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昭和42年43年小倉沢中学校に通いました。冬の積雪には涙が出て怖々ながら歩いた記憶があります。父親は鉱山て、、母親は診療所に。今となっては懐かしく楽しい日々だったように思えます。
実際に小倉沢中学校に通われていたんですね。多い時には小学校・中学校合わせて500人弱の生徒が通い、中学校へは中津川集落の生徒も通っていたようですね。街の人口も2千数百人と多く、閉ざされた炭鉱町とは言え、集会所、診療所、郵便局、共同無料浴場、駐在所などがあり、外に出なくても困らなかったとみたいで、繁栄の頃を思い浮かべると、映画を見ているようです。
記憶には無いけど、私はこの土地で生まれました、父もこの鉱山で働いていました、 貴重な映像を有難うございました。
この土地で生まれた方にご覧いただいたこと、嬉しく思います。住宅等の建物が壊されていても、石積みや石の階段、柱の基礎等が残っていて、まるで映画のセットの中にいるような、耳を澄ませばどこかから人声が聞こえてくるような、そんな不思議な気持ちに包まれました。産業遺産として、末永く保存されて欲しいと思っています。
たまたまこの動画を見つけました。私(69歳)の生まれ故郷です。父がこの日窒鉱山に勤め家族で住んでいました。私が2歳の時、秩父市内に転居したので私自身は全く覚えていませんが、山登りが趣味となり40歳の時、両神山に登り初めてこの地を俯瞰・・・感無量でした。その後、4人兄弟で再びこの地を訪ねました。7歳上の姉は住んでいたのは多分この辺だった(廃墟の住宅は平地が無いので殆ど斜面や崖の上にある。)とかここの学校(廃墟)に通っていたとか懐かし気に説明。3歳上の兄はこの沢で遊んだ記憶があるとか・・・。この動画のおかげで、今一度4人兄弟で尋ねようという気になりました。動画UPありがとうございます。
布施さん、ご覧いただきありがとうございます。初めてこの地を訪れた時、自分の生まれた場所でもないのに、懐かしいような、郷愁のようなものを感じました。まだ残されている建物は空き家とは思えず、当時の人々の息吹や温もりを感じる思いでした。 動画を掲載するに当たり、そこに住んでおられた方や、そのご家族の方々に失礼なシーンがなかったかと、気にかけていましたが、少し思い出のお役にたてたようで、気恥ずかしくもあり光栄でもあります。 この動画の後、2回訪れまして、もう少し丁寧に散策しましたが、急斜面に残された石垣や小路などを見ると、そこを行き来した当時の人々のイメージが沸き、できることなら産業遺産のような形で、このまま保存しておいて欲しいと願いました。
45年~50年前にオートバイと車で3回通りましたが、当時が思い出されて懐かしく感じます。まだ滝山ダムがなく昼間でなければ、怖くて行けません❗
40~50年前に訪れていること、羨ましいです。私は当時の様子は「秩父鉱山」(埼玉県立自然の博物館発行)に掲載されている十数枚のモノクロ写真で想像を膨らませているので、現実に当時の様子を見ていれば、思いが更に深まったのだろうと思っています。
昭和30年代のことですが高校進学の方は秩父市内にニッチツ鉱山宿舎に入って高校に通ってましたが、優秀な方が多かったと記憶が有ります。その時小倉沢と言う所は庭先に真っ青な瑠璃が住んでいると聞いた事が有ります。大滝から来るバスは道が狭いので屋根が丸く角の無い変わったバスでした。子供心にどんな所かなと思ってましたがこの動画が見られてよかったです。昔のことを思い出しました。有り難うございました。
この動画を撮った2018年でも狭い道幅の場所が何ヶ所もありましたので、当時はもっと大変だったでしょうね。別の日に訪れた時、鉱山直前のトンネルを歩いたのですが、歩くと結構長く感じ、照明もなくて真っ暗で道幅も狭く、車が来たらどうしようと、怖い思いでした。庭に瑠璃鳥が営巣していたこと、あの自然の中ならば、十分に想像できます。私はカワセミはたまに見ますが、残念ながらまだ瑠璃は見たことがありません。秩父鉱山には今でもいるかも知れないですね。
高校生の方は鉱山の宿舎ではなく大滝村の宿舎だったとおもいます。私も通っていましたから。
秩父は良いところですよね😊数年前、大滝村に行った時は、春の山間に色とりどりな花や木々で覆われている村が天空の景色として今も私の脳裏に焼きついています✴その先に秩父鉱山が大勢の人達で栄えていたなんて、なんか感慨深いですね😊
同じ鉱山町として足尾銅山がありますが、銅山の上流にあった3集落は消滅して、今は当時の痕跡は探せません。秩父鉱山は縮小しながらも石灰採掘をまだ続けていて、街を構成した土地も会社所有のためなのか、まだいくつかの建物や石垣などが残っていて、当時を知る貴重な遺産だと思います。
おはようございます。初めまして。矢尾の鉱山町の記憶の写真を見てきたり中津川地区の人に昔は栄えていたとか賑やかだったとか様々なお話を聴きました。写真や映像を観ると凄く切なさを感じます。
ありがとうございます、私の母親とオジは1944年までここではたらいてました。その頃は空襲もなく平和な山里だったそうです。私の友人達もへき地の学校にもかかわらず優秀な人がたくさんいました。母を連れてたまにここを訪れますがあの頃を思い出しているようです。
この動画を撮影した後、2回訪れましたが、集落跡は変わっていませんでした。2回目の時には道路から更に分け入って、急斜面に建つ廃墟化した住居や基礎、石の階段等も確認しました。自分が育った場所でもないのに、ノスタルジアを感じます。当時の集落が復活したら住んでみたいような気持に陥ります。
私も高校生の時に訪れました。本当に静かな場所でいいところでした。長くて暗い素掘りのトンネルを抜けると現れるこの廃村を忘れることはないだろう。
ニッコリマリンさん、あの素掘りのトンネルを通ったんですね。私は工事で車両通行止め期間中に徒歩で通過しましたが、真っ暗闇で怖いようでした。今は廃墟と化した人口2000~3000の集落跡にたたずむと、当時の賑わいが聞こえて来るようです。
バイクで散策中に偶然発見しました。トンネルを抜けた直後に広がる異空間は衝撃的すぎてちょっとしたテーマパークにいる感覚でした。それからしばらく廃墟探索に夢中になりました。もう20年前の話です。
私はこの動画を撮った2018年4月に初めて訪れたのですが、廃墟とは言え、秩父鉱山町が賑わっていた頃の面影が十分に残されていて、感動的でした。その後2回訪れ、更に山の傾斜面の住居跡等も確認し、興味が尽きません。つけめんさん仰るように、あのままの形でテーマパークになると思います。
同級生に、小倉沢からの転校生がいました。
身近に、小倉沢からの転校生がいらっしゃったこと、当時の歴史を実感する思いです。
小倉沢からの転校生に誘われて、一度行ったことがあります。賑やかで別世界でした。50年近くも前のことです… 動画ありがとうございます。
うちの町には2カ所採石場があったが去年で新しい方も営業終わってしまった。
北海道や北九州の炭坑の街が消え、私が住む群馬県付近では足尾銅山が閉鎖し、採掘場や採石場はその多くが閉じました。でも閉じたそれぞれの場所で、当時を偲ばせる何かが残されていると、当時の人々の暮らしが思い浮かび、郷愁ににた何かを感じますね。
煮込め (2こめ) ❣️こんにちは〜〜🙋♀️秩父の紅葉🍁間に合ううちに、この場所に 行ってみたいなぁ〜〜🖐🏼😃
こんにちは。私も紅葉が見たくて、先日11月2日に出かけて来ました。ちょっと早かった感じですが、それでも圧巻の紅葉を見ることができました。先ほど、「中津峡」のタイトルで動画をアップしました。よろしかったらご覧ください。それと、11月2日時点で、中津峡のトンネルの一つが破損の危険があるようで、「出会い」の先から車両通行止めでした。
伊勢崎丸男 さま❣️返信、ありがとうございます🙇♀️そうでしたか、 お出かけの際は、どうかお気をつけて下さいね 。また、次回作、見させていただきますね〜〜✌️😉
秩父鉱山の周辺の様子が分かってよかったです!
昭和38年頃の秩父鉱山の建物配置図(作図:黒沢和義氏)を入手しましたので、廃墟化が進行する前に、この図面を参照しながら改めて出かけてみたいと思います。
本日行ったら道路が封鎖されてました...残念
そうなんです、トンネル内部が崩壊した箇所があったようですね。その時期にも出かけ、出会いから徒歩で鉱山まで行きました。片道8kmくらいあったと思います。いい運動でした。先週また出かけましたが、交通止めは解消していました。郵便局は閉鎖(休止?)していました。
黄色いガーネットがあるらしいよ
秩父鉱山を調べると、石灰岩のほかに黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、自然金など、様々な金属鉱物が出たようです。
ゆうパック…
ひょっとして、「秩父鉱山簡易郵便局」の関連したことを伝えたかったのでしょうか。現在、この郵便局は一時閉鎖中ですが、再開したとしたら消印をもらうために、何か自分宛ての郵便物を投函してみようと考えています。
昭和42年43年小倉沢中学校に通いました。冬の積雪には涙が出て怖々ながら歩いた記憶があります。父親は鉱山て、、母親は診療所に。今となっては懐かしく楽しい日々だったように思えます。
実際に小倉沢中学校に通われていたんですね。多い時には小学校・中学校合わせて500人弱の生徒が通い、中学校へは中津川集落の生徒も通っていたようですね。街の人口も2千数百人と多く、閉ざされた炭鉱町とは言え、集会所、診療所、郵便局、共同無料浴場、駐在所などがあり、外に出なくても困らなかったとみたいで、繁栄の頃を思い浮かべると、映画を見ているようです。
記憶には無いけど、私はこの土地で生まれました、父もこの鉱山で働いていました、 貴重な映像を有難うございました。
この土地で生まれた方にご覧いただいたこと、嬉しく思います。住宅等の建物が壊されていても、石積みや石の階段、柱の基礎等が残っていて、まるで映画のセットの中にいるような、耳を澄ませばどこかから人声が聞こえてくるような、そんな不思議な気持ちに包まれました。産業遺産として、末永く保存されて欲しいと思っています。
たまたまこの動画を見つけました。私(69歳)の生まれ故郷です。父がこの日窒鉱山に勤め家族で住んでいました。私が2歳の時、秩父市内に転居したので私自身は全く覚えていませんが、山登りが趣味となり40歳の時、両神山に登り初めてこの地を俯瞰・・・感無量でした。その後、4人兄弟で再びこの地を訪ねました。7歳上の姉は住んでいたのは多分この辺だった(廃墟の住宅は平地が無いので殆ど斜面や崖の上にある。)とかここの学校(廃墟)に通っていたとか懐かし気に説明。3歳上の兄はこの沢で遊んだ記憶があるとか・・・。この動画のおかげで、今一度4人兄弟で尋ねようという気になりました。
動画UPありがとうございます。
布施さん、ご覧いただきありがとうございます。初めてこの地を訪れた時、自分の生まれた場所でもないのに、懐かしいような、郷愁のようなものを感じました。まだ残されている建物は空き家とは思えず、当時の人々の息吹や温もりを感じる思いでした。
動画を掲載するに当たり、そこに住んでおられた方や、そのご家族の方々に失礼なシーンがなかったかと、気にかけていましたが、少し思い出のお役にたてたようで、気恥ずかしくもあり光栄でもあります。
この動画の後、2回訪れまして、もう少し丁寧に散策しましたが、急斜面に残された石垣や小路などを見ると、そこを行き来した当時の人々のイメージが沸き、できることなら産業遺産のような形で、このまま保存しておいて欲しいと願いました。
45年~50年前にオートバイと車で3回通りましたが、当時が思い出されて懐かしく感じます。まだ滝山ダムがなく昼間でなければ、怖くて行けません❗
40~50年前に訪れていること、羨ましいです。私は当時の様子は「秩父鉱山」(埼玉県立自然の博物館発行)に掲載されている十数枚のモノクロ写真で想像を膨らませているので、現実に当時の様子を見ていれば、思いが更に深まったのだろうと思っています。
昭和30年代のことですが高校進学の方は秩父市内にニッチツ鉱山宿舎に入って高校に通ってましたが、優秀な方が多かったと記憶が有ります。その時小倉沢と言う所は庭先に真っ青な瑠璃が住んでいると聞いた事が有ります。大滝から来るバスは道が狭いので屋根が丸く角の無い変わったバスでした。子供心にどんな所かなと思ってましたがこの動画が見られてよかったです。昔のことを思い出しました。有り難うございました。
この動画を撮った2018年でも狭い道幅の場所が何ヶ所もありましたので、当時はもっと大変だったでしょうね。別の日に訪れた時、鉱山直前のトンネルを歩いたのですが、歩くと結構長く感じ、照明もなくて真っ暗で道幅も狭く、車が来たらどうしようと、怖い思いでした。
庭に瑠璃鳥が営巣していたこと、あの自然の中ならば、十分に想像できます。私はカワセミはたまに見ますが、残念ながらまだ瑠璃は見たことがありません。秩父鉱山には今でもいるかも知れないですね。
高校生の方は鉱山の宿舎ではなく大滝村の宿舎だったとおもいます。私も通っていましたから。
秩父は良いところですよね😊数年前、大滝村に行った時は、春の山間に色とりどりな花や木々で覆われている村が天空の景色として今も私の脳裏に焼きついています✴その先に秩父鉱山が大勢の人達で栄えていたなんて、なんか感慨深いですね😊
同じ鉱山町として足尾銅山がありますが、銅山の上流にあった3集落は消滅して、今は当時の痕跡は探せません。秩父鉱山は縮小しながらも石灰採掘をまだ続けていて、街を構成した土地も会社所有のためなのか、まだいくつかの建物や石垣などが残っていて、当時を知る貴重な遺産だと思います。
おはようございます。初めまして。
矢尾の鉱山町の記憶の写真を見てきたり中津川地区の人に昔は栄えていたとか賑やかだったとか様々なお話を聴きました。
写真や映像を観ると凄く切なさを感じます。
ありがとうございます、私の母親とオジは1944年までここではたらいてました。
その頃は空襲もなく平和な山里だったそうです。
私の友人達もへき地の学校にもかかわらず優秀な人がたくさんいました。
母を連れてたまにここを訪れますがあの頃を思い出しているようです。
この動画を撮影した後、2回訪れましたが、集落跡は変わっていませんでした。2回目の時には道路から更に分け入って、急斜面に建つ廃墟化した住居や基礎、石の階段等も確認しました。自分が育った場所でもないのに、ノスタルジアを感じます。当時の集落が復活したら住んでみたいような気持に陥ります。
私も高校生の時に訪れました。本当に静かな場所でいいところでした。長くて暗い素掘りのトンネルを抜けると現れるこの廃村を忘れることはないだろう。
ニッコリマリンさん、あの素掘りのトンネルを通ったんですね。私は工事で車両通行止め期間中に徒歩で通過しましたが、真っ暗闇で怖いようでした。今は廃墟と化した人口2000~3000の集落跡にたたずむと、当時の賑わいが聞こえて来るようです。
バイクで散策中に偶然発見しました。
トンネルを抜けた直後に広がる異空間は衝撃的すぎてちょっとしたテーマパークにいる感覚でした。
それからしばらく廃墟探索に夢中になりました。
もう20年前の話です。
私はこの動画を撮った2018年4月に初めて訪れたのですが、廃墟とは言え、秩父鉱山町が賑わっていた頃の面影が十分に残されていて、感動的でした。その後2回訪れ、更に山の傾斜面の住居跡等も確認し、興味が尽きません。つけめんさん仰るように、あのままの形でテーマパークになると思います。
同級生に、小倉沢からの転校生がいました。
身近に、小倉沢からの転校生がいらっしゃったこと、当時の歴史を実感する思いです。
小倉沢からの転校生に誘われて、一度行ったことがあります。賑やかで別世界でした。50年近くも前のことです…
動画ありがとうございます。
うちの町には2カ所採石場があったが去年で新しい方も営業終わってしまった。
北海道や北九州の炭坑の街が消え、私が住む群馬県付近では足尾銅山が閉鎖し、採掘場や採石場はその多くが閉じました。でも閉じたそれぞれの場所で、当時を偲ばせる何かが残されていると、当時の人々の暮らしが思い浮かび、郷愁ににた何かを感じますね。
煮込め (2こめ) ❣️
こんにちは〜〜🙋♀️
秩父の紅葉🍁間に合ううちに、
この場所に 行ってみたいなぁ〜〜🖐🏼😃
こんにちは。私も紅葉が見たくて、先日11月2日に出かけて来ました。ちょっと早かった感じですが、それでも圧巻の紅葉を見ることができました。先ほど、「中津峡」のタイトルで動画をアップしました。よろしかったらご覧ください。それと、11月2日時点で、中津峡のトンネルの一つが破損の危険があるようで、「出会い」の先から車両通行止めでした。
伊勢崎丸男 さま❣️
返信、ありがとうございます🙇♀️
そうでしたか、 お出かけの際は、
どうかお気をつけて下さいね 。
また、次回作、見させていただきますね〜〜✌️😉
秩父鉱山の周辺の様子が分かってよかったです!
昭和38年頃の秩父鉱山の建物配置図(作図:黒沢和義氏)を入手しましたので、廃墟化が進行する前に、この図面を参照しながら改めて出かけてみたいと思います。
本日行ったら道路が封鎖されてました...残念
そうなんです、トンネル内部が崩壊した箇所があったようですね。その時期にも出かけ、出会いから徒歩で鉱山まで行きました。片道8kmくらいあったと思います。いい運動でした。先週また出かけましたが、交通止めは解消していました。郵便局は閉鎖(休止?)していました。
黄色いガーネットがあるらしいよ
秩父鉱山を調べると、石灰岩のほかに黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、自然金など、様々な金属鉱物が出たようです。
ゆうパック…
ひょっとして、「秩父鉱山簡易郵便局」の関連したことを伝えたかったのでしょうか。現在、この郵便局は一時閉鎖中ですが、再開したとしたら消印をもらうために、何か自分宛ての郵便物を投函してみようと考えています。