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しっかりマスクをされて、刀身に配慮されている姿が本物と感じさせます。ありがとうございます。
弘安の役では、大宰府の小弐家、熊本の菊池家、肥前の松浦党が主力で各地の在郷武士がいくつか参加してますね。兵力としては最大規模になる阿蘇大宮司家、島津家は南宋からの襲来を警戒して九州南西海岸沿いの警備任務してたようです。文永の役は阿蘇大宮司家2万を鎌倉幕府からの軍監安達安盛に預け博多戦線に。鎌倉軍は京都まで軍を進めましたがそこで蒙古撃退の知らせを聞いて不参加です。よく鎌倉武士が元軍を撃退したといいますが2度に渡り撃退したのは「九州の御家人」です。「鎌倉時代」であっても「地名としての鎌倉」武士ではありませんね。ちなみにその後の動きもあって、九州の武士たちは壱岐、対馬の奪還、また朝鮮やシナに抑留された日本人の奪還を独力で始めています。これがいわゆる「倭寇」です。この時期に高位の武士も大鎧をやめて胴丸型に変えられ水上戦や上陸戦を意識したものに変わっていきそこから南北朝時代に入っていきます。
坂東武者と鎌倉武士を混同しているからそのようなことになる。
毎回大変貴重なお話を楽しく拝聴させてもらってます。 私個人は南北朝の体佩が好きです。今回のお話しにありました革ごと切断する為に、身幅が広く、大切先、鎬高、長寸の形になって行った事が良く分かりました。あの当時の日本人の多くは小柄だったと思いますが、あの豪装を操る体力をやしなっていた事に頭が下がります。蒙古襲来より半世紀後からが南北朝の刀の最盛期だと思います。
思ってたよりも幅広でしっかりしてびっくり。
今回も深海先生のお話に引きこまれました。蒙古襲来によって日本刀の姿が大きく変化した様子を、鞘や刀の現物にてご説明頂いたので、驚きつつ理解が大変深まりました。毎回貴重なお話をありがとうございます。次回は、蒙古軍の皮兜や弓などの現物にてご説明があるとのこと、心から楽しみにしております。
私は代々武士家系で蒙古襲来では命を懸けて戦ったと聞いています。先の大東亜戦争では、北方の第九十一師団で國を守っており、打ち刀程の長さになっていた元太刀(銘助真)を軍刀拵えにしたそうです。戦後、占守島の戦いで命を落としましたが、軍刀を部下の方が持ち帰って来てくださり、血が切先付近についてるの見て曽祖父が自刃したのだと分かったという話を聞いてて太刀拵えと軍刀拵えが並べられてるのを見るといつも、複雑な気持ちになります。
合掌。感謝しています。
平安後期から鎌倉初期の腰反りで切っ先の小さい太刀が好きです。
傭兵対正規兵(ちょっと違うかも?)の戦いだったんですね。
蒙古から鹵獲した武器‼️次回が楽しみです。
この頃の時代だと古波平と西蓮を所持していますが、質実剛健ながらも、それでいてどこか優雅な姿が魅力的ですね。
待ってました! 蒙古襲来、社長がおっしゃる様に、刀が変わった話、面白い! 次回が待ちどうしいです
似た様なお話 日中戦争NHkドキュメント番組で中国戦線での小隊長の手記先祖伝来の軍刀刀身では使い物にならない身幅の広いごっつりな刀身を至急所望の手紙が紹介されていました実戦?で有効な刀とは・・・この様な。
まさに国難ですね。東北在住ですが、幼い頃は「泣けば山からモコ(蒙古)来るぞ」と言われておりました。最近はこの様な事を伝える家庭はほぼ無いかと思いますが、700年以上経った東北地方にさえそういった言い伝えの様な物が残っていた事を考えると、当時の人々の衝撃と恐怖は計り知れないですね。
壱岐、対馬では「モクリ、コクリ」
私の妻が東北の北の外れに近い場所の出身ダダをコネルとモウコ来るよと言っていました 私は当時あまり深く考えず怖い何かと思っていました又本人に聞いたがやはり怖い何かと思っていました、 古い言葉がまだ残っています東北は。
モッコととは蒙古、対馬や壱岐から逃れた者が秋田や青森に逃れたという説があるみたい。
遠距離戦では長弓、接近戦では日本刀や薙刀だったのだろうな。
最近の研究では日本の弓の方が有効射程距離が長かったと言われてます。日本の弓は牽引力40キロだそうで、地面に這いつくばった痩せた女性を片手でヒョイと耳まで持ち上げるだけの馬鹿力がないと引けないそうです。矢の慣性質量は蒙古軍より大きく、相手の射程距離外から矢を放ち、陣が乱れると、薙刀を振り回し、馬が射られると刀を振り回し、遠距離から近距離まで鎌倉武士団はフレキシブルに戦ったようです。
いわゆる角弓で大きく反り返る弓でした。「[世紀帝國4] 蒙古弓」
7:47 立ち向かうのは刀しかないからね……いやいや『蒙古襲来絵詞』には薙刀も描かれていますよ。この時代に日本には槍は存在しておりませんので、 まず中距離は武士が矢で射かけ、次に遠間は従者が薙刀で突いたり薙ったりし、近間は武士が馬上にて太刀で相手を仕留めることになります。そして勝ち獲た蒙古兵の首を従者が薙刀の切先に刺して晒します。もっとも船上の戦闘では武士は靭負を背にしていますが、太刀にて立ち向かっています。
こんにちは。いつも拝見させていただいています。ちょうど昨日に蒙古襲来を背景にしたゲームGhost of Tsushima がパソコンでプレイできるようになりましたが、なんと今日に深海社長が蒙古襲来について語られました。とても面白いです。今後も応援いたします。
平安後期から鎌倉室町にかけての主たる攻撃って騎射じゃないんでしたっけ?
それは遠距離戦で接近した白兵戦では日本刀だと思うよ。
侍は昔から毎日剣の稽古をしていたようです。歩き方も空手と同じ構えで歩き、右足と右腕は同時に前に出します。それはそく剣術、武術に繋がっています。剣道の様に面、小手、突き、胴だけではありません。ひらりと体をかわして敵の腕の頸動脈を一瞬で切り裂き、あるいは首の動脈を切り裂きます。足も、指も、すね、太もも、など全身に及びます。そんな侍の剣をかわすことは至難の業でしょうね😂😂😂
今は難民襲来
弓は威力が無かったのかな。でも2度目の時も同じ弓を使っているのは効果があった証拠なのかな。
鎮西談議所とそこで作刀していた西蓮(左文字のおじいちゃん)などのお話しがでてほしいです。だいぶ前に西蓮はそちらで一度、重要刀剣だったものをみましたががっちりしていた記憶があります。
こんにちは、😊😮😊
弥生後期に高句麗人は日本にやってきて勢力を築いていたようだが、その混血の子孫達に返り討ちに会うのは皮肉な話だと思う。
しっかりマスクをされて、刀身に配慮されている姿が本物と感じさせます。ありがとうございます。
弘安の役では、大宰府の小弐家、熊本の菊池家、肥前の松浦党が主力で各地の在郷武士がいくつか参加してますね。兵力としては最大規模になる阿蘇大宮司家、島津家は南宋からの襲来を警戒して九州南西海岸沿いの警備任務してたようです。文永の役は阿蘇大宮司家2万を鎌倉幕府からの軍監安達安盛に預け博多戦線に。鎌倉軍は京都まで軍を進めましたがそこで蒙古撃退の知らせを聞いて不参加です。よく鎌倉武士が元軍を撃退したといいますが2度に渡り撃退したのは「九州の御家人」です。「鎌倉時代」であっても「地名としての鎌倉」武士ではありませんね。ちなみにその後の動きもあって、九州の武士たちは壱岐、対馬の奪還、また朝鮮やシナに抑留された日本人の奪還を独力で始めています。これがいわゆる「倭寇」です。この時期に高位の武士も大鎧をやめて胴丸型に変えられ水上戦や上陸戦を意識したものに変わっていきそこから南北朝時代に入っていきます。
坂東武者と鎌倉武士を混同しているからそのようなことになる。
毎回大変貴重なお話を楽しく拝聴させてもらってます。 私個人は南北朝の体佩が好きです。今回のお話しにありました革ごと切断する為に、身幅が広く、大切先、鎬高、長寸の形になって行った事が良く分かりました。あの当時の日本人の多くは小柄だったと思いますが、あの豪装を操る体力をやしなっていた事に頭が下がります。蒙古襲来より半世紀後からが南北朝の刀の最盛期だと思います。
思ってたよりも幅広でしっかりしてびっくり。
今回も深海先生のお話に引きこまれました。蒙古襲来によって日本刀の姿が大きく変化した様子を、鞘や刀の現物にてご説明頂いたので、驚きつつ理解が大変深まりました。毎回貴重なお話をありがとうございます。次回は、蒙古軍の皮兜や弓などの現物にてご説明があるとのこと、心から楽しみにしております。
私は代々武士家系で蒙古襲来では命を懸けて戦ったと聞いています。
先の大東亜戦争では、北方の第九十一師団で國を守っており、打ち刀程の長さになっていた元太刀(銘助真)を軍刀拵えにしたそうです。戦後、占守島の戦いで命を落としましたが、軍刀を部下の方が持ち帰って来てくださり、血が切先付近についてるの見て曽祖父が自刃したのだと分かったという話を聞いてて太刀拵えと軍刀拵えが並べられてるのを見るといつも、複雑な気持ちになります。
合掌。感謝しています。
平安後期から鎌倉初期の腰反りで切っ先の小さい太刀が好きです。
傭兵対正規兵(ちょっと違うかも?)の戦いだったんですね。
蒙古から鹵獲した武器‼️次回が楽しみです。
この頃の時代だと古波平と西蓮を所持していますが、質実剛健ながらも、それでいてどこか優雅な姿が魅力的ですね。
待ってました!
蒙古襲来、社長がおっしゃる様に、
刀が変わった話、
面白い! 次回が待ちどうしいです
似た様なお話 日中戦争
NHkドキュメント番組で中国戦線での小隊長の手記
先祖伝来の軍刀刀身では使い物にならない
身幅の広いごっつりな刀身を至急所望の手紙が紹介されていました
実戦?で有効な刀とは・・・この様な。
まさに国難ですね。
東北在住ですが、幼い頃は「泣けば山からモコ(蒙古)来るぞ」と言われておりました。
最近はこの様な事を伝える家庭はほぼ無いかと思いますが、700年以上経った東北地方にさえそういった言い伝えの様な物が残っていた事を考えると、当時の人々の衝撃と恐怖は計り知れないですね。
壱岐、対馬では「モクリ、コクリ」
私の妻が東北の北の外れに近い場所の出身ダダをコネルとモウコ来るよと言っていました 私は当時あまり深く考えず怖い何かと思っていました
又本人に聞いたがやはり怖い何かと思っていました、 古い言葉がまだ残っています東北は。
モッコととは蒙古、対馬や壱岐から逃れた者が秋田や青森に逃れたという説があるみたい。
遠距離戦では長弓、接近戦では日本刀や薙刀だったのだろうな。
最近の研究では日本の弓の方が有効射程距離が長かったと言われてます。
日本の弓は牽引力40キロだそうで、地面に這いつくばった痩せた女性を片手でヒョイと耳まで持ち上げるだけの馬鹿力がないと引けないそうです。
矢の慣性質量は蒙古軍より大きく、相手の射程距離外から矢を放ち、陣が乱れると、薙刀を振り回し、馬が射られると刀を振り回し、遠距離から近距離まで鎌倉武士団はフレキシブルに戦ったようです。
いわゆる角弓で大きく反り返る弓でした。
「[世紀帝國4] 蒙古弓」
7:47 立ち向かうのは刀しかないからね……いやいや『蒙古襲来絵詞』には薙刀も描かれていますよ。この時代に日本には槍は存在しておりませんので、 まず中距離は武士が矢で射かけ、次に遠間は従者が薙刀で突いたり薙ったりし、近間は武士が馬上にて太刀で相手を仕留めることになります。そして勝ち獲た蒙古兵の首を従者が薙刀の切先に刺して晒します。もっとも船上の戦闘では武士は靭負を背にしていますが、太刀にて立ち向かっています。
こんにちは。いつも拝見させていただいています。ちょうど昨日に蒙古襲来を背景にしたゲームGhost of Tsushima がパソコンでプレイできるようになりましたが、なんと今日に深海社長が蒙古襲来について語られました。とても面白いです。今後も応援いたします。
平安後期から鎌倉室町にかけての
主たる攻撃って騎射じゃないんでしたっけ?
それは遠距離戦で接近した白兵戦では日本刀だと思うよ。
侍は昔から毎日剣の稽古をしていたようです。歩き方も空手と同じ構えで歩き、右足と右腕は同時に前に出します。それはそく剣術、武術に繋がっています。剣道の様に面、小手、突き、胴だけではありません。ひらりと体をかわして敵の腕の頸動脈を一瞬で切り裂き、あるいは首の動脈を切り裂きます。足も、指も、すね、太もも、など全身に及びます。そんな侍の剣をかわすことは至難の業でしょうね😂😂😂
今は難民襲来
弓は威力が無かったのかな。でも2度目の時も同じ弓を使っているのは効果があった証拠なのかな。
鎮西談議所とそこで作刀していた西蓮(左文字のおじいちゃん)などのお話しがでてほしいです。だいぶ前に西蓮はそちらで一度、重要刀剣だったものをみましたががっちりしていた記憶があります。
こんにちは、😊😮😊
弥生後期に高句麗人は日本にやってきて勢力を築いていたようだが、その混血の子孫達に返り討ちに会うのは皮肉な話だと思う。