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単独大名同士の野戦と言うこと考えると、川中島の戦いが異常。
武田は敵地に攻め入ってるのに重臣が結構な割合で死亡しているイメージ。
戦国時代、群雄割拠の魅力的な時代でもそれは後世の人間にとっての話で、当時の人にとっては野蛮極まる修羅の時代だよね
その考え方すら相対的なもの実際戦国時代は100年も続いたので産まれてから亡くなるまで戦国時代で他の時代を知らないなら、当人たちにはそれが当たり前の時代。例えば400年後に【令和の時代の人達はコロナ禍や冷え込んだ経済など、かわいそうな時代を生きていました】と批判されるようなものかもしれない。
川中島、当家史料には啄木鳥のキの字も無く、勘助の名も無い。馬場信房が最初に挟撃策を提案し他の重臣達も大筋で同意だったらしく、具体的に動く日時等が決まる。霧の中の遭遇戦は確かだが、車懸かりの陣は存在し無い。上杉方は左翼・中央・右翼各々に鋒矢の陣のような形で鋭角に突撃を繰り返し右が先に崩れ後衛を補充する予定が上杉の突撃が激しく速く立て直しが不十分なまま中央の陣が前と右側から攻め立てらる歪な形になり十分な体制での防御が難しく本当に総崩れ寸前迄陥ったと。一般的には前半上杉、後半武田と言うが私的に信繁を失った…それだけで武田の大いなる負け。信繁の死が武田家滅亡の遠因と思っているので。因みに両角や初鹿野らの名は戦死者として記述があるが、ここでも勘助の名は無い。実在した事に全く異論は無いが一般的に思われてる程の人物では無かったのか、もしくは単に嫌っていて敢えて名を書かなかったのか。私的に武田家の軍師・軍配者は荻原昌勝と駒井高白斎。
そうだね!
同意です。山本勘助は武田家に士官していたものの軍師格ではなく築城等の支援部隊の一員だった可能性がありますね。車懸かりの陣も後世の創作で、実際にあんな戦法を採るとメチャメチャ効率が悪いと言われてますし、各所で「反転攻撃」的戦法を採ったとみるのが現実的でしょうね。戦死者数や損害の質(武田軍が大将クラスの戦死者も出ているのに対し、上杉軍にはそれがない)を見る限りでは、戦術的には「限りなく武田軍の敗北に近い痛み分け」と評価できるかと考えます。
@@drycool5348 下手くそな戦術で戦力を分散していた武田の損失が大きくなるのは当然です。まあ結局北信濃の覇権は武田の手に落ちるので、大きく見れば上杉の惨敗ですね
車懸かりの陣は「戦力の逐次投入」と呼ばれる、戦争で一番やっちゃいけない下手な戦いで、謙信ほどの人物がやるはずないって聞きました。ちなみにコレをやっちゃったのが太平洋戦争の日本軍、特にガダルカナル島の戦いがそうらしいです。
よく出されるクイズで「関ヶ原の戦いと長篠の戦いはどちらが犠牲者多いのか?」というものがありますね。しかし河越夜戦は多く犠牲者が出ていたのですね。武将を屠りまくるのは九州の島津家久ですが・・・・
関ヶ原動員おおいいけど真面目に戦う人数少ないのも考えても結構いたんだ
西軍の大名の1/3が、東軍の黒田氐によって調略されて裏切りか不参加を決めていたから。西軍総崩れなっつてからの、島津隊の中央突破で、戦死者増えた。
上杉軍は行軍態勢から戦闘態勢にスイッチするのが頭抜けて早かったらしいなだとすれば武田だけが主要武将を多く失ったのも納得だし、謙信の異常な戦績にも少し合点がいく
武田軍は伝統的に指揮官が前衛で指揮をするので他家より武将クラスの戦死が多いんです。川中島以外でもよく戦死しています。
@@すけたま-k3p だからこそ武田軍は強かったんですかね
@@チーズ-l5v 武田軍が強かった理由としてその事が挙げられる事は有りますね。
ただ単に武田が戦力を分散していたからです。平地でぶつかれば少ない方が大損害を喰らうのは当然です。まあ野戦なんて本来仕方なくやるものであって、不確定要素が多すぎて避けるのが当たり前です。陣地構築と長期包囲こそが合戦の基本ですよ川中島は両軍のレベルが低すぎて戦国きってのバカいくさですけど
北条氏康公の河越城の奇襲が出てた事は嬉しい😄
厳島の戦い、沖田畷の戦いも戦死者が多そうなイメージがありますが、どの位だったのかが気になります。
大坂夏の陣エグいな…。
朝鮮出兵も含めると泗川の戦いも気になりますね…
長篠の戦いは織田・徳川連合軍の圧勝のような記述が多いが、戦死者数だけを見ると武田約10,000人、織田・徳川連合軍約6,000人としている資料がある。序盤は互角か武田軍が押していたが、人数の差や鉄砲の玉切れなどで次第に勢いがなくなり、撤退に至ったと想像ができる。結局は人数や物量が勝敗を左右したのだろう。通常なら6,000人もの死者が出ていれば負け戦だがそれ以上に武田の死者数が多かった!
時代は違いますがノモンハンも同じ感じらしいですね。
長篠から戦による死亡率が劇的に上がったそうで。あと鉄砲も織田軍使用の物の方が新しいぶん有効射程が長かったようです。
織田徳川連合軍は武将は全然死んでないけど武田軍は主要武将大量戦死で文字通り「全滅」レベル。以後の戦線では徳川単独で武田と戦ってるから被害のレベルが違いすぎる。
長篠の戦は、武田勝頼は本拠地防衛のために、早々に撤退しても、すぐに追撃されるので死力を尽くしたのですね。現代では、前線部隊の割合は数割に過ぎないため、その数割が死傷するような状態も全滅と判定されることが多い。旧日本陸軍では一般的に損耗率50%を全滅と見做した、とありますね。 全軍の3割程度で全滅かと思っていました。旧日本陸軍の いわゆる玉砕戦は、長期間、敵の損害を大きくすることだけを目的とした、らしいけど。
@@鈴麗リンリー ノモンハンと、満州事変のリアルをどなたか動画にしてくれないかな、と思っています。西欧の戦車の発達に、日本の工業力が追い付いていないのが基本原因でしょうか。
関ヶ原の戦いは東部の毛利、長宗我部、長束、安国寺とそれらに備えていた浅野、池田、山内、有馬が動いていないので戦死者が少なかった。もし全軍が本気で合戦していたら戦死者はまだ多かったはず。
実際の関ケ原・山中の戦いは、(西軍が元々毛利勢を布陣させる予定だった)松尾山を占拠して両陣営から東軍とみなされていた小早川軍に西軍の主力が振り回されてほぼ徹夜で陣地を構築してヘトヘトになっていたところに士気旺盛な東軍の大軍に襲いかかられて有効な対処ができずに2時間程で蹴散らされたというのが実情なようです。なので、従来の通説で示されている死傷者数よりも実際の死傷者数は少ないのではないかと考えられます。
島原の乱は戦国にくらべても凄惨だったんだな
長島一向一揆の長島城の戦いは一揆だから除外かな?2万以上の一揆勢が焼き殺されたり本当に悲惨です。
しかも織田軍は壊滅したわけでもないのに武将が異常に戦死してる異様な戦い。
日本の戦はなんて穏やかなんだろう、桁がいくつも違う。
あんなもん合戦でも何でもあれへん
@@明石則実 というと?
そらりゃ日本は島国の中での戦いだからな。ヨーロッパは国同士の戦いだし、中国は国土からしてに兵数は大きくなる。日本は国としては豊臣秀吉が天下をとった時点で50万の戦える人がいたから国としてはとても大きい。
桁はともかく内容が濃い。また、中国の桁は盛ってる感がある。
それじゃ日本がスケール小さいみたいだな、井の中の蛙の一番争いみたいな
1位は納得です
長島一向一揆は戦死者数ベスト5ではないのですかね…両者10万超えの合戦なのに。(一向一揆側がジェノサイドされてるが織田軍も武将の戦死数が多い)
第三次合戦時には、織田家の家系の武将も10人近く討たれてますね戦国時代にも織田信成って同姓同名の武将が居たのは知らなかった
一揆は合戦にカウントしてないのでは?島原の乱然り。
@@明石則実 島原の乱は幕府による戦後の処刑者数が膨大だけど、これを「戦死」と定義していいのかどうか
1531年の大物崩れは細川・浦上連合軍(約2万)が三好・赤松連合軍(約1万)に敗北してほぼ全滅してる
謙信は城攻めを避けるため、あえて海津城を通り越して妻女山に布陣。信玄は夜陰に乗じて海津城に入場。謙信は敵の横っ腹を突く絶好の好機を逃した。謙信はどうしても野戦に持ち込みたく毎晩宴会。しびれを切らした信玄が「きつつき戦法」を決行。
当時の人口が現在の1/10ということは、この動画の戦死者数に10を掛ければ、現在の日本に置き換えた数字となるわけだ。インフルは一冬、新コロは1年で死者1万人だから、夏の陣で庶民含め10万人という数字が本当なら、現在の100万人相当。凄まじい数字だ
撤退戦なら戦没か逃散かわからない雑兵も沢山いたのかな。戦っていても逃散扱いならかわいそすぎる
戦国時代の合戦といえば、有名な戦国武将上杉武田両氏による川中島の戦いがあげられますよね。民衆をも巻き込むようなさぞ苛烈な戦いが繰り広げられていただろうと思われがちですが、そのほとんどは両軍が布陣して牽制し合うだけで、地元の農民が弁当持参で花見気分で見物するような、さながら現代の戦国絵巻祭りのような風物詩だったらしいですね。よくよく考えれば当たり前の話で、米の収穫量が国力に直結する時代にその貴重な働き手である農民をやたらと戦にかり出して消耗させるなんてことは本末転倒になっちゃうんですよね。
長篠の両軍戦死者1万6千人として。織田方戦死6千人、武田方戦死1万人ですね。そのうち武田は撤退戦で7千人戦死、とすると、武田は本戦は互角によく戦っていたことになる。戦争は逃げ出したら敗けなんだね。
こうしてみると関ヶ原より大阪の陣の方が戦死者多かったのか…
武士なんぞよりも民衆の被害が甚大。そこらへんのおっちゃんの首をとって手柄にしようとしますから
戦国時代から鉄砲の性能や弾薬量で勝敗が決まるんですね。どちらも命中率が低いものと思ってました。それにしても短期間で1万人前後の死者が出ると地獄絵図ですね。
大坂の陣の最後は、今風に言えば市街戦みたいな感じだったのかな?非戦闘員の死者が桁違いすぎる。現代的価値観だと戦争犯罪だね。
そら大阪で徳川は蛇蝎の如く嫌われるわな
浮かばれんなぁ…なんらかの形であの世から出てきても不思議じゃない気がしてきちゃいました…合掌
他の方も言っておられますが厳島や沖田畷、あと耳川の戦いなども戦死者は多そうです。が、何分資料が少ないor信憑性が少ないのでしょうな…
どの戦いも落ち武者が多数いて、野伏せり化して生活していたのだから戦死者数は推し量れないよ。ただ野伏せりの多くを"あずみ"が色んな経緯で退治したのは史実だろう。
耳川の戦い入る気がする
恐らく、朝鮮出兵時の戦死者は数万単位で出ているはず。例えば大坂の陣を一つの合戦と見てしまって良いのか、カウントの仕方によっても変わってくる。戦線が広域、もしくは複数の戦場に渡る合戦を、まとめて一つの合戦とするのか否か。
当時の兵力は補給部隊=非戦闘員含めた数字。
20世紀に於ける最大の遭遇戦となった『奉天の会戦』(日露戦争)では、当時人口が約4,600万だった日本が約20万の兵力─何とか第一線の戦闘に耐えうる陸軍兵士─を掻き集めて投入した(対するロシア軍は約30万)。此が明治日本の限界だった。動画では戦国時代の日本は人口約1,200万と紹介されてましたが、此を明治日本の陸軍兵力に当て嵌めると...約「5万超」程度となる。『関ヶ原の合戦』はともかくとして、有名であれど所詮「一地方の局地戦」に過ぎない戦国大名間の合戦となると─何処までが「兵力」として換算されるか基準が違うだろうから単純に比較できないのは重々承知しているが─通説や軍記物から伝わっている軍勢の数や戦死者数は盛りすぎていますよね。
だねーどう考えても戦死者数は実数より遥かに多く動画では紹介されていると思う明治初期の日本の人口が3000万人くらいだけど戦国時代から江戸と経て倍増してるかというとそれも正直怪しいというのも人口が激増するためには食料が必要なんだよね食料生産で革命が起きるのは20世紀初頭のアンモニアの化学合成以降だから戦乱が無いというだけで人口は倍増したりしない明治の人口数値はかなり正確な調査と統計に基づく政府のものなのでだとすると戦国時代の1800万人と紹介されている数字が大幅に間違っている可能性が高いまあ全体的に数字がガバガバな動画だと思います
近代国家の軍との比較はさすがにナンセンスですよ昔の資料が正確とは言いませんが、複数の資料(作者)が数字を盛る理由もその必要性もないことぐらいは子供でもわかることです
@@とっとこハミ太郎ラーイン だから「単純に比較できないのは重々承知している」との一文を付け加えたのですが。明治時代の日露戦争に於ける兵力数を載せたのは、近代国家の強力な徴兵・動員能力を持ってしても「大体この程度」だという参考の為で、先に述べたように人口が明治30年代の4割弱程度しかない戦国期に於いて、軍記物や通説として使われる数字は首を傾げざるを得ないものが多く鵜呑みには出来ない。軍記物の著者は人数を大袈裟に盛る必要はなくても、その数字は一体何処から得たのか?が問題だと思う。以下も参考で...鎌倉末期頃、地方の有力者間で紛争が勃発し─小規模ではあるが─合戦に発展。被害を受けた方が朝廷に訴えた場合、訴状には合戦に参加人数が「数百人」と書かれていても、実態は数十人─「ヤクザの出入り」程度─の人数だったそうで、中世に於いては文書で訴える場合、大袈裟に盛るのは常套手段だったとか。
@@黑き史 明治時代のどこが『強力な徴兵・動員能力』?近代国家のそれを例に出すなら太平洋戦争時の数字出さなきゃダメよ。「通説や軍記物は盛り過ぎている」自分の意見に合う数字しか見ないから論理破綻を起こしているんだよ。鎌倉時代の訴訟云々もそう。被害者が話を盛るのは中世に限らず現代だってそうでしょ?被害者が嘘を吐いたこと一つを持ち出して現代人皆が噓吐きだと言ってるようなもん。大体ね、通説や軍記物に限らず学者や民間人の手によって歴史研究が続いている訳よ。当然昔のことだから数字的な部分でも否定されたり変更されたり修正されたりはあるものの、あなたの言うような「盛り過ぎている」なんて見解は聞いたことがありませんね。
戦は勇ましく武門の誉れ。ただ庶民を巻き込んではいけません。
長篠の戦いは最後は武田軍のバンザイ突撃になったんだ。やはり太平洋戦争同様に最後は物量と火力が戦争で物を言うんだな。
冬の陣はそれほどではないんですね
この時代も捕虜になったら虐殺とかあったのかなぁ
兵数の主力が足軽(農民兵)だったし、足軽(農民兵)の恩賞なんて皆無の時代だから、命大事でしか足軽は戦わないしな。あと、第四次川中島の戦いは、義信に敗戦の責任を押し付けたと見るのが濃厚だわ。上杉方の軍記では、義信の勇猛さが目立つし…
前世療法受けたら、北条氏康でした。やはり、きましたか、河越夜戦。だけど、どうやって、勝っただろう?スピリチュアル的にね
銃弾の直進性は鉛が鉄より重かった(比重の違い)ため?
鉄の弾丸は有りません。現在も使われている鉛と、当時は銅(青銅)が主体です。
長篠の戦いは武田の指揮官の死者数のひどさがね…
絶対に誇張されたと思う自分がいます本当にこの人数なら昔の日本はほぼ軍人ですやん
日本人って全滅するまで戦うから怖いよな狭い島国で他に強さを生かせるものがなくて残念
島原の乱は対象外なのかな?
長篠は兵力差・国力差が有り過ぎた。信玄の時代よりも差が開いてたのを勝頼も知らなかった。甲斐・信濃の2国合わせても、尾張や近江1国より生産力が低い。
世界初の銃撃戦
でもその後、手取川の合戦で織田軍は謙信にやられちゃってるんだよね。雨の野戦で鉄砲使えないタイミングで謙信軍が圧勝し、「なんだ、織田もたいしたことないな、これなら上洛も楽勝だ」って謙信が言ってるんだよなぁ(笑)
@@コウダイ-r1v 実際には謙信は上洛しませんでした。寿命が短いのと、領土拡大の戦はあまりしなかった事が致命的でした。
@@健久保田-x4k それは戦に勝つのとは別な話。俺が言いたいのは国力だの兵力だのが劣勢でも勝利を引き寄せた例はたくさんあるってこと。
@@コウダイ-r1v そんな事いっさい言っていませんでした。謙信よりは秀吉の方が優れていたと思いますよ。朝鮮出兵は意味不明だったが
河越夜戦とかいう虚構
両上杉家だけで、関ヶ原の東軍並みの戦力は、ありえない。
戦いの戦死者を比べるのなら、ヨーロッパが激烈でしょうね。日本は勝てば領地経営を考えるが、ヨーロッパは殲滅戦、略奪、奴隷獲得など、異教徒は殺害が当たり前の時代。平和の時代になった筈なのに、強者がゴリ押しする時代になるとは残念です。
でも敗将が拉致されても自殺もしなければ殺されもしない多額の身代金を要求される
追撃戦が一方的な戦いになる事を考慮すると、長篠の戦いは武田の撤退始まる迄は織田の方が損害多そうだな。恐らく両翼は押し込んでいたが士気の低い小山田など中央軍が勝手に引き上げた為に両翼が逃げ場を失って壊滅したのでは
小山田信茂は左翼に属して山縣隊と共に戦っていました。中央で戦っていたのは武田信廉や信豊、穴山信君などの一門衆ですね。小山田隊は織田徳川軍の追撃を防ぎつつ最後まで勝頼を守りながら撤退しているので責任は無いと思います。甲陽軍鑑で高坂昌信に敗戦の原因として槍玉に挙げられているのは、武田信豊と穴山信君ですね。
@@すけたま-k3p なお信豊に関してはその甲陽軍艦にすら織田と戦っている記述がある模様…穴山に関しても家臣団が長篠で戦死しているので…
そういう見方をする人も少なくないですよ。実際に武田軍の大将クラスで柵付近で戦死したのは山県と土屋くらいで、後は柵からだいぶ離れた場所で戦死していて、かつ、中央付近に配置されていた連中は概ね生還しているようなので。世界史で例えるならば「カンナエの戦い」の失敗バージョンみたいだと言われています。私見としては、武田軍の中央部隊が戦線を維持できなくなって崩壊遁走した時点以前の段階でも織田徳川と同等かそれ以上の損害を出していた可能性はあるかと。なにせ、兵力や火力の差がありすぎます。
近代以前の戦争でこんなに死んでるかなー???記録がそもそも記録と呼べない物語に近いのでは?兵器群が著しい進化を遂げて人が短時間で大量に死ぬように戦場の様相が一変するのは世界的に見ると第一次大戦の少し前、日本が本格的に参戦した戦場だとノモンハン事件あたりからですよね
関ケ原8千人は西軍だけの数ではないのか?「通説」では
第二次世界大戦の戦死者に比べたらこんなものウクライナ戦争の犠牲者の方が多いかもしれないし関ヶ原は小早川秀秋が裏切ったから勝敗がついた、まともに戦っていれば間違いなく東軍の負けでした。
「トップ」より「ワースト」と表現したほうがいい。
戊辰戦争の諸戦の兵が数千程度だったことを考えると戦国時代の戦での兵数は今日まで伝わってるものより0が一つ少なかったのではと個人的に思ってます
戊辰戦争はそも動員規模が…
江戸時代に太平の世が続き身分制度も整ったため、身分が固定されて、武士は武士、農民は農民、と厳格に分かれ、戦国期のような農民足軽が無くなり、職業軍人で構成された幕末、戊辰戦争初期は動員数が激減しているのかと思います。
@@sikon4702 別に身分も大して固定されてないけどなそもそも16世紀半ばの人口はどう見積もっても幕末の半分以下なわけで
1こめ!
BGMの音が大きすぎて聞き取りにくかったです
単独大名同士の野戦と言うこと考えると、川中島の戦いが異常。
武田は敵地に攻め入ってるのに重臣が結構な割合で死亡しているイメージ。
戦国時代、群雄割拠の魅力的な時代
でもそれは後世の人間にとっての話で、当時の人にとっては野蛮極まる修羅の時代だよね
その考え方すら相対的なもの
実際戦国時代は100年も続いたので産まれてから亡くなるまで戦国時代で他の時代を知らないなら、当人たちにはそれが当たり前の時代。
例えば400年後に【令和の時代の人達はコロナ禍や冷え込んだ経済など、かわいそうな時代を生きていました】と批判されるようなものかもしれない。
川中島、当家史料には啄木鳥のキの字も無く、勘助の名も無い。馬場信房が最初に挟撃策を提案し他の重臣達も大筋で同意だったらしく、具体的に動く日時等が決まる。霧の中の遭遇戦は確かだが、車懸かりの陣は存在し無い。上杉方は左翼・中央・右翼各々に鋒矢の陣のような形で鋭角に突撃を繰り返し右が先に崩れ後衛を補充する予定が上杉の突撃が激しく速く立て直しが不十分なまま中央の陣が前と右側から攻め立てらる歪な形になり十分な体制での防御が難しく本当に総崩れ寸前迄陥ったと。一般的には前半上杉、後半武田と言うが私的に信繁を失った…それだけで武田の大いなる負け。信繁の死が武田家滅亡の遠因と思っているので。因みに両角や初鹿野らの名は戦死者として記述があるが、ここでも勘助の名は無い。実在した事に全く異論は無いが一般的に思われてる程の人物では無かったのか、もしくは単に嫌っていて敢えて名を書かなかったのか。私的に武田家の軍師・軍配者は荻原昌勝と駒井高白斎。
そうだね!
同意です。山本勘助は武田家に士官していたものの軍師格ではなく築城等の支援部隊の一員だった可能性がありますね。車懸かりの陣も後世の創作で、実際にあんな戦法を採るとメチャメチャ効率が悪いと言われてますし、各所で「反転攻撃」的戦法を採ったとみるのが現実的でしょうね。戦死者数や損害の質(武田軍が大将クラスの戦死者も出ているのに対し、上杉軍にはそれがない)を見る限りでは、戦術的には「限りなく武田軍の敗北に近い痛み分け」と評価できるかと考えます。
@@drycool5348 下手くそな戦術で戦力を分散していた武田の損失が大きくなるのは当然です。まあ結局北信濃の覇権は武田の手に落ちるので、大きく見れば上杉の惨敗ですね
車懸かりの陣は「戦力の逐次投入」と呼ばれる、戦争で一番やっちゃいけない下手な戦いで、謙信ほどの人物がやるはずないって聞きました。ちなみにコレをやっちゃったのが太平洋戦争の日本軍、特にガダルカナル島の戦いがそうらしいです。
よく出されるクイズで「関ヶ原の戦いと長篠の戦いはどちらが犠牲者多いのか?」というものがありますね。
しかし河越夜戦は多く犠牲者が出ていたのですね。
武将を屠りまくるのは九州の島津家久ですが・・・・
関ヶ原動員おおいいけど真面目に戦う人数少ないのも考えても結構いたんだ
西軍の大名の1/3が、東軍の黒田氐によって調略されて裏切りか不参加を決めていたから。西軍総崩れなっつてからの、島津隊の中央突破で、戦死者増えた。
上杉軍は行軍態勢から戦闘態勢にスイッチするのが頭抜けて早かったらしいな
だとすれば武田だけが主要武将を多く失ったのも納得だし、謙信の異常な戦績にも少し合点がいく
武田軍は伝統的に指揮官が前衛で指揮をするので他家より武将クラスの戦死が多いんです。川中島以外でもよく戦死しています。
@@すけたま-k3p だからこそ武田軍は強かったんですかね
@@チーズ-l5v
武田軍が強かった理由としてその事が挙げられる事は有りますね。
ただ単に武田が戦力を分散していたからです。平地でぶつかれば少ない方が大損害を喰らうのは当然です。まあ野戦なんて本来仕方なくやるものであって、不確定要素が多すぎて避けるのが当たり前です。陣地構築と長期包囲こそが合戦の基本ですよ
川中島は両軍のレベルが低すぎて戦国きってのバカいくさですけど
北条氏康公の河越城の奇襲が出てた事は嬉しい😄
厳島の戦い、沖田畷の戦いも戦死者が多そうなイメージがありますが、どの位だったのかが気になります。
大坂夏の陣エグいな…。
朝鮮出兵も含めると泗川の戦いも気になりますね…
長篠の戦いは織田・徳川連合軍の圧勝のような記述が多いが、戦死者数だけを見ると武田約10,000人、織田・徳川連合軍約6,000人としている資料がある。序盤は互角か武田軍が押していたが、人数の差や鉄砲の玉切れなどで次第に勢いがなくなり、撤退に至ったと想像ができる。結局は人数や物量が勝敗を左右したのだろう。通常なら6,000人もの死者が出ていれば負け戦だがそれ以上に武田の死者数が多かった!
時代は違いますがノモンハンも同じ感じらしいですね。
長篠から戦による死亡率が劇的に上がったそうで。
あと鉄砲も織田軍使用の物の方が新しいぶん有効射程が長かったようです。
織田徳川連合軍は武将は全然死んでないけど武田軍は主要武将大量戦死で文字通り「全滅」レベル。
以後の戦線では徳川単独で武田と戦ってるから被害のレベルが違いすぎる。
長篠の戦は、武田勝頼は本拠地防衛のために、早々に撤退しても、すぐに追撃されるので死力を尽くしたのですね。
現代では、前線部隊の割合は数割に過ぎないため、その数割が死傷するような状態も全滅と判定されることが多い。旧日本陸軍では一般的に損耗率50%を全滅と見做した、とありますね。 全軍の3割程度で全滅かと思っていました。
旧日本陸軍の いわゆる玉砕戦は、長期間、敵の損害を大きくすることだけを目的とした、らしいけど。
@@鈴麗リンリー
ノモンハンと、満州事変のリアルをどなたか動画にしてくれないかな、と思っています。
西欧の戦車の発達に、日本の工業力が追い付いていないのが基本原因でしょうか。
関ヶ原の戦いは東部の毛利、長宗我部、長束、安国寺とそれらに備えていた浅野、池田、山内、有馬が動いていないので戦死者が少なかった。
もし全軍が本気で合戦していたら戦死者はまだ多かったはず。
実際の関ケ原・山中の戦いは、(西軍が元々毛利勢を布陣させる予定だった)松尾山を占拠して両陣営から東軍とみなされていた小早川軍に西軍の主力が振り回されてほぼ徹夜で陣地を構築してヘトヘトになっていたところに士気旺盛な東軍の大軍に襲いかかられて有効な対処ができずに2時間程で蹴散らされたというのが実情なようです。なので、従来の通説で示されている死傷者数よりも実際の死傷者数は少ないのではないかと考えられます。
島原の乱は戦国にくらべても凄惨だったんだな
長島一向一揆の長島城の戦いは一揆だから除外かな?
2万以上の一揆勢が焼き殺されたり本当に悲惨です。
しかも織田軍は壊滅したわけでもないのに武将が異常に戦死してる異様な戦い。
日本の戦はなんて穏やかなんだろう、桁がいくつも違う。
あんなもん合戦でも何でもあれへん
@@明石則実 というと?
そらりゃ日本は島国の中での戦いだからな。
ヨーロッパは国同士の戦いだし、中国は国土からしてに兵数は大きくなる。
日本は国としては豊臣秀吉が天下をとった時点で50万の戦える人がいたから国としてはとても大きい。
桁はともかく内容が濃い。
また、中国の桁は盛ってる感がある。
それじゃ日本がスケール小さいみたいだな、井の中の蛙の一番争いみたいな
1位は納得です
長島一向一揆は戦死者数ベスト5ではないのですかね…両者10万超えの合戦なのに。(一向一揆側がジェノサイドされてるが織田軍も武将の戦死数が多い)
第三次合戦時には、織田家の家系の武将も10人近く討たれてますね
戦国時代にも織田信成って同姓同名の武将が居たのは知らなかった
一揆は合戦にカウントしてないのでは?島原の乱然り。
@@明石則実 島原の乱は幕府による戦後の処刑者数が膨大だけど、これを「戦死」と定義していいのかどうか
1531年の大物崩れは細川・浦上連合軍(約2万)が三好・赤松連合軍(約1万)に敗北してほぼ全滅してる
謙信は城攻めを避けるため、あえて海津城を通り越して妻女山に布陣。信玄は夜陰に乗じて海津城に入場。謙信は敵の横っ腹を突く絶好の好機を逃した。謙信はどうしても野戦に持ち込みたく毎晩宴会。しびれを切らした信玄が「きつつき戦法」を決行。
当時の人口が現在の1/10ということは、この動画の戦死者数に10を掛ければ、現在の日本に置き換えた数字となるわけだ。
インフルは一冬、新コロは1年で死者1万人だから、夏の陣で庶民含め10万人という数字が本当なら、現在の100万人相当。凄まじい数字だ
撤退戦なら戦没か逃散かわからない雑兵も沢山いたのかな。
戦っていても逃散扱いならかわいそすぎる
戦国時代の合戦といえば、有名な戦国武将上杉武田両氏による川中島の戦いがあげられますよね。
民衆をも巻き込むようなさぞ苛烈な戦いが繰り広げられていただろうと思われがちですが、そのほとんどは両軍が布陣して牽制し合うだけで、
地元の農民が弁当持参で花見気分で見物するような、さながら現代の戦国絵巻祭りのような風物詩だったらしいですね。
よくよく考えれば当たり前の話で、米の収穫量が国力に直結する時代にその貴重な働き手である農民をやたらと戦にかり出して消耗させるなんてことは本末転倒になっちゃうんですよね。
長篠の両軍戦死者1万6千人として。織田方戦死6千人、武田方戦死1万人ですね。
そのうち武田は撤退戦で7千人戦死、とすると、武田は本戦は互角によく戦っていたことになる。
戦争は逃げ出したら敗けなんだね。
こうしてみると関ヶ原より大阪の陣の方が戦死者多かったのか…
武士なんぞよりも民衆の被害が甚大。そこらへんのおっちゃんの首をとって手柄にしようとしますから
戦国時代から鉄砲の性能や弾薬量で勝敗が決まるんですね。どちらも命中率が低いものと思ってました。それにしても短期間で1万人前後の死者が出ると地獄絵図ですね。
大坂の陣の最後は、今風に言えば市街戦みたいな感じだったのかな?
非戦闘員の死者が桁違いすぎる。現代的価値観だと戦争犯罪だね。
そら大阪で徳川は蛇蝎の如く嫌われるわな
浮かばれんなぁ…なんらかの形であの世から出てきても不思議じゃない気がしてきちゃいました…合掌
他の方も言っておられますが厳島や沖田畷、あと耳川の戦いなども戦死者は多そうです。
が、何分資料が少ないor信憑性が少ないのでしょうな…
どの戦いも落ち武者が多数いて、野伏せり化して生活していたのだから戦死者数は推し量れないよ。ただ野伏せりの多くを"あずみ"が色んな経緯で退治したのは史実だろう。
耳川の戦い入る気がする
恐らく、朝鮮出兵時の戦死者は数万単位で出ているはず。
例えば大坂の陣を一つの合戦と見てしまって良いのか、
カウントの仕方によっても変わってくる。
戦線が広域、もしくは複数の戦場に渡る合戦を、
まとめて一つの合戦とするのか否か。
当時の兵力は補給部隊=非戦闘員含めた数字。
20世紀に於ける最大の遭遇戦となった『奉天の会戦』(日露戦争)では、当時人口が約4,600万だった日本が約20万の兵力─何とか第一線の戦闘に耐えうる陸軍兵士─を掻き集めて投入した(対するロシア軍は約30万)。此が明治日本の限界だった。
動画では戦国時代の日本は人口約1,200万と紹介されてましたが、此を明治日本の陸軍兵力に当て嵌めると...約「5万超」程度となる。
『関ヶ原の合戦』はともかくとして、有名であれど所詮「一地方の局地戦」に過ぎない戦国大名間の合戦となると─何処までが「兵力」として換算されるか基準が違うだろうから単純に比較できないのは重々承知しているが─通説や軍記物から伝わっている軍勢の数や戦死者数は盛りすぎていますよね。
だねーどう考えても戦死者数は実数より遥かに多く動画では紹介されていると思う
明治初期の日本の人口が3000万人くらいだけど戦国時代から江戸と経て倍増してるかというとそれも正直怪しい
というのも人口が激増するためには食料が必要なんだよね
食料生産で革命が起きるのは20世紀初頭のアンモニアの化学合成以降だから戦乱が無いというだけで人口は倍増したりしない
明治の人口数値はかなり正確な調査と統計に基づく政府のものなのでだとすると戦国時代の1800万人と紹介されている数字が大幅に間違っている可能性が高い
まあ全体的に数字がガバガバな動画だと思います
近代国家の軍との比較はさすがにナンセンスですよ
昔の資料が正確とは言いませんが、複数の資料(作者)が数字を盛る理由もその必要性もないことぐらいは子供でもわかることです
@@とっとこハミ太郎ラーイン だから「単純に比較できないのは重々承知している」との一文を付け加えたのですが。
明治時代の日露戦争に於ける兵力数を載せたのは、近代国家の強力な徴兵・動員能力を持ってしても「大体この程度」だという参考の為で、先に述べたように人口が明治30年代の4割弱程度しかない戦国期に於いて、軍記物や通説として使われる数字は首を傾げざるを得ないものが多く鵜呑みには出来ない。軍記物の著者は人数を大袈裟に盛る必要はなくても、その数字は一体何処から得たのか?が問題だと思う。
以下も参考で...
鎌倉末期頃、地方の有力者間で紛争が勃発し─小規模ではあるが─合戦に発展。被害を受けた方が朝廷に訴えた場合、訴状には合戦に参加人数が「数百人」と書かれていても、実態は数十人─「ヤクザの出入り」程度─の人数だったそうで、中世に於いては文書で訴える場合、大袈裟に盛るのは常套手段だったとか。
@@黑き史
明治時代のどこが『強力な徴兵・動員能力』?
近代国家のそれを例に出すなら太平洋戦争時の数字出さなきゃダメよ。
「通説や軍記物は盛り過ぎている」
自分の意見に合う数字しか見ないから論理破綻を起こしているんだよ。
鎌倉時代の訴訟云々もそう。
被害者が話を盛るのは中世に限らず現代だってそうでしょ?
被害者が嘘を吐いたこと一つを持ち出して現代人皆が噓吐きだと言ってるようなもん。
大体ね、通説や軍記物に限らず学者や民間人の手によって歴史研究が続いている訳よ。
当然昔のことだから数字的な部分でも否定されたり変更されたり修正されたりはあるものの、
あなたの言うような「盛り過ぎている」なんて見解は聞いたことがありませんね。
戦は勇ましく武門の誉れ。
ただ庶民を巻き込んではいけません。
長篠の戦いは最後は武田軍のバンザイ突撃になったんだ。やはり太平洋戦争同様に最後は物量と火力が戦争で物を言うんだな。
冬の陣はそれほどではないんですね
この時代も捕虜になったら虐殺とかあったのかなぁ
兵数の主力が足軽(農民兵)だったし、足軽(農民兵)の恩賞なんて皆無の時代だから、命大事でしか足軽は戦わないしな。
あと、第四次川中島の戦いは、義信に敗戦の責任を押し付けたと見るのが濃厚だわ。
上杉方の軍記では、義信の勇猛さが目立つし…
前世療法受けたら、北条氏康でした。やはり、きましたか、河越夜戦。だけど、どうやって、勝っただろう?スピリチュアル的にね
銃弾の直進性は鉛が鉄より重かった(比重の違い)ため?
鉄の弾丸は有りません。現在も使われている鉛と、当時は銅(青銅)が主体です。
長篠の戦いは武田の指揮官の死者数のひどさがね…
絶対に誇張されたと思う自分がいます
本当にこの人数なら昔の日本はほぼ軍人ですやん
日本人って全滅するまで戦うから怖いよな
狭い島国で他に強さを生かせるものがなくて残念
島原の乱は対象外なのかな?
長篠は兵力差・国力差が有り過ぎた。信玄の時代よりも差が開いてたのを勝頼も知らなかった。
甲斐・信濃の2国合わせても、尾張や近江1国より生産力が低い。
世界初の銃撃戦
でもその後、手取川の合戦で織田軍は謙信にやられちゃってるんだよね。
雨の野戦で鉄砲使えないタイミングで謙信軍が圧勝し、
「なんだ、織田もたいしたことないな、これなら上洛も楽勝だ」って謙信が言ってるんだよなぁ(笑)
@@コウダイ-r1v 実際には謙信は上洛しませんでした。寿命が短いのと、領土拡大の戦はあまりしなかった事が
致命的でした。
@@健久保田-x4k
それは戦に勝つのとは別な話。
俺が言いたいのは国力だの兵力だのが劣勢でも勝利を引き寄せた例はたくさんあるってこと。
@@コウダイ-r1v そんな事いっさい言っていませんでした。
謙信よりは秀吉の方が優れていたと思いますよ。
朝鮮出兵は意味不明だったが
河越夜戦とかいう虚構
両上杉家だけで、関ヶ原の東軍並みの戦力は、ありえない。
戦いの戦死者を比べるのなら、ヨーロッパが激烈でしょうね。日本は勝てば領地経営を考えるが、ヨーロッパは殲滅戦、略奪、奴隷獲得など、異教徒は殺害が当たり前の時代。平和の時代になった筈なのに、強者がゴリ押しする時代になるとは残念です。
でも敗将が拉致されても
自殺もしなければ殺されもしない
多額の身代金を要求される
追撃戦が一方的な戦いになる事を考慮すると、長篠の戦いは武田の撤退始まる迄は織田の方が損害多そうだな。恐らく両翼は押し込んでいたが士気の低い小山田など中央軍が勝手に引き上げた為に両翼が逃げ場を失って壊滅したのでは
小山田信茂は左翼に属して山縣隊と共に戦っていました。中央で戦っていたのは武田信廉や信豊、穴山信君などの一門衆ですね。
小山田隊は織田徳川軍の追撃を防ぎつつ最後まで勝頼を守りながら撤退しているので責任は無いと思います。
甲陽軍鑑で高坂昌信に敗戦の原因として槍玉に挙げられているのは、武田信豊と穴山信君ですね。
@@すけたま-k3p なお信豊に関してはその甲陽軍艦にすら織田と戦っている記述がある模様…
穴山に関しても家臣団が長篠で戦死しているので…
そういう見方をする人も少なくないですよ。実際に武田軍の大将クラスで柵付近で戦死したのは山県と土屋くらいで、後は柵からだいぶ離れた場所で戦死していて、かつ、中央付近に配置されていた連中は概ね生還しているようなので。世界史で例えるならば「カンナエの戦い」の失敗バージョンみたいだと言われています。
私見としては、武田軍の中央部隊が戦線を維持できなくなって崩壊遁走した時点以前の段階でも織田徳川と同等かそれ以上の損害を出していた可能性はあるかと。なにせ、兵力や火力の差がありすぎます。
近代以前の戦争でこんなに死んでるかなー???
記録がそもそも記録と呼べない物語に近いのでは?
兵器群が著しい進化を遂げて人が短時間で大量に死ぬように戦場の様相が一変するのは世界的に見ると第一次大戦の少し前、日本が本格的に参戦した戦場だとノモンハン事件あたりからですよね
関ケ原8千人は西軍だけの数ではないのか?「通説」では
第二次世界大戦の戦死者に比べたらこんなもの
ウクライナ戦争の犠牲者の方が多いかもしれないし
関ヶ原は小早川秀秋が裏切ったから勝敗がついた、まともに戦っていれば間違いなく東軍の負けでした。
「トップ」より「ワースト」と表現したほうがいい。
戊辰戦争の諸戦の兵が数千程度だったことを考えると戦国時代の戦での兵数は今日まで伝わってるものより0が一つ少なかったのではと個人的に思ってます
戊辰戦争はそも動員規模が…
江戸時代に太平の世が続き身分制度も整ったため、身分が固定されて、武士は武士、農民は農民、と厳格に分かれ、戦国期のような農民足軽が無くなり、職業軍人で構成された幕末、戊辰戦争初期は動員数が激減しているのかと思います。
@@sikon4702
別に身分も大して固定されてないけどな
そもそも16世紀半ばの人口はどう見積もっても幕末の半分以下なわけで
1こめ!
BGMの音が大きすぎて聞き取りにくかったです