東京大学 日本史 1992年度 第1問 百済の役

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  • เผยแพร่เมื่อ 14 ม.ค. 2025
  • 1992年度 第1問 百済の役(白村江の戦い)
    次の文章を読み、下記の設問に答えよ。
     西暦660年百済が唐・新羅の連合軍の進攻によって滅亡したとき、百済の鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られてきていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌662年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。663年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連係して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。
    〔設問〕このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。下の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情とに留意して5行以内で説明せよ。
    612 隋、高句麗に出兵する(→614)。
    618 隋滅び、唐起こる。
    624 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
    637 唐、貞観律令を公布する。
    640 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
    645 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
    648 唐と新羅の軍事同盟成立する。
    660 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
    663 白村江の戦い。
    668 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。
    ***************
     2011年度 第1問 白村江の戦いとその後の情勢
    663年に起きた白村江の戦いとその後の情勢に関する次の(1)〜(5)の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。
    (1) 664年,対島・壱岐島・筑紫国等に防人と烽火〔とぶひ〕を置き,筑紫に水城を築いた。翌年,答●[火+本]春初〔とうほんしゅんしょ〕を派遣して長門国に城を築き,憶礼福留〔おくらいふくる〕・四比福夫〔しひふくふ〕を筑紫国に派遣して大野城と基肄城とを築かせた。
    (2) 高句麗が滅んだ668年,新羅からの使者に託して,中臣鎌足は新羅の高官金臾信〔きんゆしん〕に船1隻を贈り,天智天皇も新羅王に船1隻を贈った。唐に向けては,翌年高句麗制圧を祝う遣唐使を送ったが,その後30年ほど遣使は途絶えた。
    (3) 671年,倭の朝廷は,百済貴族の余自信〔よじしん〕・沙宅紹明〔さたくじょうみょう〕・憶礼福留・答●[火+本]春初ら50余人に倭の冠位を与えて,登用した。
    (4) 百済救援の戦いに動員された筑紫国の兵士大伴部博麻〔おおともべのはかま〕は,ともに唐軍に捕えられた豪族の筑紫君ら4人を帰国させるために自らの身を売った。博麻が新羅使に送られて帰国できたのは,690年のことであった。
    (5) 『日本霊異記』によれば,備後国三谷郡司の先祖は,百済救援の戦いに赴いて無事に帰国したのち,連れ帰った百済人僧侶の力を借りて,出征前の誓いどおり,郷里に立派な寺院を建立したという。この寺院は,発掘調査された寺町廃寺である。伊予国の郡司の先祖についても,同様の話が伝わる。
    設問
    A 白村江の戦いに倭から派遣された軍勢の構成について,1行以内で述べなさい。
    B 白村江での敗戦は,日本古代の律令国家の形成にどのような影響をもたらしたのか,その後の東アジアの国際情勢にもふれながら,5行以内で述べなさい。

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