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奥山隊長の母親に宛てた遺書、涙が出ます。奥山隊長が最期、戦闘機から笑顔で手を振って出撃する姿が映像に残っていますが、感慨深いものがあります。うちの大叔父さんも、陸軍に所属していましたが18で亡くなっています。当時の若者の犠牲の元、今の日本がある事を忘れてはいけません。それを後世に伝えるのが我々の使命ではなかろうか。
30’49”奥山隊長の肉声を初めて聞きました。わずか26歳なのに素晴らしい人間性を感じました。生きておられたら戦後の日本のために何かをなされていたろうに。この時期、日本は貴重な若者をたくさん失いました。現在に続く戦後の日本は彼らに対して申し訳ない。
義烈空挺隊のことを知って以来、毎年5月24日18時40分に国体道路で黙祷を捧げています。死ぬまで続けるつもりです。
自分が生まれる2年ほど前に曽祖父は亡くなり会ったことはありませんが曽祖父も沖縄に行った衛生兵だったと聞いています。祖母の家に行くと大きい賞状が飾ってあります。沖縄に旅立つ日、家族や親戚近隣の方々が涙を流しながら見送ったと聞きました。生きて帰ってきたのは良いものの、目つきも生きる気力も何も無かった、見るからにPTSDだったと聞いてます。遺影の写真を見るといつもこの人のお陰で日本があるのだと誇らしく思います。
誰か、彼らの戦いを、映画にしてほしい。現在、ほとんどの人は、彼らの存在を知らない。だからこそ、彼らの存在を、後世に伝えるためにも、作ってほしい。
東宝映画8.15シリーズ「沖縄決戦」で義烈空挺隊のエピソードが描かれています。奥山隊長、諏訪部機長、生き残り隊員が登場します。ソフト化されてますので、ぜひみてください。
@ 情報ありがとうございます。早速、探して見てみます。
同じく!奥山隊長を主人公で
もう亡くなった 婆ちゃんの兄弟で4人の兄の内帰ってきたのは、1人だけで 後の3人は、戦死しました。そのうちの1人は、特攻隊として沖縄沖で戦死ました。。。。
何度か違うチャンネルで 義烈空挺隊の特集を観てましたが 恥ずかしながら 生まれが地元の津市だったとは 初めて知りました!
心より本当に有難うございます!
義烈空挺隊が好きすぎて、1人でも多くの日本人に知ってほしくて、小説を書きました。カクヨム「悠久のときを越えて、義烈空挺隊に恋をして 愛を込めて」館華カオルです。よかったらお読みください。
NHKアーカイブに保管されています、当時の「日本ニュース」上映回のもの。奥山道男隊長・陸軍大尉の出撃前最期の訓示、もう何度も拝見しておりますが改めまして絶筆以前に熱いものをその度に覚えます。『我が愛すべき全部下、誰一人無駄には死なせん』だから、旧式になっていた97式重爆撃機で整備に必要な部品も底を突き、4発のエンジンからオイルが雨の様に漏れて飛散し飛べなかった4機に対して各機長の判断で良いと、全てを任せたのだと思います。アジアでも最強の空挺部隊を、一から育て上げながら戦局は既に決し無駄だと分かっていても、受領した出撃命令で若い部下を連れて行かなければならなかった事、撃墜されて絶命されるまでずっと『皆、済まなかった』と泣きながら。
1人の義烈空挺隊員が攻撃後、第32軍の基地まで戦果を報告に行ってるんよね… まさに現代版コマンドーやん…
そうだったんですね。。最後の一人は残波岬近くまで逃げたけどそこで殺されたと思ってました。
健軍飛行場の跡である今の国体道路を生活道路として毎日使っています。義烈空挺隊の事実を知って以来、夕方にその道を通る時にふと「どんな気持ちで此処から飛び立ったのかな?」と考えてしまう事があります。周りの景色は変わっても夕映えの阿蘇は同じ風景なんだろうな、と想うと色々考えさせられます。
奥山大尉は相当な人格者だったらしいですね輸送機は可能な限りの最高の整備をしていたはずだから12機中4機がエンジン不調で戻ったというのはやはり色々な判断があったのかなと思います
航空機による特攻、艦船による決死作戦(戦艦大和の坊ノ岬沖海戦他)に比べてあまり知られていない、義烈空挺隊。今こそ、世間に知らせるべきだと思う。国の為、最後の最後窮地を打開する為に必死の決意で沖縄へ飛んだ義烈空挺隊員達。
この方々の努力を決して無駄にしてはならない。
当時の関係者の方々の直接のコメントが貴重だと思います。後になればいろいろ言えても、当事者であった英霊の皆様には首を垂れるのみです。
日本を守る為にとはいい〜悲しい歴史ですね~戦争で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします
旧健軍飛行場の地元に住んでますが、義烈空挺部隊の事を地元でもあまり知られていません。
大宮区在住です。大宮線の事は、小学生の頃に習いました。産まれた頃は、桜木交差点の近くに住んで居たそうで、祖母に話しも聞きました。私の父親は、養子で祖母の元に貰われて来たのですか。実家が川越の古谷で、大宮線に乗って来たそうです。川越の実家も付き合いが有って、黒須とかの地名も知ってます。
我々の世代は当時の新聞記事で知っております。戦後にみる友軍のすがたに涙がでます。
義烈空挺隊について。当時日本ニュースが密着取材しておりました。撮影したの日本ニュース報道班の大峰さんとカメラマンの小柳さんです。陸軍中野学校の隊員10名が加わりました。陸軍中野学校二俣分校出身者で熊倉順策さんいらっしゃいました。熊倉順策さんが搭乗した機体はエンジントラブルの為引き返しました。戦後、熊倉順策さんは自分は死に損ないと仰っていました。また義烈空挺隊員の中に村瀬伍長がいました。村瀬伍長は足が速く隊内から韋駄天村瀬と呼ばれていました。猛訓練の中、奥山隊長は訓練に遅れ気味になった時には奥山隊長は飛行機に自転車でも積んで行くかと言い周囲の隊員達を笑わせました。出撃の日、奥山隊長と諏訪部隊長が握手をするシーンがありますが、此れは一度目の握手シーンをカメラマンが撮り損ねた為、再度、両隊長にお願いして撮影されました。この時、奥山隊長は千両役者は辛いなぁと言い周囲の人達を笑わせました。報道班員の証言ではよく部屋に隊員達がウイスキーを持って来たそうです。飲んでくれって。そこで色々隊員達は報道班員に話しをしたそうです。故郷の山は如何だとか、ある隊員はカメラを除いて映ってる映ってると興奮したそうです。出撃前、義烈空挺隊員達は、お世話になった飛行機の整備員達に自分達はもう必要無いからと糧食を配りました。義烈空挺隊員の人選は奥山隊長は妻帯者、長兄は出来るだけ外しました。亡くなられた英霊達へ哀悼の意を捧げます。現在、千葉県の自衛隊習志野駐屯地に空挺資料館があります。予約制ですが機会があれば是非、足を運んでください。義烈空挺隊の資料、奥山隊長の遺書を展示しております。
大戦当時の米軍公文書では「日本陸軍に於ける非常に優れたコマンド作戦」と評価されているそうですね(白目)発令者は当時の北支方面第六軍総司令官で陸軍大将:岡部直三郎になりました(鼻ほぢ)義烈空挺隊の僅少な生き残りが実は拙宅親戚でガキの頃に存命していました為、当時の苛烈な軍事状況を詳らかに話してくれましたね(涙)また、我が国の独立行政法人国立公文書館アジア歴史資料センターアーカイブレファレンスコードナンバー(略称:アジ歴コード)所蔵で、戦時中に於ける当時の膨大な公文書群が今回の件で非常に参考になりました(汗)尚、アジ歴コードに関する情報源は、元国政中央になります(笑)
今を生きる我等だから終戦日を知っているだけで、当時を生きた彼等からすれば終戦3ヵ月前などとは夢にも思って無かったはず。
素晴らしい軍人軍神である合掌
ただただ涙 ありがとう先人の猛者
感涙🙏
これはぜひ映画化して欲しい実話ですね!
余りにも哀し過ぎる・・・そっとしてあげてほしい。
貴方の言うことも一理あるかもしれません。沖縄に散っていった姿に“リアル・ラスト サムライ”を見た気がしたので、映画化することを願ってしまいました。
映画『沖縄決戦』で登場します。
何故 犠牲と表現するのか?戦後日本人が犠牲者を作りあげているだけじゃないのか。
若者たちを生きる見込みのない作戦に送り込む国にしてはならない。 北朝鮮不審船事件の即席海自臨検隊の様な命令を二度とさせない国にしなくてはならない。
金正恩にも言ってください。
もうあの時期になって全てが無理!!みんなわかっておったんだよ。だったらこの空挺部隊で逆にクーデターおこして、もっと早く降伏しとけば良かったんだよ。😢優秀な人達の無駄死に
ばか者!!
これほど優秀な精兵がこんな無謀な作戦で・・・本当に無駄死にで哀しくなります・・・。
@@jkfpapcp600 キミが莫迦・・・ロシアにでも行け。
義烈空挺隊の任務を悲劇として表現するのはやめなさい。最大の侮辱ですよ
愚劣空挺隊な
空の神兵顕彰会では義烈空挺隊の顕彰碑建立に向けてクラウドファンディングを行っております。readyfor.jp/projects/giretsu一度ご覧ください。
奥山隊長の母親に宛てた遺書、涙が出ます。奥山隊長が最期、戦闘機から笑顔で手を振って出撃する姿が映像に残っていますが、感慨深いものがあります。
うちの大叔父さんも、陸軍に所属していましたが18で亡くなっています。
当時の若者の犠牲の元、今の日本がある事を忘れてはいけません。それを後世に伝えるのが我々の使命ではなかろうか。
30’49”奥山隊長の肉声を初めて聞きました。わずか26歳なのに素晴らしい人間性を感じました。
生きておられたら戦後の日本のために何かをなされていたろうに。
この時期、日本は貴重な若者をたくさん失いました。
現在に続く戦後の日本は彼らに対して申し訳ない。
義烈空挺隊のことを知って以来、毎年5月24日18時40分に国体道路で黙祷を捧げています。
死ぬまで続けるつもりです。
自分が生まれる2年ほど前に曽祖父は亡くなり会ったことはありませんが曽祖父も沖縄に行った衛生兵だったと聞いています。祖母の家に行くと大きい賞状が飾ってあります。
沖縄に旅立つ日、家族や親戚近隣の方々が涙を流しながら見送ったと聞きました。
生きて帰ってきたのは良いものの、目つきも生きる気力も何も無かった、見るからにPTSDだったと聞いてます。遺影の写真を見るといつもこの人のお陰で日本があるのだと誇らしく思います。
誰か、彼らの戦いを、映画にしてほしい。現在、ほとんどの人は、彼らの存在を知らない。だからこそ、彼らの存在を、後世に伝えるためにも、作ってほしい。
東宝映画8.15シリーズ「沖縄決戦」で義烈空挺隊のエピソードが描かれています。
奥山隊長、諏訪部機長、生き残り隊員が登場します。
ソフト化されてますので、ぜひみてください。
@ 情報ありがとうございます。早速、探して見てみます。
同じく!奥山隊長を主人公で
もう亡くなった 婆ちゃんの兄弟で4人の兄の内
帰ってきたのは、1人だけで 後の3人は、戦死しました。
そのうちの1人は、特攻隊として沖縄沖で戦死ました。。。。
何度か違うチャンネルで 義烈空挺隊の特集を観てましたが 恥ずかしながら 生まれが地元の津市だったとは 初めて知りました!
心より本当に有難うございます!
義烈空挺隊が好きすぎて、1人でも多くの日本人に知ってほしくて、小説を書きました。カクヨム「悠久のときを越えて、義烈空挺隊に恋をして 愛を込めて」館華カオルです。よかったらお読みください。
NHKアーカイブに保管されています、当時の「日本ニュース」上映回のもの。
奥山道男隊長・陸軍大尉の出撃前最期の訓示、もう何度も拝見しておりますが改めまして絶筆以前に熱いものをその度に覚えます。
『我が愛すべき全部下、誰一人無駄には死なせん』
だから、旧式になっていた97式重爆撃機で整備に必要な部品も底を突き、4発のエンジンからオイルが雨の様に漏れて飛散し飛べなかった4機に対して各機長の判断で良いと、全てを任せたのだと思います。
アジアでも最強の空挺部隊を、一から育て上げながら戦局は既に決し無駄だと分かっていても、受領した出撃命令で若い部下を連れて行かなければならなかった事、撃墜されて絶命されるまでずっと
『皆、済まなかった』
と泣きながら。
1人の義烈空挺隊員が攻撃後、第32軍の基地まで戦果を報告に行ってるんよね… まさに現代版コマンドーやん…
そうだったんですね。。最後の一人は残波岬近くまで逃げたけどそこで殺されたと思ってました。
健軍飛行場の跡である今の国体道路を生活道路として毎日使っています。
義烈空挺隊の事実を知って以来、夕方にその道を通る時にふと「どんな気持ちで此処から飛び立ったのかな?」と考えてしまう事があります。
周りの景色は変わっても夕映えの阿蘇は同じ風景なんだろうな、と想うと色々考えさせられます。
奥山大尉は相当な人格者だったらしいですね
輸送機は可能な限りの最高の整備をしていたはずだから12機中4機がエンジン不調で戻ったというのは
やはり色々な判断があったのかなと思います
航空機による特攻、艦船による決死作戦(戦艦大和の坊ノ岬沖海戦他)に比べてあまり知られていない、義烈空挺隊。
今こそ、世間に知らせるべきだと思う。
国の為、最後の最後窮地を打開する為に必死の決意で沖縄へ飛んだ義烈空挺隊員達。
この方々の努力を決して無駄にしてはならない。
当時の関係者の方々の直接のコメントが貴重だと思います。
後になればいろいろ言えても、当事者であった英霊の皆様には首を垂れるのみです。
日本を守る為にとはいい〜悲しい歴史ですね~
戦争で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします
旧健軍飛行場の地元に住んでますが、義烈空挺部隊の事を地元でもあまり知られていません。
大宮区在住です。大宮線の事は、小学生の頃に習いました。産まれた頃は、桜木交差点の近くに住んで居たそうで、祖母に話しも聞きました。私の父親は、養子で祖母の元に貰われて来たのですか。実家が川越の古谷で、大宮線に乗って来たそうです。川越の実家も付き合いが有って、黒須とかの地名も知ってます。
我々の世代は当時の新聞記事で知っております。戦後にみる友軍のすがたに涙がでます。
義烈空挺隊について。当時日本ニュースが密着取材しておりました。撮影したの日本ニュース報道班の大峰さんとカメラマンの小柳さんです。陸軍中野学校の隊員10名が加わりました。陸軍中野学校二俣分校出身者で熊倉順策さんいらっしゃいました。熊倉順策さんが搭乗した機体はエンジントラブルの為引き返しました。戦後、熊倉順策さんは自分は死に損ないと仰っていました。また義烈空挺隊員の中に村瀬伍長がいました。村瀬伍長は足が速く隊内から韋駄天村瀬と呼ばれていました。猛訓練の中、奥山隊長は訓練に遅れ気味になった時には奥山隊長は飛行機に自転車でも積んで行くかと言い周囲の隊員達を笑わせました。出撃の日、奥山隊長と諏訪部隊長が握手をするシーンがありますが、此れは一度目の握手シーンをカメラマンが撮り損ねた為、再度、両隊長にお願いして撮影されました。この時、奥山隊長は千両役者は辛いなぁと言い周囲の人達を笑わせました。報道班員の証言ではよく部屋に隊員達がウイスキーを持って来たそうです。飲んでくれって。そこで色々隊員達は報道班員に話しをしたそうです。故郷の山は如何だとか、ある隊員はカメラを除いて映ってる映ってると興奮したそうです。出撃前、義烈空挺隊員達は、お世話になった飛行機の整備員達に自分達はもう必要無いからと糧食を配りました。義烈空挺隊員の人選は奥山隊長は妻帯者、長兄は出来るだけ外しました。亡くなられた英霊達へ哀悼の意を捧げます。現在、千葉県の自衛隊習志野駐屯地に空挺資料館があります。予約制ですが機会があれば是非、足を運んでください。義烈空挺隊の資料、奥山隊長の遺書を展示しております。
大戦当時の米軍公文書では「日本陸軍に於ける非常に優れたコマンド作戦」と評価されているそうですね(白目)発令者は当時の北支方面第六軍総司令官で陸軍大将:岡部直三郎になりました(鼻ほぢ)義烈空挺隊の僅少な生き残りが実は拙宅親戚でガキの頃に存命していました為、当時の苛烈な軍事状況を詳らかに話してくれましたね(涙)また、我が国の独立行政法人国立公文書館アジア歴史資料センターアーカイブレファレンスコードナンバー(略称:アジ歴コード)所蔵で、戦時中に於ける当時の膨大な公文書群が今回の件で非常に参考になりました(汗)尚、アジ歴コードに関する情報源は、元国政中央になります(笑)
今を生きる我等だから終戦日を知っているだけで、当時を生きた彼等からすれば終戦3ヵ月前などとは夢にも思って無かったはず。
素晴らしい軍人軍神である合掌
ただただ涙 ありがとう先人の猛者
感涙🙏
これはぜひ映画化して欲しい実話ですね!
余りにも哀し過ぎる・・・そっとしてあげてほしい。
貴方の言うことも一理あるかもしれません。沖縄に散っていった姿に“リアル・ラスト サムライ”を見た気がしたので、映画化することを願ってしまいました。
映画『沖縄決戦』で登場します。
何故 犠牲と表現するのか?戦後日本人が犠牲者を作りあげているだけじゃないのか。
若者たちを生きる見込みのない作戦に送り込む国にしてはならない。
北朝鮮不審船事件の即席海自臨検隊の様な命令を二度とさせない国にしなくてはならない。
金正恩にも言ってください。
もうあの時期になって全てが無理!!
みんなわかっておったんだよ。だったらこの空挺部隊で逆にクーデターおこして、もっと早く降伏しとけば良かったんだよ。😢優秀な人達の無駄死に
ばか者!!
これほど優秀な精兵がこんな無謀な作戦で・・・本当に無駄死にで哀しくなります・・・。
@@jkfpapcp600 キミが莫迦・・・ロシアにでも行け。
義烈空挺隊の任務を悲劇として表現するのはやめなさい。最大の侮辱ですよ
愚劣空挺隊な
空の神兵顕彰会では義烈空挺隊の顕彰碑建立に向けてクラウドファンディングを行っております。
readyfor.jp/projects/giretsu
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