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当時、夙川〜岡本間に取り残された5012F、70023Fや、御影〜王子公園間に搬入された8000系達は西宮市内の高架区間崩壊で車庫に戻れなくなりました。洗車も出来ず黄砂と雨で次第に車体が汚れてゆく中、頑張って走っていたのを覚えています。6月12日の朝、梅田駅の9号線から特急新開地行きのアナウンスが聞こえてきた時、思わず胸が熱くなった事を思い出します。当初数年かかると言われていた復旧が5ヶ月弱で全通出来たのは驚異的なことだと思います。当時の関係者の方々の並々ならぬ努力に敬意を表したいです。
梅田駅のラガールビジョンは西宮北口行きで埋め尽くされていましたものね。わたくしは、あの日、三宮駅の表示器で特急梅田と目にしたとき同じような感覚になりました。
震災当時は横浜在住で、川西の実家の様子を見に新幹線で帰りました。高槻あたりから、屋根を覆うビニールシートがあちこちに見られました。神戸にはGWに行きましたね。まだ阪急が全通前で、JRと阪神を乗り継ぎました。まだまだ瓦礫の山が点在してて、私も写真をいくらか撮りましたが、震災の凄まじさを思い知りました。日本の最優先の復興事業の迅速さは本当に驚かされました。神戸線も全通まで5ヶ月弱。今後は南海トラフが懸念されますが、被害がエゲつなくならないように祈るだけです。
当時横浜にご在住だったとのこと、不思議なご縁で今横浜に在住している私です。ご家族やお知り合いの方々を案じながらのご帰省だったのではないかと拝察いたします。地震に限らず、さまざまな天災人災にいつ何時遭遇するやもしれません。備えあれば憂いなしとは言うものの、なかなか備わっていない私の実情です。
たった5ヶ月で全線復旧とは、当時は驚異的に思いました。仕事の関係で震災数日後に西宮北口まで行き、西宮北口~夙川間の高架崩壊の現場と、甲東園の新幹線の高架橋落下の現場を実際に見て、どれだけの被害であったかを現実に感じましたので、より一層その思いが強かったです。復旧作業にあたられた工事関係者や電鉄関係者の方々には、本当に頭が下がります。
同じところに同じものを作り直すわけではなくて、より強固なものにしているはずでしょうから、より一層感銘を受けます。 当初は復旧の見込み立たずとか、数年はかかるなどと言われたなか、阪急のみならず他社も複数の被災箇所を同時進行で復旧するという至難の業に立ち向かい乗り越えるその不撓不屈の姿には勇気を得た人も多かったのではないかと思います。
当時の兵庫県警は列車を運ぶトレーラなどを緊急車両として優先的に国道などを通してくれたのも復興が早くできたことに繋がっていると思う。
当時御影駅で見た8000系の編成が宝塚線からそのようにして王子公園に運ばれたということを、私は完全復旧後発売されたドキュメントビデオで知りました。
「がんばろや! We love Kobe」のヘッドマーク、当時の阪急利用者の神戸市民がどれほど励まされたでしょう。
そう考えると2011年の東日本大震災で東北本線や東北新幹線が1ヶ月弱で復旧したのは、この経験を乗り越えた人たちが産み出した英知が生きていたからかもね。今の防災対策や災害時の迅速かつ的確な対応が出来るのも、元は過去の大災害を生き延びた先人達の英知なんだ。
2:31 阪急は被災しててもピカピカですね。当時は復旧に携わる人、そうでない人に関わらず、阪神地区の全ての皆さんが大変だったと思いますが、よく乗り越えられたなと、心から敬意を表明したいです。
阪神淡路の前にも後にも、国内海外各地で天災人災戦災に遭われた人がいます。社会的には闘病やいじめ貧困人生苦など、個人では耐えがたくともきっと同じ境遇の人がいるのでしょう。共に乗り越えるに越したことはありませんが、もちこたえる、ふみとどまる、もともともらった命なのだから謳歌したいなと思います。話が大きくなりすぎました。すみません
よくぞ8008Fの下枠交差式パンタグラフ姿を見て感動!今では考えれない見ることの無い表示板や表示幕も。
シングルアームのパンタグラフは震災後まもなく使われだしたように思います。8000系はまだよかったですが、5000系は正直似合っていないと当時思いました。
こうして見ると日本は災害復旧の速さは断トツ世界一ですね新設と違って解体撤去 部分復旧させながらで半年かからず完了ですから
阪神も6月26日、JR神戸線に至っては4月1日だったと記憶しております。市民の足、生活の大動脈とも言える鉄道が復旧してゆく様子を肌で感じて、私も頑張ろうと勇気をもらった人が多かったのではないかと思います。もちろん災害による復旧を断念し、廃線を選択せざるを得なかった路線も国内にはありますけれども、地元ともよく協議して検討を重ねた上での結論でしょうからそこに2本のレールがなくとも新たな形で生活路線は築かれて、人々の暮らしに利便をもたらす存在になってもらいたいと思います。
Oldman阪急です。阪神淡路大震災(1995年1月17日発生)における、阪急電車の被災と復旧記録をUpして下さって、ありがとうございます。☺️当方、当時は現業部門を離れていたので、直接、鉄道の復旧には携わりませんでしたが、社内各部門において非常な努力の中、工事を施工する業者さんも含めて一丸となって、復旧に邁進したと聴き及んでおります。そして、一番最後の復旧区間となった西宮北口〜夙川間の高架橋が、約半年後に再建されて再び電車が走りだした頃、沿線の幼稚園の子供さん達が『おかえりなさい、はんきゅうでんしゃ』と、迎えて下さったエピソードを今でも忘れることが出来ません。🥺🍀
@@Midori-Clover さん当時テレビで見る各地の被災状況はもとより、阪急線では伊丹駅や西宮北口ー夙川間の枕木ごと宙吊りになったレールの映像に言葉を失いました。全線開通に向け一歩ずつ着実に、点と点が線になって運行が再開する様子や傷ついた街並みの中をたくましく、進んでゆく電車の姿に力を得た人も多かったと思います。
@@KitayamataRailClub 「阪神大震災」では阪急阪神グループだけでなく、東急のゴルフ場が被災し、西武グループも「オリックス」の独走による西武球場の売上減で赤字を余儀無くされていました。
@@saskiyoshiakiさん「がんばろうKOBE」を合言葉に、リーグ優勝しましたね。売却元の阪急も三宮駅に「ブルーウェーブ優勝おめでとうございます」との立て看板を設置していました。改めて、身売りして手放してしまったんだなぁと思いました。
震災1週間後に大阪方面からはJRが住吉、阪神が御影まで復旧したので、阪急の復旧が遅い印象になりましたが、阪急は震災翌日に西宮北口まで開通させ、被災者の大阪方面への避難や、親類や知人を気遣う人々は初めの1週間は西宮以西には阪急しか交通手段がありませんでした。財布だけ持って着の身着のまま、汚れた衣服を着て被災地を出ようとする人々が何とか西宮北口駅に辿り着き、電車に乗り込み、逆に大きな荷物や中には工具も持つ人が西宮北口で降り立ち神戸方面に歩き出し、西宮北口駅は被災地の鉄道の最重要拠点になり、あの時の西宮北口駅の物々しい雰囲気は忘れられません。 神崎川からは時速70km以下程度、塚口付近から50km以下、旧武庫川橋梁は時速25km/hほどに減速し、運転室には保線作業員さん助役さん風の人も同乗し、武庫川橋梁を真剣に前方確認されていました。武庫川橋梁付近には、旗を持つ阪急社員さんが何人か橋梁を目視されていました。武庫川橋梁を渡り終えると何度も赤信号停止を繰り返しながら、西宮北口駅に入線しました。被災地に近付くにつれて速度が遅くなり、家々の被害の深刻度も増しました。震災翌日の西北までの復旧は鉄道会社の使命感の賜物でした。数日経過すると日中は急行と普通が12分間隔で西宮北口行きの臨時ダイヤなりました。阪急は住吉~岡本、西宮北口~夙川、春日野道~王子公園のアーチ型の橋、三宮~花隈のラーメン橋を本格的に作り直す、または徹底的に修理したのが非常に好印象で、阪急電鉄の堅実で誠実さが滲み出てました。洗車設備が無い部分復旧区間でもピカピカの車両を維持しているのもいいですね。阪神も年間収益の11ケ月分を掛けて西灘~御影間の高架を再建設ました。あれから28年も経過した事をしみじみと感じます。
当時、夙川〜岡本間に取り残された5012F、70023Fや、御影〜王子公園間に搬入された8000系達は西宮市内の高架区間崩壊で車庫に戻れなくなりました。洗車も出来ず黄砂と雨で次第に車体が汚れてゆく中、頑張って走っていたのを覚えています。6月12日の朝、梅田駅の9号線から特急新開地行きのアナウンスが聞こえてきた時、思わず胸が熱くなった事を思い出します。当初数年かかると言われていた復旧が5ヶ月弱で全通出来たのは驚異的なことだと思います。当時の関係者の方々の並々ならぬ努力に敬意を表したいです。
梅田駅のラガールビジョンは西宮北口行きで埋め尽くされていましたものね。わたくしは、あの日、三宮駅の表示器で特急梅田と目にしたとき同じような感覚になりました。
震災当時は横浜在住で、川西の実家の様子を見に新幹線で帰りました。高槻あたりから、屋根を覆うビニールシートがあちこちに見られました。
神戸にはGWに行きましたね。まだ阪急が全通前で、JRと阪神を乗り継ぎました。まだまだ瓦礫の山が点在してて、私も写真をいくらか撮りましたが、震災の凄まじさを思い知りました。
日本の最優先の復興事業の迅速さは本当に驚かされました。神戸線も全通まで5ヶ月弱。今後は南海トラフが懸念されますが、被害がエゲつなくならないように祈るだけです。
当時横浜にご在住だったとのこと、不思議なご縁で今横浜に在住している私です。
ご家族やお知り合いの方々を案じながらのご帰省だったのではないかと拝察いたします。
地震に限らず、さまざまな天災人災にいつ何時遭遇するやもしれません。備えあれば憂いなしとは言うものの、なかなか備わっていない私の実情です。
たった5ヶ月で全線復旧とは、当時は驚異的に思いました。
仕事の関係で震災数日後に西宮北口まで行き、西宮北口~夙川間の高架崩壊の現場と、
甲東園の新幹線の高架橋落下の現場を実際に見て、どれだけの被害であったかを現実に感じましたので、
より一層その思いが強かったです。
復旧作業にあたられた工事関係者や電鉄関係者の方々には、本当に頭が下がります。
同じところに同じものを作り直すわけではなくて、より強固なものにしているはずでしょうから、より一層感銘を受けます。
当初は復旧の見込み立たずとか、数年はかかるなどと言われたなか、阪急のみならず他社も複数の被災箇所を同時進行で復旧するという至難の業に立ち向かい乗り越えるその不撓不屈の姿には勇気を得た人も多かったのではないかと思います。
当時の兵庫県警は列車を運ぶトレーラなどを緊急車両として優先的に国道などを通してくれたのも復興が早くできたことに繋がっていると思う。
当時御影駅で見た8000系の編成が宝塚線からそのようにして王子公園に運ばれたということを、私は完全復旧後発売されたドキュメントビデオで知りました。
「がんばろや! We love Kobe」
のヘッドマーク、当時の阪急利用者の神戸市民がどれほど励まされたでしょう。
そう考えると2011年の東日本大震災で東北本線や東北新幹線が1ヶ月弱で復旧したのは、この経験を乗り越えた人たちが産み出した英知が生きていたからかもね。今の防災対策や災害時の迅速かつ的確な対応が出来るのも、元は過去の大災害を生き延びた先人達の英知なんだ。
2:31 阪急は被災しててもピカピカですね。
当時は復旧に携わる人、そうでない人に関わらず、阪神地区の全ての皆さんが大変だったと思いますが、よく乗り越えられたなと、心から敬意を表明したいです。
阪神淡路の前にも後にも、国内海外各地で天災人災戦災に遭われた人がいます。社会的には闘病やいじめ貧困人生苦など、個人では耐えがたくともきっと同じ境遇の人がいるのでしょう。共に乗り越えるに越したことはありませんが、もちこたえる、ふみとどまる、もともともらった命なのだから謳歌したいなと思います。
話が大きくなりすぎました。すみません
よくぞ8008Fの下枠交差式パンタグラフ姿を見て感動!
今では考えれない見ることの無い表示板や表示幕も。
シングルアームのパンタグラフは震災後まもなく使われだしたように思います。8000系はまだよかったですが、5000系は正直似合っていないと当時思いました。
こうして見ると日本は災害復旧の速さは断トツ世界一ですね
新設と違って解体撤去 部分復旧させながらで半年かからず完了ですから
阪神も6月26日、JR神戸線に至っては4月1日だったと記憶しております。市民の足、生活の大動脈とも言える鉄道が復旧してゆく様子を肌で感じて、私も頑張ろうと勇気をもらった人が多かったのではないかと思います。
もちろん災害による復旧を断念し、廃線を選択せざるを得なかった路線も国内にはありますけれども、地元ともよく協議して検討を重ねた上での結論でしょうからそこに2本のレールがなくとも新たな形で生活路線は築かれて、人々の暮らしに利便をもたらす存在になってもらいたいと思います。
Oldman阪急です。
阪神淡路大震災(1995年1月17日発生)における、阪急電車の被災と復旧記録をUpして下さって、ありがとうございます。☺️
当方、当時は現業部門を離れていたので、直接、鉄道の復旧には携わりませんでしたが、社内各部門において非常な努力の中、
工事を施工する業者さんも含めて一丸となって、復旧に邁進したと聴き及んでおります。
そして、一番最後の復旧区間となった西宮北口〜夙川間の高架橋が、約半年後に再建されて再び電車が走りだした頃、沿線の幼稚園の子供さん達が『おかえりなさい、はんきゅうでんしゃ』と、迎えて下さったエピソードを今でも忘れることが出来ません。🥺🍀
@@Midori-Clover さん
当時テレビで見る各地の被災状況はもとより、阪急線では伊丹駅や西宮北口ー夙川間の枕木ごと宙吊りになったレールの映像に言葉を失いました。全線開通に向け一歩ずつ着実に、点と点が線になって運行が再開する様子や傷ついた街並みの中をたくましく、進んでゆく電車の姿に力を得た人も多かったと思います。
@@KitayamataRailClub
「阪神大震災」では阪急阪神グループだけでなく、東急のゴルフ場が被災し、西武グループも「オリックス」の独走による西武球場の売上減で赤字を余儀無くされていました。
@@saskiyoshiakiさん
「がんばろうKOBE」を合言葉に、リーグ優勝しましたね。売却元の阪急も三宮駅に「ブルーウェーブ優勝おめでとうございます」との立て看板を設置していました。
改めて、身売りして手放してしまったんだなぁと思いました。
震災1週間後に大阪方面からはJRが住吉、阪神が御影まで復旧したので、阪急の復旧が遅い印象になりましたが、阪急は震災翌日に西宮北口まで開通させ、被災者の大阪方面への避難や、親類や知人を気遣う人々は初めの1週間は西宮以西には阪急しか交通手段がありませんでした。財布だけ持って着の身着のまま、汚れた衣服を着て被災地を出ようとする人々が何とか西宮北口駅に辿り着き、電車に乗り込み、逆に大きな荷物や中には工具も持つ人が西宮北口で降り立ち神戸方面に歩き出し、西宮北口駅は被災地の鉄道の最重要拠点になり、あの時の西宮北口駅の物々しい雰囲気は忘れられません。
神崎川からは時速70km以下程度、塚口付近から50km以下、旧武庫川橋梁は時速25km/hほどに減速し、運転室には保線作業員さん助役さん風の人も同乗し、武庫川橋梁を真剣に前方確認されていました。武庫川橋梁付近には、旗を持つ阪急社員さんが何人か橋梁を目視されていました。武庫川橋梁を渡り終えると何度も赤信号停止を繰り返しながら、西宮北口駅に入線しました。被災地に近付くにつれて速度が遅くなり、家々の被害の深刻度も増しました。震災翌日の西北までの復旧は鉄道会社の使命感の賜物でした。
数日経過すると日中は急行と普通が12分間隔で西宮北口行きの臨時ダイヤなりました。
阪急は住吉~岡本、西宮北口~夙川、春日野道~王子公園のアーチ型の橋、三宮~花隈のラーメン橋を本格的に作り直す、または徹底的に修理したのが非常に好印象で、阪急電鉄の堅実で誠実さが滲み出てました。洗車設備が無い部分復旧区間でもピカピカの車両を維持しているのもいいですね。阪神も年間収益の11ケ月分を掛けて西灘~御影間の高架を再建設ました。あれから28年も経過した事をしみじみと感じます。