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藤堂家はほんと時勢を読むのが上手いよな。
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
鳥羽伏見の戦いって、一週間近く戦っているんですよね。差は一言でいうと薩摩政治力なんでしょう。津藩も事前に幕府の味方が来るとの約束で山崎付近に配備されてたらしいのですが、幕府方からなんの連絡がなかったとのこと。シャスポー銃は実際に1500挺くらいあったらしいですね。最初の二日間は真面目に戦ったのは薩長だけで、土佐藩なんかは会津が竹田街道に通じる道で、出会っても抜け道を案内したり、慶喜が江戸に帰ったあとも会津藩の本営に使者を使わして、幕府方に味方出来ないか探っていたようです。土佐藩他の日和見が興味深いです。
@べリヤ 二川や北村の話はwikiにはでてますよね。私が言っている土佐藩の悪あがきは野口武彦氏の鳥羽伏見の戦いで「土佐勤王史」ででてきます。wikiに出てくるこの話は詳細で宜しければ出典をご教示頂けませんか?私も是非読みたいです。
@べリヤ 実際には少し参加して、数名負傷者を出した程度らしいですね。要は土佐藩のアリバイづくりかと。意外に鳥取藩とか岡山藩が早期から薩長に味方しているようです。
@べリヤ 史実とはなんぞや?と思うと楽しいですよね。当時の人々はなにを考えていたのか?尊王なら自死してもいいのかと?ただ多くは薩長なのか?一会桑に与するのか悩んでいたと思います。それが土佐藩であり、土佐勤王党、後藤象二郎の与党派、板垣退助派などの土佐藩も面白いです。恐らく土佐藩は鳥羽伏見ではどっちにころんでもいいようにしてたんだと私は思ってます。
@べリヤ 今ある資料では薩長と土佐では大きく差がありますね。薩長は後戻り出来ない、土佐は両天秤。上士でありながら、板垣、谷等の行動で3番目に入り込めたのだと私は思います。だから、明治以降在野に走り、自由民権運動をせざるを得なかったのだと思いますよ。
知らなかったことなどを知ることができてとても勉強になりました。動画投稿お疲れ様です!
面白かった!関ヶ原の戦いを時系列で描くドラマはよくあるけど、鳥羽伏見の戦いも見てみたい!
鳥羽伏見の戦いと言うと「新撰組!」のげんさんの戦死を思いだし辛くなるのは私だけかな?もう、全て新政府軍の手中にありますね。
周平..周平は?ヨカッタ近藤先生に...こん、どう先生ニ...
譜代藩筆頭の彦根藩が寝返った様子を見た淀藩と津藩は旧幕府軍に勝ち目が無い事を予測していた頃、新政府軍側に『錦の御旗』が掲上された様子を望見した淀藩の国家老が城門を閉め、開門を要求する旧幕府軍に向かって楼門上から鉄砲を撃ちかけた事を知った津藩は前日に新政府軍側の公卿の訪問と説得を受け、山崎砲台から旧幕府軍を砲撃する事を約束してしまった。大阪城へ逃げ帰った旧幕府軍だが前日夜に松平容保等、徳川方大名と一緒に裏門から逃亡済み。
会津戦争についても、解説動画お願いします!
私も同じ意見です 1986年年末放送の『白虎隊』見ましたが、本当に可哀想で、涙が溢れました あの戦いでは、まだまだ子供である二本松少年隊も戦に参加したから尚更😢😢😢でした 中野竹子さん、女性の身でありながら勇気があるな!と思いました
京都と大阪をつなぐ鳥羽・伏見に山崎と近い場所が歴史のターニングポイントになっているのが興味深い。京都の東側も不和関が壬申の乱と関ヶ原の戦いでほぼ一致している。
初めまして。鳥羽伏見の戦いの説明が面白かったです。やはり勝敗を分けたのは錦の御旗の存在でしょうね。旧幕府軍は錦の御旗が付いていると思って戦ってましたし、錦の御旗が戦場で錦の御旗が薩長に翻り現場は大混乱に陥りましたからね。その報を聞いた慶喜はいそいで大坂城を出ました。最高司令官が一夜に居なくなり、残兵達が淀君に入りますがまさかの裏切りで城に入れず、何とか大坂城にたどり着き旧幕府艦隊が収容して江戸に帰り鳥羽伏見の戦いが終結しましたね、、、すべては岩倉具視がねつ造した錦の御旗の存在でしたね。錦の御旗は当時誰も見たこと無かったのですから(笑)
錦の御旗はチートアイテムや
何かのゲームで最後の切り札でありそう
とっても勉強になりましたいつも、さらっと終わってしまう鳥羽伏見の戦いがこんな深いものとは知りませんでした。それにしても、慶喜って人は理解しにくい方ですね😅
この戦いに出てくる地名って、京阪本線の地名ばっかりです。
淀城かぁ…ご先祖様に淀城から落ち延びてきた女官が居るって母から聞いたことあるのだが、何か感慨深い。
鳥羽の戦いの時、竹田街道が薩長兵がいなく京都への道が空いていたけど、旧幕府側に指揮者がいなく京都への道を進軍する、絶好のチャンスを逃した😢想定外の戦いだったので、何も戦略と戦術を考えて居なかった事が、解る😔
もし、この戦いで旧幕府軍が勝っていたらどうなっていたのでしょうか?(質問)
慶喜が新政府の要職について、明治維新後の薩長に藩閥政治はなくなり、明治政府も徳川家が主導していたかもしれません。(薩長が滅ぼされていた可能性もある)
薩長という敵がいても一枚岩になれなかった幕府が薩長という難敵をあの段階であっさり排除出来ちゃったらそれこそ見るに耐えない足の引っ張り合いが起きる未来しか見えない慶喜の構想がいくら先進的でもそれを理解出来てるのって結局極僅かな側近だけだから幕臣にだって有能な人間はいるといってもそういう連中でさえあくまでも幕府という政体に義理立てしてるのであって慶喜個人を支持してる訳じゃない幕府という政権の負の遺産を切り捨てたり新たな政体を構築するのに忍耐や粘り強さに欠ける慶喜がどこまで出来るかは未知数
誰から聞いたか忘れましたが、慶喜は「幕府VS薩長の全面戦争→欧米列強のどこかに漁夫られる」のシナリオを避けたっていう説があって、それだと彼の行動には一応説明がつくのかなと思いました。
ブラボー武士道先生!鳥羽・伏見の戦いは薩長因備軍と幕府軍の戦いでしたね🙇
政府軍の策略とはいっても通るなて言ってるのに通ろうとしたら攻撃されても何も文句言えませんわな慶喜さんもそんな演説して逃亡て・・・
何故、徳川慶喜は会津藩・桑名藩を警護の為に先発させたのか?一橋藩だけで上洛出来なかったのでしょうか??
慶喜が先発させたというよりは、会桑、それから滝川ら幕臣たちの「薩摩憎し」の感情が強すぎて止めることができなかった。というほうが近い感じがします。
@@sengokubanashi 返信ありがとうございます(^_^)會・桑と幕臣達では慶喜といえど止められませんよね(^^;)一橋家来と慶喜でも、薩摩は同じ様に京都に入れなかったのでしょうか??ご教授お願いします(^_^)
@@たかにゃん-r7z このタイミングでは通さないでしょうね。新政府が落ち着いて、慶喜を迎え入れる万全の状態になるまでは。だから慶喜の勝つにはみんなで待つしかなかったのです。
@@sengokubanashi どちらにしても衝突は時期尚早だったんですね(^^;)慶喜迎え入れ万全の状態には島津久光公が鍵ですが、久光公は西郷達倒幕を抑える事が出来たと思いますでしょうか?
錦の御旗って今も現存してるんでしょうか、、?
うちの押し入れになかったかな?
こんばんは!『錦の御旗』…私も気になったので調べて見ました 福島県伊達市霊山町の『霊山神社』に保管してあるとの事です 『錦の御旗現存場所』を検索すれば、詳細が解ります
@@島津つむぎ ありがとうございます
大村益次郎のナポレオン式散兵戦術が一枚上。ハードは幕府の勝ち、ソフトは薩長の勝ち。
とある二人がとある偽公家に依頼なさった錦の御旗
失敗の原因①情報不足②おごり③思い込み林修先生のお言葉
髪型と着物替わりましたね。イメチェンですね。
旧幕府軍は打倒薩摩、やる気満々で出陣したのではないのか?目の前に憎き敵兵がいるのに銃に弾を込めないとは油断しすぎじゃないですかね
♪宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのは何じゃいな、トコトンヤレトンヤレナ。あれは朝敵、征伐せよとの錦の美旗じゃ知らないか。トコトンヤレトンヤレナ。
動画にもあるけど、薩長も戊辰戦争を通じて使用してたのは前装式銃だったらしい。後装式は5%ほどだったとか。鳥羽伏見の死者は旧幕府軍で200人(内会津が100人)、薩長が100人。惨敗というよりは勝手に退いたってのが正しいのかも。
ただしこの時は伝習隊と幕府歩兵二大隊はフランス式装備だったらしい。
こんばんは!武士道さん『鳥羽・伏見の戦い』の解説、有り難う御座います 今回の説明で、よく理解できました 私は、『錦の御旗』の効果、絶大だなと思いました旧幕府軍、新政府軍供に使用している武器は、そんなに変わらない訳ですよね 兵の数は…旧幕府軍15000 新政府軍5000旧幕府軍の方が多いから有利なはずなんですが… 『錦の御旗』を使った新政府軍、抜け目はないですよね 『錦の御旗』が無ければ、旧幕府軍が勝っていたかも~と思うのです徳川慶喜、旧幕府軍へ徹底抗戦を説いていたけど…僅かな側近、松平容保らと供に夜、城を抜け出し、船で逃げた事は??? 確かに理解出来ませんよね今回の動画は、当時の銃の扱い方、身振り手振りで解説してくださったから解りやすいでした
錦の御旗ってあんなん知らんわいって感じで言うほど影響なかったと思う
何か実際には戦場には翻ってないとか言う話も。
伏見に住んでいますが千本通の近くに、たくさんの慰霊碑がありますよ夏の夜に千本通沿いの住宅地に行くと雰囲気が違って冷たく感じます
武器の威力差、彦根藩、大垣藩、藤堂藩の寝返り恭順、會津藩と桑名藩、新撰組と見廻組による淀藩の加勢取り付けを淀藩が拒否
家康の遺言で徳川家の戦いでは先手藤堂家、二番は井伊家とせよの制度となったが鳥羽伏見ではその通り出陣したのが興味深い桑名藩では立見尚文が活躍後に戊辰戦争、西南戦争、日露戦争で活躍して常勝将軍と言われた西南戦争では西郷どんを討ち取ったのは皮肉な巡り会い
この鳥羽・伏見の戦いがわかりにくい理由に慶喜がその後この件について何も語っていない事がありますが、「青天」のガイドブックでは今後その事も語られるようです。栄一は撤退した理由を問いただしますが、慶喜は「それは今後も誰にも話す事は無い。」と断るらしいです。
シャスポー銃、一言で言えばスペンセル銃やスナイドル銃と互角の威力らしい。
なんか既視感あると思ったらカカロニ栗谷だ
大阪湾に駐留してたイギリス艦隊と、大阪市内に休養と称して、250人ぐらいのイギリス兵が宿泊プランしてたらしい。当時は大阪城からも大阪湾が見えた。イギリス軍はもし薩長が劣勢になったら、宿泊してる兵が襲われたと言って報復する体で薩長を支援攻撃する予定だったらしい。その情報を知った慶喜は「勝ってもイギリスとの戦争に拡大して、植民地は確定する。この戦、負けるしか得策が無い。」って事で逃げて、戦後処理の準備に走ったらしい。
そんなマヌケな始まり方だったのね。
錦の御旗……やはり先に押さえておくべきだったよねぇ…?信じてくれてたらね…藤堂藩も味方に出来たろぅに(遠い目) by.孝明天皇墓守(御陵衛士)
慶喜の「退くな、死ぬ気で奮戦しろ」と言いながら本人はこっそり船で逃げかえっているのが印象を悪くしているんだよな。せめてカッコいいこと言わないでいたらもっと評価も変わるんだろうけどさ。
小早川秀秋の裏切りで天下を取った徳川が、徳川慶喜の裏切りで天下を失うとは歴史の皮肉だね。
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
藤堂藩、先に敗残兵が最初に着いたのが、不味かったし、遅れた援軍に問題はですね。
Readerの差 幕府は既に失く 島津毛利対徳川の私闘 徳川軍に裏切りが出て、錦の御旗効果で徳川が敗走すると 島津毛利軍は官軍になった 慶喜逃走により勝敗は着いた 徳川軍総大将が戦場にいなかったのも大きい
淀・藤堂の新政府への恭順で譜代筆頭の井伊家も新政府へ恭順しているのが本当に悲しい。そもそもいくつも京都へ入京するルートがあるのに鳥羽街道と伏見街道のみで上洛をしようとするあたりが本当に爪が甘い。
井伊家の場合は、直弼が暗殺された桜田門外の変以降、「やはり、大老はやり過ぎた」と幕府から領地減封喰らったりした経緯もあって、少なからず幕府に思うところはあったのでしょう。
彦根藩は桜田門外の変後の処分について幕府に遺恨ありまくりだろ藤堂は知らんけど笑
鳥羽伏見の戦いは大阪湾に外国の艦隊が30隻いて艦砲射撃の準備をしていたようです。それをみて徳川将軍が撤退したそうです。藤堂家などもそれは知っていたのでしょうね
よしのぶマジで草まぁ頭のキレる人というから、保身だけでなく色んな事情があるんだろうけど。とはいえあれだけ啖呵きっといて自分だけ退散はないだろ。おもろすぎる。関ヶ原といい、鳥羽伏見といい、日本の歴史は今ひとつ盛り上がりに欠けるよな。正々堂々やりあってほしいわ😅
そもそも錦の御旗って本物ですか?偽物とか、又は最初から存在していなくて、でっち上げて作ったとも考えられますよね。
自分元新撰組一番隊員で、鳥羽伏見から会津まで参戦しました。完全に鳥羽伏見で流れを持ってかれましたね。人数は圧倒的にこっちにはいましたが、後ろの方でグダついてました.多数やる気がなかったです
敗因は意思統一心の準備ができていなかった。薩摩は窮鼠猫を嚙む。錦の御旗で勝っちゃった。
関ヶ原の戦いの小早川秀秋が、鳥羽・伏見の戦いの徳川慶喜とは、歴史の皮肉。
どゆこと
全然違うくね?
どっちかと言うと慶喜=輝元だね
慶喜の演説はなんなんだろう??鳥羽、伏見の戦いの責任者がダメでしたね。戦う予定がなかったかもしれないが、完全なる人選ミスですね。
私は伏見出身です!鳥羽街道付近は湿地帯で、街道を外れてしまうと沼地になり腰までずぶずぶと、はまって、しまい、動きが取れません!戦国時代九州、島原の沖田畷の戦いで龍造寺の大軍に勝った島津軍、薩摩はこれを参考にし、1万5千人の幕府軍にわずか5千人で立ち向かいます、薩摩軍の大砲の砲弾は着弾すると破裂し、人を殺傷します!初めて、幕府軍は砲弾が炸裂し、血しぶきをあげ、戦死する様子を見て恐怖にかられます!幕府軍の大砲は鉄球で炸裂しません!ゴロゴロ転がる鉄球に、薩摩軍は笑いが止まりません、〈戦国時代がきた〉とあざ笑います!沼地に入り身動きが取れない幕府軍を薩摩軍は狙い撃ちされます!まさに戦国時代の島原、沖田畷の戦いの再現です、鳥羽、城南宮と敗れ、横大路沼で、沼地にはまり、集中砲火を浴び阿鼻叫喚の有様です、頼みの淀城は錦の御旗をかかげた薩摩軍、官軍に降参し、幕府軍は入れてくれません、恨みは深し、淀城敗走する、幕府軍、淀競馬付近は幕府軍の慰霊碑がたくさん有ります!官軍に追い詰められて、沼地ではまり集中射撃を浴び、バタバタ倒れ無念の戦死を遂げました、薩摩軍こと官軍は戦術を沖田畷の戦いに求めて、大成功します、まさに維新の夜明けです!
裏切りが二回起きてたんだ知らんかった会津藩、新撰組つえー
ききづらい
慶喜を「名君とかいう歴史家の意味が分かりません、自分から見ればサイテーの殿様・・気の毒は松平容保公と会津藩・・
いやむしろいい加減会津と松平容保を悲劇視する風潮こそ会津商工会でだけやってろって言いたくなる
@@丞相-p4g 悲劇だからこそ、会津は永遠・・会津武士道、白虎隊は永久不滅・・
@@駒形茂兵衛-y3d 藩内どころか、他の藩にまで行って蛮行を繰り返す。他の藩どころか領民にまで狩られ、会津世直し一揆まで起こされる。現在では、官軍と一緒に会津藩士狩ってた子孫が、お涙頂戴被害者ビジネス。会津武士道カッケーw
何故負けたか。戦術を幹部が理解していなかったのと竹中(半兵衛の子孫)等の作戦計画が硬直していたことだぬ。
藤堂家はほんと時勢を読むのが上手いよな。
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鳥羽伏見の戦いって、一週間近く戦っているんですよね。差は一言でいうと薩摩政治力なんでしょう。津藩も事前に幕府の味方が来るとの約束で山崎付近に配備されてたらしいのですが、
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最初の二日間は真面目に戦ったのは薩長だけで、土佐藩なんかは会津が竹田街道に通じる道で、出会っても抜け道を案内したり、慶喜が江戸に帰ったあとも会津藩の本営に使者を使わして、幕府方に味方出来ないか探っていたようです。土佐藩他の日和見が興味深いです。
@べリヤ
二川や北村の話はwikiにはでてますよね。私が言っている土佐藩の悪あがきは野口武彦氏の鳥羽伏見の戦いで「土佐勤王史」ででてきます。
wikiに出てくるこの話は詳細で宜しければ出典をご教示頂けませんか?私も是非読みたいです。
@べリヤ
実際には少し参加して、数名負傷者を出した程度らしいですね。要は土佐藩のアリバイづくりかと。意外に鳥取藩とか岡山藩が早期から薩長に味方しているようです。
@べリヤ
史実とはなんぞや?と思うと楽しいですよね。当時の人々はなにを考えていたのか?尊王なら自死してもいいのかと?ただ多くは薩長なのか?一会桑に与するのか悩んでいたと思います。
それが土佐藩であり、土佐勤王党、後藤象二郎の与党派、板垣退助派などの土佐藩も面白いです。恐らく土佐藩は鳥羽伏見ではどっちにころんでもいいようにしてたんだと私は思ってます。
@べリヤ
今ある資料では薩長と土佐では大きく差がありますね。薩長は後戻り出来ない、土佐は両天秤。上士でありながら、板垣、谷等の行動で3番目に入り込めたのだと私は思います。
だから、明治以降在野に走り、自由民権運動をせざるを得なかったのだと思いますよ。
知らなかったことなどを知ることができてとても勉強になりました。動画投稿お疲れ様です!
面白かった!
関ヶ原の戦いを時系列で描くドラマはよくあるけど、鳥羽伏見の戦いも見てみたい!
鳥羽伏見の戦いと言うと「新撰組!」のげんさんの戦死を思いだし辛くなるのは私だけかな?
もう、全て新政府軍の手中にありますね。
周平..周平は?ヨカッタ
近藤先生に...こん、どう先生ニ...
譜代藩筆頭の彦根藩が寝返った様子を見た淀藩と津藩は旧幕府軍に勝ち目が無い事を予測していた頃、新政府軍側に『錦の御旗』が掲上された様子を望見した淀藩の国家老が城門を閉め、開門を要求する旧幕府軍に向かって楼門上から鉄砲を撃ちかけた事を知った津藩は前日に新政府軍側の公卿の訪問と説得を受け、山崎砲台から旧幕府軍を砲撃する事を約束してしまった。
大阪城へ逃げ帰った旧幕府軍だが前日夜に松平容保等、徳川方大名と一緒に裏門から逃亡済み。
会津戦争についても、解説動画お願いします!
私も同じ意見です 1986年年末放送の『白虎隊』見ましたが、本当に可哀想で、涙が溢れました あの戦いでは、まだまだ子供である二本松少年隊も戦に参加したから尚更😢😢😢でした
中野竹子さん、女性の身でありながら勇気があるな!と思いました
京都と大阪をつなぐ鳥羽・伏見に山崎と近い場所が歴史のターニングポイントになっているのが興味深い。京都の東側も不和関が壬申の乱と関ヶ原の戦いでほぼ一致している。
初めまして。
鳥羽伏見の戦いの説明が
面白かったです。
やはり勝敗を分けたのは
錦の御旗の存在でしょうね。
旧幕府軍は錦の御旗が付いていると思って戦ってましたし、錦の御旗が戦場で
錦の御旗が薩長に翻り現場は大混乱に
陥りましたからね。その報を聞いた
慶喜はいそいで大坂城を出ました。
最高司令官が一夜に居なくなり、
残兵達が淀君に入りますがまさかの
裏切りで城に入れず、何とか大坂城に
たどり着き旧幕府艦隊が収容して
江戸に帰り鳥羽伏見の戦いが終結しましたね、、、すべては岩倉具視がねつ造した錦の御旗の存在でしたね。
錦の御旗は当時誰も見たこと無かったのですから(笑)
錦の御旗はチートアイテムや
何かのゲームで最後の切り札でありそう
とっても勉強になりました
いつも、さらっと終わってしまう鳥羽伏見の戦いがこんな深いものとは知りませんでした。
それにしても、慶喜って人は理解しにくい方ですね😅
この戦いに出てくる地名って、京阪本線の地名ばっかりです。
淀城かぁ…ご先祖様に淀城から落ち延びてきた女官が居るって母から聞いたことあるのだが、何か感慨深い。
鳥羽の戦いの時、竹田街道が薩長兵がいなく京都への道が空いていたけど、旧幕府側に指揮者がいなく京都への道を進軍する、絶好のチャンスを逃した😢想定外の戦いだったので、何も戦略と戦術を考えて居なかった事が、解る😔
もし、この戦いで旧幕府軍が勝っていたらどうなっていたのでしょうか?(質問)
慶喜が新政府の要職について、明治維新後の薩長に藩閥政治はなくなり、明治政府も徳川家が主導していたかもしれません。(薩長が滅ぼされていた可能性もある)
薩長という敵がいても一枚岩になれなかった幕府が薩長という難敵をあの段階であっさり排除出来ちゃったらそれこそ見るに耐えない足の引っ張り合いが起きる未来しか見えない
慶喜の構想がいくら先進的でもそれを理解出来てるのって結局極僅かな側近だけだから
幕臣にだって有能な人間はいるといってもそういう連中でさえあくまでも幕府という政体に義理立てしてるのであって慶喜個人を支持してる訳じゃない
幕府という政権の負の遺産を切り捨てたり新たな政体を構築するのに忍耐や粘り強さに欠ける慶喜がどこまで出来るかは未知数
誰から聞いたか忘れましたが、慶喜は「幕府VS薩長の全面戦争→欧米列強のどこかに漁夫られる」のシナリオを避けたっていう説があって、それだと彼の行動には一応説明がつくのかなと思いました。
ブラボー武士道先生!
鳥羽・伏見の戦いは薩長因備軍と幕府軍の戦いでしたね🙇
政府軍の策略とはいっても通るなて言ってるのに通ろうとしたら攻撃されても何も文句言えませんわな
慶喜さんもそんな演説して逃亡て・・・
何故、徳川慶喜は会津藩・桑名藩を警護の為に先発させたのか?一橋藩だけで上洛出来なかったのでしょうか??
慶喜が先発させたというよりは、会桑、それから滝川ら幕臣たちの「薩摩憎し」の感情が強すぎて止めることができなかった。というほうが近い感じがします。
@@sengokubanashi 返信ありがとうございます(^_^)
會・桑と幕臣達では慶喜といえど止められませんよね(^^;)
一橋家来と慶喜でも、薩摩は同じ様に京都に入れなかったのでしょうか??
ご教授お願いします(^_^)
@@たかにゃん-r7z このタイミングでは通さないでしょうね。新政府が落ち着いて、慶喜を迎え入れる万全の状態になるまでは。
だから慶喜の勝つにはみんなで待つしかなかったのです。
@@sengokubanashi どちらにしても衝突は時期尚早だったんですね(^^;)
慶喜迎え入れ万全の状態には島津久光公が鍵ですが、久光公は西郷達倒幕を抑える事が出来たと思いますでしょうか?
錦の御旗って今も現存してるんでしょうか、、?
うちの押し入れになかったかな?
こんばんは!『錦の御旗』…私も気になったので調べて見ました 福島県伊達市霊山町の『霊山神社』に保管してあるとの事です 『錦の御旗現存場所』を検索すれば、詳細が解ります
@@島津つむぎ ありがとうございます
大村益次郎のナポレオン式散兵戦術が一枚上。ハードは幕府の勝ち、ソフトは薩長の勝ち。
とある二人がとある偽公家に依頼なさった錦の御旗
失敗の原因
①情報不足
②おごり
③思い込み
林修先生のお言葉
髪型と着物替わりましたね。イメチェンですね。
旧幕府軍は打倒薩摩、やる気満々で出陣したのではないのか?
目の前に憎き敵兵がいるのに銃に弾を込めないとは油断しすぎじゃないですかね
♪宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのは何じゃいな、トコトンヤレトンヤレナ。
あれは朝敵、征伐せよとの錦の美旗じゃ知らないか。トコトンヤレトンヤレナ。
動画にもあるけど、薩長も戊辰戦争を通じて使用してたのは前装式銃だったらしい。後装式は5%ほどだったとか。
鳥羽伏見の死者は旧幕府軍で200人(内会津が100人)、薩長が100人。惨敗というよりは勝手に退いたってのが正しいのかも。
ただしこの時は伝習隊と幕府歩兵二大隊はフランス式装備だったらしい。
こんばんは!武士道さん
『鳥羽・伏見の戦い』の解説、有り難う御座います
今回の説明で、よく理解できました 私は、『錦の御旗』の効果、絶大だなと思いました
旧幕府軍、新政府軍供に使用している武器は、そんなに変わらない訳ですよね 兵の数は…旧幕府軍15000 新政府軍5000
旧幕府軍の方が多いから有利なはずなんですが… 『錦の御旗』を使った新政府軍、抜け目はないですよね 『錦の御旗』が無ければ、旧幕府軍が勝っていたかも~と思うのです
徳川慶喜、旧幕府軍へ徹底抗戦を説いていたけど…僅かな側近、松平容保らと供に夜、城を抜け出し、船で逃げた事は??? 確かに理解出来ませんよね
今回の動画は、当時の銃の扱い方、身振り手振りで解説してくださったから解りやすいでした
錦の御旗って
あんなん知らんわいって感じで
言うほど影響なかったと思う
何か実際には戦場には翻ってないとか言う話も。
伏見に住んでいますが千本通の近くに、たくさんの慰霊碑がありますよ
夏の夜に千本通沿いの住宅地に行くと雰囲気が違って冷たく感じます
武器の威力差、彦根藩、大垣藩、藤堂藩の寝返り恭順、會津藩と桑名藩、新撰組と見廻組による淀藩の加勢取り付けを淀藩が拒否
家康の遺言で徳川家の戦いでは
先手藤堂家、二番は井伊家とせよ
の制度となったが
鳥羽伏見ではその通り出陣したのが
興味深い
桑名藩では立見尚文が活躍
後に戊辰戦争、西南戦争、日露戦争
で活躍して常勝将軍と言われた
西南戦争では西郷どんを討ち取った
のは皮肉な巡り会い
この鳥羽・伏見の戦いがわかりにくい理由に慶喜がその後この件について何も語っていない事がありますが、「青天」のガイドブックでは今後その事も語られるようです。栄一は撤退した理由を問いただしますが、慶喜は「それは今後も誰にも話す事は無い。」と断るらしいです。
シャスポー銃、一言で言えばスペンセル銃やスナイドル銃と互角の威力らしい。
なんか既視感あると思ったらカカロニ栗谷だ
大阪湾に駐留してたイギリス艦隊と、大阪市内に休養と称して、250人ぐらいのイギリス兵が宿泊プランしてたらしい。
当時は大阪城からも大阪湾が見えた。
イギリス軍はもし薩長が劣勢になったら、宿泊してる兵が襲われたと言って報復する体で薩長を支援攻撃する予定だったらしい。
その情報を知った慶喜は「勝ってもイギリスとの戦争に拡大して、植民地は確定する。この戦、負けるしか得策が無い。」って事で逃げて、戦後処理の準備に走ったらしい。
そんなマヌケな始まり方だったのね。
錦の御旗……やはり先に押さえておくべきだったよねぇ…?信じてくれてたらね…藤堂藩も味方に出来たろぅに(遠い目)
by.孝明天皇墓守(御陵衛士)
慶喜の「退くな、死ぬ気で奮戦しろ」と言いながら本人はこっそり船で逃げかえっているのが印象を悪くしているんだよな。
せめてカッコいいこと言わないでいたらもっと評価も変わるんだろうけどさ。
小早川秀秋の裏切りで天下を取った徳川が、徳川慶喜の裏切りで天下を失うとは歴史の皮肉だね。
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藤堂藩、先に敗残兵が最初に着いたのが、不味かったし、遅れた援軍に問題はですね。
Readerの差 幕府は既に失く 島津毛利対徳川の私闘 徳川軍に裏切りが出て、錦の御旗効果で徳川が敗走すると 島津毛利軍は官軍になった 慶喜逃走により勝敗は着いた 徳川軍総大将が戦場にいなかったのも大きい
淀・藤堂の新政府への恭順で譜代筆頭の井伊家も新政府へ恭順しているのが本当に悲しい。
そもそもいくつも京都へ入京するルートがあるのに鳥羽街道と伏見街道のみで上洛をしようとするあたりが本当に爪が甘い。
井伊家の場合は、直弼が暗殺された桜田門外の変以降、「やはり、大老はやり過ぎた」と幕府から領地減封喰らったりした経緯もあって、少なからず幕府に思うところはあったのでしょう。
彦根藩は桜田門外の変後の処分について幕府に遺恨ありまくりだろ
藤堂は知らんけど笑
鳥羽伏見の戦いは大阪湾に外国の艦隊が30隻いて艦砲射撃の準備をしていたようです。それをみて徳川将軍が撤退したそうです。
藤堂家などもそれは知っていたのでしょうね
よしのぶマジで草
まぁ頭のキレる人というから、保身だけでなく色んな事情があるんだろうけど。とはいえあれだけ啖呵きっといて自分だけ退散はないだろ。おもろすぎる。
関ヶ原といい、鳥羽伏見といい、日本の歴史は今ひとつ盛り上がりに欠けるよな。正々堂々やりあってほしいわ😅
そもそも錦の御旗って本物ですか?
偽物とか、又は最初から存在していなくて、でっち上げて作ったとも考えられますよね。
自分元新撰組一番隊員で、鳥羽伏見から会津まで参戦しました。
完全に鳥羽伏見で流れを持ってかれましたね。
人数は圧倒的にこっちにはいましたが、後ろの方でグダついてました.
多数やる気がなかったです
敗因は意思統一心の準備ができていなかった。薩摩は窮鼠猫を嚙む。錦の御旗で勝っちゃった。
関ヶ原の戦いの小早川秀秋が、鳥羽・伏見の戦いの徳川慶喜とは、歴史の皮肉。
どゆこと
全然違うくね?
どっちかと言うと慶喜=輝元だね
慶喜の演説はなんなんだろう??
鳥羽、伏見の戦いの責任者がダメでしたね。
戦う予定がなかったかもしれないが、完全なる人選ミスですね。
私は伏見出身です!鳥羽街道付近は湿地帯で、街道を外れてしまうと沼地になり腰までずぶずぶと、はまって、しまい、動きが取れません!戦国時代九州、島原の沖田畷の戦いで龍造寺の大軍に勝った島津軍、薩摩はこれを参考にし、1万5千人の幕府軍にわずか5千人で立ち向かいます、薩摩軍の大砲の砲弾は着弾すると破裂し、人を殺傷します!初めて、幕府軍は砲弾が炸裂し、血しぶきをあげ、戦死する様子を見て恐怖にかられます!幕府軍の大砲は鉄球で炸裂しません!ゴロゴロ転がる鉄球に、薩摩軍は笑いが止まりません、〈戦国時代がきた〉とあざ笑います!沼地に入り身動きが取れない幕府軍を薩摩軍は狙い撃ちされます!まさに戦国時代の島原、沖田畷の戦いの再現です、鳥羽、城南宮と敗れ、横大路沼で、沼地にはまり、集中砲火を浴び阿鼻叫喚の有様です、頼みの淀城は錦の御旗をかかげた薩摩軍、官軍に降参し、幕府軍は入れてくれません、恨みは深し、淀城敗走する、幕府軍、淀競馬付近は幕府軍の慰霊碑がたくさん有ります!官軍に追い詰められて、沼地ではまり集中射撃を浴び、バタバタ倒れ無念の戦死を遂げました、薩摩軍こと官軍は戦術を沖田畷の戦いに求めて、大成功します、まさに維新の夜明けです!
裏切りが二回起きてたんだ知らんかった会津藩、新撰組つえー
ききづらい
慶喜を「名君とかいう歴史家の意味が分かりません、自分から見ればサイテーの殿様・・気の毒は松平容保公と会津藩・・
いやむしろいい加減会津と松平容保を悲劇視する風潮こそ会津商工会でだけやってろって言いたくなる
@@丞相-p4g
悲劇だからこそ、会津は永遠・・会津武士道、白虎隊は永久不滅・・
@@駒形茂兵衛-y3d 藩内どころか、他の藩にまで行って蛮行を繰り返す。
他の藩どころか領民にまで狩られ、会津世直し一揆まで起こされる。
現在では、官軍と一緒に会津藩士狩ってた子孫が、お涙頂戴被害者ビジネス。
会津武士道カッケーw
何故負けたか。戦術を幹部が理解していなかったのと竹中(半兵衛の子孫)等の作戦計画が硬直していたことだぬ。