【耳で慣れる中国語】名作朗読 故郷魯迅【睡眠前の朗読】】「元中国語アナウンサーと学ぶ」Chinese listening practice with announcer .鲁迅 故乡

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  • เผยแพร่เมื่อ 6 ก.ย. 2024

ความคิดเห็น • 10

  • @user-ey8yv7gg5k
    @user-ey8yv7gg5k  3 ปีที่แล้ว +11

    厳しい寒さを通って、私は二千里以上も離れて、二十年過ぎも別れた故郷へ帰った。
     もう真冬の候であった。そのうえ故郷へ近づくにつれて、空模様は怪しくなり、冷たい風がヒューヒュー音をたてて、船の中まで吹き込んできた。苫のすきまから外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに横たわっていた。覚えず寂寥の感が胸にこみあげた。
     ああ、これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか。
     わたしの覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。わたしの故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと故郷はこんなふうなのだ──進歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしない。そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。なぜなら、今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから。
     今度は、故郷に別れを告げに来たのである。わたしたちが長いこと一族で住んでいた古い家は、今はもう他人の持ち物になってしまった。明け渡しの期限は今年いっぱいである。どうしても旧暦の正月の前に、住み慣れた古い家に別れ、なじみ深い故郷をあとにして、わたしが今暮らしを立てている異郷の地へ引っ越さねばならない。
     翌日の朝早く、わたしはわが家の表門に立った。屋根には一面に枯れ草のやれ茎が、折からの風になびいて、この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。一緒に住んでいた親戚たちは、もう引っ越してしまったあとらしく、ひっそり閑としている。自宅の庭先まで来てみると、母はもう迎えに出ていた。あとから八歳になる甥の宏ちゃんもとび出した。
     母は機嫌よかったが、さすがにやるせない表情は隠しきれなかった。わたしを座らせ、休ませ、茶をついでくれなどして、すぐ引っ越しの話はもち出さない。宏ちゃんは、わたしとは初対面なので、離れた所に立って、じっとわたしの方を見つめていた。
     だが、とうとう引っ越しの話になった。わたしは、あちらの家はもう借りてあること、家具も少しは買ったこと、あとは家にある道具類をみんな売り払って、その金で買いたせばよいこと、などを話した。母もそれに賛成した。そして、荷造りもほぼ終わったこと、かさばる道具類は半分ほど処分したが、よい値にならなかったことなどを話した。
    「一、二日休んだら、親戚回りをしてね、そのうえでたつとしよう。」と母は言った。 「ええ。」
    「それから、閏土ね。あれが、いつも家へ来るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに会いたがっていましたよ。おまえが着くおよその日取りは知らせておいたから、いまに来るかもしれない。」
     この時突然、わたしの脳裏に不思議な画面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡す限り緑の西瓜が植わっている。そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。
     この少年が閏土である。彼と知り合った時、わたしもまだ十歳そこそこだった。もう三十年近い昔のことである。そのころは、父もまだ生きていたし、家の暮らし向きも楽で、わたしは坊ちゃんでいられた。ちょうどその年は、わが家が大祭の当番にあたっていた。この祭りの当番というのが、三十何年めにただ一回順番が回ってくるとかで、ごく大切な行事だった。正月に、祖先の像を祭るのである。さまざまの供物をささげ、祭器もよく吟味するし、参詣の人も多かったので、祭器をとられぬように番をする必要があった。わたしの家には「忙月」が一人いるだけである。(わたしの郷里では、雇い人は三種類ある。年間通して決まった家で働くのが「長年」、日決めで働くのが「短工」、自分でも耕作するかたわら、年末や節季や年貢集めの時などに、決まった家へ来て働くのが「忙月」と呼ばれた。)一人では手が足りぬので、彼は自分の息子の閏土に祭器の番をさせたいが、とわたしの父に申し出た。

  • @鹿乃子のこ-m9t
    @鹿乃子のこ-m9t วันที่ผ่านมา

    小学生の頃に魯迅の故郷を国語の授業で学びました。当時も闰土が魯迅に向かって「老爷!」と叫び、それを聞いた魯迅が身分格差によって竹馬の友との埋めようもない壁が出来てしまったことに衝撃を受けたシーンに強く感動したものです。
    その後大学で中国語を学びましたが、授業で魯迅の故郷を勉強する機会はありませんでした。今回中国語で故郷を朗読していただき、子供の頃に感じた感動と、当時の中国社会が彼らの友情まで引き裂いてしまった現実に思いを馳せ、涙が溢れました。今の中国も経済的に大変らしいですが、当時の農村は遥かに厳しいものだったのですね。😢

  • @nodirectionhome-shogan
    @nodirectionhome-shogan 4 หลายเดือนก่อน

    感谢不仅🙏

  • @user-ey8yv7gg5k
    @user-ey8yv7gg5k  3 ปีที่แล้ว +9

    父はそれを許した。わたしもうれしかった。というのは、かねて閏土という名は耳にしていたし、同じ年ごろなこと、また閏月の生まれで、五行の土が欠けているので父親が閏土と名づけたことも承知していたから。彼はわなをかけて小鳥を捕るのがうまかった。
     それからというもの、来る日も来る日も新年が待ち遠しかった。新年になれば閏土がやって来る。待ちに待った年末になり、ある日のこと、母がわたしに、閏土が来たと知らせてくれた。とんでいってみると、彼は台所にいた。つやのいい丸顔で、小さな毛織りの帽子をかぶり、キラキラ光る銀の首輪をはめていた。それは父親の溺愛ぶりを示すもので、どうか息子が死なないようにと神仏に願をかけて、その首輪でつなぎ止めてあるのだ。彼は人見知りだったが、わたしにだけは平気で、そばにだれもいないとよく口をきいた。半日もせずにわたしたちは仲よくなった。
     その時何をしゃべったかは、覚えていない。ただ閏土が、城内へ来ていろいろ珍しいものを見たといって、はしゃいでいたことだけは記憶に残っている。
     次の日、鳥を捕ってくれと頼むと、彼は、
    「だめだよ。大雪が降ってからでなきゃ。おいらとこ、砂地に雪が降るだろ。そうしたら雪をかいて、少し空き地をこしらえるんだ。それから、大きなかごを持ってきて、短いつっかえ棒をかって、くずもみをまくんだ。そうすると、小鳥が来て食うから、その時遠くの方から、棒に結わえてある縄を引っぱるんだ。そうすると、みんなかごから逃げられないんだ。なんだっているぜ。稲鶏だの、角鶏だの、鳩だの、藍背だの……。」
     それからは雪の降るのが待ち遠しくなった。
     閏土はまた言うのだ。
    「今は寒いけどな、夏になったら、おいらとこへ来るといいや。おいら、昼間は海へ貝殻拾いに行くんだ。赤いのも、青いのも、なんでもあるよ。『鬼おどし』もあるし、『観音様の手』もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも来いよ。」
    「どろぼうの番?」
    「そうじゃない。通りがかりの人が、のどが渇いて西瓜を取って食ったって、そんなの、おいらとこじゃどろぼうなんて思やしない。番するのは、あなぐまや、はりねずみや、チャーさ。月のある晩に、いいかい、ガリガリって音がしたら、チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺叉を持って、忍び寄って……。」
     その時わたしはその「チャー」というのがどんなものか、見当もつかなかった──今でも見当はつかない──が、ただなんとなく、小犬のような、そして獰猛な動物だという感じがした。
    「かみつかない?」
    「刺叉があるじゃないか。忍び寄って、チャーを見つけたら突くのさ。あんちくしょう、りこうだから、こっちへ走ってくるよ。そうしてまたをくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいにすべっこくて……。」
     こんなにたくさん珍しいことがあろうなど、それまでわたしは思ってもみなかった。海には、そのような五色の貝殻があるものなのか。西瓜には、こんな危険な経歴があるものなのか。わたしは西瓜といえば、果物屋に売っているものとばかり思っていた。
    「おいらとこの砂地では、高潮の時分になると『跳ね魚』がいっぱい跳ねるよ。みんなかえるみたいな足が二本あって……。」
     ああ、閏土の心は神秘の宝庫で、わたしの遊び仲間とは大違いだ。こんなことはわたしの友達は何も知ってはいない。閏土が海辺にいる時、彼らはわたしと同様、高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。
     惜しくも正月は過ぎて、閏土は家へ帰らねばならなかった。別れがつらくて、わたしは声をあげて泣いた。閏土も台所の隅に隠れて、嫌がって泣いていたが、とうとう父親に連れてゆかれた。そのあと、彼は父親にことづけて、貝殻を一包みと、美しい鳥の羽を何本か届けてくれた。わたしも一、二度何か贈り物をしたが、それきり顔を合わす機会はなかった。
     今、母の口から彼の名が出たので、この子供のころの思い出が、電光のように一挙によみがえり、わたしはやっと美しい故郷を見た思いがした。わたしはすぐこう答えた。
    「そりゃいいな。で──今、どんな? ……。」
    「どんなって……やっぱり、楽ではないようだが……。」そう答えて母は、戸外へ目をやった。
    「あの連中、また来ている。道具を買うという口実で、その辺にあるものを勝手に持っていくのさ。ちょっと見てくるからね。」
     母は立ち上がって出ていった。外では、数人の女の声がしていた。わたしは宏児をこちらへ呼んで、話し相手になってやった。字は書ける? よそへ行くの、うれしい? などなど。
    「汽車に乗ってゆくの?」
    「汽車に乗ってゆくんだよ。」
    「お船は?」
    「初めに、お船に乗って……。」
    「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして。」不意にかん高い声が響いた。
     びっくりして頭を上げてみると、わたしの前には、ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女が立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかないズボン姿で足を開いて立ったところは、まるで製図用の脚の細いコンパスそっくりだった。
     わたしはドキンとした。
    「忘れたかね? よくだっこしてあげたものだが。」
     ますますドキンとした。幸い、母が現れて口添えしてくれた。
    「長いこと家にいなかったから、見忘れてしまってね。おまえ、覚えているだろ。」
    とわたしに向かって、「ほら、筋向かいの楊おばさん……豆腐屋の。」
     そうそう、思い出した。そういえば子供のころ、筋向かいの豆腐屋に、楊おばさんという人が一日じゅう座っていて、「豆腐屋小町」と呼ばれていたっけ。しかし、その人なら白粉を塗っていたし、ほお骨もこんなに出ていないし、唇もこんなに薄くはなかったはずだ。それに一日じゅう座っていたのだから、こんなコンパスのような姿勢は、見ようにも見られなかった。そのころうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋は商売繁盛だとされた。たぶん年齢のせいだろうか、わたしはそういうことにさっぱり関心がなかった。そのため見忘れてしまったのである。ところがコンパスのほうでは、それがいかにも不服らしく、さげすむような表情を見せた。まるでフランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬのをあざけるといった調子で、冷笑を浮かべながら、
    「忘れたのかい? なにしろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね……。」
    「そんなわけじゃないよ……ぼくは……。」わたしはどぎまぎして、立ち上がった。
    「それならね、お聞きなさいよ、迅ちゃん。あんた、金持ちになったんでしょ。持ち運びだって、重くて不便ですよ。こんなガラクタ道具、じゃまだから、あたしにくれてしまいなさいよ。あたしたち貧乏人には、けっこう役に立ちますからね。」
    「ぼくは金持ちじゃないよ。これを売って、その金で……。」
    「おやおや、まあまあ、知事様になっても金持ちじゃない? 現にお妾が三人もいて、お出ましは八人かきのかごで、それでも金持ちじゃない? フン、だまそうたって、そうはいきませんよ。」

  • @jadoretesyeux_
    @jadoretesyeux_ 6 หลายเดือนก่อน

    谢谢老师❤
    今天学好了很多

  • @user-lv5mo2wh4r
    @user-lv5mo2wh4r 2 ปีที่แล้ว +4

    阿Q正伝もお願いします。一番好きな小説です。一度原文を読んでみたい。

  • @26c62626yamashita
    @26c62626yamashita 3 ปีที่แล้ว +3

    難しい内容ですが 覚えたいです。

  • @user-jd8fl1ur6o
    @user-jd8fl1ur6o 2 ปีที่แล้ว +1

    私が持っている中国語の教科書に応用編の教材で、①歐陽海之歌、②愚公移山、③一件小事の読物を掲載しています。

  • @maximliu2440
    @maximliu2440 3 ปีที่แล้ว +2

    少年闰土!学习了!

  • @a-shengjiang7194
    @a-shengjiang7194 ปีที่แล้ว

    来中国绍兴吧,你会体会更深