【意外に知らない】武士の成り立ちと、鎌倉と江戸の武士の違い│石川真理子

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  • เผยแพร่เมื่อ 4 ก.ค. 2022
  • 01:08 武士道の根幹にあるもの「御成敗式目」
    07:16 武士道という言葉の本当の意味
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ■武士道研究家・石川真理子
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    プロフィール
    昭和41年(1966) 東京都出身。
    祖父方が仙台藩士、祖母方が米沢藩士という武家の家系に生まれ、明治生まれの祖母から武家に伝わる薫陶を受ける。
    文化女子大(現・文化学園大学)卒業後、大手出版社の編集プロダクション勤務。独立後は広告・雑誌・書籍における文筆活動の他、出版プロデュースを手がける一方で、武士道や武家の生活文化を独自に学び、忘れられた「婦道」について執筆やセミナーを通じて啓蒙活動を行う。
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ความคิดเห็น • 109

  • @user-dv3gl6xh9z
    @user-dv3gl6xh9z 2 ปีที่แล้ว +39

    父方は旗本ですが、祖父から常々お手本になるように励むんだよと教えをいただいてました。武士道は近代に言われた堅苦しいものではないですね。大切ですね

  • @user-oh6ud4zh8g
    @user-oh6ud4zh8g 2 ปีที่แล้ว +16

    石川先生、今回も素敵なお話をありがとうございました。
    学べば学ぶほど、昔の日本の素晴らしさ、美しさを感じ、また日本がどんどん好きになっていきます。そして今回お話しいただいた本当の『武士道』というもののなんと尊く、美しい『道』なのだろうと深く感じました。
    今日、この瞬間から頂いた学びを少しでも実践に繋げていこうと思います!!

  • @amedioarts
    @amedioarts 2 ปีที่แล้ว +9

    貴重なお話を有難うございます。
    石川先生のお話、内容もさることながら、お声が本当に素晴らしくて聞き惚れてしまいます…。これからも沢山お話をお聴きしたいです。

  • @user-mt9sb9qm9e
    @user-mt9sb9qm9e 2 ปีที่แล้ว +17

    石川先生、ありがとうございます。これからの講義も楽しみに待っております。

  • @user-ds8ei3du5w
    @user-ds8ei3du5w 2 ปีที่แล้ว +14

    真理子先生はじめまして🤗
    先生の仰る通り、今の時代に必要なことだと凄く納得しました。
    先生の話しを聞きながら、なんて綺麗な肌をしてるんだろう😳と羨ましく拝見してました🥰
    着物姿も美しく、やはり日本女性は素敵だと改めて思いました💞
    次回も楽しみにしています🤗✨

  • @user-ds8uy5bo7h
    @user-ds8uy5bo7h 2 ปีที่แล้ว +6

    真理子さん
    着物姿👘が素敵です💫🌟💖
    お釈迦様の心を学ぶ…
    慈悲の心💓博愛精神…
    武士道を分かりやすく説明ありがとうございます🙇‍♀️
    私は武道の面から…〝礼で始まり、礼で終わる〟その心の美しさや…
    小柄な人でも大柄な人を倒せてしまう技…
    『心・技・体』
    汚いモノを使わない
    手法が持つ素晴らしさを感じます💖
    次回も楽しみにしています🍀🙏🍀

  • @gonpon1
    @gonpon1 2 ปีที่แล้ว +13

    石川先生 とても素晴らしい研究ですね。あっという間に時間が過ぎてしまいました。先生の声が心地よかったです。小名木先生とともにこれからも ドンドンお話を聞かせてください。

  • @s.k6313
    @s.k6313 2 ปีที่แล้ว +14

    石川真理子先生ありがとうございます!とても学ばせていただきました。

  • @user-qz3bu6oj2o
    @user-qz3bu6oj2o 2 ปีที่แล้ว +4

    石川様
    目からウロコでした、次回を心からお待ちしております。
    ありがとうございます。

  • @user-ym4rj2hb9r
    @user-ym4rj2hb9r 2 ปีที่แล้ว +11

    まず、お声が美しい。

  • @user-ib2sg2br5b
    @user-ib2sg2br5b 2 ปีที่แล้ว +13

    面白かったです。忠義の部分だけ大きく取り上げられるようになったため、思ったことも言えず、息苦しくなったということですね。
    主人を自分で選べる。侍は渡りものですか。思っている、イメージと違いますね。
    西洋的な、個人主義や能力主義を教えられた、私たち、そうした社会と、どう、武士道が結びつくことができるのか、次回を楽しみにしています。

  • @user-do1xs7cm6q
    @user-do1xs7cm6q 2 ปีที่แล้ว +4

    古代、近代とどちらも良さが、理解出来ました😊
    昔ながらの考え方や、また近代における、歪みのない捉え方も、日本人の魂は美しい、また深みがある。
    方向性は同じですね❗
    わたしのコメントは、思い遣りのあるものか、自分では計り知れないものがあり、大変恐縮なのですが、
    伝わるものがありました。
    共感 長い日本の歴史から見ますと、現代で極端に変わったものはあり、失いつつあることもあると思いますが、やっぱり、日本人としての誇りは、魂レベルに行くと、思い起こされるものだと感じます❗
    先生の伝道や、また小名木先生の伝道は、魂を目覚めさせると感じます。
    目に見えないことを伝えるはむずかしいですね。。
    私も身近で日々感じて居ます。。
    いろいろな視点や学びをありがとうございます☺️

  • @qr172
    @qr172 2 ปีที่แล้ว +9

    武士道について興味深いお話をありがとうございました。武士とはどういう存在かということも時代とともに変わっていたのは当然だと思いますが、10:00 過ぎあたりから、武士はかなり個人主義者だったこと、誰に使えるかは自分で決めていたということにつてい思い当たることがありますので一言。
    私の先祖は甲斐(今の山梨県)の武田氏に仕えていたのですが、信玄がなくなって勝頼の代になると、勝頼が本妻の子でないこと、また長篠の戦いで負けたので嫌になり、さっさと家来を辞めてしまったそうです。その話を聞いて私は、武士とは死ぬまで主君に仕えるものだと思っていたため実にびっくりし、そんな不忠者の子孫だなんて恥ずかしいと思っていました。
    ですが忠義などというものは江戸時代になっての話なのでしょうね。いまはこのご先祖さまは自由に生きられたので、素晴らしい方だったと思っています。

  • @missmoppet459
    @missmoppet459 2 ปีที่แล้ว +9

    ファンになりました

  • @user-xm1rs2nb3f
    @user-xm1rs2nb3f 2 ปีที่แล้ว +9

    とても分かりやすかったです。ついつい江戸明治あたりの伝統を古来からの伝統のように考えがちですが、そうではないのだと改めて思います。

  • @hatohuihui9552
    @hatohuihui9552 2 ปีที่แล้ว +10

    自主自立の気概を養ってこそ、和を尊び他を重んずる心根を保つことができます。

  • @user-kp4tr5fb8f
    @user-kp4tr5fb8f 2 หลายเดือนก่อน

    石川先生、素敵ですね!
    武士道のお話し大変勉強になりました

  • @Siba2943
    @Siba2943 2 ปีที่แล้ว +1

    石川先生のお元気なお姿を久々に拝見してとても嬉しいです。
    どうぞお元気でご活躍ください。
    ありがとうございます。
    ごきげんよう。

  • @HY-rj2ke
    @HY-rj2ke 2 ปีที่แล้ว +7

    ありがたいお話しありがとうございます。勉強になります。

  • @user-ti4ku2dp2l
    @user-ti4ku2dp2l 2 ปีที่แล้ว +7

    御成敗式目、以前チラッと読んだことがあったのですが今回お話し頂いて興味を持ちました。勉強してみます。楽しみです。

  • @kazuetg
    @kazuetg 2 ปีที่แล้ว +1

    大変勉強になります。ありがとうございました。

  • @hayek218
    @hayek218 2 ปีที่แล้ว +3

    先生のような上品さをもった日本人が少なくなった。昔は多かったのに。残念でならない。

  • @meeu5678
    @meeu5678 ปีที่แล้ว

    武士道精神に惹かれてます。
    がいざ学ぶとなるとなかなか難しく、石川先生の講義から少しずつ深めていけたらと思います。

  • @kamesans.358
    @kamesans.358 2 ปีที่แล้ว +2

    石川先生はとてもチャーミングなお声の方ですね!今の日本男児は優しくなり過ぎて、ある意味良い事ですが、世界と討論する際には弱く思います。やはり白人がアジアで唯一恐れた日本人、武士道精神の養われた日本人男性が必要とされる昨今だと感じますので、石川先生のより深き武士道のお話しに共鳴致しました。
    一つだけ残念に感じたのは、武士は神道の教えより仏教の教えに沿って培われていったんだと言う点だけです。神仏習合だった歴史なので仕方ないですが…

  • @user-ds6or4kc2b
    @user-ds6or4kc2b 2 ปีที่แล้ว +3

    変遷を辿る、大事ですね。
    もののふ、はべる、さぶらふ、ゆみやのもの…。
    武甕雷経津主(鹿島香取)、大伴佐伯の昔から、平安中期における武士の成立、室町前後(悪党・婆娑羅傾き者を含む)、戦国期(槍・騎乗)、そして江戸明治…、種々。

  • @hiede7
    @hiede7 2 ปีที่แล้ว +2

    こんなこと言うと失礼かもですが…石川さんの声、とてもかわいいです!
    話し方も落ち着いているけど親しみやすくて…とても聞きやすいです

  • @user-co1qn1yt1x
    @user-co1qn1yt1x 2 ปีที่แล้ว

    こんにちは~😊ビシッと聞き入ってしまいました精神や呼吸や見極める力も武士道なんですよね!日本人に生まれて良かったと感謝です。能力主義かぁガンバガンバ🖌

  • @user-zi5hx5tf9m
    @user-zi5hx5tf9m 2 ปีที่แล้ว +12

    ありがとうございました(..)
    先祖のこともそうですが…
    私も、鎌倉時代の武士道に興味を持っています… 何か嬉しいです(^.^)

  • @user-hl1vu9id2c
    @user-hl1vu9id2c 2 ปีที่แล้ว

    最高〜です。ホント、今来てます。武士道!
    私も勘違いしてましたぁ笑笑。

  • @k-ty8235
    @k-ty8235 2 ปีที่แล้ว

    鎌倉時代の武士道と江戸時代に武士道が違うという事に驚きました 私は自分を律する事ばかりだと思ってましたので とてもいいお話有難うございました

  • @kayokondo4712
    @kayokondo4712 ปีที่แล้ว

    自分の能力を買ってくれる主人に仕えるシステム。
    いいね

  • @user-vu6sy2pg4q
    @user-vu6sy2pg4q 2 ปีที่แล้ว

    こんにちは。
    TH-camで紹介がありましたので見させていただきました。
    鎌倉武士の渡り者という言葉にはピンと来ました。
    だいたい同じ時期の中世ヨーロッパにおける騎士も、ずっと同じ主人に仕えていたのではなく、必要に応じて変えていたとの事です。
    騎士の場合は、宗教的な理由もあったようですが、同じく武芸に秀でて実力社会で、しかも喰うか喰われるかの厳しい生存競争がありましたから、そういう観点でも主人を見ていて仕えるかどうか判断していたのではないかと想像します。
    鎌倉武士の姿勢が今の時代に合っているとは楽しみですね。
    次回の講義も楽しみにしております。

  • @boomoto6512
    @boomoto6512 2 ปีที่แล้ว +2

    武士道と言う言葉は明治の終わり頃まで無かったと言われていますが、
    「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり 」と葉隠に書かれています。

  • @user-rr6rx2uw9x
    @user-rr6rx2uw9x 2 ปีที่แล้ว +4

    大変、面白いご講話でした!無責任に「武士道、ブシドー!」と、のたまう方々とは一線を画す貴重な内容でした。
    非常に個人的なことでございますが、石川先生の声が可愛らしくて好きです❤。私、声フェチなものでして😅
    次回も楽しみにしております。

  • @user-oj8tz1uk7w
    @user-oj8tz1uk7w 2 ปีที่แล้ว +3

    品性があるなぁ……  美しい……

  • @golgo13ky
    @golgo13ky 2 ปีที่แล้ว +6

    今まで、なんとなく武士道という言葉を使ってましたが、そもそもの歴史を忘れてました。恥ずかしいです。今一度勉強させていただき感謝します。是非、誤解なき様、真の意味での武士道を拡散しましょう。日本、日本人をかっこ良く!

    • @johnfujiwara1322
      @johnfujiwara1322 2 ปีที่แล้ว

      “日本人をカッコよく“ 其れは逝けません、その前に真の忠義とは❓誰に対して、その方は誰なのか❓を知る事と思います、古代イスラエル史を知ると
      何故大切か、を知る事が出来ます、私の母方は源の義経に福将軍として仕え伊達政宗が蝦夷征伐の際に立ち寄られた家柄です、カッコよくは逝けません
      悪しからず。

  • @drepen5946
    @drepen5946 2 ปีที่แล้ว +1

    素敵な声でずね

  • @user-xd9jq9dx3h
    @user-xd9jq9dx3h 2 ปีที่แล้ว +4

    今回の話は武士道と言うよりは士道ですかね。

  • @user-dp6zw6wq2e
    @user-dp6zw6wq2e 2 ปีที่แล้ว +8

    非常に分かりやすくいい内容でした。
    ただ、天皇「様」はやめてほしいです。天皇又は天皇陛下が正しい呼び方だと思います。折角の素晴らしい内容なだけあって、天皇様という言い方だけで内容が軽く感じてしまいます。そこだけが残念です。

  • @gomupat
    @gomupat 2 ปีที่แล้ว +2

    動画有難う御座います。
    では鎌倉時代、幕府は当時の人に何と呼ばれていたのか気になりました。

  • @user-hq6vg8wy9s
    @user-hq6vg8wy9s 2 ปีที่แล้ว +4

    義をみてせざるは勇なきなりでしょ!やっぱり!政治家に言いたい!最近つくづく思います。巧言令色すくなし仁の方が多すぎると🥲

  • @Kukita_
    @Kukita_ 2 ปีที่แล้ว +10

    武士道はもともと忠義じゃなかったんですね、意外でした!確かに忠義に偏ると、その人本体よりも役職として見ているような気がしますね。実力個人主義の方が真剣に相手を見ていたからこそ、高いレベルでの協力とかができるようになりそうですね!

    • @user-ni2gv6cn7y
      @user-ni2gv6cn7y ปีที่แล้ว

      それは違います。忠義の理解の仕方が間違っています。自分が仕えるべき主人を選ぶと言う事です。

  • @unkokusai.
    @unkokusai. 2 ปีที่แล้ว +2

    「天皇さま・・」、大昔、天皇には「様」はつけないと習ったが・・・。
    社長に付けるのもおかしいですものね。

  • @user-ny6ye8pm7d
    @user-ny6ye8pm7d 2 ปีที่แล้ว

    鎌倉から戦国時代までは忠義とかなかったですもんね。主人なんてころころ変えてましたし。江戸時代戦がなくなってからそういう風になっていった。そうしないと食いっぱぐれちゃうのもあったんですかね。次回も楽しみです!

  • @user-vq7yl1wy8g
    @user-vq7yl1wy8g 2 ปีที่แล้ว

    知っているつもりが、かなり間違った見方をしていました。ある意味鎌倉時代は奥の深い時代だったんですね。今までの認識は全て江戸時代の見方で認識してしまっていたようです。続きを見てみます。

  • @user-pb7go9hj2b
    @user-pb7go9hj2b 2 ปีที่แล้ว

    今では、日本のどこにいっても、同じ法律が適用されるけれど
    だからと言って地方ごとに、同じ刑罰・刑期になるとは限らならない様に
    色々な武士道と呼ばれるのがあったんでしょうね~それを知るのは楽しいですね

  • @user-cr7hh5hg8y
    @user-cr7hh5hg8y 2 ปีที่แล้ว +7

    鎌倉を経て、江戸時代で武士道が昇華されていく。そして江戸から実戦となった戊辰戦争。実は略奪、暴行、強姦も横行しました。徴兵された農民や浪人などが中心となって暴虐を働いていたようですが… いかに美しいものを積み上げて行っても、命の取り合いになる戦闘や乱戦になると人の感嘆に壊れていく…

    • @user-oj3rg5ys4c
      @user-oj3rg5ys4c 2 ปีที่แล้ว +2

      それは事実ですか?出典を教えて下さい。

  • @johnfujiwara1322
    @johnfujiwara1322 2 ปีที่แล้ว

    “武士道の原点“ですが、古代イスラエルに神に仕える戦士に規則、儀式などから来たと想われます❗️私の母方は源の義経に初代から副将軍として仕えて来ましたので鎧一式、刀、家系図などなどがある名家で、伊達政宗が蝦夷征伐の途中に立ち寄って居る家柄で多少なり知って居るつもりでしたが
    古代イスラエルの戦士の掟、規則、儀式など知った時に驚きましたー、武士道以前から在る原点を知らされましたのでお伝え致します。

  • @jcnetwork
    @jcnetwork 2 ปีที่แล้ว +3

    武道はあるが日本人には士道がなくなったと

  • @pipsendabahaha
    @pipsendabahaha 2 ปีที่แล้ว

    なるほどね 宮本武蔵は江戸時代の前でしたね?強い事とごっちゃになってました

  • @user-sk8yw7cf8o
    @user-sk8yw7cf8o 2 ปีที่แล้ว +3

    とても分かりやすかったです。どうもありがとうございます。武士道と言うか、武士階級の変遷ですね。

  • @holy007rattleback
    @holy007rattleback 2 ปีที่แล้ว +1

    私の母方は、大きな8グループを統率して逃げて来た平家の末裔ですが、残念ながら仰っているような、武士道とは全く違います。

  • @user-om9tz5wr8v
    @user-om9tz5wr8v 2 ปีที่แล้ว +2

    武士道それは戦士の道、降伏はありえませんでした… 。
    或るアメリカ兵の手記

  • @chip855
    @chip855 2 ปีที่แล้ว +1

    日本をカッコよく の 石川真理子さん カッコイイ  扇子イイ

  • @user-ni2gv6cn7y
    @user-ni2gv6cn7y 2 ปีที่แล้ว

    では、幕府と言う言葉が出来るまではなんと呼んでいたんですか?

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    御陵衛士
    (ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織。高台寺党とも(高台寺塔頭の月真院を屯所としたため)。
    経過
    慶応3年3月10日(1867年4月14日)に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えた。
    一和同心(日本国が心をひとつにして和する)・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公儀による朝廷(公卿)中心の政体づくりを目指す独自の政治活動を展開した。
    同志は弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)の計15名。
    他にも、茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎ら10名も後に合流を図ったが、嘆願に行った会津藩邸で、茨木、佐野、富川、中村の4人が死亡(死因は諸説あり)、残りの6人が放逐という結末となった。これは御陵衛士と新選組との間に隊士の行き来を禁止する約束があり、そのことを知らずに新選組を脱走して御陵衛士に加わろうとした彼らは行き場所を失った形となった(新選組を脱走したものは法度により屯所に連れ戻して切腹ということになっていた)。これとは別に、茨木たちの切腹後に隊で居場所を失い脱走をした武田観柳斎も衛士側に合流を拒否された(そもそも茨木たちの脱走を勧めたのは観柳斎といわれている)。
    6月、山陵奉行・戸田忠至に属し、長円寺から東山の高台寺塔頭・月真院に移り「禁裏御陵衛士」の標札を掲げた。一般的に薩摩藩に近づいたとされるが、異説もある(後述)。
    新選組とは佐幕と勤王倒幕で袂をわかっただけに、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。ただし、近年の研究では倒幕といっても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものとも考えられており、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。
    11月18日(12月13日)、油小路事件で伊東・藤堂・服部・毛内が死亡。残った同士は薩摩藩邸に逃げた。これにより解散。その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加した。
    御陵衛士及び関連人物
    氏名 生年 生地 没年 没地 備考
    阿部十郎
    実名 隆明
    別名 高野十郎
    1837年9月21日
    (天保8年8月22日) 出羽国 1907年1月6日
    (明治40年) 東京府
    新井忠雄
    実名 一業
    別名 俊蔵・陸之助・荒井只雄
    1835年3月5日
    (天保6年2月7日) 陸奥国 1891年2月15日
    (明治24年) 東京府
    伊東甲子太郎
    実名 武明
    別名 大蔵・摂津・誠斎・宇田兵衛
    1835年
    (天保6年) 常陸国 1867年12月13日
    (慶応3年11月18日) 京 油小路事件において横死。
    内海次郎
    実名 正忠・忠利
    別名 二郎
    1836年
    (天保7年) 武蔵国 不明 不明 1871年(明治4年)以降の消息不明。
    江田小太郎
    実名 新光
    別名
    不明 河内国 不明 不明 戊辰戦争以降の消息不明。
    加納鷲雄
    実名 通広
    別名 道之助・鷲尾・鵰雄・伊豆太郎
    1839年12月14日
    (天保10年11月9日) 伊豆国 1902年10月27日
    (明治35年) 東京府
    清原清
    実名 重春
    別名 西村弥左衛門・武川直枝・竹川直枝・竹村玉枝
    1831年
    (天保2年) 肥後国 1868年6月15日
    (明治元年閏4月25日) 陸奥国 白河口の戦いにおいて戦死。
    佐原太郎
    実名 利秀
    別名 篠崎慎八郎
    1845年
    (弘化2年) 常陸国 1868年10月16日
    (明治元年9月1日) 京 京下寺町において横死。阿部によれば中西昇の犯行だが、篠原によれば時期も犯人も異なる。
    篠原泰之進
    実名 林親
    別名 泰助・秦河内・篠塚友平
    1828年12月22日
    (文政11年11月16日) 筑後国 1911年6月13日
    (明治44年) 東京府
    藤堂平助
    実名 宜虎・宜寅
    別名 南部与七郎
    1844年
    (弘化元年) 武蔵国 1867年12月13日
    (慶応3年11月18日) 京 油小路事件において戦死。
    富山弥兵衛
    実名 豊国・忠全
    別名 四郎・四郎太
    1843年
    (天保14年) 薩摩国 1868年5月23日
    (明治元年閏4月2日) 越後国 越後国吉水村において戦死。
    橋本皆助
    実名 利長
    別名 会助・藤井勇七郎・水野八郎
    1835年
    (天保6年) 大和国 1871年6月3日
    (明治4年4月16日) 京? 慶応3年8月、陸援隊に入隊。
    服部三郎兵衛
    実名 良章
    別名 武雄・三宅安兵衛
    1832年
    (天保3年) 播磨国 1867年12月13日
    (慶応3年11月18日) 京 油小路事件において戦死。
    三木三郎
    実名 忠良
    別名 寺内多聞・荒次郎・和泉・三樹三郎・鈴木三樹三郎
    1837年8月12日
    (天保8年7月12日) 常陸国 1919年7月11日
    (大正8年) 茨城県
    毛内監物
    実名 茂胤・良胤
    別名 平二・有之助
    1835年3月26日
    (天保6年2月28日) 陸奥国 1867年12月13日
    (慶応3年11月18日) 京 油小路事件において戦死。
    茨木司
    実名 昌業・義忠
    別名
    不明 陸奥国 1867年7月14日
    (慶応3年6月13日) 京 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
    佐野七五三之助
    実名 忠正・重之
    別名 寺西内蔵之丞
    1834年
    (天保5年) 尾張国 1867年7月14日
    (慶応3年6月13日) 京 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
    富川十郎
    実名 良利・政之
    別名
    1844年
    (天保15年) 甲斐国
    または
    常陸国 1867年7月14日
    (慶応3年6月13日) 京 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
    中村五郎
    実名 義明・政常
    別名
    1849年
    (嘉永2年) 下野国 1867年7月14日
    (慶応3年6月13日) 京 会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
    斎藤一
    実名
    別名 山口一・山口次郎・山口二郎・一瀬伝八・藤田五郎
    1844年2月18日
    (天保15年1月1日) 武蔵国
    または
    播磨国 1915年9月28日
    (大正4年) 東京府 慶応3年11月脱走。
    中西昇
    実名
    別名 登
    1842年
    (天保13年) 武蔵国
    または
    上野国 不明 不明 阿部によれば同志ではなく、佐原太郎を殺害した。真偽いずれにせよ消息不明。
    参考文献
    市居浩一 『新選組・高台寺党』新人物往来社、2004年。ISBN 4404031653。

  • @user-bj1yn7uf4b
    @user-bj1yn7uf4b 2 ปีที่แล้ว

    聞いています 是非 英語本を発行して下さい よく 海外の方から 武士道とはと 聞かれます

  • @user-rm6qq8ur1t
    @user-rm6qq8ur1t 2 ปีที่แล้ว +1

    流派による派閥がありそうですが

  • @makia561
    @makia561 2 ปีที่แล้ว +1

    御姫様有難う。21世紀より。👏
    吉田松陰は仏教に帰依していなかったのかな。坂本龍馬は商人だったような。······。

  • @takunaka4349
    @takunaka4349 2 ปีที่แล้ว

    武士道とは時代が違いますが、僕は当たり前だと思うんですが。
    武士じゃないですが、いつの時代も当たり前の事と認識してます。

  • @user-sv1rd1cy1b
    @user-sv1rd1cy1b 2 ปีที่แล้ว +3

    武士の算盤とかいう本はよかった。岡山県のなんたらちゅう先生。
    武士の掟とか現代にあてはめ礼賛なんて無理だよ。うちの先祖は名もない農民と町人だから。

  • @hagane3751
    @hagane3751 ปีที่แล้ว

    京武者 軍事貴属 清和源氏 本拠地関西
    畿内の摂津 そして東国進出
    清和源氏は本拠地は兵庫県なんですよ

  • @user-re6je4dl8l
    @user-re6je4dl8l 2 ปีที่แล้ว +1

    武士道とは、死ぬ事と、見付けたり。HAGAKURE。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    健児
    (こんでい)は、奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
    桓武天皇
    蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。
    また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった[要出典]。
    概要
    「健児」は『日本書紀』の訓に「ちからひと」とあり、皇極天皇元年(641年)7月22日条に「乃ち健児に命(ことおお)せて、翹岐が前に相撲(すまひ)とらしむ」、天智天皇2年8月13日条の「今聞く、大日本国(おおやまとのくに)の救将(すくいのきみ)廬原君臣(いおはらのきみおみ)、健児万余(よろづあまり)を率(い)て、正に海を越えて至らむ」との記述があり、ともに「武勇者」や「兵士」の意味で用いられている。在地の武力の例としては、「近江国志何郡計帳手実」に、同郡の古市郷の人で、大友但波史吉備麻呂に関して、神亀2年(725年)及び天平元年(729年)から6年にかけての、35歳から44歳までの記述で「健児」の注記がある[1]。
    『類聚三代格』にある大同5年5月11日「太政官符には、天平5年11月14日の勅符に、「兵士三百人を以て健児と為す者は」とあり[2]、これは陸奥出羽按察使藤原緒嗣の解に引用されるもので、陸奥国の施策であると北啓太は述べている[3]。
    8世紀初頭に本格運用され始めた律令制においては、国家の軍事組織として全国各地に軍団を置くこととしていた。軍団は3〜4郡ごとに設置されており、正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった。天平6年4月23日(734年)に出された勅(天皇の命令)には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあり、もともと健児は、軍団兵士の一区分だったと考えられている。天平10年(738年)には、北陸道と西海道を除く諸道で健児を停止しており、これにより健児は一旦、ほぼ廃止することとなった。
    その後、天平宝字6年(762年)になって、健児が一部復活した。伊勢国・近江国・美濃国・越前国の4か国において郡司の子弟と百姓の中から、20歳以上40歳以下で弓馬の訓練を受けた者を選んで健児とすることとされた。健児の置かれた4か国はいずれも畿内と東国の間に位置しており、当時最大の権力者だった恵美押勝(藤原仲麻呂)により、対東国防備の強化のため、少数精鋭を旨とする健児を復活したのだとする見解もある。
    8世紀末の桓武天皇は、現状との乖離が大きくなりつつあった律令制を再建するため、大規模な行政改革に着手した。その一環として、延暦11年6月(792年)、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。この時の健児は天平宝字6年と同様、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた者を選抜することとしており、従前からの健児制を全国に拡大したものといえる。これにより、一般の百姓らが負担していた兵役の任務はほぼ解消されることとなった。
    諸国ごとの員数は、山城30人、大和30人、河内30人、和泉20人、摂津30人、伊賀30人、伊勢 100人、尾張50人、三河30人、遠江60人、駿河50人、伊豆30人、甲斐30人、相模100人、武蔵105人、安房30人、上総100人、下総 150人、常陸200人、近江200人、美濃100人、信濃100人、上野100人、下野100人、若狭30人、越前100人、能登50人、越中50人、越後100人、丹波50人、丹後30人、但馬50人、因幡50人、伯耆50人、出雲100人、石見30人、隠岐30人、播磨100人、美作50人、備前 50人、備中50人、備後50人、安芸30人、周防30人、長門50人、紀伊30人、淡路30人、阿波30人、讃岐50人、伊予50人、土佐30人となっており、全体として51ヶ国に3155人が配置されている[4]。
    健児の任務は諸国の兵庫、鈴蔵および国府などの守備であり、郡司の子弟を選抜して番を作り任に当たらせ、国府におかれた健児所が統率した。健児約5人で1番を組織し、数番を作り、国庫の守備に交互に勤務させ、1人の勤務は1年間約60日と定められた。延暦14年閏7月勅によって日限を最長30日と短縮し、これによって従前の1番を分けて2番として1番あたりの人数を減じた。しかし分衛が十分でなかったため、日限を元通りの2倍にする代わりに、健児の調は免じられ、より軍務に専念させるようになった。平安時代中期貞観8年11月に勅をもって、その選任に意を用い、よく試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士となすべきことを国司に命じた。
    健児には、一般に庸・雑徭が免除されたが、志摩国など十ヶ国は雑徭のみが免除され、畿内は延暦16年(797年)、調も免除されている[5]。
    なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道のような国境地帯では海外諸国の潜在的な脅威が存在し、陸奥・出羽では異民族を討伐する対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従前の大規模な軍制を維持する必要があったため、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかったのである。
    その後、軍団が復活すると、健児は軍団の兵士として位置づけられ、10世紀ごろには、健児維持に用するための健児田が設定されたり、全国定員が約3600人(陸奥・出羽・佐渡にも置かれるようになったが、西海道には置かれなかった)とされていたことなどが判っている。(延喜式などによる。)
    脚注
    [脚注の使い方]
    ^ 『大日本古文書』巻1 - 332・387・391・440・450・505・621頁
    ^ 『類聚三代格』巻18「健児事」4
    ^ 北啓太「天平四年の節度使」土田直鎮先生還暦記念会編「奈良平安時代史論集」上
    ^ 『類聚三代格』巻18「健児事」1、延暦11年6月14日「太政官符」
    ^ 『類聚三代格』巻17「蠲免事」10、延暦16年8月16日「太政官符」
    参考文献
    『角川第二版日本史辞典』p386、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
    『岩波日本史辞典』p469、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
    『続日本紀』2 新日本古典文学大系136 岩波書店、補注11 - 52、1990年
    関連項目
    相撲節会

  • @user-uj8wq8hj2x
    @user-uj8wq8hj2x 2 ปีที่แล้ว

    2倍速でも普通に聞こえる。

  • @nekocat3999
    @nekocat3999 2 ปีที่แล้ว

    鎌倉時代の武士は仏教信じてたんですね。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว +1

    ・侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。「伺候(しこう)[1]する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。
    成立
    詳細は「武士」を参照
    朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える、通常は位階六位下位の下級貴族(官人)に位置する(侍品:さむらいほん)を元来は意味した。晩年に五位まで昇進することもあった。
    初期の武士身分は諸大夫身分の軍事貴族と、侍身分の一般武士の二つの階層から構成されていた。次第にその中でも武芸を仕事内容とする技能官人である「武士」を指すことが多くなった。
    武士階層の裾野が広がり、貴族に連なる支配階層たる侍身分より下、本来は百姓身分である地侍や士分の徒士、卒または足軽も、武士の扱いを受けるようになると、士分の「騎士(侍)」として「騎馬戦闘の権利資格を有する階層の武士」を指すようになった。
    語源
    「サムライ」は16世紀になって登場した比較的新しい語形であり、鎌倉時代から室町時代にかけては「サブライ」、平安時代には「サブラヒ」とそれぞれ発音されていた。「サブラヒ」は動詞「サブラフ」の連用形が名詞化したものである。以下、「サブラフ」の語史について述べれば、まず奈良時代には「サモラフ」という語形で登場しており、これが遡り得る最も古い語形であると考えられる。「サモラフ」は動詞「モラフ(候)」に語調を整える接頭辞「サ」が接続したもので、「モラフ」は動詞「モル(窺・守)」に存在・継続の意の助動詞(動詞性接尾辞ともいう)「フ」が接続して生まれた語であると推定されている。その語構成からも窺えるように、「サモラフ」の原義は相手の様子をじっと窺うという意味であったが、奈良時代には既に貴人の傍らに控えて様子を窺いつつその命令が下るのを待つという意味でも使用されていた。この「サモラフ」が平安時代に母音交替を起こしていったん「サムラフ」となり、さらに子音交替を起こした結果、「サブラフ」という語形が誕生したと考えられている。「サブラフ」は「侍」の訓としても使用されていることからもわかるように、平安時代にはもっぱら貴人の側にお仕えするという意味で使用されていた。「侍」という漢字には、元来 「貴族のそばで仕えて仕事をする」という意味があるが、武士に類する武芸を家芸とする技能官人を意味するのは日本だけである。
    さて、その「サブラフ」の連用形から平安時代に「サブラヒ」という名詞が生まれたわけであるが、その原義は「主君の側近くで面倒を見ること、またその人」で、後に朝廷に仕える官人でありながら同時に上級貴族に伺候[1]した中下級の技能官人層を指すようになり、そこからそうした技能官人の一角を構成した「武士」を指すようになった。つまり、最初は武士のみならず、明法家などの他の中下級技能官人も「侍」とされたのであり、そこに武人を意味する要素はなかったのである。前述したように、「サブラヒ」はその後「サブライ」→「サムライ」と語形変化を遂げていったが、地位に関係なく武士全般をこの種の語で呼ぶようになったのは、江戸時代近くからであり、それまでは貴族や将軍などの家臣である上級武士に限定されていた。 17世紀初頭に刊行された『日葡辞書』では、Bushi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ「武人」「軍人」を意味するポルトガル語の訳語が与えられているのに対して、Saburai(サブライ)は「貴人、または尊敬すべき人」と訳されており、侍が武士階層の中でも、特別な存在と見識が既に広まっていた。
    関連項目
    武士
    浪人
    家人
    青侍
    騎士 - 西洋において侍と同等の存在であるが、侍とは対照的に文化による作法の違いがあり生死に関しての見解なども異なっている
    ジンギスカン (グループ) - 1970年代~1980年代に活躍したドイツのコーラス・グループ。「サムライ」という持ち歌がある。
    侍政

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    衛士(えじ、えいし)
    律令制下で、主に諸国で軍団が敷かれていた時期に、宮中の護衛のために諸国の軍団から交代で上洛した兵士。
    律令制下で、軍団に配置された兵士の称ないし諸国の軍団から交代で衛門府ないし衛士府に配属され、宮中の護衛を担った者の称。
    その他、転じて幕末に際して宮中を護衛した御陵衛士など義勇集団の名称。
    伊勢神宮および熱田神宮などで警護の任に当たった者 →「神宮衛士」を参照。
    守衛を務める防衛事務官 →「軍属」を参照。
    皇宮護衛官などの雅称。主に和歌に歌われる際に使われる。小倉百人一首 49 大中臣能宣朝臣 「みかきもり衛士(ゑじ)のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ」など。
    日本吟醸酒協会が運営する吟醸酒大学校で「吟の衛士講座」を修了した者に授与される称号「吟の衛士」[1]。

  • @user-dr5fr7be8e
    @user-dr5fr7be8e 2 ปีที่แล้ว

    とても素晴らしい内容でした
    しかしまとめが気になりました
    良い意味での個人主義 能力主義 協力しあおう武士は良いのですが 忠義をはらい命を掛けて一生 親方についていかなくても良かったのが武士は 日本をカッコヨクではないです
    その点が昨今の個人主義 多様性に似ている点だとのお考えでしょうが 今はそれがアダとなっている社会です
    終身雇用どころが 給料や年金が足りないから副業を迫る勢い
    それが能力主義や多様性なら違う気がしますし そもそも中世との給料体制も違います
    一方 命を掛け 一生 主人についた武士もいます
    もはやこちらの方が 武士の中の武士 そして日本をカッコヨクした武士ではないでしょうか
    さながら 戦後日本を経済大国に押し上げたサラリーマンとその家族ではないでしょうか
    事実は事実として伝えるのは大切です
    しかし ニッチながら自身を貫いた武士にもスポットを落としてあげるのも 一つの事実だと思います
    私が思った展開でない点を指摘したことを御詫びするとともに 今後の解説に期待しております

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว +2

    新選組
    (しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)の京都で治安維持活動、特に尊攘派志士の弾圧活動をした浪士隊である[1][2]。
    入隊資格
    年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた[13]。実技試験もなかった[14][15]。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10里(約40キロ)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子や妾を迎えることが許された。
    新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという[16]。
    局中法度・粛清
    烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。
    法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。
    一、士道ニ背キ間敷事
    (武士道に背く行為をしてはならない)
    一、局ヲ脱スルヲ不許
    (新撰組からの脱退は許されない)
    一、勝手ニ金策致不可
    (無断で借金をしてはならない)
    一、勝手ニ訴訟取扱不可
    (無断で訴訟に関係してはならない)
    一、私ノ闘争ヲ不許
    (個人的な争いをしてはならない)
    右条々相背候者切腹申付ベク候也
    (以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)
    子母沢寛が昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代史料にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。永倉新八が大正2年(1913年)に語った内容を記録した『小樽新聞』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。
    鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる[30]。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で[31]、その他はほとんどが切腹や暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった[32]。
    役職
    トップは局長。直下に局長を補佐する副長がおり、そのさらに下に副長助勤、監察方(内務監察)、勘定方(会計担当)などの役職を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番組から十番組まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。
    以下に構成員。新選組の名を用いる以前(壬生浪士組)も含む。

    • @user-zf1bn1ub5c
      @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

      新選組隊内において粛清された隊士
      新選組の内部粛清
      近藤・土方体制をつくり上げる過程において
      殿内義雄、家里次郎 - 主導権をにぎるため粛清。
      新見錦 - 狼藉を詰められた末に切腹。ただし、脱隊の後預け先の長州で腹を切ったという説もある。
      田中伊織 - 近藤の意に沿わない動きをしたため、彼の手により暗殺されたと言われる。
      芹沢鴨、平山五郎 - 度重なる乱暴狼藉、酒乱のため寝込みを襲い暗殺。
      野口健司 - 何らかの理由でとがめられ切腹(詳細不詳)。
      平間重助 - 切腹こそ免れたが、立場上居場所がなくなり逐電。
      佐々木愛次郎、佐伯又三郎 - 詳細不明。佐々木は巻き込まれ。芹沢に暗殺されたとの説がある。
      荒木田左馬之助、御倉伊勢武、楠小十郎 - 斬殺。暗殺の罪をかぶせられたという説もある。
      山南敬助 - 脱走の罪で切腹。
      谷三十郎 - 暗殺説がある(病死説もあり確定していない)。
      分隊行為・背反行為の粛清
      田中寅蔵 - 御陵衛士の接触。
      茨木司・佐野七五三之助・富川十郎・中村五郎 - 離隊して、御陵衛士に合流を図るも叶わず、嘆願先の会津藩邸で抗議の切腹(あるいは斬殺)。
      伊東一派(御陵衛士・高台寺党)人材の流出を防ぐため、また、反体制になりつつあった薩摩に近づいたことで起きた確執による粛清。
      伊東甲子太郎 - 近藤に呼び出され帰り道で大石鍬次郎により斬殺。
      藤堂平助・毛内有之助・服部武雄 - 伊東の遺体引取りを口実に、誘殺。
      武田観柳斎 - 離隊後の薩摩との接近が命取りになり、銭取橋で斬殺。
      浅野薫 - 脱走したため。
      柴田彦三郎 - 脱走したため。
      川島勝司 - 新選組の名をかたり勝手に金策をしたため。
      酒井兵庫 - 脱走の罪。
      倫理・道徳の徹底
      松原忠司 - 土方歳三に斬った男の妻のことをいわれ心中またはある失策がもとで切腹をはかり、その傷で死亡ともいわれている。
      施山多喜人 - 人妻との不倫を咎められ、切腹。
      河合耆三郎 - 隊費紛失の罪で切腹。斬首とも。
      田内知 - 愛人の浮気相手に斬られ、そのまま逃げられ、大声で助けを呼んだ。この行動が士道不覚悟とされ切腹。
      加納惣三郎 - 辻斬り強盗の常習であったため土方歳三に待ち伏せされ、暗殺された。
      関連記事
      新選組 - 新選組の概要・隊士一覧など。
      壬生浪士 - 殿内義雄・家里次郎らの粛清など。
      御陵衛士 - 伊東甲子太郎・篠原泰之進ら高台寺党の概要。

  • @user-pq1zw1zi5l
    @user-pq1zw1zi5l 2 ปีที่แล้ว

    日本をカッコ良くd( ̄  ̄)…。

  • @KS-dq6mh
    @KS-dq6mh 2 ปีที่แล้ว

    そのかっこよく は なかなかよろしい。

  • @siotakoyaki
    @siotakoyaki ปีที่แล้ว

    日本をカッコよく とセンスを開くしぐさが なんだかかわいい

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    防人
    (さきもり / ぼうじん)は、古代中国や、日本の飛鳥時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度である。
    温故創生乃碑(熊本県山鹿市)に見る防人
    中国の防人
    738年完成の大唐六典では「辺要置防人為鎮守」(辺地の防衛のために防人を置く)とされている。防人の数は担当地域の規模によって定められており、上鎮では500人、中鎮では300人、下鎮では300人以下、上戍は50人、中戍は30人、下戍は30人以下とされた。唐代初期には全国で上鎮が20箇所、中鎮が90箇所、下鎮が135箇所、上戍が30箇所、中戍が86箇所、下戍が235箇所との記録があり、合計すると7-8万人の兵力となる。兵士は農村から徴兵された他、犯罪者や無住者など所払いの人達も送られた。任期は3年だが、延長される事もしばしばあった。食料・武器は自弁であった。なお、開元、天宝年間(713年-756年)になると、募集された職業軍人で構成されるようになった。
    日本古代の防人
    制度
    646年(大化2年)の大化の改新において、即位した孝徳天皇が施政方針となる改新の詔で示した制度のひとつである。663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された。「さきもり」の読みは、古来に岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
    大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)において、京の警護にあたる兵を衛士とし、辺境防備を防人とするなど、律令により規定され運用された。中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された[1]。加えて、出土文字資料においては2004年に佐賀県唐津市の中原遺跡において「防人」の墨跡を持つ木簡が出土しており、肥前国にも配置されていた可能性がある[2]。 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。2005年には中原遺跡から甲斐国(山梨県)出身の防人の存在を示す木簡が出土しており、2007年には「相模型坏」と同型の食器用土器が出土し、相模出身の防人がこの地域に派遣されていたことをうかがわせる[3]。
    757年以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の792年に桓武天皇が健児の制を成立させて、軍団・兵士が廃止されても、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。実際に、8世紀の末から10世紀の初めにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇の後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した。
    院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。1019年に九州を襲った刀伊を撃退したのは、大宰権帥藤原隆家が率いた九州の武士であった。
    規模
    防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる[6]。この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
    防人歌
    奈良時代に成立した『万葉集』には防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首以上収録されており、防人歌と総称される。関東地方など東国の言葉が使われている事も多く、東歌ともに古代の生活様相を伝えている。
    現代の防人
    古代の防人が九州沿岸の国防に従事していたことから、転じて、常に危険と隣り合わせで地域社会の安全を守る職務に従事する自衛官・警察官・消防官(消防団員)・海上保安官など[7][8]を、比喩的に防人(さきもり)と呼ぶことがある。(現代の防人、地域の防人など)
    脚注
    ^ 直木孝次郎 他訳注『続日本紀1』平凡社(東洋文庫457)1986年、323頁の注
    ^ 唐津市・中原遺跡 防人存在記す木簡(佐賀新聞) ― 「戍人」の文字
    ^ 防人が作った食器用土器か 唐津の中原遺跡で出土
    ^ 「正倉院文書」正集第十七巻所載
    ^ 「駿河国正税帳」天平11年(739年)条によれば、同年中に甲斐国の防人39人のほか朝廷へ献上する貢馬を輸送した小長谷部麻佐、山梨郡散事小長谷部練麻呂の三者がそれぞれ東海道の支路である古代官道の甲斐路を通過したことを記している。
    ^ 喜田貞吉は論文『東人考』において武蔵、上野よりそれぞれ250人、他の4国よりそれぞれ150人合わせて1100人と算出している。(『東人考』、喜田貞吉著作集9巻「蝦夷の研究」、520頁、平凡社、1980年、〔初出『歴史地理第二三巻第六号第二四巻第二、四号』1914年6.8.10月〕
    ^ 自衛隊の広報誌MAMORのグラビア記事「防人たちの女神」、西部航空方面隊ウェブサイトのコーナー名称「防人の休息」、「平成の防人たちへ―元幹部自衛官の心からの諫言(展転社 2005年・著/真田左近)」など
    ^ 白鵬関「防人の像」除幕 篠栗町、警察官らたたえる - 西日本新聞2012年11月5日(47NEWS)
    参考文献
    森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
    筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、1976年
    前田淑『大宰府万葉の世界』弦書房、2007年、ISBN 978-4-90211678-6
    浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
    瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社、1998年、ISBN 978-4634324206
    関連項目
    古代山城
    水城 - 現在の福岡県内にあった防衛拠点
    見島ジーコンボ古墳群 - 防人の墓所と推定される遺跡
    国境対馬振興特別措置法案 - 通称・防人の島新法
    日本の軍事史
    元寇
    防人の詩 - 映画『二百三高地』の主題歌。作詞・作曲・歌唱さだまさし。
    異国警固番役
    pop'n music - 『pop'n music 18 せんごく列伝』に「防人恋歌」、『pop'n music うさぎと猫と少年の夢』に「防人想歌」という楽曲がそれぞれ収録されている。

  • @bokejijii561
    @bokejijii561 2 ปีที่แล้ว

    斬捨て御免。弱気ものは、斬捨てよ!

  • @user-ni2gv6cn7y
    @user-ni2gv6cn7y ปีที่แล้ว

    なんか、「忠義」の意味を間違って理解してる人がいますね。
    武士にとって忠義とは、自分の命に代えても守ると言う事なんですから、その時仕えている主が命を掛ける価値がないと思えば変えるのは当然です。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    ・御恩と奉公
    (ごおんとほうこう)とは、中世の日本において、主に武士の主従関係を構成した要素・概念。中世の武士間の主従関係は、決して片務的なものではなく、主人・従者が相互に利益を与え合う互恵的な関係で成り立っていた。ここで、主人が従者へ与えた利益(領地)を御恩といい、従者が主人へ与えた利益(主人のために戦う)を奉公といった。平安時代中期~後期から武士層に「御恩と奉公」の関係が徐々に形成されていたが、本格的に「御恩と奉公」が成立したのは、源頼朝が関東武士の盟主=鎌倉殿となってからである。以降、御恩と奉公の関係性は、鎌倉幕府の成立基盤として機能し続け、その後の室町幕府や江戸幕府にも引き継がれた。
    御恩
    御恩の具体的な内容は、主人が従者の所領支配を保障すること、または新たな土地給与を行うことである。前者は本領安堵(ほんりょうあんど)と呼ばれ、後者は新恩給与(しんおんきゅうよ)と呼ばれた。鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿が御家人を地頭に任命するという形で本領安堵・新恩給与、すなわち御恩がほどこされるようになった。
    奉公
    奉公の具体的な内容は、従者が主人に対して負担した軍役・経済負担などである。鎌倉幕府が成立すると、御家人は鎌倉殿に対して、緊急時の軍役、内裏や幕府を警護する大番役、その他異国警固番役や長門警固番役などの軍役奉仕のほか、関東御公事と言われる武家役を果たした。
    沿革
    平安期の10世紀頃、大きな社会変化を背景として、朝廷は、徴税・軍事をもはや官司機構で担うのではなく、国司や富豪などへ請け負わせる官司請負制への転換を進めていた。特に争乱の多かった関東では、在地の富豪や豪族が公的な軍事力を担うようになっていた。こうした状況下で、関東を中心に武士団が形成されていったが、武士団では主人がトップに立ち、家子・郎党と呼ばれる従者たちを率いていた。こうした主従関係を結びつける契機となったのが、御恩と奉公の関係性である。主人・従者の両者は、御恩と奉公という互恵関係を結ぶことで、一定の共同体(武士団)を作っていったのである。ただし、当時の主従関係は割とルーズなもので、複数の主人に仕える、一時的にだけ主従関係を結ぶ、といったことも多く見られた。
    平安最末期に関東武士全体を代表する鎌倉殿という地位が登場すると、御恩と奉公に基づく主従関係は、次第に排他的(鎌倉殿以外の主人を持たない)かつ永続的なものとなり、一層強固になっていった。その後、御恩と奉公は明治維新まで続く武家社会の基本的な成立要素として機能した。
    なお、御恩と奉公による主従関係について、中世ヨーロッパに見られた封建制(feudalism)との共通点に着目して、封建的主従関係と理解する見解がある。その一方、ヨーロッパ封建制と本質的に異なる、日本独自の主従関係であるとする見解も出されている。
    関連項目

    知行
    武士
    鎌倉殿
    封建制
    プロノイア
    レーエン
    ・奉公構
    (ほうこうかまい、ほうこうかまえ)とは、安土桃山時代および江戸時代において、武家が家中の武士(家臣)に対して科した刑罰の一つで、将来の奉公が禁ぜられることである。
    構(かまえ)とは集団からの追放を意味するが、奉公構は旧主からの赦しがない限りは将来の仕官(雇用)が禁止されるため、通常の追放刑よりも一層重い罰であった。
    概要
    大名が、罪を犯して改易された家臣、または主人の不興を買って(暇を請わずに勝手に)出奔した家臣について、他家がこれを召し抱えないように釘を刺す回状を出すことをいう。武家奉公構、仕官御構(しかんおかまい)などとも表現される。
    奉公構の概念は、戦国大名の分国法(家法)である今川仮名目録や甲州法度次第、塵芥集などにすでに見られる[1]が、彼らの所領は限られていたことから、境を越えてしまえば自由があった。しかし、豊臣秀吉は天下を統一したことで、奉公構を日本全国に行き渡らせることを可能にした。
    構を申し渡された者(「構われ者」という)は、どの家でも奉公人として置いてはならないと定められ、例え有能な人材であっても他家が召し抱えることは禁止された。もし旧主が求めるならば、この者を逮捕して旧主のもとに送還する必要もあり、逃がした場合には新主も咎を負った[1]。
    以後、武士達は、戦国時代のように仕官と出奔を繰り返して家々を渡り歩いて奉公替えによって出世していくことが難しくなり、簡単に出奔することができなくなった。ただし、大大名の連合政権の性格のある豊臣政権下での奉公構は(大名間の力関係によって)必ずしも守られておらず、また蒲生氏郷が会津に転封された際には家臣が不足したことから、構を受けた浪人の雇用が公認されたこともあり、厳格には施行されていなかった[1]。
    江戸幕府の活用
    江戸幕府では大坂の陣の後も上方に多く屯していた浪人の抑圧策の1つとしてこれを採用して、元和9年(1623年)9月18日、京都所司代板倉重宗の令によって、京都より牢人と(罪によって)構われ者となった者を追放させた[2]が、あくまでも罪人を追放するに留まっていた。しかし、寛永9年(1632年)に出された諸士法度の一部によって「構有レ之奉公人不レ可二抱置一事」として初めて構を一般的に認めた[3]。さらに寛永12年(1635年)に改正された武家諸法度および諸士法度によってさらに細かい規定と設けて、幕府法としても有効であると改めて確認した。
    幕藩体制下ではより厳格に施行されるようになり、構が出されると、扶持を没収され、仕えた家から追放されて、その土地または江戸・大阪・京都など特定の地域に住めなくなるだけでなく、当家でも他家でも再仕官が出来なくなるので、浪人は武士としての生活を送ることが不可能となった。このため武士階級においては死刑に次ぐ重刑であったといえる。
    条文
    甲州法度
    天文16年(1547年)第15条
    一 譜代被官他人召仕之時。本主見合搦(補)レ之事。停止之畢(おわ)ンヌ。断二旨趣ヲ一而可二請取一之。兼又主人聞傳相届ル之處ニ。當主領掌之上。令二逐電一者。以二自餘者ヲ一壹人可レ辧レ之。奴婢雑人之。事者無二其沙汰一過二拾ヶ年一者。任セ二式目一不レ可レ改レ之。
    定書(秀吉)
    天正14年(1586年)正月19日(西村哲尾文書)
    諸奉公人侍事は申におよばず仲間こものあらし子に至るまで、其主にいとまをこはず出候儀曲事候間、相抱べからず。
    武家諸法度(寛永令)
    寛永12年(1635年)
    一、本主之障あるもの不レ可レ相二抱之一、叛逆殺害盗賊人の届あらば、急度可レ返レ之、其外かろき咎の者に至ては、侍は届次第可レ追二拂之一…(後略[4])
    (現代語訳)
    元の主人から問題があるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者・殺人者・泥棒との届出が出ていれば速やかに元の主人へ返すこと。その他、軽い罪の者に関しては、侍ならば届出を出した上で追放すること…(後略)
    奉公構を受けた著名な人物
    水野勝成 - 旧主水野忠重(実父)、後に帰参・家督相続
    後藤基次 - 旧主黒田長政
    塙直之 - 旧主加藤嘉明
    渡辺了 - 旧主藤堂高虎
    茂庭綱元 - 旧主伊達政宗、後に帰参
    伊達成実 - 旧主伊達政宗、後に帰参
    屋代景頼 - 旧主伊達政宗
    稲富祐直 - 旧主細川忠興、後に徳川家康の計いにより徳川家に仕える
    平賀源内 - 旧主松平頼恭

  • @user-fm1my6kp7k
    @user-fm1my6kp7k 2 ปีที่แล้ว +2

    天皇様???言葉遣いを勉強してくれ。

  • @user-lc7ce5wh4p
    @user-lc7ce5wh4p ปีที่แล้ว

    女性に武士道を語らせるとか、情けない世の中になった

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    武士道
    武士道の変化
    「武士道」という言葉の意味するものは単純ではない。
    それは「武士」というものの有り方に応じて、大きく三つに分けることができる。
    1)武士が誕生した平安時代から、鎌倉~室町~戦国時代;「兵(つわもの)の道」
     ―元々の武士とは田舎で自分の土地を持ち、戦って土地や仲間を守るものであった。
     →実力主義(勝つこと)、自主独立の精神、名(外聞)の重視、などのメンタリティ
    「武士道」という言葉はまだ存在しない。(「武士道」という言葉が最初に表れるのは、江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』である。)勝利至上主義―多少卑怯な手段を使ってでも<勝つこと>が最も重要な目的であることは、宮本武蔵の『五輪書』にも繋がっている。
        
    (それは「兵は詭道なり(戦いとは敵を欺くこと)」という『孫子』の言葉にも現れている。)
    だからこそ仲間を裏切らないという忠誠心が逆に強調されることにもなる。
    そうした強い緊張感のなかで生まれてきた、ストイックな倫理が、武士道である。
    2)江戸時代;士道
    ―この時代の武士は、土地を持たず、城下町に住み、主君(藩主)に雇われて生活するサラリーマンである。
    →人格的に優れており、国民の模範となる存在を目指す(武士道の理想化)
    (戦う者の道である「武道」から、「人間として教養のある武士」を目指す方向に転じたのが山鹿素行の「士道」である。)
    「武士」という言葉でもっとも容易に連想されるのは江戸時代の侍だろう。しかし江戸時代には、もう戦争はなく、戦うものとしての武士の存在は不要だった。(ほぼ250年続いた平和な時代に、武士は武人(軍人)から官僚(役人)へと転身した。)だからこそ「武士道」が必要になり、武士道は理想化された。その典型が、『葉隠』である。
    (マックス・ヴェーバーのいう「心情倫理」と「責任倫理」の対立)
     
    士農工商という身分制度の確立
    正義のために死ぬことができるという武士の生き方が、国民道徳として町人たちにも広く受け入れられたことを示すのが、
    元禄期における「忠臣蔵」の大ヒットである。
    3)明治時代以降;「武士道の精神」
     ―武士は存在しないが、明治時代に活躍した多くのの政治家・軍人・学者達は元武士であり、善い意味で武士道の精神を持っていた。
    →近代国家の精神的バックボーンとして再発見された「武士道」;清廉・勇敢・自立・献身などの美徳
    「軍人勅諭」・「教育勅語」
    日露戦争の頃から、「武士道」が声高に語られるようになる。
    思想としての武士道が一番必要とされ、精神としての武士道が広く実行されたのは、明治時代だった。
        新渡戸稲造『武士道(Bushido, the Soul of Japan)』
        福沢諭吉「痩我慢の説」
        昭和初期には、国と天皇のために死ぬことが「武士道の精神」として教えられた。
    宮本武蔵『五輪書』
    おほかた武士の思ふ心をはかるに、武士はただ死ぬるといふ道を嗜(たしな)むことと覚ゆるほどの儀なり。死する道においては、武士ばかりにかぎらず、出家にても、女にても、百姓以下にいたるまで義理を知り、恥を思ひ、死ぬるところを思ひきることは、その差別(しゃべつ)なきものなり。
    武士の兵法を行なふ道は、なにごとにおいても人に優(すぐ)るるところを本(もと)とし、あるいは一身の斬り合いに勝ち、あるいは数人の戦ひに勝ち、主君のため、わが身のため、名を挙げ、身をも立てむと思う。これ兵法の徳をもってなり。
    宮本武蔵「独行文」
    一、世々の道をそむくことなし。
    一、身のたのしみをたくまず。
    一、よろずに依怙(えこ)の心なし。
       (なにごとであれ他人に依り頼む心を持たない。)
    一、身を浅く思ひ、世を深く思ふ。
    一、一生の間(あひだ)欲心思わず。
    一、我(われ)、事において後悔をせず。
    (中略)
    一、身を捨てても名利は捨てず。
    一、つねに兵法の道を離れず。
    引用は、佐藤正英校注・訳『五輪書』(ちくま学芸文庫)から
    新渡戸稲造『武士道』 序文(奈良本辰也訳)
    「約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
    「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
    その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫(みち)たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった。」
    菅野覚明『武士道の逆襲』
    「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである。…
     そもそも、武士道という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治中期以降のことである。とくに、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。今日の武士道イメージの骨格を形づくっているのは、おおむねこの時期に数多く著された武士道論であり、新渡戸『武士道』もその中の一つである。」

    • @user-zf1bn1ub5c
      @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

      ルース・ベネディクト『菊と刀 ―日本文化の型』(1946)
      罪の文化と恥の文化
      「異なる文化を研究する人類学的研究では、恥に強く依存している文化と罪に強く依存している文化とを区別することが重要である。絶対的な道徳の基準を植え込み、人々が良心を育くむことに依存している文化は、罪の文化と定義できる…。
      恥の文化は、善い行為を導くために外的な強制力に依存しており、罪の文化のように、内面化された罪の意識には依存しない。恥とは他人の批判に対する反応である。人が恥をかくのは、人前で嘲笑され拒絶されるか、あるいは嘲笑されたと思い込む場合である。どちらの場合でも恥は有力な強制力になるが、見られていることが、あるいは少なくとも見られていると思い込むことが、必要である。罪は違う。名誉というものが、自分自身の期待に応えて生きることを意味する国においては、自分の犯した過ちが誰にも知られなくても人は罪の意識に苛まれることがある…。
      合衆国に移住してきた初期のピューリタンたち(キリスト教の清教徒)は、全ての道徳を罪の上に基礎づけようとした。現代のアメリカ人が良心と折り合いをつけるのにどんなに苦労しているか、全ての精神科医が知っている。…
      日本人の生活において恥は最高の地位を占めているが、…それによって、自分の行為に対する世間の評価に誰もが注目することになる。他人の判断を思い描くだけでよい、他人の判断に従って自分の行動が定められる。みんなが同じルールでゲームをしており、互いに支え合っているときには、日本人は快活で気楽になれる。日本の「使命」を遂行するものだと感じるとき、日本人はゲームに熱狂することができる。」
      日本人の二面性
      「全ての西洋人がこれまで描いてきた日本人の性格の中にある矛盾は、日本人の子育てを見れば理解できる。子育てによって日本人の人生観に二面性が生み出される。…赤ん坊の頃に特権的地位と心理的安楽を経験することによって、日本人は、その後どんな規律でしつけられても「恥を知らなかった」頃の安楽な生活の記憶を持ち続ける。日本人は天国を未来に思い描く必要はない。過去に持っているのだから。人間は生まれつき善いものであり、神々は善意に満ちており、日本人であることは譬えようもなく素晴らしいことだと日本人が主張するとき、日本人は子供時代を別の言葉で言い換えている。どんな人の中にも「仏性(仏になる種)」があり、どんな人も死んだ後に神になるという極端な解釈に、倫理を基礎づけることが容易になる。…
      六・七歳を過ぎると次第に責任をもって慎重に振る舞い「恥を知ること」が要求されるようになる。それは、そうしなければ自分の家族から排斥されるという、極めて強力な強制力によって支えられる。…
      …この深く刷り込まれた二面性のせいで、日本人は大人になっても極端な態度をとる。ロマンチックな恋愛に耽るかと思えば一転して家族のためだけに生きる。…日本人はしばしば臆病な国民であるが、無謀なまでに勇敢にもなる。」
      参考文献
      初期の武士については、『今昔物語集』の「本朝世俗」(24巻以降)に多くの挿話がある。
      江戸時代の武士については、マンガではあるが、
      みなもと太郎『風雲児たち』:(ワイド版20巻+幕末編)
      は長いけど読んで損はしない傑作である。思わず脱力してしまうようなベタなギャグ満載だが、
      それが逆に、余りにもひたむきな主人公たちの物語の息苦しさを和らげると同時に、その真実を際立たせている。
      小説ならば
      司馬遼太郎『峠』(新潮文庫)
      は、「西の龍」坂本竜馬に対して「東の龍」「蒼い龍」とも呼ばれた幕末の武士・河井継之助を描いた名作。
      武士道についての理解を深めるという目的ならば、『竜馬がゆく』よりも、こちらの方がいいだろう。
      司馬遼太郎『菜の花の沖』も、江戸時代の経済や、侍の馬鹿らしさが分かるという点では、勧められる。

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o 2 ปีที่แล้ว

    ・武士道
    日本の武士階級に発達した道徳。 鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒学思想と結合して完成した。 忠誠・勇敢・犠牲・信義・廉恥・礼節・名誉・質素・情愛などを尊重した。 士道。
    ・朱子学
    朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。
    北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである[1]。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。
    日本への影響
    「日本の儒教」も参照
    朱子学の日本伝来
    土田 (2014)の整理に従い、朱子学の日本伝来のうち初期の例を以下に示す。
    年代的に早いものとしては、臨済宗の栄西、律宗の俊芿、臨済宗の円爾などが南宋に留学し多くの書物を持ち帰ったことから、朱子学の紹介者とされる[62][注釈 1]。
    南北朝時代には虎関師錬が禅宗の僧侶の中ではいち早く道学を論難した。その門下の中巌円月も道学に対する仏教の優位を述べる。また、義堂周信は『四書』の価値や新注・古注の相違に言及している[62]。
    室町時代の一条兼良の『尺素往来』には、朝廷の講義で道学の解釈が採られ始めたことが記録されている[62]。
    博士家では、清原宣賢が道学を重視した[62]。
    ほか、北畠親房の『神皇正統記』や、楠木正成の出処進退には朱子学の影響があるとの説もあるが、土田 (2014, p. 44-48)は慎重な姿勢を示し、日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、清原宣賢・岐陽方秀とその門人を挙げる[63]。また、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、桂庵玄樹は明への留学後、応仁の乱を避けて薩摩まで行き、蔡沈の『書集伝』を用いて講義をし、ここから薩南学派が始まった[64]。また、土佐では南村梅軒が出て海南学派が始まった[64]。
    江戸時代
    朱子学入門書である『近思録』の和刻本(寛永年間の古活字版)。日本語でのおびただしい書き入れが見受けられる。
    江戸時代の朱子学の嚆矢として、藤原惺窩が挙げられる。室町時代まで、日本の朱子学は仏教の補助学という立ち位置にある場合が多かったが、彼は朱子学を仏教から独立させようとした。実際には彼の思想は純粋な朱子学ではなく、陸九淵の思想や林兆恩の解釈を交えており、諸学派融合的な方向性を有している[65]。惺窩以来京都に伝わった朱子学を「京学派」と呼び、その一人に木下順庵がいる[66]。その門下からは新井白石、室鳩巣、祇園南海、雨森芳洲らが出た[66]。詩文の応酬が多く見られるのが京学派の特徴で、思想家として自己主張を行うというよりも、自身の教養の中核に朱子学があり、文芸活動が盛んであった[67]。
    また、山崎闇斎から、朱子学の純粋な理解を目指す学風が始まった。彼は仏教に対する儒教の特質を「三綱」と「五常」に見て、社会的倫理規範を重視した[68]。闇斎の学派は「崎門」と呼ばれ、浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎らが出たが、闇斎が後に神道に傾斜したことによって主要な門弟と齟齬が生じ、多くは破門された[69]。ただ、厳格さを特徴とするこの学派は驚異的な持続性を見せ、明治まで継続した[70]。
    幕府に仕えた朱子学者である林羅山は、将軍への進講、和文注釈書の作成、学者の育成など、朱子学を軸にした啓蒙活動を積極的に行った[71]。林羅山の子の林鵞峰も同じく啓蒙的活動に力を入れ、儒家の家元としての林家の確立に尽力した[72]。
    当初は朱子学を信奉したが、後に転向し反朱子学の主張を取るようになった学者として伊藤仁斎がいる。仁斎は朱子学・陽明学・仏教を受容したうえで、それらを否定し、日常道徳が独立して成立する根拠を究明した[73]。そして、仁斎学と朱子学をまとめて批判することで自分の立場を鮮明にしたのが荻生徂徠である[74]。徂徠は、朱熹『論語集注』と仁斎『論語古義』を批判しながら、自己の主張を展開し、『論語徴』を著した[74]。
    山崎闇斎らの朱子学の純粋化を求める思想と、伊藤仁斎らの反朱子学的思想の形成はほぼ同時期である[75]。土田 (2014, pp. 96-97)は、朱子学があったからこそ思想表現が可能になった反朱子学が登場したのであり、朱子学と反朱子学の議論の土台が形成されたことが、江戸時代の思想形成に大きな影響を与えたと述べている。たとえば、反朱子学を主張した伊藤仁斎は、自分の主張を理論化する際には朱子学の問題意識と思想用語を利用し、朱子学との対比から自分の思想を確立した[73]。
    松平定信は、1790年(寛政2年)に寛政異学の禁を発したが、この時期は多くの藩で藩校を立ち上げる時期に当たり、各地で幕府に倣って朱子学を採用する傾向を促進した[76]。この頃の学者としては、尾藤二洲・古賀精里・柴野栗山ら「寛政の三博士」のほか、林述斎・頼春水・菅茶山・西山拙斎らがいる[77]。二洲や拙斎を含め、この時期には徂徠学から朱子学に逆に転向してくる学者が多かった[77][78]。
    ・水戸学
    (みとがく)は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。特に天保期以降、第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。
    儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。
    ・坂上 田村麻呂
    (さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。坂家宝剣では坂家。
    ・阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、渡嶋を比定する決定的な史料はなく諸説あるが、東北以北にて粛慎と交戦した。
    出自
    阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。
    中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする[1]。
    比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図[2]では、阿倍氏の宗族である阿倍目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする[3]。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある[4]。

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    @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

    ・平 将門
    (たいら の まさかど、平 將門、延喜3年〈903年〉? - 天慶3年2月14日〈940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族。
    桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男鎮守府将軍平良将の子将門。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。
    自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった(日本外史や神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』[3]の見方がある)。この後将門は東下する。この東下の際、叔父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている[4]。ただし、この戦は後の蚕飼川の戦い(子飼渡の合戦とも)がモデルで、妙見神を讃えるために創作されたもので実在しなかったという説もある[5]。
    以後「平将門の乱」へつながる騒擾(そうじょう)がおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない。
    ・藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男[3]。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下[3][注釈 1]・伊予掾[3]。
    瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。
    生涯
    藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方官となる[注釈 2]。
    当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予に土着する。承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり[注釈 3]、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばした。
    関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下・藤原文元に摂津国須岐駅において備前国・播磨国の介(備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。
    朝廷は純友追討のために追捕使長官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子・重太丸と伊予へ逃れたが、同天慶4年6月に今日の宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない[注釈 4]。また、それらは国府側の捏造(ねつぞう)で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったともいわれている[要出典]。
    将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。
    藤原純友を祀(まつ)った神社として、現・岡山県松島の純友神社、現・愛媛県新居浜市の中野神社がある。
    逸話
    純友が反乱を起こした当時、関東では平将門が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には関白になる計画を描いていたという[4][5]。ただしこの謀議は比叡山で行われたとされ、将門と純友が比叡山から平安京を見下ろして「将門は王孫なれば帝王となるべし[4]、純友は藤原氏なれば関白とならむと約し」とあるなど、当時の将門や純友は、関東と伊予から動いていたかいないかは定かではないが、その繋がりについては検証すべきものである。[6]
    ・藤原 隆家
    (ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。官位は正二位・中納言。
    在任中の寛仁3年(1019年)刀伊の入寇が発生。刀伊(女真族と考えられている)が対馬・壱岐に続いて、同年4月に博多を襲うが、隆家は総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮してこれに応戦・撃退している。同年6月には高麗が虜人送使・鄭子良を派遣し、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送還する。隆家は鄭子良に対して朝廷の返牒を遣わし禄物を与えるなど後処理を行った[10]。
    同年12月に大宰権帥を辞して帰京(後任は藤原行成)。帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣・大納言への登用を求める声もあったが、帰京後の隆家は内裏出仕を控えていたため昇進の沙汰はなかったという[7]。一方で、翌寛仁4年には都に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。治安3年(1023年)次男の経輔を右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退する。その後、大蔵卿などを務めるが、後朱雀朝の長暦元年(1037年)藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)までこれを務めた。
    長久5年(1044年)1月1日薨去。享年66。最終官位は前中納言正二位。

    • @user-zf1bn1ub5c
      @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

      承平天慶の乱
      (じょうへいてんぎょうのらん)は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。
      ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。
      文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
      概要
      関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。
      瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。
      なお、この反乱は一般に承平・天慶の両元号の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。実際にこれが「反乱行為」(はんらんこうい)と見なされるのは、天慶2年に将門・純友が相次いで起こした国司襲撃以後のことである。従って、この乱を「天慶の乱」と呼ぶことには問題はないものの、単に「承平の乱」と呼んだ場合には事実関係との齟齬を生む可能性があることに留意する必要がある。
      平将門の乱
      平氏一族の私闘
      皇族の高望王は平姓を賜って臣籍に下り、都では将来への展望もないため、上総介となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた田堵負名、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図ったとも考えられている。高望の子らは武芸の家の者(武士)として坂東の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着した。ただし、この時代の発生期の武士の所領は、後世、身分地位の確立した武士の安定した権利を有する所領と異なり、毎年国衙との間で公田の一部を、経営請負の契約を結ぶ形で保持するという不安定な性格のものであった。つまり、彼らがにらみを効かせている一般の田堵負名富豪層と同じ経済基盤の上に自らの軍事力を維持しなければならず、また一般の富豪層と同様に受領の搾取に脅かされる側面も持っていた。
      高望の子のひとり平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子の将門は京に上って朝廷に中級官人として出仕し、同時に官人としての地位を有利にするために摂関家藤原忠平の従者ともなっていた。良将が早世したため将門が帰郷すると、父の所領の多くが伯父の国香、良兼に横領されてしまっていたといわれ、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培った。
      延長9年(931年)ごろから将門は「女論」によって伯父・良兼と不和になったとされる。「女論」の詳細は『将門記』に欠落があって不明だが、前常陸大掾源護の娘、もしくは良兼の娘を巡る争いであったと考えられている。源護には三人の娘があり、それぞれ国香[注釈 1]、良兼、良正に嫁いでいる。この源護の三人の娘の誰かを将門が妻に望んだが叶わなかったためという説、または、良兼の娘を将門が妻にし、その女を源護の三人の息子(源扶、源隆、源繁)が横恋慕したという説がある。
      承平5年(935年)2月、源扶、源隆、源繁の三兄弟は常陸国野本に陣をしいて将門を待ち伏せ、合戦となった。将門は源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払い、三兄弟を討ち取った。更に将門は伯父の平国香の館の常陸国石田にも火をかけ、国香をも討ち取ってしまった。

    • @user-zf1bn1ub5c
      @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

      刀伊の入寇
      (といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
      名称
      刀伊(とい)とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指すtoiに、日本の文字を当てたとされている[1]。
      15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되(そのまま「トイ」)として表れる[2]。
      史料
      この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。
      経緯
      日本沿岸での海賊行為頻発
      9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩の九州沿岸であった。
      侵攻の主体
      刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配して密かに高麗に渡り情報を得た[3]。長嶺が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人の捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。
      日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族
      「刀伊の入寇」の主力は女真であったと考えられている。女真とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[4][5]。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直[注釈 1]の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[6][7]。
      13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真もこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13~14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[7]。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[7]。
      刀伊の入寇までの北東アジア情勢
      926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
      1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる[8]。
      しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した[9]。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている[10]。
      対馬への襲撃
      寛仁3年3月27日(ユリウス暦1019年5月4日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。対馬の被害は36人が殺され、346人が拉致されている。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
      壱岐への襲撃
      賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
      藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の下、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。生存者はわずか35名。
      筑前・肥前への襲撃
      その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、4月9日には博多を襲った。博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、この一体の要衝であった。刀伊勢は警固所を焼こうとするものの、大宰権帥藤原隆家と大蔵種材らによって撃退された[11]。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した[3]。
      高麗沿岸への襲撃
      藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという[12]。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された[13]。

    • @user-zf1bn1ub5c
      @user-zf1bn1ub5c 2 ปีที่แล้ว

      高麗との関係
      上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した[12]。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。『小右記』では「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している[14]。
      日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はあまり交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。
      被害
      対馬の被害
      人的被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した[15]。
      物的被害としては対馬銀山が焼損した。
      壱岐の被害
      壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された[15]。さらに、女性は239人が連行された[15]。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった[15]。この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる[15]。
      記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという[16]。
      朝廷の対応
      権帥藤原隆家は4月7日と4月8日に報告書を送り、京都に届いたのは10日後、4月17日のことであり[17]、4月18日には恩賞を約した勅符が発給されているが[18]、主要な戦闘はすでに終結していた。
      6月29日に行われた陣定では、恩賞が約された勅符が出されたのは戦闘の後だったため、藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べた。藤原実資は寛平6年(894年)の新羅の入寇の際の例を上げ、今後のことを考え、約束がなくても恩賞を与えるべきと述べた。これを受け、本来与える必要はないが恩賞を与えることが決議されている[18]。恩賞を受けた例としては、戦闘で活躍した大蔵種材が壱岐守に叙任されている[19]。またこの際には、「刀伊に捕らえられた」という高麗人捕虜の証言についても検討されている[20]。
      賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという[注釈 2][21]。
      藤原隆家と九州武士団
      藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[注釈 3]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
      九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
      なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
      九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。
      備考
      『大鏡』の記述として、九州の武士だけでなく、大宰府の文官にも武器を持たせて戦わせたとある。

  • @DT-ji1gj
    @DT-ji1gj 2 ปีที่แล้ว

    最後まで聞いたが結局何をいいたいのかよくわからないし、この人の言うことをどこまで信用したらいいのかよくわからない。「武士道は主君への忠義を求めるものではないんですよね」ってそんなの当たり前で忠義はもともと儒教の思想。徳川家康が明智光秀のようなものが現れて徳川政権を倒さないように教育するために儒教を奨励した。「儒教の影響を強く受けていることに気がついて見直しましょう」というならわかるが「武士道を見直しましょう」とか言われてもなんのことやら?仏教と儒教と武士道をごっちゃにして語ってる。まあ宗教や道徳をごっちゃにしてなんとも思わないのが日本の伝統ではあるが笑

  • @nasubichannel
    @nasubichannel 2 ปีที่แล้ว

    武士、武家も鎌倉辺りからは大概で、身の丈を超え、仏教勢力とつるんで朝廷を軽んじるようになる。
    勿論、功罪はあり、明治以降の「政府」に比べれば、はるかにマシであり、民の為の政を行ったことは救いであり、功とも言える。

  • @impulse.hustler
    @impulse.hustler 2 ปีที่แล้ว +3

    書いてある事を鵜呑みにして自己解釈するとこういう人が語りたがる、滑稽ですね。

  • @hiromaru7109
    @hiromaru7109 2 ปีที่แล้ว

    何言ってるのかわかんない。