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とても可愛いし綺麗な声ですね。内容も整理されていて聞き取りやすいです。
信長の伸びしろを読めずに敵対し、身をもって恐ろしさ知った上杉や毛利は秀吉に従い信長を認めて敵対しなかった北条は、怖さを知る機会がなく秀吉に亡ぼされたとすると、なんたる皮肉かな。
北条にだけ厳しいのは、北条が支配する関東は織田・豊臣政権の根拠地である近畿とは全く違う世界観で動いており、信長時代も滝川一益が直接統治できず、秀吉時代になってからも関東には北条がいる限り戦国時代的な風習が抜けなかったことが根底にあるだろう。関東の歴史は北条以前と以降(徳川時代)で大きな区切りができる。
真加藤沙織さん、おかえりなさい。
背後に敵(徳川以東の勢力)が残っている時点で、毛利、長宗我部、島津に徹底抗戦されるわけにもいかないからな。背後に敵がいなくなれば、ほぼ全力を注げることになる。それに抗えば滅ぶことになる。山岡荘八は、『徳川家康』の中で、「島津が終われば、背後を気にすることなく徳川にかかることになる。その時は真正面から来いと言うてやる。そこでも拒めば、徳川はこの世から消え去ることになる。」と秀吉に言わせている。
さおりスキェェ
家康…ただじゃあ頭下げないぞ。その後の確執はここから始まった…。
民政に厚い北條家を追い込んだのだから坂東民としては豊臣が滅びるのは当たり前。
秀吉にとって上杉家は、柴田家を挟撃するために必要な同盟相手だったんでしょうね。景勝も秀吉という後ろ楯がいることで越後での求心力を確保したかったのかも。
天下統一の最後の見せしめなのかな?北条氏の処遇は┐('~`;)┌秀吉公のみぞしる真実ね
黒田かんべえーは?
確かに北条には、厳しい。でも戦国時代に大きな戦い(九戸はあるけど…)の最後として、ケジメは必要だったのかな?また切腹を言い渡されたのは隠居した氏政と積極的に戦っていた一族。当主氏直は高野山へ蟄居。後に赦免されている。その後すぐに病死したが、家名は存続しており、断絶はしていない。そう考えると、情け容赦なく、一族を皆殺しにしたって訳でもないから、程々にやってたのかもね…
脇坂→願譜代となり明治維新片桐→且元系は取潰しだが、弟系は願譜代となり明治維新加藤嘉明→二代目で取潰しだが三代目が二万石で明治維新
北条は家康、伊達に対するみせしめ的なものもあったと思う
政宗に小田原攻めに来ぬなら北条の次はお前だって脅してたらしいですね
北条は民に対して優しかったから圧政型の豊臣には都合が悪かったのもあると思う。
もし…秀吉の弟。影太閤の秀長公が長寿してたら…抜群の交渉力と兄秀吉の説得で苛烈な処分を受けた方々は少しは救われたかと思いたい。秀長公没後の秀吉は制御する者が居なくなり…内紛の種を作っていった。
北条が許されなかったのは、敗北を認める時を誤った可能性も大いにあると思う。(敗北確実の状況での降伏者に対しては、許されなかったと思う)又、北条は徳川と好みを組んでいたので、下手に残せば豊臣の存亡に関わると考えたのかも。 ある推論では、家康は信長と取り決めた約定に従い、東は徳川、西は織田が支配する事である聞く。、秀吉亡き後に、西は豊臣、東は徳川と言う提案を行うが、淀君に拒まれたので戦になったと言う説もあると言う。 我々が知らされている歴史では大きな事象は多くの資料が残っているが、詳細な事象に関しては資料を細かく分析した人達が明らかにしていく事だろう。
徹底抗戦して9割以上負けた時点の相手側を領土安泰とかで許すはずかない、それを認めたらとりあえず戦をしてあかん場合にすんまへで通るなら他の大名も一回はしてみようかと、どのみち海外、大陸今の中国まで進出予定だったから北条も領土移動後に兵、大将もろとも海外遠征だったと思います。
気前よく加増やら本領安堵やらしてたから北条領ぐらいは全部没収しないと家臣に分けるモノがないからね。北条に問題があったのではなく単に討伐順が最後だったからでしょ
信長が死んで、どーしょうと思っていた所。秀吉が太閤になり天下人になったら、秀吉にゴマを擦る。しかし秀吉が亡くなり家康の時代になると、良くて外様の小大名か、悪くて廃絶される。まったく戦国大名なんてやってられねーな。つらいわ
格下の同盟国と臣下では天地程の差があるからなぁ…。北条に関しては、秀吉も武士である以上、武士の聖地の鎌倉や相模国から出ていって貰って、秀吉自身が鶴岡八幡宮に参拝しなければ天下統一のアピールにならないからねぇ…。
そう、わざわざ鶴岡八幡宮でも武家社会の開祖である源頼朝を取り上げているくらいだし、関東と関西ではそもそも武士が歩んできた歴史が全く違う。家康を最終的に関東へ送ったのは、北条という「室町ー戦国時代」を引きずった大名をいつまでもそのまま故地に置いておくよりも、織田ー豊臣政権で生きている徳川というビッグネーム且つ律義者で通っている「武家のトップ(豊臣家は正確には公家)」をおいた方が統治しやすいと考えたからであり、ある意味では関東武士の伝統に豊臣政権流の武家のあり方をそのまま被せた結果だともいえる。
さおりさん、お久しぶりです!元気そうで良かった😊
さおりちゃん 可愛い
顔はやっぱ見えない方が良いんだなぁ
天下統一の総仕上げの戦いだから、俺に歯向かうと最後は切腹させるぞと周りの大名への牽制じゃないかな。 領地安泰すれば力が残って徳川伊達と行末同盟結ばれて関東で不穏な動きをさせない為だと思うんだが。
もし北条がすんなり秀吉に臣従してたらその後の歴史はどう推移しただろうか?秀吉としては北条から没収した関東に家康を転封して、畿内から遠ざける&領国経営に没頭せざるをえなくなるので動きがとり辛くなる?ことを目論んだとしても北条氏が関東に健在ならそれが出来なくなる。尾張には小牧長久手で共同戦線をはった織田信雄、三河遠江駿河甲斐信濃を治める家康、その家康と同盟婚姻結んでた北条。これが友好関係で結ばれてたら秀吉も警戒して頭の痛い問題になったか?個人的には秀吉も無理に各個撃破・征伐とかせずに北条を五大老と同様に処遇したかなとは思うけど。
北条、徳川、伊達と反豊臣同盟を結ばれたら厄介な存在になるでしょうね。それに同調する大名が出て政権がひっくり返る可能性もある。
北条家は臣従はしていないから。ただ戦、籠城戦に負けただけ。当然、当主は切腹ですよ。戦国、最初にして最後の大名、それが北条家です。豊臣が徳川に滅ぼされたのは当然のことです!悪は滅びる。
色んなとこで書くんだけど北条はラスボスになったから容赦しなくて良くなったのよね家康は秀吉に臣従した時点では律義者で通ってるから気を遣って将来は政権の藩屏になってもらうこと期待したのではないか?
北条の場合、国内で忠義の程を見せてもらおうかと言う次の攻め先が無かったからかなぁ。伊達が抵抗してれば東北攻め切り取り次第みたいな扱いもできたかもしれないが。領土を大幅に失った直後に唐入りに行かせるわけにもいかないだろうしね。北条への領地と身柄安堵は次の政策に有利に働かないからかな?
北条については、いずれは数十万石の大名に復帰させるつもりだったけど氏直が早死にしたためできなかったって話を聞いたことがあるんだけど…やっぱ俗説だよね?
氏直は一年で罪を許されて1万石を与えられてる。そして、旧織田信雄邸を与えられてるんだよね。尾張の国持大名だった信雄の館を与えられたから、いずれ氏直も国持大名に復帰できたんじゃないかって説がある。
備中が伊勢氏の本拠だからここを与える話がよく出てくるけど、すでに宇喜多に与えられてるからどうだろうね。
@@pianochandaisuki さすがに宇喜多を動かしてまで北条氏直を備中に置く理由がないと思うな。
@@伝説の貧乏小僧 というか、そもそも北条家は分家の北条氏盛が河内狭山藩主となって版籍奉還までずっと続いているけどね、氏直が出家後にすぐ亡くならなければ当主も氏直の血統のままだった可能性が極めて高い。北条が大勢力を保った戦国大名だからちょっと分かりづらいけど、関東においては5代に渡って古河公方や関東管領とも繋がった「名家」で十分に家柄は高貴と言える。つまり秀吉は北条を山名や赤松、京極、畠山、喜連川(さらには織田)などのような旧家として小さな領地を与えた上で残そうと考えていたのだろう、実際に江戸幕府もこの路線を継承している。
@@stone3944 氏直が関ヶ原まで生きてたら家康がどこかの国持大名にはしてくれたでしょう。督姫の為にもね。
さおりさんお綺麗です。
真田丸では上杉景勝は秀吉に大分蔑ろにされていましたねw、源次郎を引き立てるための脚本かもしれませんが...w
実際の上杉は厚遇されているけどね。
堀北真希を綺麗にした感じ。
…寛容な処遇が許されないぐらい、秀吉はイライラしたのでしょうか? 豊臣軍に大きな損害は無さそうですが、統一のための時間をかなり奪い北条はその断罪を受けるべきだと言ったのでしょうか? あと、秀吉もできるだけ丸く収めたいぐらい厄介な相手なのが島津でしたね。厳しい処遇のしっぺ返しはやはり脅威でしょうか? ありがとうございました!
さおりの声はいいです。
致命傷かどうかは分からないけど仏ヶ淵で森長可を撃たれたのや池田恒興を撃たれたのは痛かったかもね。
この二人なんて、「消えてくれてよし」ぐらいだろう。
単純に長宗我部のときは島津攻めが残っていたので殲滅戦が出来なかった。島津攻めは島津が意外と粘ったので兵糧の不足、流行病が重なり譲歩案を出さざるを得なくなった。北条は島津攻めの教訓を生かした上で、もう敵が居ない上に殲滅戦は移封した家康がやってくれる(江戸初期まで関東は北条残党が度々蜂起していた)。潰しても秀吉政権に問題がない上に家康が統治失敗したら一挙に潜在敵も減らせる。伊達は秀吉政権そのものには兵を向けていないし降伏したので、秀吉の降伏勧告のバックボーンになっている惣無事令に秀吉の方も縛られることになった惣無事令で一番理不尽な目に遭ったのは最上義光。秀吉政権には早くから臣従を伝えて羽州探題にも任命されているのに上杉の庄内攻めに遭う。秀吉は惣無事令下で上杉の侵略には何も言わないどころか最上からの抗議は黙殺している。上杉優遇政策以上に最上を嫌っていたとしか言えない仕打ち
駒姫も処刑しちゃったもんねえ
関ヶ原前に小野寺などの所領を奪う事には秀吉もだんまり。。
上杉氏は優遇されていますね伊達と徳川の牽制役の意味もあったのでしょうが、会津に転封された時は加増されています
優遇はされているけど蒲生が死んだ時点で伊達と徳川を抑え尚且つ広大な領地を治めることが出来る見込みのある親豊臣派の大名は上杉ぐらいだが、上杉景勝には任が重かった。蒲生の死は痛かった。
@@supremegarbage9796 転封されてすぐに家康にいちゃもんつけられてろくに領国経営する時間もないまま関ヶ原だからそれは酷だよ。
上杉は伊達への抑えだから百万石以上は必要だったし何より直江兼続が「日本一の陪審」と秀吉に評されてたぐらいだし秀吉のお気に入りだったんだろう
小田原北條氏を下した後、関東管領の家系である上杉景勝を関東移封という話はなかったのだろうか?駿府家康の牽制には最適だと思ったが。堀秀政が健在なら関八州を任せ度いと言われていたとも、蒲生氏郷あたりを関東転封させたり、伊達政宗を西国転封(秀次事件で伊豫転封説。江戸時代長男秀宗は宇和島藩)させ家康を会津(話はあったらしい)へ加増転封とか実際には様々な案が検討されたのではないかと思われる。、
気持ちは分かるが結果論、秀長が先に死んだのが豊臣崩壊の引き金。
@@吉村亮道秀長が秀吉より長生きしていたら豊臣家の結束は強まり秀頼へ政権移譲が盤石になり江戸時代は無かった可能性が高い。 これも結果論ですが家康関東移封のあと織田信雄が旧德川領転封を受け入れていたら?
@@wa33785 昨日暇だったので領地の配置も考えたけど、例徳川に関東の7州を与えて小田原だけ真田に渡すとか池田に関東の半分渡し徳川を領地安堵し黒田に池田の領地を持たすとか、多分全て駄目、豊臣家で石田と徳川に意見が言えて調整出来る人間そして秀次を守れる人間は秀長しか居なかった。
そもそも律儀者の家康に関東以北を任せたいってところからくるのが関東移封っぽいからなぁ…豊臣政権における鎌倉公方ポジみたいな
景勝は、前関東菅寮が邪魔になって始末したぐらいだから、関東菅領なんかどうでもいいだろ。
全軍率いて討伐に来たが落とせず面目潰れた上に、当時疑心を懐いていた黒田如水に説き伏せられての降伏だったンデ、拳の下ろし場所が一択された感もある様な…?
さおりさん、お久しぶりです🙋
最近読んだ本でも豊臣政権に臣従するまでの過程とした後を詳細に書いてある本。タイトルなんだけっけな〜
何故、北条だけ?は誤りですよ。答えは簡単。降伏時に戦力を有していたかどうかです。 北条は籠城軍内の士気が崩壊して、降伏派と抗戦派の内乱手前でしたので、戦力は身の回り近臣のみと評価され、氏直は1万石のみ貰いました。 佐々成政は一揆を引き起こし戦力はゼロどころかマイナスと評価され切腹を命じられました。 豊臣秀頼は降伏せず戦力もゼロに成りましたので、子の国松は斬首に成りました。 至って明確。何が何故なのでしょうかね?
久々にさおり様で、○○○○しました。
小田原征伐の時点で、豊臣の直轄地220万石、北条の直轄地250万石で豊臣より大きな大名ですよ決して一大名ではなかったです北条としてはほかの大大名が悉く敵に回るとは思ってなかったのかもですね
細かいことを言うと220万石は豊臣家の領地、250万石は北条家+家臣の領地。なので豊臣家の領地に家臣の領地を含めれば豊臣家の方が多いです。
@@supremegarbage9796 そりゃそうだけど、一戦国大名のデカさじゃないよね北条は。
豊臣配下1800万石。
豊臣より大きな大名って変じゃない?220万石って家臣に分け与えた上での豊臣家の直轄地に対して、北条の250万石ってその後の徳川もそうだけど、家臣に与える分も合わせてだから、豊臣よりデカいってのは語弊があると思う。
可愛いいけど
これで、上杉を秀吉が人たらしで、がんじがらめにしていた事がわかる、家康よりは組み易い秀吉と組んで勝家を討伐できる、この作業が、農民上りにできるわけが無い、老練の軍事顧問がいたのだろう。
司馬、山岡氏などの小説より、参考になります。歴史はアバウトです。でも、語り継がれるものです。時を経てそれが真実になります。これからも楽しみにしてます。
こんな事言ったら元も子もないが対秀吉外交の成功者と失敗者の違い北条は降伏するのが余りにも遅すぎあと秀吉は領地を部下に分け与えてのし上がってきた大名部下に分け与える領地が必要だった北条は豊臣政権に残しておいても余り役に立たないと判断したから
さおりさんお疲れさまです。ありがとうございます。♥♥♥
本能寺の変は本当にあったのでしょうか?秀吉への権力委譲があまりにもスムーズなので、なんとなく後ろに織田信長がいた感じがしませんか?徳川家康も元主君の織田家を蔑ろにした秀吉一族や、元主君を討った明智一族に酷い仕打ちをしたような話を聞きませんし。戦は大好きだけど、どろどろとした権力闘争は嫌いな織田信長が、どろどろした権力闘争を嫌って本能寺の変の芝居をうって、表の顔を秀吉にして裏から天下統一を目論んだなんて思ったりしますけどね。
織田信長は 敵が多すぎましたね信長の意志を継承する事が、目的の秀吉は あまりにも天下統一を急ぎ過ぎたのかもしれませんね信長の家臣達の結束が、実力主義で競争関係の不安定な組織であった事が、秀吉の戦略が強引な方法に変わってしまった原因だったような気がします 軍師 黒田官兵衛が、人命より合理的に戦略を方向転換してしまったからでしょうか?信長の敵をつくる戦略とは反対に 味方を増やす戦略が、天下統一の原動力のような 戦国時代で疲弊した日の本を急ぎまとめたい秀吉の強引な やり方が、後に評価を落とす原因だったかもしれませんね織田信長の後継者なのですが、織田家の血筋をないがしろにしてしまった戦略が、裏目に出てしまった事が信長の後継者として世間に認めて貰えなかったような 権力争いに勝利するだけでは、日の本の指導者としては不安定な結果を招いてしまったのではないでしょうか?徳川家康を味方にすれば、天下統一を実現出来ると 秀吉自身 思い込みが、強かったのかも知れませんね。
@yamada taro 返信ありがとうございます織田信長が、存命であれば 天下統一は、もっと遅かったとは 思いませんか?降伏しても命の保証は、ないのでは?秀吉の寛容な態度に救われた戦国武将達が、多かったからこそ 天下統一を、成し遂げられたとは思いませんか?織田信長も一代では無理かも知れない事を、悟って 織田信忠の成長に期待していたように思いますね。
@yamada taro そうですね…私の個人的な思い込みかもしれませんね。
ほとんどが嘘以上
さおりさん♥♥♥♥♥
😍さおりさん、いつにも増してメイク最高✨
遅れた❤️
とても可愛いし綺麗な声ですね。内容も整理されていて聞き取りやすいです。
信長の伸びしろを読めずに敵対し、身をもって恐ろしさ知った上杉や毛利は秀吉に従い
信長を認めて敵対しなかった北条は、怖さを知る機会がなく秀吉に亡ぼされた
とすると、なんたる皮肉かな。
北条にだけ厳しいのは、北条が支配する関東は織田・豊臣政権の根拠地である近畿とは全く違う世界観で動いており、信長時代も滝川一益が直接統治できず、秀吉時代になってからも関東には北条がいる限り戦国時代的な風習が抜けなかったことが根底にあるだろう。関東の歴史は北条以前と以降(徳川時代)で大きな区切りができる。
真加藤沙織さん、おかえりなさい。
背後に敵(徳川以東の勢力)が残っている時点で、毛利、長宗我部、島津に徹底抗戦されるわけにもいかないからな。背後に敵がいなくなれば、ほぼ全力を注げることになる。それに抗えば滅ぶことになる。
山岡荘八は、『徳川家康』の中で、「島津が終われば、背後を気にすることなく徳川にかかることになる。その時は真正面から来いと言うてやる。そこでも拒めば、徳川はこの世から消え去ることになる。」と秀吉に言わせている。
さおりスキェェ
家康…ただじゃあ頭下げないぞ。その後の確執はここから始まった…。
民政に厚い北條家を追い込んだのだから坂東民としては豊臣が滅びるのは当たり前。
秀吉にとって上杉家は、柴田家を挟撃するために必要な同盟相手だったんでしょうね。景勝も秀吉という後ろ楯がいることで越後での求心力を確保したかったのかも。
天下統一の最後の見せしめなのかな?北条氏の処遇は┐('~`;)┌秀吉公のみぞしる真実ね
黒田かんべえーは?
確かに北条には、厳しい。でも戦国時代に大きな戦い(九戸はあるけど…)の最後として、ケジメは必要だったのかな?
また切腹を言い渡されたのは隠居した氏政と積極的に戦っていた一族。当主氏直は高野山へ蟄居。後に赦免されている。その後すぐに病死したが、家名は存続しており、断絶はしていない。そう考えると、情け容赦なく、一族を皆殺しにしたって訳でもないから、程々にやってたのかもね…
脇坂→願譜代となり明治維新
片桐→且元系は取潰しだが、弟系は願譜代となり明治維新
加藤嘉明→二代目で取潰しだが三代目が二万石で明治維新
北条は家康、伊達に対するみせしめ的なものもあったと思う
政宗に小田原攻めに来ぬなら北条の次はお前だって脅してたらしいですね
北条は民に対して優しかったから圧政型の豊臣には都合が悪かったのもあると思う。
もし…秀吉の弟。影太閤の秀長公が長寿してたら…抜群の交渉力と兄秀吉の説得で苛烈な処分を受けた方々は少しは救われたかと思いたい。秀長公没後の秀吉は制御する者が居なくなり…内紛の種を作っていった。
北条が許されなかったのは、敗北を認める時を誤った可能性も大いにあると思う。
(敗北確実の状況での降伏者に対しては、許されなかったと思う)
又、北条は徳川と好みを組んでいたので、下手に残せば豊臣の存亡に関わると考えたのかも。
ある推論では、家康は信長と取り決めた約定に従い、東は徳川、西は織田が支配する事である聞く。
、秀吉亡き後に、西は豊臣、東は徳川と言う提案を行うが、淀君に拒まれたので戦になったと言う説も
あると言う。
我々が知らされている歴史では大きな事象は多くの資料が残っているが、詳細な事象に関しては
資料を細かく分析した人達が明らかにしていく事だろう。
徹底抗戦して9割以上負けた時点の相手側を領土安泰とかで許すはずかない、
それを認めたらとりあえず
戦をしてあかん場合にすんまへで通るなら他の大名も一回は
してみようかと、
どのみち海外、大陸今の中国まで進出予定だったから
北条も領土移動後に兵、大将もろとも海外遠征だったと思います。
気前よく加増やら本領安堵やらしてたから北条領ぐらいは全部没収しないと家臣に分けるモノがないからね。北条に問題があったのではなく単に討伐順が最後だったからでしょ
信長が死んで、どーしょうと思っていた所。秀吉が太閤になり天下人になったら、秀吉にゴマを擦る。しかし秀吉が亡くなり家康の時代になると、
良くて外様の小大名か、悪くて廃絶される。まったく戦国大名なんてやってられねーな。つらいわ
格下の同盟国と臣下では天地程の差があるからなぁ…。
北条に関しては、秀吉も武士である以上、武士の聖地の鎌倉や相模国から出ていって貰って、秀吉自身が鶴岡八幡宮に参拝しなければ天下統一のアピールにならないからねぇ…。
そう、わざわざ鶴岡八幡宮でも武家社会の開祖である源頼朝を取り上げているくらいだし、関東と関西ではそもそも武士が歩んできた歴史が全く違う。家康を最終的に関東へ送ったのは、北条という「室町ー戦国時代」を引きずった大名をいつまでもそのまま故地に置いておくよりも、織田ー豊臣政権で生きている徳川というビッグネーム且つ律義者で通っている「武家のトップ(豊臣家は正確には公家)」をおいた方が統治しやすいと考えたからであり、ある意味では関東武士の伝統に豊臣政権流の武家のあり方をそのまま被せた結果だともいえる。
さおりさん、お久しぶりです!元気そうで良かった😊
さおりちゃん 可愛い
顔はやっぱ見えない方が良いんだなぁ
天下統一の総仕上げの戦いだから、俺に歯向かうと最後は切腹させるぞと周りの大名への牽制じゃないかな。 領地安泰すれば力が残って徳川伊達と行末同盟結ばれて関東で不穏な動きをさせない為だと思うんだが。
もし北条がすんなり秀吉に臣従してたらその後の歴史はどう推移しただろうか?
秀吉としては北条から没収した関東に家康を転封して、畿内から遠ざける&領国経営に没頭せざるをえなくなるので動きがとり辛くなる?ことを目論んだとしても北条氏が関東に健在ならそれが出来なくなる。
尾張には小牧長久手で共同戦線をはった織田信雄、三河遠江駿河甲斐信濃を治める家康、その家康と同盟婚姻結んでた北条。
これが友好関係で結ばれてたら秀吉も警戒して頭の痛い問題になったか?
個人的には秀吉も無理に各個撃破・征伐とかせずに北条を五大老と同様に処遇したかなとは思うけど。
北条、徳川、伊達と反豊臣同盟を結ばれたら厄介な存在になるでしょうね。それに同調する大名が出て政権がひっくり返る可能性もある。
北条家は臣従はしていないから。ただ戦、籠城戦に負けただけ。当然、当主は切腹ですよ。戦国、最初にして最後の大名、それが北条家です。豊臣が徳川に滅ぼされたのは当然のことです!悪は滅びる。
色んなとこで書くんだけど北条はラスボスになったから容赦しなくて良くなったのよね
家康は秀吉に臣従した時点では律義者で通ってるから気を遣って将来は政権の藩屏になってもらうこと期待したのではないか?
北条の場合、国内で忠義の程を見せてもらおうかと言う次の攻め先が無かったからかなぁ。伊達が抵抗してれば東北攻め切り取り次第みたいな扱いもできたかもしれないが。
領土を大幅に失った直後に唐入りに行かせるわけにもいかないだろうしね。
北条への領地と身柄安堵は次の政策に有利に働かないからかな?
北条については、いずれは数十万石の大名に復帰させるつもりだったけど氏直が早死にしたためできなかったって話を聞いたことがあるんだけど…
やっぱ俗説だよね?
氏直は一年で罪を許されて1万石を与えられてる。
そして、旧織田信雄邸を与えられてるんだよね。
尾張の国持大名だった信雄の館を与えられたから、いずれ氏直も国持大名に復帰できたんじゃないかって説がある。
備中が伊勢氏の本拠だからここを与える話がよく出てくるけど、すでに宇喜多に与えられてるからどうだろうね。
@@pianochandaisuki さすがに宇喜多を動かしてまで北条氏直を備中に置く理由がないと思うな。
@@伝説の貧乏小僧 というか、そもそも北条家は分家の北条氏盛が河内狭山藩主となって版籍奉還までずっと続いているけどね、氏直が出家後にすぐ亡くならなければ当主も氏直の血統のままだった可能性が極めて高い。北条が大勢力を保った戦国大名だからちょっと分かりづらいけど、関東においては5代に渡って古河公方や関東管領とも繋がった「名家」で十分に家柄は高貴と言える。つまり秀吉は北条を山名や赤松、京極、畠山、喜連川(さらには織田)などのような旧家として小さな領地を与えた上で残そうと考えていたのだろう、実際に江戸幕府もこの路線を継承している。
@@stone3944 氏直が関ヶ原まで生きてたら家康がどこかの国持大名にはしてくれたでしょう。督姫の為にもね。
さおりさんお綺麗です。
真田丸では上杉景勝は秀吉に大分蔑ろにされていましたねw、源次郎を引き立てるための脚本かもしれませんが...w
実際の上杉は厚遇されているけどね。
堀北真希を綺麗にした感じ。
…寛容な処遇が許されないぐらい、秀吉はイライラしたのでしょうか? 豊臣軍に大きな損害は無さそうですが、統一のための時間をかなり奪い北条はその断罪を受けるべきだと言ったのでしょうか? あと、秀吉もできるだけ丸く収めたいぐらい厄介な相手なのが島津でしたね。厳しい処遇のしっぺ返しはやはり脅威でしょうか? ありがとうございました!
さおりの声はいいです。
致命傷かどうかは分からないけど
仏ヶ淵で森長可を撃たれたのや
池田恒興を撃たれたの
は痛かったかもね。
この二人なんて、「消えてくれてよし」ぐらいだろう。
単純に長宗我部のときは島津攻めが残っていたので殲滅戦が出来なかった。島津攻めは島津が意外と粘ったので兵糧の不足、流行病が重なり譲歩案を出さざるを得なくなった。北条は島津攻めの教訓を生かした上で、もう敵が居ない上に殲滅戦は移封した家康がやってくれる(江戸初期まで関東は北条残党が度々蜂起していた)。潰しても秀吉政権に問題がない上に家康が統治失敗したら一挙に潜在敵も減らせる。伊達は秀吉政権そのものには兵を向けていないし降伏したので、秀吉の降伏勧告のバックボーンになっている惣無事令に秀吉の方も縛られることになった
惣無事令で一番理不尽な目に遭ったのは最上義光。秀吉政権には早くから臣従を伝えて羽州探題にも任命されているのに上杉の庄内攻めに遭う。秀吉は惣無事令下で上杉の侵略には何も言わないどころか最上からの抗議は黙殺している。上杉優遇政策以上に最上を嫌っていたとしか言えない仕打ち
駒姫も処刑しちゃったもんねえ
関ヶ原前に小野寺などの所領を奪う事には秀吉もだんまり。。
上杉氏は優遇されていますね
伊達と徳川の牽制役の意味もあったのでしょうが、会津に転封された時は加増されています
優遇はされているけど蒲生が死んだ時点で伊達と徳川を抑え尚且つ広大な領地を治めることが出来る見込みのある親豊臣派の大名は上杉ぐらいだが、上杉景勝には任が重かった。蒲生の死は痛かった。
@@supremegarbage9796 転封されてすぐに家康にいちゃもんつけられてろくに領国経営する時間もないまま関ヶ原だからそれは酷だよ。
上杉は伊達への抑えだから
百万石以上は必要だったし
何より直江兼続が「日本一の陪審」と秀吉に評されてたぐらいだし
秀吉のお気に入りだったんだろう
小田原北條氏を下した後、関東管領の家系である上杉景勝を関東移封という話はなかったのだろうか?駿府家康の牽制には最適だと思ったが。堀秀政が健在なら関八州を任せ度いと言われていたとも、蒲生氏郷あたりを関東転封させたり、伊達政宗を西国転封(秀次事件で伊豫転封説。江戸時代長男秀宗は宇和島藩)させ家康を会津(話はあったらしい)へ加増転封とか実際には様々な案が検討されたのではないかと思われる。
、
気持ちは分かるが結果論、秀長が先に死んだのが豊臣崩壊の引き金。
@@吉村亮道秀長が秀吉より長生きしていたら豊臣家の結束は強まり秀頼へ政権移譲が盤石になり江戸時代は無かった可能性が高い。 これも結果論ですが家康関東移封のあと織田信雄が旧德川領転封を受け入れていたら?
@@wa33785
昨日暇だったので領地の配置も考えたけど、例徳川に関東の7州を与えて小田原だけ真田に渡すとか池田に関東の半分渡し徳川を領地安堵し黒田に池田の領地を持たすとか、多分全て駄目、豊臣家で石田と徳川に意見が言えて調整出来る人間そして秀次を守れる人間は秀長しか居なかった。
そもそも律儀者の家康に関東以北を任せたいってところからくるのが関東移封っぽいからなぁ…豊臣政権における鎌倉公方ポジみたいな
景勝は、前関東菅寮が邪魔になって始末したぐらいだから、関東菅領なんかどうでもいいだろ。
全軍率いて討伐に来たが落とせず面目潰れた上に、当時疑心を懐いていた黒田如水に説き伏せられての降伏だったンデ、拳の下ろし場所が一択された感もある様な…?
さおりさん、お久しぶりです🙋
最近読んだ本でも豊臣政権に臣従するまでの過程とした後を詳細に書いてある本。タイトルなんだけっけな〜
何故、北条だけ?は誤りですよ。
答えは簡単。降伏時に戦力を有していたかどうかです。
北条は籠城軍内の士気が崩壊して、降伏派と抗戦派の内乱手前でしたので、戦力は身の回り近臣のみと評価され、氏直は1万石のみ貰いました。
佐々成政は一揆を引き起こし戦力はゼロどころかマイナスと評価され切腹を命じられました。
豊臣秀頼は降伏せず戦力もゼロに成りましたので、子の国松は斬首に成りました。
至って明確。何が何故なのでしょうかね?
久々にさおり様で、○○○○しました。
小田原征伐の時点で、豊臣の直轄地220万石、北条の直轄地250万石で豊臣より大きな大名ですよ
決して一大名ではなかったです
北条としてはほかの大大名が悉く敵に回るとは思ってなかったのかもですね
細かいことを言うと220万石は豊臣家の領地、250万石は北条家+家臣の領地。なので豊臣家の領地に家臣の領地を含めれば豊臣家の方が多いです。
@@supremegarbage9796 そりゃそうだけど、一戦国大名のデカさじゃないよね北条は。
豊臣配下1800万石。
豊臣より大きな大名って変じゃない?220万石って家臣に分け与えた上での豊臣家の直轄地に対して、北条の250万石ってその後の徳川もそうだけど、家臣に与える分も合わせてだから、豊臣よりデカいってのは語弊があると思う。
可愛いいけど
これで、上杉を秀吉が人たらしで、がんじがらめにしていた事がわかる、家康よりは組み易い秀吉と組んで勝家を討伐できる、この作業が、農民上りにできるわけが無い、老練の軍事顧問がいたのだろう。
司馬、山岡氏などの小説より、参考になります。
歴史はアバウトです。
でも、語り継がれるものです。
時を経て
それが真実になります。
これからも楽しみにしてます。
こんな事言ったら元も子もないが
対秀吉外交の成功者と失敗者の違い
北条は降伏するのが余りにも遅すぎ
あと秀吉は領地を部下に分け与えて
のし上がってきた大名
部下に分け与える領地が必要だった
北条は豊臣政権に残しておいても
余り役に立たないと判断したから
さおりさんお疲れさまです。ありがとうございます。♥♥♥
本能寺の変は本当にあったのでしょうか?
秀吉への権力委譲があまりにもスムーズなので、なんとなく後ろに織田信長がいた感じがしませんか?
徳川家康も元主君の織田家を蔑ろにした秀吉一族や、元主君を討った明智一族に酷い仕打ちをしたような話を聞きませんし。
戦は大好きだけど、どろどろとした権力闘争は嫌いな織田信長が、どろどろした権力闘争を嫌って本能寺の変の芝居をうって、表の顔を秀吉にして裏から天下統一を目論んだなんて思ったりしますけどね。
織田信長は 敵が多すぎましたね
信長の意志を継承する事が、目的の秀吉は あまりにも天下統一を急ぎ過ぎたのかもしれませんね
信長の家臣達の結束が、実力主義で競争関係の不安定な組織であった事が、秀吉の戦略が強引な方法に変わってしまった原因だったような気がします 軍師 黒田官兵衛が、人命より合理的に戦略を方向転換してしまったからでしょうか?
信長の敵をつくる戦略とは反対に 味方を増やす戦略が、天下統一の原動力のような 戦国時代で疲弊した日の本を急ぎまとめたい秀吉の強引な やり方が、後に評価を落とす原因だったかもしれませんね
織田信長の後継者なのですが、織田家の血筋をないがしろにしてしまった戦略が、裏目に出てしまった事が信長の後継者として世間に認めて貰えなかったような 権力争いに勝利するだけでは、日の本の指導者としては不安定な結果を招いてしまったのではないでしょうか?
徳川家康を味方にすれば、天下統一を実現出来ると 秀吉自身 思い込みが、強かったのかも知れませんね。
@yamada taro
返信ありがとうございます
織田信長が、存命であれば 天下統一は、もっと遅かったとは 思いませんか?
降伏しても命の保証は、ないのでは?
秀吉の寛容な態度に救われた戦国武将達が、多かったからこそ 天下統一を、成し遂げられたとは思いませんか?
織田信長も一代では無理かも知れない事を、悟って 織田信忠の成長に期待していたように思いますね。
@yamada taro
そうですね…
私の個人的な思い込みかもしれませんね。
ほとんどが嘘
以上
さおりさん♥♥♥♥♥
😍さおりさん、いつにも増してメイク最高✨
遅れた❤️