ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
いつも丁寧な解説、ありがとうございます!3Dに起こしてくれているのですごく分かりやすいです!
陵墓がサンルーム状態になってしまって落ち着いて眠りにつけなそうですね
墓は時代を映し出す貴重な資料ですね鎧 甲冑がこの古い時代の(異国)の戦模樣伺えまし 後々白村江の戦いに繋がる歴史模様なんでしょうか 墓の様子が位を表した軍備もガラス飾りも良いですね〜 私も橿原博物館に見学にいきま〜す
鬼門なのかもしれないですね。魔除なのか、日本人の古墳でも、関係者がいるのかな?。だけども、釘付けする風習は現在でも残ってました。魂だけでも、百済に帰ってほしい幸せな時間を今でも。棺の中と百済で行ったり帰って。私達は彼らと縄文人との子孫です。御先祖様ですね。なんだか、韓国時代劇で、国の開祖の甲冑を信仰する場面がありました。劇中と全く同じではないのは、わかってますが…。でもね…勾玉ないよう😭
なんと、二日前に「世界の墳丘から」の高井田山古墳の動画を視て、思わずコメントしたばかりでした。 要点を繰り返すと、本古墳の主を百済の王族とみなす見解こそ卓見ですが、ただ早く埼玉県の研究者(名を失念)が、『日本書紀』武烈紀三年是月条の「百済の意多郎(おたら)卒(みう)せぬ。高田丘の上に葬る」という伝承が該当すると指摘しています(岩波本『日本書紀 下』日本古典文学大系、でも、坂本太郎氏ほか3名の校注者の方々が、「日本に来ていた百済の王族か」と注に付記しています)。本古墳出土の須恵器の型式が、TK23型式(新)ないしはTK47型式期(古)とされており、その時期が5世紀末にあたるので、雄略五年(461)条の「昆支王」派遣の時期より、むしろ武烈三年(501)条の方がまさに該当する筈です。また仮に「昆支王」だとすると、百済の武寧王陵の副葬品との余りの差も気になります。 念のため、高井田山の横穴式石室に最も類似した国内の石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群の大谷山支群の「大谷山6号墳」の石室です。ぜひ一度ご検討を。返信
興味深い動画故今少し調べてみました。確かに事実百済王族であろうとも、落魄感が消せませんね。①原報告では円墳としているが、既に異説の提起もある通り、私見ではまず「小型帆立貝形古墳」。通例、丘陵上の 円墳は背後の稜線を弧状に切断するが、くびれ部相当箇所設定のトレンチでも「掘割」は確認しえず。②紀伊・大谷山6号墳の石室と酷似する点、あるいは同系の工人集団の関与を疑わせる(紀氏も度々半島渡航するが)。③武寧王陵は言うに及ばず、新沢126号墳に比べても、大刀(環頭ですらない)・装身具(耳環に垂飾すらない)など、 王族にしても全体に副葬品群の相に貧弱さが拭い難い。④出土鏡には5面の同型鏡が確認されているが、全て国内出土である。⑤渡来系なのに、副葬土器に陶質土器の混在すらなく全て須恵器。 以上の諸点からすれば、あるいは「昆支王の渡来と同時に随行した末端の王族の一組の夫婦(あるいは人質として残留か)」とでもいうべき存在だったのでしょうか。ともあれ、顕著な倭風化の側面が垣間見えます。
鋸がない時代なので、板材を使った柩というのは高級品だったかもしれませんね。
火熨斗…アイロンの事でしょうか。身分の高い婦人が自ら夫の服を整える…自分だけの想像ですが、ちょっぴり微笑ましく思えました。幸せな人生だったと思いたいですね。
ポイントは火熨斗(ヒノシ)ですかね。日本の古墳からはほとんど出て来ないわけですね。日本で使われていたことが文献ではっきりわかるのは平安時代になってからですね。つまり貴人たるものアイロンがかかった服を着るべしというはっきりとした価値観を持った人たちということですね。さらに鏡やアクセサリーと同等に副葬品にしていると言う事は単なる道具以上の付加価値を見出していたんでしょうね。百済の王族の墓だとすると、お墓を作る工人の集団も一緒にやって来たということになりますね。日本に骨をうずめる覚悟だったんですかね。興味が尽きませんね☺
いつも丁寧な解説、ありがとうございます!
3Dに起こしてくれているので
すごく分かりやすいです!
陵墓がサンルーム状態になってしまって落ち着いて眠りにつけなそうですね
墓は時代を映し出す貴重な資料ですね
鎧 甲冑がこの古い時代の(異国)の戦模樣伺えまし 後々白村江の戦いに繋がる歴史模様なんでしょうか
墓の様子が位を表した軍備もガラス飾りも良いですね〜 私も橿原博物館に見学にいきま〜す
鬼門なのかもしれないですね。
魔除なのか、日本人の古墳でも、関係者がいるのかな?。
だけども、釘付けする風習は現在でも残ってました。
魂だけでも、百済に帰ってほしい
幸せな時間を今でも。
棺の中と百済で行ったり帰って。
私達は彼らと縄文人との子孫です。
御先祖様ですね。
なんだか、韓国時代劇で、国の開祖の甲冑を信仰する場面がありました。
劇中と全く同じではないのは、わかってますが…。
でもね…勾玉ないよう😭
なんと、二日前に「世界の墳丘から」の高井田山古墳の動画を視て、思わずコメントしたばかりでした。
要点を繰り返すと、本古墳の主を百済の王族とみなす見解こそ卓見ですが、ただ早く埼玉県の研究者(名を失念)が、
『日本書紀』武烈紀三年是月条の「百済の意多郎(おたら)卒(みう)せぬ。高田丘の上に葬る」という伝承が該当すると
指摘しています(岩波本『日本書紀 下』日本古典文学大系、でも、坂本太郎氏ほか3名の校注者の方々が、「日本に来
ていた百済の王族か」と注に付記しています)。本古墳出土の須恵器の型式が、TK23型式(新)ないしはTK47型式期(古)
とされており、その時期が5世紀末にあたるので、雄略五年(461)条の「昆支王」派遣の時期より、むしろ武烈三年(501)
条の方がまさに該当する筈です。また仮に「昆支王」だとすると、百済の武寧王陵の副葬品との余りの差も気になります。
念のため、高井田山の横穴式石室に最も類似した国内の石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群の大谷山支群の「大谷山6号
墳」の石室です。ぜひ一度ご検討を。返信
興味深い動画故今少し調べてみました。確かに事実百済王族であろうとも、落魄感が消せませんね。
①原報告では円墳としているが、既に異説の提起もある通り、私見ではまず「小型帆立貝形古墳」。通例、丘陵上の
円墳は背後の稜線を弧状に切断するが、くびれ部相当箇所設定のトレンチでも「掘割」は確認しえず。
②紀伊・大谷山6号墳の石室と酷似する点、あるいは同系の工人集団の関与を疑わせる(紀氏も度々半島渡航するが)。
③武寧王陵は言うに及ばず、新沢126号墳に比べても、大刀(環頭ですらない)・装身具(耳環に垂飾すらない)など、
王族にしても全体に副葬品群の相に貧弱さが拭い難い。
④出土鏡には5面の同型鏡が確認されているが、全て国内出土である。
⑤渡来系なのに、副葬土器に陶質土器の混在すらなく全て須恵器。
以上の諸点からすれば、あるいは「昆支王の渡来と同時に随行した末端の王族の一組の夫婦(あるいは人質として
残留か)」とでもいうべき存在だったのでしょうか。ともあれ、顕著な倭風化の側面が垣間見えます。
鋸がない時代なので、板材を使った柩というのは高級品だったかもしれませんね。
火熨斗…アイロンの事でしょうか。身分の高い婦人が自ら夫の服を整える…自分だけの想像ですが、ちょっぴり微笑ましく思えました。幸せな人生だったと思いたいですね。
ポイントは火熨斗(ヒノシ)ですかね。日本の古墳からはほとんど出て来ないわけですね。日本で使われていたことが文献ではっきりわかるのは平安時代になってからですね。つまり貴人たるものアイロンがかかった服を着るべしというはっきりとした価値観を持った人たちということですね。さらに鏡やアクセサリーと同等に副葬品にしていると言う事は単なる道具以上の付加価値を見出していたんでしょうね。百済の王族の墓だとすると、お墓を作る工人の集団も一緒にやって来たということになりますね。日本に骨をうずめる覚悟だったんですかね。興味が尽きませんね☺