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ティレルがB・A・Rに買収されましたが、エンジニアスタッフやデザイナーも引き継がれず、工場、社屋も新設。B・A・Rの新車はレイナードに設計を依頼。B・A・Rが欲しかったのは参戦権だけ。
日本企業や日本人ドライバーと縁が深かったからティレルの当時の公式ホームページの最後が「SAYONARA(さよなら)」で終わってたのとケン御大の死去が2001年当時のF1速報(たしかイタリアGPか総集編かそれくらい)の途中のページの端っこのに小さくアルボレートの死去と一緒に特集ページも組まれるでもなく今年の出来事枠に寂しく載ってたのがなんとも物悲しかった記憶がある。しかしケン御大が逝去してから呪いのごとく2009年にブラウンGP(ケン御大はメルセデスとは無縁)になるまでホンダバトンの2006年のハンガリーの1勝のみに終わってると言うね個人的にはティレルは96年が再起をかけるラストチャンスだったかもしれないあの時ケン御大がせっかくサロが連れてきたスポンサーのノキアにスポンサーフィーの大幅増額を要求したもんだからノキアが激怒してスポンサーから離れたあの瞬間からティレルは終わったと思って良かったと思う
こんな状況でポイント取ってたサロってやっぱ良いドライバーだったよね、99年にシューマッハ父の代役でフェラーリ行けたけどもっとトップチームで走るの見たかった。
チームメイトも全日本F3000時代の仲間のアーバインでしたね。
良くも悪くも「レース屋」だった思います。時折り斬新な発想を見せるけど、長続きしないというか、トレンドに乗り切れない、或いは乗り遅れる。90年、マクラーレン・マーケティングとの提携を上手く利用出来ていたら、93年までの暗黒期は無かったのかなと思ってしまいます。それでもP34、018、022は好きなマシンです。
今にして思えば、ジャッキー・スチュワートが在籍してた時代から六輪P34が一世を風靡したあたりがティレルの一番の黄金期のような気がする。83年にベロフという才能を擁していながら、悪質なレギュレーション違反で全戦ポイント剥奪の憂き目に遭い、スポンサーも離れた。これがケチの付きはじめだろうね。90年、91年、94年は躍進のチャンスがあっただけに、この状況を上手く活かせてればもしかしてもう少しティレルの名は続いていたかもしれませんね。
ちょっと勘違いがありました。83年じゃなくて84年に全戦ポイント剥奪される違反を犯したんですね、失礼しました。
ティレルは中嶋さんが91年に引退してから大きなスポンサーが無くて苦しかったね。その後の右京さんも虎之介さんも凄い苦労したはず。
91年がピークでしたね。
ブラウン、SEIKOエプソン、ホンダが離れて愕然。92年からティレルとエンジンカバーに。それでもチェザリスさんは鈴鹿で4位入賞してました。
仮に中嶋悟さんが91年に引退ではなく、92年に引退だったなら入賞、表彰台に上がれたのかな?と思ったりします。翌年型落ちのティレルイルモアとグッドイヤータイヤにしたらチェザリスがメキシコと日本グランプリで4位入賞していましたからね。サーキットの通り魔だったチェザリスが走り屋に変わってましたね!
@@fjkden7951 1992年のメキシコGPのチェザリスの順位は4位ではなく5位です(4位はマクラーレンのベルガー)
ティレル⇒BAR⇒ホンダ⇒ブラウンGP⇒メルセデス。買収後でチームは変わりましたが、ある意味興味的。
1994年が最後の輝きだったんでしょうね。ブランデルが表彰台に登ったり、右京さんが好走していたりで。
ホンダエンジンの時に飛躍出来なかったのが痛かったですね。いつも詳しい解説動画をありがとうございます。
みんなに好かれるチームほど消える時代でしたねぇ。そりゃモータースポーツはサーキットの外でも競争やから負け続ければそうなるのも仕方ないとは言え、寂しいもんでした。
90年に突然タイヤをピレリに変更したのが、チーム消滅への始まりだったのかも。タイヤを変更することを伝えられた中嶋も思わず絶句したって話もありました。とにかく中嶋の最期の2年間はピレリに足を引っ張られて幾度もポイント獲得を阻まれてた印象しかないです。この件も、結局はグッドイヤーへのタイヤの使用料支払いをケチったケン・ティレルがピレリの無償供給に飛びついたことが原因でした。そんなこともあって、私はピレリタイヤのイメージが悪くなり、自分の車のタイヤを買い替える時にはピレリは常に選択の対象外で、一度もピレリタイヤを買った事はありませんでした。
正直ピレリは現在もイメージを悪くするタイヤばかり供給している気がしてなりません。マクラーレンのノリスも先日F1のレベルじゃないと酷評したばかりですし…。噂のBS復帰が現実になる事を期待しています。
1990年もティレルのタイヤがグッドイヤーだったらピレリの「特性」が日本で注目されることはなかったかも。これと似た例がフットワークにエンジンを供給したポルシェ。余談ではありますが先日クルマはポルシェ、タイヤはピレリという組み合わせを目撃しました。ユーザーの人は両社の黒歴史知らずに買ったんだろうなと思わず笑ってしまいました。
ヨコハマタイヤ参戦でピレリとタイヤ戦争して欲しい
ピレリがF1用タイヤがクソだったのは見ていたが、実用車のタイヤとは別物だ。だからフィット3RSのスタッドレスタイヤとしてピレリタイヤを買いました。安かったので・・・。運転フィーリングは夏タイヤと変わらない硬さがあった。普通の雪道を走るには問題なかったけど、少しグリップレベルは弱かったのかも? 少し雪が深いとすぐにスタックしてしまったから。ブリヂストンだと違いがあったかな?
タダより高いものはない❗んやね。
ベネトン、キャメル、ブラウン、ノキア・・・。単発的にビッグスポンサーがつくことはあっても、2年続かなかったのが90年代から慢性的な経営難に陥っていった理由かも。ステファン・ベロフとマーティン・ブランドルのコンビなんかはすごく夢があったと思うし、ベロフがもしも「ミスター・ティレル」としてずっと乗れて、そのご縁で一時期噂になったロスマンズとのスポンサー契約がまとまっていたら、もうちょっと違う未来があったんじゃないかな・・・。あとは素性の良いマシンだった022の時に、せめてマシンパーツをもうちょっとやりくりできる程度の資金力があったら。
タバコスポンサーを禁止しなかったらティレル・ロータス・ブラバムの運命は変わったカモ。
ティレルには悪いですが024のスポンサーがショボいマシンだと、とてもシンプルに見えて格好良かったです(速いとは言ってない…)
ティレルって懐かしい話ですねアレジがあのアイルトン・セナを苦しめた90年開幕戦が懐かしいです。
Tyrrellでもっとも有名なのはP34だけど、ドゥパイユ初優勝の008が一番好きでした。6輪直前の007もかっこよかったなぁ。中嶋が乗ったアンヘドラルウィングの019も印象的でしたね。
パトリック·デパイユ、渋くてかっちょ良かった。モナコが得意で、ついに1978年に初優勝したんですよね。この年、偉大なロニーが亡くなり、デパイユも初優勝から2年後に亡くなるとは。
デパイユ(自分的にはデパイエ)、自分も好きなドライバーでした。自分にとって生でのF1初観戦となった1980年の通称ロングビーチグランプリでマルボロアルファロメオを駆って、ロングビーチの市街地コースを果敢に攻めていた走りが印象的でした。けっこう激しい走りもする人だったんですね。また、1977年の日本GPで、ハントとロイテマンがすっぽかした表彰式にただ1人現れて表彰台に登り、1人でシャンパンファイトしてくれたのも良かったです。おかげですっかりデパイエが好きになり、タミヤの6輪タイレルのプラモデルは必ず4号車ーデパイエ仕様にしてましたっけ。もう、ずいぶんと昔のハナシですけどね。
デパイエは良いドライバーでしたね。モナコで勝った008は格好よかった。前年のP34で富士SWで3位に入り、ドライバーで唯一表彰台に上がったデパイエのひとりシャンパンも良かった。
97年アロウズに箱替えしたヤマハは、皮肉にもハンガリーであわや優勝していた
1997年と1998年は中嶋企画のスポンサーのPIAAがメインスポンサーだったティレル。
右京さんは94年のシーズンオフにブリアトーレの言う通りにベネトンと契約していればまた違ったキャリアになっていたはず。
マーチとブラバムとロータスに続いてティレルの晩年ですね。これでかつての名門の晩年が出揃いましたね。
あとはATSとかRAMとかマイナーなチームやね。気になるのはエンサイン→セオドール。
@@11wildboys ATSはベルガーのF1デビューのチームですね。
リジェ、ラルース、アロウズ、ミナルディ、ジョーダン。
フォードED、V8はZETEC-R系のエンジンではありません。当時ZETEC-R系のV8はマスターカード・ローラが契約していたフォードEC、V8だったはずです。
やはりDFV、DFR以来、フォードお家芸なんちゃって『ワークスベースエンジンなんだよ〜期待してね』でしたか💦また経営悪化で節約に。
HBエンジンが元でしたね。
@@櫃本賢治 フォードらしくコスワースらしいですね💦どうりでEDが見覚えのあるヘッドカバーなわけが。
ポスルスウェイトもケンも亡くなっていたんですね初めて知りました90年代の名物中堅チームの一つでしたね
ケン・ティレルの死去は当時2001年のF1速報のページの端っこにアルボレートの死去と一緒に小さく書いてあったくらいでしたからね💦
思えば、本当に寂しい最期でした。
アンクルケンから中嶋さんに話はいっていたはずです。「かなり安く手に入れることができるぞ、じゃなきゃBATに売っちゃうよ」みたいなこと言われたけど決断まで時間がなかったみたいなことをどこかの雑誌で語ってた記憶があります(もう手元にないので裏は取れませんが)。
私も読みました。最近F1雑誌でも中嶋さんがオファーがあったと言っていました。検討している間にBATに決まったらしいです。
でも買わなくて正解だったかもですね。沈みゆく泥船買ったって、中嶋スポンサーでは支えきれません。そう考えると鈴木亜久里は無鉄砲だったなぁ。
はじめまして。ティレルは日本人ファンにも馴染みのチームでしたね。チャンスはそれなりにあったはずなのになんかいかせなかった感じです。もしホンダV10用のしっかりした020を用意したらとか、光る速さを見せていた022をマネジメントできていたら違ったはず。特に022はもったいなかった気がします。右京さんのキレとともにトップチーム喰いしてましたので…ドイツGP(涙)
ティレルと言えば"珍車迷車"で話題を呼ぶチームでしたが、あの何でもやる感が好きでしたね。
ホンダ載せたときは期待したもんだが…アレジのフェニックスでの暴れっぷりに、ニヤリとしたティレルおじさんが、未だ記憶に鮮明に残ってる
90年の開幕戦でセナとバトルを繰り広げましたね。
@@櫃本賢治 開幕戦でどのマシンも熟成不足だったし、あの年のマクラーレンもホンダパワーに頼りきった、良いと言えるマシンじゃなかったもんね。🤔
ティレル側は高い金でアレジを他チームに売却できると画策。フェラーリに移籍することに。
申し訳程度にくっついているような感じのXウイングが、マシンバランスを決めるほど効いていたとは
他のチームも真似したくらいでした。ですが燃料供給義務化されたシーズン、燃料ホースを引っ掛ける事態が発生。禁止に。ティレルは最初からやっている。うちのマシンパッケージと訴えるも許可されず。曲がらないマシンになってしまいました。他のチームさえ真似なければ、Xウィング効果は生かせたはず。
資金難で撤退しなかっただけマシ。 中嶋さんもあれ以上チームに関わらなくて正解だったかも、どう見ても『泥舟』だもん。 息子のボブ・ティレルは父親ゆずりの下手なマネージャーだったな、いくつもスポンサーを取り逃がしたんだし。
そう言えば、偶々仕事で岡崎に行った帰りに立ち寄ったロッキーオートさんのガレージにティレルが置いてあったなぁ…
ピアノ&バイクメーカーのヤマハがF1エンジンサプライヤーてのが凄い。世界広しと言えども唯一無二の事実。
源流は同じですが、ヤマハ(日本楽器)とヤマハ発動機は別会社です。あとヤマハのF1エンジンはザクスピード→ジョーダン→アロウズ。ヤマハのバッジは付いていないが、トヨタF1のエンジンもヤマハ。
P34は、忘れられないマシンですね❗
ティレルはウイリアムズと似たり寄ったり、でチームを引っ張るドライバー、デザイナー、エンジニア、スポンサーが抜けたり・能力がなかったり・・・獲得出来なかったりソレがチームを存続の危機に導く事になりましたね🤨後年、高木虎之助が俺が乗る頃にはティレルおじさんはF1への興味を失い、チームを売却することしか頭になかったって語っていましたね。
ティレル末期はバタバタしたけど、夢がありました。特にすべてを捨てた026は期待してたんですがw
たまに光る予想外の好調な時はあまり財政的には良くない時。資金が潤沢な時は大概コケる。ケンがケチ臭くお金をかけるタイミングがズレている。ロン・デニスやフランク・ウィリアムズとは違った経営で親しみやすさはイギリス系老舗チームNO1
ロス・ブラウンがホンダを引き継ぐ際、チーム名を「ティレル」にしたかったみたいですね。なぜ叶わなかったかは、忘れましたが。
中嶋さんがピットインして、バイザーを拭いてくれのジェスチャーをしたらクルーがウエスを中嶋さんに投げたのを見て「このチーム駄目だ」と思いました。
それロータスだった気がする💦
@@森口広一郎 あら、そうでしたっけ?御指摘ありがとうございます。
ピットでの間抜けな出来事ならティレルの場合はモデナが「ウォーター!(捨てバイザーが詰まってラジエターの水温が上がってる!)」と叫んでたのに水持ってきた???なシーンか?
(バイザーも拭いてもらえなかった)ロータス3年目の中嶋さんは結構辛かったと思います。揺れ動くチーム体制の状況でドライブに集中できる環境下ではなかったはず。ティレルはメカニックの動きが良くてタイヤ交換速かったイメージあります。
中嶋悟氏は、けっきょくお飾りの提携パートナーだったのね日本では、レジェンド的なF1ドライバーですが……世界基準では、質の良いペイドライバー的な感じだったのかなぁ?僕の主観なのであしからず
6:34ヘアピンで連続して追突したりでこれも単なる棚ぼたの5位だった。11:28サロとフェルスタッペンの仲は良好で、引退してからも交流が続いていった。
ティレルはエックスウイング等のアイデアがありました中嶋悟さん片山右京さんのおかげでエプソンPIAAカルビー日本タバコ産業のスポンサーが多かったと思います
ポスルズウェイトさんがお亡くなりなったのが痛かった
ティレル消滅の後を追うようにハーヴェイさんケンティレルさんが亡くなったのはなんの因果か…
緊張を保ってた糸が切れたような。フランク・ウィリアムズもウィリアムズ売却してすぐに…。
@@清水久彦-y1cポスルズウェイト氏の死から22年後と、ケン氏の死から20年後の事でしたね。
お勧めに出て来てティレルの名が懐かしく初めて視聴しました。その昔ジャッキ-スチュワートとフランソワセべ-ルが思い起こされます。ティレルの黄金時代でしたね。もう知ってる方は少ないかな?当時の呼び方はティレルをタイレルと言いフェラーリをフェラリ-と言ってました。良い時代だったな~。暴走族もカミナリ族でしたからね。
ミカ・サロの奥さんが日本人とテレビで知った…
浮上できるチャンスは何回かあったし、ビッグスポンサーも付いたこともあったが…ティレル御大のケチと凡ミスでチャンスを棒に振る方が多かった印象ですね。
ブラバムやロータスは潰れたけどティレルだけは大丈夫だと根拠のない自信がありました!
ティレルさん…チーム運営を息子に引き継いで、スポンサーなどをね…。
ティレルはスポンサーがねぇ…。
あの時はよくなかったかもというなんとも複雑な現実今のF1じゃこういったタイプのチームは構造的に厳しいけどティレルおじさんスゲー頑張ったチームだったな
栄枯盛衰…………。タイレルと呼ばれた70年代が全盛期と言っていいでしょう……。ケン御大の情熱が、勝つ為から生き残る為に……いつしか変わってしまったのかな…??と感じますね…。疏がった最終盤でしたが無理でしたね…。単発で煌めいた90年代前半がタイレルからティレルと呼ばれて久しいチームの最後の見せ場だったか……と感じますね。しかしながら…私的に…イギリス系チームはドライバーに厳しいチームだな…と思いましたね。日本人贔屓でみたら右京ファーストで行ってたら……と思いましたね。あとはビジネスが下手かな……とも感じました。
分配金の権利だけ譲渡されてチームスタッフ根こそぎポイをやったから当時BARがあまり好きじゃなかった。ティレルの組織を活かして活躍すれば応援出来たんだが。
そして今、ウィリアムズが晩年を迎えてる、、、
サージェントから漂うペイドラ臭。ペイドラっていうとブチギレるけどまぁそのうち師匠の時みたいに持参金の契約書が流出しそう。
でもタウリよりポイント稼いでるよ😢
丁度、トヨタが可夢偉をチーム代表にしてウィリアムズ買収とかいう怪情報が出回ってて草。
とにかく翻弄されたね。水タンク、マクラーレン提携。。。などなど
中嶋さんにも売却のオファーがあったそうですよ。
なんかしんみりして仕舞います。ティレルの黄金期はフォードDFVという名機ありきで、エンジン開発のリソースをシャシー開発に振り向けられたからこそ成し遂げられた事です。ターボ戦争以降のF1はメーカーの台頭著しく、コンストラクターが有力メーカーと提携出来ないとたちどころに脱落する時代でした。ティレルの不幸は過去の栄光からメーカーに対する姿勢が尊大だった可能性は考えられます。あと、イギリス人故に自国が関わるものにこだわるとか。あくまで予想ですがそういった諸々がティレルの凋落を招いたのではないかと思います。
苦しんで消えるよりは全てを引き渡す...結局は渡したチームは参戦権以外ほぼ全てポイされてしまったわけですが、それを見ていたケンおじさんは何を思ったのか。
最終的にはパパタッペンを残して欲しいとの要望を無視されポンコツロセットとチームが契約したから激怒してティレル消滅を待たずしてケン御大はチームを去る結果に
EDエンジンはHBエンジンの系統ゼテックアールエンジンはECエンジン
1990年~のタイヤがグッドイヤーのままだったら、ウワサがあったロスマンズとの契約、1991年にポストレスウェイトが希望していたフォードHB搭載だったらティレルは一つか二つは勝っていたと思う。この2年間のマネージメントミスが後々のチーム名消滅に繋がったと思う。
ティレルは006、007、P34、008、022あたりが良かった。右京が022で表彰台に登って欲しかったけど残念(翌年ベネトンに行かなかったのも残念だが)。
有る意味❗、92年のティレルに当時のイルモアエンジンを載せた!? 020Bは,イルモアエンジンが前年のHONDAエンジンよりも20~30㎏軽量化されてマシンのハンドリングが良くなりコンストラクターズランキングも良かった思いが有りましたねぇ😂👌~😣👍⚡✴❕❕
翌年移籍したミナルディの発言と思うが、サロの事を「へぼ」と言っていた記憶有り。
ティレルは寂しい末路を迎えましたが血脈が途絶えたわけではなくBRA→ホンダ→ブラウンGP→メルセデスと意志は受け継がれています。
スチュワート、ティレル、ジョーダンがコンストTOP3を占めていると考えると凄いですね。
確かカスタマースペックのEDシリーズは94年のZetec-Rベースでなくて、HBシリーズベースの系譜に属するってあったような(GPCarStory マクラーレンMP4/8フォード参照より)そして95年当時EDシリーズとザウバー専用機のZetec-Rシリーズ開発をしてるのを耳にするやミナルディが支援体制の違いに激怒したのも有名でしたね。この年のティレルフォードは末期に相応しい悲惨中の悲惨でしたね。高木虎之介選手も中嶋悟さんもタイミングが悪かったですし。
ティレルからBAR、そしてHondaに買収されと何か日本と縁を感じますね。佐藤琢磨さんを表彰台に上げてくれることになりましたしね。
タミヤのおかげでずっとタイレルと呼んでましたが、その実車のボディに「たいれる」とひらがな丸ゴシックでステッカーが貼ってあったのにはカナリ笑いました。ついでにオートバイ誌のイギリスの走り屋特集記事の写真。カタカナで「ホンダ」と。イギリス人は日本語が好きなのかな。
すんごいサムネ…
97年オーストラリアGPでのフェルスタッペンですね。
@@櫃本賢治 マックスの父ヨスですね、答えありがとうございます。あまりにインパクトありましたので思わず打ってしまいました。
成功したあとが続かない悪循環から抜け出せなかったチーム
今を思えば末期に高木虎之介と一緒に中嶋悟氏がチームに参画したのが意味不明??
子供の頃は呼び方は「タイレル」だったけど、いつ頃から「ティレル」になったのかなあ。
参戦から3、4年くらいが絶頂期だった
HRT、ケータハム、マノーの2010年代のオワコン三銃士の歴史も希望します
ティレルか~中嶋悟氏が在籍してたな~俺も古い(苦笑)
ティレルは 前輪4輪の印象が強すぎて・・・何とも言えない気分ですね
今思うとジャッキースチュワートがF1参戦をする際ティレルを買収してフォードのワークスチーム、フォードティレルとして参戦していれば良かったと思いませんか?><
Piaaカラーになるとどうもf1というよりもフォーミュラ・ニッポンのマシンに見えて仕方ない
終焉前のティレルを辞めジョーダンに移籍したチーフデザイナーのマイク・ガスコイン。翌年彼が設計しシーズン2勝を挙げたマシン199は(当たり前だが)ティレル最後のマシン026に酷似していた。
025の吊り下げ一本式ハイノーズは時代遅れ感しか感じない。ブラバムBT60を見てる様だ。
一本式ハイノーズと言えば91年のフットワークFA12もですね。鳴り物入りで参入したポルシェエンジンもカスでしたが、走行中にダウンフォースが掛かってフロントウイングが捥げた事も…
上両方とも1991年のマシンか💦👍しかも両方ともV12エンジン搭載車。
90年ロスマンズとの契約を締結していれば先の展開も変わっていただろうに
なぜ、昔は「たいれる」って読んでたんだろう
日本人だから?💦
日本GP仕様で、子供向けじゃなかったかな?ティレルだと呼びにくいので。
英国式英語 米国式英語の読み方の違い
96年のホッケンハイムで前後フロントタイヤは???。普通のタイヤ履かせてウイング寝かせるじゃダメなくらい車が仕上がらなかったのかな。
023がダメダメだったのが痛すぎた・・・当時のティレルのチームとしての実力が如実に表れてしまっただけなんだろうけども・・・
90、年代前半はNOKIAスポンサーだったのに後半はモトローラがついてたんだ。
ダントツ最下位って…
放送もなくて日本のスポンサーもつかない。残念
金の切れ目が…
1984年シーズンの水タンク事件で全ポイントが剥奪され、終盤戦の出場停止処分が言い渡された
たいれる
で、色々変わって今はメルセデスだもんなぁ
エックスウイングはフェラーリとかも採用してたけどあまりのダサさに見るに耐えられなかったの思い出した(笑)
六輪車のP34に代表される「タイレル」と呼ばれていた頃の、栄光時代が懐かしい
ティレルがB・A・Rに買収されましたが、エンジニアスタッフやデザイナーも引き継がれず、工場、社屋も新設。
B・A・Rの新車はレイナードに設計を依頼。
B・A・Rが欲しかったのは参戦権だけ。
日本企業や日本人ドライバーと縁が深かったからティレルの当時の公式ホームページの最後が「SAYONARA(さよなら)」で終わってたのとケン御大の死去が2001年当時のF1速報(たしかイタリアGPか総集編かそれくらい)の途中のページの端っこのに小さくアルボレートの死去と一緒に特集ページも組まれるでもなく今年の出来事枠に寂しく載ってたのがなんとも物悲しかった記憶がある。
しかしケン御大が逝去してから呪いのごとく2009年にブラウンGP(ケン御大はメルセデスとは無縁)になるまでホンダバトンの2006年のハンガリーの1勝のみに終わってると言うね
個人的にはティレルは96年が再起をかけるラストチャンスだったかもしれない
あの時ケン御大がせっかくサロが連れてきたスポンサーのノキアにスポンサーフィーの大幅増額を要求したもんだからノキアが激怒してスポンサーから離れたあの瞬間からティレルは終わったと思って良かったと思う
こんな状況でポイント取ってたサロってやっぱ良いドライバーだったよね、99年にシューマッハ父の代役でフェラーリ行けたけどもっとトップチームで走るの見たかった。
チームメイトも全日本F3000時代の仲間のアーバインでしたね。
良くも悪くも「レース屋」だった思います。時折り斬新な発想を見せるけど、長続きしないというか、トレンドに乗り切れない、或いは乗り遅れる。
90年、マクラーレン・マーケティングとの提携を上手く利用出来ていたら、93年までの暗黒期は無かったのかなと思ってしまいます。
それでもP34、018、022は好きなマシンです。
今にして思えば、ジャッキー・スチュワートが在籍してた時代から六輪P34が一世を風靡したあたりがティレルの一番の黄金期のような気がする。
83年にベロフという才能を擁していながら、悪質なレギュレーション違反で全戦ポイント剥奪の憂き目に遭い、スポンサーも離れた。これがケチの付きはじめだろうね。
90年、91年、94年は躍進のチャンスがあっただけに、この状況を上手く活かせてればもしかしてもう少しティレルの名は続いていたかもしれませんね。
ちょっと勘違いがありました。83年じゃなくて84年に全戦ポイント剥奪される違反を犯したんですね、失礼しました。
ティレルは中嶋さんが91年に引退してから大きなスポンサーが無くて苦しかったね。その後の右京さんも虎之介さんも凄い苦労したはず。
91年がピークでしたね。
ブラウン、SEIKOエプソン、ホンダが離れて愕然。92年からティレルとエンジンカバーに。それでもチェザリスさんは鈴鹿で4位入賞してました。
仮に中嶋悟さんが91年に引退ではなく、92年に引退だったなら入賞、表彰台に上がれたのかな?と思ったりします。
翌年型落ちのティレルイルモアとグッドイヤータイヤにしたらチェザリスがメキシコと日本グランプリで4位入賞していましたからね。サーキットの通り魔だったチェザリスが走り屋に変わってましたね!
@@fjkden7951 1992年のメキシコGPのチェザリスの順位は4位ではなく5位です(4位はマクラーレンのベルガー)
ティレル⇒BAR⇒ホンダ⇒ブラウンGP⇒メルセデス。買収後でチームは変わりましたが、ある意味興味的。
1994年が最後の輝きだったんでしょうね。
ブランデルが表彰台に登ったり、右京さんが好走していたりで。
ホンダエンジンの時に飛躍出来なかったのが痛かったですね。
いつも詳しい解説動画をありがとうございます。
みんなに好かれるチームほど消える時代でしたねぇ。そりゃモータースポーツはサーキットの外でも競争やから負け続ければそうなるのも仕方ないとは言え、寂しいもんでした。
90年に突然タイヤをピレリに変更したのが、チーム消滅への始まりだったのかも。タイヤを変更することを伝えられた中嶋も思わず絶句したって話もありました。とにかく中嶋の最期の2年間はピレリに足を引っ張られて幾度もポイント獲得を阻まれてた印象しかないです。この件も、結局はグッドイヤーへのタイヤの使用料支払いをケチったケン・ティレルがピレリの無償供給に飛びついたことが原因でした。そんなこともあって、私はピレリタイヤのイメージが悪くなり、自分の車のタイヤを買い替える時にはピレリは常に選択の対象外で、一度もピレリタイヤを買った事はありませんでした。
正直ピレリは現在もイメージを悪くするタイヤばかり供給している気がしてなりません。
マクラーレンのノリスも先日F1のレベルじゃないと酷評したばかりですし…。
噂のBS復帰が現実になる事を期待しています。
1990年もティレルのタイヤがグッドイヤーだったらピレリの「特性」が日本で注目されることはなかったかも。これと似た例がフットワークにエンジンを供給したポルシェ。余談ではありますが先日クルマはポルシェ、タイヤはピレリという組み合わせを目撃しました。ユーザーの人は両社の黒歴史知らずに買ったんだろうなと思わず笑ってしまいました。
ヨコハマタイヤ参戦でピレリとタイヤ戦争して欲しい
ピレリがF1用タイヤがクソだったのは見ていたが、実用車のタイヤとは別物だ。
だからフィット3RSのスタッドレスタイヤとしてピレリタイヤを買いました。安かったので・・・。運転フィーリングは夏タイヤと変わらない硬さがあった。普通の雪道を走るには問題なかったけど、少しグリップレベルは弱かったのかも? 少し雪が深いとすぐにスタックしてしまったから。ブリヂストンだと違いがあったかな?
タダより高いものはない❗んやね。
ベネトン、キャメル、ブラウン、ノキア・・・。単発的にビッグスポンサーがつくことはあっても、2年続かなかったのが90年代から慢性的な経営難に陥っていった理由かも。ステファン・ベロフとマーティン・ブランドルのコンビなんかはすごく夢があったと思うし、ベロフがもしも「ミスター・ティレル」としてずっと乗れて、そのご縁で一時期噂になったロスマンズとのスポンサー契約がまとまっていたら、もうちょっと違う未来があったんじゃないかな・・・。あとは素性の良いマシンだった022の時に、せめてマシンパーツをもうちょっとやりくりできる程度の資金力があったら。
タバコスポンサーを禁止しなかったらティレル・ロータス・ブラバムの運命は変わったカモ。
ティレルには悪いですが024のスポンサーがショボいマシンだと、とてもシンプルに見えて格好良かったです(速いとは言ってない…)
ティレルって
懐かしい話ですね
アレジが
あの
アイルトン・セナを苦しめた
90年開幕戦が
懐かしいです。
Tyrrellでもっとも有名なのはP34だけど、ドゥパイユ初優勝の008が一番好きでした。6輪直前の007もかっこよかったなぁ。中嶋が乗ったアンヘドラルウィングの019も印象的でしたね。
パトリック·デパイユ、渋くてかっちょ良かった。モナコが得意で、ついに1978年に初優勝したんですよね。この年、偉大なロニーが亡くなり、デパイユも初優勝から2年後に亡くなるとは。
デパイユ(自分的にはデパイエ)、自分も好きなドライバーでした。自分にとって生でのF1初観戦となった1980年の通称ロングビーチグランプリでマルボロアルファロメオを駆って、ロングビーチの市街地コースを果敢に攻めていた走りが印象的でした。けっこう激しい走りもする人だったんですね。
また、1977年の日本GPで、ハントとロイテマンがすっぽかした表彰式にただ1人現れて表彰台に登り、1人でシャンパンファイトしてくれたのも良かったです。おかげですっかりデパイエが好きになり、タミヤの6輪タイレルのプラモデルは必ず4号車ーデパイエ仕様にしてましたっけ。もう、ずいぶんと昔のハナシですけどね。
デパイエは良いドライバーでしたね。モナコで勝った008は格好よかった。
前年のP34で富士SWで3位に入り、ドライバーで唯一表彰台に上がったデパイエのひとりシャンパンも良かった。
97年アロウズに箱替えしたヤマハは、皮肉にもハンガリーであわや優勝していた
1997年と1998年は中嶋企画のスポンサーのPIAAがメインスポンサーだったティレル。
右京さんは94年のシーズンオフにブリアトーレの言う通りにベネトンと契約していればまた違ったキャリアになっていたはず。
マーチとブラバムとロータスに続いてティレルの晩年ですね。これでかつての名門の晩年が出揃いましたね。
あとはATSとかRAMとかマイナーなチームやね。
気になるのはエンサイン→セオドール。
@@11wildboys ATSはベルガーのF1デビューのチームですね。
リジェ、ラルース、アロウズ、ミナルディ、ジョーダン。
フォードED、V8はZETEC-R系のエンジンではありません。当時ZETEC-R系のV8はマスターカード・ローラが契約していたフォードEC、V8だったはずです。
やはりDFV、DFR以来、フォードお家芸
なんちゃって『ワークスベースエンジンなんだよ〜期待してね』
でしたか💦
また経営悪化で節約に。
HBエンジンが元でしたね。
@@櫃本賢治 フォードらしくコスワースらしいですね💦
どうりでEDが見覚えのあるヘッドカバーなわけが。
ポスルスウェイトもケンも
亡くなっていたんですね初めて知りました
90年代の名物中堅チームの一つでしたね
ケン・ティレルの死去は当時2001年のF1速報のページの端っこにアルボレートの死去と一緒に小さく書いてあったくらいでしたからね💦
思えば、本当に寂しい最期でした。
アンクルケンから中嶋さんに話はいっていたはずです。「かなり安く手に入れることができるぞ、じゃなきゃBATに売っちゃうよ」みたいなこと言われたけど決断まで時間がなかったみたいなことをどこかの雑誌で語ってた記憶があります(もう手元にないので裏は取れませんが)。
私も読みました。最近F1雑誌でも中嶋さんがオファーがあったと言っていました。検討している間にBATに決まったらしいです。
でも買わなくて正解だったかもですね。沈みゆく泥船買ったって、中嶋スポンサーでは支えきれません。そう考えると鈴木亜久里は無鉄砲だったなぁ。
はじめまして。
ティレルは日本人ファンにも馴染みのチームでしたね。
チャンスはそれなりにあったはずなのになんかいかせなかった感じです。
もしホンダV10用のしっかりした020を用意したらとか、光る速さを見せていた022をマネジメントできていたら違ったはず。
特に022はもったいなかった気がします。右京さんのキレとともにトップチーム喰いしてましたので…ドイツGP(涙)
ティレルと言えば"珍車迷車"で話題を呼ぶチームでしたが、あの何でもやる感が好きでしたね。
ホンダ載せたときは期待したもんだが…
アレジのフェニックスでの暴れっぷりに、ニヤリとしたティレルおじさんが、未だ記憶に鮮明に残ってる
90年の開幕戦でセナとバトルを繰り広げましたね。
@@櫃本賢治 開幕戦でどのマシンも熟成不足だったし、あの年のマクラーレンもホンダパワーに頼りきった、良いと言えるマシンじゃなかったもんね。🤔
ティレル側は高い金でアレジを他チームに売却できると画策。フェラーリに移籍することに。
申し訳程度にくっついているような感じのXウイングが、マシンバランスを決めるほど効いていたとは
他のチームも真似したくらいでした。ですが燃料供給義務化されたシーズン、燃料ホースを引っ掛ける事態が発生。禁止に。ティレルは最初からやっている。うちのマシンパッケージと訴えるも許可されず。曲がらないマシンになってしまいました。他のチームさえ真似なければ、Xウィング効果は生かせたはず。
資金難で撤退しなかっただけマシ。
中嶋さんもあれ以上チームに関わらなくて正解だったかも、どう見ても『泥舟』だもん。 息子のボブ・ティレルは父親ゆずりの下手なマネージャーだったな、いくつもスポンサーを取り逃がしたんだし。
そう言えば、偶々仕事で岡崎に行った帰りに立ち寄ったロッキーオートさんのガレージにティレルが置いてあったなぁ…
ピアノ&バイクメーカーのヤマハがF1エンジンサプライヤーてのが凄い。世界広しと言えども唯一無二の事実。
源流は同じですが、ヤマハ(日本楽器)とヤマハ発動機は別会社です。あとヤマハのF1エンジンはザクスピード→ジョーダン→アロウズ。
ヤマハのバッジは付いていないが、トヨタF1のエンジンもヤマハ。
P34は、忘れられないマシンですね❗
ティレルはウイリアムズと似たり寄ったり、でチームを引っ張るドライバー、デザイナー、エンジニア、スポンサーが抜けたり・能力がなかったり・・・獲得出来なかったりソレがチームを存続の危機に導く事になりましたね🤨後年、高木虎之助が俺が乗る頃にはティレルおじさんはF1への興味を失い、チームを売却することしか頭になかったって語っていましたね。
ティレル末期はバタバタしたけど、夢がありました。特にすべてを捨てた026は期待してたんですがw
たまに光る予想外の好調な時はあまり財政的には良くない時。資金が潤沢な時は大概コケる。ケンがケチ臭くお金をかけるタイミングがズレている。ロン・デニスやフランク・ウィリアムズとは違った経営で親しみやすさはイギリス系老舗チームNO1
ロス・ブラウンがホンダを引き継ぐ際、チーム名を「ティレル」にしたかったみたいですね。なぜ叶わなかったかは、忘れましたが。
中嶋さんがピットインして、バイザーを拭いてくれのジェスチャーをしたらクルーがウエスを中嶋さんに投げたのを見て「このチーム駄目だ」と思いました。
それロータスだった気がする💦
@@森口広一郎 あら、そうでしたっけ?御指摘ありがとうございます。
ピットでの間抜けな出来事ならティレルの場合はモデナが「ウォーター!(捨てバイザーが詰まってラジエターの水温が上がってる!)」と叫んでたのに水持ってきた???なシーンか?
(バイザーも拭いてもらえなかった)ロータス3年目の中嶋さんは結構辛かったと思います。揺れ動くチーム体制の状況でドライブに集中できる環境下ではなかったはず。ティレルはメカニックの動きが良くてタイヤ交換速かったイメージあります。
中嶋悟氏は、けっきょくお飾りの提携パートナーだったのね
日本では、レジェンド的なF1ドライバーですが……
世界基準では、質の良いペイドライバー的な感じだったのかなぁ?
僕の主観なのであしからず
6:34ヘアピンで連続して追突したりでこれも単なる棚ぼたの5位だった。
11:28サロとフェルスタッペンの仲は良好で、引退してからも交流が続いていった。
ティレルはエックスウイング等のアイデアがありました中嶋悟さん片山右京さんのおかげでエプソンPIAAカルビー日本タバコ産業のスポンサーが多かったと思います
ポスルズウェイトさんがお亡くなりなったのが痛かった
ティレル消滅の後を追うようにハーヴェイさんケンティレルさんが亡くなったのはなんの因果か…
緊張を保ってた糸が切れたような。
フランク・ウィリアムズもウィリアムズ売却してすぐに…。
@@清水久彦-y1cポスルズウェイト氏の死から22年後と、ケン氏の死から20年後の事でしたね。
お勧めに出て来てティレルの名が懐かしく初めて視聴しました。
その昔ジャッキ-スチュワートとフランソワセべ-ルが
思い起こされます。ティレルの黄金時代でしたね。
もう知ってる方は少ないかな?当時の呼び方は
ティレルをタイレルと言いフェラーリをフェラリ-と言ってました。
良い時代だったな~。暴走族もカミナリ族でしたからね。
ミカ・サロの奥さんが日本人とテレビで知った…
浮上できるチャンスは何回かあったし、ビッグスポンサーも付いたこともあったが…ティレル御大のケチと凡ミスでチャンスを棒に振る方が多かった印象ですね。
ブラバムやロータスは潰れたけどティレルだけは大丈夫だと根拠のない自信がありました!
ティレルさん…チーム運営を息子に引き継いで、スポンサーなどをね…。
ティレルはスポンサーがねぇ…。
あの時はよくなかったかもという
なんとも複雑な現実
今のF1じゃこういったタイプのチームは構造的に厳しいけど
ティレルおじさんスゲー頑張ったチームだったな
栄枯盛衰…………。
タイレルと呼ばれた70年代が全盛期と言っていいでしょう……。ケン御大の情熱が、勝つ為から生き残る為に……いつしか変わってしまったのかな…??と感じますね…。疏がった最終盤でしたが無理でしたね…。単発で煌めいた90年代前半がタイレルからティレルと呼ばれて久しいチームの最後の見せ場だったか……と感じますね。しかしながら…私的に…イギリス系チームはドライバーに厳しいチームだな…と思いましたね。日本人贔屓でみたら右京ファーストで行ってたら……と思いましたね。あとはビジネスが下手かな……とも感じました。
分配金の権利だけ譲渡されてチームスタッフ根こそぎポイをやったから当時BARがあまり好きじゃなかった。ティレルの組織を活かして活躍すれば応援出来たんだが。
そして今、ウィリアムズが晩年を迎えてる、、、
サージェントから漂うペイドラ臭。
ペイドラっていうとブチギレるけどまぁそのうち師匠の時みたいに持参金の契約書が流出しそう。
でもタウリよりポイント稼いでるよ😢
丁度、トヨタが可夢偉をチーム代表にしてウィリアムズ買収とかいう怪情報が出回ってて草。
とにかく翻弄されたね。
水タンク、マクラーレン提携。。。などなど
中嶋さんにも売却のオファーがあったそうですよ。
なんかしんみりして仕舞います。ティレルの黄金期はフォードDFVという名機ありきで、エンジン開発のリソースをシャシー開発に振り向けられたからこそ成し遂げられた事です。
ターボ戦争以降のF1はメーカーの台頭著しく、コンストラクターが有力メーカーと提携出来ないとたちどころに脱落する時代でした。
ティレルの不幸は過去の栄光からメーカーに対する姿勢が尊大だった可能性は考えられます。あと、イギリス人故に自国が関わるものにこだわるとか。あくまで予想ですがそういった諸々がティレルの凋落を招いたのではないかと思います。
苦しんで消えるよりは全てを引き渡す...結局は渡したチームは参戦権以外ほぼ全てポイされてしまったわけですが、それを見ていたケンおじさんは何を思ったのか。
最終的にはパパタッペンを残して欲しいとの要望を無視されポンコツロセットとチームが契約したから激怒してティレル消滅を待たずしてケン御大はチームを去る結果に
EDエンジンはHBエンジンの系統
ゼテックアールエンジンはECエンジン
1990年~のタイヤがグッドイヤーのままだったら、ウワサがあったロスマンズとの契約、1991年にポストレスウェイトが希望していたフォードHB搭載だったらティレルは一つか二つは勝っていたと思う。この2年間のマネージメントミスが後々のチーム名消滅に繋がったと思う。
ティレルは006、007、P34、008、022あたりが良かった。
右京が022で表彰台に登って欲しかったけど残念(翌年ベネトンに行かなかったのも残念だが)。
有る意味❗、92年のティレルに当時のイルモアエンジンを載せた!? 020Bは,イルモアエンジンが前年のHONDAエンジンよりも20~30㎏軽量化されてマシンのハンドリングが良くなりコンストラクターズランキングも良かった思いが有りましたねぇ😂👌~😣👍⚡✴❕❕
翌年移籍したミナルディの発言と思うが、サロの事を「へぼ」と言っていた記憶有り。
ティレルは寂しい末路を迎えましたが血脈が途絶えたわけではなくBRA→ホンダ→ブラウンGP→メルセデスと意志は受け継がれています。
スチュワート、ティレル、ジョーダンがコンストTOP3を占めていると考えると凄いですね。
確かカスタマースペックのEDシリーズは94年のZetec-Rベースでなくて、HBシリーズベースの系譜に属するってあったような(GPCarStory マクラーレンMP4/8フォード参照より)そして95年当時EDシリーズとザウバー専用機のZetec-Rシリーズ開発をしてるのを耳にするやミナルディが支援体制の違いに激怒したのも有名でしたね。この年のティレルフォードは末期に相応しい悲惨中の悲惨でしたね。高木虎之介選手も中嶋悟さんもタイミングが悪かったですし。
ティレルからBAR、そしてHondaに買収されと何か日本と縁を感じますね。佐藤琢磨さんを表彰台に上げてくれることになりましたしね。
タミヤのおかげでずっとタイレルと呼んでましたが、その実車のボディに「たいれる」とひらがな丸ゴシックでステッカーが貼ってあったのにはカナリ笑いました。
ついでにオートバイ誌のイギリスの走り屋特集記事の写真。カタカナで「ホンダ」と。
イギリス人は日本語が好きなのかな。
すんごいサムネ…
97年オーストラリアGPでのフェルスタッペンですね。
@@櫃本賢治 マックスの父ヨスですね、答えありがとうございます。あまりにインパクトありましたので思わず打ってしまいました。
成功したあとが続かない悪循環から抜け出せなかったチーム
今を思えば末期に高木虎之介と一緒に中嶋悟氏がチームに参画したのが意味不明??
子供の頃は呼び方は「タイレル」だったけど、いつ頃から「ティレル」になったのかなあ。
参戦から3、4年くらいが絶頂期だった
HRT、ケータハム、マノーの2010年代のオワコン三銃士の歴史も希望します
ティレルか~中嶋悟氏が在籍してたな~俺も古い(苦笑)
ティレルは 前輪4輪の印象が強すぎて・・・何とも言えない気分ですね
今思うとジャッキースチュワートがF1参戦をする際ティレルを買収してフォードのワークスチーム、フォードティレルとして参戦していれば良かったと思いませんか?><
Piaaカラーになるとどうもf1というよりもフォーミュラ・ニッポンのマシンに見えて仕方ない
終焉前のティレルを辞めジョーダンに移籍したチーフデザイナーのマイク・ガスコイン。翌年彼が設計しシーズン2勝を挙げたマシン199は(当たり前だが)ティレル最後のマシン026に酷似していた。
025の吊り下げ一本式ハイノーズは時代遅れ感しか感じない。
ブラバムBT60を見てる様だ。
一本式ハイノーズと言えば91年のフットワークFA12もですね。
鳴り物入りで参入したポルシェエンジンもカスでしたが、走行中にダウンフォースが掛かってフロントウイングが捥げた事も…
上両方とも1991年のマシンか💦👍
しかも両方ともV12エンジン搭載車。
90年ロスマンズとの契約を締結していれば先の展開も変わっていただろうに
なぜ、昔は「たいれる」って読んでたんだろう
日本人だから?💦
日本GP仕様で、子供向けじゃなかったかな?
ティレルだと呼びにくいので。
英国式英語
米国式英語
の
読み方の違い
96年のホッケンハイムで前後フロントタイヤは???。
普通のタイヤ履かせてウイング寝かせるじゃダメなくらい車が仕上がらなかったのかな。
023がダメダメだったのが痛すぎた・・・当時のティレルのチームとしての実力が如実に表れてしまっただけなんだろうけども・・・
90、年代前半はNOKIAスポンサーだったのに後半はモトローラがついてたんだ。
ダントツ最下位って…
放送もなくて日本のスポンサーもつかない。残念
金の切れ目が…
1984年シーズンの水タンク事件で
全ポイントが剥奪され、終盤戦の
出場停止処分が言い渡された
たいれる
で、色々変わって今はメルセデスだもんなぁ
エックスウイングはフェラーリとかも採用してたけどあまりのダサさに見るに耐えられなかったの思い出した(笑)
六輪車のP34に代表される「タイレル」と呼ばれていた頃の、栄光時代が懐かしい