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取手定時通過後の一服がカッコいい
60年近い前にこのようなカッコ良すぎる人たちがいたとは。今ならしゃーねーやになりますがね。中島機関士と青沼助士の最高の2人っす!
子供ころ、函館本線を疾走する蒸気機関車を見ていましたが、都会を走る蒸機の迫力もすさまじいですね。C62を駆る機関士さんの仕事、ジャンボジェットのパイロットよりも迫力があり達成感のある仕事です。北海道で蒸気機関車が廃車になってゆくのを見ながら、蒸気機関車の機関士になるのを断念した昔を思い出します。貴重な映像です。
甲組機関士カッコいいなあ
「定ー時!!、定ー時!!」このシーン、何回も見てしまいます。かっこいい!!
5:53 95km/h 😩 ※当時の最高認可速度新快速も最初そうであった‼️
昭和39年の山陽本線下りあさかぜ号を牽引していた。遅れはおよそ5分。広島を出発して隣の横川までの時間は2分30秒。ただでさえ足りない時間を、回復運転することは、まるで綱渡りをするようであった。ポイント通過時のC62は、高く大きいボイラのおかげで、左右に大きく揺れ、ひっくり返らんばかりであった。途中のカーブでは、加減弁を入れたままでブレーキを使う。岩国手前の鉄橋では100キロを越すスピードに達する。このような、スリルに満ちた運転で、広島~徳山120キロを1時間30分で走っていた。途中の光海岸沿いでは、ときおり、ブルートレインの華やかさにつられ、乗用車が併走したり、楽しいこともあった。いま思えば、楽しき思い出の日々でした。
列車は、1次元の動きしかしないのに3次元の動きをする飛行機並みに操作しっぱなし
4:47ダミ声の雪駄履きでポイント操作ワロタ
mctmtc しかもナマッてるw9号定ぃー位!定ぃー位ヨス!ヒョーズトーヨース!サンズーハヅ番反位反位ヨス!けど、俺の手と足で安全を保ってんだっていう気持ちを強く感じる。
4:47
このゆうづる号は実際に3分遅れで水戸を出発しているんだよなあそれを取手で定時に戻す。(ちなみに併走シーンは別の日に撮影)その間の機関士と助士の連携が本当にいい感じだと毎回思いますね。そして取手通過後の定時にした後の一服…。これは最高の一服ですね。でも今、この一服のシーンを流せばそれだけでクレームが来る世の中…ある意味で寂しくなりましたね…。
鉄道時計が何気にオメガ製
現在の信号所はボタンが増えただけのような
貨物列車が待避した駅は、水戸線の分岐駅の友部駅ですね。
特急の鏡‼️😁 シィロクニィ‼️
漢の仕事ですなぁ・・・
9:43 文太のハチロクかよ❗
5:00からの1シーンかっこいい
本当に凄い名作だよな。当時の国労に許可取ってまで。
さっきまで見てた少しだけあの事故のことが出てた
Is this from a movie or is it some kind of documentary?
ここまで観終って気が付いた事、それは、機関助士の青沼君より機関士の人の方が主役っぽいなぁw人間が支えていた時代、この映画は全てを撮り尽くしている。
SL、男の仕事だね・・・カッコいいョ!!タバコ旨そうに吸いやがったね!!在来特急でさえ、3分の回復は汗みどろだ!!俺がせっかく回復したのに・・・。くそ・・・車掌めェ!!1分回復するのに、俺がどんだけ苦労したか知ってるんか!!達成感 気持ちがビンビン伝わる。男の仕事だ。
阪和のモタ300(モヨ100)なら大丈夫なんだけどなー乗り遅れた客がいても間に合う‼️120キロ(いや瞬時130キロ)‼️
ポイント操作が重くて大変そうだ?SLの運転はホント命掛けの仕事なのが伝わる。今でこそSLは日本の宝のように取られるが当時の乗客には臭い汚い うるさいの苦情に沿線住民はすさまじい煙に悩まされた。
東北本線が本来の奥州街道に沿って古川に行くのではなく、塩竈・松島を経由して小牛田に停車する路線にした理由が、当時の迷信で蒸気機関車の煙で米が取れなくなるという、農家や沿線住民の反対でそうなったと言う話は聞いたことがあります。
普通なら機関士が機関助士の領分に口出しすることはない。
「もう少しブロアーを開けてごらん」これは通風が足りなくて釜の温度が上がっていないと機関士が感じてるんだ。時折100キロくらいで走らなきゃ短縮ができない。それにはパワーのある蒸気が欲しい。だと思います。
485系はそういう所で言えば、物凄く簡単な車両になったという事ですかね。動力集中方式から動力分散方式に変わったわけですが、485系の最高速度は120㎞/h。蒸気機関車の何倍も速いわけですが、この程度の遅れを数駅で取り返す。カルダン駆動+動力分散方式が如何に偉大な方式であり、鉄道という分野において優れるのかというのが、集中方式の列車を見てわかることができますね。日本の鉄路はやはり分散方式こそあっている。
@@asokai2346 しかし動力近代化はそれだけ人員削減も必要になる。今まで2人いた機関士・機関助士が1人で済むようになり、リストラを恐れた労組は電気機関車でも助士を乗せたが、やがては1人乗務になった。その後貨車は車掌廃止、旅客もワンマン化が進んで車掌が減った。更には完全無人自動運転が見えてきている…
機関士も機関助士を経てなるわけですし、力行時の反応もわかるから、経験値は機関士の方が豊富なんでしょうね。
@@sanniichikei さん 機関士への昇格は時期によります。技量に乏しいままで機関士になる人もいました。考えようによっては機関士より助士の方が難しいかもしれません。
@@sanniichikeiさん 1970年代に当時の国鉄は、兆円単位の累積赤字を減らすために、機関助手を中心に40万人いた国鉄職員を5万人削減するよう政府に要請しました。のちにこれがきっかけで、国労と動労が1975年末に8日間にわたってスト権ストに繋がりました。
ゆうづる ではなくて、みちのくですよ
取手定時通過後の一服がカッコいい
60年近い前にこのようなカッコ良すぎる人たちがいたとは。今ならしゃーねーやになりますがね。中島機関士と青沼助士の最高の2人っす!
子供ころ、函館本線を疾走する蒸気機関車を見ていましたが、都会を走る蒸機の迫力もすさまじいですね。C62を駆る機関士さんの仕事、ジャンボジェットのパイロットよりも迫力があり達成感のある仕事です。北海道で蒸気機関車が廃車になってゆくのを見ながら、蒸気機関車の機関士になるのを断念した昔を思い出します。貴重な映像です。
甲組機関士カッコいいなあ
「定ー時!!、定ー時!!」
このシーン、何回も見てしまいます。
かっこいい!!
5:53 95km/h 😩
※当時の最高認可速度
新快速も最初そうであった‼️
昭和39年の山陽本線下りあさかぜ号を牽引していた。遅れはおよそ5分。
広島を出発して隣の横川までの時間は2分30秒。ただでさえ足りない時間を、回復運転することは、まるで綱渡りをするようであった。
ポイント通過時のC62は、高く大きいボイラのおかげで、左右に大きく揺れ、ひっくり返らんばかりであった。
途中のカーブでは、加減弁を入れたままでブレーキを使う。岩国手前の鉄橋では100キロを越すスピードに達する。
このような、スリルに満ちた運転で、広島~徳山120キロを1時間30分で走っていた。
途中の光海岸沿いでは、ときおり、ブルートレインの華やかさにつられ、乗用車が併走したり、楽しいこともあった。
いま思えば、楽しき思い出の日々でした。
列車は、1次元の動きしかしないのに
3次元の動きをする飛行機並みに
操作しっぱなし
4:47ダミ声の雪駄履きでポイント操作ワロタ
mctmtc しかもナマッてるw
9号定ぃー位!定ぃー位ヨス!
ヒョーズトーヨース!
サンズーハヅ番反位
反位ヨス!
けど、俺の手と足で安全を保ってんだっていう気持ちを強く感じる。
4:47
このゆうづる号は実際に3分遅れで水戸を出発しているんだよなあ
それを取手で定時に戻す。(ちなみに併走シーンは別の日に撮影)
その間の機関士と助士の連携が本当にいい感じだと毎回思いますね。
そして取手通過後の定時にした後の一服…。これは最高の一服ですね。
でも今、この一服のシーンを流せばそれだけでクレームが来る世の中…
ある意味で寂しくなりましたね…。
鉄道時計が何気にオメガ製
現在の信号所は
ボタンが増えただけのような
貨物列車が待避した駅は、水戸線の分岐駅の友部駅ですね。
特急の鏡‼️😁
シィロクニィ‼️
漢の仕事ですなぁ・・・
9:43 文太のハチロクかよ❗
5:00からの1シーンかっこいい
本当に凄い名作だよな。当時の国労に許可取ってまで。
さっきまで見てた少しだけあの事故のことが出てた
Is this from a movie or is it some kind of documentary?
ここまで観終って気が付いた事、それは、機関助士の青沼君より機関士の人の方が主役っぽいなぁw
人間が支えていた時代、この映画は全てを撮り尽くしている。
SL、男の仕事だね・・・カッコいいョ!!
タバコ旨そうに吸いやがったね!!
在来特急でさえ、3分の回復は汗みどろだ!!
俺がせっかく回復したのに・・・。
くそ・・・車掌めェ!!
1分回復するのに、俺がどんだけ苦労したか知ってるんか!!
達成感 気持ちがビンビン伝わる。
男の仕事だ。
阪和のモタ300(モヨ100)なら
大丈夫なんだけどなー
乗り遅れた客がいても
間に合う‼️
120キロ(いや瞬時130キロ)‼️
ポイント操作が重くて
大変そうだ?
SLの運転はホント
命掛けの仕事なのが
伝わる。
今でこそSLは日本の宝の
ように取られるが
当時の乗客には
臭い汚い うるさいの
苦情に
沿線住民は
すさまじい煙に悩まされた。
東北本線が本来の奥州街道に沿って古川に行くのではなく、塩竈・松島を経由して小牛田に停車する路線にした理由が、当時の迷信で蒸気機関車の煙で米が取れなくなるという、農家や沿線住民の反対でそうなったと言う話は聞いたことがあります。
普通なら機関士が機関助士の領分に口出しすることはない。
「もう少しブロアーを開けてごらん」これは通風が足りなくて釜の温度が上がっていないと機関士が感じてるんだ。時折100キロくらいで走らなきゃ短縮ができない。それにはパワーのある蒸気が欲しい。だと思います。
485系はそういう所で言えば、物凄く簡単な車両になったという事ですかね。動力集中方式から動力分散方式に変わったわけですが、485系の最高速度は120㎞/h。蒸気機関車の何倍も速いわけですが、この程度の遅れを数駅で取り返す。カルダン駆動+動力分散方式が如何に偉大な方式であり、鉄道という分野において優れるのかというのが、集中方式の列車を見てわかることができますね。日本の鉄路はやはり分散方式こそあっている。
@@asokai2346
しかし動力近代化はそれだけ人員削減も必要になる。
今まで2人いた機関士・機関助士が1人で済むようになり、リストラを恐れた労組は電気機関車でも助士を乗せたが、やがては1人乗務になった。
その後貨車は車掌廃止、旅客もワンマン化が進んで車掌が減った。
更には完全無人自動運転が見えてきている…
機関士も機関助士を経てなるわけですし、力行時の反応もわかるから、経験値は機関士の方が豊富なんでしょうね。
@@sanniichikei さん 機関士への昇格は時期によります。技量に乏しいままで機関士になる人もいました。考えようによっては機関士より助士の方が難しいかもしれません。
@@sanniichikeiさん 1970年代に当時の国鉄は、兆円単位の累積赤字を減らすために、機関助手を中心に40万人いた国鉄職員を5万人削減するよう政府に要請しました。のちにこれがきっかけで、国労と動労が1975年末に8日間にわたってスト権ストに繋がりました。
ゆうづる ではなくて、みちのくですよ