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とても面白い切り口の動画でした。確かに、加賀百万石の大藩が、明治政府でほとんど人材を出していないのは、不思議ですよね。なるほど、こういう歴史的経緯があったんですね。最後にミスター武士道さんも語られているように、後の世から見れば簡単な選択も、当時刻々と変化する情勢を見つつ決定するのは、至難の業でしたでしょうね。この幕末解説、佐賀藩も、とても面白かったです。
とても為になりました😊曽祖父が北海道へ開拓使として来たと聞いていたのですが、苗字が珍しくルーツが加賀藩にあると調べてわかって来たので興味を持ちました。先祖もかつてはこれだけ凄かった加賀百万石、越中国の侍だったと思うと胸熱です。
米以外の石が結構高かったのが加賀藩で、幕末 新川木綿を松本に売ってそれが日本一クラスの商いになっていたのが明治になって まるごとその商いが成立しなくなったのも大きい。
幕末の表舞台にあまり出てこない人達の幕末のお話は新鮮で非常に興味深かつたです!
気にもしていなかった幕末期の前田家のお話😑ためになりました。ありがとうございます。
これは面白かったです!
興味深い話しでした! 他の藩の話しもお願いします🙇♀️
伊東潤さんの西郷の首も加賀藩の話で面白かったです
石川県民なので嬉しいです
御三家筆頭の尾張藩の幕末の動きも是非やって欲しいです!
御三家の附家老が幕末で大名になるのも扱って欲しいですね。犬山城で有名な成瀬氏も幕末にやっと尾張藩の家老から大名になれましたし。
@@historywatcher5420 ただし幕末に大名になったから爵位は子爵では無く男爵だった。しかも、加賀藩の大名並みの石高の重臣も男爵になった。
@@yh6146 成瀬正肥は最終的には子爵になったようです。明治24年からですが。
司馬遼太郎の幕末物の小説で時々名前が上がっていた、芸州藩の辻将曹に関する解説を聴いてみたいです。よろしくお願いします。
戊辰戦争において慶喜が謹慎し、その後会津も恭順の姿勢を示したのに「振り上げたこぶしを降ろす先」にされてしまい、新政府軍は北越、会津戦争へと進んでいきますよね。 最終的に会津が降伏するまでに多くの藩が新政府軍にどのような対応を示していったのか知りたいので、会津までの道順というか時系列順でもよいのですが、関東から会津までの諸藩の動揺や苦悩などが知りたいです。 宜しくお願いします。
前田利家や加賀100万石ってのはよく聞くのに、その後は??・・・て思っていたので、勉強になりました。
昨日までの常識がすぐに非常識になる日常だったんでしょうね。現代でさえ新型コロナの対応策で揉めた経緯を見ていると、最適解を選ぶ難しさが良くわかります。ましてや、国政で方針を決めるとなると様子見してから考えようと思うのもわかる。そして、時代は時間の猶予が全くなくて切羽詰まると過激な方向に走ってしまうという教訓だったと思います。
『金持ちが必ずしも成功するわけではない』一つの例ですね
幕末の藩の動き解説イイネ!!これは面白い!
福岡藩黒田家をお願いします。50万石の大藩で、しかも藩主は島津からの養子で開明派。商都博多を抱えて、藩内には尊王志士が大勢いましたが、藩主の心変わりで佐幕に傾き、尊王志士は処罰されて、力を失いました。
黒田藩の離れ小島に高杉晋作を匿ったのは野村望東尼です。
この土地と元藩士は明治以降の活動も面白いですね。玄洋社…。
「早すぎる・・・早すぎるのだ。時代の流れが、あまりにも・・・」日本テレビで放送された年末時代劇「白虎隊」の中で、松平容保が発した言葉です。江戸時代から明治時代への流れの速さが、多くの大名たちの運命を変えていきました。そしてその流れについていけず、消えていく藩も多かったのですね。
分かりやすい!しかも部活でやってるとこだ
何で幕府が350年もの間加賀藩を警戒してたかと言うと最高の石高を持ってる外様大名が反旗を翻したら他の外様大名もドミノみたいに次々と裏切って結束させない為ですよね?
殿様の資質というよりは、加賀藩の仕組みが弱みになった感じがしますね。加賀藩は改作法の施行で革新的な支配体制を確立し、主に中級藩士が就く算用方という公務員勢力が非常に強い権限を持っていました。彼らは何も起こらないことが第一ですから、藩として天下に何かを為そうという雰囲気が生まれないのです。これは他藩にはない状況で、能力のある重臣が藩をまとめられない弱みを産んでしまいました。しかし加賀藩が大藩のまま江戸時代を乗り切った原動力は算用方という仕組みの賜物であるので、いか仕方ないことかと思います。
前田家は明治には侯爵になってますよね!政府には関わらなかったけど、東大の赤門や駒場公園の前田家本邸等、さすが百万石。栄華が偲ばれます。
でも加賀藩だけで無く御三家と年貢収入15万石以上は全て侯爵になっている。まあ、領地を減らされた仙台藩は伯爵で会津藩は子爵だったけど。
長州藩は先代藩主の正室が11代将軍家斉の娘で佐賀藩は藩主直正の正室が家斉の娘だった。でもどちらも早死にして幕末にはいなかった。でも前田家は斉泰の正室の家斉の娘が慶応4年まで存命していた。将軍の姫君が輿入れの際には幕府から御付きの家臣や女中も派遣される。だから、他の大名と違い幕府に逆らう態度が取れなかったのでは?
なんにしても、姫君たちの薄命が悲しい。
しかも斉泰の正室の母親がお美代の方…
個人的にはペリー来航の直前位に豪商の銭屋五兵衛を獄中死させてるのも痛いと思います。利聡い銭五さんが健在だったら「利の嗅覚」でよい方向が判ったんじゃ無いかなぁ…と妄想してみたり…w
会津藩のこともやってほしいです!
江戸時代は幕府に逆らわない事無かれ主義で生き延びて、動乱の幕末時代は優柔不断で何も決められず何の活躍も出来ずに終わった加賀藩。県民性というのがあるならば、石川県民はそういう県民性だろうな。
「加賀乞食」の典型例な前田家の幕末
周辺の藩をピックアップ(^ ^) 👍姫路藩、と言うか、なぜ姫路が県庁所在地にならなかったか?の経緯を知りたいです。広島、岡山、姫路、大阪と、バランスよく決まっていたのに。広くて街道も👌風格ある街なのに。佐幕の中の佐幕。藩主が明治政府の薩摩と揉めたから、とか。ワクチン接種後、早く回復されますように🙏
大久保利通を暗殺した紀尾井坂の事件を起こした首謀者は旧加賀藩の家臣、長と島田でした。島田は加賀藩の一隊として長州征伐に参加してます。なので申し訳ありませんが実際には加賀藩は長州征伐に参加してます。前田斉泰公は考え違いをするような方ではなく、幕末期の前田家当主の中では前田利家公以来の革命家でした。前田家を変える為にお金を財政が逼迫したため失脚しました。むしろ、慶寧公の方が考え違いが多く行動力や決断力も乏しかったのです。そのため、西南戦争時に加賀藩と薩軍で新政府軍を挟みうちにするという長連豪らが立ち上げた旧加賀藩の政治結社 忠告社にこのタイミングを逃してはならないと進言されるも怖気づいて挟撃作戦に参加しなかったのです。因みに紀尾井坂の事件を起こした長さんは加賀藩能登 田鶴浜から北前船に乗り次いで加賀から薩摩に二度渡り実際に桐野利秋邸宅に住まわせてもらい西郷南洲翁から直に学びを受けています。長さんは二度、薩摩に渡り私学校の学徒らとも交流していたため加賀藩と薩軍による新政府軍との挟撃作戦を立ち上げる事が出来たのです。それを長さんが斉泰公が受け共に慶寧公に進言するも怖気づいて作戦を潰したのが慶寧公なのであります。西南戦争の結果は我々が教科書で知っている内容より酷く大久保の勧業博覧会の購入した戦艦の砲撃の試射会により北から南からと二度、三度と鹿児島城、城山をボロボロの蜂の巣にして新政府軍の薩軍大虐殺の勝利で幕を閉じてしまいました。その後、大久保に意を唱える同郷で武闘派政治結社 三光寺派の島田らと島根県士族と共に起こしたのが紀尾井坂の事件です。彼らは直ぐに捕まり数日間の裁判と勾留後、市ヶ谷の処刑場で処刑されましたが後悔は無いと亡くなって行きました。彼らの行動は後に石川県士族の心を奮い立たせ更に後に起こるのがかつて大久保利通の元で働いていた農林大臣が石川県知事にされていた直ぐに起きた暗殺事件なのです。学校の教科書やTVドラマにはなりませんしなりにくいでしょう。また、ドラマはドラマで史実では無いです。よく調べていますが加賀藩の事は間違っていれば今回の様に反論します。
すごい顛末ですね!
福知山藩をお願い致します。幕末の譜代はほぼ語られないので是非
高松藩 久保田藩 岸和田藩をお願いします
確かここが迷走したのは藩主の息子は尊皇派で、藩主が日和見的佐幕派だったんですよね・・・・。で、一次長州征伐の余波で、息子の側近たちが大粛清されてみたいな話だった記憶がありますが・・・・。鳥羽伏見にはぎりぎり間に合ったんで、福岡藩みたく偽札(太政官札だったかな)作って(でもどこの藩もそうやって戦費調達してたんですけどね)滅藩処分にはならなかったっていう結末
芸州藩やって欲しいです
どちらに付くのか正解が判らないからこそ即判断を下せるのが優秀な人物なんだけど、やはり難しかったかな。優柔不断で日和見主義の人は結局誰からも信頼されることない。
戦国から江戸初期にかけて前田利家、利長、利常らが上手く時勢に乗って前田家(加賀藩)の地位を確固たるものにしたのとは正反対ですね。
秀吉が死に、前田利家だけが家康に対抗できる盟友だったのに、すぐに死去。家康は跡継ぎ利長に、母(利家の妻)を人質に差し出すように強要。利長はストレスからか早世し、あとを継いだ弟の利常は、どうせ徳川には逆らえないから、自ら鼻毛を伸ばし、反抗心など捨て、国を挙げて阿呆の振りをしようと、文化の発展に務めたとか。北の京・金沢の繁栄は、そんなところにあるとか。夏には立山の氷を早飛脚で献上したとか。そんな努力も、盟主様が健在だからこそ意味があるわけで。アメリカの外様大名である日本は、こんな歴史から学ばなくてはなりません!
おもしろいです。斉泰は女遊び人だからね。ついでに争いごと嫌い。でも前田家らしい気質。ただドラマなどでも全く出て来ないのが(笑) 因みに斉泰さんの前世は??だからね。ヒントは「能」繋がり。元恋人の後を継いだんだよね。あと、確かこの時代、北陸が一番人口が多かったはず、そうゆう意味でも、本当に立場が別格だったと思う。
逃げ上手の若君(ボソッ)
幕末の藩の話、マジで知らないことだらけでよくわかりました❗奈良県民なので、天誅組もいつかやっえくれると嬉しいです笑
加賀藩潰れるだ生き残ったと思った
加賀藩 加賀 能登 越中合わせ100萬石
「あしやドーマン」出版。三重県立、石川県立図書館等に蔵書。
斉泰と慶寧は時勢を見るのが下手だったんですね。方針をコロコロ変えるような人(藩)は信用されないのは当たり前ですな。なんか小早川秀秋を見ているよう。
小早川家は最初から徳川に下っていた、というのが最近の説ですね。気の毒なのは当主秀秋。秀吉方の血縁押し付けで五大老小早川家を継がされ、特に才覚もないのに、高校生の歳で大軍の大将に仕立てられましたから、まあ気の毒です。戦後、すぐにアル中で死んでしまいました。
小早川秀秋…なんと!彼は12歳でアルコール依存症になったようですね 12歳だと、現在で言えば小学6年生です 戦国時代、現在とは時代背景が違いますが、何が彼をその様にさせたのか?可哀想な気もしますね
藩主の計算高さが裏目に出てしまったという事でしょうかね。暴力を用いる対象とタイミングが的外れすぎてて後世から見ると滑稽に映ってしまいますが、現在を見渡すと笑えませんね…。
なりやすの父が暗君
小川幸三先生も粛正
加賀って賤ヶ岳も関ヶ原もどっちつかずでコロコロしてるイメージ
とても面白い切り口の動画でした。確かに、加賀百万石の大藩が、明治政府でほとんど人材を出していないのは、不思議ですよね。なるほど、こういう歴史的経緯があったんですね。最後にミスター武士道さんも語られているように、後の世から見れば簡単な選択も、当時刻々と変化する情勢を見つつ決定するのは、至難の業でしたでしょうね。この幕末解説、佐賀藩も、とても面白かったです。
とても為になりました😊
曽祖父が北海道へ開拓使として来たと聞いていたのですが、苗字が珍しくルーツが加賀藩にあると調べてわかって来たので興味を持ちました。
先祖もかつてはこれだけ凄かった加賀百万石、越中国の侍だったと思うと胸熱です。
米以外の石が結構高かったのが加賀藩で、幕末 新川木綿を松本に売ってそれが日本一クラスの商いになっていたのが明治になって まるごとその商いが成立しなくなったのも大きい。
幕末の表舞台にあまり出てこない人達の幕末のお話は新鮮で非常に興味深かつたです!
気にもしていなかった幕末期の前田家のお話😑ためになりました。ありがとうございます。
これは面白かったです!
興味深い話しでした! 他の藩の話しもお願いします🙇♀️
伊東潤さんの西郷の首も加賀藩の話で面白かったです
石川県民なので嬉しいです
御三家筆頭の尾張藩の幕末の動きも是非やって欲しいです!
御三家の附家老が幕末で大名になるのも扱って欲しいですね。犬山城で有名な成瀬氏も幕末にやっと尾張藩の家老から大名になれましたし。
@@historywatcher5420 ただし幕末に大名になったから爵位は子爵では無く男爵だった。しかも、加賀藩の大名並みの石高の重臣も男爵になった。
@@yh6146 成瀬正肥は最終的には子爵になったようです。明治24年からですが。
司馬遼太郎の幕末物の小説で時々名前が上がっていた、芸州藩の辻将曹に関する解説を聴いてみたいです。
よろしくお願いします。
戊辰戦争において慶喜が謹慎し、その後会津も恭順の姿勢を示したのに「振り上げたこぶしを降ろす先」にされてしまい、新政府軍は北越、会津戦争へと進んでいきますよね。
最終的に会津が降伏するまでに多くの藩が新政府軍にどのような対応を示していったのか知りたいので、会津までの道順というか時系列順でもよいのですが、関東から会津までの諸藩の動揺や苦悩などが知りたいです。 宜しくお願いします。
前田利家や加賀100万石ってのはよく聞くのに、その後は??・・・て思っていたので、勉強になりました。
昨日までの常識がすぐに非常識になる日常だったんでしょうね。現代でさえ新型コロナの対応策で揉めた経緯を見ていると、最適解を選ぶ難しさが良くわかります。
ましてや、国政で方針を決めるとなると様子見してから考えようと思うのもわかる。そして、時代は時間の猶予が全くなくて切羽詰まると過激な方向に走ってしまうという教訓だったと思います。
『金持ちが必ずしも成功するわけではない』一つの例ですね
幕末の藩の動き解説イイネ!!これは面白い!
福岡藩黒田家をお願いします。
50万石の大藩で、しかも藩主は島津からの養子で開明派。商都博多を抱えて、藩内には尊王志士が大勢いましたが、藩主の心変わりで佐幕に傾き、尊王志士は処罰されて、力を失いました。
黒田藩の離れ小島に高杉晋作を匿ったのは野村望東尼です。
この土地と元藩士は明治以降の活動も面白いですね。玄洋社…。
「早すぎる・・・早すぎるのだ。時代の流れが、あまりにも・・・」
日本テレビで放送された年末時代劇「白虎隊」の中で、松平容保が発した言葉です。江戸時代から明治時代への流れの速さが、多くの大名たちの運命を変えていきました。
そしてその流れについていけず、消えていく藩も多かったのですね。
分かりやすい!しかも部活でやってるとこだ
何で幕府が350年もの間加賀藩を警戒してたかと言うと
最高の石高を持ってる外様大名が反旗を翻したら他の外様大名もドミノみたいに次々と裏切って結束させない為ですよね?
殿様の資質というよりは、加賀藩の仕組みが弱みになった感じがしますね。
加賀藩は改作法の施行で革新的な支配体制を確立し、主に中級藩士が就く算用方という公務員勢力が非常に強い権限を持っていました。
彼らは何も起こらないことが第一ですから、藩として天下に何かを為そうという雰囲気が生まれないのです。
これは他藩にはない状況で、能力のある重臣が藩をまとめられない弱みを産んでしまいました。
しかし加賀藩が大藩のまま江戸時代を乗り切った原動力は算用方という仕組みの賜物であるので、いか仕方ないことかと思います。
前田家は明治には侯爵になってますよね!政府には関わらなかったけど、東大の赤門や駒場公園の前田家本邸等、さすが百万石。栄華が偲ばれます。
でも加賀藩だけで無く御三家と年貢収入15万石以上は全て侯爵になっている。まあ、領地を減らされた仙台藩は伯爵で会津藩は子爵だったけど。
長州藩は先代藩主の正室が11代将軍家斉の娘で佐賀藩は藩主直正の正室が家斉の娘だった。でもどちらも早死にして幕末にはいなかった。でも前田家は斉泰の正室の家斉の娘が慶応4年まで存命していた。将軍の姫君が輿入れの際には幕府から御付きの家臣や女中も派遣される。だから、他の大名と違い幕府に逆らう態度が取れなかったのでは?
なんにしても、姫君たちの薄命が悲しい。
しかも斉泰の正室の母親がお美代の方…
個人的にはペリー来航の直前位に豪商の銭屋五兵衛を獄中死させてるのも痛いと思います。
利聡い銭五さんが健在だったら「利の嗅覚」でよい方向が判ったんじゃ無いかなぁ…と妄想してみたり…w
会津藩のこともやってほしいです!
江戸時代は幕府に逆らわない事無かれ主義で生き延びて、動乱の幕末時代は優柔不断で何も決められず何の活躍も出来ずに終わった加賀藩。県民性というのがあるならば、石川県民はそういう県民性だろうな。
「加賀乞食」の典型例な前田家の幕末
周辺の藩をピックアップ(^ ^) 👍
姫路藩、と言うか、なぜ姫路が県庁所在地にならなかったか?の経緯を知りたいです。
広島、岡山、姫路、大阪と、バランスよく決まっていたのに。広くて街道も👌風格ある街なのに。
佐幕の中の佐幕。藩主が明治政府の薩摩と揉めたから、とか。
ワクチン接種後、早く回復されますように🙏
大久保利通を暗殺した紀尾井坂の事件を起こした首謀者は旧加賀藩の家臣、長と島田でした。
島田は加賀藩の一隊として長州征伐に参加してます。
なので申し訳ありませんが実際には加賀藩は長州征伐に参加してます。
前田斉泰公は考え違いをするような方ではなく、幕末期の前田家当主の中では前田利家公以来の革命家でした。
前田家を変える為にお金を財政が逼迫したため失脚しました。むしろ、慶寧公の方が考え違いが多く行動力や決断力も乏しかったのです。
そのため、西南戦争時に加賀藩と薩軍で新政府軍を挟みうちにするという長連豪らが立ち上げた旧加賀藩の政治結社 忠告社にこのタイミングを逃してはならないと進言されるも怖気づいて挟撃作戦に参加しなかったのです。
因みに紀尾井坂の事件を起こした長さんは加賀藩能登 田鶴浜から北前船に乗り次いで加賀から薩摩に二度渡り実際に桐野利秋邸宅に住まわせてもらい西郷南洲翁から直に学びを受けています。
長さんは二度、薩摩に渡り私学校の学徒らとも交流していたため加賀藩と薩軍による新政府軍との挟撃作戦を立ち上げる事が出来たのです。
それを長さんが斉泰公が受け共に慶寧公に進言するも怖気づいて作戦を潰したのが慶寧公なのであります。
西南戦争の結果は我々が教科書で知っている内容より酷く大久保の勧業博覧会の購入した戦艦の砲撃の試射会により北から南からと二度、三度と鹿児島城、城山をボロボロの蜂の巣にして新政府軍の薩軍大虐殺の勝利で幕を閉じてしまいました。
その後、大久保に意を唱える同郷で武闘派政治結社 三光寺派の島田らと島根県士族と共に起こしたのが紀尾井坂の事件です。
彼らは直ぐに捕まり数日間の裁判と勾留後、市ヶ谷の処刑場で処刑されましたが
後悔は無いと亡くなって行きました。
彼らの行動は後に石川県士族の心を奮い立たせ更に後に起こるのがかつて大久保利通の元で働いていた農林大臣が石川県知事にされていた直ぐに起きた暗殺事件なのです。
学校の教科書やTVドラマにはなりませんしなりにくいでしょう。
また、ドラマはドラマで史実では無いです。
よく調べていますが加賀藩の事は間違っていれば今回の様に反論します。
すごい顛末ですね!
福知山藩をお願い致します。幕末の譜代はほぼ語られないので是非
高松藩 久保田藩 岸和田藩をお願いします
確かここが迷走したのは藩主の息子は尊皇派で、藩主が日和見的佐幕派だったんですよね・・・・。で、一次長州征伐の余波で、息子の側近たちが大粛清されてみたいな話だった記憶がありますが・・・・。鳥羽伏見にはぎりぎり間に合ったんで、福岡藩みたく偽札(太政官札だったかな)作って(でもどこの藩もそうやって戦費調達してたんですけどね)滅藩処分にはならなかったっていう結末
芸州藩やって欲しいです
どちらに付くのか正解が判らないからこそ即判断を下せるのが優秀な人物なんだけど、やはり難しかったかな。優柔不断で日和見主義の人は結局誰からも信頼されることない。
戦国から江戸初期にかけて前田利家、利長、利常らが
上手く時勢に乗って前田家(加賀藩)の地位を確固たるものにしたのとは正反対ですね。
秀吉が死に、前田利家だけが家康に対抗できる盟友だったのに、すぐに死去。
家康は跡継ぎ利長に、母(利家の妻)を人質に差し出すように強要。
利長はストレスからか早世し、あとを継いだ弟の利常は、どうせ徳川には逆らえないから、自ら鼻毛を伸ばし、反抗心など捨て、国を挙げて阿呆の振りをしようと、文化の発展に務めたとか。
北の京・金沢の繁栄は、そんなところにあるとか。
夏には立山の氷を早飛脚で献上したとか。
そんな努力も、盟主様が健在だからこそ意味があるわけで。
アメリカの外様大名である日本は、こんな歴史から学ばなくてはなりません!
おもしろいです。斉泰は女遊び人だからね。ついでに争いごと嫌い。でも前田家らしい気質。ただドラマなどでも全く出て来ないのが(笑) 因みに斉泰さんの前世は??だからね。ヒントは「能」繋がり。元恋人の後を継いだんだよね。
あと、確かこの時代、北陸が一番人口が多かったはず、そうゆう意味でも、本当に立場が別格だったと思う。
逃げ上手の若君(ボソッ)
幕末の藩の話、マジで知らないことだらけでよくわかりました❗
奈良県民なので、天誅組もいつかやっえくれると嬉しいです笑
加賀藩潰れるだ生き残ったと思った
加賀藩 加賀 能登 越中合わせ100萬石
「あしやドーマン」出版。三重県立、石川県立図書館等に蔵書。
斉泰と慶寧は時勢を見るのが下手だったんですね。
方針をコロコロ変えるような人(藩)は信用されないのは当たり前ですな。なんか小早川秀秋を見ているよう。
小早川家は最初から徳川に下っていた、というのが最近の説ですね。
気の毒なのは当主秀秋。秀吉方の血縁押し付けで五大老小早川家を継がされ、特に才覚もないのに、高校生の歳で大軍の大将に仕立てられましたから、まあ気の毒です。
戦後、すぐにアル中で死んでしまいました。
小早川秀秋…なんと!彼は12歳でアルコール依存症になったようですね 12歳だと、現在で言えば小学6年生です 戦国時代、現在とは時代背景が違いますが、何が彼をその様にさせたのか?可哀想な気もしますね
藩主の計算高さが裏目に出てしまったという事でしょうかね。
暴力を用いる対象とタイミングが的外れすぎてて後世から見ると滑稽に映ってしまいますが、現在を見渡すと笑えませんね…。
なりやすの父が暗君
小川幸三先生も粛正
加賀って賤ヶ岳も関ヶ原もどっちつかずでコロコロしてるイメージ