいだから、
専用機関車に連結してみるのもありかな?
(時速200kmで以上で降り登るのは圧巻でしょうね。安全とはいえないが・・・)
叶えるわけないけど、やって欲しいと思うのは、私の勝手な妄想ですね?
I hiked the Kumanotaira-Yokokawa segment earlier this year and it's amazing how little the scenery has changed. It was really easy to recognize all of the landmarks in the video!
貴重な音付き、ありがとうございます
子供の頃通った時の音を勝手にラックを噛む音と解釈していましたが今になッて考えてみると、違うものでしたね、永年の勘違いが解けました。
これで変速点のホイッスルも聞けたら、と云うのは贅沢ですね。
昔、子供の頃に白山号に乗って石川県金沢に行った時にこの映像で見る橋に落ちた日産311だと思いますが、これを目撃した覚えがあります。
1950/6/9/0608時。2021/6/9熊の平駅構内土砂崩れ災害より71年が経過しました。殉職した鉄道員と家族に哀悼の意を表します。
2022/6/8/2053時。今年で72年が経過した熊の平駅土砂崩落大災害。今の時間の第一復旧作業で続々と高崎管理部配下の横川保線区、横川電力区
通信区の職員が集計し始め雨天で足場が悪い中で線路開作作業に従事している時間です。
前補機の後に、暖房車(暖房用の蒸気を供給する車両)が、連結していました。
新線ができる前のアプト式の映像見てみたいな。どこからどこまで複線でどこから単線になるか気になる。
17:01 車どうした!?
Hello, Does anyone know the title for the song playing at 1:46? Thanks!
当時アマチュアの方が音付きで撮影するには16ミリよりなかったかと思いますが、それとも8ミリで撮影されて別でテープレコーダーを回したのでしょうか・・・。すごく希少動画アップありがとうござます!
Very nice!
18:16 当時の特急「白鳥」は上野を出発して碓氷峠を経由して直江津で大阪発と連結して青森へ行っていたんですね。
違いますよ。
当時の気動車特急「白鳥」号は、
大阪〜直江津間が、
大阪〜青森間+大阪〜上野間
と言う編成で走り、直江津駅で分割・併合が行われていました。
金比羅製麺に来たみたいなBGMですね。
見て下さい、ヨコヘンの二代目ロータリーコンバーターの手入れの良さ‼️1921年我が国商用周波数50Hz用に製作されたもので、二基は東芝製で一基はアメリカのウエスチングハウス社製です。関東大震災以降山手、中央線を設備増強の為、田端変電所より移設した機器です。カルヘンも同様。ヨコヘンは水銀整流器、当時電鉄用として低電圧大電流機器としては最高の機器です。
1927年前後に時期のずれがありますが、
大正末期より増加するヨコ〜カル間の負荷が鉄道省営横川発電所(25Hz6·6kv1000KW 3基の同期発電機、二機常用一基予備)の単独電源では対応出来ず、
また高価な常磐炭を燃料とする省営電力と水力の安価な東京電灯の売電を比較して売電購入に切り替える草案が出て来た頃、
偶然に関東大震災で当時の山手線が被災し、設備増強で余剰となった既設に設備を信越本線横川ー軽井沢間の電力設備増強に転用したのです。
横川変電所は東京電灯より60/10KVの受電変圧器を三基新設、
50Hz/1000KW 3基の回転変流機(2機常用1基予備)を東京鉄道局田端他変電所より移設。
横川変電所は横川発電所の運転停止まで10kv 地中送電線で連絡し、横川発電所に50/25Hzのサイクルチャンジャーを設置し並列運転しました。以降横川発電所が廃止後設備を撤去しました。
軽井沢変電所は東京電灯軽井沢変電所(のち日本発送電軽井沢変電所から1951年の電力再編成令を経て東京電力軽井沢開閉所ー中部電力軽井沢変電所、60/10Kv,50Hz2000Kw4基,を2基VーV結線でA及びBバンク運転)より10kvで受電。
横川変電所と同様の設備です。理由は不明ですが旧蓄電室棟を解体し新設の機械室棟を新設、天井クレーンも設置しました。
1936/9/1以降呼称改正にて変電所は変電区と改称。
横川軽井沢間の増加する負荷に対する電圧救済のため、1937年に熊の平変電区開設、鐵槽型水銀整流器600V/2000KW1基、1954年に格子制御型の
鐵槽型型水銀整流器1基増設。1958年に横川変電区より遠方制御に切り替え熊の平変電区を無人化し、熊の平変電所となりました。
なお電力回生制動では横川及び軽井沢変電区の回転変流機が列車力行時はコンバーターとして、列車惰力時の発電電力をバックカーレントとして受け電車線を通して力行列車へ、また回転変流機がインバーターとなり電灯高圧配電線や東京電力側へ送ることが出来ました。
熊の平変電区は水銀整流器でインバーター改造していませんので、回生電力は受けません。
群馬県内も、非電化だったんですね。
18:12
旧碓氷線を車でくぐる場所なんてあったかい??
今はありませんよ。後の工事で道路自体が線路の高さまでかさ上げされて廃止されたようです、去年「廃線ウォーク」に何度も参加したときに昔を知っている方が教えてくれました。この映像に映る部分、アンダーパスする部分の上部に黒と黄で塗装された跡を見ることも出来ました。
なお、国土地理院のホームページから昔の航空写真を見ることが出来ますが、確かにこの部分、
窮屈なカーブの道路が鉄路の下にあるのが確認できます。
碓氷峠の第三軌条には工夫がされていると聞いた事がある。
音楽は何ですか?
7:54 キハ82だ!
アプト式が第三軌条では無く架線式を使ったなら、アプト式は第三軌条と比べて現実で長く使われたかな?
碓氷峠の貴重なアプト式時代の映像此だけ苦労して造ったこの区間を🆕新幹線と引き換えに廃止にして良いものか?
BGMはRavel"Borelo"
板谷峠の4連スイッチバックが、38‰なのに、ここは、66.7‰かぁ、,,壮絶だ。ちなみに、SLが登れる限界と言われて居るのが25‰だから。
動画が終わりそうになったら必ず音量下げろよ😆
0:43〜3:21 の間に流れている音楽が気になって仕方がない。何なんだコレ?
good
いつ頃なんだろう
1960年代前半です
6:30 何をしてるのかな?まるで畑を耕してるみたいだ。
これは保線では言うムラ直し作業と言います。バラスト道床の軌道では例え1本の列車が通過するたびに道床のバラストは少しずつ崩れて軌道は狂い始めます。なので当時はヨコーカル間に保線支区、さらに配下の線路班が存在して保線職員がツルハシに似たビーターという工具で道床のバラストを雪固めています。このアブト区間は多くは鉄枕木にてタイタンパーが利用出来ませんし、急勾配ゆえにレール運搬にもモーターカーは運転出来ず、工事臨時列車を運転して指定位置に正確に停止して機材を無蓋車から搬出積み下ろししていたのです。
特急の場合、前補機はないのですか?
気動車は自分達の動力もあるので、前補機は不要なのだと思います。
@@toshihorrich8405 さん。ありがとうございます。名前を変更しました。よろしくお願いいたします。(20-02-19)
じぶんの動力でなく運転席を持っていますのでブレーキをかけることができます。
15:59 トンネル入り口レンガの損傷は、確か米軍機が列車を襲った機銃掃射の跡だろう。
一寸考え過ぎだと思います。軽井沢は駅前で標高940mあり冬季の寒さは格別です。国道18号線の舗装のコンクリートは極めて分厚い(確か20cm位あったように思います)もので、これは冬季には霜柱によってコンクリートが持ち上げられて、繋目毎に凹凸が出来ないように厚くしてあると聞きました。隧道11号から26号が補修されていたのは、この峠の標高差の違いにより煉瓦に沁み込んだ水分が凍結を繰り返して煉瓦を欠落させた所為だと思います。因みに隧道10号の軽井沢側の標高は660mあります。隧道10号より横川側の隧道がそれ程傷んでいないのはこの標高差(冬季の気温差)によるものと考えるのが自然ではないでしょうか。
第三常軌方式が熊ノ平事故の原因となった
うーーん 、BGM いらない。