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いまだに光秀を土岐明智氏の末裔と考えている人が多いなか、とても信頼できる動画だと思います!!
土岐氏関係の人物であるのは確定してるけどね
ありがとうございます
改めて見直してます楽しんでます。
織田家の家臣になるのは比叡山焼き討ちのころ。それまでは幕府の臣として信長家臣と合力して幕政に関与していた。当時の公文書の署名順の変化にそれが見て取れる。義昭が勝手に寺社の知行をうんぬんの話も信長や幕府の連中(光秀含む)は畿内で多くの寺社領や禁裏御料地を横領して多くの訴訟沙汰になってるので義昭が勝手にというあたりからしてナンセンス。ちなみにこのときに久世荘禁裏御料地(天皇領)の横領で勘勅(朝廷よりの処罰)を光秀が2度までも受けたのは歴史マニアには有名な話(大事になったので信長も逃げ回ったが勅使が城まで来たので居留守を使うなどしてる)もっともこの辺の事情はかなり込み合っていて単純に領地を奪った、掠め取ったというのではなく長い戦乱で「どの土地、そして諸権利は誰のものなのか」といった辺りがかなり錯綜していて誰もかれもが一度や二度は、この横領騒ぎを経験する羽目になっている。久世荘禁裏御料地の問題も光秀が占拠したなどというのではなく丹波一円支配を任された光秀が御料地での祖調や雇夫といった収税を行い、それを禁裏へ納めずに自分のものにしたというので禁裏より正式に幕府へと訴えられているのだが、本来そのような横領問題に対処するのも京都奉行である光秀の役目であり、その光秀がやたらと横領問題を起こしてもいるのが面白いところで、信長から叱責の手紙が送られたことさえあるが光秀は再三にわたりこれを無視したとまでいう(さすがに最終的には返却したらしい)。そのあたりからしても光秀という人物は通説などとはかなり異なる癖のある人間としか言いようがない。ちなみに後の太閤検地の本質は、この錯綜した権利関係(一つの土地に10人以上の収税権利者が居たりした)の整理でもあり、その後は土地に帰属する諸権利(主に税収面)の定義と権利者の整理が行われることになった。
勉強になる。乙
光秀同様、前半生が不明な武将と言ったら大谷吉房(大谷盛治?)や森吉成ですが、優秀な息子を持つ父親たちの前半生が判明したら是非、特集してほしいです
徳川が源氏やなかったのがびっくり。
私の13代前の先祖は、浜松城主だった徳川家康に450石で仕えていた。
上士階級乙水呑百姓ワイ草鞋を脱いで土下座🙇
450かぁ…
少し心が痛みますが南米では一時日系人の親族になるために貧しい人達の間で戸籍や養子の名義売買が盛んだった武士の後代からする系譜作りに近い感覚
戦後すぐの広島が戸籍売買のメッカになったのと同じだね
地下家で上御倉の立入家文書に土岐家随分の衆とあるのは光秀本人と言うより明智苗字の事でしょうか、藤孝自身入り苗字ですしwww
合戦話によく出て来る城下に火を放ち⬆️これ住民はタヒんでるんだよな。まあ南京や広島と同じで直接は何人?て不毛な数字議論になりがちだけど。
有能な武将という以外何の印象も無い不思議な人物突発的な謀反、敗死が唯一の失敗?年齢の問題が無ければ織田家臣団最上位で大活躍だった筈黒幕説は論外ですがやはり異常な行動にみえますね。自負と年齢から機会に誘惑されて大失敗してしまった残念な人。
わしゃどうしても明智光秀は室町幕府気質が抜けない男として見てしまうな。将軍を傀儡として据えるのが応仁の乱後の権力構図なら信長はその延長で光秀も将軍の与力的な立ち位置だったんじゃないかな。信長はともかく、光秀は心情として義満配下の同輩と言う目で信長を見ていたと思う。だからこそ足利幕府の権力争いと言う形で本能寺の変を起こした。これを織田家の内部争いに矮小化した秀吉が凄かったんじゃないかな。実は戦国時代を創ったのも室町幕府を終わらせたのも秀吉じゃないか。
本能寺の変の後、山崎の合戦で光秀が秀吉に敗れると、光秀の孫は土佐に亡命。近江の坂本城に因んで坂本と改姓した。その子孫の1人に、坂本龍馬が居る。
という物語
その話が本当だったら子孫はイギリスの武器商人(龍馬)ってことになる。先祖の光秀も日本の伝統あるものに何の遠慮もなかったし、おもろいな。
やっと掴みました。しかかく氏は東方ガチ勢とインプット。東方無知者が饅頭化をしつこくリクエストしたのは、無礼な振る舞いだったと反省しております。綺羅星が集う室町主界で東方推しはしかかく氏の個性。良いと思います。図表が1番解り易いのもしかかく氏。大内氏シリーズが素晴らし過ぎて大ファンになりました。
1番面倒なところを任せたんだからノッブは光秀を家臣中最優秀だと評価してたんだな。光秀自身にも自覚があって自分しか出来ない事なら自分の為にやりたいと考えたように見えますね。秀吉を見誤ったのが唯一の失敗。秀吉さえいなかったら普通に光秀天下はあり得た印象。
何故か歴史系動画は内容と視聴数が合わないこのネタとクォリティで登録千、コメ3とかおかしないか?どっかで会ったら札を押し付けたいぐらい面白いんだがあと年寄りは饅頭好きで東方は苦手何故か淫夢はすんなり受け入れる傾向がある(自分語り。伸びて続いてほしいなこのch
ありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです
人から聞いただけの話ですが徳川もとい松平の苗字はもともと【得川】という性で、1438年に関東で起こった鎌倉公方:足利持氏と関東管領;上杉憲実が激突した”永享の乱”で上杉に土地を追われた近親・親氏 親子が三河:松平郷に流れ、その時の領主:松平信重に息子:親氏が気に入られて養子入りしたことで【松平】性に変わったとか。そしてその後、三河の国を平定して家康が幕府や朝廷から”三河の守”に認められた時に【徳川】性に変え、「自分:家康の血筋のみ【徳川】を名乗ることを許し、それ以外の一族は【松平】のままとする。」という松平 宗家の線引きをしたとか。
あの謎の連歌師誰かゆっくり解説しろ下さい。
割と現代日本でも作家や政治家が、学歴詐称してますよ(^_^;) 密ですの人も。
根拠は?それ名誉毀損だけど大丈夫そ?
いまだに光秀を土岐明智氏の末裔と考えている人が多いなか、とても信頼できる動画だと思います!!
土岐氏関係の人物であるのは確定してるけどね
ありがとうございます
改めて見直してます
楽しんでます。
織田家の家臣になるのは比叡山焼き討ちのころ。それまでは幕府の臣として信長家臣と合力して幕政に関与していた。当時の公文書の署名順の変化にそれが見て取れる。
義昭が勝手に寺社の知行をうんぬんの話も信長や幕府の連中(光秀含む)は畿内で多くの寺社領や禁裏御料地を横領して多くの訴訟沙汰になってるので義昭が勝手にというあたりからしてナンセンス。ちなみにこのときに久世荘禁裏御料地(天皇領)の横領で勘勅(朝廷よりの処罰)を光秀が2度までも受けたのは歴史マニアには有名な話(大事になったので信長も逃げ回ったが勅使が城まで来たので居留守を使うなどしてる)
もっともこの辺の事情はかなり込み合っていて単純に領地を奪った、掠め取ったというのではなく長い戦乱で「どの土地、そして諸権利は誰のものなのか」といった辺りがかなり錯綜していて誰もかれもが一度や二度は、この横領騒ぎを経験する羽目になっている。
久世荘禁裏御料地の問題も光秀が占拠したなどというのではなく丹波一円支配を任された光秀が御料地での祖調や雇夫といった収税を行い、それを禁裏へ納めずに自分のものにしたというので禁裏より正式に幕府へと訴えられているのだが、本来そのような横領問題に対処するのも京都奉行である光秀の役目であり、その光秀がやたらと横領問題を起こしてもいるのが面白いところで、信長から叱責の手紙が送られたことさえあるが光秀は再三にわたりこれを無視したとまでいう(さすがに最終的には返却したらしい)。そのあたりからしても光秀という人物は通説などとはかなり異なる癖のある人間としか言いようがない。
ちなみに後の太閤検地の本質は、この錯綜した権利関係(一つの土地に10人以上の収税権利者が居たりした)の整理でもあり、その後は土地に帰属する諸権利(主に税収面)の定義と権利者の整理が行われることになった。
勉強になる。乙
光秀同様、前半生が不明な武将と言ったら大谷吉房(大谷盛治?)や森吉成ですが、優秀な息子を持つ父親たちの前半生が判明したら是非、特集してほしいです
徳川が源氏やなかったのがびっくり。
私の13代前の先祖は、浜松城主だった徳川家康に450石で仕えていた。
上士階級乙
水呑百姓ワイ
草鞋を脱いで土下座🙇
450かぁ…
少し心が痛みますが
南米では一時日系人の親族になるために
貧しい人達の間で戸籍や養子の名義売買が盛んだった
武士の後代からする系譜作りに近い感覚
戦後すぐの広島が戸籍売買のメッカになったのと同じだね
地下家で上御倉の立入家文書に土岐家随分の衆とあるのは光秀本人と言うより明智苗字の事でしょうか、藤孝自身入り苗字ですしwww
合戦話によく出て来る城下に火を放ち
⬆️これ住民はタヒんでるんだよな。
まあ南京や広島と同じで直接は何人?て
不毛な数字議論になりがちだけど。
有能な武将という以外
何の印象も無い不思議な人物
突発的な謀反、敗死が唯一の失敗?
年齢の問題が無ければ
織田家臣団最上位で大活躍だった筈
黒幕説は論外ですがやはり
異常な行動にみえますね。
自負と年齢から機会に誘惑されて
大失敗してしまった残念な人。
わしゃどうしても明智光秀は室町幕府気質が抜けない男として見てしまうな。将軍を傀儡として据えるのが応仁の乱後の権力構図なら信長はその延長で光秀も将軍の与力的な立ち位置だったんじゃないかな。信長はともかく、光秀は心情として義満配下の同輩と言う目で信長を見ていたと思う。だからこそ足利幕府の権力争いと言う形で本能寺の変を起こした。これを織田家の内部争いに矮小化した秀吉が凄かったんじゃないかな。実は戦国時代を創ったのも室町幕府を終わらせたのも秀吉じゃないか。
本能寺の変の後、山崎の合戦で光秀が秀吉に敗れると、光秀の孫は土佐に亡命。近江の坂本城に因んで坂本と改姓した。その子孫の1人に、坂本龍馬が居る。
という物語
その話が本当だったら子孫はイギリスの武器商人(龍馬)ってことになる。
先祖の光秀も日本の伝統あるものに何の遠慮もなかったし、おもろいな。
やっと掴みました。
しかかく氏は東方ガチ勢と
インプット。東方無知者が
饅頭化をしつこくリクエストしたのは、無礼な振る舞いだったと反省しております。綺羅星が集う室町主界で
東方推しはしかかく氏の個性。
良いと思います。図表が1番解り易いのもしかかく氏。大内氏シリーズが素晴らし過ぎて大ファンになりました。
1番面倒なところを任せたんだから
ノッブは光秀を家臣中最優秀だと評価してたんだな。光秀自身にも自覚があって自分しか出来ない事なら自分の為にやりたいと考えたように見えますね。秀吉を見誤ったのが唯一の失敗。
秀吉さえいなかったら
普通に光秀天下はあり得た印象。
何故か歴史系動画は
内容と視聴数が合わない
このネタとクォリティで
登録千、コメ3とかおかしないか?
どっかで会ったら札を押し付けたい
ぐらい面白いんだが
あと年寄りは饅頭好きで東方は苦手
何故か淫夢はすんなり受け入れる
傾向がある(自分語り。
伸びて続いてほしいなこのch
ありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです
人から聞いただけの話ですが
徳川もとい松平の苗字はもともと【得川】という性で、1438年に関東で起こった鎌倉公方:足利持氏と関東管領;上杉憲実が激突した”永享の乱”で上杉に土地を追われた近親・親氏 親子が三河:松平郷に流れ、その時の領主:松平信重に息子:親氏が気に入られて養子入りしたことで【松平】性に変わったとか。
そしてその後、
三河の国を平定して家康が幕府や朝廷から”三河の守”に認められた時に【徳川】性に変え、「自分:家康の血筋のみ【徳川】を名乗ることを許し、それ以外の一族は【松平】のままとする。」という松平 宗家の線引きをしたとか。
あの謎の連歌師
誰かゆっくり解説しろ下さい。
割と現代日本でも作家や政治家が、学歴詐称してますよ(^_^;) 密ですの人も。
根拠は?それ名誉毀損だけど大丈夫そ?