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美しい詩 美しい唄声 胸に沁みます。遥かなる昭和山を愛し、山に焦がれた日々 ありがとうございます
いつ聞いても胸が締め付けられます生き抜いて下さい!!
フランス人アルピニスト達は私の青春時代の目標でした。この詩を作ったロジェ・デュプラ、リオネル・テレイ、ヤニック・セニュール等々、彼らの颯爽としたクールな登山スタイルに憧れを抱いて岩壁に挑んでいました。この映像を見ていると嬉しくて涙がでそうです、投稿された方に一言お礼を言わせてください。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。私も「三銃士」と呼ばれた1950年代のフランスを代表する登山家、リオネル・テレイ、ガストン・レビュファ、ルイ・ラシュナルのアルピニストに憧れた一人です。ルイ・ラシュナル、リオネル・テレイが、その後ヒマラヤに精進したのに対し、レビュファはガイドとして、ヨーロッパアルプスを舞台に「世界一美しい登攀スタイル」と言われる登攀をしていた姿に感激したものです。
いい歌をありがとう御座いました。この歌は、私が以前から知っていた「いつかある日」(中沢厚子歌)と同じ歌ですがその曲や、歌詞の一部が違うのでびっくりしました。中沢さんの歌っている歌も好きでしたが、しかし私は、この歌にとても引きつけちられました。今でも時々1人で静かに聞いています。この歌に出てくる山々は、私たちが歩んでいる人生の山々のように思います。
この歌について書いておきました。元の動画を見てください。
傘寿をとうに過ぎた古い山女です。高校生の頃、兄に連れられて谷川岳に登ったことをきっかけに山のとりこになりました。大学でも山岳部に入り、150㎝の身長の半分もあるキスリングを背負い、男子部員に置いて行かれないように必死で歩いて覚えているのは登山道の悪さだけ。社会人になってからは”労山”で初めて女子だけで登った山のなんと楽しかったことか!!ヒマラヤにも3度ほど行き、給料と休暇をすべて山につぎ込んでいるうちにリュックサックもミレーなどの軽くおしゃれなものに変わり、足の小さい私は特別注文の登山靴を何足も履きつぶしているうちに軽い既製品の登山靴を履くようになり60歳で脳腫瘍が見つかるまで町の暮らし半分、山暮らし半分の生活をしていました。40年間の山暮らしの間には何人か大切な山仲間を山で失いました。最近この歌を聴きながら失った仲間を思い、もう登ることのできない山を思い、帰らない日々を思い返しています。たった一つ手元に残った山道具はシャモニーで購入した木のピッケルです。あめ色になった木の肌を磨きながら「いつかある日」自由になったら大好きな針の木岳へ飛んでいきたいと思っています。わたくしもこの映像を見ていると懐かしくて涙しています。ありがとうございます。
コメント頂きありがとうございます。シャモニーで購入したピッケルですか。懐かしいですね。私もシャフトが木製のシモンのピッケルを使っていました。靴はドロミテだったと思います。
ただただ懐かしい❣️後期高齢者になった今はドローンなり岩肌を舐め回しています。
素晴らしい原詩を紹介して下さりありがとうごさいます。この歌が歌詞だけよりももっと深く心に響きます。私は24年生まれですが、この原詩を今初めて知りました。
コメントありがとうございます。デュプラはドーフェネ山群をこよなく愛していたようですが、1951年ヒマラヤのナンダ・デヴィで消息を絶ったようです。デュプラ同様、ドーフェネ山群、特にラ・メイジュに魅せられたフランスの若きアルピニスト、ジャン・コストは嵐の中、ここで戻らぬ人となりました。私にはこの詩が、デュプラ自身とジャン・コストを重ね合わせたように思えてなりません。(ジャン・コストは1926年に亡くなっています。)エタンソンの谷には、新田次郎氏の「アルプスの谷アルプスの村」によれば、ジャン・コストのブロンズの遭難碑があったそうです。そこには1926年7月27日ジャン・コストおよびシャルル・シャヴァネは猛烈なあらしと戦い、ついにラ・メイジュの岩頭に倒る。あっぱれなる若者たちよ ー フランス山岳会と記されてあるそうです。
@@yukion. 様 遅くなりましたが、返信頂いていたことに今気付きました。yufu asoは由布山と阿蘇山が好きなので付けたのですが、今はなおみちと改めております。yukio Nさんは23年のお生まれなのですよね。私は24年の早生まれなので同級生です。エタンソンの谷という響き好きです。この歌の説明で知り好きになりました。新田次郎も若い時はよく読みました。エタンソンの谷にある碑のことも教えて下さり、嬉しいです。有難うございます。この曲とても好きです。美しくていいですね。私にとってその日一日を美しく生きようという勇気のようなものが静かにみなぎってくる曲です。
@@なおみち-m4z 様 ご丁寧な返信を頂きありがとうございます。私は高校生の頃ワンダーフォーゲル部に入っていまして、この歌を仲間でよく歌っていました。いつしかワンダーフォーゲル部ではものたりず、気の合った仲間だけで、岩登りや、沢登り、雪山登山に入り込んでいきました。その頃にジャン・コストの本に出会いました。社会人になってからは、岩登り以外は冬山を含めほとんど単独行になりました。加藤文太郎氏に憧れていたのでしょうか。それからヨーロッパアルプスに興味をもち、能力も無いのにアイガー北壁を夢見たものです。結局はトレッキングツアーで、アイガー北壁の基部から見上げる程度で終わりました。この頃、山でひとり『いつかある日』や『雪山に消えたあいつ』を口ずさんだことを覚えています。長々と私事を述べまして申し訳ございません。また『いつかある日の』の元々の原詩は複雑です。参考までに下記にその原詩があります。th-cam.com/video/H27tQSFcgk4/w-d-xo.html
@@yukion. 様 すごいそうそうたる山岳経歴ですね。アイガー北壁まで行かれたのですね。その時どんなお気持ちだったのでしょう。もちろん体力にも相当の自信がおありなのですね。単独行っていうのもすごいです。大学時代に大学の登山部主催で長崎の普賢岳に登りテントで一泊したり、今は大阪ですが、東京にいた若い頃、4人で雲取山に登り雲取山荘で寒さに震えて一泊したのくらいが本格的登山でした。ずっと憧れるばかりで膝のためもはや登山も無理ですが、Yukio Nさんは登山家現役なのでしょうか。また山に関するお話を聞けたら嬉しいです。
@@なおみち-m4z 様 返信頂きありがとうございます。ダブりますが、現在は脊椎管狭窄症のため山には行っていません。行きたいのですが、多分もう無理だと思います。アイガー北壁と言っても夢また夢で、壁の直下まで行っただけです。その時、ついでにマッターホルン北壁、グランド・ジョラス北壁も見てきました。さすがに圧倒されました。でも一番頭に残っているのは21歳の頃単独で厳冬の八が岳(赤岳)に登った時のことです。食料は半日分、ツェルトだけの軽装で嵐の咆哮する頂上に立ったのは暗くなりかけた午後の4時でした。その時は本当にどうなることかと思いました。幸い嵐もやわらぎ、その日の午後8時頃、真っ暗闇の南沢を下山し美濃戸に着きほっとしました。危なかったです。
この歌を聞くと昔のことを思い出します、私も雪の穂高に登ったときの、ことを思い出します、とても恐かった事を、思い出します、てもとても好きな歌です、これからもいい歌をお願いします。
タイトル:いつか ある日歌手:中沢厚子作詞:不詳作曲:フランス民謡編曲:浅沼勇いつか ある日 山で死んだらふるい山の友よ つたえてくれ 母親には 安らかだったと 男らしく死んだと 父親には 伝えてくれ いとしい妻に 俺が帰らなくても 生きてゆけと 息子たちに 俺のふみあとが ふるさとの岩山に残っていると 友よ 山に小さなケルンをつんで 墓にしてくれ ピッケルたてて 友におくる 俺のハンマー ピトンの歌声を聞かせてくれいつか ある日 山で死んだらふるい山の友よ つたえてくれ
この歌は、元々、狐竜さんと言う方のチャンネルで紹介されてる歌です。作曲者は、南郷 孝さんです。14年前からYou Tubeにあります。中澤厚子さんの歌は、おそらく、ダーク・ダックスと同じ歌ではないでしょうか?
コメント頂きありがとうございます。おっしゃられます通り、「いつかある日」は西前四郎氏がフランス民謡からつくったものと、南郷孝氏作曲のものがあります。一般的に歌われていますのは前者のものです。後者は歌詞も若干違っています。歌詞はもともとロジェ・デピュラの詩を深田久弥氏が山の歌向けに訳したと思われます。原詩はもっと壮絶な覚悟をもった山男の詩です。私も山男の端くれですので原詩がわかるような気がします。本来から言いますと、悲しげな曲でなく、ちょっと勇ましさがあってもいいななどと思っております。とりとめのない返信で、誠に申し訳ございません。
久しぶりに、エミール・ジャヴェルやギド・レイの古い登山記を読み返してみたくなりました。
この曲は好きでよく聴いていますがヘルメットも被らないでこの岩山を登っている映像も凄い
この曲を聴いて、いっぺんで気に入りました。男性合唱で歌いたいのですが、楽譜はないのでしょうか?
コメント頂きありがとうございます。「いつかある日」の歌は曲がいつかかありますが、私もこの曲(楽譜)が一番好きです。楽譜は何度か探しましたが、見つけることが出来ませんでした。
早速ご返信、ありがとうございます。私もかなり探しましたが、見つけることができずこのような質問になってしまいました。あとは自分で採譜して、男性2部合唱用にアレンジしてみます。ありがとうございました。
@@sige2095 ご丁寧な返信ありがとうございます。できましたら、是非「いつかある日」というタイトルでアップロードしてくたさい。期待しております。
別に書きましたが、作曲者は、南郷 孝さんです。
赤いセーターの人はガストンレビュファでしょうか、私もあこがれて緑のを買いました。靴はガリビエールのドメゾンモデル、両方ともデビューは秋の三峰フェースでした。80年代初頭の話です。最近穂高ではカブトをかぶらないとまずくなったそうで、理屈は分かるけど登山全体が規制だらけでつまらなくなりました。変わり者と嫌われ者が登山者だったはず、それだけに妙な連帯感がありました。又山岳救助隊や山小屋、ガイドの類等の人間には皆反感がありましたね。理由は山に特権階級が発生するから。登山道具店すら不要だと言ってる先輩もいました。そもそもで言えば登山道やルート自体が不要、いわんや山の規制等はもってのほか。行きたいやつが行きたい時に行きたい所へ行きたい様に行く。それが登山だったはず。それにしても谷川岳や剱岳の登山規制に反対した人たちは何処へいってしまったのか。最近は役所をヨイショする登山者や登山団体ばかりで残念です。
コメントありがとうございます。おっしゃられる通りガストン・レビュファです。セカンドはシャモニのスポーツ店で働く日本人若者(当時)です。おっしゃられる通り、確かに昔は山屋といわれる人は一風変わっていたように思います。しかしながら山でいう偉業というものは、そうした人でないと無し得られないのかもしれません。グランド・ジョラス北壁初登のペータース、アイガー北壁初登のカスパレク、ヨーロッパアルプス三大北壁冬季単独登攀初登の長谷川恒夫等が思い浮かびます。私も山で偉ぶる人は好きではありません。しかしレビュファは尊敬する人の一人です。元来、シャモニでは、シャモニ生まれでないとシャモニのガイドにはなれない規定でした。シャモニ生まれでないレビュファは、そのたぐいまれなる才能と努力でシャモニのトップクラスのガイドになりました。蛇足ですが、私の二十歳頃は靴は鋲底、パンツは毛織のニッカー、ザイルはナイロン製とはいえ、まだよりザイルでした。後にビブラム底のイタリア製ドロミテを買った時にはなんと嬉しかったことか。しかし安月給だったので、きつかったです。参考までに当時のスタイルが下記動画から垣間見れます。th-cam.com/video/NM9Dnu0aTGk/w-d-xo.html
@@yukion. 様、返信ありがとうございます。文面を拝見すると私より半廻り先輩と思慮しています。ご紹介の動画を拝見しました。懐かしい限りです。でもあの時代に個人レベルで良く動画を撮ったものだと感心しました。キスリングを背負っていないので私より少々若い方の映像かもしれません。ストランドのナイロンザイルは高校時代、訓練で使用していました。赤い東京製綱製の4分のザイルです。キンクしないよう注意を受けました。本チャンは3分6厘のブレードザイルでマンモスとかいうメーカーでした。ゼルバン使わずダブルブーリンで結びました。私も高校大学とバイト代の大半が山関係に消えました。
ご丁寧な返信ありがとうございます。恥ずかしながら動画のニッカー姿の若者は小生です。たしか1969年、21才の頃です。生まれは栃木県ですが、19才の時、大阪に就職しました。当初はキスリングでしたが、アタックザックが欲しくて、当時の月給23,000円の頃10,000円をはたいて購入したのを憶えています。。大阪では結構有名だった好日山荘のオリジナル品でした。(ミレーなどもありましたがてがでませんでした。)でも現在と違い布地でしたので、濡れるとこわばり、寒い日には凍り付いてカチカチになりました。今思えばなんと粗末な格好で山に行っていたことでしょうか。
@@yukion. 様 良く解りました。やはり丁度半廻り先輩でした。それにしてもあの時代しかも冬の動画が有るなんてうらやましい限りです。わたしは写真が少々残っているぐらいです。確かに最近の装備からするとあの当時の装備は粗末かもしれません。でも最初に使い始めた装備や技術が一番なじみます。わたしは今でもキスリングに紳士服のズボンを切って作ったニッカボッカです。さらに言えばビニロンの上下ヤッケに編上スパッツ、木のピッケルと鍛造のアイゼン、コンロはラジュースで食器は木のお椀です。不満を言えばきりが有りませんがこれで行きたい所へ概ね行けてます。ただ正直もう背負うのが難しくなりました。もしどこかの山でキスリングを背負って頭に鉢巻をしている人がいればたぶん私です。ぜひ声を掛けてください。yukio N様と山で出会う事を期待しています。
同じ曲でも、こちらにアップされてる方が、少しエコーがかかった感じですね。
コメント頂きありがとうございます。おしゃられる通り、岩壁に響く感じを出そうとし、若干エコーをかけています。
美しい詩 美しい唄声 胸に沁みます。遥かなる昭和山を愛し、山に焦がれた日々 ありがとうございます
いつ聞いても胸が締め付けられます
生き抜いて下さい!!
フランス人アルピニスト達は私の青春時代の目標でした。
この詩を作ったロジェ・デュプラ、リオネル・テレイ、ヤニック・セニュール等々、彼らの颯爽としたクールな登山スタイルに憧れを抱いて岩壁に挑んでいました。
この映像を見ていると嬉しくて涙がでそうです、投稿された方に一言お礼を言わせてください。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。私も「三銃士」と呼ばれた1950年代のフランスを代表する登山家、リオネル・テレイ、ガストン・レビュファ、ルイ・ラシュナルのアルピニストに憧れた一人です。
ルイ・ラシュナル、リオネル・テレイが、その後ヒマラヤに精進したのに対し、レビュファはガイドとして、ヨーロッパアルプスを舞台に「世界一美しい登攀スタイル」と言われる登攀をしていた姿に感激したものです。
いい歌をありがとう御座いました。この歌は、私が以前から知っていた「いつかある日」(中沢厚子歌)と同じ歌ですがその曲や、歌詞の一部が違うのでびっくりしました。中沢さんの歌っている歌も好きでしたが、しかし私は、この歌にとても引きつけちられました。今でも時々1人で静かに聞いています。この歌に出てくる山々は、私たちが歩んでいる人生の山々のように思います。
この歌について書いておきました。元の動画を見てください。
傘寿をとうに過ぎた古い山女です。高校生の頃、兄に連れられて谷川岳に登ったことをきっかけに山のとりこになりました。大学でも山岳部に入り、150㎝の身長の半分もあるキスリングを背負い、男子部員に置いて行かれないように必死で歩いて覚えているのは登山道の悪さだけ。社会人になってからは”労山”で初めて女子だけで登った山のなんと楽しかったことか!!ヒマラヤにも3度ほど行き、給料と休暇をすべて山につぎ込んでいるうちにリュックサックもミレーなどの軽くおしゃれなものに変わり、足の小さい私は特別注文の登山靴を何足も履きつぶしているうちに軽い既製品の登山靴を履くようになり60歳で脳腫瘍が見つかるまで町の暮らし半分、山暮らし半分の生活をしていました。40年間の山暮らしの間には何人か大切な山仲間を山で失いました。最近この歌を聴きながら失った仲間を思い、もう登ることのできない山を思い、帰らない日々を思い返しています。たった一つ手元に残った山道具はシャモニーで購入した木のピッケルです。あめ色になった木の肌を磨きながら「いつかある日」自由になったら大好きな針の木岳へ飛んでいきたいと思っています。わたくしもこの映像を見ていると懐かしくて涙しています。ありがとうございます。
コメント頂きありがとうございます。シャモニーで購入したピッケルですか。懐かしいですね。私もシャフトが木製のシモンのピッケルを使っていました。靴はドロミテだったと思います。
ただただ懐かしい❣️
後期高齢者になった今はドローンなり岩肌を舐め回しています。
素晴らしい原詩を紹介して下さりありがとうごさいます。この歌が歌詞だけよりももっと深く心に響きます。私は24年生まれですが、この原詩を今初めて知りました。
コメントありがとうございます。
デュプラはドーフェネ山群をこよなく愛していたようですが、1951年ヒマラヤのナンダ・デヴィで消息を絶ったようです。デュプラ同様、ドーフェネ山群、特にラ・メイジュに魅せられたフランスの若きアルピニスト、ジャン・コストは嵐の中、ここで戻らぬ人となりました。私にはこの詩が、デュプラ自身とジャン・コストを重ね合わせたように思えてなりません。(ジャン・コストは1926年に亡くなっています。)
エタンソンの谷には、新田次郎氏の「アルプスの谷アルプスの村」によれば、ジャン・コストのブロンズの遭難碑があったそうです。そこには
1926年7月27日
ジャン・コストおよびシャルル・シャヴァネは猛烈なあらしと戦い、ついにラ・メイジュの岩頭に倒る。あっぱれなる若者たちよ ー フランス山岳会
と記されてあるそうです。
@@yukion. 様 遅くなりましたが、返信頂いていたことに今気付きました。yufu asoは由布山と阿蘇山が好きなので付けたのですが、今はなおみちと改めております。yukio Nさんは23年のお生まれなのですよね。私は24年の早生まれなので同級生です。エタンソンの谷という響き好きです。この歌の説明で知り好きになりました。新田次郎も若い時はよく読みました。エタンソンの谷にある碑のことも教えて下さり、嬉しいです。有難うございます。この曲とても好きです。美しくていいですね。私にとってその日一日を美しく生きようという勇気のようなものが静かにみなぎってくる曲です。
@@なおみち-m4z 様 ご丁寧な返信を頂きありがとうございます。私は高校生の頃ワンダーフォーゲル部に入っていまして、この歌を仲間でよく歌っていました。いつしかワンダーフォーゲル部ではものたりず、気の合った仲間だけで、岩登りや、沢登り、雪山登山に入り込んでいきました。その頃にジャン・コストの本に出会いました。社会人になってからは、岩登り以外は冬山を含めほとんど単独行になりました。加藤文太郎氏に憧れていたのでしょうか。それからヨーロッパアルプスに興味をもち、能力も無いのにアイガー北壁を夢見たものです。結局はトレッキングツアーで、アイガー北壁の基部から見上げる程度で終わりました。この頃、山でひとり
『いつかある日』や『雪山に消えたあいつ』を口ずさんだことを覚えています。
長々と私事を述べまして申し訳ございません。
また『いつかある日の』の元々の原詩は複雑です。
参考までに下記にその原詩があります。
th-cam.com/video/H27tQSFcgk4/w-d-xo.html
@@yukion. 様 すごいそうそうたる山岳経歴ですね。アイガー北壁まで行かれたのですね。その時どんなお気持ちだったのでしょう。
もちろん体力にも相当の自信がおありなのですね。単独行っていうのもすごいです。
大学時代に大学の登山部主催で長崎の普賢岳に登りテントで一泊したり、今は大阪ですが、東京にいた若い頃、4人で雲取山に登り雲取山荘で寒さに震えて一泊したのくらいが本格的登山でした。ずっと憧れるばかりで膝のためもはや登山も無理ですが、Yukio Nさんは登山家現役なのでしょうか。また山に関するお話を聞けたら嬉しいです。
@@なおみち-m4z 様 返信頂きありがとうございます。ダブりますが、現在は脊椎管狭窄症のため山には行っていません。行きたいのですが、多分もう無理だと思います。アイガー北壁と言っても夢また夢で、壁の直下まで行っただけです。その時、ついでにマッターホルン北壁、グランド・ジョラス北壁も見てきました。さすがに圧倒されました。でも一番頭に残っているのは21歳の頃単独で厳冬の八が岳(赤岳)に
登った時のことです。食料は半日分、ツェルトだけの軽装で嵐の咆哮する頂上に立ったのは暗くなりかけた午後の4時でした。その時は本当にどうなることかと思いました。幸い嵐もやわらぎ、その日の午後8時頃、真っ暗闇の南沢を下山し美濃戸に着きほっとしました。危なかったです。
この歌を聞くと昔のことを思い出します、私も雪の穂高に登ったときの、ことを思い出します、とても恐かった事を、思い出します、てもとても好きな歌です、これからもいい歌をお願いします。
タイトル:いつか ある日
歌手:中沢厚子
作詞:不詳
作曲:フランス民謡
編曲:浅沼勇
いつか ある日 山で死んだら
ふるい山の友よ つたえてくれ
母親には 安らかだったと
男らしく死んだと 父親には
伝えてくれ いとしい妻に
俺が帰らなくても 生きてゆけと
息子たちに 俺のふみあとが
ふるさとの岩山に残っていると
友よ 山に小さなケルンをつんで
墓にしてくれ ピッケルたてて
友におくる 俺のハンマー
ピトンの歌声を聞かせてくれ
いつか ある日 山で死んだら
ふるい山の友よ つたえてくれ
この歌は、元々、狐竜さんと言う方のチャンネルで紹介されてる歌です。作曲者は、南郷 孝さんです。14年前からYou Tubeにあります。中澤厚子さんの歌は、おそらく、ダーク・ダックスと同じ歌ではないでしょうか?
コメント頂きありがとうございます。おっしゃられます通り、「いつかある日」は西前四郎氏がフランス民謡からつくったものと、南郷孝氏作曲のものがあります。一般的に歌われていますのは前者のものです。後者は歌詞も若干違っています。歌詞はもともとロジェ・デピュラの詩を深田久弥氏が山の歌向けに訳したと思われます。原詩はもっと壮絶な覚悟をもった山男の詩です。私も山男の端くれですので原詩がわかるような気がします。本来から言いますと、悲しげな曲でなく、ちょっと勇ましさがあってもいいななどと思っております。とりとめのない返信で、誠に申し訳ございません。
久しぶりに、エミール・ジャヴェルやギド・レイの古い登山記を読み返してみたくなりました。
この曲は好きでよく聴いていますがヘルメットも被らないでこの岩山を登っている映像も凄い
この曲を聴いて、いっぺんで気に入りました。男性合唱で歌いたいのですが、楽譜はないのでしょうか?
コメント頂きありがとうございます。「いつかある日」の歌は曲がいつかかありますが、私もこの曲(楽譜)が一番好きです。楽譜は何度か探しましたが、見つけることが出来ませんでした。
早速ご返信、ありがとうございます。私もかなり探しましたが、見つけることができずこのような質問になってしまいました。あとは自分で採譜して、男性2部合唱用にアレンジしてみます。ありがとうございました。
@@sige2095 ご丁寧な返信ありがとうございます。できましたら、是非「いつかある日」というタイトルでアップロードしてくたさい。期待しております。
別に書きましたが、作曲者は、南郷 孝さんです。
赤いセーターの人はガストンレビュファでしょうか、私もあこがれて緑のを買いました。靴はガリビエールのドメゾンモデル、両方ともデビューは秋の三峰フェースでした。80年代初頭の話です。
最近穂高ではカブトをかぶらないとまずくなったそうで、理屈は分かるけど登山全体が規制だらけでつまらなくなりました。
変わり者と嫌われ者が登山者だったはず、それだけに妙な連帯感がありました。又山岳救助隊や山小屋、ガイドの類等の人間には皆反感がありましたね。理由は山に特権階級が発生するから。登山道具店すら不要だと言ってる先輩もいました。そもそもで言えば登山道やルート自体が不要、いわんや山の規制等はもってのほか。行きたいやつが行きたい時に行きたい所へ行きたい様に行く。それが登山だったはず。それにしても谷川岳や剱岳の登山規制に反対した人たちは何処へいってしまったのか。最近は役所をヨイショする登山者や登山団体ばかりで残念です。
コメントありがとうございます。
おっしゃられる通りガストン・レビュファです。セカンドはシャモニのスポーツ店で働く日本人若者(当時)です。
おっしゃられる通り、確かに昔は山屋といわれる人は一風変わっていたように思います。しかしながら山でいう偉業というものは、そうした人でないと無し得られないのかもしれません。グランド・ジョラス北壁初登のペータース、アイガー北壁初登のカスパレク、ヨーロッパアルプス三大北壁冬季単独登攀初登の長谷川恒夫等が思い浮かびます。
私も山で偉ぶる人は好きではありません。しかしレビュファは尊敬する人の一人です。元来、シャモニでは、シャモニ生まれでないとシャモニのガイドにはなれない規定でした。シャモニ生まれでないレビュファは、そのたぐいまれなる才能と努力でシャモニのトップクラスのガイドになりました。
蛇足ですが、私の二十歳頃は靴は鋲底、パンツは毛織のニッカー、ザイルはナイロン製とはいえ、まだよりザイルでした。後にビブラム底のイタリア製ドロミテを買った時にはなんと嬉しかったことか。しかし安月給だったので、きつかったです。
参考までに当時のスタイルが下記動画から垣間見れます。
th-cam.com/video/NM9Dnu0aTGk/w-d-xo.html
@@yukion. 様、返信ありがとうございます。文面を拝見すると私より半廻り先輩と思慮しています。ご紹介の動画を拝見しました。懐かしい限りです。でもあの時代に個人レベルで良く動画を撮ったものだと感心しました。キスリングを背負っていないので私より少々若い方の映像かもしれません。
ストランドのナイロンザイルは高校時代、訓練で使用していました。赤い東京製綱製の4分のザイルです。キンクしないよう注意を受けました。本チャンは3分6厘のブレードザイルでマンモスとかいうメーカーでした。ゼルバン使わずダブルブーリンで結びました。
私も高校大学とバイト代の大半が山関係に消えました。
ご丁寧な返信ありがとうございます。
恥ずかしながら動画のニッカー姿の若者は小生です。
たしか1969年、21才の頃です。生まれは栃木県ですが、19才の時、大阪に就職しました。
当初はキスリングでしたが、アタックザックが欲しくて、当時の月給23,000円の頃10,000円をはたいて購入したのを憶えています。。
大阪では結構有名だった好日山荘のオリジナル品でした。(ミレーなどもありましたがてがでませんでした。)
でも現在と違い布地でしたので、濡れるとこわばり、寒い日には凍り付いてカチカチになりました。
今思えばなんと粗末な格好で山に行っていたことでしょうか。
@@yukion. 様 良く解りました。やはり丁度半廻り先輩でした。それにしてもあの時代しかも冬の動画が有るなんてうらやましい限りです。わたしは写真が少々残っているぐらいです。
確かに最近の装備からするとあの当時の装備は粗末かもしれません。でも最初に使い始めた装備や技術が一番なじみます。わたしは今でもキスリングに紳士服のズボンを切って作ったニッカボッカです。さらに言えばビニロンの上下ヤッケに編上スパッツ、木のピッケルと鍛造のアイゼン、コンロはラジュースで食器は木のお椀です。不満を言えばきりが有りませんがこれで行きたい所へ概ね行けてます。ただ正直もう背負うのが難しくなりました。もしどこかの山でキスリングを背負って頭に鉢巻をしている人がいればたぶん私です。ぜひ声を掛けてください。yukio N様と山で出会う事を期待しています。
同じ曲でも、こちらにアップされてる方が、少しエコーがかかった感じですね。
コメント頂きありがとうございます。
おしゃられる通り、岩壁に響く感じを出そうとし、若干エコーをかけています。