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子供の頃(1960年代)に、16時30分発寝台急行「北上」号青森行の寝台(1回目にはナハネ10、2回目にはスハネ30)に2回乗りました。帰りは、特急「はつかり」号に乗りました(1回目は、展望車連結の客車で、2回目は、気動車特急でした)。どちらも懐かしいです。掲載していただきありがとうございました。
@Akihiro TAKAHASHIご視聴ありがとうございます。貴重なご経験をされていますね。2等寝台車に乗車されたのかと思いますが、きっと今ではもう存在しない3段寝台で移動されたのですね。当時は利用する方も多かったのでしょうね。「はつかり」も乗車されたことが大変うらやましいです。しかも客車と気動車の両方とも経験しておられることに驚きです。駅弁もしくは食堂車で車窓を楽しみながら、鉄道旅をもう一度味わいたいなと思います。コメントありがとうございました。
上野発普通青森行きはイカれてますねww 所要時間は22時間😵
常磐線は国鉄末期くらいまで上野発着の客車普通列車が残っていましたよね。懐かしい。この時代は平以北が非電化だったと思うので、平以遠行の普通列車はほぼ全部が客車だったんでしょうね。
@でぶちんご視聴とコメントありがとうございます。確認したところ、上野駅始発で平以遠に向かう普通列車は全て客車列車になっていました。しかし平駅周辺の区間運転の列車には気動車も使用されていたようです。バリエーションに富んでおり、大変面白かったでしょうね。
@@tomoyankun 当時、平以北を通る客車列車は「C62」牽引がほとんどだったそうですからね。
仙台から上京し、大学卒業から数年、この頃五輪に関係する仕事をしていた父にとって常磐線は東京とふるさとを繋ぐ存在でもありました。ほとんどの時間帯で中距離電車(客車含む)は1時間に1本だったのですね。まだ竜ヶ崎などのニュータウンの開発前、住宅圏もまだ松戸や柏あたりがせいぜいだったことと思います。とは言え客車は10両以上の長い編成。駅を発車する度に連結器の振動が響き、夜は眠れなかったでしょうね。長い距離を停まらずに安眠できる夜行の寝台急行がどれだけ有りがたかったかが良く分かります。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。東京五輪の仕事は大変だったでしょうけれども、やりがいのある素晴らしい仕事ですね。お父様は大変すばらしいお仕事をしておられたのですね。今の通勤圏の広さや、人口の多さの感覚で見ていると、当時のダイヤには違和感を覚えますよね。時刻表だけでなく、当時の都市開発の状況を照らし合わせると、新たな発見があって面白いですね。客車は走行中は比較的静かですが、発車と停止時の衝撃と音がすごいですね。昔日本海に乗ったときには、衝撃で毎回目が覚めてしまいました。
@@tomoyankun この頃の常磐線はメイン幹線ではあれど東海道線の華やかさや特急街道になりつつあった東北線などと比較すると地味だったかもしれませんね。つくば万博やバブル期ともなると交流区間はかなり住宅開発が行われるようになりました。広々とした環境だけでなく筑波大学や国の研究機関の移転をはじめとした文教地域としての発展も見逃せないものと思います。それが昇華して並行路線であるTXの開業に至るものでした。首都圏の均衡ある発展という面で常磐線沿線の都市化の進展も興味深いものがありますね。
@TSUYO S さん仰る通り、東海道本線などと比較すると、地味さはありますね。TXの成功にもあるように、沿線の開発が順調にすすんだことがよくわかります。今まで私は時刻表を読んでいて満足していたところがありました。しかし動画を作成するようになり皆さんからいただくコメントを拝見すると、沿線の開発による人口増加や産業の発展により、ダイヤも柔軟に対応していったことがわかり、都市開発の歴史にも大変興味が出てきました。鉄道の趣味は奥深いですね。ありがとうございます。
この時代は平までが電化区間でその先や成田線は非電化ですよね。平以北行きや成田方面行きはもちろん、平以南行きの普通列車も一部は客車だったと思います。さらには貨物列車も多くは常磐線経由。直流区間の電車もさることながら、電車、気動車、客車の混在でダイヤ編成は本当に大変だったでしょうね。
「点と線」で安田辰郎が乗ったことになっている十和田号は、上野発19:15〜青森着9:09だから7年で30分くらいしか短縮になってない。ちなみに1981年の十和田3号は上野発20:50〜青森着9:07。
@伊東敏明ご視聴ありがとうございます。「点と線」は私は存じ上げませんでしたので、調べてみました。当時から列車ダイヤを利用したトリックの話が作られていたことに驚きました。牽引機がSLからELへと変化していきましたが、電車とは違い、大幅な時間短縮にはつながらなかったわけですね。コメントありがとうございました。
普通勝田行きは今でも当たり前のようにあるけど、この頃は普通平行きもけっこうあったんですね。今でも、いわきよりも平の方が良かったと思います。いわき市がごねたのもあったけど、どこかに「平」を残して欲しかったですね。西鹿児島と同じく平も変えて欲しくなかった駅名の一つです。
@源道義ご視聴ありがとうございます。当時は長距離運用がどのこの路線でも多いのを実感しますね。市町村合併があったからという理由もわかりますが、西鹿児島の件と同様に、「平」も残してほしかったなとは思います。近くの「勝田」駅には改称の動きはないようですね。コメントありがとうございました。
11レ 急行みちのく 青森行き映画「ある機関助士」のオープニングに出てきますね。もっとも映画はこのダイヤ改正前に公開ですが…。
@radiotanpa さんご視聴ありがとうございます。「ある機関助士」を早速拝見しました。水戸駅での5分の停車時間。時刻表では見えない、苦労や想いに触れることができ、とても有意義でした。電化区間を疾走するC62も大迫力ですね。素敵な映画をお勧めしていただきありがとうございました。
まだ上野が東京駅の役割だった時代ですね 「上野行き」の列車も沢山ありましたね 今もスワローあかぎで残ってますが
ご視聴とコメントありがとうございます。「上野行き」の列車は随分減ってしまいましたね。優等列車の「上野行き」は絶滅寸前の状態で時代の変化を感じますね。
土浦行きが1日数本の時点で時代の流れを感じる今じゃほとんど土浦止まりだからなぁ
三河島事故の影響が青森まで出ていたようですね
@a.k.a.pierce Yuta ご視聴ありがとうございます。三河島事故の与えた影響は多岐にわたりますね。当時の記録を見るだけで、大変な事故であったことがよくわかります。様々な重大事故により、その都度鉄道の安全対策が大きく見直されて、今日に至りますね。コメントありがとうございました。
今は遠くて勝田、高萩なのに、昔は近くて水戸か…
一見、ダイヤがスカスカみたいだけど途中からこの間に貨物が入りますからね。この頃はローカル線でも夜通し貨物列車が走っていた猛烈時代でした。
@環境ご視聴とコメントありがとうございます。当時は保線員さんもなかなか大変そうですよね。貨物時刻表の復刻版が一度販売されていましたが、プレミア価格で大変なことになっているので、是非再販してほしいですね。
青函連絡船に接続する列車にその旨を表記すると、さらに当時の旅情が掻き立てられると思います。
ご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りですね。時間をかけて移動していたことも良くわかりますね。青函連絡船や宇高連絡船に接続する列車はできる限り記載していこうと思います。貴重なご意見ありがとうございました。
青森行きの普通よりも荷物列車の方が早く到着とは凄いなぁ~
@のぞみは西へご視聴ありがとうございます。通過駅が多いため普通列車よりも早く到着していますね。1960年代から70年代のオイルショックまでは、鉄道による荷物輸送の発展期で、荷物専用列車が多く運転されていました。コメントありがとうございました。
@@tomoyankun さん当時は、高速道路が名神高速の一部のみで、トラック輸送も時間がかかっていましたからね。
@原田寛コメントありがとうございます。鉄道のライバルが、まだまだ発展途上であったのは大きかったということですね。
東北道や常磐道も無い時代、鉄道で人も荷物も貨物も運ぶと言うのはごく普通のことでしたね。この時から10数年で物流のパターンは激変しましたね。
モータリゼーションにより、大きく変化していきましたね。1960年頃がちょうど鉄道による貨物輸送量が最大となっていたことが、物流のパターンの変化を裏付けていますね。
どうしても豪勢な夜行列車群や長距離鈍行に目が行きますが、何気にこの時代は、まだ我孫子から成田線に入る列車は蒸気機関車牽引だった頃ですよね。私が物心ついた頃の成田線は72系電車が走るようになっていましたが、沿線に住んでいた叔父は社会人になって最初の数年間、蒸気機関車牽引の客車で上野へ通い、仲間から田舎者と言われたと話していました。「うらやましい」と私が言うと「毎日乗ると、遅いし揺れるし煙いし、嫌になるぞ」と毎度言い返されていたものです。
特急ははつかりのみ急行はみちのくと夜行ときわが準急になるヒエラルキーがすごい
@OKはんご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りすごいですよね。現在では特急として馴染みのある列車名が、当時は急行や準急として走っていることも多く、時刻表を読んでいると驚くことが多いです。
はつかりとみちのくは東北新幹線の公募の時に必ず上位に来ていたのに何故か採用されませんでしたね。不思議なのは今のときわ(常磐。常陸と磐城)が勝田止まりがほとんどなのにひたち(常陸)がいわきや仙台までいくと言うもの。逆だろうとツッコミを入れたくなりますが、ひたちの名前が特急として定着してしまったからでしょうね。歴史が本来の愛称が持つ意味を変えてしまった珍しい例ですね。
公募の際は、上位の候補が採用されることがあまりない印象ですね。「ときわ」と「ひたち」の件は、確かにおっしゃる通りです。コメントでの指摘で初めて気づきました。
この頃のはつかりは、常磐線経由だったのですね。
@@kataakeo7730 さん東北線に急勾配区間があって、エンジンに不安のあった「キハ81形」では、常磐線経由を選択したんでしょうね。
朝ドラのひよっこは常磐線を利用して上京した
@政弘樹ご視聴ありがとうございます。上野駅は映画やドラマの上京場面でよく登場しますね。ひよっこで登場した上野駅のシーンの撮影は、浜松で行われたようですね。コメントありがとうございました。
ひよっこの設定で微妙なのは青森からと奥茨城からの集団就職の集団が同じ列車に乗っていたことでした。東北からは各県仕立てで上野まで直行したのではないのかな、と思いますが実際はどうだったのでしょう。このドラマでは集団就職当時の上野駅の改札内の切符売場が「特急券売場」となっていました。時代考証の間違えでしたね。
@TSUYO S さん集団就職の運用については私は存じ上げないところであります。インターネットで探してみても、有力な情報はありませんね。実際はどうだったのか気になりますね。大変幅広いことをご存じで、いつも勉強になります。ありがとうございます。
@@tomoyankun さま一介のド素人の単なる歴史鉄ですので、、この時代のニュース動画で出てきますが、毎年3月になると東北各地から上野を目指して一列車を貸し切るほどの集団就職列車が走っていたようです。ただ、青森県からは集約臨時列車として上野まで運行されたこと、恐らく夜行列車なので地元を夕方に出て茨城は早朝の通過だったのでしょう。
@TSUYO S さん集団就職の動画をTH-camで観てみましたが、当時の大変さが伝わってきました。親や仲間との別れの瞬間が数多く流れ、観ている私も込み上げてくるものがありました。現在は、帰省するにしても飛行機や新幹線のおかげで、当時とは比較にならないくらい気軽に移動できるようになりましたね。
土浦行きは最終1本だけ。一方勝田までの普通列車の所要時間は今とあまり変わらない。変わった所もあればあまり変わってない所もある。
特急は、北海道線連絡の「はつかり」だけです。当時は、東海道本線を除き、限られた幹線で上下各1本運転されて居るだけで、本当に「特別(な)急行」列車でした。手元にある「鉄道ピクトリアル」2022年11月号通巻992号の特集「常磐線複々線50年」を見て居ます。常磐線複線時代から、複々線化から現在までのダイヤとかの興味深い記事や写真が載ってます。綾瀬〜我孫子間のに複々線化と綾瀬から営団千代田線乗入れで、迷惑乗り入れと批判されてました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の特急列車は名実ともに『特別急行』でしたね。常磐線複々線50年特集をやっていたんですね。大変面白そうな記事で是非読みたかったです。便利になり歓迎されると思いきや、迷惑乗り入れと批判されていたんですね。
当時からの世界最大級メガシティ東京の企業戦士も、佐貫(現龍ヶ崎市)牛久などからこんな少ない普通列車で通勤していたのだろうか。
当時の電車遅すぎる。当時)上野発 10時39分 成田着 12時26分 1時間47分現在)上野発 10時38分 成田着 11時58分 1時間20分
@youfrkご視聴ありがとうございます。わかりやすく調べていただきありがとうございます。1964年の上野発10時39分発の列車は、客車列車であるため、性能差によるところもあったのでしょうね。コメントありがとうございました。
youfrkさん当時は、千葉の国鉄の大部分が非電化で気動車天国と言われていましたからね。
朝イチの列車で平行き会ったら便利なのになぁ
この頃は、平まで交流電化されていたんですね。
ご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りです。1967年8月20日に草野ー岩沼間交流電化が完了し、全線電化されました。
柿岡に地磁気に関する研究所がある関係で交流電化にせざるを得ず、かつ高価な中距離電車は多数作れなかったことが考えられます。これにより電車と客車が併存していたのでしょうね。他の地域では電化されても普通列車はディーゼルや客車ばかりだったのに電車が投入されたのは首都圏に近いことが理由だったものと思います。昭和60年のつくば万博の頃に車両が大量に増えるまではギリギリのやりくりだったものと思います。
この時代はどこの路線でも、車両不足で大変だったようですね。動画作成時に資料を見ていると、どの路線でも「車両不足」の文言が出てきます。その中でも、優先的に電車が投入されたことは、首都圏からの近さもあるのでしょうね。
@@TSUYOS185関鉄が気動車路線らしからぬ?本数の多さがあるのもある意味研究所のお陰かもしれませんね。
北斗がまさか上野から青森はしってたとは
@梨田ヒカリご視聴とコメントありがとうございます。北海道で走るイメージしかありませんでしたが、常磐線の時刻表で見つけた時には大変驚きました。1950年から1965年まで上野ー青森間の夜行急行列車の名前として使用されていました。
おおとりにしても元はこだまファミリー?の名古屋行でしたからね。
2:13 はつかり がっかり
ご視聴とコメントありがとうございます。トラブルが相次ぎ、そのように揶揄されていましたね。
しかし、最高速度が100キロで表定速度75キロ叩き出すとか、キハ81、すごくね??
普通は三河島南千住通過ですよね
@渡辺真也ご視聴とコメントありがとうございます。仰る通り、普通は三河島、南千住は通過していました。
@@tomoyankun 各駅停車<快速<普通 わかりにくい
@渡辺真也快速の上に普通があることが、どうしても違和感がありますよね。
それどころか北千住も柏も通過でした。快速と一体化した現在では考えられませんね。
北千住、柏を通過していたことは、今しか知らない方からすると信じられないですよね。私も時刻表を見た時には驚きました。
E531系で品川発普通仙台行き復活しないだろうか(10両は途中で切り離し)
@gttsi tatsuご視聴ありがとうございます。長距離を走行する普通列車にはなんともいえない魅力がありますね。復活したら是非乗りにいきたいですね。コメントありがとうございました。
カレー100円でグリルチキン定食400円なのなんだか変な話ですね笑当時の定食ってそんなに大盛りだったのでしょうか?
ご視聴とコメントありがとうございます。カレーに限らず、値段設定には違和感を感じるところは多くありますね。色々と当時を知る資料を探してみましたが、「大盛り」であるとの表記はありませんでした。材料と準備にかかる費用なのかなぁとは考えています。
考えてみると、特にグリルチキン定食の値段は経済成長に対して上がっていない感じだ。たぶん当時でもカレーは作り置きができただろう。一方定食は調理コストかかる。
ゆうづるは?いつからだったの?
昭和40年だったはずです、間違い指摘待ち😅
どうして準急「ときわ」は、4号だけ抜いてただの「ときわ」だったんでしょう・・・。たまたまなのか、「4」を嫌った、とか・・・?
当時が当時だけに有り得たかもしれませんね。
子供の頃(1960年代)に、16時30分発寝台急行「北上」号青森行の寝台(1回目にはナハネ10、2回目にはスハネ30)に2回乗りました。帰りは、特急「はつかり」号に乗りました(1回目は、展望車連結の客車で、2回目は、気動車特急でした)。どちらも懐かしいです。掲載していただきありがとうございました。
@Akihiro TAKAHASHI
ご視聴ありがとうございます。
貴重なご経験をされていますね。
2等寝台車に乗車されたのかと思いますが、きっと今ではもう存在しない3段寝台で移動されたのですね。当時は利用する方も多かったのでしょうね。
「はつかり」も乗車されたことが大変うらやましいです。しかも客車と気動車の両方とも経験しておられることに驚きです。
駅弁もしくは食堂車で車窓を楽しみながら、鉄道旅をもう一度味わいたいなと思います。
コメントありがとうございました。
上野発普通青森行きはイカれてますねww 所要時間は22時間😵
常磐線は国鉄末期くらいまで上野発着の客車普通列車が残っていましたよね。懐かしい。
この時代は平以北が非電化だったと思うので、平以遠行の普通列車はほぼ全部が客車だったんでしょうね。
@でぶちん
ご視聴とコメントありがとうございます。
確認したところ、上野駅始発で平以遠に向かう普通列車は全て客車列車になっていました。しかし平駅周辺の区間運転の列車には気動車も使用されていたようです。バリエーションに富んでおり、大変面白かったでしょうね。
@@tomoyankun 当時、平以北を通る客車列車は「C62」牽引がほとんどだったそうですからね。
仙台から上京し、大学卒業から数年、この頃五輪に関係する仕事をしていた父にとって常磐線は東京とふるさとを繋ぐ存在でもありました。
ほとんどの時間帯で中距離電車(客車含む)は1時間に1本だったのですね。まだ竜ヶ崎などのニュータウンの開発前、住宅圏もまだ松戸や柏あたりがせいぜいだったことと思います。
とは言え客車は10両以上の長い編成。駅を発車する度に連結器の振動が響き、夜は眠れなかったでしょうね。
長い距離を停まらずに安眠できる夜行の寝台急行がどれだけ有りがたかったかが良く分かります。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
東京五輪の仕事は大変だったでしょうけれども、やりがいのある素晴らしい仕事ですね。お父様は大変すばらしいお仕事をしておられたのですね。
今の通勤圏の広さや、人口の多さの感覚で見ていると、当時のダイヤには違和感を覚えますよね。時刻表だけでなく、当時の都市開発の状況を照らし合わせると、新たな発見があって面白いですね。
客車は走行中は比較的静かですが、発車と停止時の衝撃と音がすごいですね。昔日本海に乗ったときには、衝撃で毎回目が覚めてしまいました。
@@tomoyankun
この頃の常磐線はメイン幹線ではあれど東海道線の華やかさや特急街道になりつつあった東北線などと比較すると地味だったかもしれませんね。
つくば万博やバブル期ともなると交流区間はかなり住宅開発が行われるようになりました。広々とした環境だけでなく筑波大学や国の研究機関の移転をはじめとした文教地域としての発展も見逃せないものと思います。それが昇華して並行路線であるTXの開業に至るものでした。
首都圏の均衡ある発展という面で常磐線沿線の都市化の進展も興味深いものがありますね。
@TSUYO S さん
仰る通り、東海道本線などと比較すると、地味さはありますね。
TXの成功にもあるように、沿線の開発が順調にすすんだことがよくわかります。
今まで私は時刻表を読んでいて満足していたところがありました。しかし動画を作成するようになり皆さんからいただくコメントを拝見すると、沿線の開発による人口増加や産業の発展により、ダイヤも柔軟に対応していったことがわかり、都市開発の歴史にも大変興味が出てきました。鉄道の趣味は奥深いですね。ありがとうございます。
この時代は平までが電化区間でその先や成田線は非電化ですよね。平以北行きや成田方面行きはもちろん、平以南行きの普通列車も一部は客車だったと思います。さらには貨物列車も多くは常磐線経由。直流区間の電車もさることながら、電車、気動車、客車の混在でダイヤ編成は本当に大変だったでしょうね。
「点と線」で安田辰郎が乗ったことになっている十和田号は、上野発19:15〜青森着9:09だから7年で30分くらいしか短縮になってない。ちなみに1981年の十和田3号は上野発20:50〜青森着9:07。
@伊東敏明
ご視聴ありがとうございます。
「点と線」は私は存じ上げませんでしたので、調べてみました。当時から列車ダイヤを利用したトリックの話が作られていたことに驚きました。
牽引機がSLからELへと変化していきましたが、電車とは違い、大幅な時間短縮にはつながらなかったわけですね。
コメントありがとうございました。
普通勝田行きは今でも当たり前のようにあるけど、この頃は普通平行きもけっこうあったんですね。
今でも、いわきよりも平の方が良かったと思います。いわき市がごねたのもあったけど、どこかに「平」を残して欲しかったですね。西鹿児島と同じく平も変えて欲しくなかった駅名の一つです。
@源道義
ご視聴ありがとうございます。
当時は長距離運用がどのこの路線でも多いのを実感しますね。
市町村合併があったからという理由もわかりますが、西鹿児島の件と同様に、「平」も残してほしかったなとは思います。近くの「勝田」駅には改称の動きはないようですね。
コメントありがとうございました。
11レ 急行みちのく 青森行き
映画「ある機関助士」のオープニングに出てきますね。
もっとも映画はこのダイヤ改正前に公開ですが…。
@radiotanpa さん
ご視聴ありがとうございます。
「ある機関助士」を早速拝見しました。
水戸駅での5分の停車時間。
時刻表では見えない、苦労や想いに触れることができ、
とても有意義でした。
電化区間を疾走するC62も大迫力ですね。
素敵な映画をお勧めしていただきありがとうございました。
まだ上野が東京駅の役割だった時代ですね 「上野行き」の列車も沢山ありましたね 今もスワローあかぎで残ってますが
ご視聴とコメントありがとうございます。
「上野行き」の列車は随分減ってしまいましたね。優等列車の「上野行き」は絶滅寸前の状態で時代の変化を感じますね。
土浦行きが1日数本の時点で時代の流れを感じる
今じゃほとんど土浦止まりだからなぁ
三河島事故の影響が青森まで出ていたようですね
@a.k.a.pierce Yuta
ご視聴ありがとうございます。
三河島事故の与えた影響は多岐にわたりますね。
当時の記録を見るだけで、大変な事故であったことがよくわかります。
様々な重大事故により、その都度鉄道の安全対策が大きく見直されて、今日に至りますね。
コメントありがとうございました。
今は遠くて勝田、高萩なのに、昔は近くて水戸か…
一見、ダイヤがスカスカみたいだけど途中からこの間に貨物が入りますからね。
この頃はローカル線でも夜通し貨物列車が走っていた猛烈時代でした。
@環境
ご視聴とコメントありがとうございます。
当時は保線員さんもなかなか大変そうですよね。
貨物時刻表の復刻版が一度販売されていましたが、プレミア価格で大変なことになっているので、是非再販してほしいですね。
青函連絡船に接続する列車にその旨を表記すると、さらに当時の旅情が掻き立てられると思います。
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りですね。時間をかけて移動していたことも良くわかりますね。青函連絡船や宇高連絡船に接続する列車はできる限り記載していこうと思います。
貴重なご意見ありがとうございました。
青森行きの普通よりも荷物列車の方が早く到着とは凄いなぁ~
@のぞみは西へ
ご視聴ありがとうございます。
通過駅が多いため普通列車よりも早く到着していますね。
1960年代から70年代のオイルショックまでは、鉄道による荷物輸送の発展期で、荷物専用列車が多く運転されていました。
コメントありがとうございました。
@@tomoyankun さん
当時は、高速道路が名神高速の一部のみで、トラック輸送も時間がかかっていましたからね。
@原田寛
コメントありがとうございます。
鉄道のライバルが、まだまだ発展途上であったのは大きかったということですね。
東北道や常磐道も無い時代、鉄道で人も荷物も貨物も運ぶと言うのはごく普通のことでしたね。
この時から10数年で物流のパターンは激変しましたね。
モータリゼーションにより、大きく変化していきましたね。1960年頃がちょうど鉄道による貨物輸送量が最大となっていたことが、物流のパターンの変化を裏付けていますね。
どうしても豪勢な夜行列車群や長距離鈍行に目が行きますが、何気にこの時代は、まだ我孫子から成田線に入る列車は蒸気機関車牽引だった頃ですよね。私が物心ついた頃の成田線は72系電車が走るようになっていましたが、沿線に住んでいた叔父は社会人になって最初の数年間、蒸気機関車牽引の客車で上野へ通い、仲間から田舎者と言われたと話していました。「うらやましい」と私が言うと「毎日乗ると、遅いし揺れるし煙いし、嫌になるぞ」と毎度言い返されていたものです。
特急ははつかりのみ
急行はみちのくと夜行
ときわが準急になるヒエラルキーがすごい
@OKはん
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りすごいですよね。現在では特急として馴染みのある列車名が、当時は急行や準急として走っていることも多く、時刻表を読んでいると驚くことが多いです。
はつかりとみちのくは東北新幹線の公募の時に必ず上位に来ていたのに何故か採用されませんでしたね。
不思議なのは今のときわ(常磐。常陸と磐城)が勝田止まりがほとんどなのにひたち(常陸)がいわきや仙台までいくと言うもの。逆だろうとツッコミを入れたくなりますが、ひたちの名前が特急として定着してしまったからでしょうね。歴史が本来の愛称が持つ意味を変えてしまった珍しい例ですね。
公募の際は、上位の候補が採用されることがあまりない印象ですね。
「ときわ」と「ひたち」の件は、確かにおっしゃる通りです。コメントでの指摘で初めて気づきました。
この頃のはつかりは、常磐線経由だったのですね。
@@kataakeo7730 さん
東北線に急勾配区間があって、エンジンに不安のあった「キハ81形」では、常磐線経由を選択したんでしょうね。
朝ドラのひよっこは常磐線を利用して上京した
@政弘樹
ご視聴ありがとうございます。
上野駅は映画やドラマの上京場面でよく登場しますね。
ひよっこで登場した上野駅のシーンの撮影は、
浜松で行われたようですね。
コメントありがとうございました。
ひよっこの設定で微妙なのは青森からと奥茨城からの集団就職の集団が同じ列車に乗っていたことでした。東北からは各県仕立てで上野まで直行したのではないのかな、と思いますが実際はどうだったのでしょう。
このドラマでは集団就職当時の上野駅の改札内の切符売場が「特急券売場」となっていました。時代考証の間違えでしたね。
@TSUYO S さん
集団就職の運用については私は存じ上げないところであります。インターネットで探してみても、有力な情報はありませんね。実際はどうだったのか気になりますね。
大変幅広いことをご存じで、いつも勉強になります。ありがとうございます。
@@tomoyankun さま
一介のド素人の単なる歴史鉄ですので、、
この時代のニュース動画で出てきますが、毎年3月になると東北各地から上野を目指して一列車を貸し切るほどの集団就職列車が走っていたようです。
ただ、青森県からは集約臨時列車として上野まで運行されたこと、恐らく夜行列車なので地元を夕方に出て茨城は早朝の通過だったのでしょう。
@TSUYO S さん
集団就職の動画をTH-camで観てみましたが、当時の大変さが伝わってきました。親や仲間との別れの瞬間が数多く流れ、観ている私も込み上げてくるものがありました。現在は、帰省するにしても飛行機や新幹線のおかげで、当時とは比較にならないくらい気軽に移動できるようになりましたね。
土浦行きは最終1本だけ。
一方勝田までの普通列車の所要時間は今とあまり変わらない。
変わった所もあればあまり変わってない所もある。
特急は、北海道線連絡の「はつかり」だけです。
当時は、東海道本線を除き、限られた幹線で上下各1本運転されて居るだけで、本当に「特別(な)急行」列車でした。
手元にある「鉄道ピクトリアル」2022年11月号通巻992号の特集「常磐線複々線50年」を見て居ます。
常磐線複線時代から、複々線化から現在までのダイヤとかの興味深い記事や写真が載ってます。
綾瀬〜我孫子間のに複々線化と綾瀬から営団千代田線乗入れで、迷惑乗り入れと批判されてました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の特急列車は名実ともに『特別急行』でしたね。
常磐線複々線50年特集をやっていたんですね。大変面白そうな記事で是非読みたかったです。
便利になり歓迎されると思いきや、迷惑乗り入れと批判されていたんですね。
当時からの世界最大級メガシティ東京の企業戦士も、佐貫(現龍ヶ崎市)牛久などからこんな少ない普通列車で通勤していたのだろうか。
当時の電車遅すぎる。
当時)上野発 10時39分 成田着 12時26分 1時間47分
現在)上野発 10時38分 成田着 11時58分 1時間20分
@youfrk
ご視聴ありがとうございます。
わかりやすく調べていただきありがとうございます。
1964年の上野発10時39分発の列車は、客車列車であるため、性能差によるところもあったのでしょうね。
コメントありがとうございました。
youfrkさん
当時は、千葉の国鉄の大部分が非電化で気動車天国と言われていましたからね。
朝イチの列車で平行き会ったら便利なのになぁ
この頃は、平まで交流電化されていたんですね。
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りです。1967年8月20日に草野ー岩沼間交流電化が完了し、全線電化されました。
柿岡に地磁気に関する研究所がある関係で交流電化にせざるを得ず、かつ高価な中距離電車は多数作れなかったことが考えられます。これにより電車と客車が併存していたのでしょうね。
他の地域では電化されても普通列車はディーゼルや客車ばかりだったのに電車が投入されたのは首都圏に近いことが理由だったものと思います。
昭和60年のつくば万博の頃に車両が大量に増えるまではギリギリのやりくりだったものと思います。
この時代はどこの路線でも、車両不足で大変だったようですね。動画作成時に資料を見ていると、どの路線でも「車両不足」の文言が出てきます。その中でも、優先的に電車が投入されたことは、首都圏からの近さもあるのでしょうね。
@@TSUYOS185
関鉄が気動車路線らしからぬ?本数の多さがあるのもある意味研究所のお陰かもしれませんね。
北斗がまさか上野から青森はしってたとは
@梨田ヒカリ
ご視聴とコメントありがとうございます。
北海道で走るイメージしかありませんでしたが、常磐線の時刻表で見つけた時には大変驚きました。1950年から1965年まで上野ー青森間の夜行急行列車の名前として使用されていました。
おおとりにしても元はこだまファミリー?の名古屋行でしたからね。
2:13 はつかり がっかり
ご視聴とコメントありがとうございます。
トラブルが相次ぎ、そのように揶揄されていましたね。
しかし、最高速度が100キロで表定速度75キロ叩き出すとか、キハ81、すごくね??
普通は三河島南千住通過ですよね
@渡辺真也
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、普通は三河島、南千住は通過していました。
@@tomoyankun
各駅停車<快速<普通
わかりにくい
@渡辺真也
快速の上に普通があることが、どうしても違和感がありますよね。
それどころか北千住も柏も通過でした。快速と一体化した現在では考えられませんね。
北千住、柏を通過していたことは、今しか知らない方からすると信じられないですよね。私も時刻表を見た時には驚きました。
E531系で品川発普通仙台行き復活しないだろうか(10両は途中で切り離し)
@gttsi tatsu
ご視聴ありがとうございます。
長距離を走行する普通列車にはなんともいえない魅力がありますね。
復活したら是非乗りにいきたいですね。
コメントありがとうございました。
カレー100円でグリルチキン定食400円なのなんだか変な話ですね笑
当時の定食ってそんなに大盛りだったのでしょうか?
ご視聴とコメントありがとうございます。
カレーに限らず、値段設定には違和感を感じるところは多くありますね。
色々と当時を知る資料を探してみましたが、「大盛り」であるとの表記はありませんでした。材料と準備にかかる費用なのかなぁとは考えています。
考えてみると、特にグリルチキン定食の値段は経済成長に対して上がっていない感じだ。たぶん当時でもカレーは作り置きができただろう。一方定食は調理コストかかる。
ゆうづるは?いつからだったの?
昭和40年だったはずです、間違い指摘待ち😅
どうして準急「ときわ」は、4号だけ抜いてただの「ときわ」だったんでしょう・・・。たまたまなのか、「4」を嫌った、とか・・・?
当時が当時だけに有り得たかもしれませんね。